http://www.asyura2.com/12/genpatu21/msg/842.html
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[転載者注]少し古い記事だが、重要な視点が含まれていると判断したこと、まだ阿修羅に転載が確認できなかったことから、あえて書き込む。
http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2012/03/post-3244.html
2012.03.09
さいたさいたセシウムがさいた
埼玉県教職員組合が開催する講演会「2012 国際女性デー 埼玉集会」のチラシに、ゲストのアメリカ人の詩人、アーサー・ビナードさんの講演の「さいたさいたセシウムがさいた」っていうタイトルが記載されたことで、このタイトルを「不謹慎」だとする抗議が相次ぎ、ポスターなどからタイトルを削除する流れになった。たぶん、去年8月の東海テレビの「あやしいお米、セシウムさん」とおんなじように受け取られちゃったんだと思うけど、あたしは、このタイトルを「不謹慎」とする物言いに違和感を覚えたので、今回は少し自分なりの考えを書いてみようと思う。
まず初めに、このタイトルをつけた本人、ビナードさんが何て言ってるか、各報道によると、「本来なら花が咲いて楽しく迎える春を福島第一原発事故が台無しにしてしまった。それほど大変な状態であることをこの言葉で伝えたかった」とのこと。実際、このチラシにも、「さいたさいたセシウムがさいた」ってタイトルの下に「3・11後の安心をどうつくり出すか」って副題があり、その下には、こんなふうに書いてある。
「本来ならば喜ばしいはずの春の訪れを台無しにしてしまった東京電力福島原子力発電所の事故。放射能物質の拡散でくらしに危険が迫っています。日々の生活の安全・安心を私たちの力で作り出していきましょう。」
たとえば、この副題やコメントがなくて、ただ単に「さいたさいたセシウムがさいた」とだけ書いてあれば、中には「不謹慎だ!」って批判する人がいてもおかしくないけど、これだけ明確に説明してあるんだから、小学校高学年レベルの国語力があれば、これは「日本語を熟知したアメリカ人が詩人ならではの感性で原発事故を風刺したタイトル」だってことと「さいたま」をカケてあるってことくらい分かると思うんだけどなあ‥‥って感じの今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、本題に入る前に、知らない人のためにザックリとアーサー・ビナードさんのことを紹介しとくけど、1967年生まれの44歳で、1990年、22歳の時に単身で来日。日本語学校で日本語を勉強し、日本語の詩集を英訳したりしつつ、2001年に詩集『釣り上げては』(思潮社)で中原中也賞を受賞、2005年にエッセイ『日本語ぽこりぽこり』(小学館)で講談社エッセイ賞を受賞、2007年に絵本『ここが家だ ベンシャーンの第五福竜丸』(集英社)で日本絵本賞受賞、2008年に詩集『左右の安全』(集英社)で山本健吉文学賞を受賞。現在は創作活動の他に、ラジオのパーソナリティーや講演などを行なってる。
あたしは、詩集『釣り上げては』と『左右の安全』、あとはエッセイ『亜米利加ニモ負ケズ』(日本経済新聞出版社)くらいしか読んでないけど、ハッキリ言って、そこらのニポン人よりもニポン語の文章は上手い。話し言葉をベースにした軽妙な語り口は、どこか落語にも通じたテンポがあって、どんなテーマでも楽しく読ませてくれる。
ま、どんなに文章で説明するよりも、実際にご本人のエッセイを読んでもらうほうが話は早いワケで、「Web 日本語」ってサイトで連載してるビナードさんの「日本語ハラゴナシ」の中から、去年12月28日にアップされた最新のエッセイ、「燃えない「燃料」の二酸化炭素はどこへ?」を読んでみてほしい。数分で読めちゃう短いエッセイなので、「きっこのブログ」を中断して、ココから読みに行ってきてほしい。
お帰りなさい♪‥‥ってなワケで、ビナードさんの「燃えない「燃料」の二酸化炭素はどこへ?」を読んでもらえば、あたしが「そこらのニポン人よりもニポン語の文章は上手い」って言った意味が分かったと思うけど、それだけじゃなくて、ニポンの原発問題に関しても「そこらのニポン人よりも」のレベルだってことが分かったと思う。さらに言えば、ひとつ前のエッセイ、去年7月13日にアップされた「変わった言葉」でも、ニポンの原発政策のペテンについて、厳しいツッコミを入れてくれてる。
(引用ここから)
3月11日を境に、ぼくの見方ががらりと変わった看板は、もうひとつある。中央省庁再編で2001年に「原子力安全・保安院」ができたとき、ぼくは霞ヶ関までその看板を見に出かけたわけではないが、新聞で知って、実にくどい名称だなと思った。「安全」と「保安」を無意味に重ねて、まるで「馬の馬糞」みたいな「いにしえの昔の武士のさむらい」みたいな重複感があり、それをごまかそうと「・」をぎこちなく挟みこませているではないか。やはり役人臭い、センスのないネーミングとしてバカにして、でも同時に、一度目にすれば忘れられない、どこかひっかかる表現にはなっていることも、認めざるを得なかった。
福島第一原発の一号炉も二号炉も三号炉もメルトダウンをきたし、毎日「原子力安全・保安院」の記者会見が開かれ、「メルトダウン」という言葉が禁じられ、嘘八百が並べられ、情報の隠蔽と責任逃れが大々的に繰り広げられていた3月末日、ぼくは朝刊を広げて、ピンときた。「原子力安全・保安院」は、本当は見事にその組織の本質を捉えた名称だったのだと。
少しほぐしてみれば、「原子力村の安全神話を保ち、国民を安心させるための院」という意味だ。それを簡潔に、漢字だけで表記している。
しかも、あの座りの悪いナカグロの「・」も不安定的な要素を加えることで、見る者を釣るフックの役割を果たす。その仕掛けは、「原子力安全・保安院」より4年も早く結成された「モーニング娘。」の尻尾の「。」ととてもよく似ている。一見よけいなマークのようで、実際はそこがネーミングのミソなのだ。
この列島にばらまかれた放射性物質を、閉じ込めて安全を保つことは、もはや無理だ。太平洋に垂れ流されている汚染水のダメージも、ぼくらが全員、一生働いて環境を保全しようとしても、償うことはできないだろう。ただ、「原子力安全・保安院」の無責任を問い、解体して二度と原発人災が引き起こされない社会を作りあげることは、じゅうぶん可能だ。
それを成し遂げるまで、ぼくは現実に即して「原子力安全・欺瞞院」と呼びつづけよう。
(引用ここまで)
「2011年7月13日 日本語ハラゴナシ」
http://www.web-nihongo.com/back_no/bk_haragonashi/08_110712.html
これらのエッセイを読んだだけでも、ビナードさんの日本語力や言語センスが分かったと思うけど、『釣り上げては』や『左右の安全』などの詩集を読んでもらえれば、さらによく分かると思う。特に、今回問題になった「さいたさいたセシウムがさいた」というタイトルに関しては、「文章」ではなく「詩」にカテゴライズされるので、詩集を読めばよく理解できるハズだ。
‥‥そんなワケで、ようやく本題に入るけど、今回、この「さいたさいたセシウムがさいた」を批判した人たちの言いぶんとして、新聞記事には次のようなコメントが掲載されてた。
「不謹慎だ」
「福島県民を傷つけている」
「被災者の気持ちを逆なでしている」
「この表題をなんとも思わない教師が教壇に立っているのか」
3つめまではともかくとして、4つめのコメントを読んだ時、あたしは、ナニゲに抗議してる人たちのイメージが把握できた気がした。だって、この批判て、問題のタイトルを考えたビナードさんを飛び越えちゃって、その講演を依頼した埼玉県教職員組合に対して向けられちゃってて、いくらなんでもトンチンカンすぎるからだ。直球で言っちゃえば、「君が代を歌う時に起立しないとはナニゴトだ!」とか言ってる「日教組を目のカタキにしてるオナジミの皆さん」てワケで、あたしには「批判ありき」のズレまくったイチャモンにしか見えない。
実際、埼玉県教職員組合は、「ビナードさん側がこのタイトルを提案してきて、どうしてもこのタイトルで自分の思いを伝えたいと強いこだわりを見せたために掲載に踏み切った」って説明してる。そして、最初に書いたように、誤解されないために副題やコメントなどで補強してるんだから、普通の感覚ならわざわざ抗議の電話なんてするような問題じゃないし、抗議するとしてもタイトルを考えたビナードさんに対してすべきだろう。
ま、「抗議が相次いだ」って言っても、新聞によると「30件ほど」とのことなので、ビナードさんがどういう人なのかぜんぜん知らずに、単に「セシウム」って単語に脊髄反射しちゃった純粋無垢な人とか、何かにつけて福島県民の代弁者を気取ってる正義の味方とか、とにかく日教組を攻撃することだけが生き甲斐の偏った人とか、そんなとこなんだと思うけど。
‥‥そんなワケで、「不謹慎」と言えば、今度の日曜日の3月11日に「脱原発」の集会やデモを行なうことを「不謹慎」だって言ってる人もいる。国内では「3.11東京大行進 -追悼と脱原発への誓いを新たに-」「ふくしまを返せ!3月11日 静かに抗議するデモ(渋谷・原宿)」「3・11原発ゼロへ!国会囲もうヒューマンチェーン」「フクシマ事故から一年、もう原発はいらない!3.11 東電前大アクション!」「原発いらない!3.11福島県民大集会」「原発いらない地球(いのち)の集い(郡山)」「311 東日本大震災 市民のつどい ピース オン アース stage」などを始め、全国各地で大規模なアクションが行なわれる。国外でも、こちらの一覧を見てもらえれば分かるように、さまざまな国で数多くの「脱原発」のアクションが行なわれる。
人類の歴史上、最悪の原発事故が起き、1年経った今も収束のメドも立たず、未だに毎時7200万ベクレルもの放射性物質を垂れ流して大地と海を汚染し続けてるんだから、世界各国でこうしたアクションが起こるのは「当然のこと」だろう。でも、震災で家族や友人を失った人たちにしてみれば、この日くらいは静かに過ごしたいと思うのも「当然のこと」で、そんな日に集会だデモだと騒ぐのは「不謹慎」だってことになる。だから、この日のデモは、楽器などは使わずに「静かに抗議」とか「追悼」とかって言葉を使ってるものが大半だけど、それでも、震災で家族や友人を失った人たちにしてみれば、この日のアクションは腫れ物に障るように感じるんだと思う。
だけど、考えてみてほしい。今度の日曜日に、ニポン中の人たちが何をしているか。ハッキリ言って、半数以上の人たちは、大震災のことも原発事故のことも頭になく、それぞれの日曜日を過ごしてると思う。朝からパチンコ屋へ行き、1日中パチンコを打ってる人だって全国には何十万人もいるだろうし、各地の競馬場で競馬に興じてる人たちだって何十万人もいるだろう。もちろん、その中にも、大震災が発生した時刻には黙祷する人もいると思うけど、その1分間の他は、パチンコや競馬に興じてるワケだ。他にも、朝からゴルフを楽しんでる人、家族や恋人とドライブに出かけてる人、映画、遊園地、カラオケ、ゲーセン、みんなそれぞれの日曜日を過ごしてるハズだ。
こうした中で、ほんの一部の人たちだけが、「二度とこんな悲劇は繰り返したくない」っていう思いから、それぞれの場所で行なわれる「脱原発」のアクションに参加するのに、これが「不謹慎」なんだろうか?朝からパチンコや競馬に興じてる人たちよりも、ゴルフやドライブを楽しんでる人たちよりも、静かに「脱原発」を訴え、14時46分に黙祷を捧げる人たちのほうが「不謹慎」なんだろうか?決局は、言いやすい相手を批判することによって自分を納得させてるだけじゃないのか?ビナードさんの講演のタイトルのことで埼玉県教職員組合を批判した人のように。
‥‥そんなワケで、あたしは、なんだかみんなの怒りが変な方向へ向かっちゃってるような気がしてる。去年の8月に東海テレビが間違えて放送した「あやしいお米、セシウムさん」は、サスガに批判すべき問題だったけど、それでも、このミスをあれほど寄ってたかって批判したのに、実際にセシウムの入ったお米を出荷したり販売したり、挙句の果てには放射能汚染された田んぼに作付けまでしてることに対しては、あんまり怒りの声が聞こえてこない。今回の「さいたさいたセシウムがさいた」にしても、抗議するなら実際にセシウムを撒き散らし続けてる東電や、それを全国に拡散してる野田政権に対して抗議すべきなのに、そっちはスルーして低レベルな言葉狩り。本来の目的を見失い、抗議することや批判すること自体が目的化しちゃってる。誰でもいいから「言いやすい相手」を見つけて食ってかかればスッキリする。これじゃ単なる「弱いものイジメ」で、目的は「自分のストレス発散」てことになっちゃうだろう。あたしは、これこそが「不謹慎」だと思う今日この頃なのだ。
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