http://www.asyura2.com/12/cult9/msg/891.html
Tweet |
何年か前のことだが、栄子ネーヤン(といえば小池栄子)が主演した邦画に「接吻」という昭和の民放平日枠の二時間劇場を彷彿とさせるような異色のドラマがあった。詳細は覚えていないが、これが「鬱人種が、世の中へ向けて無力ながらの逆襲をする」ことがテーマであった。
鬱で社会から疎外を受けることで未来を見失った男が無差別殺人を起こし、それに同情し助力になりたいと行動にでる主人公の栄子は同じ鬱・ネクラによる差別を受けるOLだった。このストーリーで最初に思い浮かべるのが2001年、大阪の小学校で起こった児童殺人事件だろう。「自分に非はないのにいつでも鬱だというだけで不快な思いをさせられてきた」との生い立ちを語った犯人、宅間守による世の中への復讐が事もあろうに子供相手に行われ8人もの命が奪われた。言語道断の宅間の犯罪には同情の余地はなく、前代未聞の凶悪犯として国民感情を一身に受けて究極の悪の権化を自任したわけだが、そんな中、1人で立ち上がりその圧迫を押し返してやるかのように宅間に近づいてきた女性がいた。2人はまもなく結婚した。
これは美談だろうか。はて。なんだか鬱どもの選民意識のようなものが見え隠れする茶番のように思えてしまうのは私だけだろうか。栄子には悪いのだが・・・・・
ここで私が前回の鬱スレでうったえたことを思い出して欲しい。現在、一番迫害されているのは誰なのか?障害者か?否!外人か?否!貧乏人か?否!同性愛者カップルか?否!母子家庭出身者か?否!ブスか?否!偏差値が体温以下の奴か?否!運動神経の悪い奴か?否!同和か?否!ヤクザか?否!燃えないゴミの識別がつかず毎回却下される奴か?否!楽天イーグルスのグッズを普段着にしている奴か?否!創価学会員か?否!伝染病患者か?否!田代まさしか?否!
現在、虐待をうける圧倒的なチャンピオンは、鬱な奴なのである。悲しいことだがこれが真実だ。戦後、これ以上に辱めをうけ無制限に疎外の対象にされた人種は、地域コミュにも学校にも職場にもリゾートにも決していなかったのである。鬱に人権はない。このことをマスコミは一切いわない。教育委員会は一切触れない。国会は討議しない。これだけ自殺者がいて顕著な社会問題であるのに関わらず、誰もその主要因である鬱と鬱差別を直視できない。これこそが戦後日本における最大のタブーなのである。
鬱同士で、手を握り合って「うんうん、わかる」などといって慰めあっている場合ではないのだ。鬱というのは「被殺人許可証」を背負っているのと同じだということを自覚しろ。宇都宮市郊外に、鬱の独立新国家を創立し、国歌「水割りをくださ〜い」などと合唱したところで、行き着くところは集団練炭吸引パーティーが関の山なのだ。
鬱であることに快適になるな。前回の拙スレでも書いたが、母体を離れて泣かない赤ん坊を無理につねって泣かすように、家を離れて表の世界(幼稚園や託児所が最初だろうか)に出た際にはイジメでもなんでも圧力をかけて抵抗力をつけさす必要があるのだ。それに失敗すると鬱の原型が発生する。ほっておくこと、自然にすること、自分らしくあること、では鬱の対策にはならない。
ニュースステーション時代の久米宏はこういっていたものだ。「どんなにめげているときも、どんなに元気を失っているときも、オンエアの時間になると無理矢理笑顔をつくり、活気を出してやらないとできない仕事です」つまり、日のあたる健常者社会の代表者のようなフリをしている久米でさえ、日々、鬱に人格を乗っ取られないように必死で視聴者に嘘をついていた、ということを告白しているわけだ。
俳優、柴田恭平はどうだろうか。一時期、ネクラの代名詞のような存在で、陰鬱なイメージがぬぐえないでいた恭平さんは、『あぶない刑事』で心機一転のイメチェンをはかった。デザイナーブランドの服を着込み、当時の刑事モノでは珍しい都会派の軟派な役どころを演じたのだ。鬱脱出、快活の聖地奪回を目指した恭平さんに風当たりはあった。ある女性誌など彼のイメチェンがよっぽど気に食わなかったのか「勘違いの男優Top10」などというアンケートを捏造して恭平さんを連週で勝ち抜かせていた(ほんまに程度の低いイジメだ・・・・・)。柴田恭平は、もう鬱の呪縛にはとりこまれないという強い意志を示し、外野は全無視でわが道を行く。「そんなの関係ないね」という流行語を生み出したのもこの頃だ。これくらいでなくてはいけないのだよライト君。
話はつきないが、これからニコ動のライブがはじまるので結にもっていくことにする。先日のリチャード・コシミズ独立党のブログで偶然にアホのコシミズが鬱について回答を行っていた。
(コシミズのブログから貼り付け)どんなに苦しく悲しいことがあっても、最悪でも「死ぬ」であって、それより以下はない。だが、死は万人に平等に訪れることであり誰も回避できない。つまり、最悪でも「死ぬ」止まりであり、早いか遅いかの些細な違いしかない。であるならだれでも必ず経験する「死」がやってくるまで気ままに生きればいい。死がやってきたら、普通に死ねばいい。それまでの間、思い悩むのは、すごく馬鹿馬鹿しくないか?「なんだ、最悪でも死ぬだけじゃないか!」に気が付いたら解放されると思いますが。(貼り付けおわり)
あいかわらず程度の低い与太話であるが、実は、私(チベットよわー)が2年前に投稿した某所での鬱論考に非常に類似する。
(チベットよわーが2010年に鬱論考をした投稿のログより貼り付け)肝心なことは死生観を持つということ、恐怖の根源である死というものを完全に受け入れるという人生観にかかっているのだ。人生を死によって奪われるのではなく、死ぬまでの人生を生きるのだという認識を持つということだ。(中略)・・・・・そのために人間が必要とするのが宗教であり、生死を越えるドラマ=幻想力なのだ。(貼り付けおわり)
2ch時代よりはや10年近い月日がすぎたが、はじめてコシミズと私の言説がかぶった・・・・というかかなり精度の高い一致をみせた。
無論、詐欺師のコシミズのデマカセなど私の前ではただのアブクのようなものであり、このテーマも私がさらに踏み入って展開させるとまた圧倒的な差がついてしまうだけのことであるが、鬱をとりあげることに消極性をみせないところだけは評価してやってもいいのではないかと考える。それにしても・・・・・あの・・・次元の違いについて・・・・いい加減わかってくれないかな???
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。