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(1)おおい町、関西広域連合、野田政権の動き、その背景
5月31日、福井県おおい町・時岡忍町長は「国への念押しは必要か」との質問に「お願いしたことは大体やっていただいた。これ以上、申し上げることはございません」(NNN)と述べて、国の対応を評価した。
関西電力大飯原発3・4号機(福井・おおい町)の再稼働をめぐり、政府は、地元の理解を得た上で、来月初めにも関係閣僚会合を開き、再稼働を決定する方向で最終調整に入った。野田首相は30日、関西圏の自治体から「一定の理解が得られつつある」との認識を示し、政府は福井県とおおい町に再稼働への理解を改めて求めていく考えを明らかにしたのだ。
NNNは、上記の時岡忍町長の声を伝える中で、〈町民からは「やはり(原発が)動かないと、ここは過疎になる。働くところがなくなる」「新しい電源ができるまでの間(原発が)ないと困るでしょう」といった声が聞かれた〉と、合わせて流した。
(JCJふらっしゅ「Y記者のニュースの検証」=小鷲順造)
おおい町の時岡町長は、5月30日、大飯原発の再稼働について関西広域連合が限定的に容認する内容の声明を出したことについて、「関西には理解していただいた」(同)との認識を示した。
原発を抱えるおおい町の町議会が、大飯原発の再稼働を容認することを決めたのは14日のことだった。その日おこなわれた全員協議会では、〈今後の国の安全に対する取り組みを求めた上で再稼働を容認する意見が相次ぎ、議会として再稼働を容認することに決まった〉(同)。おおい町議会は、時岡町長からの要請を受けて、前週から再稼働の是非について、意見集約を進めていた。
ただ町長は同日、「福井県の原子力安全専門委員会がどのような最終見解を出すかにかかっている。今、気になるのはそこだけ」(TBS)とも語った。ここも注目すべきポイントではあるが、毎日新聞31日付の報道によると、県原子力安全専門委員会(委員長、中川英之・福井大名誉教授)の報告書原案の概要は、1)関電が大飯原発で実施した安全対策を列記し、2)3、4号機を「安全」とした政府判断を追認する内容で、3)原子力規制庁の早期設置なども「要望事項」として盛り込む、4)内容を微調整した上で、来週にも会合を開いて審議し、そうした内容の報告書を西川知事に提出するようだ。
首相の野田氏は、大飯原発を再稼動させる最終判断の根拠として、関西広域連合が限定的に容認する内容の声明を出したことを挙げて、関西圏の自治体から「一定の理解が得られつつある」とした。その言葉の根拠は、細野原発事故担当相が同日の関西広域連合の会合で、前回19日の会合と比較して、「知事らが政府批判のトーンを下げた」(毎日新聞)感触をつかみ、会合後、「安全性の説明を冷静に受け止めていただいた」と記者たちに安堵感をにじませるに至ったことにあったのだろう。
一方、関西広域連合は、政府の判断が間近に迫ることを知るなかで、それまで慎重対応を求めてきた関西の首長らは、政府の再稼動方針に対して「限定的なものとして適切な判断を求める」と事実上の容認へと追い込まれた、苦渋の決断だ、などとしている。
だが政府側が、関西広域連合の首長らの態度軟化を、大飯原発再稼動への最終判断へと向かう根拠・足場の一つとして使っている以上、いろいろ事情はあったにせよ、関西広域連合の首長らが性急に踏み込んだ「条件闘争」への態度変更は、あまりに幼稚、もしくはあまりに姑息と呼ばねばならない類のものであろうと考えるのが適切だろうと思う。大飯原発の再稼働を巡る関西の知事らの「条件付き再稼働受け入れ」への態度変更の裏側については、神戸新聞が6月1日付で「関西広域連合の大飯再稼働容認 意見揺れた舞台裏」の記事を出している。
それによると、関西広域連合が「声明」づくりに動き出したのは案外早かったことがわかる。政府が広域連合の指摘を認める姿勢を示し、さらに細野原発事故担当相が、再び説明に訪れることが分かった段階で、うごめきだしている。
1)声明とりまとめに向けた動きは広域連合の首長会合を5月30日に控えた先週末に始まった。広域連合が不備を指摘してきた安全基準について、政府が「暫定的」と認め、原子力規制庁発足後の新基準で再稼働の適否をあらためて判断する―との情報が入ったからだ。
2)さらに細野原発事故担当相が、再び説明に訪れることが分かった(5月19日に続き)。再稼働を急ぐ政府の「本気度」が広域連合内にも伝わった。
3)声明準備は、井戸連合長の「大臣が2度も訪れ、聞きっぱなしでは終われない」(関係者)との意向をうけて進められた。兵庫県(広域連合で防災分野を担当)が独自に文面の検討に入り、会合前日の5月29日午後、原案を各首長に伝達した。
関西広域連合のメンバーは以下の通り。連合長 井戸敏三(兵庫県知事)、副連合長 仁坂吉伸(和歌山県知事)、委員 嘉田由紀子(滋賀県知事)、委員 山田啓二(京都府知事)、委員 松井一郎(大阪府知事)、委員 平井伸治(鳥取県知事)、委員 飯泉嘉門(徳島県知事)、委員 橋下徹(大阪市長)、委員 竹山修身(堺市長)
関西広域連合の「宣言」については、福井新聞が5月31日付の社説で〈寄り合い所帯による「妥協の産物」〉と指摘している。関西の首長たちにもそれぞれ都合も思惑も裏事情もあるだろう。神戸新聞の上記記事によると、そのぶよぶよした状態から生まれたのが、宣言である。もともとの案に、1)政府の判断は「暫定的」、2)再稼働は「限定的なもの」との文言を加えて、玉虫色の表現にすることで合意にこぎつけたのだという。政府はそのスキを突いて「一定の理解が得られた」と一気に再稼動キャンペーンに活用し、関西広域連合側は〈政府から一定の譲歩を引き出す一方で安全性への懸念を残したままの再稼働を認める格好になった〉(神戸新聞)というのである。
こうした経過を聞いて、関西広域連合の首長の面々について「イノセント」であるなどとする甘い判断は、いまどき、小学生でも下すまい。それでも関西広域連合の面々は、〈今回の選択が「一皮むけたと評価されるか、何もできない組織だと思われるか」。広域連合幹部は世論の行方を注視する〉(神戸新聞)のだという。大甘か姑息か。メディアは、その実態をいよいよはっきりと浮き彫りにしていく必要があろう。
ちなみに5月30日付で日本経済新聞が、「鳥取県の平井伸治知事は29日の記者会見で、関西から山陰を走る高速鉄道の整備を、30日に同県伯耆町で開く関西広域連合委員会・近畿ブロック知事会議で提案する意向を明らかにした。災害などで山陽新幹線が途絶した場合などの「リダンダンシー(代替手段)として問題提起をしていく必要がある」との考えを示した、と報じていたので気になっていたのだが、やはり、島根県は大阪−下関間を山陰側で結ぶ「山陰新幹線」など高速鉄道網の整備促進を、同日提案している(→毎日新聞)。この関西広域連合を構成する府県の知事らが集まる委員会には、7府県の知事らが集まり、橋下大阪市長らもテレビ会議システムで議論に加わり、細野原発事故担当相が、大飯原発再稼働について説明。島根県が「山陰新幹線」など高速鉄道網の整備促進を提案したのは、夕方からの近畿ブロック知事会議でのことだったようだ。
また前述した神戸新聞は、関西広域連合の声明原案について〈会合前日の29日午後、原案を各首長に伝達した。だが、「(大臣の)説明を確認した」とする原案に、松井一郎大阪府知事や橋下徹大阪市長が反発。30日午前の非公式協議では、山田啓二京都府知事や嘉田由紀子滋賀県知事も「政府との出来レースと受け取られかねない」などと慎重姿勢を示し、一時は公表を見送る可能性もあったという〉と伝えている。しかしながら、結果として、その「政府との出来レースと受け取られかねない」道を選択したことは事実なのであり、それを上回る脱原発への使命感も情熱ももちあわせていなかったのだと言われても仕方がないだろう。
また、たとえば上記の人物のなかでは、橋下大阪市長が政府の原発再稼働方針を進める経済産業省幹部(経済産業省資源エネルギー庁次長の今井尚哉氏)と2月に都内で隠密裏に会っていたことが分かったと、しんぶん赤旗が5月1日付で報じていた。今井次長は、原発再稼働が必要だと判断した政府の4大臣(野田首相、藤村官房長官、枝野経済産業相、細野原発担当相)会合に、経済産業省事務当局を代表する資格で陪席している。
同記事は橋下氏が上京の折、原発再稼働に積極的な民主党の政策担当幹部と隠密裏にしばしば会っている事実が確認されていると書いている。また、『橋下「大阪維新」の嘘』の著者の一ノ宮美成氏の以下のコメントもとっている。「橋下市長はやましくなければ資源エネルギー庁次長と公式に会えばいいはずだ。橋下市長は関西財界3団体との会談で原発再稼働問題に一言も触れなかったことが物語るように再稼働に反対する姿勢にもともと立っていない。政府の拙速な再稼働手続きに注文をつける格好をしたのは世論受けを狙ったのだ。案の定、再稼働、しからずんば負担増と、どっちへころんでも国民や大阪府・市民にしわ寄せを迫っている」(しんぶん赤旗5月1日)
原発の再稼働という命と環境と日本の未来にかかわる重大問題を、政府との駆け引きや裏取引の道具に使われてはたまらない。そういうやり取りを「政治」だと思い込んでいる人々が、政権だけでなく首長のなかにもゴロゴロいるというなら、日本の未来は危うい。地域の振興も経済状況も雇用も非常に大事なことではあるが、こと原発については、市民の大半が再稼動にあくまで慎重・反対を表明する別格の問題である。そのことを野田氏も細野氏も、そして関西広域連合の首長らも正しく理解していないのではないかと疑いたくなる。
結局、国も県などの首長も事故が起きた際の責任を負いたくないし、停電などの事態の責任も負いたくないから、股裂き状態に陥って思考停止し、責任をなすりあい逃げたといわれないように逃げ道を捜し求めているような、惨めこの上ない状況のようにも思えてくる。
これは政権・与党や県などの首長たちだけにみられる問題ではない。5月24日付の東京新聞〈「脱原発」で自民後退 エネ政策幹部会合 党内反発で文言削除〉の記事によると、自民党も見事に例外ではない。同党総合エネルギー政策特命委員会は、原発の対応を中心とした党のエネルギー政策について、原案では自・公両党が今国会に提案している原子力規制委員会が安全と判断する新技術が登場しない限り、「脱原発は不可避」と踏み込んでいたが、原発立地県選出議員や電力会社と関係が深い議員などから「脱原発という表現を使うのは慎重にすべきだ」などと批判が相次ぎ、特命委は5月22日の会合で、脱原発に言及した部分を削除し、新規着工についても「当分の間は国民の理解を得がたい」と変更したという。また原発の再稼働は、1)新設する原子力規制委に判断を委ね、2)再稼働が認められなかった分の電力は、再生可能エネルギーの導入徹底や天然ガス火力発電所の建設推進などで対応するとしたのだという。
こうみてくるとやはり、神戸新聞6月1日付「関西広域連合の大飯再稼働容認 意見揺れた舞台裏」の記事が記した「背景」は、「背景」というより依然「経緯」にとどまるように思う。この取材を基盤に、関西広域連合が「条件付容認」へと態度を変えるに至った、より奥深く広い「背景」へと迫ってほしいと思う。政治を「世渡り」と勘違いしている政治家が多すぎるのではないか。所与の課題をうまく世を泳いでさばくことだけを政治と考え、哲学も見通しも信念ももたない「政治」が横行しているのではないか。だがすでに、忌むべき「事」は起きてしまったのだ。もはや「事なかれ主義」や責任回避の姿勢では、到底、いま、そしてこれからの課題に応えていくことはできない。ゼロから、いやマイナスから裸一貫、長い時間をかけてこの国を立ち上げ直す覚悟とビジョンと実行力こそが求められているのではないのか。3・11は、それ以前から始まっている日本社会が抱え込む重要課題をものの見事に暴き出して、私たちに「これからの日本社会をどうするのだ」と迫っているのではないのだろうか。私にはそう思えてならないのである。
(2)読売、産経の論説の質と福井新聞、東京新聞の社説
それでは新聞などは、この大飯再稼動への動静をどう伝え、論じたか。各紙の社説を例に取りながら、整理しておきたい。
まず大飯原発の地元、福井新聞から。同紙は5月31日付で「大飯原発再稼働問題 安全確認の姿勢貫くべき」を掲載して、1)原発の再稼働を夏場限定で容認するというなら、安全性確保の観点で論理矛盾している。2)場当たり的な対応や言動が目立つ閣僚とご都合主義の関西圏。3)首相の「覚悟」も福井にしっかり向き合って表明するのが筋であろう。4)県はあくまで県民の安全第一の観点で議論を尽くし、慎重に判断を下すべきである、と論じた。
A) 〈細野豪志原発事故担当相は安全強化へ、原子力規制庁発足まで暫定的に経済産業副大臣ら政務三役を現地に常駐させる考えを表明。関西広域連合は条件付きで再稼働を事実上容認した〉として、本県が強く求めてきた「特別な安全監視体制」と電力消費地関西の理解の2点で前進、と状況を整理。
B) 曲折を経てきた再稼働問題がここにきて急転したのは、夏場の電力需給が逼迫しているからだ、と急転した要因を整理。
C) 関電管内の節電要請期間は7月2日から始まる。2基の再稼働には6週間を要し、タイムリミットが迫る。
D) そしてこの社説は、A〜Cの状況について、前のめりとなる国の焦りがありありである、と指摘する。
E) そして県が繰り返し国や電力側に求めてきた安全対策について、「これで整ったといえるかだ」と問題提起。
F) 政府が発足させる考えだった原子力規制庁は、ようやく設置関連法案が衆院で審議入りしたばかりで、政府は審議入りをもって規制強化を前面に打ち出し、再稼働の安全根拠とする考えのようだが、いかにも形式的で、スケジュールありき。
G) 関西広域連合は、条件付きで政府に最終判断を委ねる宣言文を編み出したが、寄り合い所帯による「妥協の産物」だ。地元対策に財政措置を求める「ごね得」も垣間見えた。宣言文で「関西の現在の発展はこうした(福井県の)取り組みがなければあり得なかった」と評価したが、どこまで立地県のリスクと苦悩を共有しているだろうか。
H) 本県はまだ安全確認の途上にある。県の原子力安全専門委員会は正式結論を示していない。おおい町長の判断や県議会の議論もこれからだ。最終結論を出す西川知事は「立地の立場からなすべきことをしっかり行っていく」として、安全監視体制を十分確認する姿勢を示した。
そのうえで、上に紹介したように、1)原発の再稼働を夏場限定で容認するというなら、安全性確保の観点で論理矛盾している。2)場当たり的な対応や言動が目立つ閣僚とご都合主義の関西圏。3)首相の「覚悟」も福井にしっかり向き合って表明するのが筋であろう。4)県はあくまで県民の安全第一の観点で議論を尽くし、慎重に判断を下すべきである、と提起して論考を閉じている。
上記の福井新聞の論説のなかでは、とくに〈(関西広域連合は)どこまで立地県のリスクと苦悩を共有しているだろうか〉との厳しい問いかけと、〈県はあくまで県民の安全第一の観点で議論を尽くし、慎重に判断を下すべきである〉との提言の部分が、いま原発立地県・福井のおかれた状況と抱える問題の大きさを伝えてくる。
つづいて東京新聞の社説をみておきたい。
東京新聞は6月1日付で〈「大飯」再稼働へ 地元の苦悩を思いやれ〉を掲げた。〈「最後は私の判断で」と野田佳彦首相。無策の政府に、どんな責任がとれるのか〉。のっけからズバリと本質に迫る。〈起動したあと、フル出力に達するまでに六週間。七月二日から逆算し、早々に再稼働を決めてしまいたいという、つじつま合わせの計算だけが、そこにある〉
そして東京新聞社説は、現状を以下のようにすっぱりと斬って見せた。
1)国会の調査結果が、教訓として生かされたわけではない。科学的根拠も薄く、国民の安全という物差しは、見当たらない。
2)消費者、市民の多くが節電への挑戦を覚悟しているのに福井県は、まず首相に明確な責任ある見解を求めるといい、政府は、地元の同意を待つと、福井県にボールを投げ返す。拙速な再稼働に反対のようだった関西広域連合は、再稼働を容認したとも、していないとも受け取れる、抽象的な態度になった。最後は政治判断と言うものの、責任逃れの応酬は目に余る。
3)福島第一原発事故から一年余、政府はいったい何をしてきたか。この国のエネルギー政策をどうするか、原発をどうするか、具体的な未来図を示せない。電力会社は、十分にデータを開示しないまま、停電と値上げの心配だけを押しつける。
つづいて立脚点を、地元おおい町と全国の電力消費者の立場へと移して、以下を提言している。
4)この間、国の無策と無責任に翻弄(ほんろう)され続けてきたのが、地元おおい町であり、全国の電力消費者にほかならない。
5)財政の約半分を原発関連の交付金などに依存するおおい町にとって、原発の存廃は死活問題だ。町民の多くは安全と生活の糧のはざまで、心引き裂かれるような状態が続いているに違いない。
6)だが、大飯原発の寿命もせいぜいあと二十年。未来を生きる世代のために、原発に代わる地域おこしを、考え始めるべきときだ。
7)これまで苦悩を押しつけてきた消費地の責任として、新しい未来をともに考えたいし、応援もしたい。
8)そのためにも、安易な再稼働をこのまま許すべきではない。
原発・放射能関連報道で一頭地を抜く同紙だからこそできる大胆な現状分析と提言といえるように思う。なかでも、「大飯原発の寿命もせいぜいあと二十年」なのだから、「未来を生きる世代のために、原発に代わる地域おこしを、考え始めるべき」とした着眼点と提言からは、社説としての真摯な力強さが伝わってくる。
東京新聞社説の「原発に代わる地域おこし」の提言には、原発関連の交付金などに依存してきた土地を、いかにその状態から脱却させていくべきかという国民的課題についてのビジョンを導き出すためのひとつの具体案を含んでいるわけだが、その点に関連して、5月31日付でデーリー東北が出した記事、「電源交付金 青森県内11年度は過去最高」が気になった。
デーリー東北の記事は、「原子力施設が集中立地する青森県内に交付される電源三法交付金の2011年度実績が191億円に上り、県内への交付が始まった1981年度以降、単年度で最高となった」と報じた。交付金の額が過去最高を記録することになった要因として、記事は「11年度分から核燃料サイクル施設の算定方法が変わり、交付金が拡充された」ことを挙げる。さらに、「県のほか、原子力関連の交付対象となっている15市町村のほとんどで前年度実績を上回」ったことを伝えた。そして記事は最後に、「サイクル立地による恩恵が一層、顕著に表れた格好だ」と付け加えている。
バブル経済はとうにはじけ、小泉自公政権時代には縮小均衡・負のスパイラルの時代へと突入、そして国際的な経済危機の時代を迎える中で、原発ムラはいよいよカネで人心を麻痺させ環境を支配したつもりになってきた。そのツケが昨年とうとう回ってきて最悪の事態を引き起こしたにもかかわらず、原発ムラは栄華の時代にしがみつき、それを死守しようと必死である。自然災害への対策軽視の体質、地震とそれに伴う津波によってすっかりあらわになったわけだが、原発ビジネスに依存する輩たちは引き起こした事態について依然、真剣に取り組もうとはしない。真摯に向き合おうとしない。その際たる姿が、ストレステストだけで再稼動を急ごうとする愚かな姿勢に象徴的に出ている。原発の安全神話も幻想ももう吹き飛んだにもかかわらず、スキさえあればそれをテコにして、なにもなかったかのように再びのさばろうとする。
もう原発は、すでに一度終わっているのだ。再稼動を決めるかどうかは、なにもなかったかどころか、ゼロでもなくとてつもないマイナスの状況を共有するところから始めねばならない。政府が、いま性急に再稼動などと動き出していること自体が、異様であり異常なのだ。そのことさえわからない政府・役所・事業体の論理こそが、過酷な事故を引き起こした体質そのものであり、要因そのものである。
事故調査はまだ続いている状態にある。そのことは、まだ、引き起こされた事態の把握さえまだ初期の段階にしかいないことをさし示している。事故発生時の緊急避難など対応に根本的な問題があり、到底まともな対策システムが駆動したとはいえない状況であったことが、ようやく判明しつつあるが、それで問題が解決したわけではない。それはまだ問題解決へのルートに国全体が乗るための端緒でしかないのだ。その後の曝心地域の被災民・被災地の手当て、これからの長きに渡る健康維持の問題や生活保障、賠償の問題も、まだまだ入り口にも到達していない。
野田政権は、消費増税の論議においても、こうやりますとかああやりますなどとメニューやカタログばかり示すが、それだけをもって物事が動くと思い込んでいるふしがある。民主党が野党時代から内部に抱え込んできた安易で幼稚、大甘の体質が、野田政権になっていよいよあらわになっている。所与の政治課題について、うまく世を泳いでさばくことだけを政治と考えるような「事務屋」のような姿勢で、この未曽有の難局を乗り越えることはできない。見通しも哲学も信念も、もたず、示せず、まるで官僚と財界の既得権益や保身に寄り添うことが、自分たちの保身を成し遂げる唯一の道であるかのように考える輩に、未来を託すことなど到底できない。ここで大飯再稼動を性急に決めるようなことがあれば、民主党政権の退場は必定となる。
いったいだれのための、なんのための政治なのか。民主党も自民党も、そしてその他の野党も心して、野田政権の愚かな政治をこれ以上続けさせるようなことがあってはならない。いまこそ断固、野田政権に退場を迫るときである。放射性物質を移動・拡散してはならないように、野田政権の行き当たりばったりの政治をいまここで凍結、ストップする必要がある。私はそう思っている。日本社会は原発マネー漬け社会から脱却しなければならない。東京新聞社説がいうように、「原発に代わる地域おこし」を考え始めねばならない。それは一部の原発立地地域のみに必要なことではなく、日本社会に生きる私たち全員がそれに取り組む必要が出ているように思う。広く世界の声、アドバイス、研究成果などにも耳を傾けねばならない。原発にかわるエネルギーで生きる、これからの地球社会のありようにも、これからの私たちの踏むプロセスが生かせるような動きをつくっていく必要があるのだ。野田政権は、まったくそれに逆行する道を歩んでいる。
読売新聞は6月1日付で、〈大飯再稼働へ 「容認」とは福井県に失礼だ〉の社説を掲げた。内容は、「大飯原子力発電所3、4号機の再稼働に、ようやくメドがついた。これまで再稼働に反対してきた関西自治体の首長らが一転して、条件付きながら理解を示したためだ」と安堵し、そのうえで「そもそも、福井県からの電力で発展した大阪市の首長」が、再稼働を「容認」するというような姿勢をとること自体が福井県に対して失礼だ、といわんばかりの激したトーンで説を進め、「関西の首長らは、立地自治体に対する非礼をわび、夏季限定案を取り下げるべきだ」と厳しく主張、そして最後は「大飯原発が動いても全国的な電力不足は続く。安全確認できた原発を順次、再稼働させることが不可欠である」と結んだ。
この新聞の社説は、どこを向いて、だれの何のために書かれているのだろうかと、あらためて考えさせられた。
産経新聞は5月31日には、「原子力規制 原発潰しの道具にするな」の主張(社説)を出して、原子力発電の新しい規制組織を設置するための法案審議にありようについて、「原発の安全性向上だけでなく、国のエネルギー安全保障を左右する組織である。国民は規制と活用の両面を冷静に見極めることが肝要だ」と前置き、「現在の原子力安全・保安院の破綻は、誰の目にも明らかだ。新たな規制組織を設置しなければ、関西電力の大飯3、4号機をはじめとする原発再稼働問題も解決しない。ストレステスト(耐性検査)の審査も前に進まない。9月には国際原子力機関(IAEA)の総会が開かれる。そのとき規制の新組織が発足していない事態となれば、日本の危機管理能力の欠如を世界に露呈してしまうことになる」と問題を提起した。だが、その規制組織論は、原発再稼動への道を断ってはならないという趣旨で展開される。
「規制組織は、安全性の確保と向上を大前提として原発の利活用の遂行を確認するのが、本来のあり方のはず」「脱原発至上主義のための規制装置としてしまう愚は、何としても避けたい」という内容だった。
そして同紙は翌6月1日には、〈大飯原発 再稼働へ「決断」ぶれるな〉の主張(社説)を出して、「野田佳彦首相がようやく関西電力大飯原発3、4号機の再稼働を決断したようだ」と事態の推移を歓迎、「首相が「エネルギー安全保障や日本経済の安定と発展のために原発は引き続き重要だ」と語ったことを高く評価したい。これを後戻りさせることは許されない」と小躍りせんばかりのトーンで始まるが、勝って冑の緒を締めよといわんばかりに、「問題は、再稼働に反対する勢力などが「安全性の確保」を理由に再稼働の流れを巻き返そうとしていることだ」と警鐘をならし、「忘れてならないのは、政府がストレステスト(耐性検査)などを経て既に大飯原発の安全性を確認したことである」と、ストレステスト実施による安全性確認で十分であるといわんばかりの説へとつなぎ、福井県の「西川知事は首相の国民向けメッセージも求めている」として、その姿勢に全面賛同するかたちで、「首相も含めて政府は、これまでの安全対策やその説明に対してさらに万全を期すとともに、政府が全責任を持って再稼働を主導する姿勢を堅持していく必要がある」と、政府に対して現在の路線を堅持せよと要求する内容となっている。
興味深いのは、5月31日付の社説が、原発規制組織の有様について、政府案より厳しい自公案をしりぞけ、より現実路線にあると政府案をとり「脱原発至上主義のための規制装置としてしまう愚」をおかすなと釘を差す内容だったのに対して、翌1日の社説は政府の再稼動の決断を歓迎し「ぶれるな」とはっぱをかけていることだ。どうも産経新聞は一日遅れの情報で社説を出しているのか? とうたがいたくなるような時差を感じるが、これは産経独自の情報源と状況判断が生み出した「緻密」さゆえのことなのか。産経新聞や読売新聞が、今後どのような新聞となっていくのか、どのような生き残り策を採用し、どのような論や主張を展開する新聞となっていくのか、そしてそれは市民社会においてどのような位置づけをもって存在に理解を得るようになるのか。それを考えていくうえで、いつか参考となるような感じを抱かされた産経二日間の社説の推移だった。
読売新聞も産経新聞も原発及び原発ムラ擁護、再稼動推進派の立場にあることは、いまさらいうまでもないことだろうが、世論の7割以上を占める大多数が原発の再稼動に慎重・反対という状況(それは読者の要請や要求とも深く結びついているはずだが)の中で、原発及び原発ムラを擁護し再稼動推進論をぶちあげる存在であり続けようとするその社説・論説の姿勢の根拠となるものはいったい何なのだろうか。広告やグループ事業にもたらされる収入、あるいはその確約が、その立場をとらせるのだろうか。言論は多様であっていい。自分たち以外の言論は不要、言論表現の自由も不要という立場であれば、これは民主主義社会におけるメディアとして不適切であり、社会から除外される力が働くことになるのだろうが、ともすると「類型化」し「模範解答」の類ばかりが表出しやすく、へたをすると大事なことがメディアの報道からすっかり消えるような事態もときどき起こる日本の情報環境にあって、一義的には、読売新聞や産経新聞の論説が「貴重」であることは確かなのだろう。
しかし、大事なことは、読売新聞や産経新聞の論説が投げかけるものが、本当に多様な言論の保持に資しているのかどうかという問題である。その問いへの答えは、私はまだ見出せないでいる。アジテーションや、ときには厭味や恫喝を伴うような文章ではなく、だれのための何のための論説なのかということをもう少し分かりやすくさしはさむなどしてもらえると、私としても人生の勉強になるような気がしてならないのだが、やはり新聞としては部数の確保は死活問題にもつながる大事な要素だから、そのあたりはボカしながら勢いで世論を率いていくような姿勢を採用するほかないのだろうか。両紙とも、社説など論説以外では、これはと思わされる記事を出してくることもよくある(それでもそうした記事の微妙な言い回しの中に、論説の姿勢が混ざり込んできて興ざめすることもあるが)。
大手紙や大手メディアの生み出す情報環境のわかりにくさ、あまり説得力をもたせず、ムードで読者を引き込もうとするような、大手紙や大手メディアがときどき垣間見せる手法。そして政治問題よりも世間の出来事により多くをさいて厳しく断罪しようとする風潮は、いまだに抜け切れない。その問題や体質と、読売新聞や産経新聞の論説などが日本の民主主義社会の発展にとって「貴重」になりきれない理由。部数の多さを維持するための方策と広告・事業収入を維持するための装置の維持との狭間のおかれる情報の受け手。いま知り、いま考え、いま議論を深め、いまアクションにうつしていくべきテーマや課題について、なかなかみえにくい社会から、日本社会はいかにして脱却していくことができるのだろうか。新聞やメディア産業のこれからと、市民が享受する情報環境のありようの双方について考えていかねばならない時代にあって、この問題はいつまでもなかなか悩ましく、日本社会にとってとても不幸な状況である気がしてならない。
(3)朝日、毎日、道新の社説にみる多様性・多角性
本稿の最後に、朝日新聞、毎日新聞、北海道新聞の社説をみておきたい。
朝日新聞は5月31日付で「大飯再稼働―これでは不信ぬぐえぬ」を出した。
野田政権が関西電力大飯原発3、4号機の再稼働を事実上、決めたことに対して、「原発の安全性確保をめぐる状況に、大きな変化があったわけではない。野田政権の判断に強い疑問を抱かざるをえない」と前置き、 私たちが再稼働の判断で最も重視したのは、1)福島の事故を踏まえた安全基準や防災対策の見直しであり、2)「想定外」のことが起きても減災をはかる危機対応の整備だった。3)なにより、脱原発への道筋を明確にし、「必要な数しか動かさない」政策への転換を示すことが不可欠だと指摘してきた、と議論の枠組みを明確にし、ストレステストの後、付け焼き刃ともいえる暫定的な安全基準を原子力安全・保安院にまとめさせ、専門家の評価なしに政治判断で再稼働に踏み出そうとしている野田政権を厳しく批判している。
そして、これまで再稼動の問題点を厳しく指摘してきた関西広域連合が30日になって姿勢を転換したこと、原子力規制庁の設置法案が国会で審議入りしたことを踏まえ、「規制庁発足後、大飯を含め新たな安全基準で再度精査する」と説明するに留まった細野原発相の姿勢に疑問を投げかけた。
そのうえで、以下を提言して社説を締めくくった。
1)運転開始からすでに40年を超える敦賀1号機や美浜1号機をはじめとした老朽化原発や、大地震などのリスクが大きい原発の廃炉を早期に打ち出す必要がある。
2)大飯原発の再稼働で、電力融通や節電対策の手が緩むことがあってはならない。
3)発電所にトラブルが発生する可能性は十分にある。西日本全体では依然として電力は不足気味だ。今後の電力政策を考えるうえでも、送電網の広域運用や需要抑制策の実績を積み重ねていくことが重要である。
4)第三者による電力需給見通しの検証を経て、国民は「原発ゼロの夏」への備えを整えつつあった。その意志を無視してはならない。
上記2)の「大飯原発の再稼働で、電力融通や節電対策の手が緩むことがあってはならない」にみられるような、政権を批判しながら先走って逃げ道を作り、さらに締めで〈国民は「原発ゼロの夏」への備えを整えつつあった。その意志を無視してはならない〉と情緒をもぐりこませて終わるようなやり方は、新聞としてあまりスマートなやり方とは思えない。単に迫力不足とか、脱原発に軸足をおいて断固再稼動に反対しろという意味ではない。大所高所からみているようでいて、そのスタンスを取るのは何のためなのかがうまく伝わってこない気がする。この朝日新聞社説が掲げる問題意識にも指摘にもほとんど賛成だが、いま私たちが共通して抱える問題をいかに解決していくかではなく、解決しなければならないとだけ言って終わるようなもどかしさが伝わってくるのはなぜか。市民とともに考え、問題を解決していこうという意欲の問題か。このタイミングで、31日にこの内容を整理して出してくる朝日新聞の社説はまさに貴重だが、野田政権と民主党が理解できる水準・枠内にあえてなのか、力のセーブが利きすぎていないだろうか。原発・放射能報道で出遅れてきた分を取り戻すような迫力を、私としては期待したい。
毎日新聞は6月1日付で、〈再稼働と原発の安全 「私の責任」という無責任〉を出した。
大飯原発の再稼働を関西広域連合が事実上容認し、これを受け、政府が近く最終判断するとみられる状況となったことから書き出し、〈客観的状況が変わらない中での同連合再稼働容認は釈然としない。しかし、それ以上に納得できないのは野田佳彦首相の言動だ〉と斬り込んだ。
同紙は野田氏の以下の点をまず批判する。
1)野田首相は、これほどの事故を経験しながら、国の原子力政策についても、原発のリスク軽減についても、国民の心に響くメッセージを発していない。
2)にもかかわらず「私の責任で判断する」といった具体性に欠ける言葉で再稼働を推し進めようとしている。
そして、原発再稼働のためにはいくつかの条件を満たす必要があると考えているとして、以下を挙げる。
3)事故の検証を踏まえ、新しい規制組織が再稼働の判断基準を示すこと。
4)その基準は各原発の弱点を比較できるようなものであること。免震棟のように時間のかかる対策が未整備であることのリスクも評価すること。
5)原発を動かさないリスクが動かすリスクを上回ることをきちんと示す、といったことだ。
上記いずれも納得のいく状況にはないことを指摘し、現実の到達点を以下のように見直してゆく。
6)事故の検証は終わっていない。
7)国会事故調査委員会による真相解明は遠く、政府の事故調の最終報告は7月だ。
8)大飯再稼働の根拠とする安全基準は経済産業省の原子力安全・保安院が作成した「ストレステスト」が基になっている。保安院は原発の「安全神話」を醸成してきた組織だ。事故時に危機管理能力がなかったことも明らかになっている。4月に新組織に移行する予定だったため、現時点での当事者能力にも疑問がある。
9)保安院が「妥当」としたストレステスト結果を追認した内閣府の原子力安全委員会も同様だ。
10)各原発のリスクを横並びで比較していないため大飯原発の相対的なリスクもわからない。
上記を指摘したうえで、「このまま大飯原発を再稼働すれば、他の原発もなし崩しに再稼働することになるのではないかとの国民の不信は当然だ」との主張を繰り出し、最後に、さらに以下の重要な疑問点を提示して、いま政府がおこなおうとしている大飯再稼動の本質へと迫っていく。
11)国際原子力機関(IAEA)は「5層の防護」として、過酷事故対策や、放射能放出に備えた防災対策までを求めている。大飯原発でこの国際基準がどう満たされているのかもよくわからない。
ゆえに、〈結局のところ、「原発を動かさないと電力が足りない」という経済原理や不安解消を優先し再稼働を決めようとしている。原発事故前と根本的に何も変わっていない〉。
経済原理や不安解消を優先し再稼働を決めようとしている政府の姿は、まさに原発事故前と根本的に何も変わっていない。この指摘は重要だ。
北海道新聞は6月1日付で、〈大飯再稼働 「暫定」では安全守れぬ〉を出した。
関西広域連合が「限定的」との条件付きながら再稼働を容認する姿勢に転じたことをうけて、首相は周辺自治体の理解が得られたと判断し、「最終的に私の責任で判断する」と表明した。また細野原発事故担当相は再稼働の判断を「暫定的」と述べた。この状況について社説は、〈政府自ら見切り発車と認めたようなものだ〉と断罪、〈これでは原発の安全性に対する国民の不安は解消できない〉と問題を提起した。
つづいて以下の点についてそれぞれ検証を加え、政府に対し、再稼動を急いではならないと提言した。
1)再稼動の根拠について=再稼働については、刷新された規制体制の下、福島第1原発事故を踏まえた厳格な安全基準を策定した上で、その是非を判断するのが筋だ。いずれの条件も満たしていない現状では、再稼働に踏み切る根拠はない。
2)首相の意図について=安全性への配慮よりも、電力不足の回避を優先させたと言わざるを得ない。原発依存度の高い関西電力管内では、猛暑だった一昨年に比べ15%の電力不足が見込まれている。運転再開した原発がフル稼働するには1カ月程度かかるとされる。大飯原発の再稼働を急ぎ、節電が始まる7月初旬に間に合わせたいという首相の意図は明らかだ。
3)関西広域連合の方針転換について=再稼働に慎重姿勢をとってきた関西広域連合が方針転換したのは、他地域よりも深刻な電力事情が住民生活に及ぼす影響を考慮せざるを得なかったからだろう。一方で、広域連合の首長たちは、稼働を電力需給逼迫時に限定するといった条件を挙げ、大飯以外の原発になし崩しに再稼働が広がるのは認めないことも強調した。
4)規制庁の設置関連法案について=細野氏は、原子力規制庁など新たに発足する規制機関が策定する安全基準によって、再稼働の判断を見直す可能性もあるとの認識を示した。だが、規制庁の設置関連法案は、ようやく衆院で審議入りしたばかりだ。組織の形をめぐって与野党の主張には隔たりがあり、成立するめどは立たない。発足の見通しが立たない規制庁で安全を担保すると言っても、空手形に終わりかねない。そもそも福島の事故の原因究明もまだだ。
5)民意について=各種世論調査では、再稼働に反対する意見が過半数を占めている。原発ゼロの夏を節電で乗り切る覚悟を固めた国民も多いだろう。
ゆえに、〈政府は、この民意を重く受け止めるべきだ。今は、新たな規制機関を早急に設立し、原子力行政への国民の信頼回復に全力を尽くす時だ。再稼働を急いではならない〉
新たな規制機関を早急に設立し、原子力行政への国民の信頼回復に全力を注ぐべきときであり、再稼働を急ぐようなときではない。この提言は重要である。
このようにみてきて、わかることの第一は、再稼動に前のめりになる政府の姿勢は、毎日新聞が指摘するように、〈経済原理や不安解消を優先し再稼働を決めようとしている政府の姿は、まさに原発事故前と根本的に何も変わっていない〉ことだ。そして第二は、関西広域連合の方針転換についても同様の論理が影響したのではないかということ(この点はより深く広く取材が繰り広げられる必要がある)、第三に、再稼動の適否を決断する前に、政府は新たな規制機関を早急に設立し、原子力行政への国民の信頼回復に全力を注ぐべき(北海道新聞)であるということ、そして第四に、読んでいる新聞によっては、大事な論点や事実の共有が遅れ、日本社会総体として、より的確に、よりスピーディに現状を脱却し未来を展望していくうえで障害になりかねない、ということだ。
そしてさらに第四に関連して、第五に私は、ジャーナリズムが発信する情報は多様性ばかりでなく、多角性が重要になっていると考えている。
多様で多角的な情報や論評の重要性がいまほど高まっているときはないように思う。それぞれのメディアがそれぞれの成すべき仕事を通じて、結果として、多様で多角的な情報や論評が社会に提示されることで、それらを基盤としてたとえばツイッターやフェイスブックで、市民個々人がパーソナルメディアやソーシャルメディアとしての力を重厚に果たし機能していくことを通じて、日本の新たな、マイナスからのスタートの原動力としていけるような社会。そうした時代をいまこそ多様に多角的に重厚に花ひらかせていきたいところである。
野田政権の大飯再稼動は、以上見てきたように問題だらけである。
市民とジャーナリストは力強く連帯して、この最悪にも陥りかねない重要な分岐点を、堂々と乗り切っていかねばならないと思う。
(こわし・じゅんぞう/日本ジャーナリスト会議会員)
http://jcj-daily.seesaa.net/article/273147689.html#more
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