11. 2012年3月19日 17:01:54
: PmCgn1PhPg
あなたの言いたい事をもっと単純に言い表す事も出来る 何かの自己実現を強く思う時には当然そこには相対的に相反した現実(幻想)世界を造り出すということだ自身が周囲の情報に何ひとつ比較せず判断しまた自身もその対象とならず生きていければ あらゆるありもしない意味や情報に惑わされずとも済むようになる すべてに意味は無い だが普通の人間は逐一周囲に感情を持って反応する 反感をもったり嫌悪したり自身を正当化してみせたりと「意味」に振り回される そうなればますます自身が求めない状況に立たされるハメとなる 自身が現実に意味を与え意味を生み出している張本人だから あらゆる抑圧を受ける必要も無く抑圧から逃れようとする事も無い 逃れようとすればするだけそこには 「そこから逃れなければなら無いもの」を絶えず生み出しつづけるだけである まずは自身が周囲にどんな意味をも与えなければ良い そうして観察する事で状況の一変を理解する事が出来るようになる 自身が他にレッテルを貼った時点でそれはそのような存在として あなたの世界に意味を与えられそのように働きだすのである そこに意味を与えた者がそこからその通りの意味を受けとるだけなのであるから だが普通そんな事は出来ないと考える 未知に対してすべてのものは戦くままであると感じているからである 恐れといった感情を手放すには未知を既知に変えてそれは恐怖に値しない事をしる事だが 勿論そこに至る為の克服のプロセスは必ずしも必要はない ただ捨ててただ拾う 拾ったものはまたすぐに捨てる 与えられてもそれをすぐに誰かに与える 信頼されても信頼されているままではならないのであり その人物の依存心を捨てさせるようにその人物にすべてを与え尽くせばよい その事をよく理解すれば何に振り回される事も無い もっと時間を自分のしたい事の為に割けるというものだ 当然何かに対峙し何かを克服したいとするそうした体験の最中に居る事だけが好きなものも居る そうした場合は未知であることは喜びであり既知にはすぐに飛び移らない 恐いもの見たさは子供がよくやる遊びのひとつだから 多くの宗教的儀礼にみられる厳格なイニシエーションといった「試練」もまた 一握りの合格者を生み出す為の単なる「演出」としてしか働かない 其所で与えられた意味としての経験がより高いといった意味の場所に辿り着く事を 自身に(自身でそうした意味を与えることを)赦すのである 実際は難関や関門などなくどんな宗派であろうと無かろうと 通り抜けられる場所は一つであり誰でも通り抜けられる 単にそれは既知であると畏怖することなければそれは未知であろうとなかろうと ただ知れて当然のものとなる 何故多くの脱落者を生み出すようなものに変わっていくのか それはそこなりの信仰に対する考え方の現れであり よって厳格なもの程注意が必要で何を選ぶも自由だが 私個人としてはそうしたものは如何わしいとさえ言うことができる 単に魂に混乱を巻き起こしている様に見えるだけだからである 最後にあなたにひとつの意見が有り真摯に対応して感想を頂きたいと願うのだがどうだろう それはこのような質問だ ひとつの真理と云うものもその方向性の向きによって二面性ある {勿論その真理とはこの次元で語られるが故の特性を帯びていると云う事なのだが) それはつまり何かを願う者の心の向きと言い換えることができるのだが 抑圧というものを感じている状態を出発点としてそこから脱却の為に何かを学ぼうとすると 仮に分かりやすい様に言えば心の向きは下から上である これは解放を求めて自身に地獄を与えている状態である これは自らそうしているのである こうした場所から一字一句間違いの無く真理の教科書を朗読(発言)しても 心の向きは一向に変わっていないため これは大抵真理とはかけ離れた所に自分と周囲との隔たりや格差を 大きく広げていくだけの様な気がしている それは当然真理ではなく異質なテリトリーを単に設けているだけの様な気がしている これは勿論万人向けではないが異質な人間向けとなるとぴったり当て嵌まる それは同様に下から上を眺めている心の向き同士波動が共振するからである こうなると真理とは万人向けでは無く更には異質な人間向けとであるという様な解釈になってしまう これでは到底そうした真理は人々に受け入れられない そうして方向性というものを与えた場合 ここ娑婆での真理には二面性あると言う事が出来る 学ぶ側の人間の心の向きであると私は言う あらゆる抑圧というものを感じぬ様になってからが 始めて真理を学べる段階に到達しているといえるのである つまり他者に対してあらゆるレッテル張りは必要なくなってくる 他者へ対しては抑圧の意味を与えるのは抑圧されていると感じている人間なのである 真我に至っては一切の抑圧など感じる事は無い 体の重さも感じず普段耳障りと感じる音もフィルターを通した様に穏やかなものになる その状態でただ肉体の意識は肉体に返還し解放していると 今度は異次元が現れてくる 自己の身体はカタチ在るものとして捉えていないから 何処へでも意識の注視するものの中に入り込ませる事が出来る 方法にしてもあなたと私は対極的に違う 私は全てを受け入れる 全てに感謝し尽くし 意識の垣根を消していく オクターブを次第に高くし上限を設けない声に到達するとでもいうか 何処迄も高らかで限度を感じない声にて 頭の頭頂(肉体)を越えて突き抜ける様にして 辿り着く意識というものが在る それは至上の歓喜の感情であるとも言える 一切の抑圧を感じない状態である 抑圧からの解放を求めて真理に縋ったとしても 抑圧から遠ざかろうとしていてはますます抑圧を近づけるだけなのであり 縋らなくても良い状態を知る事だけが面白いとのである (未知を既知に換える事でありその為のプロセスは要らない) 駄文失礼した |