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<総力特集 3・11 日本人の反省> こどもたちが綴った「原発と家族」
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/309
文藝春秋 2012年4月号 森 健 (ジャーナリスト)
28人が体験した避難生活と被曝の不安
雪で白く覆われた二本松市の仮設団地。入口近くには線量計が設置され、「0・155μSv毎時」と表示している。放射線量は東京平均の二〜三倍ほどだ。
少年の家を訪れると、外から頬を赤くしたメガネの男の子が駆け寄ってきた。約束していた小六の佐々木隆治(りゅうじ)君だった。隆治君は「書いたよ」とすこし自信ありげに口にした。
「けっこう書いた。原稿用紙が足りなくなったくらい」
渡された作文はコピー用紙で追加され、九枚にも及んでいた。
震災発生当時、浪江小学校の児童だった隆治君は、一年を振り返るにあたり、あの日の強烈な揺れから克明に刻みつけていた。
〈みんなはもう、頭の中が真っ白になって、パニック状態でした。それで担任の先生が「外に出ろ。」と言われたので、外に急いでにげました。外に出たら、水道管がこわれて水がふきだしたり、地割れや古い家はみんなほうかいしていました。まだ、余震がひどく、体がふるえて、一歩も歩けませんでした。〉
隆治君は叔父、脳梗塞後に足が不自由な父、中二の姉、小五の妹の五人暮らし。地震の翌朝、佐々木家の五人はまずガソリンを求めて南相馬市へ向かい、給油後浪江町の山間部の祖母の家に行った。三月十五日には自衛隊の要請で佐々木一家はさらに西へと避難を余儀なくされ、四月から七月まで二本松市内の温泉ホテルで二次避難、その後ようやく現在の仮設住宅に移った。途中、足の不自由な父は子どもたちと別れて暮らすことになったが、そのことは作文には書かなかった。
隆治君が綴っていたのは地震の驚き、避難生活の経緯に続いて、友だちとの別れと出会い、そして、新しい生活の始まりだった。原発のことは防災無線の記述で触れていたが、放射線のことは一言も書いていなかった。
家に帰りたいよねと声をかけると、隆治君はうんと頷き、「でも、諦めています」と衝撃的な事実を続けた。
「うちのある地区は毎時三〇〇マイクロシーベルトだそうです。線量が日本一高いそうです。だから、絶対僕らは帰れないと思うんです。浪江には」
あの日を境に、福島の人たちの生活は一変した。最初は地震と津波で避難し、翌日からは原発事故という未曾有の災害からさらなる避難を強いられた。とくに福島第一原子力発電所から二十キロメートル圏内の「警戒区域」にあたる双葉郡の住民は、突然の避難以降いまなお自宅に戻れていない。
あの日以来、双葉郡の人が自宅に帰ったのは一時帰宅の二〜三回のみ。双葉郡の人は、避難所、二次避難先のホテル、そして仮設住宅や借り上げ住宅と転居を繰り返して、避難生活を送ってきた。
そんな故郷との関係でいたましいのは、かの地の子どもたちだろう。政府の許可する一時帰宅は十五歳以上が対象。放射線被曝しやすい子どもたちはこの先も当分帰ることはできない。震災からの一年に思いを馳せるとき、気になったのはそんな双葉郡、警戒区域の子どもたちだった。
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/309?page=2
昨年六月、筆者は岩手と宮城の子どもたちに自身の体験を綴ってもらい、『つなみ』という作文集にまとめた。その際、福島の子どもはあえて外していた。津波被害と原発事故による避難とでは意味合いは異なる。また、子どもが放射線被曝という概念をどれほど理解できているかも疑問だったからだ。
だが、震災から一年にあたり、福島の子どもの声を聞いてみたいと思った。いまなお故郷に帰れない警戒区域の子どもたち。彼らはあの日からの一年をどのように過ごし、いま何を胸に抱いているのか。そして、父や母はどう考えているのか――。冬の福島県に子どもたちを訪ねることにした。
■爆発音が聞こえた
しんしんと雪が降り積もる会津若松市の仮設団地。二人の女の子をもつ母の大浦久美子さんは、ずいぶん昔のように感じますねと振り返った。大浦さんの家は第一原発のある大熊町の、第一原発からわずか三キロの地点にあった。今回の震災では、地震、津波、原発事故という三要素をすべて受けたのが大浦家だった。
あの日、隣接する浪江町の美容室で働いていた久美子さんは揺れが収まったあと、すぐに二人の娘がいる小学校へ向かった。指定された避難場所の公民館は津波で流され、浪江町の実家に避難した。だが、流されたのは公民館だけではなかった。その時の様子を長女で中一の美波さんはこう作文に記した。
〈車に乗って、少ししてから、避難しようとしたとき、消防団に入っていたお父さんに、家が流されたと言われ、おばあちゃんの家へ行きました。普通だったら二十分で到着するのに、二時間もかかりました。まるで、マリオのゲームのように道路に穴があいていたりしました。〉
翌十二日、浪江町の内陸部にある久美子さんの実家では、避難している人のために炊き出しでもしようかと話をしていた。すると、突然、地響きとともに家が揺れるほどの爆発音が聞こえた。久美子さんはすぐに気がついた。これは原発だと。
「すごい音でした。警戒音が町内に鳴って、外に出ないようにと言っているようでした」
大浦さん一家は新潟・柏崎で四月上旬まで過ごしたのち、会津若松市の東山温泉のホテル群に向かい、大熊町の人たちと合流。そこで半年あまりを過ごし、十一月に現在の仮設住宅に転居した。避難生活の間でなにより優先したのは、子どもたちの学校生活だったと久美子さんは言う。美波さんは中学へ進学、次女の成美さんは五年生に進級する時期だった。その学校生活や勉強をおろそかにしたくないというのが両親の合意だった。
だが、長期にわたった避難生活では、子どもたちに変化もあった。毎日のホテルの食事に嫌気がさし、「食べたくない」と拒食気味になったこともあれば、「気分が悪い」と体調を崩し、学校を休んだこともあった。
だが、一年を振り返る中で二人が作文に強く記したのは、会津での新生活のことだった。次女で小五の成美さんはこう記している。
〈私は会津若松に来てよかったこともいっぱいあります。まずは、一番仲の良い友達も来ていたからです。(略)会津は雪がいっぱい積るので学校では、雪合戦をしたり、そり遊びをしたり体育でやるのは、始めての体験でした。〉
姉妹の作文に共通しているのは、原発と放射線にほとんど触れていないことだった。
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