44. 2012年5月30日 23:53:43
: nJG2uYE9lo
宮島鹿おやじ様コメ連投してしまい、申し訳ありません。 今日の頭の中が全くまとまりがなく、書いていることが乱れているので、気持ち悪いんです。それで、おやじ様にご迷惑なのを感じつつも、以前、千早さんの投稿でやり取りした当方の文面をコピペします(長文になってしまいまして、ご迷惑をおかけいたします)。(※ 長いので、おやじ様以外の方はスルーして下さいね。) ところで、葛飾から町田へと連日の調査をされるとのこと、くれぐれも内部汚染を重ねられないようにお願いいたします。町田も部分部分で大変数値が高いと思われます。東京周辺の地域住民の方々は、全く関心がないと思われますから、おやじ様の方がおかしい人と皆が思うはずですが、それは断じてありません。 以下、コピペ(五回分のレスを連結。ですから途中で話題が変わっています。)
(※ どうして他の人より早く放射能の危険に気がつけたかという投稿) 20年以上前から、「日本はさ、アメリカの属国だしね…」としゃべると、 こいつ頭がオカシイ!?、と笑われ続けて来ましたが、最近、 どうもこの国、政府、官僚、企業がおかしいと感じて、固定観念が揺れ動いている人が多少増えている今日この頃w。 この資料はその傾向(目覚め)に背中を押してくれそうな、良い資料ですね〜 コンセンサス重視=周囲の目が気になってがんじがらめ、と言う硬直したお頭の国民ですから、このような資料から、支配体制の巧妙なる仕組みに、ハッと目を覚まして、「自分で考え、自分で行動」する「回帰」が進められそうで、とてもイイです! 自分の父親が学生運動に身を投じていたので、新聞社が如何に権力の所有物であるのか、小学生から聞いておりましたし、直感的に現代社会は「人間が元々持っている能力を殺す」と感じていましたので、教育と言うものが如何に害毒なのかと認識しておりました(そんな子供を母親は、ニヒルで将来が不安な子供と心配だったようです。現在はむしろ自分の方が分かっていなかったと思うようです)。 『何が「疑問を持つ」&「自分で考える」ことのできる人々とそうでない人々を作り出しているのか?』と言うのが、教育にあると思うのですが、では具体的にどのような教育によって、奴隷思考(自分で考えない)に貶められていくのか、なのですが、当方の考察は「科学というカルト信狂(わざと狂と書いてます)」による「唯物観念、還元論思考」の強化にあると、20数年間考察してきております。 唯物還元論思考を絶対疑わない人間の頭と心の中に、成り切って考察することで、何ゆえそれ(唯物還元思考)が、奴隷思考を人間の頭に決定的に染まるのか。 世界はその全てが物質であるという前提に、日本のほとんどの方々は信じて疑わないように感じますが、その唯物還元思考について、当方の尊敬するH氏の言葉を引用させて頂くと、 「『略…考えてもみてほしい。137億光年になんなんとする広大な宇宙空間、そのなかの取るに足らぬ一つの土くれであるところの地球…、そして、その表面に細菌のようにへばり付いて居住する今や60億にも達しようとする人類…、さらには、その中のたった一人の個人……。それがあなたやわたしという存在なのだ。 このような空間イメージの中で捉えられる人間観は、宇宙から見れば限りなく矮小で無力で、はかなくもろい存在にしか映らない。パスカルが言ったように、それは盲目的で悲惨で空虚でさえある。絶えず外界にさらされ過酷な環境の中で生きていかなくてはならない人間。彼にとって世界はつねに克服していかねばならない存在であり、おまけにそこには自分と同等の力を持った他者という競争相手が待ち受けている。わたしたちはその厳しい過酷な環境の中、適者生存の原理に則って、生存本能まるだしのエゴマシーンを余儀なく演じさせられてしまうのだ。そしてあげくの果てには、その欲望機械の特徴は、水素、炭素、窒素、酸素などの諸元素に還元されてしまうという始末……。 このことだけ考えても、内部や外部という空間イメージがいかに閉塞や解放という自由度のイメージに分かちがたく結び付いているのがわかる。』引用終わり と、唯物還元論などと自分では呼ばないし考えもしないけれども、確かに唯物還元論になっている戦後の日本人の人生に対する認識とは、上記にあるように、「自分という存在は、如何に無意味で無価値で無力であるか」という思い込みに、無意識に支配されていると、当方は考えるわけです。 自らの存在に対して、三無(無意味無価値無力)という認識の上に立って生きることを余儀なくさせられた結果は、自ら考えることに対し無意味を感じ、お上、大メディアの言うことを信じることで安心感を得るようになり、人生のプロセスとして先祖、自分、子孫と継続はする慣習には習うが、先祖がどう生きたか、子孫がどう生きるかなど、考えることを無価値に思うのであって、全て体制に対して無力である自分を強く意識する、そのような人生観が自分にも家族にもコンセサスが敷かれ、人生と生命に矜持を持つなど無意味であり、「我さえよくば、今さえ良くば」の価値観が、年限と共に強化されていく、その根本、背景に、「唯物還元論の絶対信仰」、それを教育により教化するば、人間は自動手的に「虚無」の住人に成り果て、「村からの離脱は許せない」と言う、「奴隷が奴隷を管理制約」する、自動支配構造が産み出される仕組み、そのように考えております。 それがもし真実を突いているならば、この支配構造を、市民自ら裏返す(ひっくり返す)のは、「反:唯物還元論」の世界観、人生観がコンセサスを得ることにあるのではないのか、とも考えるわけです。 その「反:唯物還元論」のヒントになるものが、(皮肉にも)「量子力学」の知見にあるというのが当方の主張です。 実は約100年前より、人間の知性と知見に立ち上がった量子力学によって、現在の「コンピュータテクノロジー」と「核物理学」は発展を遂げた背景があります。 物質的な世界観(そこから立ち上がる物質的人生・存在観念)の「根源」とも思える量子力学ですが、この「物に対する究極の探求」が行き着いた「世界は一体何によって出来ているのか?」の探求は、全く意外な、人間の存在の根幹を揺るがす知識となって、当時の(今もそうですが)物理学者、科学者を混乱の渦に落とし込んでいきました。 そこから物理の世界(研究者達)は、「発見を見ないことにする」商業主義科学屋が政治的影響をうけて幅を利かせる時代になって行きます。 今さえよくば、我さえ良くば…の時代の到来。 正義の名の下に、他を排除し、自然を支配し、不安と恐怖を行動原理として、世界は「熱的死」の最終局面へと突き進んできたと言う考察です。 もとより、唯物還元論の最終局面とは、「全ては原子に還元される」=消滅をその根底に持っている世界観です。それに支えられてきたいかなる観念、価値観、構造であろうと、それらが完成する(完全支配の確立)と言うこと自体が、その意味するものが、「完全なる消滅」であることは自明です。 そのように考えますと、疑問を持たない、考えない、奴隷の群れと、疑問を抱かさない考えさせない支配構造が、迎えている現在の局面とは、「自虐的自滅的」であることは、悲しいかなこれまた自明であると言うしかないでしょう。 説明に応じない(耳を貸さない)人間が、家族であろうと友人であろうと、人生とは「意識、その人そのものが一つの宇宙そのもの」であり、「誰もが唯一完全オリジナルな存在」(量子力学の知見からそうなる)であるがゆえに、聞く耳を持たないというのも、その人間の人生(宇宙)、自ら選んでそうしている、と言うのが事実(と言わざるえない)。 放射能の危険を認知し、他人を説得しようと腐心する方々は、そのほとんどの方が「自他を分けて考えられない」方々であろうと想像します。 「自他を分けて考えられない」人生観というものが「反:唯物還元論」の世界観がもたらす思考だと思うのです。 人間と言うものは、決して死んだら消滅ではない。先祖より受け継ぎしものあり、子孫より借り受けしものあり、時間は今だけではなく、全ての物事は過去と未来を併せ持っている、「永遠の今」というのが時間の本当の姿ではないだろうか、と。 故に、子孫より借り受けし、地球も身体も同胞も、責任を持って次の時代に受け渡すのが、自分の務めなり、と「誰からも強要されることなく」そのように「努め」を自覚するのだと思うのです。 原発、もとい10万年殺人廃物製造機の推進者達の頭の中には、先祖無視、子孫無視の思想がべったりと染み付いていますよね。今さえ我さえ、です。そりゃそうです、「自分など、結局はチリになって消滅するのだ…今さえよければ自分さえ良ければ、何も誰にも文句など言われたくない・・・」と。 日本の官僚も政治やも、軍産複合体の傘下起業も金融機構も、アメリカを看板とする支配構造に恫喝されて、奴隷(日本国民)から搾取し、それを貢ぎ、僅かなおこぼれを掠め取る権利だけを飴として与えられ、逆らえば抹殺の恐怖に震えながら現在に至りました。 故にこの一見独立主権の国に見せかけられてきた日本の政治は、その存在目的である「奴隷の利用価値の見切り」役であり、既に世界経済ATMとして貢ぐ力量に陰りが見えたとたんに、「実験台」への変更へ、と役割を切り替えられたということが真相ではありませんか。悲しいかな、そのように読み込んでいけば、現在の地獄のような状況が読めるように思っています。 繰り返しますが、その転換は、世界観人生観の変更という、窮めて「教育的」(つまり知識として)な行動に鍵は在ると思います。決して観念的ではなく、もちろん闘争的でもありません、市民革命は自分革命であり、人間が世界観、人生観(=時間観念)を一変させる、そういう時代に到達したと思うのです。 それが、時間のマスターであったマヤの人々が、カレンダーを今年で区切った意味のようにも思われます。 >>人生とは「意識、その人そのものが一つの宇宙そのもの」 >他方、インドで修行してきたみたいな人たちは、「全部繋がっていて、ひとつなのだ」と 主張していますよね。それと、01さんの言う「自他を分けて考えられない」とはちょっと別物だ という気がしますけど。 これも、別物ではないと思いますよ。「全ては一つなのだ」というのが、量子力学に到達した人間の知りえたものでしたか。つまり、「世界とは自分が観察することで、初めて存在する」ということでした。 修行を通じて到達した世界の実相とは、世界と我はそもそも分かつ事などありえないという理解と同義です。 ただ、その理解に至るまでに段階というのもはあって、ごく普通の日常を送る人々の意識では、完全には世界が我(意識)とは自覚されていなくて、でも物質オンリーではないということは、自分の中で根付いている意識状態で、普通に「他人を放ってはおけない」という想いがある、そういう段階にあるということです。 見ることが世界を成り立たせている、だから自分とは関係ないという世界の状態が、そもそもありえない、ということに、修行を経て到達し、自覚した意識(もうこの状態では人間とは呼べないです)と、まだ唯物観念も持っているけれども、「我さえよくば、今さえよくば」とも思えない、という新たなる世界観の芽生えを持っている状態の人々ということだと思います。 >同じ人間と思っていないから出来る超・蛮行。 恐ろしい蛮行ですね。人類家畜化計画と言うと、ほとんどの人間は、「アニメ?空想しずぎ!」と、見ようともしないですね、しかしまさに家畜化に邁進して来たわけです。人間とは思っていない。 優性種という驕りですが、この発想の根底はやはり「恐怖」だと思うのです。唯物観念とはその元々からして消滅のシステムです。自己否定と自己破壊にその根底を持っている以上、存在自体が恐怖なわけです。 その恐怖を何とかしたくて仕方がないから、態度はその真逆で、高圧的で暴力的で刹那的にならざるえない。 常に自己の観念により、恐怖が増幅し、他人を支配せずにはおられない。それが蛮行に至らしめる背景と思えます。 親子夫婦兄弟姉妹と言えども、「人間は、一人ひとりがユニークな、オリジナルな宇宙そのもの」だと言えます。それゆえ、その一人ひとりがどのような世界観、人間観を持つに至ったか、まさに10人十色ですね。
このような分断をもたらす根源が、「自他を区別する世界認識」である唯物還元論ではないか、と言うのが当方の主張です。 「俺のせいではない、あいつが悪いのだ」「あいつが変わればいいのだ、俺が変わる必要などない」「俺が知らないことなど、無いのと同じ。どうして俺が心配などしなくてはならないのだ」という我よし今さえよしの程度の差こそあれ利己主義の元凶が、唯物還元論の世界認識より始まると。 対して反:唯物観念であると人間はどうなるのか。 世界は物ではなく、目の前の存在と自分と言うもの(意識)は分かちがたい。 他人を貶め汚せば、それは自分をそうしているに等しい。 母親であれば、子供の存在を通じて、自他一体の感覚が自ずと刻み込まれているようにも思うのです。(対して男性は、後から学習、理解する) わが子に起きたことは、自分の事の様に感じ、他人と自分に明確な区別など抱けない感性を、男性は得にくい。歯車に成り切ってしまうと、子供さえも所有の概念で捉えやすい(※ここで一般化する意味はない。話を分かりやすく言っているだけで、全ての男性が、女性がそうだと言うのではない)。 相方と言えども、見ている世界(宇宙)が違うのですね。唯物論なんですが、実態は見ている本人が世界を生み出している真実は、量子力学の知見から導かれるわけです。でも唯物論で世界を見ているから「お前と俺には、関係性などない」と言う無意識の「壁」が厳然と存在させられているのだと思います。 安全神話を握りしめて手放さない心理とは、「失うのが怖くて身動きが出来ない」ということではないでしょうか。 物質概念が強化されればされるほどに、「所有」の概念が強化されていきます。所有が強化されれば喪失に恐怖心を抱きます(執着)。 日本の中間管理=世界支配の奴隷の中の奴隷長である官僚、政治屋、大企業経営層が、どうして10万年殺人廃物製造の再稼動に執着するのか、地元議会がそれに賛成するのか、それで職を得ている市民が賛成するのか、全ては「失うことの恐怖」故だと思います。 反対する人々は、遺伝子を犯されたくないと感じていると思います。これは自分の肉体のことに限定する思いではなく、無意識に子孫への想いが込められていると思います。そこには過去と現在と未来という「生きている時間」の観念があります。 一方、失うことへの恐怖は、一見将来を心配する思いにあるようにも思われますが、焦点は「今」なのであって、未来のために今、執着を絶つという発想が出来ない精神の膠着状態です。 安全神話の狂信者は、「遺伝子」を見てみぬふりをすることが多い。実は遺伝子とは物質とは言えない奥深いものです。化学的には物質以外の何者でもないのですが、その振る舞い(機能)には「精神」を感じざる得ないものです。 原子、素粒子と物質究極を求めてたどり着いたのが、観察者の意識であったように、生命の暗号である遺伝子の存在も、それを単なる物質として語らないのなら、遺伝子の何も分からないのと同じだと言うことです。 それゆえ、放射能が遺伝子に及ぼす影響に敏感に成り得る人々は、無自覚のまま、精神、子孫にまで受け継がれるナニモノかに思いを至らせていると言えるわけです。 自分の肉体が消滅しようが、精神が受け継がれていくのが人間だと、更には自分という意識には死はないとまで思える方も多いと想像されます。 片や物質至上主義の人間には、「今、所有する物が多ければ多いほど(かりそめの)安心感が増す、何か生きている気がする」という、根拠無き「空虚感を埋めている気がするもの」が物質でもあると言うことではないでしょうか。 当方の人生観には、武士道の精神と言うことがあるのですが、それは「無為自然(むいじねん)」ということなのです。あえて言えば、「自分と言う概念を消失させれば、世界と一体となり全てを我が物としていると言える」と言う一面が語れます。 それゆえに、武士道とは死ぬことと見つけたり、という精神に結びつき、武士(もののふ)は「生きたまま死人(しびと)となり」という心境へと至り、「切る切られるの思いから離れ」相対せず、不戦(たたかわず)へと昇華するというわけです。 肉体を我(われ)とは全く概念しない、見ている世界がイコール自分そのものである。 そうなりますと、「所有」という概念がそもそも成り立たないわけでして、千変万化する自然に応じて、自在に己を変え、自由に生命の進むままに流れる(生きている)という心境まで、剣の達人は至ったように想像されます。(ここは勝手な解釈です) 生命を考える視点でも、肉体の所有の喪失を恐れるのと、他人も自分も傷つかないで居て欲しいと思うのとでは、その「心の中身」が180度違う。片や世界は単に物質であり、全ては消滅の定めから逃れられない、虚無に寄って立つ者、片や生命は過去現在未来をあわせもっていて、人間は真価を発揮すれば共生共鳴し、更に発展していける命そのものだと考えられる、そういう人々であるかと思うのです。 後者の人々の意識の中には、他人は既にありません。あるのは「向こう側の自分自身」であり、紙の裏と表の関係に過ぎない、他人を殴れば自分が痛み、他人を殺せば自分も死ぬ。ゆえに自発的に選ぶべき道は、共生、共感、共鳴の「弥栄(やさか)」だと、自然(自ら、然るべく)に選択する大勢の人々が、これからの時代を担う、そのように思うのです。 >言葉に使われず、言葉を創り世界を新たに構築してゆくのが、反原発も含めたこれか>らの私たちの生きざまなのだと思います。 本当におっしゃるとおりですね。 抗争や対立の術を求め彷徨う、そういう方向性も人間にはあるでしょう。 しかしやってみると誰でもお分かりになるが、戦い方のその先に、戦わない、否、戦いという言葉さえ意識しないで、世界を新たに構築していくのが、「脱人間・ヒトの再生」だと思うのです。 08さんが過去の書き込みでこのような一文を残しています。 「太古の昔我々の想像を絶する大地殻変動を経て、我々の国が出来た。 これは、恐らく壮大な意見になりますが、宇宙に於いてもどんな惑星等も寿命があるという事が表してます。」 と。 今は武士道の時代ではない、おっしゃるとおりですね。武士道の時代ではないけれども、「常ならず」という真理は今ココの時代でも底で通じている。 「キチ外な電力会社や政治家や官僚とどぉやって共生していくのか」と言う嘆きも、私達に共通した気持ちでしょうね。「それはありえない」とも考えられるし、途方にくれる。 そのこと自体、全体を自分の意識が包み込んで「あれはおれ自身だ」という明らめ(現象の出自を明らかにする)ことなのですが、ここは言葉では共感しがたいところですね。 戦うことから自分の置き所の階層を変えて、俯瞰してみる。 いずれにせよ、惑星にも終わりがおとずれるように、キチガイな官僚、軍産複合体の狂人支配構造は、まもなく熱的な死を迎えるのは必定だと思うのです。 そのキチガイを相手にすること(戦いも、共生も、他のなによりもそれにかまっている次元)は、同じ穴のムジナといえるでしょうね。 戦い方、ではなく、戦わずにして勝利する、否、勝利という言葉もない心境へ、そのようにお話しているのですがね。ちょっと観念的すぎる表現が多くて申し訳ないですが。 あくまで戦い方を求めていらっしゃるのでしたら、問う相手を間違っていますよ。 既に「その人なりの戦い」を繰り広げていらっしゃる方々が、阿修羅のなかでもちらほら見受けられると思うのです、それも素晴らしいことです。「自分はこう思う」と言う明確な意思には感銘を受けますね。 帝国を倒すものは、また帝国になる、という歴史の証明を受け止めて、11さんのおっしゃる「言葉に使われず、言葉を創り世界を新たに構築してゆく」生き方に、当方も歩みたく思います。 再びレスありがとうございます。 >そうした極悪犯罪人たちと仲良くやっていかなければ >というような(正確ではない)ことを主張している。 と、(自分が知らない方々ですが)おっしゃっている方々が居るとのことですね。 私は全くそうのようには思わないし、主張もしたことが無いのです。 戦わないことを言っていますから、そのように読み取るのは当たり前かな〜と、思うのですが、戦わないことは「自分」の中(意識)のことですので、武士道を持ち出していますが、挑まれても戦わないのでいなしてしまいますが、しつこく相手が命を取ろうとすると、その「いなし」度合いが高まって、結果的に「力を入れた人間が自滅する」展開となると想像してみてください。 雰囲気としては(あくまで雰囲気で)「合気道」(大道流合気柔術なども)の立会いで、師匠から攻撃は一切無い、稽古生が力任せに、襲い掛かるけど、やってもやってもまるで自分から飛んでいくように、飛ばされてしまいます。 余りしつこくやれば、自ら出した力が還ってくる度合いが、自分自身を破壊するんです。師匠は息一つ乱れないのに。 衝突が無いのです、けれども仲良くしているのではないのです。まあ、これはあくまで人生を学ぶという次元で、素手と素手、素手と刃物程度でのことで、飛び道具ですと、本質的には変わらないですが、もっと先の展開を見据えた自分の行動が必要なので、ココは省略です(すみません)。 >でも、彼等がそんなことを簡単に理解するとは到底思えませんよね。 全くです、というより、理解しないでしょう。無情のようですが、「縁なき衆生は度し難し」で、自分の意識には置かない(無視とは意味が違います)。 極悪の輩のことを考えている「自分の意識状態」は、自分の大切な人生の時間を、そのもの達に提供している状態。(無視も実は同じ穴のムジナ) 相手に分からせる、という「相手を変える」という思いから離れるということです。それは自分のためです、もったいない。下らない奴のことを意識に置くこと自体が自分を無駄にしている、分けです。 それが「参加しない」という運動の、背景と思うのです。(ガンジー提唱の運動) 皆さんが、「キチガイをどうして相手にする!」という憤りを持つのは、当方も同じです。でも上記の理由で、次の瞬間にはキチガイから手を離し、「共生」をしないことです。 共生を語りながら共生しないとは矛盾かと思われますが、共生は全員既にしているわけで、同じ地球に生きているのだから「共生」です。(だから迷惑!) 当方が共生を持ち出すとき、三つがセットなのです。共生共鳴共感。 共生は「仲良くする」意味ではなく、もう既にしている状態です。 共生だけで、新しい生き方を語ることはないので、共生という既成の上で、 共鳴する人々、共感する人々、共鳴共感する人々のネットワークを構築するってことに、注力するってことで、キチガイはやがて、人々の参加を失い、エネルギーが枯渇し(キチガイのエネルギーは我々の虚無なので)、熱的な死を迎えて、彼らの絶対的立脚前提である「世界は物質である」という世界認識において自滅(還元)されるのは、当たり前(法則)だと。 だから「>目覚める人も増えているし」という人々は、キチガイの土俵に立たないで、いなし、かわし、するするっと「力を抜ききって」自由に生きていくと、もしかしたらキチガイになびいていた日和見な人々は、「何で同じ地球に生きていて、そんなに自由なのですか?」と、気がつくかも知れませんね。 >人間の心理を極めつくして、それを悪用しまくっています。 という極悪の仕組み、その仕組みが成り立つのは、「同じ土俵に乗っている」から、というのが当方の主張の一つなのですね。 我々も、存在の不確かさゆえの恐怖(背景に唯物還元観念)を持っているならば、悪行の輩の基本的な観念と同等だということを言っています。 帝国を倒すものは、再び帝国になる、というように、中国当局は「革命政府」って自分達を呼称するのはブラックユーモア?wと思うくらい、力で成し遂げることは連鎖する法則だよってことです。 でも、ノー天気とかでは駄目です、阿修羅住民のように、知っていかないと、相手の手の内を十分分かって、分かった上で「その逆をいけばよい」ってことです。 >でもそこを出発点にすると、奴等極悪犯罪人たちと私たちが同じ!? という問いは、凄く大事な問いだと感じます。同じであっては、上記に言ったようになるわけですから、同じではない自分に変わることが(宇宙に)求めらているって思います。 量子力学について、正確に…は無理なのですが(唯物観念をひっくり返さないとならないので)、不正確を承知でちょっと書きます。 物質の究極とは何か?という人間(物理学者)の探求は、分子の発見から原子の発見にまで至りました。では原子は「何で出来ている?」と問うことで、原子核と電子の軌道モデルが理論的に探られました。やがて計測機械などの発達の要因により、原子核の構造まで探られて、陽子と中性子という姿がはっきりして来ました。 素粒子という概念で呼ばれ、現在では陽子も中性子もそれぞれの構成要素がはっきりしているのですが、問題はこれら素粒子の「振る舞い」と「その観察」に、物理学者達は大きな壁にぶつかったわけです。 量子と呼ぶそれらの存在ですが、「粒子性と波の性質を併せ持つもの」という、古典的物理学では説明が困難な振る舞いをすることが分かり、さらに、「観察することが結果に影響を与えてしまう」ことが、誰が実験してもそうなってしまうことが分かったわけです。 実験、観察結果に「観察者を含まない」のが古典物理学ですが、「観察者の観察を抜きには量子は、『確率』でしかない(記述出来ない)といえるので、「ある」とはいえない。観察者が観察することで量子は、確定的な状態を持つ(位置を決められて「ある」といえる)ことが出来る」と、そう分かったのです。 「見ていない時には、月(ムーン)は無いのか」と、量子の振る舞いを受け入れられなかったかのアインシュタインは問うたという逸話がありますが、原爆を作っていった科学者は、その探求はやめて、理論的に明確な量子記述の数学を駆使して、核物理学を「物体(原爆)」へと転化していった分けです。 そのような「見ている自分が世界を決定する」という量子論を素直に見つめていった「少数」派(非御用学者)は、宗教者になったのかと揶揄されていきます。 「見ている世界と俺とは何の関係があるというのか、あいつはあいつ俺は俺だ」と 、世界を成り立たせている「基」を、自分の意識に置けないで、あくまで見ている世界は自分とは関係ない存在し、たとえ自分が居なくなっても、世界は世界としてそのまま存在すると、古典物理的に考え続けるようにしていったわけです。 当方は、量子力学そのものを重視しているのではないのです。厳然と実験観察された世界(物質)の真相が実は「自分が見るから世界はある」という事実に、人類は世界の認識の発信点を置く、(つまり古典的な世界認識は「思い込み」の世界認識であるといわざるえない)そういう次元に進むことを、お話している、と言うことです。 キチガイと同じなのか!?は、古典的な世界認識から、試しに(面白がって)量子論的世界認識に遊んでみてみると、面白い(世界の見え方が面白い)ですよ〜 ということなのです。(冷たく言えばご自分で確かめて!ってことで〜す)。 16さん レスありがとうございます。 お読みなったのですね、精神論は結構な方に、苦痛な時間と取らせまして申し訳ありませんでした。 精神論はいい、というのには同意致します。私も精神論は結構と思っています。 ということで、精神論を書いておりません。これは何かと問われれば、あえて言いますとエンターテーメントです、とお答えしております。 人間は意識なのか、物質(肉体)なのかと考えますと、当方は意識です、とお答えいたします。いや肉体が自分だろう、とお考えの方なれば、物質とお答えになりますでしょう。 人間は物質だとお考えであれば、上記の駄文が「精神論、うぜー」と言うことになるのではないかなーと想像致します。 当方は人間は意識だと認識するので、意識の転換による一人ひとりの世界認識の変更というエンターテーメントは、精神論でなく実践論なのです。本体(意識)の行動論ですから。 でも、なーんも知らない当方に、「具体的に日本国民が良くなる方策を教えて」とそのような人生の一大事を問われることを軽くは見ることは出来ません。 真剣にそれを模索されている方だと想像いたします故。 当方の試み(エンターテーメント)に、ちょっと絡んで、世界認識を古典物理から量子力学的にシフトしちゃおうかな〜、というお遊びにお付き合い頂ける方ではない前提で、貴方様のレスにお応え致しますと、 >福一の責任を取る奴もいねーのにw >先ずは徴兵制とか言った、石原のぱしり猪瀬のたわごとか。 >心配するな、もしこんな異常な事が起こりだしたら戦うさ。 >原発で死ぬより、屑のような国家の庇護にある官僚と政治家と原発を運転してきた>奴らと刺し違えても戦うさ。 >ここは、日本国である。 と言うお覚悟をお持ちの方でしたら、当方のようなエンタメに興じるようなチャラい者に尋ねるまでもないかと存じます。上記の文脈に、「自分はどうすればよいのか」が色濃く書かれていらっしゃいます。 高尚な精神をお持ちになっていると感じます(皮肉ではありません)。 利他の為も含んでのお覚悟とお見受けいたします。 方策はそれで十分ではないでしょうか、その行いはこの国を良くされる方策だと、私は思うのです。あえて言えば、行いと言うよりその精神が、です。 そのようなお方なので、当方のようなチャラい精神論(貴方様にとって)が我慢ならないとお感じになったのかも知れませんね、誠に申し訳ありませんでした。 あえて生意気を申し上げますと、日本人、何々人と言うカテゴライズから、そろそろ脱却していい、とそのように思っている者です。子供時分より、誰でも地球人だろー、と思って育ちました。(宇宙は広大なので、地球人しか居ないと考えることに当時から無理を感じて育ちました。) どうしたら人間は、それぞれが持てる能力を、色とりどりに発揮して、誰もが輝いた顔で生活が出来るのだろう?と考える子供でした。 世界国民?が良くなる方策は何かないのか、どうして持っている力が阻害されるのか?と考え続け、思想や歴史、哲学、数々の宗教も遍歴し、医学や技術にも関心を抱き、原子の核分裂、核融合について始めて知ったのは、小学4年の夏頃でした。 夏休みの自由研究に、核分裂について発表したのですが、クラスが「???」となってしまいました。空気が読めない(笑)子供でした。 武道の師に二十歳過ぎに師事いたしまして、師匠から、武士道の精神について実践(稽古)と理論を叩き込まれました。(防具とかなしで、マジに突いたり蹴ったりいたします!)。戦い方を稽古し、そこから戦わない(いなす、かわす)、力を入れない生き方を体得していくのが稽古でした。 人の立ち振る舞いというのは、精神(意識)の顕現だと身体で体感する日々でした。精神の運動が人間の具体性そのものだと、身体を使って使って使いまくって、もうだめだ、という処まで至ると、その精神性としての自己存在に思い至るのです。 強大な力(例えば黒人の人々など)に、力で立ち向かっていくのは、別にいいのですが、やってみれば無理だと骨身に染みります。 それが、発想、認識を入れ替えまして、「力を徹底的に抜いてしまう」と、力を入れた人間の方が、勝手に倒れてしまう事実を経験いたします。 自分自身がすることとは、己が中心を保つ、これだけです。 相手の力には、乗らないこと、自分が同じ次元には住まないこと。 それが実体験として経験され、徐々に自分と言うものが、身体から精神(本体)へと認識が切り替わっていく、という人生を経過しております。 それゆえ、精神を語ることは実態であり、そのことが量子力学により到達した「世界(物質)とは何か」の知見と、一致を見る、のです。 唯物論者であろうが無かろうが、科学的(?笑)に突き詰めれば、「自分の意識により、世界は成り立っている」のが事実だということです。 古典的な世界観である、観察者が居なくても、世界は世界としてある、と言う、自他分離の「形態認識」が、実は100年前に老朽化した認識論に陥っていたことを知る人はほとんどいらっしゃらない。 かなり以前から、世界の在り様は、自分の意識にその根拠があると、実験、観察、実証として分かっていた、ということなのです。つまり、世界そのものが精神論なのですね。世界は物質だ!という精神(認識)によって、その意識には世界が物質になっている、というロジック、いやいや「トラップ」だよな〜、それは。 |