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男性が壁のベニヤ板に書いた遺書。感謝、絶望、謝罪の気持ちを表す言葉が書き連ねられている=7日、相馬市玉野
追い込まれた命−福島第1原発事故(中)酪農の道断たれ無念
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1090/20120510_08.htm
2012年05月10日 河北新報
◎牛舎の壁に「仕事する気力なくしました」
牛舎の壁のベニヤ板は普段、飼育作業の備忘録代わりに使っていた。チョークで牛の状態や出産予定日を書き留める。
昨年6月10日。板は遺書になった。
「姉ちゃんには長い間おせわになりました 私の現界をこしました 6/10 pm1.30 大工さんに保険金で支払って下さい」
姉(59)へのお礼で始まる。限界の「限」の字を誤って書いたのに気付き、その上に線をぐしゃぐしゃと書いている。自分を捨て石にして得る生命保険金で工賃の未払いを帳消しにしようとしている。
「原発さえなければと思います 残った酪農家は原発にまけないで頑張って下さい 先立つ不幸を 仕事をする気力をなくしました」
一番後の文は線で四角く囲まれている。精根尽き果てた心情を強調したかったのだろうか。
「ごめんなさい なにもできない父親でした 仏様の両親にももうしわけございません」
遺書は妻子と亡き親へのおわびで結んでいる。
この遺書を書いたのは、相馬市玉野の酪農家の男性。堆肥小屋で首をつった。54歳だった。
50頭の乳牛を飼っていた。福島第1原発事故直後の昨年3月20日、福島県内の牛の乳から基準値を超す放射性セシウムが出て、全域で原乳が出荷停止になった。
牛は健康を保つために毎日搾乳しなければならない。出荷の見込みのない乳を搾り、捨てた。牧場そばの小川は白く染まった。
そのころ、相馬市の避難所に身を寄せていた姉を訪ねている。
「牛乳は捨てるしかないが、餌は与えなければならない。牛が一度痩せたら元に戻すのに5年も10年もかかる。そうなったら殺すのと同然だ」
そう言い残して牧場に戻った。それが姉との最後の対面だった。
飼育費は月約100万円。手元の金は底を突いた。
妻は30代のフィリピン人だ。十数年前に結婚した。原発事故1カ月後の4月中旬、小学1年の長男、幼稚園の次男を連れて帰国した。母国の政府から退避指示が出たという。
妻子との離別は気力をなえさせる決定打となった。5月上旬、牛を置き去りにして妻子に会いに行った。渡航期間は約2週間。その間、牛を放っておいたらどうなるかは酪農家なら誰でも分かる。
留守中、関係者が飼育放棄された牛を見かねて殺処分を始めた。男性が現地から帰った時は相当数が減っていた。処分は見切り発車で行ったが、男性は怒るふうでもなかった。
6月9日、最後の1頭が処分された。それを見届け、命を絶った。
男性の死後、姉は近所の人に声を掛けられた。
「弟さん、毎日泣きながら乳搾りをしてたよ」
弟は中学を出て家業を継いだ。うれしそうに牛の世話をしていた生前の姿が目に浮かぶ。
東京電力を裁判で訴えることを考えたが、子どもへの影響を気にして諦めた。
「賠償がもっと早かったら、こんな結果にならなかった」
8月、県内の酪農家が賠償の対象になることが決まった。男性が亡くなって2カ月がたっていた。
(桐生薫子)
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