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田布施から野菜を売りに来る大室近祐氏のよもやま話から、
明治天皇のすり替えに気がついたのが松重楊江氏です。
松重楊江氏が郷土史に載せた記事を読んで、
「俺は信じる」と言ってタグマッチを組んだのが鹿島昇氏。
両氏は「明治維新は挫折した南朝革命である」というテーゼを掲げて、
驚異的な論証を展開しています。
実は今回どぶさいらさまからご指摘を受けるまで、
私は両氏の著書をななめ読みで済ませていました。
ひとえに「南朝革命」に対する反発からで、
明治維新政府が取った方針を見ると、
それは挫折した革命ではなく、
権力簒奪を狙ったクーデターとしか思えなかったからです。
長州毛利藩が南朝の末裔である大室家を保護してきたというのも、
水戸藩が南朝の末裔熊沢天皇を秘匿していたというのも、
革命劇を演じるために用意したネタにしか思えなかったです。
これは現在も変わりません。
しかし今回熟読してみて両氏が展開されているのは、
長州と水戸の策略を煽動していたのが徳川慶喜本人だという、
目から鱗の明治維新論であることに驚倒しているところです。
また、徳川家康の祖父が賎民の出自を隠して松平家の当主にすり替わった、
という視点で徳川封建制のがんじがらめの身分制度を眺めるとき、
明治維新はまさにこの体制の正当な後継者であることが了解されます。
松重楊江『二人で一人の明治天皇』たま出版より
該当箇所を抜粋してみます。
『南朝の後醍醐天皇の失政によって、道鏡・桓武以来一貫して血統が続いていた百済系天皇家はついに滅亡し、かわって足利義満の子の貞成が伏見宮家を乗っ取って北朝系天皇家の祖となったのであるが、そのために、日本の先住民のひそかなる解放運動の再開は、蜂屋衆出身の秀吉や、ささら遊女の私生児で願人坊主でもあったという家康の登場を待たねばならなかった。
蜂屋衆は、実は満州にいた蜂室韋(はちしつい)の渡来者を中心とした北倭人であったが、“サル”と呼ばれていた秀吉は蜂屋衆出身の軒猿(のきざる)という下忍であった。秀吉が山陰の北山丈を攻略した時、常に謀略による和睦を得意とした彼が、その守備隊三〇〇〇人を全滅させたのは、この城が蜂屋衆の城で秀吉の戸籍を所持していたから、それを抹殺するのが目的であった。
続く家康もまた、藩主すり替えによって松平家に入り込んだもので、自らの出自を隠そうとするあまり、弾左衛門(秦氏の嫡流)体制によってさらにカースト差別を強化することを求めた。すり替えというのは、いってみれば「変身の術」である。戦国時代を終わらせた秀吉と家康は、ともに被差別部落の出身であり、ともに忍者と深い関わりがあったのである。』
次に私が驚倒した慶喜の深謀遠慮について、
重松楊江氏が作成した年表より抜粋します。
◎一八六〇年(万延元年)七月二十二日
幕府に惨殺された吉田松陰に代わり、松下村塾グループの中忍に就任していた桂小五郎がかねてより水戸藩との間で内約されていた「成破の約」を長州の軍艦内で結んだ。これによって、時機到れば、水戸藩は熊沢天皇家をかうぎ、長州藩は大室天皇室をかついで、ともに王政復古すなわち南朝革命に立ち上がろうという密約が成立した。
その陰の立会証人が一橋慶喜で、「成破の約」を実現するために慶喜が極秘裏に進めていたのが「日本改造」作戦である。これが勝海舟から坂本竜馬に伝えられ、竜馬はその意を戴して全国の勤王の志士たちを遊説してまわった。「日本改造」の要綱は次の通り。
●開国の邪魔になる北朝系の天皇を取り除いて、南朝系の天皇を立てる。
●新天皇にいったん大政奉還したのち改めて徳川家を征夷大将軍として指名してもらう。
●徳川家が開国日本のリーダーとなって新しい時代を開く。
◎一八六五年(慶応元年)三月二十日頃
一橋慶喜は幕府に見切りをつけ、念願の「南朝革命」を実現するため、西郷、桂らと気脈を通じて、全国の勤王志士幹部と勝海舟らを長崎に集め、「玉(ぎょく 大室寅之祐のこと)」と宣教師フルベッキ博士父子を囲む勤王志士四十六名の記念写真を、上野彦馬の写真館で撮影し、やがて新天皇となるべき「玉」のお披露目興行とした。
♪中央に「玉」こと大室寅之助が写っています。この顔が寅之祐の素の顔で、顎が細く口が出ていてバランスが悪い輪郭をしていて品位がありません。これに較べると教科書や本に載っている明治天皇の写真は明らかに修正してあります。頬から顎にかけて一直線で、端正な品の良い輪郭です。口もとも引き締まっているし、目鼻立ちの印象も違うので、口もとも鼻も目も修正してあると思われます。肖像画を接写して彩色加工した御真影は、いくら何でも美化しすぎです。西郷隆盛に至っては、え?誰この人?という懸隔の差です。我々が知っている肖像画とは天と地ほども違います。目も細いし、ごつごつしています。
◎このとき慶喜の意を受けた勝海舟の、
次の提案を全員が了解し合って解散したという。
●第二次長州征伐は起こすが幕府は本気で戦わない(実は金がなかった)。
●やがて将軍家茂が亡くなったら停戦する(暗殺の前触れ)。
◎一八六六年(慶応二年)六月二十日
将軍家茂、第二次長州征伐で大阪に到着後、朝廷差し向けの医師と称する者に毒殺される。
大阪城内に引き込み役がいたはずであるが、犯人は一橋慶喜と松平慶永(春嶽)である。
◎宮崎鉄雄氏(一八九九〜一九九九年)の証言より抜粋します。
慶喜は一橋斉昭(烈公)の子、三十七人兄弟の七番目、母は有栖川京子。斉昭はケジメのない多淫の人物で、水戸の梅屋敷のあとは公園になっているが、そこは斉昭の妾軍団のメッカであった。そのような淫乱に家風に生まれ育った慶喜は、父が歴史を説き武術や馬術で厳しい訓練を施しても、ただ剣を使い曲馬をやっただけで、真の武道を学んだ人とはいえない。慶喜は天性利発であっただけに、要領のよい多弁軽薄な人間として成長した。
倅がバカならよいが、根が利口者で、父のあくなき女あさりと淫行を見ている。斉昭は己は淫乱に徹したが、家臣に強要して「馬術は馬場で走るだけが馬術ではない、険しい山や坂を上下して馬が倒れるまでやれ」と、むごいことを命じた。慶喜は、「命令通りやったことにしろ」と、傅役(もりやく)をたらしこんだ。家来はまことしやかに、「殿、カクカクシカジカ」とウソを上申する。このような世渡りの術を、慶喜は幼くして身につけたのである。
副将軍家に生まれたが将軍になれなかった光圀のように、斉昭も幼少から学問にのめりこんで、「幕府はニセで日本は本来天皇制である」といった。その子慶喜としては、本家(将軍家)にイヤミをいうか、何もいわずに淫乱にうつつを抜かすかであろう・・・そのような、見てくれは良いが中身が欠陥だらけの男が将軍になったから、大変である。犠牲になった私の父、渡辺平左衛門(章綱)と歌女(うため)は使い捨てにされ、手強い勝海舟は将軍の権力で度々解任したが、まんざらのバカとのでもなくただ根性が据わってないだけだったから、頭脳は冴えており、今や勝以外は使いものになる幕臣はいないと思って、再び勝を総支配人に復活させた。慶喜は聞きかじりで雄藩会議をつくり、その議長になるつもりで大政奉還したが、問題は慶喜を含め列藩の藩主たちも、封建制度の弊害ですべてがダメ人間になっていたことである。
一般には、慶喜は江戸城から直接水戸へと出発したとされているが、実は、一時上野に留まっている、山岡と勝が、寛永寺から出発したほうがよかろうと相談し、西郷も同意して上野で小憩することになったのである。山岡鉄舟、勝海舟、そして父の渡辺章綱はともに若い頃はお玉が池で武芸を学んだ仲間だったから、歌女(うため 宮崎氏の母)が慶喜について江戸から水戸へ落ち着くまでの世話役になった。慶喜は、自分が「玉」大室寅之祐を担ぎ出したのに、その「玉」の官軍に征討されたのが口惜しくて、泣けてしょうがない。
勝は、刺客の手を恐れて江戸城から道を西北にとり、大回りして白山に出て、団子坂を下って谷中門から上野へ入った。葵の間に通ると、慶喜の取り乱し方がひどくて手がつけられない。勝は、「臣らも上様とお別れするのがつろうござります」と言上した。ところが、慶喜がしゃちほこばった顔で睨み付け、「お前は勝手者だ。大久保一翁もいる。徳川慶頼にも話して、衆議を尽くして事を運ばないではないか」と叱った。勝はムラムラと腹が立ち、「上様が”いちいち余の指示を受けずに然るべくやれ”と命じられたので、私は最善の方法を取っただけです」と言い返した。慶喜は「このバカ野郎!」とののしり、勝は「何をー、バカ野郎とはなんだ」と、二人が殴り合いになるところを、武士姿の歌女が慶喜を抱きとめ、目顔で勝に早く去れと合図して騒ぎが収まった。
慶喜は「予はあくまで恭順である。だが、面子があるから彰義隊を増員して予の水戸行きを見送らせ、史上に残る盛儀としたい。そのあとは急速に隊員を減らして、官軍との戦には宜しく負けるように。なお、危ない折には忍者作戦で隊の全滅を謀れ」と歌女に告げている。彰義隊が善戦すると徳川の存続が危うくなる。一方で、徳川の面子は立てたい。その両方を実現するために、慶喜も勝も彰義隊をマッチポンプの道具にした。気が弱いくせに、顔に似合わぬ裏切りの悪党ぶりに、日本の歴史家はじめ小説家も国民も騙されたのである。
♪そうです。NHKの大河ドラマでも、モックンが超かっこいい慶喜を演じてました。
松重楊江氏は「二心どの」こと慶喜が二股かけたツケを、
次のように総括されています。
薩英戦争で負けた薩摩が開国論に転じた時、家茂が老中とともに「横浜鎖港」などと言い出して、従来の開国論を捨てたために、イギリスが烈火のごとく以下って薩摩を支援し討幕戦の後押しをしたから、慶喜は慶永とともに家茂を始末しなければならなくなった。
それを知った西郷たちが、木戸、伊藤らを助けて孝明天皇暗殺の作業に入った。慶喜は、軍艦奉行の勝海舟に命じて、広島で長州との休戦交渉を行わせた。
慶応元年から同二年頃にかけての薩長同盟成立前夜には、南朝革命のために「玉」大室寅之祐を擁立しようと言い出した慶喜を新政府のトップにすることが、全国の勤王志士たちの間で了承されていた。
このように、慶喜は「二心どの」の名にふさわしく、将軍としての自分と大政奉還して雄藩会議に列席すべき自分を巧みに使い分けた。これを見抜いて逆手に取ったのが、長州と薩摩の勤王派下級武士である。
さらに、イギリス公使パークスが「開国を認める天皇の下で薩長政府をつくれ」と言い出したために、木戸、西郷、大久保たちが慶喜の追放を考え出したのである。
以上です。
長州忍者部隊の暗躍を知ったときよりも仰天しています。
「二心どの」慶喜の掌中の「玉」が大室寅之助だったとは。
♪どぶさいらさまの指摘、大野芳が鹿島昇の業績を簒奪したことについて。
大野芳『天皇の暗号』には、
松重楊江氏と鹿島昇氏の業績を潰す意図を感じます。
蜷川親正氏の労作を潰そうとした時と同じようなトリックを使っています。
さらには鬼塚英昭氏の一連の著作もチャラにする肚づもりでいるように感じます。
なぜに鬼塚氏は大野を推奨するのでしょうか。
鬼塚氏を騙せるほど大野の仕事が巧妙だとは思えません・・・・まったく分りません。
大野芳は明治維新を「南朝革命」として賛美していますが、
「二心どの」慶喜の「南朝革命」が挫折してすり替えられたものにすぎません。
「解放」という真の「南朝革命」のテーゼも最初からすり替えられていたといえます。
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