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大野芳 「ノンフィクションノベル 」という名の犯罪
http://www.asyura2.com/12/cult9/msg/458.html
投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2012 年 5 月 01 日 11:39:17: 8qHXTBsVRznh2
 

ヤコブ・モルガンとなわふみひと氏に較べると、大野芳は次元が違います。彼は意図的に読者を欺いています。架空の人物を使って罠を仕掛けているのですが、それが架空のキャラクターであることが分からないように作為されています。なわふみひと氏が推奨する蜷川親正氏の著書を読むまで、私はこのトリックに引っかかっていました。私の迷妄を覚ました当のなわふみひと氏が、未だにヤコブ・モルガンに引っかかっているのがどうしてなのか分かりません。


大野芳が仕掛けたトリックを具体的にいうと、架空キャラにリアリテイを持たせた後、その人物が蜷川軍医の検死に立ち会ったことにして、蜷川軍医が証拠を隠蔽したシーンを目撃させています。この架空の人物の偽証によって、実在の人物の証言をチャラにします。すごいトリックです。フィクションとノンフィクションの虚実皮膜で誑かす阿川弘之、似て非なる要素をくくってすり替える中田安彦君が善人に見えてきます。


蜷川親博(親正氏の亡兄)軍医の検死メモは次の通りです。


『 山本大将の検死 (昭和十八年四月二十日)


頭部


顔‐白色 やや浮腫、出血及凝結を認めず

額‐右眉の上約1cmに右上方へ約2cmの切傷(擦過傷?)認む、出血なし

目‐やや細く開く

鼻‐外傷認めず、腔に約10匹のうじを認む、出血なし

唇‐上下に約1cm開く

口‐口内触診せず、出血なし、金歯?

耳‐外傷認めず、出血なし

顎‐外傷認めず

胸部 触診せず、(出血認めず?)(凝結認めず?)

腹部 触診せず、出血認めず?

上肢 やや前方にやや硬直を認む、触診せず

下肢 触診せず  』


♪蜷川親博軍医は、顎に外傷を認めていません。


生存者による証言は次の通りです。


蜷川親正氏の前掲書より抜粋

○浜砂盈栄陸軍第二十三歩兵隊第一小隊長(当時)


『山本長官は飛散した飛行機の座席にすわっていたが、それはまるで、奇跡的に生き残った生存者を座席にすわらせて休ませたように思えるほどだった。・・・右の眉の上にはかすかに擦過傷がみとめられ、出血はなかったが、ものすごいハエが顔一面をおおっていた。顔はややハレはれているように見え、ウジ虫は発生していなく、死臭も感じられなかった。・・・どの死体にも、血をみるような外傷もなく、ねむるように死んでいた。焼死体以外の死体には、いずれもウジ虫の発生はみとめられなかった。』


浜砂氏の書いた見取り図では、機体胴体部から約15メートルの所に五十六、高田軍医長他2名、計4名の遺体。


○中村見習士官(当時)


『いずれの死体も顔面に血のついた者は見当たらず・・・・ただ一つ、元帥の紺色をした制服の上衣のすその部分と、スボンの上部が黒くこげていて、きな臭かったのが印象的だった。』


○富山武一伍長(当時)


『すでにAグループ‐すなわち山本長官を中心にした4名は、主翼の左側にならべられていたもようで目に入らなかった。Bグループ(注 樋端参謀を中心とした4名)に近づいてみると、ある死体は海軍の紺色をした上位を四つに折って、それを枕にして上向けに寝ているように死んでいた。それはまるで、たったいままで生きていたんだな‐という感じであった。焼けただれて真っ黒になっている操縦士らしいもの以外には、死臭らしいものは感じられなかった。』

○吉田雅維海軍少尉(当時)


『山本五十六大将は、左エンジンの左方一メートルもないところで座席にすわり、軍刀をしっかりとにぎっていたと、教えられたが、さもそうであったような恰好で、左側を下にして、座席の一部が背より頭上におおいかぶさって、横に倒れた状態で死亡しておられた。


私がまず見た顔はじつに美しかった。・・・つまりなんら汚されていない死に顔という意味である。山本大将の出血量は、軍医長や他の人より少なかった。ウジ虫も、右肩と左脇腹の服の表面に、少々群がり、鼻や口には、ごくわずかながら這っていた程度であった。』


吉田氏の見取り図では、五十六の遺体は左エンジン部より約1メートルの位置にある。3メートル離れた左方に高田軍医長。


○林道太郎海軍兵曹長(当時)


『山本大将は、まったく印象的だった。きれいな顔でした。軍装もあまりよごされていなかった。・・・その顔は、どこにも傷はなく、どうして山本大将が亡くなられたのか、私には、不思議に思えてならなかった。』

○上野善治上等水兵(当時)


『まぢかに見た大将の顔は、そうとうに腫れているようだったが、きれいだった。頭や顔に弾丸が当たって死亡されたというようなようすでは、絶対にありませんでした。』

○倉橋繁巳夫人


『生前、主人は、「佐世保鎮守府第六陸戦隊の担架隊長として、山本五十六大将の御遺骸の現場に到着して収容したこと、そして無事、遺骸を運搬し、海岸にたっして、連合艦隊の指令部の幹部の人や参謀の人たちに引き渡したこと。・・・しかも山本大将を自分も担架にのせた。そして、目の前に大将のお顔を拝したことであった。顔にはどこにも負傷されておらず、きれいなお顔であったこと。原始林の落ち葉の上に、飛行機の座席に座った姿勢で、そのまま横になり、体を前にかがめ、軍刀を握ったままのお姿を拝した。・・・」とよく話していました。なお主人は、当時の戦友で現在画家である行抱(たけたば)一夫様と親しくしていました。この方が主人の話す当時の状況を絵に画いて下さいました。』


○久保田忠行第六陸戦隊一等水兵(当時)


『私は兵隊として年も若く、あちこち見渡す余裕なんかなかったのですが、でも、長官の姿ははっきり覚えております。胸に一発の機銃弾の跡は見えました。姿は座席にかけたまま軍刀を抱いて、ねむったような恰好で戦死されておられました。』


○加覧鉄雄中尉(当時)


『当時私は見習士官で、自分と同期の見習士官に、早稲田大学の空手部出身の高妻秀年という人がいた。彼は十九年はじめの戦闘で戦死されたが・・・彼は私にこうもらしたことがある。すなわち‐現場の山本大将の死体は美しく、顔はまったくの無傷でした。どうして亡くなられたのか不思議に思ったことがある、と。


またその現場には、軍医の蜷川中尉も居合わせていて、二人でたがいに、まったく不思議なこともあるものだ、との言葉をかわした‐と。彼は、蜷川軍医が検死していたのを見ていたのです。そのころ高妻見習士官は、秘密だが‐と言って、私に知らせてくれたのであった。』


○竹内睦祐軍医中尉(当時)


『生存者がいないとなれば、衛生班の治療の必要はないので、私はこの地点で待つことにした。・・・まもなく通りにくそうに、遺体運搬の部隊が担架をかついでやってきた。・・・と、担架上の山本大将の遺骸が、私の目の前でとまった。死体を覆っている布や木の葉をとりのぞいて見ると、それは意外なほどきれいな顔をしていた。口もとの大きい、顔の大きい、ちょっと「どんぐり」を大きくしたような死に顔で、かねて写真で拝見していた顔とそっくりだった。私のみたかぎりでは、右の口角部にちかい頬のところに、ウジ虫が二十匹ばかり這っていた。右眼の上部に、擦過傷を思わすような軽度の皮下出血のようなものをみとめた。…胴体や胸は診ていない。』

♪以上、生存者による目撃証言はほとんど一致しています。これを葬り去るべく企画されたのが『山本五十六自決説』です。大野芳はこれを請負仕事で書いたと思います。帯には『綿密な史料を駆使してブーゲンビル島秘話を再現する、大作ノンフィクションノベル!』という誇大宣伝が載っています。前述したように、大野芳は架空のキャラを粉飾するために、実在の人物と架空の人物をまぜこぜにして、両者入り乱れて行動し会話させています。そういう作為を施した上で、架空の人物が五十六の自決の証拠を目撃したというフィクションにリアリテイを持たせています。大野芳の『ノンフィクションノベル』とは、このような手品を指しています。


大野芳『山本五十六自決セリ』の要所を以下に抜粋します。どうか、『綿密な史料を駆使』した『ノンフィクションノベル』の醍醐味を、心ゆくまで堪能されてください。


『そのころわたしは、ブーゲンビル島のエレベンタから十キロほど奥地にはいったムグワイにいた。百武晴吉中将羈下陸軍第十七軍司令部の陸軍兵站病院である。・・・わたしは、昭和十六年十二月八日の開戦を京都の医科大学の附属病院で知った。・・・それから一年と一か月あまりののち、まさか、わたし自身が激戦地に身をおくことになろうとは想像もしていなかった。昭和十八年一月二十日、わたしはガ島で敗退した十七軍を迎えるかっこうで空路を木更津、高雄、トラック島、ニューブリテン島ラバウルと、海軍の一式陸上攻撃機に便乗して単身赴任した。・・・「原島軍医少尉、ただいま着任いたしました」わたしは、着任の申告をした。』


♪『わたし』こと原島軍医少尉は、架空のキャラクターです。主人公として設定されています。


『「やあ、原島やないか」いきなり声をかけられておどろいた。顎の骨がはった一重まぶたの男が立っていた。日焼けしているが、まぎれもない同級生の谷川幸三だった。「どうして、こんなところにおるんや」そう応えると、わたしゃ足ばやに梯子をおりた。谷川は外科を専攻していた。わたしと同じころ陸軍軍医学校にふりわけられたが、遠く日本をはなれた南海の島で会おうとはおもいもよらなかった。・・・わたしたちが、山本長官機を迎えることになったのは、ブ島に赴任して三か月が過ぎようとしたときだった。』


♪谷川幸三という人物が架空であるかどうか確認できません。


『そのころラバウルでは、西飛行場から飛び立った一式陸攻二機が、すぐそばにある東飛行場に着陸して待機していた。出発予定の六時まえ、連合艦隊軍医長高田六郎少将、同主計長北村元治少将、航空甲参謀樋端(といばな)久利雄中佐、航空乙参謀室井捨治少佐、通信参謀今中薫中佐、気象長友野林治中佐らが、待ちうけるところへ、山本長官、参謀長宇垣纏中将、副官福崎昇中佐があらわれる。皆がもえぎ色の三種軍装を着ているなか、軍医長と主計長だけが純白の二週軍装だった。』


♪大野芳は蜷川親正氏本人にもインタヴューし、氏の著書を自分の『ノンフィクションノベル』の肉付けに使っています。複数の目撃者が「紺色の制服を着ていた」と証言していることを十分承知の上で、軍装を『もえぎ色』と書いています。この後も軍装の色については再々言及し、『もえぎ色』であることを強調しています。

『昭和十八年四月十八日、ブーゲンビル島の朝‐。太陽は、ななめ上方にあがり、ちぎれ雲が浮かんでいる。・・・「兵長どのっ、あれは」と、部下が南方のジャングルを指でさす。ちょうど湿原のむこうのモイラ岬のあたりである。海岸線が切ったツメのようにほそく弓弓状にきれこんでいる。その手前を右から左へと、緑色をした大型機がジャングルをすれすれに飛んでいる。それを追従する戦闘機が金属音を響かせて乱舞している。・・・「空襲っ、敵襲っ」翁永兵長は、下に向かって大声をかける。・・・地上では、浜砂盈栄(みつよし)少尉が、部下とともに武器と被服の手入れをしていた。その日は日曜日で、土木作業は休みだった。・・・「西南方面に煙っ」望楼からおりそびれた翁永兵長が怒鳴った。浜砂少尉が地上からその方向に目をやると、八キロか十キロさきに煙が見えた。


そのころ、二十三連隊長浜之上俊秋大は、部下八名をひきつれてアクの連隊本部からブインに向かって歩いていた。・・・そして、およそ一時間ほどして上空に空戦をみた。「解散っ」と命じると、部下たちはそれぞれ道路わきに身をふせる。機銃弾があたりにふってきた。・・・空戦がやんで三キロほど歩いたところに指揮下の工兵隊が道路作業をしていた。「植木大尉、友軍機が西北方面に墜落していったが、生存者があるやもしれぬ。軍医をふくめた将校斥候を二組だして捜索するよう連隊本部に連絡せよ」浜之上大佐は、工兵隊長に命じた。


連隊本部は、副官日高益実大尉が留守をあずかっていた。すでに日高は、午前八時ごろ、親しくしていた現地の族長が墜落を目撃したという中村見習士官の報告をうけ、十一名の捜索隊を出動させていた。・・・「軍医をふくめた将校斥候か」日高は困惑した。だが治安を維持するために、ひごろからタバコや布切れ、医薬品などをもって原住民との融和をはかっている蜷川軍医をだすほかなかろうとおもう。・・・「蜷川中尉をよべ」字高は、従兵に命じた。』

♪以上は生存者たちの証言をもとに再現されています。大野芳はこれら実在の人物の間に、架空の人物『わたし』を混ぜます。


『そのころ、わたしは空戦があったことさえ知らなかった。現場が兵站病院から二十キロほど離れていたのと、百武中将が軍刀をさげ、従兵がみがきあげた長靴を光らせて居室をでていこうとする姿に見とれていたからかもしれない。・・・ここで、少し山本長官から離れて、わたしの入隊から長官機墜落までの状況に触れておこう。わたしが、陸軍に召集されたのは、昭和十七年九月のことだった。もちろん、その時点でどこに派遣されるのか、わたしには分らなかった。ただ、陸軍省医務局で教育される)内容が、出血および血管射創にたいする処置法とか、亡血にたいする輸血法といった戦傷一般の治療法にくわえて、アメーバ赤痢、デング熱、マラリアといった熱帯性の傷病に重点がおかれたこともあって、ばくぜんと南方に送られるだろうと予想はしていた。それが陸軍第十七軍だったのである。昭和十八年一月下旬、ラバウルに到着した翌日、わたしは、海軍の駆逐艦に便乗してブーゲンビル島にやってきた。・・・その三か月のちに山本長官の遭難に遭遇するのだが・・・


その日、わたしが杉浦二等兵をおちつかせて病舎からもどると、一時間以上もまえから待機していた百武中将は、まだ居室にいた。十時半をすぎている。わたしたちが住居にしていた小屋は、軍司令部に隣接していたから、いやでも軍司令官のまえを通ることになる。まだ出発にならないのかと、わたしは怪訝な面持ちでちらっと中をみた。「原島少尉っ」百武中将のそばにいた軍医千種大佐が、わたしに声をかけた。「火傷の薬品と食糧を一日分用意せよ」軍医長がわたしにいった。深刻な表情を見せなかったが、どこか言葉の端に憂いをふくんでいたかもしれない。百武司令官の顔も見えたが、正装したままうつむいていたようにおもう。百武司令官は、もともと暗号の専門家で、武人と言うよりも高等数学に卓越した学者肌だった。・・・その軍司令官が軍医長のうしろに座っていた。「はいっ」と、晴れがましいおもいで応える。突然の派遣は、とりたてて珍
しいことではなかった。


「なんや、原島も一緒にくるんか。そりゃ、ちょうどよかったやないか」谷川の四角い顔がほころんだ。「そっちも応援にいくんか」とわたしが訊いた。「なんやしらんが、海軍の飛行機が墜落したというはなしや」「海軍?」「なんでも。えらい人らしいわ」谷川は、そういいながらうしろのドアを開けてくれる。・・・「軍医どの、そろそろ連隊本部であります」三十分あまり走ると、運転手が丁寧な言葉でいう。・・・「ちょっと申告してくるわ」谷川が自動車をおりた。「ぼくは、どうしよう」わたしは、浜之上連隊長とは会ったこともなかった。「ほな、一緒にいこか」谷川にいわれて、わたしも小股もおりる。指揮所にいたのは、副官の日高大尉だった。・・・「原島少尉も同行ねがえるのかね」谷川が申告すると、日高大尉がわたしに向かっていった。「はいっ、軍医長から命令をうけました」「ごくろうさん。さっきここから先遣隊をだしたところだが、アクの宿営地に市川大尉がいる。後続隊を予定しているから、要領は彼から聞きたまえ」「わかりました」谷川とわたしが応える。


五分もしないうちに自動車がとまった。・・・「きたきた」と、いかつい感じの少尉が手まねきする。これが浜砂少尉だった私も谷川も面識はなかった。「ごくろう」とだけ痩身の大尉がいう。市川大尉だとあとで知った。・・・陸軍歩兵第二十三連隊アク宿営地。「捜索隊、ただいまから出動っ」浜砂少尉が敬礼をして市川大尉に申告する。わたしたち医療班の三名も敬礼をした。会敵にそなえて数名の兵隊が小銃を担いでいる。わずかに緊張した雰囲気になる。総勢十五名が向かうのは、ワマイ川ぞい四キロの奥地であった。・・・わたしは、そろそろ現場にちかいと想像した。捜索隊は、二人ずつ組になって横にひろがった。わたしたち医療班は、中央をすすむ浜砂少尉と翁永兵長の組に入った。』


♪この流れの中で、『わたし』が架空の人物であると分かった方、ハイ手をあげて。あなたはまさにアデプト、超人です。大野芳はこの後も複数の捜索隊の進捗状況を仔細にわたって書いています。途中を飛ばして『わたし』が遺体を発見するシーンに行きます。

『わたしたちは、疲れを忘れて丘をくだる。蜷川中尉と谷川は、すでに網のような藪をくぐりぬけ、天井がぽっかりと焼け抜けた場所にしゃがみこんでいた。わたしは雪をラッセルするように茂みをかき分けた。そして、わたしは、その現場を見たのである。


蜷川中尉は、ちょうど胴体から手前十メートルほどはなれた、小高くなった大木の根元にある死体を検(み)ていた。死んでいるとすぐに分ったのは、わずかに開いたまぶたが固定し、弛緩した顔面ン委軽い浮腫(むくみ)が見られたからである。それは椅子に腰をおろし、軍刀を両ひざにはさみこんでいた。帽子をかぶっておらず、がっくりと軍刀の柄に下顎がつくほどうなだれている。ベタ金に三つ星の襟章をつけた三種軍装をまとった遺体は、あきらかに山本長官だった。


「小股くん、こっちへ」わたしはリュックザックをおろすと、兵長をよびよせた。兵長は医療箱から消毒薬をとりだす。まず傷口を清拭するのが手順である。わたしは、ガーゼにたっぷりとアルコール液を浸し、先輩がもとめるのを待った。


蜷川中尉は、最初から山本長官と目星をつけて捜しあてたのか、それともわたしが偶然に出くわしたように、密林をぬけでたところに長官を発見したのか分らなかった。中尉は手にしたピストルを医療箱の隅に入れると、私がさしだしたガーゼで患部を拭きながら検死をつづける。中尉は、頭部に怪我がないかどうかを検(しら)べる。五ミリほど伸びたゴマ塩頭を起こす。「盲管銃創。左顎から、右上方」中尉がいうのを谷川が紙挟みにさしこんだ用紙に記録する。顎から入った弾が頭蓋骨の中に止まっているというのである。』


♪これが『綿密な史料を駆使してブーゲンビル島秘話を再現する、大作ノンフィクションノベル』の実態です。大野芳は、実際にこの役目をやった人物がいたこと、その人物が真逆の証言をしていることを知っています。知った上で、架空の人物を使って事実を捻じ曲げています。フィクションがノンフィクションに紛れ込み、蜷川軍医大尉の検死メモは反故も同然にされます。検死メモは亡兄の唯一の遺品であり、弟の親正氏が真相を追究する動機そのものです。大野芳はその真摯な動機を狙い撃ちにしたのです。このやり方こそ、大野芳が蜷川親正氏の労作を潰す意図を持って接近した、と私が思った所以です。実際の生存者による証言は次の通りです。


蜷川親正氏前掲書より


『昭和四十七年十一月、偶然にも当時、連合艦隊司令長官・山本五十六海軍大将の搭乗機墜落のために、捜索出動を命ぜられた竹内睦祐軍医大尉(当時、中尉、医学博士)を知るチャンスをえた。竹内氏は「山本五十六検死ノート」を読まれていて、この筆者はいかにも学究らしく、するどく山本長官の死因を追究している、との過分のお言葉をちょうだいした。そのとき、「遺骸を発見してのち運搬し、海岸で海軍に引き渡すまで、ともに苦労したのは、私をふくめ自分の管轄する中隊であった」という驚くべき事実の指摘をうけたことである。


同氏は現在、京都市内で小児科医院を開業しておられる。昭和十六年三月、京都府立医大をそつぎょうとどうじに短期現役兵としての軍医を志願された。そして当時、ブ島かブインちかくの輜重第六連隊の第一大隊第三中隊付軍医として勤務しておられた。


竹内軍医中尉は、部下七、八名ほどの衛生兵とともに昭和十八年四月十八日、事件発生のその日の午後三時ごろには、ジャングル内の捜索活動を開始している。そして四月二十日午後、捜索中のジャングル内で、みずからの所属する第三中隊長・阿部大尉の指揮する一体を会合した。中隊長以下死後十名の部隊は、山本大将以下十一体の遺骸を担架にのせていた。やがてこの中隊と、竹内軍医一行は合流して、モイラ岬の西方海岸まで、この十一の遺骸につきそったのであるが、この本隊こそ海軍側に引き渡すまで行動した人たちであった。


しかも竹内軍医は、医者として、山本大将およに高田軍医少将などの担架に乗せられたままの死体を、観察検死している。すなわち二、三十センチの至近距離より、その露出部である頭部およに胸部、両手を視診、あるいは触診しているのである。このように、四月二十日午後、墜落現場で収容された遺骸を、現場より百メートルぐらい運搬したジャングルの中で観察している氏は、陸海軍の軍医のうち、山本大将の死体の症状を語りうる、ただ一人の生存者であろう。私は、竹内小児科を両三度にわたって訪れ、当時の状況をくわしく知ることができた。


また同市より、当時の輜重連隊付の永原豊春元陸軍曹長を紹介された。さらに永原氏からは、第三中隊の第二小隊長として創作にしたらい、発見とどうじに、現場にて遺骸を収容した松元直敏元陸軍中尉(当時、見習士官)、および陸海軍部隊を統合指揮した捜索隊長、第三中隊長である阿部元陸軍少佐(当時、大尉)を、幸いにして知る機会をえた。


とくに阿部大尉からは細部にわたり、いまだに世間に発表されたことのない事実を知らされた。すなわち同氏は、山本大将の遺骸を発見収容するとともに、まったく驚異的なことであるが、現場にいあわせた軍医とともに「死体の死後処理」を実施したこと、その軍医と共に死体の検死を行っている唯一の生存者であることを知ったのである。』


♪私はここを読んで初めて、『わたし』=原島軍医が架空の人物であることを了解できました。蜷川軍医といっしょに検死した唯一の生存者が阿部氏なら、『わたし』はフィクションでしかありえません。しかも『わたし』は、竹内氏をモデルにしているようです。しかも『わたし』と『竹内氏』の二人の人物が登場して、食い違うことを証言しているので、何が何だか分からなくなります。こういうのを実録小説というのでしょうか。

阿部氏の証言を見てみましょう。


『「その人は木の枝か、あるいは飛行機のクッションであったのかも知れない、とにかく記憶はうすれたが、ジャングルの落ち葉の地面より二、三十センチばかりの高さの物体に腰をおろし、軍刀を杖のようにして、うなだれている。だれかと思い、そばに近づくと、肩章はベタ金地のししゅうに星が三個ならんでいる海軍大将である。山本長官にまちがいない。さんぜんとかがやく肩章とは「ちぐはぐな草生す屍と化し、すでに生命は絶えておられた。」


「長官の左側で、機首に向かって右側の純白の将校服を着た人は軍医官らしかったが・・・この人は、腰を地上におろしたかっこうで、左側に倒れていた。はじめ長官と同じように腰をおろして並んでおられたが、こと切れて倒れたような現場のようすだった。山本長官の紺色の軍服と、そばの軍医の白色の軍服もまったく乱されたり、よごれたりしていなかった。二人ならんで腰かけておられ、五十センチとは離れていなかったものと思う。」


「たまたま、捜索隊には、他の部隊の者であろうと思うが、陸軍の軍医がいた。そこで私は、長官の受傷の部分を治療させ、軍医とともに長官の身体各部をくまなく検死した。受傷部は右肩甲骨のところに、小指先ぐらいの小さな穴があった。また、左脇腹のところにも、親指ぐらいの穴がみとめられた。」


ここで、阿部氏は言葉をついて、「山本五十六大将の死体の処理をしました」、というのである。「ほう、どんな処理をしたのですか?」「はあ、長官の穴という穴には、軍医とともに、ガーゼや脱脂綿をつめました。「脱脂綿やガーゼを、何のためにつめたんですか?」「はあ、包帯すべきところには包帯もまきましたよ」「包帯ですって、どこへまいたんですか?」筆者は、私の実兄としか思われない陸軍の軍医といっしょに検死をしたという事実に、非常に興味をおぼえたのである。以下、阿部氏の話す山本大将の死体の症状は、つぎのごときものであった。


「‐私は軍医とともに、大将の上衣の釦をはずし、シャツをぬがせて、上半身の腹面と、背面をくまなくさわってみました。腹面にはなんの以上もなかった。つぎに背面をみたとき、右肩甲骨部に小指大、左脇腹に親指大の合計にこの穴があった。これはそのときの私の想像だが、右肩から左脇腹に弾が貫通したのだろうか。それにしても、それを思わすような出血はない。もし貫通しておれば即死だったと思うが、即死を思わすような現場状況でもなければ、また、流血したようすもなかった。出血による死亡はとても考えられない。もしそうだとすれば、かたや、左脇腹の被弾の箇所に出血があるはずだが、血液が衣服に付着していたというような記憶はないのである。つづいて下半身も調べたが、なんら異状は見られなかった。」


つぎに山本大将の顔面への受傷について、なにげなく、「顔のきずのていどはどうでした?」と質問をしてみた。すると、阿部氏はごくあっさりと、「べつに傷らしいものはなにもありませんでした」ここで筆者は、「ある本には、大将の襟章の一個には顔面の傷口からの血潮が流れていた。勲章の略綬、これにも血がこびりついていた云々と書かれているが・・・」と問うと、「変わったことはありません、きれいな顔でした。ふつうの顔でした。ただ先ほど申し上げたように、穴にウジ虫がいたので、軍医とともに取りのぞいただけです。襟章に顔面の傷からの血潮が流れていたなんて、とんでもありません!」


「穴に、そして穴の周囲にはウジ虫が這っていたので、顔は何度も消毒用アルコールガーゼや、脱脂綿でふきました。傷があれば、わからぬはずはありません。私もいくたの戦いに参加した人間です。弾丸が当たって穴が開いているか、弾丸が通ってのち閉じた穴かぐらいのことはわからぬ人間ではありません。もし弾丸が貫通したというのなら、その傷口の周囲には、あの現場の状況から申すなら、おなじくウジ虫を取り、ガーゼや脱脂綿をつめているはずです。目や口にすら、すでにウジ虫が這っていたのですから・・・。絶対にそんなことはありません!現場にいた軍医に命令して、目の周囲は消毒用アルコールや脱脂綿でなんべんもふき、口や鼻、耳の穴からウジ虫が出たり入ったりするので、消毒用ガーゼを穴に埋めるように押し込み・・・・」とくりかえし強調する。


♪阿部氏が現場に到着したのは、二十日の午前中です。前日に発見した浜砂氏らが目撃した時は、ウジ虫の発生はみられていません。阿部氏が蜷川軍医と遺体の処理をしたのは、二十日の夜のことと思われます。


大野芳が造形した架空の人物の証言「左顎下の貫通銃創があった」と、蜷川軍医検死メモ「顎 損傷を認めず」と生存者たちによる証言「顔面は非常にきれいな状態だった」とは、完全に喰い違っています。大野芳は手品師が観客から注意を逸らすのと同じ手法を使って、この矛盾をごまかしています。蜷川軍医の不審な言動をでっち上げ、検死メモに注目を集め、生存者たちの証言には言及しません。そういう目くらましをかけて、顔はほとんど無傷だったという複数の証言をスルーさせています。


「証言者」という共通因子でくくり、架空の人物と実在の人物の証言を同じ次元のものとして取り扱うことで、あり得ない自決もあったことにしているようでです。私は大野芳のもう一つの狙いは、機上戦死を偽装した体制派への追究の手を緩めることにあると思います。


蜷川親正氏前掲書より

『だがここに、ただ一人、顔面に出血をみとめた人がいる。それはつぎに記載する渡辺参謀の昭和四十二年の手記である。


「運び来れる遺骸を第十五号掃海艇上において検死したところ、右眼の上に抜けている貫通銃創があり、出血している・・・」


「・・・私と南東方面艦隊軍医長(軍医大佐大久保信)だけが、長官御遺骸の検死をした。・・・これらの結果と、浜砂さんから聞かされたものを総合して、(筆者注、浜砂少尉は海岸まで遺体を運搬していないし、もちろん渡辺参謀と話したことも、会ったこともないという)、われわれは長官機のようすを、次のように結論した。」


として、田淵軍医少佐が、二十一日午前八時に検死して、「死体検案記録」に書いたと同様のことが書かれている。


死体発見の十九日午後二時から、二十日午後四時までには、すでに約二十六時間は経過しているのである。この時期に、人為的になに者かによって、前述のように、死後その死体に物理的な損傷がくわえられたとしても、腐敗した死体から出血することは絶対にない。』


次に公式検案書を作成した海軍軍医・田淵義三郎大佐の証言を抜粋します。


『検案場所は体裁上、変更して、掃海艇上において行ったかのようにしてあるが、実際は当日の二十一日午前八時ごろ、以外の検死は、病舎の北方にあたる原住民通路のそばを小さく切り開いたジャングル内で行われた。


私は二十日の夕方に、死体が搬入されたことは、根拠地隊病舎で聞いていた。その死体搬入を待っていた私が、掃海艇上にて検死できるはずがない。


陸軍の捜索隊が数班も出てさがしていたことも、いま聞くのがはじめてです。じつは墜落現場の模様をくわしく説明されたのは、二十六年たった今日、あなたから聞くのがはじめてなんですよ。』


次に田淵軍医が渡辺参謀に怒鳴られた経緯を抜粋します。


『この田淵軍医は大尉時代に、江田島の海軍兵学校に勤務していたことがあった、兵学校の資料館には、いくたの有名な先輩たちの血染めの軍服や、記念品がかざられていて、彼もそれを見学していた。だから、山本大将や、高田少将の軍服だけでも脱がして、ながく資料として、これら提督の遺品として持ち帰りたい、いま焼いてしまえば悔いをあとに残す、おしいことだと思った。


それにくわえて背中に受けたという、大将の銃弾の損傷部をよく診て、自分の目で確認したかったこともあったので、「服を脱がせて内地へ送り、保存しよう」という提案までしたのであった。このとき田淵軍医は、さっそくにも賛成してもらえ、あるいはほめられるだろうとさえ思った、という。


ところが、田淵軍医のこの発言にたいして、怒気をふくんだ声が耳をつんざいたのだった。「脱がすな、これ以上ふれてはならぬ!」これは大変なことをいってしまった、大将にたいして申しわけないことをいってしまった‐田淵少佐はひたすら恐縮し、後悔すらした。怒声をあげたのは大柄な人だった。この人が渡辺参謀であったという。』


♪二十日、陸軍が遺骸を担架に乗せてジャングルの遺骸を運搬し、海岸で待機していた渡辺参謀たちに引き渡すまで付き添っていたのが、前述の竹内睦祐軍医中尉(当時)です。竹内氏の証言は次の通りです。


『しばらく休んでいたので、すでに昼は過ぎていたであろう。まもなく通りにくそうに、遺体運搬の部隊が担架をかついでやってきた。・・・海軍の衛生士官が一人いたので、「海軍の軍医は、おるか?」とたずねたが、「おりません」という返事だった。だったら、どうせ海岸へ出れば海軍の軍医も、以外の引き取りにきているだろうから、そのときにでも、できたらいっしょに正式な検死をすればよい、と思った。


私たち衛生班は、この部隊のいちばん後方を行軍していった。そしてときおり、ジャングルで負傷した兵隊たちを治療しつつ、海岸に出ることができた。海岸では、足を海のほうに、頭を陸側に向けて一列にならべ、われわれ部隊全員、十一遺体をなかにして”コの字型”になるようにならんだ。そのあと、隊長の「捧げ銃」の号令で礼式をおこない、冥福を祈って、私たちの運搬作業も終止符がうたれたのであった。・・・やがて海軍の参謀たちがきたので、全部の遺骸を引き渡したのであったがその参謀はスマートな体格をした人で、さぎが海軍の参謀と思わす人だった。もちろん、海軍側から軍医らしきものがきていたが、私へのあいさつは一言もなかった。私はてっきり、海軍の軍医とともに、正式な死体検死があるものと張り切っていたのだったが、その期待は完全に裏切られてしまった。彼らはさっさと遺骸を船に乗せはじめてしまい、陸軍軍医の私の出るべき幕は、ついになかったのである。きわめてあっさりした、事務的なあいさつのあと、遺骸を載せた船は岸をはなれた。』


♪以上の流れを整理します。


陸軍


いち早く捜索隊を出す→懸命に捜索→遺骸を発見→検死→ジャングルを運搬→海岸で海軍に引き渡す


海軍参謀


スコールを理由に当日は捜索に出ない→翌日捜索に出る→浜砂氏に会って遺骸を受け取ったというウソを書く→海上艇で検視させたというウソを書く


渡辺安次は五十六の戦務参謀にもかかわらず、視察には同行していません。黒島亀人も同様です。長官機が不時着に近い形でジャングルに墜落しても、彼らはスコールを理由に直ちに捜索に出かけようとしません。


◎ここにただ一人の生き残り搭乗員の驚愕の重大証言があります。


蜷川親正氏の前掲書より

二番機(宇垣参謀長搭乗機)の機長・林浩二等飛行兵曹(当時)

『・・・敵の目的は一番機である。敵機が取り囲むようにして襲っている。わが機には、ときどき上空をかすめるように敵機が行き過ぎるのが見える。・・・このとき、ふとラバウルをたったときのことが浮かんで、「こら大変な失敗をした」と悔いたのだ。じつは、このブイン行の飛行を軽く見ていたのと、人員を定員以上載せるので、機を軽くする目的で、機銃弾の弾倉庫を、原隊では乗せずに置いてきたのであって、一機銃に一個しか弾奏を装備していないのである。これでは、一度引き金を引いて撃ってしまえば、弾丸はなくなるのである。つまりつぎつぎと弾丸を装填することは不可能であった。だから応戦なんてできない。逃避しか方法はなかった。』


♪五十六は処刑場に引きずり出されたということです。大野芳はこれを自決に見せかけるために、『わたし』に偽の検死をさせ、それを補強するものとして、『友人』に五十六躁鬱病説を唱えさせています。

大野芳前掲書より


『わたし(注 大野の友人を反映した大庭久幸)、二冊ばかり山本五十六関係の本を読んだんです。そうしますと、五十六さんは、躁鬱気質ではないかと感じたんです。真珠湾攻撃を立案して実行したころは、猛烈な躁状態なんです。ミッドウエーのころが鬱状態ですね。躁状態のときは、社交的で壮大な妄想をもつんです。天才は、それをなし遂げますが、凡人は誇大妄想に終わりますよねぇ。鬱状態になりますと、猜疑心が旺盛になって、ひとの好き嫌いがはっきりしてきます。五十六さんは、舟べりで逆立ちして茶目っ気を見せたり、外国の将校を社交的にもてなします。そうかと思うと、好き嫌いがはっきりしてます。相手の能力を評価するのではなくて、猜疑心から好き嫌いのを区別していたとすれば、ぴったり躁うつ病の症状に合います。山本五十六が天才だとすれば、あり得ることではないでしょうか。真珠湾攻撃からミッドウエ―までの半年のあいだに、なにか鬱病になる外因がひそんでいるんじゃないかと感じましたが』

『わたし(注 大野自身を反映した主人公)は、首まで湯につかりながら、当時中尉だった蜷川軍医が長官の検死をはじめたときの姿を思いだしてみる。おぼろげな記憶の幕が、徐々にくっきりと映像を写しだすように蘇ってきた。わたしが小股兵長をひきつれて現場に駆けつけたとき、蜷川中尉は、すでに長官の遺体の脇にしゃがみこんでいた、わたしは小股を呼び寄せ、医療箱からだしたガーゼにアルコール液をたっぷり染み込ませて、蜷川中尉の求めに備えた。そのとき蜷川ちゅういは、そっと自分の医療箱のすみに拳銃をしのばせたのだった。それをわたしは、これまで中尉が拳銃を手に構えながら歩いていたとばかり思っていたが、いま考えてみると、あれは銃身の短い外国製の拳銃ではなかったか、銃身が長い陸軍の一四式ではなかった。私が支給されたのは一四式だったから、おそらく蜷川先輩の同じ拳銃を持っていたに違いない。そうしてみると・・・・。「躁鬱病か」わたしは大庭の性新聞先をくりかえしながら、またも苦笑いをうかべた。捨てるには惜しい診断ではある。わたしは大庭の呪文にかかろうとする自分に気づいていた。』


♪私が大野芳のイカサマに気付いたのは、ひとえに蜷川親正氏の著書に触発されたお陰です。蜷川氏の著書を読んでから、大野芳の後書を読んでやっとトリックが理解できました。大野芳の著書だけ読んだ方が、「大野芳と蜷川親正の協力で五十六自決の真相に迫るスリリングな大作」という読後感を書かれているのを拝見しました。私も同様の誤解をしていました。


◎百武晴吉(実在)と伊藤栄一(実在か架空か確認とれない)を使った小細工は割愛します。


最後に蜷川親正氏の動機と結論を抜粋します。


『昭和四十年以後、筆者は兄の残したメモ帳をもとに、山本大将の搭乗機の墜落現場に到達し、死体を収容した生き残りの人たちをつぎつぎと知った。・・・いまここにその全容を発表するのは、この事件の捜索に参加したため、最前線に追われるがごとく転進を命じられ、戦うに武器なく、食べるに食なく、「栄養失調症』という病名のもとにむなしく死んで行った幾多の将兵への「鎮魂」と「冥福」になればと願うからである。

(注)
検死メモを残した蜷川親博軍医大尉は前線に送られ、マラリアと栄養失調のため餓死。
海軍の公式検案書を清書した池田看護兵曹長はラバウルへ転身させられ、行方不明。
長官機を護衛していた戦闘機の搭乗員も激戦地へ送られ、一名を除いて戦死。
死後損傷を加える現場に立ち会った大久保軍医長は、後任の古賀長官もろとも暗殺。


いずれにせよ、これらはおそらく現実に反して、上司よりの強力な指示と指導による、フィクションによって記録されたと思うのである。山本元帥の戦死は、「機上戦死」「即死」と信じて疑わなかった国民の一人として、筆者も、当時はそう信じていた。


しかし、戦後、いろいろな山本五十六の伝記を読み、彼の人間性を知るにおよんで、なんとしても世界に冠たる日本の山本元帥を、こともあろうに一発の敵弾のための「即死」として死なせたくなかった。アメリカの一空軍中尉ランフィアによって、一発で仕止められるほど不名誉なだらしのない死に方でなかったと思うと、なにか救われたような気持ちである。


ラバウルを六機の護衛戦闘機に守られて飛び立ち、バラレ島のバラレ飛行場が眼下に見える上空まできて、敵の十六機という圧倒的多数の戦闘機に待ち伏せされ、被弾し、不時着したのである。だが、なぜ生きているうちの十八日じゅうに救出ができなかったのであろう・・・そしてもっと早く、もっと有利に、”終戦”ができていたのではなかろうか。その後の昭和十九年、二十年のむだな戦いと、数十万におよぶ兵士の犠牲もなく終わったのではなかろうか。』

これが儚い幻想であることはいやというほど思い知らされています。  

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コメント
 
01. 大野芳 2015年2月07日 03:26:06 : Obmn9FAl2yxNE : VE7mvVgIDQ
著者・大野芳です。確かにノンフィクション・ノベルです。しかし、後書きにも書きましたが、伊藤栄一氏という証言者は、実在です。また私は、伊藤氏の情報源である百武忍氏(東大出。資生堂重役でした)に何度も取材して、長官の最期を確認しました。蜷川親博軍医は、最初の発見者の中にいました。その蜷川軍医のメモが、四月二十日になっています。遺体で発見されたのが十九日午後一時ごろです。記憶に個人差はありますが、蜷川軍医のメモが現場を確認した十九日ならば、現状記録と見てよろしいのですが、その内容は、海軍の報告に副ったものです。つまり陸軍と海軍が打ち合わせ、こんなことも偽るのか、と考えた項目に「?」がついています。よくご覧になって状況を思い描いてみてください。開軍の検視は、二十日午前八時ごろです。もし検視書を書くとすれば、第一発見者である陸軍軍医であるべきでしょう。それを搬送中の船上で検視したように見せかけ、現場をしらない海軍の軍医長に野戦病院の裏庭で遺体を見せ、海軍の思惑通りに書かせたのです。検視時間のタイムラグは、蜷川親正氏も指摘されています。もう一度、ダマされたつもりで読み返して見てくださいませんか。いままでの書物で、十六、七隊もの捜索隊がくりだされたことを確認した人は、私以外におりません。全体像を見据えた上で、フィクション仕立てにしたまでですから、真相の「ピストル自決」に変わりはありません。百武忍氏は他界されましたが、近年、夫人に電話しましたところ、「夫は、証言を書き残してもらって満足してました」と、語って下さいました。 ご愛読、ありがとうございました。

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