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【こちら特報部】「福島」元技術者 10年前の脱原発 2012/05/04(東京新聞)
http://ameblo.jp/heiwabokenosanbutsu/entry-11241280209.html
2012/05/04(東京新聞) :平和ボケの産物の大友涼介です。
原発は人間の手に負えるものではないのでは・・・。東京電力福島第一原発の元技術者木村俊雄さん(47)はこんな疑問を抱き2001年、東電を辞めた。10年後、その予測は現実のものとなった。今移転先の高知県で極力、電気を使わない生活を送りながら、自身の経験を基に原発の危険性に警鐘を鳴らし続ける。(上田千秋記者)
■避難先の高知でも自給自足
高知県土佐清水市。海岸沿いの集落にある築六十年以上の一軒家。窓から差し込む自然光だけの中で、木村さんは「福島第一の事故原因が解明できていないのに、どうして安全対策を立てられるのか。原発を再稼働させようとする政府の動きはおかしい」と語気を強めた。
東日本大震災が起きるまでは、福島第一原発から西へ十五キロ離れた福島県大熊町で、野菜の有機栽培などに取り組みながら自給自足を志した暮らしをしていた。大地震の発生直後に「メルトダウン(炉心溶融)までいくことはすぐにわかった」と言い、ほとんど着の身着のままで家族とともに自宅から避難した。
同県田村市の妻の実家などを転々とした末、趣味のサーフィンをしに何度か来たことがあり、知人もいた土佐清水市に居を構えた。
家の脇には二枚のソーラーパネル。風呂は薪で沸かす。近くの畑で栽培した野菜や果物を売るなどして現金収入を得る。「原発でできた電気を使うより、この生活の方がはるかに楽しい」
■毎月講習会 警鐘続ける
市民団体などが主催する講演会に月に二、三回呼ばれ、原発の危険性の他、自ら体感した東電の隠蔽体質を多くの人たちに伝えている。
木村さんと福島第一との縁は約四十年前に遡る。小学校三年生の時に、約三キロ離れた場所に母親と二人で引っ越してきた。1号機が稼働して間もない時期で、2〜4号機は建設中。多くの作業員らが集まり、母親が自宅で経営する民宿はほぼ毎日満室だった。
「一番活気がある時代でしたね。民宿のお客さんは東電や、日立とかメーカーの人が大半。原発も東電も身近な存在だった」と振り返る。
中学卒業後、東電が運営していた企業内学校「東電学園高等部」(東京都日野市 〇七年に廃校)の火力・原子力コースに進む。「免許や資格が取れ、少しだけでお金も貰える。ステータスがあるというか、かっこよく思えたんですよね」
■燃料集合体 配置を担当
三年間の教育期間を経て一九八三年に入社後、柏崎刈羽原発(新潟県)に配属され、1号機の試運転に携わる。福島第一原発には八九年に転属された。仕事は、効率良く発電するために燃料集合体の配置を考えること。
集合体は焼き固めたペレット状のウラン燃料をジルコニウム合金で被覆した約四メートルの燃料棒を等間隔で束ねたもの。原子炉に装填する際、集合体四体の間に十字型の制御棒を挿入し、稼働で発熱させたり抑えたりする。
「集合体は一体約三千万円と高価。長持ちさせればさせるほど会社は喜ぶ。豊富な経験と知識が求められるので、周りは尊敬の目で見てくれる。やりがいのある、面白い仕事だったですよ」
■東電誤魔化し耐え難く
そんな日々が続く中、徐々に仕事に違和感を覚えるようになった。「福島第一は古いし、六基もあるからしょっちゅう停止する。それなのに、少しでも稼働率を上げたい会社は調査もしないで、なんとかごまかそうとしていた」
あえて原因は追究せず、相手が疑問を挟み難いもっともらしい理由を考えて通商産業省(現経済産業省)に報告するだけ。運転日誌を都合よく書き換えるにも日常茶飯事だった。
「対外的には『安全、安心』とか『地域とともに』なんて言っているのに、やっていることは全然違う。こんな会社にいていいのかなと」
■国の修正は「てにをは」
通産省の対応にも疑問を感じていた。「もともと頭のいい人たちだし、勉強もしてるんだろうけど、実際に原発を動かしたことがないのは致命的ですよね。種類を提出しても、直されるのは『てにをは』ぐらい。技術に関することは分からないから、指摘できない。こちらが作った書類の表紙を『通商産業省』と書き換えていたこともあった」と打ち明ける。
■「津波が来たらどうなるか、みんなわかっていた」
学会や研究機関などに定期的に派遣され、集中的に学ぶ機会もたびたびあった。知識がつけばつくほど、原発に関する矛盾が膨らんでいく。
「プルトニウムは使い途がなくてたまる一方だし、そもそも使用済み核燃料はどうやって処分するんだって話ですよね。『やっぱり原発はダメだ、危険すぎる』という思いが日に日に強くなっていた」
九一年十月、決定的な出来事が起こる。1号機のタービン建屋の配管から冷却用の海水が漏れ、非常用ディーゼル発電機が使えなくなった。
「この程度で電源が失われるなら、大きな津波が来たらメルトダウンになるんじゃないか」。そう問い掛けた木村さんに、上司が返した答えはこうだった。「その通りだよ。でも、安全審査の中で津波とシビアアクシデント(過酷事故)を結びつけるのはタブーなんだ」
「膨大なお金と時間がかかるから対策なんて取っていられない。ということだったんでしょうね。この上司は、福島第一に来る前まで本社で安全審査を担当していた。一定規模の津波が来ればどうなるか、みんなわかっていたんです」
そんなことが重なって何年も思い悩んだ末の二〇〇一年、「周りは止めたけど、どうしても我慢できなくなった」と十八年間勤めた職を辞す。
その後、さまざまな仕事をして生計を立てていたとき、福島県内で自給自足をしていた夫婦と一緒に暮らす機会を得た。「電気なんかなくても生きていけるとわかったと同時に、自分の力で生活していくことがすごく楽しかった」と語る。
原発事故後、一時避難生活を余儀なくされ、土佐清水市の家を借りたのは昨年十月。以来、再び自然とともに生きる暮らしを始めた木村さん。
■「再稼働させない政治判断を」
「地震で壊れた部分は何か、津波で壊れた部分は何かを徹底的に掘り下げて分析するのが先。今の安全対策が意味をなさないことが分かっていないのは、国と電力会社だけ」と政府の姿勢に疑問を呈して、こう訴えた。
「いたる所に断層がある日本で、安全に原発を動かすのは不可能。原発を再稼働させるよりも、どうして政府は電力のピークをずらすことを考えないのか。それこそ政治判断でできる。みんなが少しずつ、できることをやっていけばいい」
※デスクメモ 連休に会津若松を訪ねた。道中、磐越西線の車窓から残雪の雄姿に心躍らせた。福島の大爆発といえば百二十四年前の明治の磐梯山噴火。十一集落が埋没し五百人弱が死んだ。裏磐梯の山体崩壊は痛々しいが、五色沼など美しい湖沼景観をつくった。今、原発の大爆発。後世に残すものを思うと気が重い。(呂デスク)
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