http://www.asyura2.com/12/genpatu23/msg/673.html
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2012年05月12日
http://onodekita.sblo.jp/article/55810378.html
周りの人にいくら放射能が怖いと説明しても、鼻からバカにしてわかってくれない。
一体どのようにして説得すればいいのでしょう?
と言う質問をよく受けます。何か特効薬があれば、もちろんお教えしますが、そんなものはこの世にありません。何しろ、私だって実家はいざ知らず、兄弟の家庭にすら話を聞いてもらっていないのですから。キサゴータミーの話ご存じでしょうか?
詳しくは、リンク先を読んでいただくとして、子どもを死なせてしまった金持ちの母が、その現実を受け入れられずに、死人を生き返らせようと狂ってしまう。お釈迦様が、それを教え諭す話です。
現実を受けいられない人をどう導くのか、宗教問題とも似た難しさがそこにあります。散々口やかましく言っても、「もう、いい。うるさい。わかった」と言われるだけの日々が続いているのではないしょうか。
その説得の一つのヒントとして、自分がなぜ、放射能の危険をすぐに察知することができたのか。それを考えてみるのはどうでしょうか。私は放射能から避難された方に会うと、なぜ避難することができたのか、聞くようにしています。なかなかその時にはピンと来る答えをもらえないこともあるのですが、
・お父さんに小さい頃から原爆の展示会に連れられていってたから
・もともと原発反対運動に加わっていたから、知識があった
・はだしのゲンの怖さが身に染みていた
等々。その理由は人によって違うでしょう。私の場合をご紹介します。
私の母の実家は、広島市にありました。祖父母が、母をかわいがってくれていましたので、私は小学生の間ずっと長期の休みの時には、広島に遊びに行っていました。当然8月6日の原爆が落とされた日のサイレンと、原爆記念式典はテレビでいつもそれとなく見る−そんな夏休みだったのです。祖父母、母ともにピカの被害は受けておらず、原爆投下後1年近く経ってから広島市に戻ってきたようです。祖母はABCCで検査を受けたことがあるのですが、直接そのことを存命中に聞いたことはありません(母から、先日初めて聞いて大変驚きました)。そして、ヒロシマ、ナガサキの原爆資料館にも行ったことがありますが、その時の記憶は殆ど残っていません。
知識はないが、とてつもない爆弾を米国が使ったという感覚だけはあったのだと思います。
原子力は、とんでもない技術だと思ったのは、ゴルゴ13 2万5千年の荒野
ゴルゴ13
さいとう たかを
ロープライス ¥394
or 新品 ¥510
<1984年7月作品>
(↑拡大図)
定量的な内容を書き出します。
・アポロン1号の核燃料ウランの総量は170トン、分裂能力は8000万キューリー
・そのうち1%が漏れ出るくらい(公式発表では、チェルノブイリは1億8000万キューリー、フクシマは1000万キューリー)
・炉から2マイル(3.2キロ)いないは全員1日目に脳をやられて死亡
・ガンマ線被曝量は1日で320レム(3.2Sv)1週間で1万4千レム(140Sv)以上になりますから・・
・20マイル(32キロ)離れた地点にとどまった人は、第1日目に72レム(0.72Sv=720mSv)、90日で4600レム(46Sv)に達し、重傷の放射能障害が出ます。急性白血病で髪は抜け皮膚は落ち、50%が1州下院いないに死亡
・50マイル(80キロ)離れても、1日目に15レム(150mSv)、90日で250レム(2.5Sv)
・甲状腺では濃縮され、被曝量は1週間で、1240レム(12.4Sv)一週間で発病する人もいます
・子々孫々までも、長期の影響が現れます。誰も、住めないでしょう。
・桁が違います。ヒロシマの原爆の全放出量は数十万キューリーに過ぎません。原発はその200倍から400倍あるんです。それに死の灰で、地表や海、川、大気・・・あらゆるモノが汚染されます。
・数百マイル離れても、農作物は作れなくなります。・・・死の世界です・・・
どうでしょうか?私はこのマンガをチェルノブイリ前に読んでいました。実際に事故が起きて、ウクライナは終わったと確信したのですが、その後事故被害報道は尻すぼみ。あのマンガは、大げさだったか・・と思って、その後東電原子力に入社してしまいました。
今改めてこの本を読んで、その正しさがよくわかります。
それ以外の本としては、
〔コミック版〕はだしのゲン 全10巻
中沢 啓治
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ひろしまのピカ
丸木 俊
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皆さんもなぜ、放射能の怖さを知り得ていたのか、コメント欄で教えていただけますと幸いです。
◆関連ブログ
仏教聖典から・・・キサゴータミー2011年06月15日
結論の押し売りではなく、導きを2011年10月29日
この記事へのコメント
「国策」と称するモノはアヤシイという雰囲気が70年代初頭までは確実にありました。それ以外に公害、薬害、、の経験でしょうか。国家に裏切られた世代が膨大にいましたから。
宮城県では早くから女川に原発をつくるなら県庁のある勾当台に原発をつくればいいという議論はありましたね。
Posted by コニー猫 at 2012年05月12日 23:53
私が本当に目を覚ましたのは、あるブログサイトで【美浜事故の数年後の地元と他市町村の病気の比較グラフ】を見た時。心疾患を含め明らかに他の町より増えていました。
あの時始めて恐ろしさがわかりました。
Posted by たお at 2012年05月12日 23:58
私の世代の熊本の小学校の修学旅行は長崎。
中学は広島、必ず原爆資料館に行っていました。
小学校のころにはやはり「はだしのゲン」を読みました。
祖父は中国大陸で戦争をしていましたので、毒ガス兵器の話を子どものころによく聞かされました。
また、子どもが生まれてからは、鹿児島の知覧特攻記念館や長崎の原爆資料館に何度も連れていきました。
ですから、息子は絶対に自衛隊には就職しないと言うようになりました。
ただ、私の私論ですが、核であれ通常爆撃であれ、戦地での争いであってもその人にとってはどちらも同じ「死」である事から戦争だけは絶対にいけない。との信念を持っています!
Posted by kawasaki at 2012年05月13日 00:04
追記します。
長崎の原爆資料館には、小学生の時に行った時に見た、内側にこびりついた人骨があるヘルメット(鉄カブト)がありましたが、今でも展示してあります。
あれはショックでした。
Posted by kawasaki at 2012年05月13日 00:08
私がなぜ東京東部から九州へ移住までしたのか。
それは歯科大で放射線の勉強をしたからです。
先生もご存じかとは思いますが教科書の最初の方で確定的影響と確率的影響という言葉が出てきます。
もちろんその内容は国家試験にも出ていたので大変重要な事で、放射線という物を扱う上で知らなければいけない必須事項だと思っておりました。
そして今回の事故、東京の水に数百ベクレルの放射性物質が混入し、その後100mSV以下は安全だとか平気で言う医者や学者が出てきた上に国までもそれに従う事に私は驚きを隠せませんでした。その時点で確率的影響は学問から抹消されたようです。
子供がいる私には到底納得ができず、十二分に引っ越す理由になりました。
ご参考にしていただければ幸いです。
Posted by 歯科医師の一人 at 2012年05月13日 00:26
小野先生初めまして!
私は1960年代前半の生まれで、小学生当時も、広島長崎の事は授業等でよく聞かされましたし(多分平和学習が盛んだったんだと思います)、「はだしのゲン」は学校の図書室にもあってよく読みました。
いや、今思い出しました。当時少年ジャンプで「はだしのゲン」は連載されていたのでした!それで目に触れる機会があったのです。今思うと、60年代から70年代にかけては、ジャンプだけでなく「りぼん」などの少女誌でも戦争体験や公害反対を叫ぶ作品はとても多かったのです。あのお陰で自分の中に貴重なベースが出来たと思っています。
そして80年代に大学生になると、ちょうど反核の機運が盛り上がっており、現代書館から出たグラフィカルな『反原発』という本をきっかけに、いくらでも反核・反原発を学ぶ環境がありました。(政治的に原水禁とか原水協とかあるのは知っていましたがあまりよくわからず...)
そしてチェルノブイリ事故。
でも、その後急速にその機運はいつの間にかしぼんで行ってしまい、私も自身の生活にかまけて?いる間に原発が55個も造られてしまいました。福島に原発がある事も311以前までは知らなかったくらいです。反省しきりです。
小学生の娘は、学校で平和教育を一応学んでおり、夏休みには自分で何か平和(戦争や原爆の事など)について調べ物をし、「平和新聞」という形で毎年1枚残していきます。そして6年生の修学旅行で広島を訪れ、6年間の仕上げをする事になっています。こういった取り組みがきちんとなされているのは大切な事だと、今回つくづく思いました。それがたとえ形の上だけであっても、各人がそれを最大限に生かしさえすれば、貴重な体験を子ども時代に残す事ができるのでは、そしてそれが核や放射能の事を体で知っている事につながるのでは?と考えています...
長文になってしまい誠にすみません!
Posted by wakana at 2012年05月13日 01:02
私の場合は「黒い雨」「この子を残して」「チャイナ・シンドローム」「シルクウッド」などの映画や、チェルノブイリに関するテレビのドキュメンタリーを見ていたことでしょうか。どれも特に一般の人がアクセスしにくいようなデータや知見が含まれるものではありません。
3/12の時点では政府も東電も単にパニックを防ぐために「落ち着いて」と言っているだけだと思い、彼らの言葉を善意に受け止めつつも、3/14深夜に車で西に移動し始めました。
私にとって驚きだったのは、そのあと、3/10まで普通に「恐ろしい」とされていた事の多くが「じつはそうでもない」(レントゲンや飛行機etc…)とメディアが言い出したことでした。
「あの爆発では、もう関東には戻れないかもしれない」と思って避難したわけですが、結局、放射能への不安よりも、メディアと政府の暴走が恐ろしかったし、今も恐ろしいです。(3/16のヘリで水を撒く作戦も恐怖でした。知識が無くてもピカを見ていなくても、あんな水撒きで解決するなら元から誰も原発反対もしないし、チェルノブイリの問題が今も問題のままでいるなど考えられないと感じました。)
ということで、早く気づいたのは3/10までのメディアのおかげで、「避難」から「移住」に気持ちが固まったのは3/11以降のメディアのおかげ、ということになる気がします。(「死の灰」が「定時降下物」に変わったから、という感じです)
あまり参考にならない気がしますが、参考まで。
Posted by 元神奈川住民 at 2012年05月13日 01:34
度々の書き込み申し訳けありません。
小5くらいのころTVドラマで
山口百恵さんと三浦友和さん共演の
「赤い疑惑」
を思いだしました。
たしか、幸子(百恵ちゃん)が地下室のレントゲン室に光男さん(友和さん)を探しに行ったときに爆発事故があってコバルト60を浴びてしまって急性骨髄性白血病になりました。
そのとき、強い放射線を浴びると白血病という血液のガンになるのかと11歳ころに思いました。
「テーマソング」も「勿忘草をあなたに」もカラオケで歌えます。(ちょっと、脱線)
Posted by kawasaki at 2012年05月13日 01:35
わざと、泣き寝入りせざるをえない被曝の被害者を増やす為、一億総被曝政策(放射能瓦礫広域処理と食べて応援等)を進める政治。後世、ホロコーストと並び称される悪業という評価を受けるでしょう。被曝の均一化は、当然、被害の均一化であり、これから各地で増えてくる癌や先天異常等が、何の影響による癌や先天異常なのか確定しにくくし、後々の福島被曝者集団訴訟の被害者認定を最小限に抑えようとしているのです
Posted by ちわわマン at 2012年05月13日 01:35
私も首都圏から移住して、首都圏の親戚知人だけでなく、移住先でも驚かれました。私の方としては、なぜ私の行動がそんなに変わっていると見なされるのか理解できませんでした。もちろん、避難は私にとっても思い切った行動で大変なストレスでしたが、フクイチの原子炉が次々爆発する中で、避難するのは当然の行動に思えました(3.11以前は原発の危険など全然頭にありませんでした)。
他の避難しなかった方たちと違う点を強いて挙げれば、新聞・テレビなどの大メディアからのインプットがなかったことかもしれません。新聞は取っていませんでした。テレビは最初の揺れの一撃で転落・全壊してしまいました。ラジオは持っていませんでした。そのため、情報源は、ゆれの収まったときに恐る恐る開くインターネットと街の声、そして自分の実感だけでした。
Posted by 避難民 at 2012年05月13日 02:06
先日、数年ぶりに会ってゆっくり話が出来た友人が、やはり「放射脳」だと知って喜しかったんですが、周りは「気にしない」「知ろうとしない」人が多くて・・・と言う嘆きも同じでした。
で、私も好奇心にそそられて、その友人に「なぜ、放射能の危険性に敏感に反応出来たと思うか」と聞いた所、以前に広瀬隆さんの「危険な話」を読んでいて、原発の危険性を知っていたと答えてくれました。
私は・・? 日本の高度成長期に育って、公害やその裁判の話を常に耳にしていた、宇井純氏の本を読んだり、彼の「公害原論」の講義を東大に聞きに行ったりしてた、常に政府や官僚、(御用)学者、大企業に不信感を持っていた、大人になってからだが「はだしのゲン」を読んでいた、etc.
でも、これだけでは、何故数多い本の中から、彼女が「危険な話」を選んで読んだのか、私が「公害原論」や「はだしのゲン」を読んだのか、は説明出来ませんね。
院長先生のブログも、その他のたくさんのインターネットの放射能の危険性を訴える情報も、「気にしない」人達は読もうともしないでしょう。この差は、ホントにどこから来るのでしょうね。
ただひとつだけ、言える事があります。
私はアメリカ在住なので、新型(豚)インフルエンザ騒動の時に、日本のドタバタを恐怖感さえ覚えながら、見ていた記憶があります。この件では、アメリカの政府関係機関もマスコミも、非常に冷静でした。危険性は普通のインフルエンザと同じ位、ただ普通のインフルエンザ自体が、危険な病気だから注意をしなければいけない、というスタンスでしたので、国民にも不必要なパニックはほとんどありませんでした。日本では政府が大騒ぎして、マスコミが、今もそうですけど、大本営発表垂れ流し、独自の調査も知見もなしで、さらに国民の恐怖を煽りました。
マスコミは、患者の「魔女狩り」もしていましたよね。騒動初期に罹った高校生とその学校は、「なぜ、この時期に海外に行かせたのだ!」的なつるし上げに遭っていました。マスクは、売り切れになりました。海外在住組は、日本への一時帰国を、近所が怖いからと実家に断られたと言う話もありました。
これらのことは、日本人が基本的に「のん気」なのではなく、政府が「大騒ぎ」して、マスコミが乗れば、大多数の人々も、危機感を持つようになる、と言う証拠だと思います。(不必要な、科学的でない差別的な言動は困りますけどね。)
残念ながら、今の状況では政府は「大騒ぎ」してくれそうもないですし、当然マスコミもそれに右へならへですから、「知っている」私達が、一人でも多くに知らせる努力をしなければならないわけですが。「知ろうとしない」のが家族だったりすると、苦労も多いでしょう。
あ、今、思いつきました。「のん気」な人達の多くは、お上の言うことは常に正しい、マスコミはいつも正しく必要な情報を知らせてくれている、と信じている人が多いのではないでしょうか。だから、自分で積極的に何かを調べる必要はなく、与えられた情報だけで充分と思っている。そして、このブログに来る人達は、そんな信頼感を持っていない。自分で学ばなければ、知らなければ、他人頼りでは、安心して生きられないと思っている人達なのではないでしょうか。
5年後、10年後、30年後に、社会や歴史家が今の日本の、「教えない・知らせない・わからせない」状況にどう評価を下すのか興味がありますが、少なくとも「自分は知ってたけど、何もしなかった」と言わずに済むように、出来る事をしたいと思います。30年後に、まだ住める環境の日本が、存続していることを願って。
Posted by あじさい at 2012年05月13日 03:58
小学生の頃、「原発ジプシー」を読んでいたからです。書評で取り上げられていて興味を持ち、図書館で借りました。
それ以前には、太平洋戦争の本(庶民や、兵隊の記録)を読み漁っていた(学校図書館の戦争物は全部読んだ)ため、日本政府の卑劣さを十分知り、反感を持ってました。はだしのゲンも小学校図書館にありました。
小学生の頃から政府を信用せず、原発は危険だと思う素地ができてました。
Posted by 同年代です at 2012年05月13日 04:17
放射能が怖いと思った最初は、高校生の時におきたチェルノブイリ事故でした。
http://www.usio.co.jp/html/paetone/index.html
http://blog.goo.ne.jp/mcsammy/e/5e01ae564d6ca61d653522c44a4fd47c
http://www.amazon.co.jp/dp/4893930575/?tag=hatena_st1-22&ascsubtag=d-737v
ちょうどマンガ大好き時代だったので、たくさんの原発関連マンガと、岩波新書のチェルノブイリ事故関連本を貪るように読みました。
その時の感覚で、怖いと本当に思いました。
今も怖いと思いますが、水、食べ物には気をつけていますが
抜本的な移住ができず、日々悩んでいます
http://isinokai.blogspot.jp/2012/05/25who-2-1.html
Posted by 翠 at 2012年05月13日 06:03
福岡県ですが、小学校の修学旅行で行った広島だと思います。それから毎年夏休み中の終戦日近辺に学校に行き、戦争の悲惨さについて教わりました。映画を見ることが多かった記憶があります。
今考えると、あの時の積み重ねだと思います。尊敬する大人から伝えられる真実を、子供は忘れません。
Posted by 2児母 at 2012年05月13日 06:27
私は放射能についてほとんど知識はありませんでしたが、フランスの政府関係の仕事をしている友人の電話で「明日政府専用機が出る」と聞いて反射的に千葉を出ました。何故放射能を恐れたのかは、チェルノブイリの事故当時の日本での騒ぎに影響されていると思います。輸入食品が汚染されている、日本での被曝対策にワカメうどんを「チェルノブイリうどん」として売り出した、等こんなに遠く離れた場所で騒ぎ過ぎと思っていたのが、震災後は逆にこんなに近くで事故があったのにあまりにも騒がない、食べて応援のキャンペーンに恐しさを感じました。また放射線の影響を受ける仕事をしていた複数の知り合いにたまたま自身が不妊、子供が小児がんといったことが見られたこともあり、避難を決断しました。感覚的なところで判断していますが、核先進国が自国民救済に乗り出す、それだけで放射能の恐ろしさを知るに十分でした。
Posted by しぶがき at 2012年05月13日 07:31
熊本出身の私の修学旅行は、小学校が長崎 中学校が広島でした。もう40年以上前に見た長崎の写真や被爆した方の詩が目に焼き付いています。今は 佐賀県に住みプルサーマル反対の署名運動にも協力しました。あの爆発をテレビで見て もう胸騒ぎが凄くて 東京に居る娘と愛知の娘家族の為に 情報収集をインターネットでしてました。
娘は東京から福岡勤務になり、愛知の娘家族には食材全てを送っています。
Posted by miyamoto at 2012年05月13日 07:49
いつも情報をいただいており感謝申し上げます。
以前移住の相談をさせていただいた新潟市民です。
先日、地物のきゅうりが巨大化しているのが販売されていて、新潟も心配だとの声を聞かぬようにしてきた不安が再び沸き起っております。かといって移住は。。。
今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。
ご活動心より感謝とご尊敬を申し上げております。
Posted by 佐藤ゆき at 2012年05月13日 08:41
私が放射能の存在に気付いたのは、随分経ってからなので、ひとより早くではないですが・・・。
去年の初夏ごろからか、変異や奇形した昆虫を見ているから、いくらぼーっとしている私でも、気付かない訳にはいきません。まさかこんなに早く?と思って、写真を撮らなかったのが悔やまれます。
植物も、一季咲きのはずの山野草が、年中咲いていたり、もっと酷い奇形が見られるようになったのは、ご存じの通りです。
鳥はもっと早く、みるみる居なくなりました。原発事故の前までは、この時期ウチの近くには、「あいつら全部に団結して襲われたら絶対死ぬな」と、冗談ではなく思うほどの数のスズメが、素晴らしい活力を放って生きていた。
少なくとも、自然を相手に暮らしている人の中に、この違いが判らぬということは考えられません。
そういう人が「判らない」と言ったとしたら、明らかに故意です。
Posted by しろがねどり at 2012年05月13日 09:07
私の場合は、『放射能で首都圏消滅』を読んでいたからです。
読んでいるうちにあまりに怖くなって、周囲にも絶対読むように勧めましたが、全く相手にされませんでした。結局、本の通りのことが福島で起きてしまいました。
もっとさかのぼると、私の原点はたまたま読んだ船瀬俊介さんの著書です。
合成洗剤や化粧品のまやかし、「産・官・学の癒着」(薬害エイズの原因)を知って、目から鱗が落ちる思いでした。それでテレビや雑誌の洗脳から解けたのです。
それ以来、スポンサーがついている組織の言うことや、常識と思わされていることを疑う癖がつきました。(花王もライオンも資生堂もコーセーもインチキばかりですね)
私が『放射能で首都圏消滅』を信頼したのは「食品と暮らしの安全基金」で出している本だからです。スポンサーなどなく、会員からの会費で運営されている団体だからこそ、発言に信頼がおけます。
でも、みんなに同じように期待するのは無理かもしれません。放射能の怖さは分かっている人でも、普通に合成洗剤(と同じ成分で)頭を洗ったり顔に塗りたくったりしてる人は多いんじゃないかな。合成洗剤の出発点はナチスの毒ガスだなんて、誰も教えてくれないですから。
これも突き詰めると、原発推進と構図が一緒ですね。
Posted by doranyago at 2012年05月13日 10:21
いつもありがとうございます。
子供の頃、スーパーファミコンで「シムシティ」というゲームで遊んでしました。
市長になって、街づくりをするゲームですが、時々、町を災害が襲います。
数ある、災害の中でも最悪なのが「原発のメルトダウン」
原子発電所が爆発。周囲が汚染され、人が住めなくなり(発展しないです)、どうしようもなくなります。
この時の感覚が、生きたのかもしれません。
Posted by nakai at 2012年05月13日 10:22
冷戦時代に青春時代を過ごした事。
その頃、SF小説やPS小説、その手のアニメ・特撮物にハマっていた事。
同時期、今よりははるかに良心的だったNHK製作のドキュメンタリーを良く見ていたこと。
いわゆるミリタリーヲタクだった事。
その癖、政治的思想や歴史観がどちらかといえば左寄りだった事。
これらが今の私を形成したと思っております。
Posted by 新潟県民 at 2012年05月13日 10:28
3.11の後、テレビで民法各社が同じような報道ばかりが続いていたため、CNNを視聴してみた。
これまでずっと見ていた日本の報道内容と大差ないはずと思っていたところ、早くから聞いたこともない単語「メルトダウン」してるはず。とか、福島は壮大な人体実験が始まった。とか、ぞっとする内容が流れていて、その後、日本の報道とCNNの内容の差に気づき、自分から疑問を感じるところに対し、別の角度から探っていった結果、素直に、引っ越そう。と決めることになった。
別の角度から探っていった結果、政府も大手新聞も、民放のテレビも、NHKも、行政も、学校も、大手スーパーも、JRも、信じられなくなってしまった。絶対的に信頼を寄せていたものに、不信感を持つことが、本当に悲しい。
それでも引越を決める事に、転職をすすめることになんの抵抗もないほどの、危機感を抱いた。
Posted by ロンロン at 2012年05月13日 10:43
はじめまして。
いつも詳細な情報をご提供いただきありがとうございます。
私は高校の頃に物理学に興味を持ち、大学では理論物理学を専攻しました。
理論物理学の中には、原子核反応の学問もありますが
そこでは放射能の話はあまり大きく取り上げられません。
しかし、わたしはそこから原爆、水爆に興味を広げて書物を読みあさりました。
そもそも、物理に興味を持った高校生の頃(チェルノブイリ事故以前)から
原発が安全だなどどは信じていませんでした。
不安定な状態で制御しているのだから、小さな事故で何かきっかけがあれば
大事故につながるのは当然と思っていました。
その小さな事故を起こさないために、原発の職員はがんばっているのだと
高校生の私は漠然と考えていたものですが、
事実はそうではなかったと。
小さな事故は日常茶飯事に起こっていたということですね。
高校の物理の教科書にも、最後の章に、ほんの申し訳程度に
原子核反応についての記載がありましたが
大学受験に忙しい高校生は、そんな最後の章の、しかも入試の出題率の低い分野は
勉強する気にならないでしょう。
一方、受験しない高校生は、教科書の最後の章まで行かずに高校生活が終わってしまう
のではないでしょうか?
原子核反応を教科書の最後に持ってきているのは
何か作為を感じてしまうのは私だけでしょうか?
Posted by yamaguchi at 2012年05月13日 11:01
院長先生、いつも情報ありがとうございます。私はアメリカに4年おりますが、311の時から1年あまり、常に日本にいる家族には放射能の恐ろしさについて警鐘を鳴らしてきました。友人たちには、ほとんどが「放射能?気にするほどじゃないよ」と脳天気ですので、もう何も言う気は失せましたが。
さて、私が反核・反原発・「放射脳」である理由は、小4で広島を訪れて原爆資料館を見学したことと、小学生のときに読んだ「はだしのゲン」と中学生のときに読んだ広瀬隆さんの「東京に原発を」によるものが大きいです。核の恐ろしさ、原発の恐ろしさがしっかりと胸に刻みこまれました。
Posted by モル at 2012年05月13日 11:09
小野先生、日々貴重な情報を掲載していただき、また講演会など精力的な活動に感謝しております。
漫画はほとんど読んでいなかったのですが、このような正確な情報が含まれていたのですね。私はたまたま広瀬隆氏の「億万長者はハリウッドを殺す」で、現代社会を動かす巨大な利権の存在を、原発関係の氏の著作から、原発の恐ろしさを知りました。何かあれば、巨大な利権が隠蔽に動くことも。そのため、周囲にはあきれられましたが、311直後に関東から避難しました。
現在九州におりますが、自治体に抗議したり、チラシを作ったりしていますが、周囲の人はほとんどが、原発事故や瓦礫問題は聞きたくないか、無関心です。関東の友人には、情報を集めて覚悟を決めて暮らしている人も少数いますが、その他の友人たちには原発の話はできません。不安になる話は、最初から受けつけないからです。福島だけでも28万人の子供が暮らしていると思うと、気持ばかりあせります・・・
Posted by がじゅまる at 2012年05月13日 11:20
私の場合は、海外にいたため、日本のテレビや新聞を読んでいなかったことと、海外のニュースを見ていたことで、きちんと現状を把握することが出来た。
また、東電の英語の発表と日本語の発表の内容が違うこと(報道陣の質問の内容等含め)おかしいことが一目瞭然であった。
それから、人生において一度離婚という大きな失敗をしたことが私にとっては今回の大きなポイントではないかと思う。
失敗した理由として、自分で余り物を考えず、相手の言ったことを鵜呑みにして結婚。その大きな失敗の後、自分で色々考えるようになってきたこと、再婚した相手が、自分で物を考えることを大事にしているため、さらに、日常的に物を考える習慣がついた。
最後に、我が子供たちはイギリス系のインターナショナルの学校にいっているが、5歳のわが子の宿題は、例えば、「植物が育つ過程の絵を書きましょう。」や、「始まり、真ん中、終わりの3つに分けて構成を考えた後に、物語を作りましょう」というように、考える宿題ばかりでこの年齢でこんな宿題!というものばかり。私がこのくらいの時は枠からはみ出さないように一生懸命ひらがなを練習した記憶しかありません。日本人は特に、教育課程で、論理的に物を考える力がついてないことが原因ではないかと思った。
Posted by 子育てママ at 2012年05月13日 11:36
神奈川県から九州へ移住しました。
チェルノブイリ原発事故のとき私は子供でしたが、母が当時ヨーロッパからの輸入食材を警戒し、イタリア製のスパゲッティ、オランダ産やフランス産のチーズ、スイスやドイツ製チョコレートなど乳製品を避けていた姿が今回まず思い出されました。なので、福島事故に際してはこの逆をしなければならない(=国産を警戒する)ことはすぐに理解できました。
あと私はかなりの映画好きで、本橋成一監督「ナージャの村」「アレクセイと泉」などの作品やトークショーを通してチェルノブイリ事故のもたらした現実を知る機会があったこと、また山形ドキュメンタリー映画祭等で上映されていた「六ヶ所村ラプソディー」で青森の現実について知る機会があったことぐらいが、私が放射能の危険性について事故前に考えるきっかけになったほとんど唯一の機会だったかもしれません。
しかしこれが大きかったのです。私の周りを見ていても、たぶんこういう経験のあるなしが避難行動に出る出ないを分けているという気がしますから。
しかし今回のような大きな事故では、何か見えない力が働いて、としか言えないような部分もありますね。最後に後押ししてくれたのは天国の母と父でしょうか。祖父母とかそういう存在のエネルギーを感じることができなかったら私も動けなかったかもしれません。過去と未来への大きな責任を背負っているような感覚です。
Posted by elisabethkirche@hotmail.co.jp at 2012年05月13日 11:42
いつもお話しありがとうございます。学んだ放射能の危険が周りに、肉親にも伝わらないことに焦りと絶望も覚えております。
私の危険性の認識のきっかけは、はだしのゲンでなく、京大の小出先生の同僚だった故瀬尾健さんの「原発事故‐その時あなたは?」という本でした。
はだしのゲンは小学生の頃から兄弟で愛読していましたが、内部被曝に思いが至りませんでした。原爆と原発は別物と思い込んでしまいました。漫画にも入市被曝もぶらぶら病も出てますのに。
その後、成人して週刊金曜日の購読者になりました。広瀬隆さん、高木仁三郎さんなどの寄稿を読んでる中、書評で「原発事故」が取り上げられて読んだところ、過酷事故の場合、とんでもない範囲で癌死が出るということを知った次第です。
放射能の危険性が伝わらないことを改めて考えると、自分も既に十数年も前に危険性を認識しながら生活に忙しいと核反対の具体的行動をしてきませんでした。福島の事故が起こって、少しは、というところです。周りを責められたものではないですね。
Posted by BY at 2012年05月13日 12:00
ゴルゴ13にとても引き込まれました。やはり作品の吸引力がすごいです。
放射能や戦争の怖さを教えてくれたもの・・・
小学校での原爆写真パネル展/広島原爆の絵本/火暮るの墓/月の子(少女マンガ)/猿の惑星/夢(黒澤明)/教科書掲載の「ラッキー・ドラゴン」/チェルノブイリ由来白血病の子供達の日本ホームステイ特集地方番組/はだしのゲン/黒い雨(井伏鱒二)/野火(大岡昇平)/白痴(坂口安吾)
※ラッキードラゴン・・・ベン・シャーンの第五福竜丸を題材にした絵画
http://www.nikkei.com/life/review/article/g=96958A9C93819497E2E7E2E3E38DE2E4E2E6E0E2E3E0E2E2E2E2E2E2;p=9694E0E5E2EBE0E2E3E3E6E1E4E0
問題は原爆写真パネルや夢、猿の惑星などは多くの人が目にしているという事です。
しかし放射能危険派はまだ少数な現状です。不可思議です。
私は幼少から色々な想像が止まらなく、戦場に自分の身が置かれたらどうしようなどと寝る前に考える子供でした。そのため放射能も怖くて仕方ありません。
タイプによって有効な説得法が違うのでしょうか。
私は今の酷い政府の対応に怒りと反発心が湧いてきますが、
母は「情報を知ったってしょうがない、自分では何も出来ないし何も変えられない。政府に従うしかない。運命として受け入れるしかない。」といいます。
普段から怒りが湧かず脅しに弱いタイプで、今まで何度も騙されています。
こういうタイプの人が、どのように放射能危険論を受け入れてくれるのか日々悩みます。
親はテレビへの信頼度が高いです。ゲームや漫画に触れた私の世代と違い、真のテレビっ子は団塊の親だと感じます。
目には目をで、信頼の高いテレビにて放射能の危険を訴えている動画をiPadで見せようと考えています。
NHKの「低線量被ばく 揺らぐ国際基準」にしようと思っています。
Posted by マミ at 2012年05月13日 12:31
私の場合、今回の事故が起きるまで
原発や核兵器にはあまり関心がありませんでした。
ただ私は子供の頃からアトピー体質で、
これが人格形成に多大な影響を及ぼしてきたと思います。
雑誌やテレビで宣伝している化粧品やシャンプーは使えませんし、
安いお店の揚げ物やコンビニ弁当を食べると目まいと頭痛に見舞われます。
去年は頂き物の千葉産の魚を食べて背中一面に蕁麻疹が出ました。
(九州産として売っていたらしいです)
去年から今年にかけて
放射能被害に関する本を読み少し勉強しましたが、
基本的には自分の体が教えてくれる事がすべてです。
こういう体質は不便ですが、
情報が錯綜する時にも迷う必要がないという点では
幸運なのかもしれません。
Posted by ゆうり at 2012年05月13日 12:38
はじめまして。若い頃、市川定夫教授の本を出版する会社に勤めていました。微量の放射線がムラサキツユクサに与える影響について書かれていました。「廃炉」という言葉を知ったのも、その頃からです。豚インフル、BSE、ダイオキシンなどとは比べものにならないほどの恐怖を感じています。
Posted by ワミコ at 2012年05月13日 13:04
私の子供の頃は、毎年8月になると、テレビで広島・長崎の被爆者の映像が一日中流れていました。
また核実験の頃は、「雨にぬれると禿げる。」と子供同士で言い合っていました。
やはり映像、写真など視覚に訴えるものは深くに残ります。
もう1つは、実際自分に起こっていることに繊細になったこと。
おできがよくでき、治りにくくなった。
外食すると皮膚にプツプツできるようになった。
外出時、また、北の物品を買ったり、送られてきた時、喉がいがらくなったりくしゃみが出ること。
自分の身体に気をつけるようになり、だんだん体感として汚染が分かってきました。
Posted by 西の風 at 2012年05月13日 13:20
決定的だったこと。
震災当日 大阪の自宅は揺れなかったので、それから数日間テレビにかじりつく余裕がありました。どの放送局の学者も、「メルトダウンはありえない、格納容器は健全。建屋はあまり意味のない箱です」と言っていたが、次々と爆発。
爆発してもなお、「爆発的事象」といい、首をかしげながら「それでも格納容器は健全です」とコメントする場面で、テレビを切った。失望した。
それで、テレビも新聞もやめて、ネット検索した。できるだけ危険を訴える情報を探して、放射能防護プロジェクト、SAVE CHILDなど、などを見つけた次第。
こちらの院長のブログは、飛行機の危険(上空の放射能)を感じて検索をかけたら、行き着きました。
Posted by 大阪在住 at 2012年05月13日 13:43
小野先生、はじめまして。いつもブログ拝見させていただいてます。
私は子ども2人を連れて、主人の実家のある京都に今年三月に避難してきました。
私の場合、放射能の危険に気付いたのは四月頃。母乳からセシウムの報道がされてから、私も粉ミルクに切り替えようと思い、メーカーに問い合わせた結果に非常に疑問が残り、そこから自分で調べるようになりました。当時一歳の娘のおかげかと考えてます。
昨日宇治市の病院に子供の血液検査と心電図を診てもらうため
行ってきました。最初から何でこんな検査するの?と怪訝な顔で言われましたが、息子の口内炎、口角炎が通院しても治らず、給食を止めて完治したことを話し、夜中に溢れ出る鼻血の話をしたらようやく画面に向かって検査の手配をしてくれました。この辺では1番大きく信頼されてる病院だったのと、最後に先生自ら被曝についてこう思う、と話をしてくれて、勇気を出して行ってよかったと思いました。心電図は異常なく、小野先生の尿検査も異常はなかったです。が、三月の事故の日、何も知識なく川崎に住んでいて学校に薄いマスク一枚で行かせてしまったこと、しばらくはテレビの情報を鵜呑みにしていたこと。後悔してます。今後も検査はしていこうと考えてます。
Posted by りょうもも at 2012年05月13日 14:08
政府の戦時中の被爆者への対応、公害訴訟での姿勢を知っていれば、もともと政府のいうことを鵜呑みにはできるはずもありません。
ですので、自力で資料を集めて比較検討してみれば、3・11までは年間1ミリという法律が厳然と守られてきていたこと、低線量被曝の影響がわかっていないこと、その2点ははっきりしています。
これだけわかっていれば、自分には関東でたいせつな子供を育て続けることは、できませんでした。
強いて挙げれば「闘病」というもののつらさ(本人にも、周囲にも、精神的にも、経済的にも)を知っていることが、強力に後押ししてくれた気がします。「ちょっと体調が悪い」だけで、社会で自立して生きていくことは大変なことです。そんな目にはわが子を遭わせたくないです。もちろん、日本中の子がそんな目に遭ってほしくないのですけれど・・・・・・・
Posted by ろーむ at 2012年05月13日 14:14
福島県在住の私は、日々放射線の恐怖を抱えています。
原発事故以前から、放射性物質が人知を超えた怖いものだと強く感じていたのは、隣県の東海村JCO臨界事故の犠牲者大内さんの闘病記録を見たからです。彼の壮絶な死を決して無駄にしてはいけません。人間は核を制御出来ると本当に思っている人がいるのだとしたら、何と傲慢なことでしょう。
後の時代に私たちは負以外の何物でもない遺産を残してしまっているのです。
Posted by mio at 2012年05月13日 14:29
埼玉から、熊本に夫婦で移住してきたものです。
ブログや院内勉強会での貴重なお話、ありがとうございます。
僕が放射能の危険性を知ることが出来たものは、漫画の「はだしのゲン」、アニメの「風が吹くとき」、スーパーファミコンの「シムシティ」のメルトダウンシナリオ、です。全部子供の頃に読んだり観たりしたものです。
福島の原発事故後、事態の深刻さを共有出来る友人の1人から、今回のブログにある「ゴルゴ13」の話も聞きました。
それでも、移住を決断するのに1年近くかかってしまいました。夫婦揃って、体調の異変が多発してようやくでした。
これからも多くの人達が、ジワジワと被害が広がりながらも、何事も無いように過ごして行くのだろうと、自分の体験を振り返り、そう思ってしまいます。
Posted by たくモン at 2012年05月13日 15:15
私の場合は、潜在的には「はだしのゲン」と修学旅行で行った広島の「原爆資料館」ですが、直接的には、10年程前に週刊誌で「チェルノブイリのその後」みたいな企画の記事がありまして、その中に「奇形」の子供の写真が沢山ありました。やはり映像には言葉にないインパクトがあります。
この経験から言うと、衝撃的な写真や映像をもっと前面にだした方が大衆には理解しよすいと思います。
イヤラシイようですが、わたしは理性的、論理的な説明には限界があると痛感しています。
勿論、爆発した翌日には、東京に住んでいた子供をつれて関西に引き上げました。
Posted by まつもと at 2012年05月13日 16:06
原発というものの危険性を知ったのは25年前、現在25歳の娘が生後6ヶ月のときの事です。チェルノブイリ事故が起き、新聞で毎日のように事故の詳細が報道されていました。
乳児にあたえる粉ミルクも汚染の可能性があることを知り、情報を得る為手に取ったのが広瀬隆氏の「東京に原発を」でした。初めて知った原発の実態にじっとしていられず、友人にも本を回覧をして読んでもらいました。その後十数年たちイラク戦争でアメリカが劣化ウラン兵器を使ったこと、イラクの子供、戦場の兵士が次つぎと被爆したことを知りました。7年ほど前に初めて広島の原爆記念館を訪ね、廃墟と化した広島の街の写真を見て、これまで自分自身が本当の広島の被害を理解していなかったと思いいたりました。
3月14日成田空港でのこと、水素爆発のニュースをみていた数人の作業着姿の男性たちが、「これ、やばいよ」とぼそぼそと話しているのを耳にし、今から思うと彼らは関係者の方たちだったのかなと。丁度同じときTVからは「直ちには影響ありません」と流れており、そのことが事故と同じ位不気味に感じられました。1537
Posted by ハワイ在住 ダヤン at 2012年05月13日 16:08
海外在住です。7年ほど前に、ネットで偶然、原発技術者の平井憲夫さんの講演記録を見つけました。実は、原発は、神戸で倒れた高速道路と同様に、地震には弱いこと、いかに原発現場で人為的ミスが見過ごされているか、被曝労働者が見捨てられていること、原発社会に将来はないことなど。これを読んで、一見平和で奢れるこの世は狂っているのだと思い知らされました。海外から、津波の映像を見ているとき、フクシマと言う名前を聞き、もう地球は駄目だ思いました。
更に、こと放射能の障害に関しては、政治の力で、隠蔽されてきています。戦争で使う劣化ウランや、核実験で犠牲にあっても、認められてきていません。チェルノブイリを経験したロシア、ウクライナの知人も、事故後に、家族が病気で苦しんでいる話をしてくれます。
Posted by 黒猫 at 2012年05月13日 16:31
原子力技術者であり、お医者様でもある専門家としてのご意見をいつもありがとうございます。 私ども家族は、三号機の爆発映像を見たことがきっかけとなり東京から熊本県に避難してまいりました。 爆発による最悪のシナリオを想定する材料となったのが、娘がスイスに留学していた際に購入した「スイス民間防衛マニュアル」でした。核攻撃に対する対策、飲料水、食料に関する注意、武力を伴わない戦争についてなど大変参考になっております。 また、私自身が末端神経障害の難病患者であることで、健康な子供たちの将来を考え、避難が最優先課題であると判断できました。私には、関東在住の姉妹家族が居る為、繰り返し放射能の危険を知らせているのですが伝えきれずに今もおります。姉妹といえどもそれぞれの家族の考え方の違いがあり、日頃より真理を追究する癖のついている主人の行動力に感謝しております。
Posted by 3kidsママ at 2012年05月13日 17:23
千葉県から沖縄に母子避難した者です。
私は広島市内で育ちました。小学生だった1970年代、8月が近づくと被爆経験者の方が学校にやってきて怖い話をするのがイヤでした。
けれど今は「放射能は見えないけど怖い。遺伝子をズタズタにするんです」と教えてくださった方に感謝しています。
20年以上前ですが、近くで水爆実験が行われた島の様子がテレビで放映されました。何気なく画面を見ていた私は凍りつきました。島の子供は笑顔いっぱいなのだけれど、手がなかったり足がなかったり。五体満足な子がいないのです。
東海地震の予想震源地あたりに原発があることに気づかされたのは大学の通信教育のサマースクールでした。2002年です。ひとたび事故になれば300キロ圏内には人が住めなくなると。
慶応大学の藤田祐幸先生(今は退官されていますが)が続けてこられた活動にも感謝です。
小野先生にも感謝しています。論理的かつ理解しやすいブログのおかげで、正気を保てています。実名で活動されることは大変だと存じますが、心より応援しています。
友人知人には危険を訴えましたが誰にも相手にされず、身近な子供たちが被曝し続けていることが悪夢のようです。
Posted by ホアンホアン at 2012年05月13日 18:33
西日本に住む50歳代の男性です。
昨年の3月12日は昼のニュースで原発の事故を知り、東京の大学に通う子供にすぐに帰省するように連絡したため、爆発したときには新幹線の車中でした。
50年以上を生き、多くの書物を読んできたので直感的に原発事故の恐ろしさは知っていました。
先生のブログは毎日拝見しています。
私には3人の娘がいますが、放射能の影響は今後数十年以上続くこと、少しでも被爆を減らす方法等を折に触れ説明しています。
論理的な先生のブログは、子供に説明するときに非常に役に立ちます。
今後ともよろしくお願いします。
Posted by カマクラ at 2012年05月13日 20:10
小学生の夏休み、原爆投下日に登校、黙とう、話し合いしていました。日にちは忘れました。修学旅行で、長崎の原爆資料館に行きました。
見学終了後、男子も女子も、何人か泣いていました。
中学か高校の時、外国のアニメ観賞会がありました。内容は、近所に原爆が落とされた夫婦が、死ぬ間際に放射能に気づく。麻袋に駆け込ん
でDeadend。でした。教室に戻り、先生「感想ある人」生徒「シーン」。凹む映画でした。
安全厨か危険厨かの違いは、放射能の怖さを、身近に感じられるかどうか、と思います。人間が人間でなくなって、ヒバクシャ差別始まる頃
には、安全厨も気づいてくれると思う。本当に悲しいです。
Posted by 福岡出身です at 2012年05月13日 20:14
私は、広島出身の祖母がいて(本人は原爆の一週間前に東京に戻って来たそうです)、小さいころから”雨にぬれるな〜放射能が入ってるから禿げる”と言われて育ちました。
チェルノの事故の時、事故の様子を撮影しにヘリで入った人が3日後に亡くなったというのを聞いて、その頃から原発の本を読むようになりました。しかし日々の忙しさに、頭から薄れていましたが単純に皆原発嫌だよね?怖いよねと思っていたのですが、3.11後これだけ、皆が恐れないのが不思議でたまりません。
Posted by manami at 2012年05月13日 20:24
父は広島の尾道出身です。30数年前の小学校6年生のとき、広島の原爆記念館に行ったことで、放射能のと恐ろしさを心に刻みつけました。その頃の展示は今とは異なります。アメリカ軍の行為に正当性はないと子供ながら強く憤りました。
父は関東に移りましたが、父の兄は50台で胃がん、姉は60代で食道がんになりました。原発事故後、広島周辺の瀬戸内海の放射線量は高かったことを知りました。伯父も伯母も野菜は好まず、魚が好物でした。
低線量の放射線の被曝の恐ろしさはイラクの劣化ウラン弾による被害のひどさをDVDなどで見たからです。
小野先生のDVD購入させていただきました。
「はだしのゲン」の映画があること、初めて知りました。きちんと見てみたいです。
Posted by khad at 2012年05月13日 21:04
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私がここで紹介したケアンズの領事館との通訳を務めた、私のブログ読者の男性も、小学生のときに広島の資料館を見て、チェルノブイリ事故が起きたときに「これはヤバイ」と悟って豪州に移住なさったとおっしゃっていました。
やはり小さいうちから何かしらの情報があることは重要な鍵とも思うし、
かといってそれらの情報を与えられた側がすべて同じように反応したとは言い難い。
政府、メディアの洗脳に負けない「疑問を持つ」&「自分で考える」ことのできる人々が、恐怖を拒絶するのではなく、直視して対処する行動に出られるのではないかと思います。
しかし何が「疑問を持つ」&「自分で考える」ことのできる人々とそうでない人々を作り出しているのか? となると...皆さんはどう思われますか?
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