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「福島原発事故、その時私は (上)〜たぐり寄せる記憶」 2012/03/11(東京新聞)
http://ameblo.jp/heiwabokenosanbutsu/entry-11189709756.html
2012/03/11(東京新聞) :平和ボケの産物の大友涼介です。
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「福島原発事故、その時私は (上)〜たぐり寄せる記憶」2012/03/11(東京新聞)
四基もの原発が相次いで爆発したり、壊れたりする未曾有の惨事となった福島第一原発事故。その渦中に居合わせた人たちは、何を見、何を思ったのか。それぞれの「その時」を語ってもらった。
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●[3・11〜]内閣審議官 下村 健一さん(51)
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/tohokujisin/oneyear/120311-1-2.html
<引用開始→
◆「菅さんに冷却水必要」とメモ 頭抱える班目さん。固まった専門家たち
全電源喪失と聞いた時に、菅さん(菅直人首相=当時)は官邸の誰よりも早く反応しました。よく分かってたんですね。「これは大変なことだよ」と。以後、この言葉を何度聞いたか。独り言のように言い続けていた。
当時のノートに「なぜ非常用ディーゼルエンジン(発電機)まで止まるんだ」って書いてある。これ、菅さんの発言です。「菅さんに冷却水が必要」。かなりテンションが上がってましたが、あの段階では仕方ないと思います。何も分からなかったから。
とにかく早く電源車をかき集めないといけない。首相執務室にホワイトボードを持ち込んで、秘書官たちが手分けして電話して「インター通過」とか、どんどん書き込んだ。菅さんも携帯電話でどこかに電話して「必要な発電機の重さと大きさはどれぐらいなんだ」と。何で総理にそんなこと聞かせてるんだ…と思った。でも、専門家の人たちに「これってどうなってるの」と聞いても、「はい」って返事はするけど、固まって動かない。
仕方ないから僕が近くに行って「あなたの持ってる携帯電話を左手に持って、右手でボタンを押して相手の人にかけてください」と言うと、動きだした。これ、本当の話。こういうのが頭が真っ白って言うんだと思った。
組織としての備えがないから、電源車の用意さえ官邸が判断を重ねていったんです。
二十一時十四分の電話で、東北電力からの電源車の一台目が着いたと。庶務の女の人が「よかった!」って歓声を上げた。ホッとしました。これで何とかなると思ったんだけど…。
出入りの激しい執務室で、一瞬だけ菅さんと二人きりになった時に「(震災)現場に行くなっていう人が多いんだけど、どう思う」って聞かれた。僕は原発に降りることと気づかず、津波被害の状況把握を頭に置いて「ヘリで上空から見るんだったら、僕は(テレビキャスターだった時に)阪神大震災の初日からヘリでリポートしてたから、横で着目点の助言はできます」と言った。菅さんは「そうか」と。
1号機の爆発は、テレビをつけたらあの映像です。「爆発しないって言ったじゃないですか!」って、菅さんが班目さん(班目春樹・原子力安全委員長)に言ったら、これは映画かって思うくらい頭を抱えて。人生で一番ショックなシーンでした。この人が日本の最高権威なのかと。
専門家は何を聞いても、ふにゃふにゃしか言わない。菅さんから目をそらす。そんな中で唯一、明言していたのが「爆発は起きません」だったんです。
十五日に東電へ乗り込む時は、仮眠中で午前四時台にたたき起こされた。「東電が撤退するって言っているから、今から菅さんと一緒に行って」と。僕は後続の車。着いて二階に上がったら、秘書官が真っ青な顔をして「菅さんが今すごいこと言った」と、あの「撤退した時には、東電は百パーセントつぶれます」という演説のことを知らされました。
東電で案内された小部屋にはモニター画面があって、六分割されている。本店の非常災害対策室と福島第一原発の対策本部などみんな映ってる。官邸では様子が分からなかったのに「何だ、こんなのがあるの」って。菅さんは「いいね。じゃあ細野君(細野豪志首相補佐官=当時)ずっとここにいて」って言った。
菅さんのけんまくでまわりが言いたいことを言えなかったとすれば、本人にも問題がある。ただ、誰が首相でも、あれだけ情報が少なく矢継ぎ早に物事が起きる渦中では、語気が強まるのは当然と思う。
原子力を扱う人間にストレステストを課さなきゃだめです。スペースシャトルの乗組員は、想定外の状況で抜き打ちのトレーニングを受ける。今度何かが起きたとき、今の原子力技術のトップたちはまた何もできないだろう。一年たって強調しておきたいのは、「人間」の問題は何も解決していないということです。
←引用終了>
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●[3・12]原子力安全・保安院次長 平岡 英治さん(56)
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/tohokujisin/oneyear/120311-1-3.html
<引用開始→
◆水素爆発は思いもしなかった
(初日に)2号機で冷却できない状態が続いたらどうなるか、というデータを見た。見なくてもだいたい想像がつきますが、数時間で燃料が(水面から)露出し、さらに数時間で燃料損傷する試算。官邸で共有され、大臣にも報告しました。
(放射性物質の拡散状況を予測する)SPEEDIのデータは、ほとんど記憶にない。一部見たと思う。そこにいた全員、気象情報は頭に入っていて、当分海の方に吹いていると。(データには)新しい情報はなかった。だから覚えてない。
水素爆発は思いもしなかった。漏れた水素がどうなるかというのは、あまり考えたことがなかった。不勉強だったと思います。
東電が福島第一から撤退するという話は、保安院に戻って聞きました。小森さん(小森明生東電常務)に電話すると、「事態は緊迫していて、これ以上悪化するようなら、必要な人を残し退避させることも考えている」と。官邸がなぜ「全員撤退」と受け取ったのか分からない。
私は「一部撤退」という認識。一部と言っても、かなりだが。
←引用終了>
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●[3・13]保安院審議官 根井 寿規(ひさのり)さん(53)
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/tohokujisin/oneyear/120311-1-4.html
<引用開始→
◆炉心溶融 官邸が驚きを持った
地震が起きて、震度5弱以上であれば、基本的にはERC(緊急時対応センター)に参集するということになっています。その後でどこかに呼ばれる可能性があるので、ただちに防護服を着た。その日はほとんどERCにいました。
それから十三日の朝に記者会見を二回やるまで、一睡もしていない。会見後に二〜三時間、自分の行動が記憶にも記録にもない時があって、その時に自分の部屋で仮眠を取ったのだと思う。地震が発生してから五十時間ぐらいたっていた。
「炉心溶融」についてだが、私の会見ではたぶん「否定はできない」という趣旨のことを言ったと思う。中村(幸一郎)審議官の十二日の会見での「炉心溶融」という発言の報道が、官邸サイドで驚きを持って受け止められていることは、認識はしていた。だからといって、官邸との間で細かく(調整を)やった記憶はない。
逆にプレスのみなさんに聞きたかったことがある。「炉心溶融」という言葉の定義をしたがるのは、どうしてか。英語で言うと「コアメルト」。格納容器のどこまで落ちているか、冷やす時の対応には関係あるが…。なぜ定義したがるか分からなかったんです。教えてもらえませんか。
←引用終了>
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●[3・14]オフサイトセンターで医療支援 鈴木 敏和さん(59)
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/tohokujisin/oneyear/120311-1-7.html
<引用開始→
◆閉め切られた扉 自衛隊員ぼうぜん
十二日朝、千葉市の放射線医学総合研究所から自衛隊ヘリで(福島第一原発から五キロの)オフサイトセンターに向かった。深刻な事故と思わず「帰りの足はあるかなあ」と考えてました。センターは携帯も通じず、テレビ以外の情報はなし。でも不安はなかった。
ところが周りを歩くと、ポンと放射線量が上がる所がある。原因は原発から戻った車。放射性物質が漏れていると知りました。セシウムが出てることも。メーカー時代は原子炉の設計担当。核燃料が破損しないとセシウムは出ません。
そのうち屋外の線量が上昇します。センターの窓や扉を全部閉じるよう指示しました。東電の武藤(栄)副社長(当時)の表情を見て、重大な事態になっている、と感じた。
十三日には、センター隣にある県の緊急被ばく医療施設を自衛隊の協力で復旧して、十四日朝に給水車が来てシャワーも使えるようになった。その直後にセンターに戻ろうとしたら、閉め切った玄関ガラス扉の前に六人の自衛隊員がぼうぜんと立っていました。
一人は血が出ていました。でもセンター内の人はガラス越しに見ているだけ。(放射能汚染を防ぐため)「扉を開けるな」と言われていたからです。
隊員は、3号機の爆発に巻き込まれ、線量計を近づけると毎時一ミリシーベルトもあった。服を切り裂いて裸にしてシャワーを浴びてもらいました。切り捨てた迷彩服の線量計が次々に鳴りました。警報の設定値は二〇ミリシーベルト。医療施設の復旧が間に合ってよかった、とほっとしました。でも、その日の夕方には県庁に移ることが決まった。
反省点は、とにかく情報が足りなかったこと。重い衛星通信装備を持たずに、線量計と医療機材だけでヘリに飛び乗りましたが、やっぱりフル装備じゃないとだめですね。
←引用終了>
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●[3・16]原子力機構副部門長 茅野(ちの) 政道さん(56)
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/tohokujisin/oneyear/120311-1-5.html
<引用開始→
◆SPEEDI「生みの親」 避難に使われず残念
原子力安全委員会から電話があったのは、三月十六日の昼ごろ。安全委のもとでSPEEDIを活用することになったので「来てほしい」と。茨城県東海村からタクシーと高速バスで東京に行き、その日の夜に安全委に入りました。
SPEEDIの計算結果を見て、ちゃんと動いていると分かり、ほっとしました。放射能濃度の実測値を使って逆算して放出量を推定し、それを基に予測できますよと、安全委員に伝えると「じゃあ早速始めましょう」ということになった。
その頃は千葉市の日本分析センターや茨城県東海村の日本原子力研究開発機構(原子力機構)でも大気中の放射能濃度のデータが取れるようになっていた。そのデータも使い、「逆推定」をやりました。
計算結果の図を初めて公表したのは三月二十三日。図が出来上がったのはその日の朝でした。原発から三十キロ以上離れた所で、甲状腺被ばく線量が一〇〇ミリシーベルトを超えるとの予測が出て驚いた。すぐ委員に連絡し、首相官邸に報告しました。
次に計算結果を発表したのは四月十一日。三月二十三日から間が空いたが、今思えば、もう少し短い間隔で発表すればよかったかなと思います。
政府の事故調査・検証委員会は中間報告で「拡散方向などを予測でき、少なくとも避難方向の判断に有効だった」と指摘したが、その通りだと思う。SPEEDI「生みの親」とすれば避難の判断に用いられなかったのは残念です。マニュアルを読めば、放出量が分からなければ避難などの対策に使えないとなるが、緊急時はそんな話ではないでしょ。臨機応変にやらないと。
←引用終了>
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●[3・17]コンクリポンプ車を提案 出口 秀夫さん(66)
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/tohokujisin/oneyear/120311-1-1.html
<引用開始→
◆弱い装備「こりゃダメだ」 再三の門前払い めげずに説得
原子炉への注水にはもっとすごい装備が出てくると思っていたんだよ。でも出てくるのはヘリとか、消防車とか、デモ隊を散らす警察の放水車とか、そんなのばっかり。こりゃダメだと思ったよ。
大型コンクリートポンプ車を造るドイツのプツマイスター社の日本法人の社長をやってたから、ポンプ車の特徴は分かっている。誰も気付いてないなら、恥をかいてでも、自分が動かなくてはあかんと思った。
最初に行ったのは東京・築地の朝日新聞本社。マスコミなら何とかしてくれると思ったから。十七日の朝四時半に起きて、始発電車に乗り、埼玉県春日部市の自宅から一時間かけて向かった。守衛に「誰かに会わせて」と頼んだけど「取り次ぐことはできない」と、追い返された。
それから、近くの築地警察署に寄った。用意していたポンプ車の仕様書を見せて「こうすりゃ、大丈夫だから。上の人に伝えてよ」と説明したんだが、署の人は「本官に言われましても…」。ギャンギャン言っているうち、東京電力の電話番号を教えてくれたから、その場でかけてみた。
ホットラインかなと期待したけど、出たのはお客さま係。ポンプ車というのは(旧ソ連)チェルノブイリ原発の(全体をコンクリートで覆う)石棺作業でも使われたんだと一生懸命に説明した。向こうでは「当社はチェルノブイリの研究もしておりますから、みんな分かっていると思います」なんて言っていた。体裁良くあしらわれた感じだったな。
その後も、読売新聞に行ったり、国会議員を紹介してもらおうと知人の会社を訪ねたりしたけどダメ。家に戻ったら夕方になっていた。居間で寝転がったら「チキショー!」という気持ちがわいてきて、また外に出た。
春日部市内の東電の事務所でも仕様書を見せて説明した。丁寧に応対してくれたけど、「上司に言っておきます」と言うだけ。打つ手がなくなったので、選挙熱心な昔の上司の奥さんに電話して「誰か議員を紹介して」と聞いてみた。それで公明党の野上純子都議を紹介してもらえた。
野上さんに「ヘリとか放水車とかより、こっち(ポンプ車)の方が断然いい」と言ったわけ。そしたらすぐに動いてくれた。門前払いの繰り返しで不満がたまっていたこともあって、野上さんに「これで分からなければ日本政府も屁(へ)だ」と言ってしまった。
間もなく党代表の山口那津男さんから電話があって「あなたの案は(原子力災害)対策本部で採用されました」と。びっくりしたけど、あきらめずに良かったなと思った。
大型ポンプ車が日本に入ったのは、私が手掛けた一九九四年が最初だと思う。海外ではポンプ車がタンカーの重油漏れ事故でも活躍している。日本でも災害用に用意しておけばもっと対応がうまくいくんじゃないかな。
←引用終了>
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●[3・18]ハイパーレスキュー隊員 成宮 正起さん(42)
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/tohokujisin/oneyear/120311-1-6.html
<引用開始→
◆暗中、頼りは仲間の声だけ
東京消防庁のハイパーレスキューは宮城県気仙沼市の被災地で救援活動を始めていた。その交代要員になるだろうと思っていたら、十七日になって福島への出動に備えるように言われました。
第六方面本部(足立区)に招集され、(高さ二十二メートルから放水する)屈折放水塔車と、(遠距離に大量の水を送る)スーパーポンパーを使った放水訓練を繰り返しました。
夜、新井雄治消防総監(当時)から「国運が懸かっている」と訓示があり、隊員一人ずつと握手していただいた。「危険な現場。でも誰かがやらねば」と覚悟を決めました。
翌十八日午前三時ごろ第一次派遣隊百三十九人の一人として出発しました。福島県いわき市内で、三つの方面本部のハイパーレスキューが合同で最後の訓練をし、夜十一時すぎに原発に入った。
タービン建屋の海側はがれきが散乱して車両が入れないので、原子炉建屋の山側に放水塔車を寄せた。そこからスーパーポンパーのホースを海まで約八百メートル延ばすのが私の任務です。車で四百五十メートル進み、1号機の角を曲がったところで津波で流された巨大なタンクが道をふさいでいました。その先は直径十五センチ、長さ五十メートルのホースを手作業でつなぐ「手広め」をせざるを得なかった。
夜中だし、原発そのものからは何の音もしない。異様な雰囲気です。線量計は防護服や防火服を着込んだ内側に付けており、作業中は数値を見られない。ピーピー鳴ってるんですが、みんなマスクをして大きな声を張り上げているので、ほとんど聞こえなかった。
消防活動は、五感に頼るところが多い。だけど、今回は火事みたいに火が見えるわけでも、パチパチ音がするわけでもない。防毒マスクをしているから、においもかげない。どれだけ危険か判断しづらい現場で、頼みの綱は線量を測って「今、何ミリシーベルト」と伝える仲間の声だけでした。
放水に成功して達成感はあります。でも、現場では今も収束作業が続く。地元に帰れない人もいます。そういう話を聞くと、われわれの任務はほんの一コマだったのかなという感じがします。
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