http://www.asyura2.com/12/genpatu21/msg/876.html
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「ニューズウィーク」の記事の紹介である。
「ニューズウィーク」記者(編集長)の論評は原発存続に傾いたものだが、事実経過が見える部分もあるので紹介させていただく。
「[原発崩壊] 福島第1原発から放射性物質ダダ漏れ! 上杉隆 (zakzak)」(http://www.asyura2.com/12/genpatu21/msg/864.html)に係わるものとして、記事に、「稲田はあまりにもお粗末な作業の実態も目の当たりにした。損壊した原子炉建屋を冷却するために放水が行われたが、その高濃度汚染水が1号機の建屋の周りにたまって作業に支障が出ていた。稲田は東電からの要請で、排水溝へ水が流れるよう藩を掘る作業に従事した。問題は、その排水溝が海に水を流すようになっていたことだ。「あんなことしたら汚染水が海に流れることは考えるまでもないよ。だけど東電の言うようにやるしかないからね」(本誌の取材に対して、東電は肯定も否定もしなかった)」という内容がある。
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「ニューズウィーク日本版」3・14号
P.30より:
『使い捨てられたフクシマ50の告白
証言:事故の処理に尽力しながらも「脱原発」や東電たたきの陰で忘れ去られた原発作業員が事故当日からの過酷な日々を語る
あのとき、逃げておけばよかったかもしれない――。
「中川浩一」は時々、そんな思いに駆られる。中川にとって、福島第一原子力発電所は慣れ親しんだ場所だった。長年ここで下請けの技術者として働き、生計を立ててきた。
2011年3月11日の昼下がり。中川は高台に位置する免震重要棟に隣接する駐車場に止めた単に向かっていた。敷地内の点検作業を終え、妻と2人の子供が待つわが家に帰るところだった。
午後2時46分。地面が揺れ始め、やがて波打ち始めた。周辺の建物の窓という窓のガラスが割れ、構内放送で女性従業員の悲鳴に近い声が響き渡る。「避難してください! 避難してください!」。作業員が慌ただしく免震重要棟に集まってきた。
およそ40分後、中川はこの建物の2階から信じられないような光景を目の当たりにした。見慣れた海から潮が引き、驚くほど水位が下がっている。程なくして、高さ14bの津波が原発を襲い、海岸沿いに並ぶ6基の原子炉すべてが浸水。免震重要棟を除いて、敷地内のすべての施設が電源を失った。原子炉建屋の周囲には、まるでおもちゃ箱をひっくり返したように、瓦礫や燃料タンク、そしてあちこちに車が転がっていた。
長年、東京電力で働いてきた40代の「木村二郎」にとって、この光景はまったく予想外のものではなかった。巨大地震と津波に原発が襲われる可能性について、以前から同僚とよく話していたからだ。緊急マニュアルどおり冷静に事故対策を進める――。やるべきことは分かっている。木村は電源を回復し、復旧作業の妨げとなる瓦礫を撤去するための作業を直ちに同僚と始めた。
中川ら下請け企業の従業員も駆り出された。建前上は、このとき中川が現場を去っても、誰も文句は言えないはずだった。彼は東電の社員ではない。たまたま、定期点検と補修のためにその日現場に居合わせただけだ。それでも、中川は指示に従うしかないと思った。「嫌とは言えなかった。うちの会社は東電さんの下請けだから」
臆病者と思われるのも嫌だった。それ以上に、この段階で中川も他の下請けの作業員も事態の深刻さが分かっていなかった。混乱する現場では、正確な情報が伝わらなかった上に免震重要棟は通電していたため、原子炉が全電源を喪失した事態に陥っていたなどと思いもしなかった。
絶えず激しい余震に襲われながら、中川や木村を含む数百人の男たちは、懐中電灯と車のヘッドライトを頼りに、夜を徹して作業を続けた。
「ピンク色のキノコ畢」
その後何日も、残った者たちは非常食で空腹をしのぎ、車中泊や会議室での雑魚寝に耐えながら、チエルノブイリ以来最悪の原発事故の対策に当たった。中川も木村も、後に海外メディアに「フクシマ・フィフティ(50)」と名付けられた男たちの一員となる。
2001年の9・11同時多発テロで被害者の救助に当たった消防士のように、フクシマ50は「3・11」の英雄としてたたえられた。フクシマ50の定義は曖昧だ。この1年、50人どころか、把握されているだけでもおよそ2万人が事故収束のために作業に従事してきた。
しかし今、彼らはまるで使い捨てられたかのように、世間から忘れ去られている。メディアも国民も放射能汚染の恐怖にとらわれ、脱原発論争や東電のお粗末な危機対応へのバッシングに明け暮れてきた。その一方で、原発事故の処理に当たってきた作業員の健康状態を気に掛ける声はほとんど開かれなくなった。
作業員たちは、今や「3・11の悪玉」と見なされている東電の関係者と見られることを恐れ、表に出てくることなく口を閉ざしている。3・11の1周年を前に、事故発生当日に居合わせた2人を含む6人の作業員らが本名を明かさないという条件で、本誌の取材に応じてくれた。
福島第一原発の事故現場で作業員はどのような現実を目の当たりにしたのか。彼らが語る原発事故後の真実は、半ば忘れられた事故処理の過酷さを、あらためて突き付けている。
3月12日の早朝まで瓦礫の撤去作業を続けた中川が免震重要棟に戻ると、雰囲気が前日から一変していた。まるで野戦病院のように、輿望感と張り詰めた空気が漂う。ほかの作業員たちは不安げな様子で落ち着きなく歩き回り、原子炉内の温度が上がり、敷地内で高い放射線量が観測されたとささやき合っていた。
中川は、自分がいつもの作業服姿で復旧作業をしていたことに気が付いた。「頭が真っ白になった」。そのときから、中川はこっそり逃げ出すことしか考えられなくなっていった。
その間にも原子炉内の状態はメルトダウンに向け、悪化の一途をたどっていた。電源喪失で過熱した炉内に冷却水を送るポンプが使えなくなり、燃料棒が露出し、原子炉建屋には水素ガスが充満。現場の東電社貝は海水を注入して原子炉を冷却しようと準備を進めたが、注水準備ができた5分後、1号磯が爆発した。「この国の終わりだと思った」と、免震重要棟で爆発音を聞いた木村は言う。
しばらくすると、中川の携帯電話が鳴った。相手は社長だった。「お前どこにいるんだ!」と、いきなり耳元で怒鳴られた。「何をぐずぐずしてるんだ、すぐに逃げろ」
周りでは、6基の原子炉すべてが爆発するという最悪のシナリオがまことしやかにささやかれていた。「もう限界だった」と、中川は言う。免震重要棟内でほかの作業員が見ていないのを確かめると、中川は部下の作業員と共に建物を飛び出して、車で原発から一目散に逃げた。
その晩、中川は1人、避難指示が出ていた地域にある自宅で過ごした。既に近所の住民はみな自宅を出ており、中川が暮らす小さな集落はゴーストタウンと化していた。食料もほとんどなかったため、自宅に籠もるわけにはいかない。家族がいる避難所に行こうにも、ガソリンは底を突きかけている――。
現場に戻って作業するしかなかった。それに、社長は給料を10倍にすると言ってくれた。中川は原発の敷地周辺で復旧作業に当たっていた旧知の作業員たちに携帯で連絡し、畢で迎えに来てほしいと頼んだ。
翌13日、中川は現場に戻り、変電所の1つに寝泊まりする場所を確保した。14日午前、日本、そして世界が事故の行方を固唾をのんで見守るなか、中川は普段の作業着姿とコンビニで売っているようなマスクをしながら、敷地の南側で作業を行っていた。
爆音がとどろいた。目と鼻の先でピンク色のキノコ雲が立ち上っていた。3号機が爆発したのだ。その後数日間、中川は同じ場所で作業を続けた。後に敷地の南側で高い線量が検出されたことを記者が指摘すると、中川は「えつ、知らなかった」と、絶句した。
15日、今度は4号機が爆発した。東電は現場にいた約800人の社員と作業員のうち、木村や中川を除いて、750人ほどを撤収させた。
原発の外では国内外のメディアが東北に大挙して押し寄せ、震災の被害に加えて原発事故の取材に躍起になっていた。一部の作業員だけが残るということは、メディアが悲劇の中の美談を探すことに躍起になっていたときに発表された。そんな事情に加えて、語呂のよさから「フクシマ・フィフティ」という言葉が生まれた(実際には50人以上が現場に残ったとみられる)。
身元不明の作業具たち
だがその翌日には100人を超える作業員が現場に呼び戻された。日ごとにその人数は増えていき、フクシマ50はたちまち雑多な人々が入り交じる集団になった。この1年間、壊滅的な損傷を受けた原子炉を安定させるために働いた人たちの数は、実際には2万人ほどに上った。
彼らの多くが危険を覚悟で現場にとどまった英雄だと言えば、分かりやすい「ストーリー」になる。もちろん、その話にも一片の真実はある。だが、彼らの動機はさまざまだった。カネになる仕事があると、東京の山谷や大阪のあいりん地区から駆り集められてきた日雇い労働者もいた。だまされて連れてこられた人たちもいる。ピンク色のキノコ雲を見た中川のように、東電からの依頼を断れない下請けの労働者もいた。
東電と政府は、つい最近までこうした労働者の人数や身元を完全には掌握できていなかった。「事故が起きる以前は(原発で)作業に当たる人の身元は厳しく確認され、記録されていた」と、木村は言う。「事故後にはこの親別があやふやになった。どこの誰とも分からない作業員もいて、人数も正確に把握できなかった」
そうした人たちの中には暴力団の構成員も含まれていた。本誌の取材に応じた作業員たちは口をそろえて、福島原発ではこれまでも厳しい身元管理の一方で、普通に暴力団関係者が働いていたと話す。それは少なくとも昨年7月に福島県でも暴力団排除条例が施行されるまでは続いていたといわれる。一方で、事故直後の混乱期に原発で働く意思があるなら、それが誰であっても関係なかった。「率直に言って、それは大した問題ではないのではないか」と、東電の木村は言う。「(被曝線量制限のため)働ける時間は限られているし、いい仕事さえしてくれれば、それでいい」
今回の原発事故を金儲けの機会と見なし、作業員の斡旋業者として「手数料」をピンはねしていた暴力団もいた。中には偽の身分証明書を提出して原発で作業した者や、「ダムの工事現場」だと言われて福島原発に連れてこられた人もいたという。
暴力団に限らず、作業員をだまして原発内の危険な作業に従事させた会社もあった。「稲田真」(41)は、それまで何年も福島第二原発などで原発関連の仕事に従事していた。原発事故から数週間後のある日、上司から原発の復旧作業に出てくれないかとの電話連絡を受けた。
だまされて建物の中へ
仕事内容を聞くと、作業員の集合場所になっているJビレッジから福島第一原発に資材や物資を運ぶだけだと言われた。それならば、と稲田は仕事を引き受けた。
だが4月に現場に入ってみると、話は違っていた。着いて早々、爆発した1号機と4号機の建屋に連れて行かれ、内部での作業を担当させられたのだ。「すぐに上司に電話して文句を言った。すると給料を倍にするという話になった」と、稲田は言う。「上司には何年も世話になってきたし、自分がやらなければ結局ほかの誰かがやらないといけない。そう考えて、結局、仕事を受けた」
下請け企業も微妙な立場に置かれていた。東電や関連企業から福島第一原発での仕事を受けるよう、脅迫とも取れるような圧力をかけられた下請けもあったという。
福島県東部で原虚聞連会社の下請け企業を経営していた「山本研二」は、東電と良好な関係を築いてきた。これまで何年にもわたって、数カ月に1度のペースで行われる原発の定期検査に作業員を派遣してきた。「爆発後、東電や関連企業から仕事依頼が来ていた。何としても作業員を確保したかったらしく、『作業員を出さないなら、今後、福島で仕事をできないようにするぞ』と言われた会社もあった」と、山本は言う。さらには「人を出さないと、うち(原発) の仕事にはもう入れないよ」と言われた会社もあった。
こうした圧力の背景には、福島東部で東電が地元経済を牛耳っていた事情がある。福島の原発周辺地域では、地元企業が東電に大きく依存しており、その多くが原発関連の仕事で事業を成り立たせてきた。
原発内の仕事を例にみても、発注元の東電と現場の作業員の問に、多い場合では8つの会社が介在した。東電は多くの会社を挟むことで地域にカネを落としてきたが、一方で末端の作業員が事故などに見舞われた際に責任を回避できるようになっていたと、地元住民は指摘する。
事故発生当日に居合わせた中川も例外ではない。中川の両親は、彼が高校を卒業した後は東電へ就職するよう望んでいた。だが彼は、東電の高圧的で倣慢な態度が気に入らず、ほかに就職先を見つけた。
後手に回った安全管理
それでも、結局は東電の存在を避けることはできなかった。彼の就職した会社は東電からも仕事を請け負っていたからだ。そのため、後に原発での作業から離れて避難所で家族と共に過ごしていたとき、上司から再び原発内で働いてほしいと頼まれると、断り切れなかった。
「仕事を変えることも考えたけど、それも大変だ」と、中川は言う。「原発以外に産業らしい産業はないし、養わないといけない家族もいる。選択肢はなかった」
結局、彼は4月に作業に戻った。防護服を着用したのも、線量計を身に着けたのもそのときが初めてだった。だがその時点までに、中川は既に大量の放射線を浴びていた。8月に作業を終えた時点で、再検査を必要とする原発作業員の被曝量の数値を大きく超えており、精密検査を受けた。
中川が適切な装備を与えられなかったのは、安全対策に対する東電を含む関係者の怠慢だけが原因とは言い切れない。事故直後、現場では何百人もの人々が事故処理に追われていた。あまりの混乱に、安全管理が後手に回った側面もある。
原発で働く者は被曝量を管理するために放射線管理手帳の取得が法律で義孝付けられているが、「富田純次」(53)は、これを受け取ることはなかった。つまり、彼は自分の被曝量を正確に把振することができないのだ。「これまで原発で仕事をしたことがなかったから、そんな手帳が必要だなんて知りもしなかった」と、富田は言う。「使い捨てにされた気分だよ」。作業員らによれば、線量を多く浴びるような作業には身元のよく分からない人が就いていたという。
逆に、自分から安全対策をまったく無視した作業員もいた。原発の作業員は年間50ミリシーベルト、5年で100_シーベルトに被曝量が制限されており、それを超えると原
発での作業はできなくなる。稲田によると、収入を確保し続けるために上限を超えないよう、線量計を外して作業を続ける作業員もいた。また、高い線量の原発内で、作業の合間に防護マスクを外してたばこを吸う作業員もいた。
安全対策は真剣に行っていたと、東電は主張する。だが東電の安全に対する認識は、一般のものとは少し違うものだったらしい。4月に原発での仕事を始めた稲田は当初、放射線管理手帳を持たずに作業に当たっていた。手帳を取得するには安全対策講義を受ける必要があるが、稲田がこれを受講したのは6月になってからのことだった。
「除染リーダーは素人」
その講義を、稲田は鮮明に覚えている。「私たちの原子炉は何重ものコンクリートに覆われており、安全が保たれています」と、講師の1人が語った。「安全? 原発は爆発したばかりなのに冗談だろって。本当に噴き出しそうになった」と、稲田は言う。
さらに、稲田はあまりにもお粗末な作業の実態も目の当たりにした。損壊した原子炉建屋を冷却するために放水が行われたが、その高濃度汚染水が1号機の建屋の周りにたまって作業に支障が出ていた。稲田は東電からの要請で、排水溝へ水が流れるよう藩を掘る作業に従事した。問題は、その排水溝が海に水を流すようになっていたことだ。
「あんなことしたら汚染水が海に流れることは考えるまでもないよ。だけど東電の言うようにやるしかないからね」(本誌の取材に対して、東電は肯定も否定もしなかった)
機械工として福島原発で15年の勤務経験があるベテラン作業員の「野村猛」(37)は、こうした仕事ぶりにいら立ちを隠さない。長年の経験から原発のことは誰よりも分かっていると自負する野村にとって、最もこたえたのは、作業チームのリーダーが何度も初歩的なミスを犯したことだった。「作業場の図面を読めないリーダーもいて、2時間で終わる仕事が7時間かかったこともあった」
こうしたずさんさは、秋頃から始まった周辺地域の除染作業でも顕著だった。現在でも稲田や野村を含む多くの作業員が、昨年4月から原則立ち入り禁止となっている原発周辺の半径20キロの警戒区域に送られている。彼らの仕事は、表土を5センチほど剥ぎ取ったり、高圧洗浄水で民家の屋根や壁に付着した放射性物質を洗い流したりすることだ。
「陰染を請け負う日本原子力研究開機構のスタッフが除染チームのリーダーを済めているが、彼らは放射能汚染についてあまりにも無知な人ばかりだ」と、稲田は言う。「実際、あるリーダーは、自分にはまったく陵染の経験はなく、よく分からないと挨拶で語っていた。別のリーダーは、線量計の使い方もよく分かっていなかった」
さらには、道路を陰染した後に、除染していないトラックで同じ場所を走るなどという、あまりにも初歩的なミスもあった。「素人丸出しだよ」
政府は昨年12月、福島第一原発が冷温停止状態だと宣言し、事故そのものは収束したと発表した。それでも、専門家たちは収束からは程違いと指摘する。格納容器や建屋の密閉機能は失われ、溶け落ちた核燃料の場所も把握されていない。原発を廃炉にするにもまだ何十年もかかるとみられている。
作業員にとっても、この事故はまだ終わっていない。野村や稲田は、除染作業は大した効果があるとは思っていない。「除染作業は3年で終わると言われたが」と、野村は言う。「完全にでたらめだ。住民が安全に帰宅できる日は来るのだろうか」
脱原発への複雑な思い
この1年、およそ2万人の作貢が原発事故の収束に向けて黙々と働く一方で、世問は脱原発静や東電バッシングにいそしんできた。
「フクシマ」後、中川や東電の木村などにとって生活の糧だった原発は、ある種の「社会悪」かのように見なされるようになった。日本中に広がった脱原発論は、もちろん作業員たちの耳にも届いている。
だが、本誌の取材に応じてくれた作業員は、そんな議論は地元の現状を無視した、欺賄に満ちたものだと口をそろえる。「汚染水や汚染した瓦礫の処理場まだない。どこに置くんだという議論も棚上げされているのが現状じゃないか」と、木村は言う。「もう国会の議論は消費税でしょ? 自然エネルギーの話はどうなったのかね」
中川も複雑な心境を口にする。原発のない地域の人が「原発は要らない」と息巻いているのは我慢ならない。「東京での議論は福島の現実を分かっていない。とんちんかんだ」
ただ一方で被災者でもあり、原発が危険であることを体感した中川は、原発を推進してほしいとも言えない。「政府がきちんと補償をしてくれさえすれば、文句は言わないよ」
世間を一時的ににぎわした脱原発論は、肝心の福島の住民の声をほとんど無視して進められた面もある。地域で生まれ育った彼らにしてみれば、原発は生活の糧であり、日常の一都であり、簡単に決別できるものではない。生煮えで中途半端な脱原発論は、彼らの生活を翻弄しているにすぎない。
原発に作業員を派遣していた山本は既に福島を離れている。子供の健康のために、福島に戻るつもりはない。それでも昨年、永田町で高まった脱原発の議論は、彼の目には無責任なものに映る。「脱原発だなんて言っている連中はここに5年、10年住んでから言ってみろ」
原発事故はあまりに多くの人々の生活を狂わせた。被災地にとどまらず日本中の国民は食品汚染を心配するようになり、放射能の影響に怯えるようになつた。
だが最も悲劇的なのは、中川のように相当レベルの放射線を浴びた偉業負だ。それどころか、原発事故の収束に向けて奮闘した彼らは、何の補償も与えられないまま、世間から忘れ去られつつある。
大量被曝した中川は昨年12月に検査を受けた。結果はまだ分からない。取材中、中川は
記者にこう問いた。「私、大丈夫ですかね?」
山田敏弘(本紙記者)、横田孝(本紙編集長)』
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