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共同通信連載企画原発編 原発と国家 第2部「『立地』の迷路」
http://www.asyura2.com/12/genpatu20/msg/907.html
投稿者 千早@オーストラリア 日時 2012 年 2 月 13 日 18:31:21: PzFaFdozock6I
 

@原子の火がともった 草創期の期待と高揚

<画像>東京電力の最初の原子力発電所で、1967年9月に1号機が着工、1971年3月に営業試運転を開始した。写真左奥から右手前に向かって完成済みの1号機建屋、1969年5月に着工して建設中の2号機、1970年10月着工の3号機=1971(昭和46)年5月5日整理(撮影月日不詳)、福島県双葉郡大熊町(福島第一原子力発電所)
http://www.47news.jp/47topics/tsukuru/article/post_18.html

福島第1原発事故は、「安全神話」の陰で住民の危険を棚上げにし、都会に電力を送り続ける構図を明るみに出した。国策だった巨大事業がもたらした惨事は今後の「都市と地方」の在り方に大きな影を落とす。「立地」の迷路をさまよったフクシマの足跡をたどる。

   ×   ×

 「ただいま臨界に達しました」。1970年7月、東京電力の職員だった志賀秀朗(しが・しゅうろう)(79)=福島県大熊町前町長=は、真新しい「福島原子力発電所」の事務棟で、構内に流れたアナウンスを誇らしい思いとともに聞いた。1号機の炉に"原子力の火"がともったのだ。

 関西電力の美浜と運転開始の時期を競い合った、国策プロジェクト。高揚感で、社員たちのほおが紅潮する。「ばんざーい」の歓声、振る舞われる日本酒。志賀の胸に「これで地元が豊かになる」との期待が膨らんだ。

 東電が原子力導入に本格的に取り組み始めたのは55年10月、社内調査委員会設置にさかのぼる。

 後に"原子力村のドン"と呼ばれる元副社長の豊田正敏(とよた・まさとし)(87)は、11月に社長室に新設された原子力発電課の主任を命じられた。31歳だった。「まだ研究も初期段階。電力会社がやるのは時期尚早と思ったが、社命だったから全力だった」

●平和利用

 急ぐのには理由があった。東西冷戦下の53年12月、アイゼンハワー米大統領が国連総会で「原子力の平和利用」を唱え、核技術の民生転用が現実化。55年8月にジュネーブであった第1回原子力平和利用国際会議では、ソ連が世界で初めて運転を開始した原発の詳細な報告書を公表し、各国に衝撃を与えていた。

 豊田たちは分担して海外論文を読み進め、専門用語を日本語に移し替える。「ウラン『濃縮』は本当は『富化』としたかった」。敗戦国の若者たちが巨大技術の移入のため、汗を流した。

 日本でも54年、改進党の中曽根康弘らが初の原子力予算を国会に提案、成立。56年には原子力委員会が発足し、初代委員長に正力松太郎が就いた。電力会社と三菱、三井など旧財閥系の国内重電機メーカーは日本原子力産業会議を立ち上げた。

 主導権を政府と民間のどちらが握るか。政界を巻き込む路線対立の末、60年1月に官民共同出資の日本原子力発電(原電)が茨城県東海村に初の商業炉建設を開始する。

 「このころ米国から火力並み原価で発電できることが伝わり、電力各社も原子力をやるという流れになった」。豊田は原電に出向し、東電の同僚は用地選びのため各地を駆け回ることになった。

●同郷人脈

 福島県では地元政治家が活発に動いていた。57年に県知事に就任した佐藤善一郎(さとう・ぜんいちろう)は翌58年には、県内で原発立地が可能かどうかの検討をひそかに部下に命じていた。

 佐藤は、60年に通産政務次官を務め、後に福島県知事となる木村守江(きむら・もりえ)と緊密に連絡を取った。伝記には「原子力といえば原爆と同じと考えられていたので調査は慎重を期し、政治生命にかかわる一大事業と目されていた」と記されている。

 福島県梁川町(現伊達市)出身で東電会長にまで上り詰め、"東電の天皇"とも称された木川田一隆(きかわだ・かずたか)は常務だった52年ごろ、福島県議の突然の訪問を受けた。後に国政に転身し、建設族の実力者となる天野光晴(あまの・こうせい)だった。

 天野は福島県庁建て替えの寄付を募り、電力会社を回っていた。「双葉町出身の天野と木川田と、同郷同士『通訳のいらない付き合い』が始まった」。天野の元秘書塩谷憲一(しおや・けんいち)(64)が明かす。

 自伝によれば、天野は60年代初め「浜通り(地方)の電力開発で地域振興をする」との構想を抱く。原子力に意欲的な木川田とこんなやりとりを交わした。「オレの郷里はどうだ」「条件がとてもいい。頼む」(敬称略)(中井信晃)


A候補浮上も過疎ゆえ 誘致決定、沸く住民

<画像>福島第1原発近くの磐城飛行場跡記念碑=1989年撮影、福島県大熊町
http://www.47news.jp/47topics/tsukuru/article/post_20.html

 「猪苗代の電気がないと山手線は全部止まる」。福島県南会津郡出身の民主党最高顧問渡部恒三(79)は学生のころ、福島の水力発電所が東京の基幹交通網を支えていると教えられた。戦前から首都圏への電力供給基地だった福島。「俺んとこと双葉は貧しかった。戦争の後、南会津は只見川の電源開発、双葉は原発で豊かになったんだな」

 双葉郡の名前が原子力の歴史に登場するのは1960年。知事の佐藤善一郎が県議会で「後進地域である双葉郡の開発のため、『最も新しい産業』をこの地に誘致したい」と答弁。大熊、双葉町は61年、過疎地対策として県や東京電力に立地を陳情し、東電は用地取得を決めた。

 原発の立地条件は、原子力委員会が決定。「原子炉立地審査指針」で@一定距離の範囲が非居住区域A非居住区域の外側は低人口地帯B敷地は人口密集地から一定距離だけ離れている―の3条件を列挙する。

●特攻基地

 東電が66年7月に国に提出した書類では、予定地の半径30キロ以内の人口密度は1平方キロメートル当たり97人。「周辺半径1キロ以内に人家は存在しない」非居住区域で、これ以上ない格好の場所だった。

 "過疎"ゆえに建設された原発は40年後に事故を起こし、この同心円から次々に住民たちが避難することになる。

 選ばれた土地は第2次大戦中、特攻隊の訓練基地だった。大熊町出身の建設会社社長佐藤久夫(さとう・ひさお)(73)は、太陽光をまばゆく反射する米軍戦闘機が連日、飛行場を攻撃する光景を覚えている。「熱い薬きょうが雨のように降り注いだ」。戦後、住民は太平洋の海水で天日式の製塩業を始めた。

 佐藤の父もその一人。周辺の約100万平方メートルを買収した国土計画興業(現コクド)も製塩に乗り出す。「薪として使った阿武隈高地の木材が少なくなり、行き詰まった」と佐藤。製塩方式の発達もあり国土計画もやがて撤退した。

 70代の元東電職員、西川茂(仮名)は戦後、両親とともに開拓民として関東地方から大熊町にきた。父母と陸稲、菜種油、大豆を約10年つくったが、収入にならなかった。町では男性の約3分の1が出稼ぎせざるを得ず、西川のような開拓民の大半も同様だった。

●共存共栄へ

 西川はあっせん業者に誘われ60年、五輪開催前の景気に沸く東京へ。首都高や、ヨット競技会場となった神奈川県・江の島のヨットハーバーの建設に携わる。大熊町民はそれぞれの現場に10人ぐらいいた。「日当は約1200円。町の相場の4倍はあった」。西川の2人の妹も中学を卒業後、東京へ集団就職した。

 東電は63年8月、大熊町の国鉄大野駅前に「福島調査所」の仮事務所を設置、建設に向けた足掛かりとした。仮宿舎に寝泊まりした約30人の社員は地質、気象、地震調査のほか、町に反対運動が起きる素地がないかどうかも調べていた。

 仮事務所を提供したのは大熊町商工会長の蜂須賀礼子(59)の父。礼子は小学生のころ、社員に海やいわき市のレジャー施設「常磐ハワイアンセンター」に連れて行ってもらった。「中学の入学祝いに万年筆を10本もらい、同級生に自慢した」。姉は東電に就職、社員と結婚する。町は東電との「共存共栄」へ一歩を踏み出そうとしていた。(敬称略)(伊藤元修)


B「電力」と蜜月始まる 誘致決定、沸く住民

<画像>建設中の福島原子力発電所=1968年6月
http://www.47news.jp/47topics/tsukuru/article/post_19.html
★転載者注:このBは、先のAと副題も中味も同じなので、47NEWSの手違いではないかと思います。とりあえず元のまま転載しますが、あとで訂正ページが出来たら私乃至、どなたでも気づいた方が転載してくださるよう、お願いしておきます(注、終わり)。

 「猪苗代の電気がないと山手線は全部止まる」。福島県南会津郡出身の民主党最高顧問渡部恒三(わたなべ・こうぞう)(79)は学生のころ、福島の水力発電所が東京の基幹交通網を支えていると教えられた。戦前から首都圏への電力供給基地だった福島。「俺んとこと双葉は貧しかった。戦争の後、南会津は只見川の電源開発、双葉は原発で豊かになったんだな」
 
双葉郡の名前が原子力の歴史に登場するのは1960年。知事の佐藤善一郎(さとう・ぜんいちろう)が県議会で「後進地域である双葉郡の開発のため、『最も新しい産業』をこの地に誘致したい」と答弁。大熊、双葉町は61年、過疎地対策として県や東京電力に立地を陳情し、東電は用地取得を決めた。
 
原発の立地条件は、原子力委員会が決定。「原子炉立地審査指針」で@一定距離の範囲が非居住区域A非居住区域の外側は低人口地帯B敷地は人口密集地から一定距離だけ離れている―の3条件を列挙する。

●特攻基地

 東電が66年7月に国に提出した書類では、予定地の半径30キロ以内の人口密度は1平方キロメートル当たり97人。「周辺半径1キロ以内に人家は存在しない」非居住区域で、これ以上ない格好の場所だった。

 "過疎"ゆえに建設された原発は40年後に事故を起こし、この同心円から次々に住民たちが避難することになる。

 選ばれた土地は第2次大戦中、特攻隊の訓練基地だった。大熊町出身の建設会社社長佐藤久夫(さとう・ひさお)(73)は、太陽光をまばゆく反射する米軍戦闘機が連日、飛行場を攻撃する光景を覚えている。「熱い薬きょうが雨のように降り注いだ」。戦後、住民は太平洋の海水で天日式の製塩業を始めた。

 佐藤の父もその一人。周辺の約100万平方メートルを買収した国土計画興業(現コクド)も製塩に乗り出す。「薪として使った阿武隈高地の木材が少なくなり、行き詰まった」と佐藤。製塩方式の発達もあり国土計画もやがて撤退した。

 70代の元東電職員、西川茂(仮名)は戦後、両親とともに開拓民として関東地方から大熊町にきた。父母と陸稲、菜種油、大豆を約10年つくったが、収入にならなかった。町では男性の約3分の1が出稼ぎせざるを得ず、西川のような開拓民の大半も同様だった。

●共存共栄へ

 西川はあっせん業者に誘われ60年、五輪開催前の景気に沸く東京へ。首都高や、ヨット競技会場となった神奈川県・江の島のヨットハーバーの建設に携わる。大熊町民はそれぞれの現場に10人ぐらいいた。「日当は約1200円。町の相場の4倍はあった」。西川の2人の妹も中学を卒業後、東京へ集団就職した。

 東電は63年8月、大熊町の国鉄大野駅前に「福島調査所」の仮事務所を設置、建設に向けた足掛かりとした。仮宿舎に寝泊まりした約30人の社員は地質、気象、地震調査のほか、町に反対運動が起きる素地がないかどうかも調べていた。

 仮事務所を提供したのは大熊町商工会長の蜂須賀礼子(はちすか・れいこ)(59)の父。礼子は小学生のころ、社員に海やいわき市のレジャー施設「常磐ハワイアンセンター」に連れて行ってもらった。「中学の入学祝いに万年筆を10本もらい、同級生に自慢した」。姉は東電に就職、社員と結婚する。町は東電との「共存共栄」へ一歩を踏み出そうとしていた。(敬称略)(伊藤元修)


C宙に浮く「第3」計画 安全神話の萌芽も

<画像>東北電力が計画している浪江町・小高町の原発予定地
http://www.47news.jp/47topics/tsukuru/article/post_21.html

 福島県大熊、双葉両町が原発建設の熱気に沸いていた1960年代後半、東北電力によるもう一つの原発計画が、隣の浪江町で動きだしていた。

 68年1月4日、知事の木村守江が年頭の記者会見で建設内定を明らかにし、翌日には東北電が発表。実は約7カ月前に町議会が誘致決議をしていたが、多くの住民に計画は寝耳に水だった。

 「相談もなく誘致して許せない。土地は絶対に売らない」。無視された形の農民らは「反対同盟」を結成。根強い抵抗に、電力や行政側による切り崩しが始まった。

 原発は浪江町と小高町(現南相馬市)に一部またがる約150万平方メートルに建設する計画。反対運動にかかわった浪江町の元中学教諭大和田秀文(おおわだ・ひでふみ)(78)によれば、予定地は、高台の北部と低地の南部に分かれていた。

 「北は入植者が多く、南は先祖代々からの土地で愛着が強い。北が狙いをつけられ、崩された」

●地権者対策

 相場の地価より4、5倍は高い額を示され「お土産付きの原発旅行」もあった。「最初は団結していたが、懐柔工作は強まった。飲ませ食わせ、あとは金。土地の売却を約束すると、役場や東北電への就職の口利きもあった」と大和田は話す。

 40年以上たった今、ほとんどの地権者が用地買収に同意した。しかし一部の根強い反対に、いまだ買収は終わらない。

 対照的に、東京電力は80年代までに、浜通り地方の沿岸に第1、第2原発合わせ10基の原子炉を並べることに成功した。

 「おっとりと構えている東北電と比べ、地権者対策にたけていた。強引に説得し、狙った獲物は逃さない」。浪江町の町長馬場有(62)が両社の社風の違いを説明する。

 立地は順調だった東電だが、運転開始後は放射性物質を含む廃液漏えいなど多くのトラブルが明らかになり、地元対策の中心は「利益誘導」から「不安解消」に移る。

●原発所長

 「地元の医師が第2原発の建設に反対したときは飲み屋の2階で説得した。5、6回会って『おまえがそんなに言うなら間違いないだろう』と最後は納得してくれた」。元東電副社長の豊田正敏(87)は振り返る。

 公民館での説明会に住民を集めるため『男はつらいよ』を上映したことも。原発の所長経験者は「住民は技術面を理解して安全だと納得するわけではない。日ごろ酒を酌み交わし『所長が言うから大丈夫』という信頼を得てきた」と胸を張る。

 大熊町の元原子力担当課長も東電を信頼していた。77年、ノズルのひび割れが相次ぎ、立ち入り検査に立ち会った。何十センチものひび割れを間近に見たが、社員は「表面だけで、修復は可能です」と事もなげに言った。

 「ああそうですか」としか返せなかった。元課長は「専門的なことになると分からない。大丈夫ですと言われれば、大丈夫と思うしかない」と自嘲気味に話す。

 専門用語を振りかざし強調される安全。ある住民は「催眠術のようだった」と語る。「安全神話」が深く浸透していく。

 大震災の後、東北電は浪江町の計画を「検討中で未定」としており、白紙となる可能性も。しかし、馬場は避難先の二本松市にある臨時役場で言葉を選ぶ。「議会の決議もあるし土地を提供した人もいる。軽々には結論は出せない」。いまだ迷路の中をさまよう。(山内和博)


D財政危機でも依存続く交付金"中毒"に

<画像>福島第1原発から約3キロの双葉町。無人となった町には「原子力明るい未来のエネルギー」と記された看板が
http://www.47news.jp/47topics/tsukuru/article/post_22.html

 立地に伴う交付金や固定資産税、核燃料税、電力会社の寄付金。財政規模に見合わない巨額の原発マネーが流れ込む。福島県双葉町には1980年代、後戻りのできない変化が表れ始めた。

 自治体に交付金を手厚く配る「電源3法交付金制度」が生まれたのは、田中角栄内閣の74年、第1次石油ショックの翌年だった。「ありがたいという話だったよ。地元はそれは喜んだ」。福島県出身の民主党最高顧問、渡部恒三(わたなべ・こうぞう)(79)は振り返る。交付金という"蜜"で立地を促進するシステムの確立だった。

 2基の原発を抱える双葉町への交付金は87年度までの14年間で約34億円。固定資産税は多い年で約18億円で、歳入の半分を占めた。町は下水道や町道、図書館整備など公共工事に突き進む。

 地元の建設会社社長は「先に原発ができ、4基がそろった隣の大熊町に比べ、双葉町は2基で交付金が少ない。大熊が立派な施設をつくると聞けば、こっちも負けてはいられないという雰囲気があった」と話す。

●ツケ

 80年代後半以降、交付金の適用期限は切れ、固定資産税は年を追うごとに減価償却が進み、減収が続く。過大な公共事業のツケと施設運営費で財政難に陥った。町議会は91年、原発増設を求める決議を可決。財政の穴を新たな「立地」で埋める道を選んだ。

 当時の町長は岩本忠夫(いわもと・ただお)。社会党県議時代は「反原発のリーダー」と言われたが、85年に町長になると推進派に転向。決議後も「できてもいないのに増設で入る金をあてにして、先に金を使っていた」(町幹部)という。

 知事だった佐藤栄佐久(さとう・えいさく)(71)は「麻薬中毒患者が『もっと薬をくれ』と言っているのと同じではないか」と振り返る。

●改ざん

 東電は第1原発に7、8号機の増設を目指す。94年、社長の荒木浩(あらき・ひろし)(80)は知事公舎を訪問し、今は原発事故対策の拠点となったサッカーのトレーニング施設「Jヴィレッジ」建設を持ち掛けた。元幹部は「増設の突破口だった」と明かす。

 2001年の地方博「うつくしま未来博」。開催に合わせ、東電は、県内に電力を供給する東北電力より寄付額を少なくしたいと打診。するとある県幹部は「それだったら福島から原発は出て行ってください」と言い放つ。東電は県の意向に神経をとがらせていた。

 02年には長年にわたる東電の原発検査記録の改ざんが発覚。隠蔽(いんぺい)体質に対する批判が高まり、佐藤は検査のため停止している原発の再起動容認にかたくなな姿勢を見せ、町も決議を凍結せざるを得なくなった。

 町長が井戸川克隆(いどがわ・かつたか)(65)に代わり、佐藤も弟の逮捕で辞職した後の07年、町議会は凍結を解除する。町は建設予定地への初期交付金を国に申請、約39億円を手に入れた。「結局、次も原発だった」と建設会社社長。

 「未来永劫(えいごう)、原発に頼れるわけではない」と考えていた井戸川は05年の就任直後、総務課長に「予算を組めません」と訴えられたという。財政状況は想像以上に深刻で、09年までに、原発立地自治体として全国初の財政健全化団体に転落した。

 頼みの原発による事故で避難を強いられ、町は存続の危機にある。「これから脱原発の百年計画を立てようとしていたのに」と井戸川。東電が増設中止を表明したのは事故から2カ月たった5月20日だった。(敬称略)(山内和博)


E全国転々、郷里に愛着 運転支えた作業員

<画像>福島第1原発2号機の原子炉建屋に入る作業員=5月(東京電力提供)
http://www.47news.jp/47topics/tsukuru/article/post_23.html

 「立地」により地域社会に大きな変動をもたらした原発。その稼働を実際に支えたのは、高い放射線量下の危険な作業を担った労働者だった。定期検査のスケジュールに合わせ全国の原発を転々としながら、事故後の今も生まれ育った地元への愛着を捨てないでいる。

 福島県楢葉町の原発作業員、今田和義(23)=仮名=は大震災発生時、定検中の第1原発4号機原子炉建屋2階で配管工事を終え、高さ約4メートルの足場で後片付けをしていた。突然襲った激しい揺れ。柱に必死にしがみつき、事務所まで逃げた。

 翌3月12日朝から千葉や東京に避難。下旬には社長や従業員の家族ら約20人と石川県・志賀原発近くの能登半島の町へ。元請けから「人が足りない。来てくれ」と催促があったが、作業や補償の内容がはっきりしなかったので社長が断った。

●父子で

 今田は中学を卒業後、いわき市の土木会社に就職。東北各県のダム建設工事にかかわっていたが、公共工事の受注が減り、約4年前からは原発作業が中心になった。

 父(62)も約30年間、「全国すべての原発で働いてきた」と今田。仕事の話は全くしない。同じ道に進むと決めたとき、「次は原発だから」「ああ、おめもか。ほかに仕事もないし、しゃんべ(仕方ない)」と話したぐらいだ。

 今田も原発を東海、浜岡、島根、福島第2と渡り歩いた。日当は1万円。8千円から始まり500円ずつ上がるのがうれしかった。会社は5次か6次下請けと思うが、正確には分からない。

 初夏にはアユ釣りをした大好きな木戸川。よく泳いだ美しい海。一時帰宅は3月末に一度、果たしたきり。自宅の町営住宅からは作業服と携帯ゲーム機だけ持ち出した。5月からはいわき市の姉の家に移り、停止中の東電広野火力発電所に通い、再稼働に向け作業用の足場づくりをしている。

 「原発で働くことに迷いはない。社長にはお世話になっているし。ホウカン(放射線管理担当者)さんが線量を測ってくれるので、気にならないっすよ」と事もなげだ。

 話が家族や故郷に及んだとき、あどけなさを残す顔がゆがんだ。父は東京の親戚宅に避難している。「家なし子になった。帰れないと考えたら、頭がおかしくなる」

●怖いが...

 前川雅己(54)=仮名=は20年以上原発で働く。南相馬市の工業高校を卒業後、地元のごみ焼却施設で働いていたところ、重機の運転の仕事を紹介された。48本のタイヤがついた大型車両で原子炉の圧力容器を志賀原発に運んだり、第1原発に燃料を搬入したりした。

 大震災当日、4号機タービン建屋地下で、作業員たちの監視員をしていた。事務所へ向かう際、津波を恐れたが、周囲の作業員たちが意外なほど冷静だったので、皆と同じように歩いて逃げた。

 妻(38)や息子3人は県内の避難所に。泣かない子だった三男(7)がちょっとしたことですぐ泣き叫ぶようになった。

 会社が借りたいわき市のアパートから広野火力に通う。「作業員は戦時中の特攻隊みたい。本音言ったら怖いけど、われわれみたいな下請け業者は一度断ると声がかからなくなる。声がかかれば行くしかないよね」

 東京電力によると、第1原発の作業員は昨年7月現在で6778人。うち5691人が下請けの社員で、福島県出身は5174人だった。
===================================================

「原発と国家」はこのあとも、
3.「電力改革の攻防」
1 2 3 4 5
4.「『電力』の覇権」
1 2 3 4 5 6 7
5.「原子力の戦後史」
1 2 3 4 5 6 7
6.「原子力マネー」
1 2 3 4 5 6

と出されています。

【日本を創る】東日本大震災がもたらした未曾有の惨禍からどう立ち上がり、新しい日本をいかに創るか
http://www.47news.jp/47topics/e/tsukuru.html
から、ご覧ください。  

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