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「俺、廃炉まで生きてっかなあ」福島県広野町
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/accident/545542/
2012/02/12 11:03 産経新聞
自分の小ささに気付くのは、人が何げなく発した言葉だったりする。
昨年末の福島県広野町。いまも原発関連の作業に従事する建設会社の男性が問わず語りにつぶやいたのはこんな言葉だった。
「俺、廃炉ん時まで生きてっかなあ」
廃炉までは最長40年かかる、と政府は試算している。男性は30代。となれば、廃炉のときは70過ぎ。いや、そんなことは知っていたはずだった。震災からの復旧は遠い道のりだ。東日本大震災から11カ月。復旧は少しずつ進んでも、ゴールは見えない。でも、それを自分の人生に照らすなんて思いもよらなかった。自分が廃炉までここにいるとも。
取材をしていると、自分も被災者になったような錯覚を覚えることがある。それは嘘。独身男に子供を亡くした親の気持ちが分かるだろうか。もらい涙も嘘と言い聞かせ、せめてもの矜持(きょうじ)を「報道を続けること」に見いだしていた、はずだった。その自分は廃炉の前に被災地を離れることを漠然と考えていた。驚いた。恥ずかしかった。それが現実だった。
記者の仕事はニュースを探して報じて売ること。ニュースがあれば、ほかの人が行かないようなところにも打って出る。「よく、こんなところまで…」。そう被災者に言われたのは一度ではない。だが、それはほかにニュースがあれば、その被災者すらも置き去りにして別の場所に飛んでいくことの裏返しでもある。
「また来てけらい。仮設に移っても」。避難所で何人に言われただろう。記者はその言葉にうなずきつつも、行っていない。
作業員の男性は震災前から原発関連の工事に従事していた。震災直後から原発の収束作業に入った。がれきをかきわけ、電源接続に奔走したため、被曝(ひばく)線量はとうにたまりきっている。原発敷地内からは離れても、いまも除染などで収束に関わる。
除染が終わっても、中間貯蔵施設がいずれ造られる。津波被害の復旧工事もある。最後は廃炉の作業が待っている。全部引き受ける覚悟で、作業員はきょうも全国から集まってくる。
原発は震災前からあった。稼働停止後も厳然と存在し続けている。当たり前だが、原発に限らず、地震で破壊された被災地も津波ですべてをさらわれた被災地も、震災前からの歴史があり、生活があった。
廃炉まで生きているか。そこで生活してきた者にとっては至極当然の問いだ。そこに思いをはせられなかったのは、記者はしょせん傍観者だからだ。
宮城に入ったのは昨年3月。無力感に襲われる自分に気付かぬふりをしながら報道を続けて11カ月がたった。今月からは福島に異動した。いろんなものを置いてきた。無力な傍観者にできることは何か。別の作業員の言葉を思い出す。
「原発が直るかはわからない。でも、やらなかったらいつまでたっても直らない。だから、やる。それが職人だろ?」(福島支局 荒船清太)
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