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田中角栄と原発〜田中角栄首相時代、1973年オイルショックが引き金となり原発計画が急増
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週刊朝日 2012/02/03号 :平和ボケの産物の大友涼介です。
戦後に産声を上げた日本の原子力産業。初の商業用原子炉から半世紀、今や54基が立つ。その一大転機が1970年代だった。原発建設ラッシュは、何故、どのように、始まったのか。背後には遠い中東の戦争と石油危機、そして一人の辣腕政治家が浮かぶ。(ジャーナリスト・徳本栄一郎氏)
■「過去のことはプロローグに過ぎない」
手元に一通の英文報告書がある。日付は1974年9月3日、作成者は米国のDIA(国防情報局)である。
DIAとは国防総省の情報機関でCIA(米中央情報局)と並ぶエリート組織だ。全世界を舞台に政治・軍事情報を収集している。
表紙に「SECRET](機密)とタイプされた文書のタイトルは「日本と台湾の原子力計画」。両国の原子力発電、核兵器開発を分析した内容である。約40ページの報告はこう記述した。
<エネルギー需要の多くを海外に依存する日本は原発を急速に推進している>
<当初は米企業から軽水炉を購入したが、今や独自に原子炉の設計・建設能力を開発した。原発立地や核燃料の確保、使用済み燃料の処理に重点を置いている>
英国の劇作家ウィリアム・シェークスピアの戯曲に「過去のことはプロローグに過ぎない」という台詞がある。歴史上のあらゆる出来事には様々な人間の思惑が絡む。それが積み重なり次のドラマを演出する。38年前のDIA報告は、まさにこの言葉を体現していた。
昨年の福島第一原発事故は未曾有の惨事となった。東日本大震災は炉心溶融と水素爆発を起こす。大量の放射能が漏れ出る史上最大規模の事故となった。今後廃炉まで膨大な時間と労力が費やされる。
■田中が握った原発シフトの鍵
ここで素朴な疑問が浮かぶ。地震と原発の危険性は長年指摘された。有数の地震国、日本になぜ54基の原発が造られたのか。過去の建設実績をみると一定のパターンがあるのに気付く。
日本の原子力産業は昭和30年代に誕生し、1066年、最初の商業用原子炉が運転を再開した。72年3月末の基数はわずか4基。それが76年3月末に12基、81年には22基に増加した。その後も順調に増え続け現在54基、総発電量の3割を占めることとなった。
これをみると70年代初め、大きな転機を迎えたことがわかる。これを境に堰を切ったように官民挙げた官民挙げた建設ラッシュが起きている。
一体何があったのか。
当時の首相は「庶民宰相」田中角栄である。そして、この田中角栄こそ原発シフトの鍵を握っていた。
その経緯を米国の国家安全保障アーカイブの文書から見てみる。
話は72年の夏に遡る。この年の7月、佐藤内閣が退陣し田中内閣が誕生した。翌月の8月19日、田中は軽井沢の万平ホテルで、ある米国人と会談した。
ヘンリー・キッシンジャー、ニクソン米大統領の特別補佐官である。国家安全保障を担当し、米外交を担った人物だ。半月後の日米首脳会談の打ち合わせに来日したのだった。彼が大統領に送った報告を見てみる。
<田中が日米経済問題にかなり積極的に対処する可能性は高い。彼は(日米首脳会談前に)経済対策をまとめて、来年3月末までに日本の貿易黒字を10億ドル近く削減するよう大臣に指示したと語った>
<田中は我々の求めに応じて米国産穀物、濃縮ウラン、航空機、軍備、その他の農産品、工業製品を購入すると話している>(72年8月19日、ホワイトハウス文書)
当時、日米の最大の問題は貿易不均衡だった。60年代の高度成長で日本は世界第2位の経済大国となる。それに比例して増加したのが対米貿易黒字だった。米国は執拗に改善を求めたが効果は出ない。その解決策に田中はウラン輸入を考えたのだ。
実は、以前から米国も原発の対日輸出を狙っていた。高度成長で日本の電力需要は急増した。だが公害問題などで火力発電は増設が難しい。脚光を浴びたのが原発だった。
■石油危機で青くなった電力会社
田中の前任者、佐藤栄作首相は1972年1月、米国でニクソン大統領と会談した。この直前、駐日米国大使館が送った公電がある。
<日本は野心的な原発計画に乗り出し、1980年までに2万7千メガワットの発電能力を目指している>
<円高と規制緩和にかかわらず貿易不均衡は続き、米サンケレメンテでの会談で田中通産大臣(当時)と水田大蔵大臣(当時)に原発設備の輸出を持ちかけるのが極めてふさわしい>(1971年12月30日、国務省文書)
このため、米国大使館は米原発メーカーの「ゼネラル・エレクトリック」や「ウェスチングハウス」と協議を重ねた。ウラン輸入は強力な援軍だったのだ。
その中で、田中政権を根底から揺さぶる事件が起きた。それが田中を原発立地に突き動かしていった。世界を震撼させた石油危機である。
73年10月6日、エジプト軍とシリア軍がイスラエルを奇襲攻撃、第4次中東戦争が始まった。同月17日、アラブ産油国は友好国以外への原油生産削減を決定した。対イスラエル外交の変更を迫る石油戦略である。
当時、日本は石油の99%を海外に依存し、その80%は中東から輸入していた。
禁輸の恐怖で洗剤やトイレットペーパーが不足する。買占めが横行しインフレも急伸した。成長を謳歌した日本にとって、戦後最大の危機だった。
その最中、米国からキッシンジャーが来日した。
国務長官に就いた彼は、欧州やアジアを飛び回っていた。消費国を団結させ、アラブに対抗する狙いだ。11月15日、田中首相と会談した際の米国側議事録を読んでみる。
<「産油国は対日石油供給を半分に減らして圧力を強めるだろう」と田中は語った。アラブ指導者は日本が困難な状況にあるのを知っており、イスラエルに占領地から撤退するよう圧力をかけさせたいという>
<田中は国務長官に助言を求め、「米国は潤沢な油があるので心配するな」と言って欲しいと言う。長官は「米国も十分な油はない」としつつ、日本の問題を緩和する方法を話し合いたいと応じた>(73年11月15日、国務省文書)
一国の首相が米国に油乞いしているようだ。それをキッシンジャーが懸命になだめる。異様な会話だが、この裏には電力会社の深刻な事情があった。
当時、国内の九つの電力会社は年間約5500万キロリットルの燃料を消費していた。これは原油の総輸入量の2割を占め、備蓄も25日程度しかなかった。禁輸は発電用燃料の”欠乏”を意味したのだ。
真っ青になった電力会社9社は緊急社長会を開き、節電や燃料確保を呼びかけた。当時の通産省も大口需要家に電力使用抑制を要請した。だが、それも焼け石に水だった。そして彼らはある切り札に気付く。これならアラブの石油戦略に翻弄されることもない。原子力発電である。
73年12月11日、田中首相は国会でこう発言した。
「石油問題がここまで来たら原子力問題、原子力発電というものがどんなに必要であるかという必要性に対しては、もうまったく議論がないところに至った訳でございます」
「9電力にこれを任しておいて、本件に対して荏苒(じんぜん、物事がはかどらず延び延びになってしまうこと)日を送るということが許されない状態であるということをまず申し上げておきます」(参議院予算委員会)
田中は安全性も、「政府が責任を持ちます」と断言した。国が原発の全面支援を約束したのだ。行動も素早かった。
この発言の3日後、科学技術庁は翌年度の原子力関連予算に300億円の追加要求を表明した。12月末には日本原子力産業会議の幹部が官邸を訪れ原発推進を提言した。田中は全面的に同意した。
また原発増設には核燃料も必要だ。1974年9月、ブラジルを訪れた田中はガイゼル大統領と原子力協力で合意する。11月には豪州でホイットラム首相とウラン安定供給を確認した。
■田中は原発でも「ブルドーザー」
だが国内では反対運動も高まっていた。当時計画中の福島第二原発は住民が行政不服審査法に基づく異議申し立てを行う事態となった。これを国は棄却する決定を下している。
同時に彼は、立地を促す仕掛けも用意した。74年6月3日、国会である法律が成立する。
電源開発促進税法を柱とする、いわゆる電源三法だ。これが原発立地地域に莫大な交付金を落としたのはよく知られる。
原発推進を約束して研究開発予算を増加する。自ら海外を回ってウラン確保を図る。反対運動は力でねじ伏せ、地元に飴も用意する。まさに「コンピューター付きブルドーザー」の異名にふさわしかった。
これらの動きを米国はどう見たか。冒頭のDIA報告が作られたのは、まさに田中が原発に邁進した時期だ。その中に次の記述があった。
<日本の経済・軍事開発の特徴は政府と民間の伝統的な密接な協力である。両者には国家目標の達成に向けた長期的協力関係がある。これは特に原子力産業に当てはまる>
後に「原子力ムラ」と言われる存在を言い当てている。だが、最も驚いたのは「原発立地」の記述だった。
<日本には原発冷却用の水を提供できる内陸の河川は少ない。このため立地は海岸地域に制限される>
このページにはある原発の航空写真を載せていた。海岸沿いに真新しい原子炉が整然と並ぶ。
その下に、<The FUKUSHIMA Nuclear> とあった。
そう、東京電力の福島第一原発である。この37年後、地震と津波で炉心溶融を引き起こす。予言的とすら言えるDIA報告だった。
かつて遠い中東の戦争は日本をパニックに陥れた。そして、国と電力会社は原発建設へ突き進む。福島の事故はその到達点だった。
皮肉なのは石油危機の際、日本の原油輸入は減っていなかった事実である。危機直後の通産省の統計によると輸入量は逆に増えていた。商社や石油会社が高値を覚悟で買い漁ったためだ。油は足りていたのだ。もっと皮肉なのは、日本の高値買いが産油国のさらなる値上げを呼んだことだ。それが原発シフトも加速させた。
70年代以降の原発建設は本当に必要だったか。幻の石油危機に踊らされたのではないか。今こそ過去をプロローグとして徹底検証すべきである。(一部敬称略)」
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