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山本五十六の真実L  『美和日記』 & 『70年目の真実』
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投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2012 年 3 月 08 日 15:39:14: 8qHXTBsVRznh2
 

三和義勇のプロパガンダ日記と、近江兵治郎の『70年目の真実』を検証する。

先ず近江兵治郎から。

元連合艦隊司令部従兵長近江兵治郎著『連合艦隊司令長官山本五十六とその参謀たち』
(株)TISより

『日ごろの名提督である山本長官の口から漏れた、こんな独り言を耳にしてしまったことがある。「南雲の水雷屋が」』

『山本、南雲両提督の間には、ひとつの溝があった。』

『第一航空艦隊司令長官南雲中将は、連合艦隊司令長官山本五十六大将の直属であるが、かつて山本長官の盟友、堀悌吉中将を予備役に退けた張本人の一人であったと聞く。山も皮肉な巡り合わせであった。』

『両提督は、海軍の派閥上相容れない宿命にあった』

近江兵治郎は山本五十六と南雲忠一が険悪な関係にあったかのように証言しているが、実際は山本五十六が腹の底を割って話せた相手は唯一南雲忠一である。しかし近江兵治郎は五十六と南雲の意志の疎通を欠いた関係が、真珠湾攻撃の手抜きとミッドウエー海戦の敗北の原因であるかのように暗示している。実際は真珠湾攻撃の手抜きもミッドウエー海戦の惨敗も、勅令によるものである。

『山本長官は、予定された第一波、第二波の「第一次攻撃」に続き、南雲部隊から「第二次攻撃」隊を発進させ、より徹底的に真珠湾を叩きたい意向を持っていることが、その様子から察せられた。しかしそれとは裏腹な意味の独り言が、長官の口から漏れるのを私は耳にしている。「南雲は一回で引き返してくるだろう」 それは、いかにもぞんざいな言い回しであった。』

『カーテン一枚隔てたところで控えていた私には、その激論の一言一句が耳に入ってきた。少しでもその場の雰囲気をやわらげようと思った私は、熱いお茶と菓子をお出しするよう、部下の従兵に指示した。参謀たちの意見はまとまらないまま、時が過ぎて行った。長官が断を下したのは、真夜中の十二時頃のことと記憶する。「帰ろう」その一言ですべては決まった。昭和十六年十二月九日、旗艦「長門」の戦闘艦橋の真下の狭い作戦室での山本司令長官が発した「帰ろう」の一言。誰にも語られずに六十年の時を経たこの言葉を、歴史の事実としてここに書き留めておきたいと思う。』

当時を知る人間は、ついに近江兵治郎たった一人になったのだ。今こそ『歴史の事実』を書き留めるチャンスである。真珠湾攻撃の手抜きについては、念入りに言及しておく必要がある。それにしても敬語の使い方がおかしい。ライターはかなり若い世代なのか。

『山本長官は、なぜ真珠湾を徹底攻撃させなかったのか ・・・山本長官は、旗艦「長門」の艦橋で、ぞんざいな口調で「南雲は帰ってくるだろう」こんなことを口走った。私はこの言葉を、長官付として勤務中に耳にしたが、その意味は「第二次攻撃をせずに戻ってくるだろう」というものだ。側役の従兵長だけが知る、大事な一言であった。』

内務省から海軍主計に出向、戦後は衆議院に打って出た若手議員中曽根康弘が、吉田内閣の下で原発予算案を通過させ、原発マフィア第二号として原発利権に食い込んでいく経緯には、山本五十六暗殺の功績がある。この当時、五十六はかつての部下である本多井吉の案内でラバウルにいる。

元海軍大佐本多井吉著(遺稿)『山本元帥と私』より抜粋。

『第二次大戦中の、昭和十八年四月三日、連合艦隊司令長官として将旗をトラック島在泊の旗艦武蔵から、ラボール(注 ラバウルのこと)に一時移揚された時、私は、南投方面艦隊兼第十一航空艦隊機関長として、ラボールの同司令部勤務中、同棟に十四日間、起居を共にする僥倖に恵まれたが、長官は、同月十八日、ラボールから最前線のブインに行かれるとき、機上戦死された。同日、ラボールでお見送りしたのが、はしなくも謂わば、四回目が悲しき最後のお別れとなった。同じ勤務場所でそれぞれ何年か経過して、三年目にお仕えできたこと、そして最後のお別れまでしたことは、人事の偶然の回り合わせとは言いながら、全く奇しき縁と思う。』

藤井茂渉外参謀は、4月に替えたばかりの新しい暗号ではなく、すでに解読されている旧暗号を使ってトラック島に碇泊中の武蔵より打電する。13日にラバウルから新暗号で打電した日程はアメリカが解読できなかったため、急遽15日の予定を18日に延期して、武蔵にいる藤井茂に旧暗号で打電させたのである。藤井茂は五十六が殺害された後、「今より長官室には全ての人間を立ち入り禁止にして、遺品を調べて内容のリストを作って私に報告せよ」と近江兵治郎に命じる。この勅令を藤井茂に命令したのは、秘密工作のために海軍に出向していた中曽根康弘である。彼は当時から吉田お気に入りのコネクションである。

近江兵治郎の続き。

『再び「南雲は帰って来るだろう」 』

『私は戦闘中、長官付きとしてそのお側にいる配置だったため、すべての発言を聞き及んでいた。六十年後の今日、こんなことを書き記すのも、今なお浮かぶ長官の思い出を、改めて歴史の一頁に書き残したいがためである。』

『「ほう、またやられたか」 将棋盤に向かいながらそうつぶやいた山本長官が、こんなことも口にされたのを記憶している「南雲は帰ってくるだろう」 状況こそ違え、真珠湾攻撃の時と同じ言葉である。真珠湾攻撃の時には山本長官の言った通り、南雲中将は第二次攻撃を行わずに帰途についた。今度もまた長官は、南雲中将は帰ってくると言うのだ。果たして南雲中将は、山本長官の言った通り「帰って」きた。』

五十六は戦闘中、勅令で拘束されている。将棋を指しながら「ほう、またやられたか」「南雲は帰ってくるよ」と言える状況下にはない。燃える溶鉱炉と化した赤城から南雲を引きずるようにして帰ってきたのは、源田実、草鹿隆之介、淵田美津雄らである。南雲に赤城と運命を共にされては、参謀長の草鹿も航空参謀の源田もおめおめと生き恥を晒すわけにはいかなくなる。責任逃れのために源田実は『肺炎』に罹っていたし、淵田美津雄に至っては『盲腸炎』で『緊急手術』したことになっていた。真珠湾攻撃の時は攻撃隊長になって上空の安全圏から指揮を執っていた淵田であるが、ミッドウエー海戦の『惨敗』のシナリオでは戦闘機に乗ると落命する恐れがある。仮病を使って病室にいたが、撃沈されるシナリオなので病室から密かに甲板上に抜け出し、物陰から敵の急降下爆撃を見学していたのである。淵田美津雄は広島原爆投下でも、同じような役回りを演じている。これは鬼塚英昭氏が『昭和天皇は知っていた 原爆の秘密 国内編』に、詳細を書かれている。


近江兵治郎前掲書より

『両提督の対面は、宇垣、草鹿の両参謀の列席もなく、二人だけで行われた。南雲長官は、山本長官に泣いて非を詫びていた。これも従兵長として、もっとも近くで耳に留めた出来事である。』

『山本長官には、親友、堀中将を予備役に編入した張本人の一人であるという南雲長官を潔しとされなかったところがあったようだ。しかし、このミッドウエ―の攻略戦は、山本司令長官みずからの計画であった。』

『長官の将棋好き  艦隊の入港時でもちょっとした暇があると一局始められたので、この兵棋図盤は長官のおもむくところいつでも目に付く場所に備え置くことに心掛けていた。戦前は、長官が視察に出られる際などにも長官艇に積込み、楽しんでいただいた。これも従兵長の心配りであった。』

『山本長官は、食後の雑談の際などには、こんなことを口にされることもあった。「将棋を指した数など、木村君より僕の方が遥かに多いだろう」 木村君とは、当時将棋の名人位を獲得された木村義雄氏のことである。山本長官は、日ごろ軍人として、とくに司令長官として無口な方のようだった。しかし、将棋を指す時などは、冗談を言いながら、参謀たちをからかっていた。』

五十六は厳然と公私の別を区別して勤務に精励していた。勤務中の合間に暇を惜しんでは将棋を指すわけがない。戦闘中に将棋を指して気を紛らしたというプロパガンダなど言語道断である。

近江兵治郎前掲書より

『司令部参謀はまた、絶対な勝算を見込み、長閑であった。五月の太平洋は、波また静かにして七万トンの大和は浮かぶ城そのものであった。ハワイ作戦のような緊張した空気は無く、山本長官みずから兵棋図盤と呼んでいた将棋盤を引出し、渡辺戦務参謀をからかいながら一番始められた。顔色を変えた司令部暗号長が、電報持参で入ってきたのはこの時である。暗号長は、解読した暗号文を急ぎ読み上げた。「赤城被爆大にして総員退去」 暗号長は報告を終えると、いったんは元来た方へそのまま戻っていったが、しばらくすると再び報告に走って来た。今度は加賀の悲報が伝えられた。この時山本長官は、少しも動ずること無く、泰然自若とした姿であった。「ほう、またやられたか」長官の口から発せられたのは、その一言であった。戦務参謀との将棋を指す手は止まっていなかった。この将棋の件は世間では、知られていないことである。また、既にこの現場を目撃した者は、もう日本国中探しても私近江一人だけとなっている。』

近江兵治郎は平成21年7月18日に山本元帥景仰会から出版された『山本五十六の「覚悟」』の中でも、まったく同一のことを何とかの一つ覚えのように述べている。同会が特別協賛した半藤一利原作のお正月映画『連合艦隊司令長官山本五十六』も、この近江兵治郎のガセネタを取り入れ、『70年目の真実』という触れ込みでミッドウエ―海戦のクライマックスを描いている。五十六役の役所広司は、三和と渡辺の合体した人物『三宅参謀』役の吉田栄作と将棋を指し続け、赤城、加賀が爆撃されると「ほう、またやられたか」と呟いて一手指す。役所が迫真の演技をするので、観る者を納得させてしまっている。

五十六の評伝を書いた工藤美代子も、近江兵治郎のこのガセネタを信じ切っている。

工藤美代子著『山本五十六の生涯 海燃ゆ』講談社より

『五十六が将棋を一番さし始めたとき、顔色を変えた司令部暗号長が電報を持って飛び込んで来て、翻訳した暗号を急いで読み上げた。「赤城、被爆大にして総員退去」そう報告すると帰って行った。五十六は唇をぎゅっと結んで、ひと言「うむ」といったとある。いったんもと来た方へ戻って行った暗号長は、しばらくすると再び報告に走って来た。そして今度は加賀の悲報が伝えられた。このとき、五十六は少しも動ずる様子はなく、泰然自若とした姿だった。「ほう、またやられたか」というのが五十六の発した言葉だった。手のほうは、相変わらず戦務参謀と将棋を指していた。「この将棋の件は、世間では知られていないことである。また既にこの現場を目撃した者は、もう日本国中探しても 私近江一人だけとなっている」このように書く近江の言葉の信憑性は高いと考えてよいだろう。「この時の山本長官の気持ち、そして将棋の相手の戦務参謀の気持ちは何程か苦しいものであったろうか」と、近江は五十六の心中を察している。日本の空母が次々と撃沈される電報が入って来たとき、五十六は「黙然として常の通り正しい姿勢」で、最後の対策を検討していたというのは藤井参謀である。』

このように書く近江の言葉のウサン臭さは相当なものだと考えてよいだろう。(前述したように藤井茂も勅令で動いていた一人)

工藤美代子前掲書より

『戦闘の間、近江は長官付として、五十六の側にずっといたため、幾つか忘れられない言葉を記憶している。将棋を指しながらの「ほう、またやられたか」もそうだが、「南雲は帰ってくるだろう」という言葉も口にしたという。これは真珠湾攻撃のときとほとんど同じ言葉だった。第一次攻撃に続き、第二次攻撃を期待されていた南雲に対し、五十六は「南雲は真っ直ぐ帰るよ」と、いかにもぞんざいな口調でつぶやいた。それを近江は、しっかりと記憶していた。そしてまた今、五十六は同じことを独り言のようにいったのである。』

『南雲は帰ってくるよ』『水雷屋が・・・』はガセネタである。山本五十六が一番信頼して本当のことを言えるのは、南雲忠一ただ一人である。五十六と南雲の手の届かないところで、真珠湾攻撃の手抜きは既定の筋書きとされている。南雲が五十六の親友堀悌吉を予備役に追いやる策略に加担したというのも、事実無根である。

戦果を当てっこしてビールを賭けたという逸話も有名だが、これは1938年に勅令を受けて偽証を綴るようになった三和義勇によるものである。通称『三和日記』がいかにして世に出たかの経緯を明らかにした本が、田布施王朝御用達のPR係文芸春秋から昨年の暮れに刊行されている。以下に抜粋する。

三和多美『海軍の家族 山本五十六元帥と父三和義勇と私たち』文芸春秋

2011年12月10日初版より以下抜粋。

『ある年の八月二日、千早正隆氏(テニアンで戦死された千早猛彦少佐の兄君)にお会いした。初めてお会いしたのだが、「三和日記を読ませていただきました」とご挨拶された。この方が、ゴードン・プランゲの『ミッドウエ―の奇跡』を訳された方だとは知らなかった。』

千早正隆はGHQ戦史室長のゴードン・プランゲと、二十年の長きにわたって二人三脚を組んだ人物である。千早はプランゲのプロパガンダ決定本の助手と翻訳を手掛けた他に、自らも海軍を貶めるプロパガンダ本を書いている。プランゲの聞き取り(注 聞き取りという形式を踏まえた共謀)に協力した源田実と淵田美津雄も、それぞれプロパガンダ本を書いている。淵田美津雄は奥宮正武と組んで、ミッドウエー海戦のヤラセを正当化するプロパガンダ本も書いている。ちなみに源田実はミッドウエー海戦惨敗の本当の主役である。淵田美津雄は残酷なトリックスターである。淵田は用済みとなった三和義勇を、死地テニアンに送り込む死神の役目も果たしている。

『なぜ千早氏が「三和日記」などとおっしゃったのだろう。お付き合いのない方なのになぜ父が日記を書いていたことをご存知なのだろう。調べたら父の日記は私が知らない間に防衛省防衛研究所の図書館史料室に昭和十五年、十七年、十八年のコピーがあることがわかった。母がこれをお貸しして史料室がコピーをとったのだ。それを見たい人が閲覧することが出来たのだ。』

つまり防衛省防衛研究所は、ガセネタで国防を研究しているということである。

『ゴードン・プランゲは父の日記を詳細に読み、その著書に引用していた。プランゲばかりではなく半藤一利氏も『遠い島ガダルカナル』に父の日記を大いに引用している。気をつけていると、ある新聞社がほんの数行引用しているのを見たり、いつの間にか「三和日記」があちらこちらに出回っているのに驚いた。』

三和義勇の情感豊かな文才ゆえだと思うが、たった一人の偽証がかくも人口に膾炙したのだ。

『日記にも色々な種類がある。宇垣纏中将は太平洋戦争が始まる二ケ月前から、この戦いを記録すべく日記「戦藻録」をつけ始め、敗戦の日、多くの特攻を送った責めを負って、特攻の基地鹿屋から艦上爆撃機「彗星」に乗って、沖縄の敵艦隊に突っ込んではたる日まで一日も欠かさずきちんとつけられている。全十五巻、第一級資料として広く読まれている。書くことが好きで戦前から書いていた父の日記とは少し違う。』

宇垣纏と三和義勇は少し違う。勅令で書き始めた時期が少し違う。しかしプロパガンダの第一級資料にするために、重要なポイントでガセネタを書かされていた点では大同小異である。

『動機が違うが父は前線で戦うことが多かったから父の日記も自ずから「戦争日記」になっている。父が作戦参謀として長門に乗った時、宇垣中将は参謀長として山本長官のすぐ下におられた方だ。同じ艦上で勤務していたのだが、二人の日記には、中将と大佐、建前と本音の違いがあるのは否めないのではないか。』

二人の日記に書かれたプロパガンダの内容には、中将と大佐の役割の違いがあるのは否めない。

『「三和日記」が世の中に出回っていることを知ってびっくりし、逗子の家に行って「リンゴ箱」を探した。沢山あった日記の山はたった五冊になっていた。母が処分してしまったのだ。残っていたのは昭和十三年、十四年、十五年、十七年、十八年だけだ。その内十五年、十七年、十八年のコピーが防衛庁防衛研究所にあるのだ。十六年と十九年、最も大切と思われるのがない。十六年のはどうしてないのかわからない。』

三和夫人が亡夫の日記を処分するなら『たった五冊』など残さずに、全て処分しただろう。五冊以外の日記は今のところ秘蔵されている。十六年の日記には真珠湾攻撃の真相が、十九年の日記には三和が良心に苛まれて殺害されるに至る真相が書かれている。

『私が最も読みたいと思っていた十九年のがないのは、小野田捨次郎(海兵の同期)の夫人が夫の使いで来て十九年の日記を持って行って返してくれなかったのだ。「返してと催促したら引っ越しの時なくしてしまった、と云った」と母は物凄く怒っていた。何ということだ。父のスワンソングともいうべき最後の日記を人に貸すなんて、そして引っ越しの時失うとは。引っ越しをいきなりする人はいない。貸す前に借りたものは返していろいろな準備をして引っ越すのが当たり前だ。私は貸した本が火事で焼かれてしまったことがあるが、火事とか急死とかは予測できないのでしかたがない。しかし、引っ越しのどさくさで父の遺品を失くすとは。この夫人は私の見る限りだらしのない人ではない。なにかある。』

確かになにかある。小野田捨次郎が勅令で『処分』したのである。しかし前述したように大切に秘蔵されているので、近い将来世に出て来る予定である。

『私は宇垣中将の「戦藻録」の昭和十八年一月一日から四月二日までの日記が、終戦直後、当時の先任参謀黒島亀人によって原本から剥がされ焼却されてしまった事件を思い出した。(注 昭和十七年十一月から昭和十九年二月まで剥がされてしまった)これは黒島参謀に都合の悪いことが書かれていたからなのだが、小野田氏が何故父の日記を捨ててしまったのかはわからない。が、捨次郎が捨ててしまった事は事実だ。』

黒島亀人は吉田茂の直接の指令を受けて、宇垣纏の日記を破棄した。破棄された部分は、山本五十六の暗殺に至る前後の時期に該当し、色々不都合な真実が書かれていた。同じく三和義勇の日記が捨次郎に捨てられてしまったのは、テニアン玉砕を目前にして三和が書いたスワンソングに、悔恨の情とともに真相が述べられていたからであろう。

『長門で長官の従兵長をしておられた近江兵治郎氏にお会いすることがあった折、「父は黒島参謀と仲が悪かったのですか?」とお聞きしたら「とんでもない、お父様はどなたとでも仲良くしていらっしゃいました。参謀の中で一番穏やかな方でした」。』

三和多美が近江兵治郎に向かって父親と黒島亀人の不仲を問いただしたのは、山本五十六の国葬係りに任命された三和義勇が次のような場面を描写した追悼文を寄稿しているからである。ではそのプロパガンダ文そのものを見てみよう。

『山本元帥の思い出』 海軍大佐 三和義勇(昭和十八年)より

『ある晩のことであった。○○参謀○○大佐(注 先任参謀黒島亀人大佐の伏字)と私とは、何かのことで議論していた。議論を越して口論に近かったかもしれぬ。作戦室にはこの二人だけで、時計は静かに十一時を指していた。この時、長官がヌッと入って来られて、「何だい、何を喧嘩しているんだ」と言われて腰をかけられた。「イヤー、別に喧嘩しておりませんが」とか何とか言って、また話が種々とはずんだ。

その時、長官は次のようなことを言われた。「○○君(注 黒島亀人の伏字)が作戦に打ち込んでいるのは誰もよく職っている。○○君は人の考えの及ばぬ所、気がつかぬ所に着眼して深刻に研究すう。時に奇想天外な所もある。しかもそれを直言して憚らぬ美点がある。コウいう人がいなければ天下の大事は成し遂げられぬ。だから僕は、誰が何と言おうと○○君を離さぬのだ。ソリャ○○君だって人間だ。全智全能の神様ではない、欠点もあることはよく職っている。○○君だって自分で知ってるだろう。そこは君が補佐すればよい。艦長をやらねば用兵者として前途がないナンテ言う人があるが、今時ソンナ馬鹿げたことがあるものか。よしあったにしてもソンナことはどうでもよい。むろん君たちも立身や出世のこと等は考えていまい、各幕僚はその職務においてこの戦争に心身ともにすりつぶしてしまえばそれでよい。もちろん君たちばかりではない、僕もソウだ。」

秋山将軍という人は、(中略)アノ日露戦争の一年半で心身ともにすりつぶされたのだ。そして、東郷元帥を補佐して偉績をたてられたのだ。軍人はこれが本文だ。お互いこの大戦争に心身をすりつぶすことの出来るのは光栄の至りだ。わかったか」と、その眼には堅い決意がひらめいていたが、またもとの慈眼に満ちた眼にかえっていた。○○大佐は両の手で頭を抱えて机の上にうつ伏しておられた。恐らくは、この知己の恩に対して、万感胸に迫り、言うべき言葉はなく、あるいは泣いておられたのかもしれぬ。私も黙って頭を下げた。』

三和義勇の筆によって感動的な場面が描き出されている。しかし黒島亀人が知己の恩に対して忠誠を誓っていたのは山本五十六ではなく、吉田茂その人である。『テッポー屋』黒島亀人を連合艦隊司令部の先任参謀に大抜擢したのは、もとより五十六の意志ではない。吉田茂と直に繋がる黒島亀人が、軍令部から一方的に送り込まれてきたのだ。言うまでもないが、軍令部がこの異例の大抜擢を許可したのはそれが勅令だからである。三和義勇は山本五十六の追悼文にこのような場面を創作することによって、『仙人参謀』『変人参謀』『ガンジー』と呼ばれていた黒島亀人を、山本五十六が偏愛し奇策を偏重した、というプロパガンダの嚆矢としたのである。次のエピソードも、三和義勇の印象操作である。

三和義勇の追悼文より

『越えて十日、マレー沖海戦となった。この戦闘は飛行機たち近代戦艦の一騎打ちである。言い換えれば海上戦闘における飛行機と戦艦との争覇戦である。それだけに一同緊張した。十日の朝、飛行機隊が発進した。しかしまだ戦闘までにはタップリ三時間はある。旗艦の作戦室では長官を中央にして各幕僚集まり、幕僚同志は勝手な戦果予想をしていた。』

『突然、長官は私を捉えて、「どうだい、“リナウン”も“キングジョージ五世”(当時は“プリンスオブウエ―ルズ”と型は同じなので“キングジョージ五世”と思っていた)も撃沈(やれ)るかナ。僕は“リナウン”はヤレるが、“キングジョージ”はまあ大破かナと思うが」と言われたので私は、「ソリャ両方ともヤレます」と答えた。すると、「ヨシ、ソンナラ賭けようか」と来られた。私もこれに応じて、長官が敗けられたら麦酒(ビール)十打(ダース)、私が負けたら一打を出すということにした。』

『一体、長官がこの賭けを挑まれるのは、好きというよりは、相手のそのことに対する自信確信の度を試す手に使われるのである。従って、常に自分の予想、考えと反対に出て、しかも、とてつもなく大きな賭けを言われる。言われた相手は逃げるとか、あるいは賭けを小さくしようとするようでは、そのことに自信のない証拠となる。自信のある者は賭けの大きいのを喜ぶのは当然である。長官はこの人情の機微を巧みに捉えて相手を試されるのだと、これは私が考えていることである。』

この三和義勇の偽証を最大級に利用したのが、美和に引導を渡した淵田美津雄である。淵田が昭和24年に書いた『真珠湾作戦の真相』には、五十六プロパガンダの全てがあると言っても過言ではない。後続の阿川弘之行、生出寿は、天才淵田美津雄をパクッた凡俗に過ぎない。阿川にあって淵田にないものは愛人ネタだけ、生出にある目新しいものは近江兵治郎のガセネタだけである。

生出寿著『【凡将】山本五十六』現代史出版会発行より

『ところで山本は、南雲部隊大敗の結果を、どのような気持ちで聞いたであろうか。前に、ハワイ空襲の第二回攻撃についてのくだりで、元連合艦隊司令部従兵長近江兵治郎の手記を紹介した。ここでまた、山本がミッドウエーからの敗報をどんな様子で聞いていたか、同人の手記を紹介したい。同じく、雑誌プレジデントの”ザ・マン”シリーズ「山本五十六」に掲載されたものである。』


生出寿が使っている近江兵治郎のガセネタは、1980年ザ・プレジデントマンに掲載されたものも、2010年文芸春秋、2011年新潮45に掲載されたものも、細部に至るまでまったく同一である。



『‐旗艦(註・大和)の作戦室では山本長官が渡辺参謀を相手に将棋を指している。何故にあの大事な作戦行動中、しかも空母が次々と撃沈されていくとき将棋をやめなかったのか。あのときの長官の心境は、あまりにも複雑で痛切で、私ごときの理解をはるかにこえるものだったのだろう。連合艦隊付通信長が青ざめた顔をして、空母の悲報を次々と報告に来る。この時も、長官は将棋の手を緩めることなく、「ほう、またやられたか」のひと言だけだった‐』


生出前掲書の続き

『この逸話は事実にちがいない。山本は、マレー沖海戦のときには、味方中攻隊がプリンス・オブ・ウエールズとレパルスに攻撃をかけるために出撃したとき、三和航空参謀とビールを賭けた。こんどは、南雲部隊の攻撃隊の発艦を前にして渡辺参謀と将棋を指し始めた。』


生出寿は近江兵治郎のガセねたを最大限に活用する使命を負っているのだろう。


生出前掲書の続き

『ハワイ真珠湾攻撃のときは、このようなことはせず、待つだけであった。山本が将棋を指しはじめたのは、なぜであろうか。敵の陸上雷・爆撃機や艦上雷撃機多数の攻撃をうけながら、味方の攻撃隊がいつまでも発艦ができないでいるのに待ちくたびれ、それをまぎらわすためにはじめたのであろうか。山本にしても、一航戦、二航戦の実力は十分に知っている。飛び立つことができさえすれば、あるいはまたマレー沖海戦のときのように、こんどは渡辺相手にビールを賭けようと思っていたのかもしれない。』


生出寿はひたすら【凡将】説をデッチ上げようと腐心している。


生出前掲書続き

『ところが、攻撃隊がまもなく発艦するであろうというときに、加賀・赤城・蒼龍がつぎつぎに爆撃をうけて大火災を起こし、攻撃隊も壊滅した。これは悲報というようなナマやさしいものではなかった。目も眩むような凶報であった。』

ミッドウエー海戦史上、日本海軍連合艦隊にとってこの『目も眩むような凶報』は、アメリカ太平洋艦隊には『奇跡』と表現されているが、これは正当な戦闘の後に行われた詐欺犯罪である。

生出寿続き

『こうなったとき、ほんとうは山本は、一人になりたい気持ちになったのではなかろうか。しかし、作戦室には多数の部下がいた。いま彼らは、山本の一挙手一投足に、針のむしろに座ったような気持ちでちらちらと視線を向けている。そのような状況で、山本は将棋を指す手を止めるわけにはいかなかったのであろう。しかし、「ホウ、またやられたか」のひと言には、強がりとともに、失望や悲哀や苦悩は滲んでいるような気がする。』


こんな場面で山本五十六が将棋を指しながら、「ホウ、またやられたか」などと座視していることは200%ない。山本五十六は着艦に失敗して海中に落ちそうになった飛行機を見てとっさに一人で飛びかかって一緒にズルズルと引きずられていく、殉職した若者たちの名前を手帳に記して毎朝黙祷する、そういう人間である。航空本部長時代にゼロから育ててきた愛弟子の航空兵たちが爆発炎上した空母甲板上で焼き殺されていった時、山本五十六は大和で拘束状態にあったと私は考えている。五十六が勅令により監禁状態にあったことは、ごく近い将来に資料が表に出る予定である。

生出寿続き

『当時千代子は肋膜炎で病状が重く、遠出ができるような体ではなかったが、山本のたっての頼みにほだされた。死んでもいいという気持ちになり、呉に行くことにした。(略)千代子が列車から降りるのを、山本はかかえるようにして助け、それから彼女を背中におんぶして歩き出した。(略)人力車に乗った初老の男と中年の女は、ほどなく割烹旅館崋山に入った。山本と千代子のこの逸話は、元海軍中佐のT氏に聞いたものである。T氏は戦後、河合千代子に二度会った。そしてこの逸話の真偽をその都度確かめた。「ああいう話があるけど、あれはちがうでしょう」という質問に対して、彼女は「いいえ、そのとおりですよ」と、二度ともおなじようにこたえたという。』

河合千代子と五十六の関係は、伏線としてすでに戦時中から海軍省スタッフと憲兵隊が協力して噂を流していた。その結果、渡部悌次は憲兵隊の須藤君に掴まされたガセネタを信じ、バーガミニも田布施村王朝の刺客・秦郁彦に唆されて『天皇の陰謀』に引用した。

渡部悌次『ユダヤは日本に何をしたか』成甲書房より抜粋。

『山本五十六が、米内光政や高橋三吉らと、日・独・伊の軍事同盟反対の密議を凝らしていた場所は、東京・麻布の狸穴にあった。この妾宅の若い女性は当時十八歳で、新橋あたりで芸妓をしていた。この妾宅に情報を掴みに出入りしていた人物がいた。憲兵隊の須藤輝君である。須藤君はこの娘芸妓を高く評価していた。山本が戦死した報を得て、須藤君が文書の遺稿でもと狸穴を訪ねたときには既にこの女性が一切を処理し終えた後であり、失望して帰庁する途次立ち寄ってくれた記憶は消えない。十八歳なのにしっかりした女だとつくづく述懐するのであった。』

 この文章自体がおかしい。須藤輝君が情報を掴みに出入りしていた狸穴の妾宅にいた若い女性は、当時十八歳の芸妓であったという。それが、五十六が戦死した時にも須藤君は『十八歳なのにしっかりした女だとつくづく述懐するのであった』という。三国同盟反対から五十六戦死まで、この間、十八歳の新橋の芸妓は年を取らずに十八歳のままだという。

梅龍こと河合千代子は、ロンドン軍縮会議の前後に五十六と昵懇になったと証言している。五十六の戦死当時、すでに40を過ぎた年増である。須藤輝君が『十八歳なのにしっかりした女だとつくづく述懐するのであった』というのは、いったいどの芸妓を指しているのか。河合千代子は半玉のころから仕込まれた芸妓ではなく、素人上りの見ず転芸者である。五十六は旦那持ちの河合千代子の他に、十八歳のしっかりした芸妓を妾宅に囲っていたというのか。そしてその若い芸妓は永遠に十八歳のままでいる妖怪なのか。

生出寿続き

『六十歳にちかいおやじが、それも三週間後に国家の存亡を賭ける大作戦をひかえる連合艦隊司令長官が、こんなことをするとは思えない、というがふつうである。しかし、山本はそれをやった。(略)いってみれば千代子は、山本が悩みでもなんでもさらけ出せる、心安らぎの弁天みたいな女であったうだ。いまの山本の目の前には、ミッドウエ―はじめ困難が山積みで、心身は凝り固まっている。それを解きほぐしてくれるのは、千代子以外にないと山本は思ったのではなかろうか。苦しいときの神だのみというが、山本の場合は、苦しいときの千代だのみであった。』

河合千代子ネタで山本五十六をこき下ろす才能は、阿川より生出の方がセンスが良いと思う(里美クが先行して書いた愛欲小説は問題外である)。東郷平八郎の観音信仰を引き合いに出し、『苦しいときの千代子頼み』という見事なキャッチコピーを作っている。

生出続き

『山本は才に溢れた自信家で、己を恃み、人や神を頼らずという人物のようである。東郷は、才のない己を知る努力家で、人と神の助けを求める人物のようである。この人柄は、連合艦隊司令長官としての指揮統率ぶりにも、それぞれそのまま現れているように思える。』


『山本は、五月二十七日付けの河合千代子への手紙で、‐(前略)最後の御奉公に精根を傾けます。その上は‐万事を放擲して世の中から逃れてたった二人きりになりたいと思います‐と書いた。これは、ミッドウエ―作戦に成功して錦を飾り、連合艦隊司令長官も海軍大将も御役御免になって、好きなお前とただ二人で暮らしたいということのように思われる。』


前々々々回検証した通り、恋文は偽造品である。里見クが創造した愛欲小説の主人公は、里見自身を反映したものである。小谷野敦はその著書『「馬鹿正直」の人生 里美ク伝』中央公論社刊の中で、里美クが五十六のプロパガンダ小説を書いた当時、『クは同じ鎌倉に妻と妾を置くことになった。七月の「新潮」に「いろおとこ」を発表。これは中年男と芸妓の愛人のやりとりを描いて、最後に、その男の戦死を告げて、それが山本五十六であることをほぼ明らかにするもので、山本をモデルにしていることで有名だが、軍人批判ともそれるし、やや作為が不明である。』としている。


小谷野敦は里美クに『トンよ、トン。』と呼びかけることが、自分への励ましになるほどのファンだという。それほど入れ込んでいるのなら、もっと精緻に検証するべきである。里美クはヨハンセングループの原田熊雄の義理の兄弟である。なぜ『正直病にかかっている』里美クが、住友財閥の金庫にしまわれた原田日記をせっせと編纂するのか。

文壇というところは権力にこびへつらう連中の巣窟である。私は白洲次郎のプロパガンダに協力し、吉田茂の長男健一にすり寄る文士連中の『生態』を『如実』に見て、そう思うようになった。小林秀雄も例外ではなかった。何という情けない連中なのだろう。以前、白洲信哉が量産しているブランド志向の写真集を指して、祖父の小林秀雄に似ない不肖のボンボンと書いたが、それは撤回する。白洲次郎と小林秀雄の両祖父の血統を立派に受け継いでいる子孫である。


戦果を当てっこしてビールを賭けた三和日記のガセねたは、高木惣吉によってさらに補強されている。


生出の続き

『このあとの、問題のエピソードについては、元海軍少将の高木惣吉が、「山本五十六と米内光政」(文藝春秋)に次のとおり書いている‐旗艦の作戦室では、幕僚たちの戦果予想で賑やかな笑声が湧いていた。山本長官は突然、「三和参謀(註・三和義勇中佐、航空参謀、のちにテニアンで戦死、少将)どうだい、俺はリナウンはやるが、キング・ジョージ五世はまあ大破かな、と思うが」(註・初めはレパルスはリナウン、プリンス・オブ・ウエールズはキング・ジョージ五世と推定せられた)航空参謀は躍起に反駁した。「いやー長官、そんなことはありません!両方ともキットやります」「よしそんなら賭けようか」「願ったり叶ったりです。そのかわり長官敗けでしたらビール十ダース、私が敗けでしたら一ダース、いいですか?」よく部下の信念を揺すぶるために、反対の予想にかけて朗らかな人物実験をして喜ぶのはその悪戯の一つであった。(略)二時間以上もたったと思わるるころ、電信室にいる暗号長が作戦室にひびきわたる奇声を伝声管から送ってきた。「またも戦艦一隻沈没!」航空参謀が鬼の首を取ったように、「長官、さあ十ダース頂ますヨ」とはずめば、いつになく顔をほころばせら山本提督、「ああ十ダースでも五十ダースでも出すよ、副官、よろしくやっといてくれ」と嬉しそうに言いつけるのであった‐(略)命がけで戦ったこれら敵味方の将兵たちは、山本がこの戦闘の結果に面白がってビールを賭けていたと知ったら、どういう顔をしたであろうか?』


心無い行為に傷つき、あるいは怒り心頭に発したであろう。だから山本五十六は絶対にそのような不謹慎な賭け事はしない。


生出続き

『しかし、どちらにしても、部下が生死を賭けて戦っている最中に、それにビールを賭けたり、将棋を指すなどは、連合艦隊司令長官の態度ではないであろう。そのような行為が、大物がやることだとして、部下の指揮官や参謀たちに伝染すれば、どういうことになるであろうか。』


これが海軍の驕り症候群というプロパガンダに繋がるのである。
近江兵治郎は最晩年になってこのプロパガンダに協力した。
正義感から歴史の修正を試みる立場にある作家の工藤美代子もそれを鵜呑みにした。
そしてさらに敷衍させていったのである。

工藤美代子『海燃ゆ 山本五十六の生涯』より

『前に述べたように、五十六は南雲を全く信用していなかった節がある。親友堀悌吉が予備役に編入されたときに、南雲が暗躍した。それを五十六が根に持っていたからだというのが今では通説になっている。「堀中将を首にした遺恨とはいへ、山本さんはどうしてあんなに南雲長官をいじめなくてはならなかったのかと思う」という石川信吾少将の言葉を、阿川弘之は自著に引用している。しかし南雲の立場も気の毒といえば気の毒だった。』


まったく南雲は気の毒だ。私は南雲をプロパガンダの礫を受けているベスト3に入れたい。近衛文麿、山本五十六、南雲忠一。番外として松岡洋右がいる。松岡洋右は田布施川の畔に生まれたが、吉田茂を批判したため村八分にされ悪役を押し付けられている。


石川信吾は南雲に同情するフリをして五十六を貶め、南雲にも堀を首にしたという罪を擦り付けているあたり、プロパガンダも相当年季が入っている。

工藤美代子続き

『彼(南雲)は明治二十年三月、山形県の米沢で旧長岡藩士の次男として生まれた。本来なら、三歳長で同じく旧長岡藩士の息子だった五十六と、かなり似たような土壌で育ったのであるから、五十六に信頼されてもよかったはずである。米沢はまた五十六の妻礼子の母、亀久(きく)の出身地である。まだ会津若松に女学校がなかった頃、礼子の姉は米沢の女学校を卒業した。米沢は会津や長岡と縁の深い間柄だった。』

南雲と五十六の意志の疎通を欠いた険悪な関係というのは、勅令を受けて動いていた者たちによる全員の脚色である。真珠湾攻撃を押し付けられた五十六ほど、南雲が置かれている宿命を理解している者はなかった。五十六が唯一胸襟を開いたのは南雲である。旧長岡藩士の息子たちは、真珠湾攻撃の手抜きとミッドウエ―惨敗という既定のシナリオに立ち向かっていったが、ついにヤラセのシナリオの主人公と副主人公としてセットで葬り去られたのである。

工藤美代子続き

『南雲が海軍兵学校を七番の成績で卒業したのは、明治四十一年だった。その後南雲は海軍水雷学校へ進学し、いわゆる「水雷屋」として出世の階段を上り始める。水雷戦隊司令官、水雷学校校長などの要職を歴任し、水雷の権威として目されるよういなる。ところが、真珠湾攻撃の計画が具体化した際に、阿雲は空母部隊をひとまとめにする第一航空艦隊の司令長官に任命された。現在でも、この人事は無謀であったとよくいわれる南雲にとって航空は全く畑違いのポストであり、しかも就任するやいなや、南方攻略作戦の支援を空母でやるくらいかと思っていたら、真珠湾の奇襲攻撃の指揮を執らなければならない羽目になった。自分の能力の限界を知っていて、誰よりもこの仕事を固辞したかったのは南雲本人だったが、結局、押し切られてしまう。はた目にも南雲の憔悴ぶりは、はっきりと見てとれたという。』

南雲と同じ立場に置かれたらふつうは固辞する。尋常ならざる人事を軍令部が敢行したのは、それが勅令だったからである。もちろん第二次攻撃をしないことが大前提である。水雷屋を第一航空艦隊司令長官に任命した理由はもう一つある。専門違いの人間を司令長官にして、言葉巧みに脅して命令系統を攪乱させるためである。南雲の弱点を無残なまでに利用した詐欺犯罪が、ミッドウエ―海戦の『運命の五分間』である。幇助したのは源田実と草鹿隆之介である。源田が主犯で、草鹿は従犯である。

工藤美代子続き

『ここで南雲は致命的な判断ミスを犯してしまう。これは、ミッドウエ―の戦記には必ず書かれているエピソードなので詳細は割愛するが、アメリカの空母が現れたという報に接した山口多門少将が、旗艦赤城の南雲司令部に宛てて「現装備ノママ攻撃隊直チニ発進セシムルヲ至当ト認ム」と飛龍から具申したが、南雲はこれを却下した。確かに、山口の案は、攻撃隊を護衛戦闘機のない状態で出撃させるという非常手段だったが、これを受け入れなかったため、アメリカ側から先制攻撃を浴びる結果となった。したがって、ミッドウエー海戦となると、どうしても南雲中将と山口少将との能力の差が問題となってしまうのである。』

厖大な資料を渉猟して綿密な検証を旨とする工藤美代子が、なぜミッドウエー海戦のそれについては一通りのプロパガンダで済ましているのだろうか。ミッドウエ―海戦ほどプロパガンダによって脚色されている詐欺犯罪は少ない。南雲が山口の具申を受け入れなかったことは、敵の先制攻撃を浴びた原因でもないし敗因でもない。南雲が山口の具申を受け入れなかった(参謀長の草鹿と源田がさせなかった)ことは、ミッドウエー海戦という名前の詐欺犯罪を成立させる構成要素のワンピースに過ぎない。

工藤美代子続き

『もしも、真珠湾攻撃やミッドウエ―海戦で山口少将が指揮を執っていたら、日本は負けなかったのではないかという人さえいる。少なくとも、ミッドウエ―であそこまで無様な敗北を喫していなかっただろうというのである。山口と南雲はあまりに対照的な武人だった。また五十六との精神的な距離も、山口と南雲は正反対だった。五十六は南雲を疎んじたが、山口には絶大なる信頼を寄せていた。』

誰が第一航空艦隊司令長官になっても真珠湾攻撃の第二次攻撃はさせなかったし、ミッドウエー海戦では惨敗させられるシナリオなのである。しかしそのための人選というのはあった。山口のような男なら、草鹿と源田の脅しが効かないからである。

実はミッドウエー海戦の資料にじっくり目を通したのは、ひとえにこのシリーズを書くためであり、つい二か月前からである。日米共同であの手この手を使って普通にはあり得ない異常な情況を演出して南雲をパニックに陥らせ、参謀長の草鹿と源田がよってたかって畑違いの南雲を脅しスカシて命令系統を狂わせていったプロセスを見ると、南雲には不可抗力の犯罪が行われていたとしか言いようがない。確かに山口のような勇猛な性格で生粋の航空艦隊司令官だったら、草鹿や源田の脅しすかしは効かなかっただろう。だからといってそれが何なのだ。それが山口が第一航空艦隊司令長官には絶対に任命されなかった理由であり、それ以上でも以下でもない。

山本五十六の側近は吉田茂の息がかかった偽証者たちで固められているので、その目撃撃証言や日記はガセである。五十六と南雲の関係が険悪であったというのは、五十六が黒島亀人を偏愛していたというのと同じくらい事実無根のガセネタである。宇垣纏、三和義勇、源田実、草鹿龍之介、渡辺安次、近江兵治郎ら連合艦隊スタッフと、軍令部スタッフらが結託して、南雲忠一には指揮能力が無かったというイメージを刷り込み、山本五十六と南雲忠一が意志の疎通を欠いていたように見せかけるプロパガンダを流布するために偽証していたのである。南雲忠一は自決したと言われているが、数人の軍人に山の中に連れ込まれて殺害されている。南雲はすでに覚悟の上である。

前述したが、プランゲは200人以上の証言者たちを自宅に招き、中でも源田実と淵田美津雄には夕食をはさんで一回4〜5時間の『聞き取り』を70〜80回以上も重ねている。吉田茂と直かに繋がる黒島亀人は、プランゲのインタビュー以外は応じていない。黒島、草鹿、源田、淵田らは戦後も敵国側のプロパガンダ作成に協力し、プランゲと共謀して史実を偽証することで、彼らはヤラセで殺されていった同胞を二度辱めたのである。千早正隆も積極的にこの冒涜に加担し、プランゲの右腕として翻訳に協力し、自らも海軍驕り症候群を煽るプロパガンダ本を書いた。勅令を受けて風聞を流していた一部軍人たち、青山和典ら海兵出身のプロパガンダ作家、恐らくユダヤ財閥の息がかかっているであろう生出寿も、同様である。  

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コメント
 
01. BRIAN ENO 2012年3月08日 17:35:23 : tZW9Ar4r/Y2EU : 2aMGYmhAyE
♪ペリマリ♪ 様
お久しぶりです。
今回も力作ですね。
早速、コピーペーストして、
プリントアウトしてから、
ゆっくり読ませていただきます。
今後の奮闘期待しています。

02. 2012年3月09日 02:03:01 : md3lgmxky2
ぺりまりさん本を出すんだろう。買うよ。早くだしてね。

方向として某勢力が五十六に罪を擦り付ける方向に動いてはいますね。五十六が主犯の一人だという確実な証拠はないわけですよ。勿論公文書なんてのもねインチキ多い。

危惧するのは日本民族の歴史と英雄を毀損させて日本滅亡に持っていく作戦なのは明らかでしょうね。

トップというのは常に脅迫されるのが普通で田布施王朝だというのをばらされたくないために昭和天皇が脅迫に屈したというのは弱いとおもうのですが。絶対トップが否定したら放射能で4000万ころそうが事実関係は無いですからね。ワザと大負けするのを受けるでしょうか。負けたら全約束を反故にされて晒し首が普通でしょう。そこらへんはどうかなあとおもうのですが。田布施王朝でもずっと維持できたのですからね。まあ当事者が嘘をつくというより忘れたり思い違いしたり死んだりするから歴史は面白いですよね。


03. ♪ペリマリ♪ 2012年3月09日 10:51:29 : 8qHXTBsVRznh2 : 8IVZKoUlZc
BRIAN ENO 様 02様

ありがとうございます。
とてもうれしいです。
励みになります。


いつも読んでくださる皆様にも感謝しています。
ありがとうございます。


あまりレスポンスできなくて、
本当に申し訳ありません。


04. BRIAN ENO 2012年3月09日 11:21:38 : tZW9Ar4r/Y2EU : 2aMGYmhAyE
♪ペリマリ♪様
>あまりレスポンスできなくて、

それは、問題ありませんので、
ご心配なさらずに・・

それより、創作活動に注力ください。
でも、無理なさらぬように・・


05. ♪ペリマリ♪ 2012年3月10日 07:42:06 : 8qHXTBsVRznh2 : GHmz5qjooE
書き込みをしていると、パソコンが変調をきたしてきます。
近衛文麿を書いたあたりから、ほとんど暴走といっていいです。

投稿できなくなって、一度友達のを借りましたが、
大枚はたいて買った新品だったのに、
とたんにおかしくなってきたそうです。

昨日もコメントを2つ目書いているとちゅうから、
何回も場面が消えて立ち往生しました。

これは私の書いていることが真実だという、
温かいメッセージでしょうか。


06. BRIAN ENO 2012年3月10日 20:49:51 : tZW9Ar4r/Y2EU : 2aMGYmhAyE
♪ペリマリ♪様
>これは私の書いていることが真実だという、
温かいメッセージでしょうか。

それはないとおもいます。

ウイルス除去の対策はやっていますか?


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