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南相馬市出身農家 避難先にも原発 伊方運転差し止め原告に
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6月3日 東京新聞「こちら特報部」 :「日々担々」資料ブログ
福島第一原発事故で避難した被災者の行く先々にも、原発がある。福島県南相馬市から愛媛県伊予市に離れた農家の渡部寛志(ひろし)さん(33)も逃れられなかった。避難先で農業を続けながら「二度と生きる場所を奪わせない」と、近くの四国電力伊方原発の運転差し止めを求める訴訟に参加。原発再稼働に突き進む動きにあらがう。 (中山洋子)
「福島で起きていることがあまりに軽視されている」。関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の再稼働に向けた動きに、渡部さんは伊予市内の畑でやりきれない思いを募らせていた。
南相馬市小高区の自宅は福島第一原発からわずか十二キロ。「何かあったら大変だ」という程度に原発を意識していたが、「何か」が起こるとは思いもしなかった。
そんな安全神話の流布こそが、福島県民から故郷を奪ったのではなかったか。新たな津波や地震対策も手付かずで「安全性が確認された」と強弁し、再稼働を急ぐ国や電力会社に「もう事故を忘れたのか」と憤る。
先祖代々の土地で米や野菜を作り、養鶏も手掛ける専業農家だった。昨年三月十一日、高台にあった自宅の目前まで津波が迫り、農地や集落を押し流した。
翌十二日、消防団員として行方不明者を捜索中に1号機が爆発。市の防災無線はいったん爆発事故を連絡したが、直後に「誤報」と訂正。混乱の中で、妻直美さん(29)と二人の娘を連れて郡山市の姉の嫁ぎ先に逃げ、続く十四日の3号機の爆発で、再び会津若松市の祖父を頼って避難した。
その祖父の書棚で見つけたのが、伊予市で農園を営み、アジアやアフリカの砂漠緑化にも努めた故福岡正信氏の著作「自然農法」だった。
それまで興味のなかった手間のかかる農業が、原発事故に苦しむ心に染みた。「避難生活を無為に過ごすくらいなら、自然農法を学びたい」と、福岡氏の農法を継承する農園に連絡。実は、渡部さんは愛媛大学理学部出身で、なじみの深い地でもある。農園側の快諾を得て、四月に被災者に無償提供されていた松山市営住宅に入居した。
早期に帰宅のめどが立つとの期待は裏切られ、避難生活は長引いた。七月末に一時帰宅すると、セミの鳴き声に包まれていた。生まれて間もなく亡くなった三女の位牌(いはい)やアルバムなどわずかな品を袋に詰めただけで立ち去るしかなかった。 目にした農地や山林の広さに「元の土地に戻るまで、どれだけの年月がかかるのか」と考えずにはいられなかった。除染作業の果てしなさを実感して肩を落とした。
「国と東電のせいで、代々続く農業が途切れてしまう。悔しくてほとんど意地で、貸してもらえる田畑を探していた。原発事故のせいで仕事や生き方まで変えたら、負ける気がした。場所が違っても、福島だと思って農業をしようと思った」
渡部さんは七月、伊予市内の山間地で空き家と農地を借りた。地元の農家や市職員らの協力で農地は少しずつ増え、現在は計二ヘクタールの田畑で、化学肥料や農薬に頼らない農業を試みている。
硬くて水はけの悪い土地をひたすら耕した。故郷の土の豊かな手触りを思わずにはいられなかった。見たこともない害虫も多かったが、手で一つ一つつぶしていった。
福島に農作物を届けたくて、栽培経験のないミカンの畑も借りた。南相馬市では米の作付けが制限されていて、放射能汚染の不安に苦しむ農家の気持ちを思うと、作りたくても作れない米を持ち込むのは気が引けた。
ミカン栽培だけは「万が一にも虫がついたミカンを伊予産として出すわけにはいかない」という地元の強い意向をくみ、害虫防除を徹底した。十一月から月に一回のペースで、ほかの農家から寄せられたミカンと合わせて計二トンずつを南相馬市などに運んでいる。
農業を続ける覚悟に付きまとうのが、四十キロの近さにある原発への不安だ。脱原発集会に足を運び、伊方原発の運転差し止め訴訟に原告共同代表として加わった。先月二十九日、第一回口頭弁論が松山地裁で開かれた。
「福島の事故が終わってもいないのに風化させたくない」という思いは強い。薄れる危険の感覚がますます福島の人々を置き去りにすると焦燥感を募らせる。「福島に残っても遠く避難しても、多くが苦しんでいる状況を忘れないでほしい」
避難生活の長期化は、被災者間の溝を広げている。福島県外への避難者は約六万二千人。愛媛県にも、自主避難者も含めて百十一人(五月十日現在)が暮らしている。
「福島から遠くに逃げた人ほど、後ろめたい思いから発言しなくなってきた。避難指示の有無が損害賠償の線引きに利用され、同じように苦労する自主避難者とも壁を感じる。被災者の問題じゃないのに、そのせいでぎくしゃくしている」
そんな温度差を縮めたいと、渡部さんは県内避難者たちとともに先月二十一日、NPO「えひめ311」を設立。法人化を目指しながら、弁護士やカウンセラーの協力も得て、避難者が心を開ける活動を模索する。
避難した子育て世代の声をろくに聞かずに、郷里で復興計画が進む現状への危機感から、情報交換や政策提言にも取り組む。「福島につながる未来のために、できることは何でもやりたい」
長女(7つ)は愛媛で小学生になり、この四月に生まれた長男は福島の風をまだ知らない。子どもたちが高校を卒業するころまでには「帰りたい」と願うが、農地がよみがえるのはいつになるのか。
渡部さんは訴える。「子どもたちに代々の土地を伝えてやれないとしたら、自分も含めて原発の稼働を許してきた世代の責任。福島の苦悩を無視して、同じ過ちを繰り返さないでほしい」
<デスクメモ> 「身土不二(しんどふじ)」を福岡氏の著書で知った。仏教用語だが、明治期末に食の運動で「人と土は一体」と提唱された。福岡氏は「食の狂いが体や考え方を狂わす」と科学農法を改め、作物を過保護にせず、土が肥えることで育てた。放射能の大地汚染は科学万能の悪夢。福岡氏の声に耳を傾けたい。(呂)
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