106. 2012年5月20日 09:37:29
: zdrekNpD4Y
99. 2012年5月20日 09:10:02 : x5gpQiUj3o ・日本人は「広島、長崎で原爆被爆」をさせられて、「急性の被爆症状に関する貴重な人体データ」を世界に提供し、 広島・長崎の原爆では、多くの尊い命が奪われ、人類史上、最も悲惨な出来事として世界中の人の心に刻まれています。この前例のない原爆体験は、その後の放射線による人体影響の研究に価値ある豊富なデータともなりました。広島・長崎の知見が現在の放射線医学や放射線治療の礎になっていることは、間違いありません。 また原爆は文学作品のテーマにもなり、井伏鱒二の「黒い雨」、原民喜の「夏の花」など、後世に読み継がれる名作があります。戦争体験は風化しつつありますが、日本人は原爆を決して忘れてはなりません。 原爆による被ばく線量は、爆心地からの距離でほぼ決まります。広島の場合、上空600mで炸裂した原爆から、大量のガンマ線や中性子線が放出され、一瞬の外部被ばくで多数の死者が出ました。急性放射線障害による死亡です。放射線は爆風や熱線より、比べ物にならないほど速く広がりますから、炸裂してから100万分の1秒ほどで多くの人が超大量の放射線を浴びてしまったのです。逃げる間などありません。 爆心地にいた人の被ばく量はガンマ線で約100シーベルト(10万ミリシーベルト)、中性子線で約140シーベルトと推定されます。しかし、爆心地から離れるにつれ被ばく量は減っていき、500m地点ではガンマ線で28シーベルト、中性子線で31.5シーベルトとなります。さらに3.25km付近になると、被ばく量は1.0ミリシーベルトまで減少します。爆心地から200m離れるごとに、被ばく量は半分になる計算です。 広島大学原爆放射線医学研究所は、広島・長崎の原爆の爆心地から500m以内にいて奇跡的に助かった78人の生存者を対象に、1972年から調査を始めました。これらの人々はコンクリートの建物内、地下、満員の路面電車の中にいたため、放射線が遮られ、被ばく量が少なかったと考えられます。 生存者の被ばく量は、爆心地からの距離と建物などによる遮蔽効果で決まりました。つまり、広島・長崎の場合、原爆投下の「その瞬間どこにいたか」で被ばく量が決まるわけです。そして、生存者に対する聞き取り調査や健康診断によって、被ばく量と発がんの詳しい関係が得られ、科学的にも貴重なデータとなっています。 この点、原発事故では、放射性物質が風で運ばれ、雨に溶けて地表に染み込むことで被ばくを引き起こしますから、場所によって、放射線の量が大きく違ってきます。このため、住民の被ばく量は、線量計を携帯しない限り正確には把握できません。原爆被爆者のデータが最も信頼できるものなのです。100ミリシーベルト以上の線量で、発がんが直線的に増えるという事実も、広島・長崎のデータがもとになっています。 なお、こうした初期放射線のほかに、上空から降下した放射性物質などもありましたので、原爆投下後に広島・長崎に入った人も被ばくしました。これらの人は入市被爆者と呼ばれます。ただ、こうした放射性物質による被ばくは初期放射線に比べるとわずかです。 広島・長崎の原爆では、広島市で人口34万〜35万人のうち爆風の破壊力や熱線、放射線によって9万〜16万6000人が被爆から4カ月以内に死亡し、長崎市では、人口25万〜27万人のうち6万〜8万人が死亡しています。ただ、死亡者の数は、軍関係者で死亡した人の記録が焼失したり、家族全員が亡くなり報告者がいなくなったりしたため、あくまで推定です。米兵の捕虜も原爆で死亡しています。 原爆の全エネルギーのうち、爆風が50%、熱線が35%、放射線が15%と考えられています。 爆心地から半径2km以内の全死亡者を100%とすると、被爆2週間以内に88.7%、第3週から8週までに11.3%が死亡しています。 半径1.2km以内の死因の内訳は、爆風による外傷が20%、放射線による障害が20%、熱線と2次的な火災による熱傷が60%でした。 がんや白血病の発症については、怪我や火傷と同じように爆心地に近くなるほど多くの人に発症し、白血病で死亡した人の約半数と、固形がん発症数の約10%が放射線の被ばくに起因すると考えられています。 2000年までに放射線による被ばくで発症したがんの総数は、約1900例と推定されています。 原爆による死亡のほとんどが、爆発直後の爆風と熱線によるものです。爆心地の温度は、3000℃以上に達しましたから、多数の方が、全身の火傷で命を落としました。 なお、4シーベルト(4000ミリシーベルト)の放射線を全身に浴びた場合、およそ半数の方が死亡しますが、こうした大量被ばくでも、皮膚の温度は1000分の1しか上がりません。 原爆による火傷やケロイドは、放射線とはまったく関係がありませんが、多くの人々を死に至らしめた主要因だったのです。このことは意外に知られていないことなのかもしれません。 また、放射線による人体への影響として、次のようなことが明らかになっています。 発がんについては、被ばくから10年ほど経って、乳がん・胃がん・大腸がん・肺がんなどを発症する人が増え始めました。100ミリシーベルト以上の被ばくで、発がんのリスクが上昇することがわかったのです。 白血病は被ばくから2年ほど後に増え始め、子供の発症率は数倍に上がりました。子供は大人に比べ、放射線による影響を受けやすいことがわかりました。白血病については、6〜8年後から患者は減り始め、20年ほど経つと日本人の平均レベルになりました。 なお、親が被爆者である「被爆2世」への遺伝的影響は、見られていません。動物実験では、遺伝的影響は観察されていますが、ヒトにおいては、放射線被ばくによる遺伝的な影響は確認されていないのです。 また、原発事故で争点となっている100ミリシーベルトより低い被ばくで発がんが増えるかどうかですが、科学的には100ミリシーベルトより低い被ばくで発がんの増加は確認されていません。これは、たとえリスクがあったとしても、検出できないくらい僅かなものだということです。 井伏鱒二の小説「黒い雨」は、爆心地から遠い場所にいて、炸裂直後の閃光のような放射線や熱線を逃れたものの、その後、上空から雨と一緒に降ってきた放射性物質によって被ばくした女性の悲劇を描いています。 原爆は、高さ600m(広島)と503m(長崎)で爆発し、巨大な火球となり、上昇気流によって、さらに上空へと押し上げられました。爆弾の中にあった核物質のうち約10%が核分裂を起こし、放射線という膨大なエネルギーを発しました。残る90%は火球とともに成層圏に到達したと考えられます。 これらの放射性物質(広島はウラン、長崎はプルトニウム)の一部は「黒い雨」となって広島・長崎に降りました。放射性物質は風に乗って移動しますから、広島では北西に向かう風に流され、雨に溶けて己斐・高須などの北西部に、長崎では東へ向かう風に乗り西山地区など東部に多く降りました。 こうした放射性降下物(フォール・アウト)による地上汚染は、爆心地より、むしろ離れた地域で高くなりました。 ただ、これらの地区でも住民の被ばく線量は僅かだったことが確認されています。地上汚染による爆心地の被ばく線量は、離れた場所にある最大の汚染場所の約10分の1です。原発から離れているのに、高い放射線量を記録するホットスポットがある反面、原発の近くでも汚染が少ない場所が存在するのと同じことです。 雨に溶けて降った一部の放射性物質を除き、多くのウランやプルトニウムは大気圏に広く拡散したものと考えられます。例えば、ウラン235の半減期は7億年です。今でもこれが広島市内にたくさん残っていれば、放射線による被ばくリスクは高いままです。しかし、広島も長崎もそうはなっていません。 原爆による放射性降下物の影響は、1950年代から1960年代に世界中で行われた大気圏内核実験の影響と区別できないほど、低くなっています。 原爆投下の翌日に広島市や長崎市に入った人たちも被ばくしました。原爆投下後、2週間以内に爆心地から2km圏内に立ち入った「入市被爆者」です。親類や知人の安否を気づかって入った人、たまたま原爆投下時は市外にいて戻ったという人、救護活動のために市内に入った人などです。これらの人は原爆の誘導放射線(原爆から出た中性子線が物質に当たると放射化し、その物質から出る放射線が誘導放射線)やフォール・アウトによって被曝しました。 ところが、非常に驚くべきことに、入市被爆者の平均寿命を調べてみると、日本の平均より長いのです。また、広島市の女性の平均寿命をみると、政令指定都市の中で最も長いことがわかります。日本は世界一の長寿国ですから、つまり広島市の女性は大きな都市の中では世界一長生きということになります。そればかりか、出生率の高さでは第2位、死産率の低さでは第1位です。広島市は「奇跡の復興」を遂げ、現在の人口は120万人で、西日本有数の工業都市となりました。 広島市民の健康の指標 (○数字は政令指定都市の順位、人口千人当たり、平均寿命は全国平均と比較) 病床数:政令指定都市平均13.3床、広島市14.7床E 病院従事者数:政令指定都市平均13.9人、広島市14.6人F 病院医師数:政令指定都市平均1.7人、広島市1.6人G 病院歯科医師数:政令指定都市平均0.13人、広島市0.19人D 三大疾病死亡者数*1:政令指定都市平均4.3人、広島市4.2人F 平均寿命男性*2:全国平均78.79歳、広島市79.45歳C 平均寿命女性*3:全国平均85.75歳、広島市86.33歳@ 資料:病院報告、医療施設調査、人口動態統計、都道府県別生命表 {*1は平成18年(2006年)、*2・*3は平成17年(2005年)、その他は平成19年(2007年)} 平均寿命女性 平成17年(2005年) 「政令指定都市中」 1位:広島市86.33歳 2位:福岡市86.27歳 3位:札幌市86.26歳 なぜ広島の女性の平均寿命が延びたのでしょうか。 ここに、広島の人々の悲劇と、原爆が生んだ皮肉な結果があると考えられます。 ひとつは、被爆手帳、正しくは被爆者健康手帳の存在です。被爆手帳が交付されるのは、原爆投下時に広島・長崎両市と隣接する区域で直接被爆した人、投下から2週間以内に爆心地から2km圏内に立ち入った人(入市被爆者)、被爆者の胎児だった人などです。 被爆手帳を支給された方は、がんはもちろん、糖尿病や風邪に至るまで、原則、無料で病院にかかることができます。この手帳を持つ方は現在22万人程度ですが、昭和55年には最大の37万2264人を数えました。これは、終戦時の広島市と長崎市の合計人口を上回る人数です。 無料で医療を受けられる効果は絶大です。特に被ばく量が少ない’入市被爆者’(原爆投下の後に市内に入った被爆者)の場合、充実した医療が効果を生んだ結果、全国平均より長生きになりました。広島は、「医療の力」をまざまざと示したと言えるでしょう。 さらにもうひとつ、長生きには理由があると思います。原爆投下後も市民が’避難せず’暮らし続けたことです。これは、「広島、長崎市の前に広島、長崎市なし」ということです。 当時、放射線に関する知識は一部の専門家以外は持っていませんでしたから、原爆投下後も、広島・長崎の人たちは放射線が「危ない」「怖い」ものとは考えていませんでした。だから、知らずに街に入った多くの入市被爆者が生まれたわけです。生き残った人たちも、そこに居続け、避難をしませんでした。放射線に怯えながら、不自由な避難先で暮らす、ということがなかったのです。もちろん、避難をしない前提条件として、放射線量が低レベルであるというものがありますが、広島・長崎の場合、放射線の「怖さ」を知らなかったが故の結果でありましょう。 |