http://www.asyura2.com/12/genpatu25/msg/145.html
Tweet |
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35505
「国民生活を守るため、再稼働すべきだというのが私の判断だ」と、野田首相は言った。6月8日の記者会見で国民に向けた言葉を聞き、非常に違和感を覚えた。このもっともらしい言葉は、よく考えれば乱暴でそして欺瞞的でもある。
かつて自民党政権時の首相たちが繰り返していたような表現だ。表向きはもっともらしいが真意は別にある。ただその真意、本音を言ってしまっては差し障りがあるので、誰がみても反論できないような言い方をする。
本音は、経済的な影響が大きいことを憂慮するからで、その理由は純粋に「国民生活を守る」ためではないだろう。
経済活動に影響が出て、政権の基盤が危うくなることを恐れるからではないのか。時の政権は当然、その時点での社会の安定を望み、自らの責任を問われかねない混乱を嫌う。首相の言葉には、この意図が透けて見える。
福島と大飯町で、守られる「国民生活」は同じか
経済活動への影響を憂慮することには異論はない。しかしそこに「国民生活を守る」という大義をつけるのは、安易に「国益」を持ち出すように違和感がある。
「国益」を安易に持ち出す人は、往々にして自分が望む将来の国家像に役立つものを国益という言葉に置き換える。真の国益は国民の利益であり、それは、国民が民主的なプロセスのなかの議論で決めることである。
「国民生活を守る」ことに誰だって異論はない。それは「人の命は地球より重い」というのと同じで、当たり前のことを言っているに過ぎないからである。しかし、「国民生活を守る」ために大飯原発を再稼働をするという理屈には無理がある。
国民生活、つまり国民の生活とは当たり前だが日本の国民の生活だ。関西だけでなく、東京でもでなく、福島県も東北地方もそうだし、沖縄も含めた日本全国のことだ。
いま、福島や東北の人が守ってほしい生活と、東京、そして関西の人が守ってほしい生活とは同じではないだろう。もっと細かく見れば原発立地の自治体と、大都会の人が守ってほしい生活にも違いがある。
原発があることで経済的に生活が成り立っている大飯町の多くの町民(国民)にとって生活を守るとは原発再稼働であり、原発事故によりふるさとを追われた被災者という国民の多くや、安全性が十分ではないと危惧する国民にとっては、生活を守るとは、再稼働を意味しないだろう。
再稼働に向けた対症療法的な理由を述べただけ
野田首相は、再稼働をしない場合、今夏の関西での電力は15%不足し、この数字は昨年の原発事故後の節電でも体験していない厳しいもであることを示した。
これが産業界に影響し、雇用の場が失われる可能性や、さらに突発的な停電によって病院などで命の危険にさらされる人がでてくるかもしれないという。
また、化石燃料への依存が増えて、電力価格が高騰すればぎりぎりの経営を行っている小売店や中小企業、家庭にも影響が及ぶといった。
石油資源の7割を中東に頼っていることを示し、オイルショックの危険性にも触れ、夏場だけの再稼働では危機を乗り切れないとし、エネルギーの安全保障という視点から原発は重要な電源であるとも訴えた。
一方、安全性については、福島を襲ったような地震、津波が起こっても、事故を防止できる対策と体制は整っていると説明。
このほか、電力供給地については、私たちは大都市における豊かで人間らしい暮らしを電力供給地に頼ってきた、従って立地自治体へ敬意と感謝の念を新たにすべきだと呼びかけた。
要約すれば、安全はとりあえず確保された。電力が足りなくなったら経済活動、人々の生活への影響が大きい。そもそも原発は国の重要な電源である。だから再稼働をするという。
なるほど、電力不足については慎重に対応しなくてはいけないだろう(どの程度の不足がどういう事態を招くかはもう少し知りたいところではあるが)。エネルギーを海外に頼っているのもよくわかっている。安全性の確保も暫定的ながらできたのかもしれない。
しかし、これらの認識のほとんどは何も今はじまったことではない。
それよりも、「3.11」後に政府が示し、かなりの国民も同調した「脱原発依存」を模索するという話を、深く掘り下げいないのはどういうことか。再稼働のための対症療法的理由しか示されていないとしかいいようがない。
「3.11」後に国民が真剣に考えた議論の芽を摘む
原発をめぐる問題は、大げさにいえば国の将来を考えることでもあった。
「3.11」に不幸中の幸いがあるといえるなら、さまざまに異なる意見や、その背後にあるだろう価値観の差異はどういうものなのか、そうした深いところまでぶつかり合って、自分とは異なる意見や価値観を確認しあういい機会が与えられたことだった。
その結果、合意が得られなくても、差異が確認でき争点がはっきりしてくる。なんらかの投票で物事を決めるときにも判断がしやすくなったはずだ。
こうしたプロセスでの決定であれば、自分の意に反した結果でも、本質的な議論をしなかったときよりは納得がいくのではないだろうか。
それに対して、自分がよしとする政策を遂行することを第一の目的として、争点をぼかして、「国民生活を守る」などという大義をかざすことは、せっかくの議論のプロセスの芽を摘んでしまうことにもなる。
ここで改めて、原発事故が日本中に問うたものはなんだったのかを振り返ってみる。それは、なによりも原発が本当に安全だったのか、安全対策が取られていたのかという疑問だったが、これを突き詰めると、単に科学的な問題だけではなく、“原子力ムラ”の弊害といった、原発政策のあり方に至ったことは国民の誰もが知っている。
中立、公正さが保てなかったプロセスへの反省は?
本来、中立的なはずの安全審査を担う国の機関が、推進を補助する機関になっていた。なぜなら電力会社や関連事業者をはじめ国(経産省=旧通産省)も推進側であって、その裏には関係官僚の電力会社への天下りなど利害を共にしていたことが改めて確認された。
また、メディアのなかにも広告のクライアントとしての電力会社への配慮やこうした業界へのメディアからの再就職という事実もあった。
さらに中立的な立場であるはずの学者が業界と癒着しているなど、原発をめぐって国の内部でも、外部でも全体として公正な対応ができていなかったという反省が浮かび上がった。
問題の根が深いのは、「3.11」後も、原子力委員会が一部の委員で秘密会議を開いていたなど、中立・公正さを疑う事実が明らかになったことだ。
原子力政策をめぐる議論は、チーム同士が対戦するスポーツにたとえれば、ルールはいつも片方のチームに有利にできている試合のようなものだった。それもそのはずで、原発を推進したい側が、原発についてのルールを作っているのだから公正さが保てるはずがない。
自治体と原発の関係も改めて問われた。本来公正なはずの原発の設置にかかわる公聴会が、原発を推進したい自治体や電力会社がグルになってのやらせの“出来レース”だったりしたことが浮かび上がった。
過疎問題もとらえ直す契機だった
これらは、もう何十年と前から起きていたことだった。しかし、大事故がなかったから反省されなかった事柄である。
それが事故を機に、政策・議論の中立性、公正性を確保しようではないか、原発が電力需要を高める結果として必要になるというのなら、電力需要と関係の深い経済成長についても考え直す必要があるのではないか、という議論も起きた。
また、過疎の問題を国民的な課題として考えてみる機会だった。原発を通して地方と都市、日本全体の関係を整理してみるときだった。
地方はある種の危険性と見返りに原発によって経済的に潤う。言い方をかえれば地方が危険を引き受けてくれ、地元の海岸など自然環境を犠牲にしてくれたから原発はでき、電力は都市に供給される。
しかし、地方はなにも都市に電力を供給する使命感で原発を受け入れるわけではない。また、原発によって経済的恩恵を受けていない自治体までもが、事故が起きれば被害を受けることもある。
こういう関係をみれば、原発の立地自治体も都市部も、どちらが上か下か、恩義があるかないかといった問題ではない。だから、首相がいう電力供給地への感謝と敬意という言い方も皮相的で奇妙に聞こえる。
恩恵を被った電力会社と国が国民をだしに使う
これまでの原発推進の経緯をおさらいすれば、電力会社と電力事業に関係のある国家機関、官僚、一部政治家は、原発事業を地方で展開してきた。
メリットがあるから進出して利益を得てきた。国民は税金を払い国の事業を手助けし、お客として料金を払って電気を電力会社から買っていた。
この一連の電力ビジネスの流れをもっとも積極的に進めてきたのは、もっとも利害関係のある国(経産省)と電力会社である。代替エネルギーへの研究・投資に消極的な一方、原発事業で地域に食い込んでいったのは、この二者の責任によるところが大きい。
それなのに、首相が「立地自治体に感謝の念を新たにしなければなりません」と、なんだか国民一般に強要するような訴えは筋違いだろう。地方に感謝をしたいのは電力会社と経産省、国ではないか。
人災とも言える原発事故で、福島の多くの国民が、家や故郷を失い家族がばらばらになった。彼らの生活は守られるどころか破壊された。それを考えれば、「国民生活を守る」ことを、軽々に原発の稼働と結びつけられないはずだ。
日本の安全保障のために沖縄に基地を集中させていることを「国民生活を守る」と、軽々に言えないことと同じである。それで沖縄の人の「国民生活は守る」ことにはならないからだ。
100%の安全はなく、万一の事故が起きたときを考えれば、原発は段階的に廃止すべきではないか、という根本的な議論がわき起こってきたのは国民のだれもが知っている。
それができるかどうかは別にして、こうしたテーマについて触れ、結論はともかく国民的な議論を喚起することなく、国のリーダーが「国民の安全を守るため」などというのは、電力会社とともに国が事故の最大の責任者であることを考えれば、重ねて言うがまことに皮相的である。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 原発・フッ素25掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。