162. 2012年6月12日 13:57:35
: esmsVHFkrM
「今こそ冷静に現実と向き合い、原子力発電の安全性を高めた上で、安全が確認された原子力発電所を速やかに稼働させ、これを活用しながら、段階的に再生可能エネルギーへの移行を図っていく、そんな道をみんなで考えなければならない…」。これが>>156氏が引用するイワタニの広告の主張です。 私はこのような主張は単に間違っているだけでなくその結果として日本人と日本を滅亡させるものと思います。 この主張の前提は「安全な原子力発電所」が存在するということです。だから「安全が確認された原子力発電所を速やかに稼働させ」といえるのです。しかし、「安全な原子力発電所」など有り得ないことは今やまともな判断力のある日本人ならみんなが知っていることです。福島第一原発の事故によって思い知らされた冷厳たる事実です。 福島以前には日本の原子力発電所はすべて安全だとされていました。原発の事故は不可能だと説明されてきたのです。福島第一原発も当然「安全が確認された原子力発電所」であったのです。ところがその福島第一原発で事故は起こりました。事実として、原発は爆発し放射能を拡散し国土を汚染し国民を被曝させうることが確認されたのです。もはや「安全神話」は崩壊して原発が過酷事故を起こす恐れがあることは現実です。 福島原発は東関東大震災と言う巨大な地震と津波のせいで普通なら事故は起こらなかったとの反論がここ阿修羅でも散々なされてきましたが、それがまったく意味がないことはまともな日本人には自明です。日本に地震も津波もつきものです。巨大地震も巨大津波もここ日本列島では数限りなく起こってきました。戦後にそれがまれだったのは幸運だっただけです。いまや日本は地震の活動期に入り東海であろうが首都圏であろうが日本中どこでも巨大地震と津波にいつ襲われるか分からない状況です。今日明日にそれが来ても不思議はないのです。これでも「安全な原子力発電所」が存在できると言うのですか。 また、福島第一は確かに「安全でない原子力発電所」だったが、他の発電所で「安全が確認された原子力発電所」は違うという議論も阿修羅でよく目にするものです。なるほど、事故を現に起こした発電所は事実によって確認された「安全でない原子力発電所」ですが、では他の発電所はまだ事故を起こしていないというだけでどうして「安全な原子力発電所」だと言えるのでしょうか。そこで「安全が確認された原子力発電所」と言う概念の登場です。 「安全が確認された原子力発電所」は「安全な原子力発電所」だと言うのです。そもそも「絶対安全」などもはや存在しないことは福島事故と「原発安全神話」の破綻によって証明されたことなので「絶対安全」の確認などが原理的に可能であるとは思えませんが、それが形而上学的な「イデア」のように存在するとして、そのような「絶対安全」の確認がここ現代日本で日本人によってどのように行われるのでしょうか。 大飯原発を見ればそれが良く分かります。大飯は政府と学者により「安全が確認された原子力発電所」と認定されました。その「安全確認」がどんなものであったかはここに改めて書くまでもありません。そもそも必要とされた安全強化措置がそのような「絶対安全」を保証するものではまったくないことはもちろんですが、その必要な措置でさえまだ実施されていないものがあるのにこの時点で「安全が確認された」のです。このようないい加減な「安全確認」により「絶対安全」が確認されるわけがありません。 原子力ムラは同じです。福島以前から変わっていません。福島原発を「絶対安全」だと認定した同じ原子力ムラが今度は大飯は「絶対安全」だと言っているのです。そんな安全のどこが信じられるのでしょうか。もう一度福島原発事故以前の日本人のように原子力ムラが確認した「原発安全神話」を信じろとでも言うのでしょうか。日本人も見くびられたものです。 こう言うと、いやいや「絶対安全」など「イデア」であってそんなものが現実世界に存在しないことは明らかだ、合理的な判断において安全な「現実的な安全」を確認するんだと言われそうです。では「絶対安全」とその「現実的な安全」とはどこが違うのでしょうか。「絶対安全」は絶対に事故がないということ(これが「原発安全神話」でした)なのだから「現実的な安全」とは運が悪ければ、それが何であれ最悪が重なれば、事故はあり得るということなのでしょう。しかしそんな最悪が重なることは考えられないと言うのでしょう。また「想定外」ですか。 だったらこんな安全はなんの役にも立ちません。事故はありうるのでしょう。だったら事故が起こった場合のことを考えておかなければなりません。福島原発事故の後にもうひとつ原発事故があったら日本はどうなるのでしょう。大飯で原発事故が起こったら日本人は生存していけるのでしょうか。関西に人は住めますか。原発銀座に立地する他の原発の冷却は維持できるのですか。この事故の影響はどこまで広がるのですか。中部地方は大丈夫なのですか。中国地方はどうですか。四国はどうですか。もう清水の舞台から桜や紅葉を眺めることはできないのですか。あの美しい京都や奈良の寺寺も仏像も放射性廃棄物のがれきとなるのですか。福島は収束しておらず今後どうなるかは予断を許しません。日本は日本人はふたつの原発事故に対処していけるのですか。分断された縮小した国土、被曝した国民、喪失された国富でどうやって原発事故を収束させその後の国民経済と国民生活を維持していけるのでしょうか。「現実的な安全」が意味することは、それでも事故があれば日本は終わりだと言うことです。「絶対安全」が確認されないのであれば事故は現実です。それはいつ起こっても不思議がない現実なのです。原発を稼動するのであれば日本人が覚悟しなければならないことはそういうことです。 >>156氏は、日本の原発政策の失敗を認めながらそれでも「安全が確認された原子力発電所」の稼動を支持する理由として以下を挙げておられます。 「仮に電力が不足した状態が続くと、製造業を基盤とするこの国の産業、および消費は萎縮し、ここで香ばしい発言を繰り返しているあなた方を含む国民全体が貧困化していくという案配です(あなた方だけが貧困化していくのであれば一向に構いませんが)」 この認識がおそらく>>156氏と私たちを分かつものなのでしょう。私はまったく>>156氏に同意しません。 そもそも、現時点で原発はすべて停止していて日本には原発による電力は一切ありません。今どこかで停電がありますか。電力不足がありますか。日本の製造業の生産は影響を受けていますか。皆無です。では問題は何なのでしょうか。 電力需給が逼迫するのは夏の午後のせいぜい2時間の電力ピークです。このわずか2時間だけの話です。原子力ムラはここで電力が不足すると言いますが、本当のことでしょうか。不足する電力の数字がくるくる変わります。一時はしのげると認めたとの話も報道されました。その不足するという電力の数字の根拠は一切示されません。他人による検証を許しません。それでも、明らかに揚水発電所の発電能力、民間の自家発電能力、他の地域電力会社からの融通等々について過小評価を行って人為的に電力不足の数字を作り上げているとの指摘が相次いています。 私はそんな電力不足そもそも信じませんが、仮に本当に夏場に電力不足があるとして、本当に原発を再稼動する必要があるのでしょうか。午後のわずか2時間だけの話です。原発が事故を起こせば日本は破滅なのですから、原発再稼動は最後の手段のはずでしょう。その前にやることはたくさんある(小沢の反増税みたいですが)はずです。 午後のTV放送は停止しないのですか。パチンコ店、デパート、ショッピングモール等をはじめとする商業施設の数時間休店はやらないのですか。オフィスだって昼寝休みとしてこの数時間締めることもできるでしょう。24時間創業していない工場はこの数時間分を夜間操業にまわすこともできるでしょう。たかだか1ヶ月間、午後の2時間の話です。やれることはたくさんあるでしょう。だって日本の危機の話でしょう。生産を確保しなければあの恐ろしい原子力発電所を動かさなければならないと言う話でしょう。節電のためにやれることは何でもやるはずです。まともな日本人なら原発再稼動の危険を避けるためならそのわずか2時間を1ヶ月しのぐために何でもやる覚悟があるはずです。 ところが国難なら当然やるはずの努力の話は一切なくすぐに原発を動かせと言う話になるのです。待ってましたとばかりに最後の手段が最初に出てくるのです。「原発安全神話」が崩壊した今残っているのは「原発必要神話」です。ところが、原発が全部停止しても電力不足が発生しない今原子力ムラに残された唯一のチャンスは夏場です。夏場にも電力不足に陥らないとすれば「原発必要神話」は完全に崩壊です。だから、原子力ムラにとってはせめて夏場には電力を不足させなければならないしそれは原発によってカバーされなければならないのです。夏場に電力不足もそのための原発再稼動もみんなそんな原子力ムラが言っていることです。 そもそも関西電力は電力不足になりそうだったらなぜ東電のようにガスタービン発電機を追加手配するような対策を事前にとっておかなかったのですか。去年の夏を経験してからもう一年が経ちます。その一年間は傍観ですか。わざわざ電力不足になるようにそれを防ぐための施策は一切とらなかったということですか。そうまでして原発を維持したいのですか。自分の利益のためには国が滅びても国民が死に絶えてもかまわないと言うことですか。 以上見たように「安全な原子力発電所」は存在しません。それゆえ「安全が確認された原子力発電所」は出てきません。まして原子力ムラに安全の確認など絶対にできませんしやらせてはなりません。それは亡国です。原発がなくても電力は不足しません。今現在日本経済は原発電力が一切なしでやっています。夏場の電力不足はありません。今現在存在する日本全体の発電能力をすべて動員すれば不足はないのです。百歩譲って電力不足があるとしても、それは夏場の約1ヶ月午後2時間だけの話です。それは節電努力によって克服されなければならない国難ですし、われわれ日本人はそれを行う勇気と知恵に恵まれています。原発再稼動という危険を冒す必要などまったくないのです。 したがって、私はイワタニの意見広告には絶対反対です。 イワタニは大飯原発再稼動が議論されている今と言うタイミングを選んでその意見広告を出したのですからそれなりの覚悟があったはずでしょう。政治的意見の表明とはそういうことです。小出さんだって誰だって過去において原発反対の意見を表明した人々はそのような覚悟でそれを行いその結果としての社会の反応を引き受けてきたのです。イワタニだって同じです。その意見表明に対する社会の反応、この場合は特に私のような国民一般の反応。を引き受ける覚悟があるべきです。 私はイワタニの意見に反対です。これは国を滅ぼし日本人を殺すことです。私は放射能で死にたくありません。自分の生まれ育った国が放射能汚染され自分の子供が残った国土(それも比較的汚染が低いと言う土地)で細々と生きていくなどと言う未来は受け入れることができません。これは私と私の家族親族そして友人たちの生き死にの問題です。 私は声を上げなければなりません。選挙は待てません。また選挙では争点が錯綜して特定の問題についての意思表明がごまかされてしまいます。沖縄の県議選結果についても基地問題は関係ないとの政府にとって都合のいい「解釈」が行われています。また、この日本では選挙で政権が変わっても検察と裁判所が結託してその指導者を政治的に抹殺することも行われています。選挙を待てないだけでなく選挙は当てにならないのです。 何かいい方法はないものでしょうか。いやあります。自分の意思を選挙を待たずそれに頼らず表明しそれを政府やそれに大きな影響力のある企業経営者に思い知らせるいい方法があるのです。それが不買です。詳しくは私の>>132をご参照ください。イワタニのように原発再開を主張する意見広告を出す企業があればそれに反対する意見の表明はその製品を買わないという消費者としての行動です。原発維持を主張する企業の製品は買わずに原発反対を主張する企業があればその製品を買うのです。そうすれば当該企業には国民の意思がはっきり分かります。それを見ている他の企業にも良く分かります。ただ認識されるのではなく売り上げの減少と業績の悪化として国民の意思が身に染みるのです。 原発維持を主張するすべての企業を知ることはできませんし、また、そのようなすべての企業に対して不買を行う必要はありません。そのような国民の反原発の意思を表明するにはむしろ少数のはっきりしたケースについて多くの国民の力を結集するべきです。政治は力です。そして結果です。結果が見えるようにならなければ何にもなりません。覚えやすく実行しやすくみんなで結集できるようなはっきりしたケースが必要です。一罰百戒です。それがイワタニです。何しろイワタニは今原発再稼動が国民的な議論となっているそのときに意見広告を出して原発維持の政治的意見を公にしたのですから、原発に反対する意思表示を行うのにこれほどはっきりしていてわかりやすいケースはありません。 投稿氏には感謝します。私はこれによってイワタニの意見広告の存在を知りました。お陰で不買と言う形で私の反対の意思をイワタニに対して表明し、さらにそれを通して経済界、政府に知らせる機会を得ました。どれだけの人々がこれに気づいてイワタニの不買に参加するかは分かりません。しかし、このイワタニでうまくいかなくても決してあきらめず第二第三の不買により自分の原発反対の意思を表明していくつもりです。そのためにも投稿氏にはこれからもそのような原発支持企業があったらここ阿修羅で教えていただきたいと思います。 私は必死で。これは私と家族の生き死にの問題です。 |