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「福島原発事故、その時私は (下)」 2012/03/13(東京新聞)
http://ameblo.jp/heiwabokenosanbutsu/entry-11191354913.html
2012/03/13(東京新聞) :平和ボケの産物の大友涼介です。
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「福島原発事故、その時私は (下)」2012/03/13(東京新聞)
●[3・12]福島第一立地の大熊町長 渡辺 利綱さん(64)
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/tohokujisin/oneyear/120313-2.html
<引用開始→
◆細野さんから電話。まずいと思った
テレビも津波のことばかり。私の方も当初は津波への警戒で頭がいっぱいでした。
十一日の夕方に東電から原発の電源が失われたと報告があり、午後十一時すぎには武藤さん(武藤栄副社長=当時)が来て、説明してくれた。でも深刻な状況ではないと。武藤さんの記者会見は、二社しか来なかった。
まずいと思ったのは十二日早朝、細野さん(細野豪志首相補佐官=当時)から電話があった時。「十キロ圏内の住民に対し、総理から避難指示が出た」と。「ただごとではない」と思いましたね。
町民に防災無線で呼び掛けたりして、(隣接の)田村市への避難準備を進めた。情報がないので、避難が何日ぐらいになるのかも連絡できなかった。
みんな着の身着のまま。田村市方面に行くというだけで、運転手も行き先は知らない。向こうに行ったら誘導するからって。町民に申し訳なかった。
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号機爆発の映像を避難所のテレビで見た時は、三十キロを越えたここも大丈夫かと考えざるをえなかった。
町には原発と共生してきた歴史がある。昔は町民の不安をあおるからと「避難道路」という言葉すら否定されていた。安全神話を過信し、われわれとしても反省があります。
←引用終了>
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●[3・14]南相馬市防災安全課係長 大石 雄彦さん(47)
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/tohokujisin/oneyear/120313-3.html
<引用開始→
◆防護服の自衛隊「原発爆発する」
驚いたのは、十四日のことです。夜十時ごろ、防護服を着た自衛隊員が小走りで庁舎に入ってきて「原発が爆発するから、百キロ以上離れて」って大声で説明しはじめたんです。最初、何のことか理解できませんでした。
自衛隊はすぐに、隊列を組んで避難していきました。庁舎には市民も大勢いて「どうなってるんだ」と叫ぶ。一斉に飛び出していきました。でも、私たち職員は避難してくる人もいるし、離れるわけにはいかなかった。
自衛隊が来た後、その話を確認しろと上司から指示を受けました。でも、衛星電話で県に確認しても「そんな情報はない」と。私たちは各避難所を回って「うわさです」と説明するしかなかった。
四月十一日に警戒区域を決めた時から適用までの十日間は、ものすごかったです。国は大まかな地図を出してきたんです。「こんなのじゃ市民に説明できない」と言っても取り合ってくれない。
住民に胸ぐらをつかまれて「うちは入るのか」って言われたり。皆さん必死でした。
(警戒区域の)二十キロ圏の円の中心をどこにするかでも、もめました。市としては(市に近い)一番北側に中心を持っていって、シミュレーションしました。原発は広いですからね。でも、国は適用直前に1、2号機の煙突と、3、4号機の煙突の間を中心にした。これで、百メートルは変わった。
国と協議して、ちょっとはみ出るように小字単位で区切ることにしましたが、ここでまたもめた。警戒区域になれば家に戻れませんから、役所に詰め掛けた人に「うちは二十キロ圏の外なのに、なんで警戒区域なんだ」って責められました。
この十日間、かなり苦しかったです。
←引用終了>
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●[5・20]浪江町住民生活課長 植田 和夫さん(60)
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/tohokujisin/oneyear/120313-1.html
<引用開始→
◆高線量地に避難誘導 「これは殺人だ!」怒鳴った町長
五月二十日の午後。福島県災害対策本部の職員が、一人で二本松市にある仮の町役場に来た。持ってきた二十枚ほどの資料を見て、頭が爆発した。ボンッという感じですよ。
ふだん俺はなかなか爆発しねえけど、カーッときた。そこには震災後の三月十二日と十三日の風の流れと、放射線量の高い地域が示されていた。放射線量の高い津島地区に住民を避難させてしまったと、すぐ分かった。
なぜ二カ月もたった今ごろ、こんなものを持ってくるんだと、何と言っていいのか分からない怒りだな。データを知っていれば、住民を津島に避難させなかった。無用な被ばくをさせたと思った。
「これは殺人だろう!」。温厚な馬場有町長が、県の職員を怒鳴りつけた。県職員は下をむき、ハンカチで何度も何度も涙をぬぐってた。町長は、全町民の内部被ばく検査の予算を確保しろとその場で言い渡した。
風向きだけでも分かっていれば違う方向に避難していた。
三月二十日すぎ、県からファクスが入り、津島地区の赤宇木(あこうぎ)の放射線量が毎時一五〇マイクロシーベルトもあったと知った。この時は基準も何もない時期で、高いと言われてもピンと来なかった。犠牲者の対応などに追われてたし。
五月に(放射性物質の拡散を予測する)SPEEDIのデータが公表された後、住民から「何で放射線量の高い場所に避難させた」と次々と苦情が来た。ひたすら謝り、事情を話すしかなかった。
浪江町には双葉郡の人口の三分の一がいるのに、事故の後に連絡も来なかった。隣接の原発立地市町村には、国や県からバスが来たのに。見捨てられたような気がしました。
←引用終了>
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