94. 2012年8月19日 19:51:18
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「すべての声は訴える」を全世界の子供の教科書に掲載しよう! こどもの原爆被爆体験詩集『原子雲の下より』の序文に寄せて 峠 三吉 (未発表遺稿から下関原爆展事務局書き起こし文に≪加筆≫) //////////////////////////////// すべての声は訴える 青空に雲が燃えていたら アスファルトの道路が 熱気にゆるんでいたら 雑草や埃(ほこり)の匂いが風に立ちこめていたら 戦後七年 決して明るくなってゆかぬ生活の疲労の中で 広島の人々は ふとあの悲惨な日々の感覚に打たれることを 炎の中の瓦礫(がれき)の下の呼び声に憑(つ)かれることを 訴えどころのない憂憤(ゆうふん)に ひそかに拳をふるわして耐えていることを 此(こ)の詩集を手にするあなたに知ってもらいたい
それは決して遠い記憶ではない 今、眼に映っている対岸の建物の壁が 突然破れ、瓦がはげ落ち 頭脳の奥で閃光(せんこう)がひらめいても それは決して新しい事件に遭遇(そうぐう)したのではなく それは 自分の生きようとする正しい力が 何か巨大にして非人間的な圧力によって 遂(つい)にうち負かされてしまったのだ という絶望感で 受けとられるものにちがいない 此の詩集を読もうとする多くの人に知ってもらいたい 広島の、そして長崎の人間は 原爆の炎の中から脱出して起ち上がろうと努めつつ その意味する欺瞞(ぎまん)的な力の中で まだ必死にもがいている もがいていながらも 私たちは あの炎と血膿(ちうみ)のしみついた皮膚の感覚で 愛する妻子や父母を茸(きのこ)雲の下で見失った 涙にまみれた体で 今はもう知ろうとしている 原爆を戦争に直接関係の無い老若男女の日本人の上に投下し その後にわたってその所有を独占しようとし その脅威(きょうい)をふりかざして 世界を一人占めにしようとして来た意志 日本が侵略されるという囁(ささや)きを吹き込み 再軍備にかり立て そのような政策に反対する国民の口に破防法(はぼうほう)という 猿ぐつわを噛(か)ませる意志が すべて一つのものであるということを もうはっきりと知ろうとしている そして 此の詩集をお読みになるあなたも きっと知るにちがいない 私たちが一個の人間として 正しく幸福に生きようとするねがいを 何時(いつ)の時代でも 常にはばんで来たものがあったとすれば その力こそまさに此の暗い意志であり その権力こそまさに 私たちを戦争にひきずりこむものであったということを 噫(ああ)そして 私たちは知ることが出来る 世界最初に原子爆弾を頭上に落(おと)された日本人だという 黄色い皮膚にかけて 漆黒(しっこく)の瞳(ひとみ)と流れる黒髪にかけて知ることが出来る 今はもう 戦争を、その物欲と権力保持のために欲(ほっ)する 一握りの、人間と呼ぶに価(あたい)しない人間以外の≪ものたちへむけて≫ 世界中の 真実と労働を愛するすべての人々と共に 腕を交(く)みあって 平和へのたたかいを進めてゆくことこそが 私たちの正しく幸福に生きようとする 人間としてのねがいを 達成(たっせい)する唯一(ゆいつ)の道であるということを 私たちは日本人として 植民地支配に苦しんで来た アジアの人間として 知ることが出来る そのために そうだ、それを信じるために 多くの語り難(がた)い苦痛を越え 多くの語ることによる危険をしのぎ 老人も主婦も、未亡人も、青年も 又、勇気ある教師にみちびかれた子供達も すべての人々が 血と涙にいろどられた叫びを 此の詩集に寄ってあげているのだ どうか 此の信頼と愛が 戦争を憎み 原爆を呪(のろ)う無数の声の中で 大きな稔(みの)りを持つように その声の底にかくれつつ 永遠に絶(た)ゆることのない 地下からの叫びが 生きている私たちの力によって 癒(いや)されるように! 原爆が再び地上に投ぜられることなく 原爆を意図するものが 世界中の働く者の力によって 一日も早く絶滅されるように! 此の詩集はそのためにあなたにおくられるのだ 一九四五年八月六日、午前八時十五分 広島に世界最初のウラニュウム二三五爆弾が投下され 九日 午前十一時 長崎にプルトニウム爆弾が投下された 広島では全人口四十万のうち 二十四万七千の生命が奪われた 軍事的には 勝負をそれのみで決しうるほどの力はでないといわれる 原子爆弾が なぜこのような悲惨な現実を呼び起こしたか 落とされた広島は 無防備の市民の上であったし (長崎では市街に近い宗教地域の上であった) 落とされた時間は 市民をまるで屠殺場(とさつじょう)のように中心部に集めていた それらはすべて 見事に計画されていたといえる あの茸(きのこ)状をした雲の下には何があったか そこにあったのは 疎開(そかい)できぬ児童を集め、あるいは勤労奉仕に生徒を集めた学校、陸軍 関係のみでも五万人の患者を収容していた病院、青年の出払ったのち堆積(た いせき)する事務に追われていた官庁、銀行、聖戦の勝利を祈らされていた教会 、主人をとられ主婦と子供で守っていた商店であり それらはすべて破壊されたが 炎の海の外側にあった 多くの軍需工場は (三菱造船、三菱重工、旭兵器、日本製鋼、兵器被服廠−西条・八本松へ疎開 −東洋工業、油谷重工等) 窓、扉、天井が破壊された程度で 殆(ほとん)ど無傷であり 国鉄は三日間でその機能を回復した実状であった その炎の海で死んだのは 勤め人、学生、小児などの老若(ろうにゃく)市民であり 兵隊にしても すでに出しつくされたあとの力弱い兵隊であった 一九四五年の春から夏にかけて 日本中の都市が夜毎(よごと)に焼きつくされる 戦争の炎の前で 広島はあわれな生きもののように顫(ふる)えつづけていた 今夜こそ危ない 今夜こそ焼かれる、という噂(うわさ) あるいは広島は水攻めにするのだというような噂によって 夜闇(よるやみ)にまぎれては逃げようとする市民、橋の畔(ほとり)にひかえて 逃がすまいとする軍や自衛隊≪原文まま≫ 飢えた隣組(となりぐみ)の行列の間(あいだ)を 野菜を満載した軍のトラックが走りすぎる混乱の中で 河が白く埋まるほど、七月末 空から撒(ま)かれた七種類のビラには 原爆の廃墟(はいきょ)と同じ絵が描かれてもあったが すでに疎開のすべはなく(そのビラを持っていると死刑にすると脅され、警察が 人をやとって船を出し、拾い上げて焼却させた) それでも五日の夜、広島をいよいよ焼き払うと ビラが落とされたという 二、三日前からの噂によって 市民の多くは周辺の山や畑に逃(のが)れ、濃い闇空の銀河のもと 不安な一夜を明かした 夜半、豊後水道より広島湾上空へ 二百のB29は侵入し旋回数十分 広島を襲うと見せて 突然進路を西南方へ変え 光市の方面へ飛び去った 明け方 空襲警報は解除され 県内に侵入している敵機は四機、そしてやがて離脱したと ラジオは報じ 七時五十分、警戒警報も解除された この時、市民はB29の爆音をきいたが 黒めがねをつけた米人の乗員が 人類の恥辱(ちじょく)をのせた三機によって 高々度より侵入しつつあった事を誰が知り得たろう そして今夜も無事に済んだとほっと安堵(あんど)した人々が 家に帰り、急いで朝食を済まし(朝食の炊事の火はまだ消えるほどの時では なかった) 出勤者は仕事場へ、学生、生徒は学校から作業場へ 隣組は市の周辺町村から市の中心部へ 畑仕事をやめて松根掘りに日をあかしていた郡部からの義勇隊もそれらと一 緒に市の真ん中へ・・・・・・ それは統計ではかり出したように 一日の中で最も多数の市民が屋外に溢(あふ)れている時間であった 此の広島という都市の、雛鳥(ひなどり)のような中心部 この選ばれた時間 広島はどんな無心な表情をしていただろうか 爆心直下の広島中央郵便局では(本局とよんでいた) 丁度(ちょうど)夜勤と日勤者の交替時(どき)にあたり 全員六百名が 古めかしい煉瓦(れんが)造りの建物内に充満し 一人の老小使いのみが 玄関わきの塵溜(ちりため)にごみを捨てに出ていたところだった 七、八百米(メートル)東北方の練兵場では 丁度その朝入隊した男たちが(中年の兵隊か一度病気で帰り再度招集された ものたちであった) 軍服をつけて整列し 見送りの家族が旗などをもって 名残(なごり)を惜しんでいる時だった 千米はなれた県庁では、防空当直二百名が帰宅し 他の庁員が出勤し 動員学徒の少女たちが掃除バケツをもって廊下を 歩いていたとき 約千五百米の市役所裏 雑魚場町の一帯では 県立高女、県立一中、私立二中、女学院高女、女子商業、その他の一、二年 生が教師に指揮されて疎開家屋のあと片付けに とりかかっていたところ 又同所、あるいは同じ距離の土橋町一帯では市近辺よりの隣組、義勇隊の老 人や子どもを背負った主婦たちが 同じ仕事にとりかかろうと集合して汗を拭(ふ)いていたときだった 二千米はなれた横川町の狭い商店街は郊外より 市内へ出勤する人の群(むれ)で埋まり 三千米はなれた家庭では作業へ、あるいは職場へ 家族を送ったあとの年よりが幼児が 朝食のあと始末に働こうとしていた ああ そのような 戦争の末期の不安のなかで 常に天皇を頭(かしら)とする権力者たちの意のままに 父や夫や息子をさし出し ダイヤも金も、あらゆる財産を投げ捨て ぼろをまとい大豆を囓(か)じり野草をたべながら 従つてきた国民が その愚かなほどに無心の表情を 八月の青空にむかって曝(さら)していたとき TNT二万トン爆弾より強力な グランド・スラムの二千倍以上の爆破力を有する そしていまや 太陽の力が源泉となる勢力が(八・六トルーマン声明)(二〇〇〇呎(フィート) 直下の温度は摂氏三〇〇〇〜四〇〇〇度−ロスアラモス科学研究所「原子 兵器の効果」より。トルーマン大統領がいかにもやさしくヒルダと呼んだ) 上空五百米(メートル)に於いて放射されたのである 大部分の子供達が此の詩集の中で 「ピカッー」と光ったという印象を伝えているほど この時の光線の印象は強烈なものであり 体験者たちは 赤・紫・白・黄・紺色・橙(だいだい)色だったと様々な感じを伝えているが その強烈な光りは それを直視したすべての人の視力を奪い その瞬間から広島の悲劇は始まったのである 中央郵便局は未曾有(みぞう)の衝撃を真上から浴びて瞬時に倒潰し全員死亡 老小使いのみ一人生き残っていたが二、三日後に死亡し 練兵場の一隊は全部赤剥(む)げになったり 半裸で作業中の兵隊はみじめであった 真黒く炭化したりして散乱した(軍関係の死亡者は一二五、八二〇人と算出され ている) 県庁で圧殺(あっさつ)をまぬがれた人々は水を求めて河岸へ いざり寄り 万代橋の西詰では二日後まで死体の山が 河底から土手より高く重なって盛り上がっていた 疎開家屋のあと片付にとりかかっていた中学校、女学校の 下級生徒たち、又それを引率指揮していた先生たちの 最後の模様をどのようにつたえたらよいだろうか 思い思いの服装に新しい麦ワラ帽をかぶったり 歌を唄いつつ友人とふざけあったり 作業場に到着した すべて十三、四才の少年少女たちが 突然の(不意の)閃光に出あい 打ち倒され 煙のはれ間やっと起き上がったものは すでに花のようなもとの姿は奪われて 頭髪は焼け、前日に黒く染めた着衣は焦げ飛び、皮膚は剥(は)がれて肉が露出 し 顔はふくれた 降(ふ)りくる石や材木に打たれた傷は石榴(ざくろ)のように口をあけて その場で死んだものの骨、水槽の中に教師に抱かれて死んでいる死体 母を呼び 教師を呼び 歩けぬものは腹這(はらば)って比治山方面へ逃れて行く 土橋方面の隣組は多くが火傷(やけど)の傷手(いたで)と焔(ほのお)に追われ 天満(てんま)川に這い降りて水に流されたらしく この辺りの消息はよくわからない 家庭の悲惨も同じであった 瞬時に倒潰(とうかい)した家屋の間から 焔に包まれる最後まで 助けを求めて掘られた腕(倒壊した家の下敷きになった子供を救ってくれと哀訴(あい そ)する母親の必死の顔付(かおつき)は、長く忘れる事が出来ない) 熱いよう熱いようの 細々とつづいたよび声は遂にとだえても 助けの力を得ることなく 広島全市が焼けはてて骨となっても 骨のひらい≪拾い≫手さえ帰って来ない 此の時 たつ巻をよび風をつのらせる炎の上、市の西北一帯に真黒い豪雨が降り 己斐(こい)の山上にしばらくかかっていた虹の色は生き残った人々の記憶につよく 残っている 夜に入っても全市の炎は明々(あかあか)と空を焦がしている このとき市の周辺の町村の 病院、学校、お寺、個人の家などには 逃れてきた人々が折り重なって倒れ 次々と口鼻から血を吐いて死んでゆきつつあった (義勇隊を送った部落は軒並(のきなみ)に二人、三人死に、探しにゆく。葬式を出す。 怪我(けが)をして帰ってくる割当の罹災者はなだれこんで眼も当てられぬ光景) 看護の婦人会など夜になると恐怖のために逃げ帰る程だった こうして即死したものは骨とドクロになり(一中の焼跡にはドクロが机の配列の通りに 並んでいて手に取ろうとすると灰となって崩れた。中心部では骨も何も無い) 火傷のものは一週間から八月中旬までの間に 膿(うみ)と蛆(うじ)にまみれたまま次々と死に 九月頃 無数の蝿(はえ)が発生した 八月二十日頃より原爆症が始まった 体に無疵(むきず)のものが髪がぬけ 急に下痢(げり)、嘔吐(おうと)、発熱し 口からの出血は止まらず 全身に斑点(はんてん)が現れ死亡する この手のほどこしようもないこの症状が 生き残った人々の上を襲った(ひどいものは白血球が五百まで減少した。健康体で 七千〜八千、一千以下では生命が危ない) 薬品類はすでになく 栄養を、新鮮な果物を、といってもこの時国民の誰が それらを手にし得(え)よう このような時でさえ一部の病院では 金のあるものは あたう限りの治療をうけ 身よりも金もないものは形ばかりの治療で放置された そして一方火傷の人々は 幾度(いくたび)皮膚が貼っても又その底からの膿(うみ)で破れ その苦痛は自殺を欲(ほっ)する苦しみ このような中で死ぬものは死に 残るものは残ったが 戦後七年間の歩みの中で この原爆の影響がどのように尾をひいているか 東雲(しののめ)付中≪附属中学≫で生徒たちに「生い立ちの記」を書かせたら 殆ど全部のものが原爆のことにふれていたというほど 広島の人々の間にしみ通っている原爆が ケロイドにより原爆症により いかなる被害を及ぼしているか 広島の中心地にいる人は体験者が殆んどいない、 それは大抵(たいてい)の家が一家全滅してるからだ あの驚きのために気のふれた(健忘性失語症)子供 馬鹿になった(記憶喪失)青年 治療ののぞみない体に絶望のあまり自殺をしようとするもの それらの悲しみと苦悩は すでに今迄(まで)の年月の間で耐ええぬものは死に 耐えうるものは踏みこえて来たものの 顔面のケロイドのために平常は家にひきこもり、八月六日の命日のみには 爆心地の供養塔に参りにゆく姿の見られる娘さんたちの 胸に秘めた涙は何によって慰められる事が出来よう 又 詩の中にもかかれているように 禿(はげ)よ禿よとけいべつされる 子供たちの悲しみを誰が癒(いや)してやれようか しかも 七年たった 現在でも尚(なお)、「原爆の子」の伊藤久人君が今春死亡したように 原子爆弾症は継続して起こりつつあり 戦後現在まで 全く何ともなかった者が急に白血球の減少 又は急増(きゅうぞう)を来(きた) して死に瀕(ひん)しつつあること 又 遺伝的悪影響が科学者(ハックスレ−)によって説(とな)えられ ワシントン二二・三・十六発AP共同は米陸海軍軍医ならびに 科学者からなる原子爆弾の被害調査委員会が、広島および長崎の爆撃生存 者について医学的調査をつづけて来たが、二十六日生存者の間から数名の 奇形児が生まれたことを発表した。但し原爆が直接の原因であるとの確証は まだあがっていない(毎日三・二八) と報じられるようでは 一体どうなるであろう そして又 それらはすべて治療の方法がなく、その見通しさえないとしたら 又落(おと)された時どうなるのであろう 原子爆弾の使用されぬことを 再び戦争の起こされぬことをねがう必死の声は この苦悩の中から叫び出されているのだ 一九四五年 ドイツの降伏後三ヵ月でソヴェートは日本に宣戦すると決まった ヤルタ会談が二月に終り、四月一日米軍は沖縄に上陸 同≪四月≫五日小磯内閣は退陣 同日モロトフ外相が、日ソ不可侵条約の不延長を通告して来た 五月八日ドイツはついに無条件降伏をしたが ソヴェートの戦力消耗を待つように、第二戦線の形成をおくらし≪遅らせ≫て いた米英がスターリングラードの反撃より急に赤軍が攻勢に転じると、作戦 上の無理をおしつつ イタリーやノルマンディーに上陸し、ベルリンの争奪戦 が行なわれる そのような中で 日本の戦力もすでに打ち滅(ほろ)ぼすべき敵ではなく 早く飼いならして次の相手に 使用すべくねらわれていた 然(しか)も日本の財閥と軍閥はそれを知って、国民を本土決戦の叫び声の中 においやりながら(君が代をうたい、「日本は勝ちますね」と先生に死の前に ささやいた女生徒〈進徳高女〉のようなものはどこにでもいた) 天皇制を保持(国体ゴジ≪護持≫)しながら戦争を終えるケイキ≪契機≫をつ かもうとねらっていた 二人の客に媚(こ)びを売る女のように 前総理大臣広田をソヴェートに当たらせ 横浜銀行スイス代表者にアメリカ実業団との交渉をさせようとした 六月二十一日 沖縄での日本軍の組織的抵抗は終り 七月十六日 ニューメキシコで世界最初の原子爆発が行われた その翌日ポツダム会議開催 二十六日同宣言発表 すでに八月八日にソヴェートが対日宣戦布告するのは明瞭であるし そうなれば赤軍がいかに短時間で日本に到着するかは 充分予測される このような中で 「何故原爆を使用するなら、連合国主催の実験でその威力を示しその基礎に立 って日本に最後通牒を発し、責任の負担を日本人自身にゆだねなかったか」 といい この詩集の中で子供たちが 「なぜ広島に落したか」と責め 「どうせ落るなら砂漠におちろ」とうたっても 「もし原爆投下の目的がロシアの参戦前に日本を叩(たた)き潰(つぶ)すことに あったとすれば、ないしは少(すくな)くともその目的が日本の崩壊(ほうかい)に 先立つロシアの参戦をして名ばかりの参戦に留(とど)まらしめることにあったと すれば・・・・・・」 そのようなことは時間的にも 又そうでなくとも考えられなかったのである こうして八月六日、広島の上に原子爆弾一号は投下された そうして八月九日、ソヴェート軍が満州国境より急速力で 南下しはじめた朝、長崎に二号が投下された かくして十四日 日本はポツダム宣言を受諾(じゅだく)し 終戦の詔勅(しょうちょく)が出された その中で天皇は 「加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所 真ニ 測ルヘカラサルニ至ル」といわれている K・T・コムプトン博士は「原子爆弾の使用がアメリカ人、日本人の数十万−おそらく は数百万の生命を救ったという確固たる信念をいだくに至った」 とのべ とにかくこれによって 日本は降伏し 米国は一挙に日本を占領し 日本の天皇と財閥、軍閥はその力を保存したまま国民の前に 戦争をやめるいいわけを得たかたちとなった そうしてこのことがその後(のち)効果をあげるために どんなに言いひろめられたかを見るのは興味深い 先ず 原子爆弾の絶対的な威力をつたえる言葉が流布(るふ)された 「この威力 正に火薬二万トンに匹敵」(中国二〇・八・一五) 「今後七十年は棲(す)めぬ−戦争記念物広島、長崎の廃墟−」(毎日二〇・八・二四) 「死者なほも続出」(朝日二〇・八・一三) 「広島の被害世界一」(中国二〇・九・四) そして永(なが)く原爆のことを書くことが禁止されていた この恐怖とともに 原爆こそ日本の救い主だった、感謝すべきだ 原爆は平和をもたらしたものであり、広島の犠牲者は 平和のための殉教者(じゅんきょうしゃ)のように扱われ、家族を失った人々は それをもって諦(あきら)めようとした 諦めさせるには広島が真宗(しんしゅう)の伝統的地盤であるということは もって来(こ)いであったし 長崎もカトリックの地盤、しかもわざわざ信徒たちの居住地の上に落としたのも 意味のない事ではないと思われるのだが(医科大学、養育院、天主堂のある 町はずれの地区) かくして「ノーモア−ヒロシマズ」が叫ばれ 片方でアメリカを美化し 片方で広島では平和を売り物にすることとなった(広島平和記念都市建設法案が 二四年めでたく議会を通過する) 毎年の八月六日 爆心地の平和塔の前で市が主催する平和祭は、花火をうちあげ 鐘(かね)や鳩(はと)や展覧会や踊りの大会と賑(にぎ)やかにくりひろげられ、五人 の孤児たちが父母に再会しようと少年僧になったことがもてはやされ、ミス・ヒロシマ が長崎の土をはらはらふりかけたりするが、生き残った人々の根深い反発を受けた しかし一九四九年、ソヴェートの原爆所有が明らかとなり 一九五〇年六月二十五日、朝鮮戦争が始まってより その声が変化してきたのを私たちは知っている 今までの悲惨さによる威嚇(いかく)から(水素バクダン!) 原爆の記憶を抹殺(まっさつ)しようとする動きに変わってきた 原爆広島の象徴(しょうちょう)になってきた産業奨励館のドームを崩し 原爆娘は戦犯(せんぱん)を慰問(いもん)させられ 原爆一号といわれる十六回の手術を繰り返したK氏のケロイドの体も日赤から追放し 一方、精神養子の運動が行われ 広島の廃墟と魂(たましい)の傷痕(きずあと)を緑の芝生と植民地的文化によって 埋めつくそうと変わってきた 再軍備は原爆投下の意味の延長であり その中ではすでに戦争を否定(ひてい)する平和の声は弾圧(だんあつ)される (一九五〇年の官制的なものも平和祭の全面的禁止!) そして一九五一年の八月六日の式典には朝鮮戦線からの パイロットが参列し 広大学長は戦争を肯定(こうてい)する平和をとなえる この中で誰が沈黙(ちんもく)していられるだろうか 広島の 長崎の いや日本人としての私たちがどうして黙って居(お)れようか この詩集の中で大人たちは「死ぬ前でないと本当のことはいえぬ」 という叫び声をあげた 子供たちは真向(まっこう)から戦争と原爆反対の声をはり上げる この仕事の中で結ばれた子を失った主婦は、夫を失った未亡人は、ケロイドの娘は 共(とも)に立ち上がって原爆を落としたものに対し「つぐないを!」 と叫ぶ 流された血はつぐなわれねばならぬ しぼられた涙は拭(ぬぐ)われるべきだ! しかも未(いま)だ この詩集に現れたものの何倍、何千倍の声が 心の奥に秘(ひ)められているならば!・・・・・・ /////////////////////////////////
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