10. ♪ペリマリ♪ 2012年5月03日 11:58:41
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どぶさいらさま大変申し訳ないのですが、 実は私は太田龍氏が『天皇破戒史』『長州の天皇征伐』の中で、 鹿島昇氏が大室寅之助を南朝の末裔と捉えていることを知って、 松重陽江氏の『二人で一人の明治天皇』しか目を通していません。 熟読したとはとても言えない段階なので、 孝明天皇弑逆についての検証をあらためて読んでみます。 鹿島昇氏が松重氏を触発したのだとしたら、 鹿島氏の業績が顕彰されることにはまったく同意です。 大野芳は明治維新を正当化する偽史シンジケートの筆頭の一人です。 明治政府にただ一つやましいところがあるとすれば、 南朝革命であることを秘していたことであると書いています。 私は鬼塚氏がなぜ大野芳を推奨するのかまったく分かりません。 無意味な資料で肉付けして、岩倉具視を礼賛して終わっています。 確かにどぶさいらさまの仰るとおり、 鬼塚英昭氏は鹿島昇氏個人の業績には言及していません。 松重陽江氏に取材して、松重氏とタッグを組んだ鹿島氏について触れ、 自らの調査及び益田勝実(長州国家老益田弾正の一族)を初めとする、 さまざま史家の資料及び日記類で検証されています。 以下に過去の拙稿より、 鬼塚氏が松重陽江氏に取材した部分を転載します。 山本五十六の真実C鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密 http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/687.html 投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2011 年 11 月 23 日 14:38:56: 8qHXTBsVRznh2 DVD『鬼塚英昭が発見した日本の秘密』成甲書房より 以下転載。 今日は日本の歴史について話したいと思います。それも近代から現代にかけて、明治・大正昭和にかけて、みなさんに語りたいと思います。なぜその近代というものが大事かというと、近代を知ることは、今、平成の時代に起きていることを知ることができると思っているからです。で、まず最初にですね、とんでもないって思われる方がいらっしゃるかも知れませんが・・・明治が始まる前、幕末のことを少しだけしゃべりたいと思います。
私がたぶん2006年の10月と思うんですけど、山口県の柳井(やない)市というところに行きました。そこにもうかなり高齢なんですが、松重楊江(まつしげようこう)さんという方が住んでおります。その人を訪ねて行きました。で、彼に会い色んなことを聞きました。彼の本もその前に読んでおりました。どうしても彼に会って本当のことを聞きたいと思って、色々な質問をしました。
松重楊江は私にこう言いました。「ここのそばに田布施川という小さな川がある。そこの田布施川−そのひとは柳井に住んでいます−を渡って、あの山の向こうの方から老人がいつも野菜を売りに来ていた。」 その時に私が色々雑談をしている時に奥さんも傍にいまして、奥さんもそう言いました。「そういつも野菜を売りにきていた」と。ところが時々変なことを言う。何を言ってんだといったら、『うちの爺ちゃんは明治天皇や』と言うてるんですよ。で、松重楊江も笑っていたそうです。でも彼は宮本賢治の家のそばで宮本賢治の一族ですから、東京で共産党の幹部まで行き、宮本賢治の秘書になるような男です。故郷に帰ってきてダンボール工場をやったところが成功して、いっぱしの工場の経営者となり、息子に後を譲ってました。優秀な男なんです。で、どういうことかというと『うちのお爺ちゃんが大室寅之佑(おおむろとらのすけ)といって明治天皇になったんだ』というわけです。 話を聞いてみると何か辻褄が合うような気がする。それで色々調べているうちに、ひょっとしたらこの大室近佑(おおむろちかすけ)という老人が私に喋っているのは本当のことじゃないかと思い、萩の郷土史家を連れてきて調査した。萩の郷土史家とともに、山口県の郷土雑誌に『変な老人の話で・・』というようなことで記事を書いた。それを中央の鹿島昇という弁護士が読んで、松重楊江のところに訪ねて来ました。彼が言うのには「私は大室近佑の言う話を信じるから、近佑に会わせろ」と言った。で、まあ、近佑に会う。 それで鹿島昇と松重さんは−その当時はまったく歴史家じゃないんですけど−触発されて二人で本を出そうじゃないかと言った。それから松重楊江は近代史にのめり込むわけなんです。そして独自に調査をやり、大室寅之佑が明治天皇になった過程を、沢山の本に執筆するわけです。私も彼の本に刺激をされて『天皇のロザリオ』『日本のいちばん醜い日』に、彼の話を中心に引用するわけです。 以上です。 どぶさいらさまのおかげで、 太田龍の前掲書を見直しています。 非常に貴重なことが書かれていますね。 松重陽江氏の『二人で一人の明治天皇』のさわりは次の通りです。 『これから本書で縷々述べていくのであるが、孝明天皇を暗殺したのは確かに伊藤と岩倉で、もしも慶喜が睦仁のすり替えに文句をつけていたら、我が国の内乱が果てしなく続いていたであろう。薩長同盟の本当のスポンサーは、坂本竜馬を動かした勝海舟と、勝に命令した二枚舌の慶喜だったにもかかわらず、その慶喜を薩長がなぜ征討したのか。ここに幕末維新の謎があった。 「玉」大室天皇を擁立して「南朝革命」を実現せんとする慶喜と勤王志士たちの蜜月が、どうして百八十度変わったのか。それは、元治元年(一八六四年)十一月、英国公使ハリー・パークスが、「開国を認める天皇の下で、フランス公使とつるんだ慶喜を排除して、薩長政府をつくればよい」と西郷隆盛にもちかけたために、薩長同盟の中身がすり代わって倒幕同盟になったからである。
日本に来たパークスは、清国を第二次アヘン戦争にひきずりこんでイギリスの植民地にしようとしたような男だったから、日本でも同じようなことを考えた。
当時の日英同盟は、現代においては日米同盟になりかわっている。その現代にあって、昭和天皇のとき以来くずぶってきた「皇室典範」の改定などをめぐり、明治維新の意義が問い直されようとしている。しかし、歴史の真相を解明しなければ、過去の歴史をもって本来の指針とすることはできないであろう。
歴史の教訓は真実の歴史に宿っているのであって、ウソの歴史は教訓にならない。従来の「万世一系」のウソと「身代わり天皇」の維新史が、広く世に伝わり、認識されて、二十一世紀の指針になればと切に願う次第である。』
私は田布施システムとは、押し込められてきた人々の怨念そのものだと思います。 徳川家康の「百姓は生かさぬように殺さぬように絞れば絞るほど取れる」、 という過酷さを上回る税制を課し、 田畑を手放すしかないところまで農民を追いつめ、 寄生地主と貴族階級からなる後期絶対君主制度を作り、 国家の富を簒奪して天皇毛と財閥のシンジケートを作っています。
元勲たちも自ら個人財閥となり、、 民草が壁土や藁をかじり、村役場では娘の身売り相談コーナーを作る世相の中、彼彼ら特権階級は子息を官費で外遊させ貴族生活を送っています。
千代田城をこれでもかと飾り立て、古事有識に則って権威づける行為には、 同じくゲットーに押し込められてきたユダヤ国際金融グループが、 宮廷に入り込み骨抜きにして貴族階級を乗っ取っていった相似形、 怨念の系譜ともいうべきものを感じます。 そういう意味では、 身分制度と封建制で人々を縛り付け、 出る杭は打たれる式の奴隷根性を受け付け、 差別するためだけの階級を作った家康に対する怒りを感じます。 倒幕されたにはされただけの理由があったと思います。
しかし明治維新は徳川封建制をさらに過酷にした、 しかも新楽の手先として機能する傀儡政権であるという点で、 日本史上未曾有の最悪のものだと思います。
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