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仏壇で鐘を鳴らす幹夫さん。避難区域の指定は解けないが、はま子さんの遺影を見るため頻繁に自宅に戻る=6日、福島県川俣町山木屋
追い込まれた命−福島第1原発事故(上)明るかった妻の絶望
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1090/20120509_05.htm
2012年05月09日 河北新報
福島第1原発事故で自殺者を生んだ東京電力の責任が初めて法廷で問われる。避難生活の果てに命を絶った福島県川俣町山木屋の渡辺はま子さん=当時(58)=の夫幹夫さん(61)ら遺族が東電を相手に訴訟を起こす。原発事故で自殺したのははま子さんだけではない。複数の人が暮らしを破壊されて絶望し、人生に終止符を打った。それぞれの遺族が語る故人の無念からは原発事故の理不尽さが浮かび上がる。
◎一時帰宅の夜、つぶやいた「戻りたくない」
昨年7月1日早朝。幹夫さんは、はま子さんと一時帰宅し、1人で草刈りをしていた。山木屋地区は原発から約40キロ北西で計画的避難区域に指定されている。
丈の長い草の向こうで火柱が上がった。「古い布団でも燃やしているのかな」と気に留めなかった。
作業を終え、自宅に戻った。妻が見当たらない。嫌な予感がした。
はま子さんは自宅近くのごみ焼き場に倒れていた。衣服は焼け焦げ、煙がゆらめいている。火はまだくすぶっていた。ガソリンの臭いが鼻につく。そばに携行缶とライターが転がっていた。自宅から持ち出したようだ。
幹夫さんは言葉を失った。変わり果てた姿。119番して救急車を呼んだ。息絶えていたのは分かっていたが、そうしないと気が済まなかった。
一時帰宅は前日からで、避難先の福島市のアパートから車で来ていた。夕食時、はま子さんは「アパートに戻りたくない」とつぶやいた。幹夫さんは「ばかなこと言うんでねえ」と取り合わなかった。
深夜、幹夫さんが目を覚ますと、隣の布団ではま子さんが泣きじゃくっていた。幹夫さんの手をつかんで離さなかったという。夫の手を握ることはめったになく、「思い返せばそれがサインだったのかもしれない」と幹夫さんは悔やんでいる。
2人は結婚39年目。長男(37)、次男(36)と4人で暮らしていた。勤め先は夫妻とも町内の養鶏場。定年退職がなく、このまま働く気だった。
原発事故で避難し、福島市の親戚宅、福島県磐梯町の体育館を転々とした。福島市のアパートに落ち着いたのは事故3カ月後の昨年6月だった。
息子たちは仕事の都合で離れ、アパートでは幹夫さんと2人で生活した。隣人に気を使い、声を潜めて話した。食欲が落ちて体重が5キロ減り、睡眠障害にも陥った。
「家のローンがあと7年残っている」「子どもと離れて暮らさなければならず、近所との付き合いもなくなった」。繰り返し不安を口にし、ふさぎ込むようになった。このとき既にうつ病を発症していた可能性があるという。
はま子さんは野菜作りが好きだった。家庭菜園で実ったキュウリやナスが毎日食卓に並んだ。旅行に行っても野菜の状態を気に掛け、「早く家に帰ろう」と言っていた。
よくしゃべり、よく笑う。裏表のない性格で人の悪口が嫌い。社交的と評判で自殺とは無縁と思っていた。そんな妻が自ら命を絶った。
「そこまで追い詰められていたのかと思うとたまらなくなる。泣き寝入りはしない。女房と同じように苦しむ避難者や他の自死遺族のためにも声を上げようと思った」
幹夫さんは訴訟を弔いの場と考えている。
(野内貴史)
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