http://www.asyura2.com/12/cult9/msg/457.html
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前回の私の検証が間違っていたため、今回もう一度再検証します。
前回は大野芳『山本五十六自決セリ』を参照し、
自決説に半ば同意しましたが、
これは私の完全な誤りです。お詫びして撤回します。
大野芳の説は逃亡説のバリエーションとして捉えるべきでした。
同時に蜷川親正氏の労作を葬り去るという明確な意図を持って、
『山本五十六自決セリ』を著しているようです。
前回その意図が見抜けずに、
蜷川親正氏の亡兄蜷川親博軍医大尉の五十六検死カルテを軽んずる、
大野芳の見解に安易に同調していました。
今回お詫びして全撤回いたします。
では再検証にあたって、なわふみひと氏がアップした、
ヤコブ・モルガンの記事より抜粋させてもらいます。
山本五十六は生きていたC
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/YamamotoIsoroku04.html
『大本営発表の「死体検案書」(死亡診断書)と「死体検案記録」(死亡明細書)によれば、死亡日時は「昭和18年4月18日午前7時40分」である。傷病名は「顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創」であり、末尾には「右証明ス 昭和18年4月20日 海軍軍医 少佐 田淵義三郎」として署名捺印がある。
ところが墜落現場を最初に発見した浜砂陸軍少尉は次のように証言している。「長官はあたかもついさっきまで生きていたかのような風貌で、機外に抛出された座席上に端然として死亡していた……その顔面には創はなかったし、出血の痕もなかった。その発見は墜落後実に30時間前後も経った頃である」
同様の証言は陸軍軍医・蜷川親博中尉も行なっている。蜷川中尉は長官機遭難現場近くの歩兵第23連隊の次級軍医として勤務していた。このため、中尉は救難捜索行動に参加し、長官死体の検視も行なっている。
にもかかわらず、山本長官の秘蔵っ子と言われた渡辺中佐参謀は、事故のあと19日、ラバウルより現地に急行、20日夕刻掃海艇上に運び込まれた長官の遺骸を検死して大本営と全く同一内容の証言をしている。渡辺参謀の証言内容とは「20日夕の時点で顔面貫通機銃創と背部盲貫機銃創は共にあった。4月18日、機上での戦死は間違いない」というものである。
前出の田淵軍医は「私が検死した時点では顔面に創はあった」「姐(うじ)の侵蝕とは考えられぬ」とし、さらに重要な証言「死後の作為が加えられたかどうか判らない」と言いながらもその可能性を強く示唆している。
戦死が狂言であったこれだけの証拠
山本長官の「死」は明らかに狂言であろう。その穏された真相は次の如くであると推測される。
1.山本長官は太平洋戦争前半における帝国海軍崩壊のためのすべての役割を完了した。
2.そのため急遽姿を隠す必要が生じ、側近の宇垣纏中将(連合艦隊参謀長)や渡辺中佐(参煤)と共謀し、あらかじめ暗号をアメリカ側に漏洩した上で長官機撃墜の一大ペテン劇を演出した。
3.当日、山本長官はわざわざ草色の第三種軍装を身にまとい、ジャングルを逃亡の際目立たぬよう略装にした。
4.米軍機攻撃の際、いち早くパラシュートで脱出、地上よりかねて打合せの場所からガダルカナル島米軍基地へと逃亡した。
5.捜索班が事故機を発見したとき、長官の身替りとされた男(恐らくは風貌の似た人物)を座席に縛りつけ毒殺した。
6.従って発見時には顔面の創も背部盲貫機銃創も存在しなかった。
7.その後、山本長官を「機上死」であると捏造するため、遺体に拳銃か鋭利な刀物で人工的な死後損傷を加えた。
事実、田淵軍医が検死をしている最中に長官のワイシャツを脱がせようとしたが、渡辺参謀から突然大声一喝され、「脱がすな、これ以上触れてはならぬ!」と怒鳴られ制止されているのである。人工的な死後損傷であったとする証言も数多く存在するが、これらのすべては黙殺され、渡辺中佐の命令下、虚偽の「死体検案書」と「死体検案記録」は作成され、「機上壮烈なる戦死」という大本営発表となるのである。』
蜷川親正『山本五十六の最期 検死カルテに見る戦死の周辺』光人社より
結論部分を抜粋します。
『そのとき虫の息で救出を待っていた
山本大将は少なくとも、十八日の午後、または夕方まではハエを追いうる生命現象があった。全身打撲か、内臓などの破裂により、十八日夜から十九日早朝に体力の限界がきて、夜明けとともに死亡したと判断する・・・さきに述べた各項目より考察すると、山本元帥の死因は、全身打撲か内臓破裂により、不時着時はそのショックで天蓋を打ち抜いて飛び出していた。やがて正気になり、座席に座り、救助を待っていたが、前述したように十八日午後よりは容態が急変して、夜を迎えるとともに体力の消耗はなはだしく、十九日夜明けとともに、息を引きとったものであろう。
事故発生の十八日は、墜落現場のアクちかくには陸軍の歩兵二十三連隊(浜之上大佐指揮)が駐屯していた。ひさしぶりの休日のため、墜落して行く飛行機を、多くの将兵は敵機と思って見物していた。この陸軍部隊になぜ、的確に遭難状況をはやくつたえなかったのであろうか。もし、救出を依頼しておけば、九時か十時にはつたえ得たはずである。五千名もいた連隊の、せめて千名いや五百名でもよい、墜落炎上している方向を中心に、一列横隊で全身して捜索するという「面」の捜索を実施しておれば、その日の昼、または午後そうそうには、かならず発見しえたはずである。』
一つずつ検証します。
◎任務を終えたので姿を消した
海軍はまだ壊滅状態になっていません。海軍の天王山はマリアナ沖海戦の決戦です。
◎暗号を漏洩した
ブイン視察の詳細スケジュールは、二回打電されています。4月13日に打電したのは月初めに変えたばかりの新しい暗号です。天候不順を理由に視察を18日に延期して、前夜の17日に戦艦武蔵から旧暗号で打電しています。これはアメリカの暗号班が新暗号を解読できなかったので、旧暗号で打電したのだと思います。
◎第三種軍装の色
ヤコブ・モルガンは草色、大野芳はもえぎ色を主張しています。殊に大野芳は意図的にもえぎ色を刷り込もうとしている節があり、第三種軍装の話がでるたびにもえぎ色であることを強調しています。ヤコブ・モルガンの草色の出所は、大野芳のプロパガンダ本しれません。蜷川親正氏が直接聞き取りをした捜索隊の生存者たちは、紺色だと証言しています。
○陸軍第二十三連隊第一中隊捜索班・中村見習士官(当時)の証言
『いずれの死体も顔面に血のついた者は見当たらず・・・ただ一つ、元帥の紺色をした制服の上衣のすその部分と、ズボンの上部が黒くこげていて、きな臭かったのが印象的だった。』
○富山伍長(当時)の証言
『・・・ある死体は海軍の紺色をした上位を四つに折って、それを枕にして上向けに寝ているように死んでいた。』
○陸軍第六連隊第三中隊中隊長・阿部茂大尉(当時)の証言
『山本長官の紺色の軍服と、そばの軍医の白色の軍服もまったく乱されたり、よごれたちしていなかった。二人ならんで腰かけておられ、五十センチとは離れていなかったものと思う。』
◎パラシュートで脱出した
当日、ブインの山頂には見張りが立てられ、長官機が撃墜される一部始終を目撃しています。そういう状況で人目につかずにパラシュート脱出するのは、撃墜されるかなり前でなければなりません。長官がそのような行動を取ることに、機内に残る者たちに不審を抱かせず、そのままブインに直行させ敵に待ち伏せ攻撃させるためには、どのような説明がされたのでしょうか。長官機には天才といわれた航空参謀・樋端久理雄が同乗しています。それとも樋端久理雄がヤラセの共犯者とでもいうのでしょうか。
◎顔がきれいなのは毒殺したから
長官機は撃墜されましたが、操縦士たちは最後まで持ち場を離れずに不時着を試みています。実際、大木に激突しなければ多くの生存者がいたであろう、限りなく水平不時着陸に近い状態のようです。操縦士たちは操縦席を一歩も動かず焼死しています。五十六の死体の損傷がほとんどないのは、操縦士たちが黒焦げになるまで持ち場を離れずに、必死の努力をしたからです。五十六の顔がきれいなのは身代わりを毒殺したから、という邪推は、長官を死守しようとした操縦士たちのそういう気持ちを踏みにじるものです。
蜷川氏前掲書より該当箇所を抜粋します。
○吉田雅維氏の証言(元佐世保鎮守府第六特別陸戦隊第一中隊第一小隊長)
『操縦士はみずからの操縦席で、通信員はその通信席で、機関銃手はその銃座で、それぞれ座席を一歩もはなれることなく、黒こげのまま死んでいるのを発見した。ことときは私も、おもわず頭が下がった。現代の年齢でいうなら、十七、八歳から二十歳ぐらいの少年飛行兵が、忠実にその任務をはたしつつ、燃えさかる飛行機上で戦死していたのだ。
現場のジャングルからは、約一キロちかく、樹林の上部をけずりつつ、約五、六度の角度で、だんだんとジャングルに深く進入して、不時着をしていったことがよくわかった。やがて地上にたっする地点に、不幸にして、五、六本の太い二かかえも三かかえもある大木があったので、それに衝突し、機体はばらばらになったのである。機内の各自は、完全に任務を遂行していたし、現場をみても、けっして墜落ではなかった、といえる。あの状況は高等な技術による不時着だったのだ。
私は、若き少年航空兵たちのりっぱな飛行機の操作と、その持ち場を守り身は焼けようとも、死して護国の鬼となった人を、永久にたたえていただきたいと思う。それにしても、じつにりっぱな不時着で、あの大木さえ機をさえぎらなかったら、あるいは、二、三人はモイラ岬の二番機のように、重、軽傷の程度で救助できたものをと、残念でならなかった。』
◎身代わりを連行した
最初に長官機を発見したのは、浜砂大尉率いる陸軍歩兵第二十三連隊の第一小隊です。第一小隊が五十六に良く似た人物を連行して、現場で毒殺して長官の身代わりにしたというなら、彼らは海軍に頼まれてグルになっていたのでしょうか?また捜索隊は陸海軍から複数出されていますが、困難を極めた捜索の過程を見ると、歩兵二十三連隊第一小隊がジャングルをかき分けかき分けして、最初に長官機までたどり着いたのは僥倖に過ぎません。身わり毒殺説が成立するためには、最初に現場に到達した陸軍歩兵第二十三連隊第一小隊以外の全捜索隊が、五十六に良く似た身代わりを連行する必要があります。全捜索隊の一覧表は次の通りです。
陸軍捜索隊の内訳
歩兵第二十三連隊長の命令より出動したもの
○蜷川軍医中尉を長とする捜索救助隊
○中村見習士官を長とする捜索隊
墜落を認め自主的に編成されたもの
○浜砂盈栄少尉を長とする捜索隊
○野砲連隊小隊長柴田少尉を長とする捜索隊
○高妻秀年見習士官を長とする捜索隊
海軍からの要請で輜重兵第六連隊から出されたもの
○阿部茂大尉を長とする捜索隊
○竹内睦祐軍医中尉を長とする捜索隊
海軍
海軍第一根拠地隊司令部の命令によるもの
○田淵義三郎海軍軍医を長とする捜索隊
佐世保鎮守府第六特別陸戦隊第司令の命令によるもの
○吉田雅維少尉を長とする捜索隊
○倉橋繁巳兵曹長・担架隊長
○野崎末男上機曹を長とする一個分隊による捜索隊
○永溝征紀兵曹長を長とする捜索隊
○水上航空隊
これら陸海軍併せて13グループある捜索隊が、それぞれ五十六に良く似た身代わりを用意したのでしょうか?13グループ全員が機密を守ったということなのでしょうか?浜砂氏が連行した身代わりの男だけが毒殺され、他の12人の身代わりはお役御免となり、陸海軍に箝口令が布かれ、五十六はまんまと逃亡した・・・非常にシュールな仮説です。
◎機上戦死の偽装
蜷川検死メモには顔面にも顎にも損傷は認められず、生存している目撃者全員も顔面はきれいだったと証言しています。翌二十日、五十六の遺体は大変な難儀の末に海岸に到着、発見72時間後になってようやく海軍の田淵義三郎軍医少佐が検死します。左顎下に貫通銃創を認めたのはこの時です。これが公式検案書となり機上戦死として発表されます。
私も田淵軍医が検死する前に死後損傷が加えられ、機上戦死が偽装されたことには同意します。しかしなぜそれを以て、逃亡説が成立するのでしょうか?
ヤコブ・モルガンの逃亡説をもう一度おさらいしてみましょう。
陸軍が連行した身代わりを毒殺した。
↓
当然死体の顔は無傷だった。
↓
これではまずいと渡辺安次らが死後損傷を加えた。
↓
海軍軍医に機上戦死のカルテを偽造させた。
↓
これこそ五十六が生きて逃亡した動かぬ証拠である。
何でわざわざ毒殺死体を用意させるのでしょうか?
機上戦死を偽装したいのに?
何で最初から貫通銃創の死体を用意しないのでしょうか?
これがいちばん簡単なのに?
何でわざわざ毒殺死体を用意して、
72時間後に顔面に損傷を加えて、
カルテを偽造させて、
それが五十六が逃亡した証拠?
訳分りません(笑
なわふみひと氏はもっと支離滅裂です。
なわふみひと氏の読書遍歴より
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1005-1.html
『このようなアメリカ(を支配する層)の巧妙な戦術に協力するために、体を張って真珠湾攻撃を主張したのが山本五十六という人物でした。この真珠湾攻撃が日米両国にどのような意味を持つものであったかがわかると、アメリカが2400人もの犠牲者を出しながら、本来であれば超A級戦犯とも言うべき山本五十六を全く批判せず、支配下のおいている日本の主要マスコミが今なお彼を英雄扱いしている理由が理解できると思います。しかも、山本五十六の死が全くの偽装死であったことは『山本五十六の最期』(蜷川親正・著/光人社)を読むとよくわかります。要するに、大東亜戦争(太平洋戦争)では、山本五十六を頂点とする海軍の中枢が結託して日本の敗戦のために動いていたのです。私たち日本国民がこのような真実を知ることこそ、先の戦争の犠牲者に対する、せめてもの弔いの意味を持つのではないかと思います。(なわ・ふみひと)』
上記のなわふみひと氏の論旨を裏付ける資料として、蜷川親正氏の本ほどふさわしくないものはありません。蜷川親正氏とアイクの本に限っていうと、なわふみひと氏が『読書』したという時、それは恣意的に読んだという意味しかありません。蜷川親正氏の本を『読書』」という言葉が持つ本来の意味で読めば、「五十六の死が偽装されたのは、海軍が意図的に見殺しにしたことを隠蔽するためである」という作者の強い怒りが伝わって来ます。
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