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今回は山本五十六の愛人とされる河合千代子、
及び五十六の評伝を書いた阿川弘之について検証する。
先ず私の結論を述べる。
◎河合千代子はプロパガンダの道具として使われている。
◎背後にいて操っていたのはヨハンセングループの原田熊雄である。
◎米内光政は協力者である。
◎愛人プロパガンダの発注元は昭和天皇と吉田茂である。
愛人ネタの検証については、次の三つに掲載されているものを扱う。
○週刊朝日昭和29年4月18日号の巻頭記事
○PDF 望月良夫『山本五十六の恋文』医科芸術34巻11号平成2年初出
○望月良夫『山本五十六の恋文』考古堂書店平成4年初版
望月良夫氏のプロフィールを、著書『山本五十六の恋文』より抜粋する。
『著者紹介 望月良夫(もちづき・よしお)
1929年(昭和4年)東京都生まれ。
1948年(昭和30年)東京府立第九中学校、旧制新潟高等学校を経て、1955年(昭和30年)千葉大学医学部卒業。インターン修了後、母校産婦人科教室に入局、研究生、副手、文部教官となる。1964年(昭和39年)医学博士 学位論文「子宮経腟部部上皮に於けるグリコーゲンの組織化学的研究」
1965年(昭和40年)沼津市立病院産婦人科部長として赴任、そのかたわら母校の非常勤講師をつとめる。1972年(昭和47年)沼津市内に望月産婦人科を開業、自らの理想とする産婦人科開業医生活をおくりつづけて二十年、診療の余暇は趣味に没頭。
旅行、食べあるき、美酒探究、ゴルフ(H26)、囲碁(二段)、読書、映画、写真、観劇、ショッピング他。主宰する趣味の会、「随筆春秋」「駿河豆本の会」「沼津の文化を語る会」「沼津落語会」「沼津旨いもの会」など三十余。
日本産婦人科学会、日本ペンクラブ、日本エッセイスト・クラブ、日本旅行作家協会、沼津北ロータリークラブ各会員。
著書・「あなたのからだ」(サイマル出版会)、「最新の産婦人科」「友ふたり」(随筆春秋)、「おいしく食べるテーブルマナー」(淡交社)ほか。』
裏表紙より
『望月先生のこと
望月先生は旧沼津御用邸もある風光明媚な沼津市で、産婦人科病院の院長として、もう20年も地域医療を支えておられる。最新の医療技術を駆使し、温厚誠実に患者さんのために奉仕し、開業以来死亡ケースゼロという稀有な実績を挙げておられる。
ということであれば、医師望月先生の毎日は本業のために忙しいかというと、とんでもない!もともと仕事が早い「超能力」に加えて、早くからOA機器を診療室に取り入れて医療業務を能率化し、こうして生み出された時間を百パーセント、文化的、趣味的活動に投入している。エッセイの執筆、味の探訪、さまざまな集いの世話・・・。それらが並のものでなく、みな一流であるところが凄い。日本ペンクラブ会員、日本エッセイスト・クラブ会員、日本旅行作家協会会員、日本味の会会長、「沼声」、「沼津の文化を語る会」、「随筆春秋」各主幹・・・など、活動の質と量に圧倒される。
利を追わず、自ら理想とする開業医を目ざして、毎日を常人の二倍、三倍に生きておられる望月先生が世に送りつづけるエッセイの数々は、全文化人の琴線に大きく共鳴するにちがいない。』
◎週刊朝日の暴露記事はヤラセである。
週刊朝日の記事と望月氏の著書では、『五十六の恋文』の内容が異なる。
殊にミッドウエ―出撃直前の三通の手紙はまったく別物である。
◎阿川弘之は確信犯である。
これについては阿川本人の著作を検証する。
○阿川弘之『山本五十六』新潮社昭和40年初版
○阿川弘之『新版 山本五十六』新潮社昭和44年初版
阿川弘之は里美クからバトンを引き継いで、五十六プロパガンダを書いている確信犯である。里美クがプロパガンダ小説を書いた経緯について、阿川は次のように説明している。尚、文中に出てくる古川敏子は新橋中村家の女将、里美クのプロパガンダ小説のネタ提供者である。志賀直哉は阿川弘之の師匠である。
『新版 山本五十六』より
『中村屋の古川敏子はそれから三十年幾年経た今でも、昔の美しさを残したたいへん豊満な女性であるが、その頃は土地で、「とし子姉さん」と呼ばれていて、一説によるとこの敏子も山本に相当「お熱」だった一人であった。しかし「お熱」でも「お熱」でなくても、敏子には彼女が「主人」と呼んでいる佐野直吉という人があった。
佐野直吉は絨毯商である。現在山形県の産業の一つになっている支那絨毯は佐野が中国から技術を導入したもので、当時彼は北京に佐野洋行という店を持っていた。昭和五年の一月、志賀直哉と里美クが満州旅行のついでに北京へまわって来た時、新聞でそれを知った佐野は支那服を着て二人の作家を宿へ訪ねて行った。それ以来。彼は日本へ帰って来ると志賀や里美の家へしたしく出入りするようになった。』
古川敏子の旦那と親しくなったきっかけを演出しているのである。
『志賀直哉も里美クも、花は引く。(注 花札のこと)佐野直吉も好きである。古川敏子の表現によれば、「お花ときたら、そりゃ死ぬほど好きなの」であった。山本はよく中村家へやって来て、佐野直吉や敏子の母親を相手に、八八や賭け将棋ばかりやっていた。』
五十六の部分はガセねたである。古川敏子は新橋中村家ののれんを掲げる女将でありながら、客の行状をベラベラ喋っているのである。
『山本五十六と二人のこの白樺派の作家とは、一度も一緒に花を引いた事、会った事は無かったが、そういう縁で、戦後里美クは佐野直吉から聞いた話をもとに、山本と梅龍をモデルにして、「いろおとこ」という短編を書いたのである。「いろおとこ」の中には、山本の名も千代子とか梅龍とかいう名も出て来ない。読めばしかし、戦死の模様や国葬の事が書いてあるから、山本がモデルだという事はすぐ分かるそしてこれは、山本が小説のモデルになったおそらく唯一の例である。
山本の死後、彼の伝記や電気的文学作品は、数多く世に出たが、純然たる小説のモデルとして彼を扱った人は他にいない。「いろおとこ」が書かれたのは、昭和二十二年の七月である。もしこの作品を以て、山本にそういう女性がいた事を公にしたものと見るなら、里美クは「週刊朝日」に七年先んじたわけであった。』
『純然たる小説』は『純然たる小説』であって、『もしこの作品を以て、山本にそういう女性がいた事を公にしたものと見る』という仮定は成立しない。成立されたら、書かれる方はたまったものではない。しかし阿川は詭弁を使ってでも、『純然たる小説』が『事を公にしたものと見る』という公式を打ち立てたいのである。この公式を当てはめれば、『週刊朝日』のような純然たる捏造記事も、事を公にしたものと見ることができる。
では週刊朝日の記事を検証していこう。
週刊朝日は昭和29年4月18日号、すなわち山本五十六の13回忌の祥月命日の号に、純然たる捏造記事を巻頭特集としてブチ上げた。表紙をめくるといきなり、河合千代子と山本五十六が並んでいる写真が載っていて、大文字で『山本元帥の愛人』『軍神も人間だった!』という題名が掲げられている。写真は、料亭の縁側らしき庭先に、河合千代子と五十六が並んで座っている姿を写したものである。千代子は額が広い逆三角形の顔で、頬がこけてやつれた感じの十人並の年増芸者といった風情である。額がかなり広く、本来は聡明なのかもしれない。五十六はダブルの背広を着て、帽子を右手に持っている。つまり正装である。千代子は微笑んでいるが、五十六は真顔である。五十六の表情には、馴れ馴れしさは微塵もない。芸者が有名人と一緒に記念写真に収まった、そういう一枚である。色町に詳しい人に聞いたが、そういう慣例があるそうである。
掲載されたもう一枚の写真は集合写真である。河合千代子と五十六の普段の格好のツーショットはない。河合千代子の自己申告が本当だったら、海軍の焼却命令から死守した五十六の恋文だけでなく、千代子だけに見せたであろう五十六を映した、スナップ写真やツーショットがあるはずである。しかし週刊朝日に掲載された写真は、記念写真と芸者と客たちの集合写真だけである。後者は若くて美人の芸妓がウヨウヨいる中で、千代子は影が薄く、他の年増たちと一緒に後列に紛れている。
最後の一枚は週刊朝日の記者が千代子に取材した時に撮られた写真である。沼津の料亭の女将をしている千代子が、日記を読む姿を写したものである。落ちついた佇まいで、別人かと思うくらい清楚な表情をしている。
河合千代子と山本五十六が一緒に映った写真は、実は週刊朝日の他にもある。それは原田熊雄の女婿・勝田龍夫著『重臣たちの昭和史』に掲載されている写真で、河合千代子は原田熊雄と米内光政に挟まれ、山本五十六は反対の端っこに端座している。この写真の構図は河合千代子と原田熊雄の男女関係及び共謀関係、河合千代子と米内光政との男女関係、河合千代子と山本五十六の疎遠な関係を正確に表している。だから週刊朝日はこの写真を掲載しない。
勝田龍夫の本書には、里美クが跋文を寄せている。里美クも原田熊雄と姻戚関係にある。阿川弘之は師匠の志賀直哉を通じて、里美クと懇意である。里美クの葬式では、阿川は今日出海とともに遺族席に座っている。今日出海(こんひでみ)もプロパガンダの名手である。白洲次郎の神戸一中時代の学友である今は、幇間のごときお追従を白洲次郎のために書く。白洲次郎と閨閥である堤清二も、心にもない賛辞を書く。白洲次郎の家に疎開して真実を知っている河上徹太郎も、しらばっくれて旨い汁を吸っている。子ども同士を結婚させた小林秀雄も、真実を知りながらとぼけている。みんなトモダチである。利害関係でツルみ、損得勘定で仲間褒めする。そうやって田布施王朝から文化勲章を貰うのである。文壇とはそういうムジナたちが生息するするところであった。では週刊朝日記事の内容を見てみよう。
週刊朝日より
『「提督の恋」といえば誰しもネルソンとハミルトン夫人のことを思うだろう。ところが山本元帥にもそれに似た一つの秘めたる恋物語があったとはだれが想像したろう。これは決して暴露記事ではない。軍神ともいわれた人も、やはり人間だったという、ひとつの人間記録としてここに掲げるわけである。おりしもこの十八日は故元帥の十二周忌という、心から冥福を祈ろう‐』
12周忌ではなく13周忌である。
『遺影に額づく姿 沼津八幡町の繁華街から少し外れたところに料亭「せせらぎ」がある。その離れ座敷から、朝晩、「曹洞宗日課諷経集」を読み上げる声が聞こえてくる。そして、夜はまた「般若心経」を読む声が流れる。その主は美貌の女将で、故山本元帥の遺影と「大義院殿誠忠長陵大居士」の位牌を祭った仏壇に額づいているのだ。来る四月十八日、早くも十二周忌を迎える故山本元帥の冥福を、日夜祈る女性。‐それは、かつて元帥と愛情を誓い合った河合千代子さん(51)の姿なのである。諷経集は、太平洋戦争勃発前、曹洞宗を宗旨とする元帥が、彼女に残していった遺品である。』
子息義正氏によると、山本家の宗旨は曹洞宗だが五十六に読経する習慣はない。頭を垂れて黙祷するのみである。仏教全般、キリスト教、宗派にこだわらず学んでいたようである。
山本義正著『父 山本五十六』恒文社には次のように書かれている。
『父が、黒い手帳を肌身はなさず持つようになったのは、霞ヶ浦航空隊副長のころかららしい。草創期の航空隊の訓練は、熾烈をきわめたという。その訓練の最中に、不幸にも墜落して命を落とすパイロットたちが、たくさんいた。戦史者の栄誉にくらべて、殉職者には、国の態度が冷たかった。しかし、父にとっては、みなひとしく可愛い部下であり、尊い犠牲者であった。父は、訓練中の事故で死んだ部下たちの名を手帳に書きとめ、毎朝、その冥福を祈るようになった。ただ、その場合でも、父が仏壇に向かって合掌するとか、神棚に祈るとか、そういうことをしていたのを見たことはない。
父は、特定の宗教や宗派に帰依していなかった私の家族の宗派は曹洞宗であるが、そういう宗派上の意識は持ってなかったようだ。しかし、広い意味で、父は仏教的思想の持ち主だったといえると思う。祖父貞吉はきわめて熱心な仏教徒で、毎朝一時間以上も仏間にこもって頭をたれていたという。同時に、牧師になった父の兄丈三(じょうぞう)伯父の影響から、キリスト教にも深い理解をもっていた。もちろん、後年外国生活のあいまには、キリスト教のしきたりや慣習に親しむ機会も多かったはずである。また、少年時代にも米国の宣教師のところへいき、バイブルの勉強をしたらしい。』
週刊朝日の続き。
『元帥と結ばれるまで いまから二十年ほど前、昭和七年十二月二日のことである。東京新橋の検番の玄関先にしょんぼりと立った女がある。目が大きく瘦せ型の美人だが、年はもう三十に手がとどこう。「二十九の年で天下の新橋から出たいなんてどうかしてやしないか」「まるで芸事もできんくせに」何といわれても、ただ「お願いします」一点張りで頭を下げたきりのこの女、河合千代子はやがて新橋の「野島家」から「梅龍」と名のって左ヅマを取る身となった。』
色町に詳しい人に聞いたところ、京都の祇園ではゼロから習い事をするのが鉄則であるが、新橋はコネさえあればド素人でもすぐに上に行けるそうである。30に手がとどこうと言う女が検番の前でしょんぼり立っていても埒は明かないが、原田熊雄がコネを使って交渉すれば即決である。
『彼女の前半生は不幸だった。明治三十七年名古屋市の生まれ、父の稼業は株屋だった。名古屋女子商業学校を卒業後、両親とともに上京、兜町に落ち着いたが、関東大震災で、」名古屋に舞い戻り、一家は零落の一途をたどった。千代子はある資産家の世話になったが、愛情はわかなかった。二十五のとし、母と父があいついで病死し、彼女は心の痛手に服毒自殺を計ったが、失敗。転々として、二十九歳のこの年に妓籍に身を置いたのである。』
借金の肩代わりに、資産家の妾にされたらしい。
阿川弘之の旧版『山本五十六』には、河合千代子の素性は次のように書かれている。
『彼女は、明治三十七年、名古屋の生まれで、父親は株屋、千代子が名古屋の女子商業を出る頃には、家は零落していた。二十四の年、父と母がつづいて亡くなった。はじめ、名古屋の会社で、タイピストとして働いていた。それから、新橋芸妓として出るまでの間の千代子の生活は、あまりはっきりしないが、美貌のために、男関係は色々あったらしい。東北の馬持ちと一緒になって、ゴタゴタをおこし、睡眠薬を飲んで自殺未遂をやったりしている。多分、此の事件で髪を切られ、男の許を追い出された直後だと思われるが、彼女はカバン一つ提げて、芸妓になりたいと、東京の新橋へやって来た。千代子が二十八の年で、昭和七年の十二月である。』
人身御供として売られたことが消えている。私は千代子の感性が狂っているのは、多感な娘時代にいきなり資産家の妾にされたことに由来しているのではないかと考えている。思う。新橋へ流れ着くまでの10年間にも、色々なことがあっただろう。
阿川弘之の続き
『山本と深くなってからの梅龍は、彼にだけは実によく尽くしたようである。彼女には、男同士双方承知の旦那があった。梅龍は、土地で、「ダイヤモンドのお茶漬け」と言われ、取るとこから、取るものだけは、実に遠慮会釈なく取ったらしいが、一方気前もよくて、出すほうもどしどし出した。千代子は、あでやかで、頭もよく、次も上手であった。しかし、前に書いた通り、なにぶん新橋の名妓というわけではない。名古屋にいた頃から先の素性も、あまりはっきりはしない。せっかくあてがった旦那から、金が素通りして山本のところへ行くのだから、土地の女将連中は、決してよくは言わない。真偽とりまぜて、色々悪い評判もある。そういう女性に、山本五十六が、五十を過ぎて、どうしてそれ程まで夢中になってしかったのかと言えば、結局は、彼が家庭で求めて得られなかったものを、梅龍の千代子のうちにさぐりあてたからと解釈するより他はあるまい。』
阿川弘之は師匠の志賀直哉を介して里美ク経由で仕事を受注、五十六プロパガンダを河合千代子の偽証を補完する目的で新旧『山本五十六』を書く。旧版『山本五十六』では週刊朝日に掲載された記事に触れて、
『河合千代子個人に対しても、同情や共感と共に、非難は殺到した。多分、反響があまり大きすぎたのにこりたのであろうが、彼女はそれ以後、二度と報道関係者の取材には応じなくなってしまった。私も、此の女性には会うことが叶わないままである。今後、此の物語の中に出て来る、山本の川千代子あての手紙は、会えないままこれを書いている。だから五十六の恋文はすべて週刊朝日誌上に掲載されたものからの引用である』
と断っている。そして中村家の女将の古川敏子に取材して、千代子のプライベートなことに関する非常に立ち入ったことまで書いているのだが、なぜ『恋文』に関してだけ『会えないまま』と、わざわざ断るのであろうか。それは阿川が河合千代子に会ったと言えば、19通の恋文を手元に残してあると言った手前、週刊朝日に載せなかった16通の恋文の存在について、何か言及しなければならなくなるからである。阿川は『五十六の恋文』など一通も存在しないことは、百も承知である。あと16通もデッチあげるのはかなわない。そういう厄介をはぶくために、『会うことが叶わない』言って予防線を張っているのだと思う。そういう小細工を悟られまいとして、『聞くところによると週刊朝日が掲載をためらったほど濃厚な内容の恋文もあったらしい』などと、思わせぶりなことを書いている。
阿川は新版を出すに当たっては、千代子本人に聞き取りをしている。しかしそれを明文化しない。巻末の聞き取りのリストに、『後藤千代子』とのみある。千代子は週刊朝日に暴露記事を載せた翌年の昭和30年、後藤銀作と結婚して後藤姓になっている。後藤千代子だけ書かれても、事情を知らない読者にはそれが河合千代子だとは分からない。そういう仕掛けをした上で、従前通り週刊朝日に掲載された『恋文』を取り上げ、あれこれ枝葉をつけている。まったくの創作であり、『純然たる小説』である。
当の千代子も言うことがコロコロ変わり、五十六の手紙を19通残したと言っていたのが、前出の望月良夫氏に『恋文』を贈呈した時には5通残したと証言している。しかも望月氏がもらった『昭和16年12月5日付』の手紙と、週刊朝日に掲載された『12月5日付 五十六の恋文』の文面は全然違う。つまり河合千代子は『12月5日付の五十六の恋文』を、少なくとも2通持っていることになる。
ミッドウエ―出撃前夜の『五十六の恋文』の場合は、もっと顕著である。週刊朝日に掲載したものには機密情報が書かれているが、望月良夫氏に見せたものには機密情報は書かれていない。内容もまったく穏当なものである。河合千代子は『五十六の恋文』と称して、何通ものバリエーションを作成していたようである。
『五十六の恋文』ばかりではない。千代子は『五十六の遺品』と称するものを柳行李いっぱい所持していた。千代子が気前よく人にあげたり、夫の後藤銀作が持ち出して受注先に賄賂として贈呈したので、望月氏が取材したころには残っているのはもうわずかいう状態であった。『五十六の恋文』『五十六の遺品』というのは、いわば商標なのである。
しかし阿川弘之のもっとも不審な点は『山本五十六』を描くのにあたって、一番肝心な遺族の聞き取りをしないことである。これが、阿川の『山本五十六』が当初から河合千代子のプロパガンダを補完する目的で書かれたものであることの、もう一つの証左である。
阿川は五十六が千代子に溺れた原因を、妻に対する不満に求めている。そのために阿川は遺族から名誉棄損で訴えられるほど、妻の礼子の誹謗中傷を書きまくっている。もし礼子本人に会って聞き取りをしたら、このような冒涜はできなくなる。河合千代子のプロパガンダを補完することもできなくなる。大切な請負仕事をダメにしたというので、志賀直哉と里美クの顔を潰し、文壇で干され、田布施村王朝の文化勲章も貰えなくなる。
週刊朝日の続き。
『昭和八年の夏のこと。彼女は築地の「錦水」に呼ばれた。上座には、ややすりきれた茶と白の縞の背広をきたイガグリ頭の色の黒い男が座っている。酒は飲まぬが、周囲のものと朗らかに談笑していた。そのうち、自分の前にでた前の上の吸い物のフタをとろうとしたが、どうしても取れない。』
子息義正氏によると、五十六は指のハンデを克服して、目にも止まらぬ速さで身支度できるようになっていた。損傷した二本の指は第一関節まであるので、これを他の指と紛らわせて見せる技も体得していた。だからあまり親しくない関係の者は、損傷していることに気がつかないままの人もいたという。河合千代子もそのうちの一人である。次の一節を読むと、自称愛人の千代子が、五十六の損傷した指に触れたことはおろか、見たことさえないのが分かる。
週刊朝日の続き
『指のない男 黙ってお酌をしていた千代子がふとみると、その左手の人差し指と中指が根本からない。ハッとして、彼女はそばへ寄って、「とって差し上げましょう」というと、男は鋭い目で彼女を見つめたまま、「自分のことは自分でする」といって、椀のフタを取った。千代子は(イヤな方)と思った。』
10年近く愛人だったと自称しながら、五十六の左手の人差し指と中指が根本からない、というのは非常に迂闊な話である。五十六の二本の指は第一関節でボキっと折れたので、ここまではしっかり残っている。千代子はそれを知らなかったし気がつかなかった程度に、第三者の人間である。
阿川弘之も『山本五十六』に次のように書いている。
『もっとも、山本は、手の指が八本しか無かった。昔、日露戦争の時に、少尉候補生と
して乗り組んでいた軍艦「日進」に、ロシヤの砲弾が命中して、彼の左手の、中指と人差し指を、根本から持って行ってしまった。』
週刊朝日の続き。
『この男が、当時第一航空戦隊司令官、海軍少将五十一歳の山本五十六だったのである。(左手の指が二本ないのは、日本海々戦に少尉候補生として軍艦「日進」に乗組中、負傷いたものだった) 一年近くの月日が流れた‐昭和九年六月、山本は海軍軍令部出仕となり、軍備制限準備委員を命ぜられた。対象十一年六月調印されたワシントン会議の有効期限があと、二年にせまったので、その予備交渉がこの秋、ロンドンで開かれることになり、その代表に選ばれたのである。』
『千代子はある夜、お座敷でフトこの山本少将がいるのに気づいた。イガクリの頭、軍服であるが、まがいもなく一年前の男だ。「いつぞやは失礼しました」と挨拶すると「俺はあまりこういう席へはこんから知らん」という。彼女が吸物の一件の話をすると「サア、覚えてないな。君のことも知らんね」とブッキラ棒な返事である。彼女は(憎たらしい人だワ)と思った。』
身辺警護と称して五十六を見張っていた憲兵隊の中のある一人だけを除いて、御用聞きでも小学生でもどんな人間に対しても五十六は礼儀をもって接している。これがもし本当だとしたら、千代子は憲兵隊と同じような拒絶反応を、五十六から引き起こしたことになる。あるいは河合千代子が色仕掛けで誘い水をかけても五十六が乗ってこないので、振られた千代子が(憎たらしい人だワ)と思ったことはあったかも知れない。
『二、三日してまた山本と出あった。山本の隣には同期生の吉田善吾(後に海軍大臣)が座っていた。何か話のハズミに吉田から、「梅龍、お前はチーズが好きか」ときかれ、「大好き」とこたえると、山本がそばから、「じゃあ、御馳走してやろう。明日十二時に帝国ホテルにおいで」という。吉田がそばから、「この男がこんなことをいうのは珍しいな。行け行け」とけしかけた。千代子は冗談とも思ったが、失礼しては、と思い、翌日、帝国ホテルにでかけると、山本はもう食堂で待っていた。やがて、カクテルが一ぱいづつとチーズの山がはこばれる。あとは何も出てこない。山本はカクテルに口をつけず、二人は黙々とチーズを平らげて別れた。』
『二人で黙々とチーズを平らげて別れた』場面について、阿川弘之は全然違うことを書いている。
旧版『山本五十六』より
『それで梅龍は、かねて仲よしの菊太郎、菊弥という二人の妓と一緒に、翌日の昼飯を、帝国ホテルのグリルで、山本の馳走になった。食後、山本は三人を、三十間堀の中村家まで送っていった。「九時か十時になったら、身体が空くから」と言って帰って行ったが、その晩彼は、梅龍たちを上げて、プライベートに遊んだらしい。山本と千代子とが、親しくなったのは、此の時からである。』
千代子本人に取材した新版『山本五十六』では、週刊朝日とも旧版とも違うストーリーになっている。
新版『山本五十六』より
『それで梅龍は、翌日、帝国ホテルのグリルで軍服を着た山本と初めて食事を共にした。それから一二回淡い逢瀬をかさねたあと、千代子はある晩帝劇で山本の手を握りながら恋愛映画を見ていて、今夜このままあなたと別れるのはいやだと言い出した。』
大切な馴れ初めの場面の証言が、どうしてこんなに二転三転するのだろうか。
さらに千代子は後年になって、また違うことを証言している。
望月良夫『山本五十六の恋文』より
『「山本元帥に初めて出会ったときのことを話してくれませんか」「お座敷でした。何かの送別会だったと思います。威張ってむっつりしていました。しゃくにさわって、この男を誘惑してやろうときめました。同席していた軍務局長が、山本は堅物だから何とかしてやれ、と言いました」 初印象をはっきり覚えていた。「ところが三、四回会っているうちに、こっちが参ってしまったのです、元帥は私に、援助はできないから妹してつき合いたい、と言いました」』
吸い物のお椀の一件は軍務局長にけしかけられた話にすり替わり、一方、吉田善吾にけしかけられてチーズを黙々と二人で食べた馴れ初めの一件は消えている。かくも場当たり的に、千代子の証言はころころ変わるのである。だから『五十六の恋文』も、ころころ変えて作成しているのである。
チーズにまつわるエピソードは、家族との間にもある。これを事前にどこかで漏れ聞いてパクったのかもしれない。
山本義正『父 山本五十六』には次のように書かれている。
『病床の私に、父が直接見舞いに来てくれたり、やさしい言葉をかけてくれた記憶はあまりない。が、ときどき黙ってなにか買ってきて、母にわたしてくれていた。そのひとつがチーズで、私の体にいいからと、父がたくさん買ってきてくれた。当時、チーズなどを食べる習慣はふつうの人にはなかったし、私としてもはじめて食べる味だった。最初はくさくて、いくら体にいいからとすすめられても、なかなか食べる気にはなれなかった。が、それでもすこしずつかじっているうちに、だんだんとくさみも気にならなくなり、ついには、あのなんともいえぬ味と香りが気にいって、大好物になってしまった。私がチーズを好んでたべるようになったことは、父をたいそう喜ばせたようで、そのころ家に来た客と談笑しながらそのことにふれて、「こんなものをいまから好きになられたんじゃ、破産しちゃうよ。」と言って笑っていたのを記憶している。現代のように、洋風の食生活が普及していなかった当時、乳製品、とりわけチーズを食べることは、ごくかぎられた人たちだけだったらしい。』
週刊朝日の続き。
『彼は吉田や、長谷川清(当時海軍次官)らの常連から、千代子の身上を聞き、同情したのである。彼自身、いろいろの意味で、家庭的に恵まれず、淋しい男であった。そこから自然一種の「女嫌い」にもなっていた。が、「チーズの御馳走」以来、二人は急速に親密になり、九月二十日の出発の直前には、彼女を呼ぶにも「梅龍」から「梅ちゃん」、さらに「千代子」と呼ぶ仲となった。』
『彼自身、いろいろの意味で、家庭的に恵まれず、淋しい男であった』というのは、阿川のガセネタである。阿川弘之は『新版 山本五十六』の後書に、山本家から名誉棄損で訴えられたこともあり、新資料も交えて大幅に加筆修正したと書かいている。しかし修正してあるのは、河合千代子ネタの前後の辻褄の合わないところである。
阿川弘之の犯罪はこればかりではない。彼は鶴島正子に聞き取りをして、さらなる愛人ネタも捏造している。鶴島正子がトランクいっぱいのラブレターを空襲で焼いたとか、鶴島正子は五十六を愛するためだけに生まれたようだと言ったとか、これらは鶴島正子が自己申告したことではない。阿川弘之が第二の河合千代子ネタを作るべく、聞き取りと称して鶴島正子に導尋問を行ない、言葉質を取った上で脚色したのである。鶴島正子と五十六の間に恋愛は成立していない。幼馴染に毛が生えた程度の付き合いである。それが阿川弘之の筆にかかると、鶴島正子も愛人に列せられプロパガンダの恰好の材料に使われるようになる。
週刊朝日の続き。
『誰にも話さないで 翌十年二月十二日山本は帰国した。予備交渉で、各国兵力の制限、兵力の均等、攻撃的兵力(空母など)の撤廃を主張して物別れとなり、故国に帰った彼の心中は複雑だった。世論はワシントン、ロンドン両条約の廃棄にまっしぐらに進み、彼も派遣もある意味で形式にすぎず、その予備交渉での奮闘も一人相撲に終わった感があった。彼が対欧中の前年の十二月末に、条約破棄の通告があったのである。帰国後、三月ほどして、旅先から千代子あてに中将となった山本五十六は、こんな手紙を出している。』
五十六の奮闘が『一人相撲に終わった感があった』というのは、悪意のある言い方である。軍縮の条約破棄は不可抗力である。週刊朝日の記者の言葉の端々には、五十六を持ち上げるフリをして貶めよう貶めようとする意図が見える。
『「ロンドンへゆくときは、これでも国家の興廃を双肩にになう意気 と覚悟をもっておりましたし、あなたと急速なる交渉の発展に対する興奮もありまして、血の燃ゆる思いもしましたが、ロンドンにおいて全精神を系統した会議も、日を経るにしたがい、世俗の一般はともかく、海軍部内の人たちにすら、これに対しあまりに無関心を装うをみるとき、自分はただ道具に使われたに過ぎぬような気がして、誠に不愉快でもあり、また自分のつまらなさも自覚し、実は東京に勤務しておるのが淋しくて淋しくてならぬのです。それで孤独のあなたをなぐさめてあげたいと思っていた自分が、かえってあなたの懐に飛び込みたい気持ちなのですが、自分も一個の男子として、そんな弱い姿を見られるのが恥ずかしくもあり、また、あなたの信頼にそむく次第でもあると思って、ただ淋しさを感じるのです。こんな自分の気持ちは、ただあなたにだけはじめて書くので、どうぞ誰にも話をなさらないでください」 出発のときと比べて、少しも変わらぬ態度で出迎えてくれたのは、わずかな先輩、親友と、千代子だけだったことが、彼にはよくわかったのである。』
前述した阿川の創作は、この手紙に尾ひれをつけたものである。『純然たる小説』の倣いとは言え、これはほとんど阿川自身の恋文である。
阿川が付け足した尾ひれの部分。
『この三四年が夢の間に過ぎ去った事を思ひ更に今後十年二十年三十年と先の事を想像すると人生などといふものは真にはかなき幻にすぎず斯く感じれば巧妙も富貴も恋愛も憎悪もすべて之(これ)朝露の短きに似たりと思われ無常を感ぜぬわけには参りませぬ あなたは孤独だから寂しいと云われます 世の羈絆(きはん)につながれた死ぬに死なれず苦しむ人の多き世に天涯の孤児は却って神の寵児ならずやと云はれぬこともないでせう こんなことを考えると何も彼もつまらなくなって来ます 理屈は理屈としてとにかくあなたにかりにもなつかしく思われ信頼してもらえる私は現実においてまことに幸福です 只僕はこの妹にして恋人たるあなたにとつてあまりに貧弱なる事を心から寂しく思って居ります 僕は寂しいよといふ言葉は決してあなたや先生の真似ではなく実は自分を省みて自分をあなたの対象物として客観的に見て心から発する自分を嘲る言葉です あなたのあでやかに匂ふ姿を見るほど内心寂しさに耐えぬのです どうか悪く思はんで下さい 倫敦へゆくときは これでも国家の興廃を双肩にになふ意気と覚悟を持ってをりましたし・・・』
筆の滑った、言葉の氾濫ともいうべき、饒舌な恋文である。阿川は尾ひれを付け足しただけでなく、原文の改変もしている。オリジナル『実は東京に勤務しておるのが淋しくて淋しくてならぬのです。』→阿川『実は東京に勤務してをるのが寂しくて寂しくて且つ不愉快でたまらないのです』。せめてキーワードの『寂しい』という漢字を、オリジナルの『淋しい』に統一するくらいの配慮が出来ないのだろうか。
『此の物語の中に出て来る、山本五十六の河合千代子あての手紙は、全部当時の「週刊朝日」からの引用である』と書いているのである。千代子本人に聞き取り取材したら、こういう文面の『恋文』があったということなのか。創作にしても、こういう辻褄は合わせるべきである。こんなにいい加減なのに、大宅壮一は『大きな記録的価値』という賛辞を寄せ、『英雄の赤裸々な人間像を描いてあますところなく、「太平洋戦争裏面史」としての記録的価値も大きい』と絶賛している。気は確かだろうか。
阿川『山本五十六』は、映画化されたりテレビドラマ化された。千代子役の女優が五十六の妻に怒鳴り込んでいくシーンや、酔って着物を脱ぐシーンを観て、千代子本人は「訴えてやる」と息巻いていたと、千代子に30年以上付き添ったさとさんという女性が、望月氏に証言している。五十六が死んだあとになって、愛人を騙る方がよっぽど醜悪であるが、千代子はそういう役回りを演じている自分の姿を客観視することができない。阿川弘之の他にも、松村剛や渡辺淳一が河合千代子を取り上げているが、彼らはそういう千代子の姿を客観視した上で道具に使っている卑劣漢である。
評論家の村松剛は、五十六プロパガンダ小説の嚆矢『いろおとこ』を賞揚してやまない。里美クは白洲次郎のダチにして原熊の親類、その陳腐で薄汚れていて読み続けるにはかなりの忍耐がいる里美の文章を、『印象を点綴して人間像を浮かび上がらせる名人芸は、現在の文学の世界には求めがたいものであろう。』と手放しで絶賛している。(『プレジデント“ザ・マン”シリーズ山本五十六』に寄稿した村松剛の『五十六の恋』より)
ご丁寧にも村松剛は、里美クの全集から、次のような里美自身の手による解説文まで引用している。『女なぞいくらでも出来放題だし、頼まれれば全海軍力だろうと、日本国そのものだろうと、軽く背負って立つ、まではいいとして、目はしが利くから、十三階段でひょろつくようなへまはやらず・・・』。これは里美ク自身による、里美クのプロパガンダのための、里美クを投射した五十六像である。
村松剛はさらに次のように書いている。
『さびしがりやの彼には、平生ひとまえにはあらわさない孤独感を、抱きとってくれる存在が必要だった。それが千代子であって、彼は中将時代に彼女に宛てた手紙のなかでそのことをみずから書いている。「実は東京に勤務してをるのが淋しくて淋しくてならぬのです。・・・・こんな自分の気持ちは、ただあなたにだけはじめて書くので、どうぞ誰にも話をなさらないでおいてください」 千代子は山本にとって、単なる「マドロスの恋」の相手ではなかったのである。永遠に母なるものは洋の東西を問わず、文学の古くからの主題とされて来た。山本が彼女に求めたのは、ほぼそれに近い。もうひとりの鶴島正子は彼女がまだ子どものときからの知り合いで、若い山本におんぶしてもらったくらいだから、「母なるもの」というわけには行かなかっただろう。』
恋文の真贋は置くとして、誰にもいわないでくれと懇願しているのにマスコミに暴露して悲劇のヒロインを演じる女の、いったいどこが「永遠に母なるもの」なのか。千代子を背後から操る者たちの意図は見え見えである。私は仮に五十六に愛人がいたとしても(笹川良一が証言しているように五十六は女性には小学生のように純情で、モテたというのは精神的なものだと思うし、また堀悌吉が五十六を一言でいえば「チャイルデイッシュ」と証言しているように、情を交わす愛人がいたとは思わないが)構わないし、それは個人的な問題である。
しかし本人自筆の恋文と称して、最前線にいる連合艦隊司令長官のたるんだ『生態』が『如実』である手紙を、大手の週刊誌誌上に暴露して物議をかもすのは公的な問題である。連合艦隊司令長官はミッドウエ―海戦出撃前夜の機密情報を漏らしたり、前線へ出かける日程や参謀名を一々教えていることにされている。このような連合艦隊司令長官として忌々しき言動を暴露する千代子を指して、村松剛は「永遠に母なるもの」と形容しているのである。どっちに転んでも確かなことは、河合千代子は五十六を愛していない、相手の迷惑も顧みず自己陶酔しているだけ、ということである。私はついぞ知らなかったが、村松剛という批評家は頼まれればこういうプロパガンダを平然と書ける人間だったのだ。
週刊朝日の続き。
『九月、千代子あての手紙。「ゆうべ夢をみました。どうしてこんな夢をみたのか自分でも不思議に思います。一緒に南欧のニースの海岸をドライブした夢をみました。これが実際だったらどんなに喜ばしいだろうと思いました。」ここには英雄もなければ、軍神の匂いもない、五十歳を超えた男には珍しいみずみずしい感傷があるだけだ。』
どこが珍しいみずみずしい感傷なのだろうか。記者の願望なのだろうか。中年男のエゴを美化した渡辺淳一の『失楽園』(映画の主役は奇しくも役所広司)みたいだが、阿川弘之も同じようなことを書いている。『山本五十六は生きていた』プロパガンダも、この延長線上にあると言えるだろう。高橋五郎は現地に飛んで目撃証人を見つけ出し、五十六生存説の根拠としているが、高橋のこの見解はBC級戦犯裁判の決めつけと同じで、目撃証言があれば即有罪、その証拠能力が問われることはない。
週刊朝日の続き。
『昭和十四年八月、山本五十六は連合艦隊司令長官になり、十五年十一月、海軍大将となった。千代子は、十二年、妓籍をひいて、「梅野島」という料亭を経営、その女将となり、一方、芝の神谷町に小さな家を買い、山本を迎えた。彼に無駄な金をかけさせまいという心づかいからである。』
リアル感を醸し出すために、梅龍を落籍させ料亭や小さな家を購入させたのである。原田熊雄を丸抱えしているのは、田布施王朝御用達財閥の住友本社である。料亭や小さな家の一軒や二軒、芝居の書き割り小屋として用意するくらい朝飯前である。何せ国家プロジェクトなのだ。憲兵隊のみならず海軍省のスタッフも友情出演している。彼らが梅龍の家に出入りして見せたので、五十六と個人的に親しい関係者までこのプロパガンダを信じている。
週刊朝日の続き。
『開戦・再開・別離 日本の風雲急を告げた昭和十六年十一月の末。連合艦隊長官として旗艦長門に乗込んでいた山本から招かれ、彼女は安芸宮島に旅をした。二人は、静かに厳島の散策に、時を過ごした。小鹿が、傍らに寄って来ては「クウクウ」と鳴いた。「ああ、ヨシ、ヨシ」彼女は、小鹿の頭を撫でてやった。山本は、静かに、彼女を見つめて、微笑した。しんみりとした宮島の二日だった。その後、数日して十二月一日山本は、突然、飛行機で上京、四日、帰艦するまで、あわただしい公務に忙殺された。だが、この多忙の寸暇にも、彼女を訪なうことを忘れなかった。‐四日の午後、二人は銀ブラに出かけた。そして、花の好きな山本は、千疋屋でバラの花を一束買って、彼女に与えた。彼女の家を訪ねる時は、いつも、花をもってくるのが慣わしであった。』
五十六が上京したのは、飛行機ではなく汽車である。極秘裏に上京するために飛行機を使わず、密かに私服姿で汽車に乗って上京したのである。飛行機で上京したというだけでも十分ガセであるが、その五十六が四日の午後に愛人と銀ブラをして千疋屋でバラの花束を買ったというのは、言語道断のガセである。五十六は天皇と先例のない特別な個人的な拝謁をするために、徹底的に隠密行動を取っている最中である。前日の三日は、拝謁の後、姪と堀に束の間会っただけで、家族と最後の晩を過ごしている。四日の朝、五十六は家族と訣別、午前九時海軍官舎から壮行する際、堀を呼び、横浜駅での束の間の再開を約し、午後三時二十七分に横浜駅プラットフォームで堀としばしの立ち話をして別れている。
週刊朝日は『四日の午後、二人は銀ブラに出かけた。そして、花の好きな山本は、千疋屋でバラの花を一束買って、彼女に与えた。』という一文で、地雷を踏んだのである。この暴露記事に対しては賛否両論で、千代子に対する抗議が沸騰したらしいが、正午から出立までの三時間という限られた時間の中で、連合艦隊司令長官が女連れでバラの花束を買い求めたかどうかは、千疋屋の店員なら知っているだろう。だから阿川は週刊朝日のオリジナルネタは使わない。
阿川弘之 旧版『山本五十六』より
『飛行機で発つ予定が、都合で午後三時の特急に変更になったので、山本はそのあと、私服に着更えて、一人、梅野島の千代子のところへ出かけて行った。中村家の敏子が、郵便局の帰り、梅野島に寄ってみると、山本は千代子と差向いで、おそ昼の茶漬けを食っていた。山本の買って与えた薔薇の花が、花瓶いっぱいにさしてあった。敏子は、しばらくして、女中にタクシーを拾わせ、山本と一緒に外へ出た。山本は、顔が目立たないように、マスクをし、紫の縮緬の風呂敷包みを、大事そうにかかえていた。敏子が、持とうとすると、彼は、「いや」と言って、それを離さなかった。風呂敷の中には、勅語か御沙汰書のようなものが入っているらしく思われた。そして山本は、円タクで、銀座から東京駅は向かった。』
週刊朝日のオリジナルネタ『四日の午後、二人は銀ブラに出かけた。そして、花の好きな山本は、千疋屋でバラの花を一束買って、彼女に与えた。』は姿を消して、『五十六は一人、梅野島の千代子のところへ出かけて行った』ことになっている。阿川は、五十六が千代子を訪ねてきて差し向かい二人で茶漬けを食っているシーンから始め、その前の『銀ブラ』『千疋屋』には触れない。地雷を踏まないためである。新版ではもっと小細工を施している。
阿川弘之『新版 山本五十六』より
『飛行機で発つ予定が、都合で午後三時の特急に変更になったので、山本はそのあと、私服に着更えて、一人、梅野島の千代子のところへ出かけて行った。中村家の敏子は前から山本に頼まれていた画仙紙を買いに鳩居堂へ行き、「呉局気付軍艦長門山本五十六様」と送り先を書いて、その帰り道に梅野島へ寄ってみると、思いがけず当の山本が千代子と差向いで、おそ昼の茶漬けを食っていた。山本の買って与えた薔薇の花が、花瓶いっぱいにさしてあった。其処へ鳩居堂の使いが追いかけて来、郵便局でこんな漠然とした宛先じゃあ受け付けられないと言ったという。敏子は「それじゃあちょうどよかったわ」と画仙紙の包みを渡し、しばらくして、女中にタクシーを拾わせて山本と一緒に外へ出た。山本は、顔が目立たないように、マスクをし、片手に紫の縮緬の風呂敷包みを、大事そうにかかえていた。敏子が持とうとすると、彼は、「いや」と言って、それを離さなかった。風呂敷の中には、勅語か御沙汰書のような物が入っているらしく思われた。そして山本は敏子と別れ、円タクで銀座から東京駅へ向かった。』
『新版 山本五十六』を書いた時、すでに阿川は千代子本人に取材している。にもかかわらず本人のオリジナルネタではなく、古川敏子ネタで通している。相変わらず『二人で銀ブラ』ではなく、『山本はそのあと、私服に着更えて、一人、梅野島の千代子のところへ出かけて行った』ことになっている。バラの花束も五十六が一人で買ってきたことになっている。『千疋屋』は禁句である。さらに阿川は『千疋屋』に対抗させるために、老舗の鳩居堂を登場させている。古川敏子が鳩居堂で五十六に頼まれていた画仙紙を買って、郵便局で送った帰りに千代子の家に寄るというネタに、マスク、紫の縮緬の風呂敷、勅語か御沙汰書のような物・・・と些事を細々と描写して付け加えることでリアル感を出し、何とか無難な筋書に読者を引っ張っていこうとしている。阿川弘之は確信犯である。
河合千代子当人も阿川の姑息さを本歌取りして、阿川バージョンの『恋文』を創作する。阿川バージョンがオリジナルネタを凌いだのである。望月良夫の本に載っているのは、千代子が創作した阿川バージョンの『恋文』である。
望月良夫『山本五十六の恋文』より
『「奥さんは気前がよく、手紙をひとにあげたりするので行李にはもう殆どありません」と(さとさんは)口早に話すのだった。黙って聞いていた千代子は急に立ち上がり、「元帥の手紙を二通大事にしまってあります。先生がそれほど元帥を好きなら一通あげましょう」と奥へ消えた。しばらくすると、元帥から千代子あての手紙と元帥へあてた米内光政の手紙の二通を手にあらわれた。(略)はからずも貴重な遺品を手にした私は、千代子の深い好意を感じた。千代子は、「元帥の手紙はたくさん持っていましたが事情があって二通となりました。米内さんのも大切にしていたものです」(略)帰って手紙をひろげたが、読み取りにくい箇所が二、三あった。
「此のたびはたった三日でしかもいろいろいそがしかったのでゆっくりも出来ず、それに一晩も泊まれなかったのは残念ですがかんにんして下さい。それでも毎日寸時宛でも会えてよかったと思います出発のときハ(ママ)折角心静かに落ちついた気分で立ちたいと思ったのに雄弁女史の来襲で一緒に尾張町まで行く事も出来ず残念でした 汽車は少し寒かったけれど風もひかず今朝六時数分かに宮嶋に着いてとても静かな黎明の景色を眺めながら迎いに来て居った汽艇で八時半に帰艦しました 厳島の大鳥居の下で小鹿がクウクウといっとったからウ・ヨシヨシと言ってやりましたら後から大きな鹿が飛び出してきて頭で臀の処ヲグングン押して来ようとしたけれど艇まで一浬ばかり距離があったので駄目だったよ 薔薇の花はもう咲きましたか。其の一ひらが散る頃は嗚呼、 どうぞお大事に、みんなに宜しく、写真を送ってね。さようなら 十二月五日夜 五」』
望月氏は「山本五十六から河合千代子への手紙 昭和16年12月5日」と但し書きをつけ、実物写真を口絵に掲載している。写されているのは、次の部分の文章である。
『此のたびはたった三日でしかもいろいろいそがしかったのでゆっくりも出来ず、それに一晩も泊まれなかったのは残念ですがかんにんして下さい。それでも毎日寸時宛でも会えてよかったと思います出発のときハ折角心静かに落ちついた気分で立ちたいと思ったのに雄弁女史の来襲で一緒に尾張町まで行く事も出来ず残念でした』
『雄弁女史の来襲で一緒に尾張町まで行く事も出来ず残念でした』とは、古川敏子が梅野島にやってきたので、五十六の出立の際、尾張町まで千代子と二人でタクシーを拾いに行けなかったことが残念だ、という意味である。オリジナルネタは消え、阿川バージョンを取り入れていることが分かる。
◎阿川バージョンを取り入れた『恋文』の筆跡は五十六のものではない。望月良夫『山本五十六の恋文』は国会図書館にあり、地方図書館で取り寄せてもらえる。館内閲覧のみであるが、現物を見ることが出来る。週刊朝日のバックナンバーも同様に、県外の図書館から借り出してもらうことが出来る。閉架を併設している図書館であれば、地方図書館にも保存している所があるので、問い合わせて見てください。
古川敏子を雄弁女史とは言い得て妙である。古川敏子ほど阿川にガセネタを提供した人物はいないだろう。金と引き換えとはいえ、新橋女将の風上にも置けない奸物である。CIAに沈黙(オメルタ)の掟があるように、新橋芸者にも守秘の鉄則はあるのだ。
望月良夫氏に寄せられた感想文より
『新橋芸者を思う 有賀 博
東京の花柳界は、新橋、赤坂、柳橋が一流と言われる。新橋は官僚、財界が客筋。赤坂は政治家が多い。柳橋は、きさくな下町好みの客筋。従って、芸者衆の気風も、明らかに違う。隣座敷の客が誰それと分かっても、「知らない」と答え、昨夜会った客でも、「昨晩はどうも」とも言わない。口の堅いのが新橋芸者。決してお客の機嫌きづまをとらない。朋輩の噂をしない。 』
五十六プロパガンダに協力した河合千代子と古川敏子を並べて見るとき、素人上りの千代子よりも、新橋のれっきとした女将の敏子の方がはるかに罪が重い。古川敏子の協力なしには、里美クも阿川弘之もプロパガンダ小説を書くことが出来なかっただろう。
阿川弘之『新版 山本五十六』より
『山本と深くなってからの梅龍は、彼にだけは実によく尽くした。彼女には、男同士双方承知の旦那があって、土地で「ダイヤモンドのお茶漬け」と言われ、取るとこから、取るものだけは「ザブザブ」と実に遠慮会釈なく取ったらしいら、一方気前もよくて、出す方もどしどし出した。山本はそんなに自由に金は使えないし、実際使いもしなかったらしい。当時妓籍にあり、傍らから見ていて、「男としてあれでよく耐えられるな」と不思議な気がしたと言っている女性もある。
古川敏子が昔の思い出話をしながら、「梅ちゃん、あんたは心と身体とを上手につかいわけたわね」とからかうのを、年老いた千代子が笑ってうなずいている、そういう光景を私は見たことがある。』
『「梅ちゃん、あんたは心と身体とを上手につかいわけたわね」とからかうのを、年老いた千代子が笑ってうなずいている、そういう光景を私は見たことがある。』という箇所は、狐と狸の化かし合いのような諧謔味が出ているが、千代子は着物を脱ぐ映画のシーンにも激怒したのだ。心と身体とを上手につかいわけたわね・・・笑ってうなずいて・・・んな訳ないだろうが。阿川は『梅龍の千代子はしかし、「長門」が入港すれば、一人でも必ず一度は横須賀へ山本を訪ねた。山本の下着類や沓下、副官や副官夫人への贈物まで用意して来、長官室の洋服箪笥の中やベッドまわりをせっせと片づけた』とも書いている。
阿川の『山本五十六』は、副島隆彦のようなトンデモ本だと思って読むべきである。阿川弘之は副島隆彦よりはるかに底意地が悪い。古川敏子も、千代子に対する本当の意味での好意を持っていない。阿川と古川敏子は共謀して、五十六プロパガンダには不必要な千代子の過去をスキャンダラスに書き立て、千代子の酔った時の醜態を面白おかしく脚色し、二人して千代子を玩具のように扱っている。
阿川前掲書の続き
『河合千代子の梅龍は、新橋から出ていたが、新橋の土地っ子ではない。明治三十七年名古屋の生れ、父親は株屋で、女学校を出て娘時代は何不自由の無い暮らしをしていたが、大正十二年東京鎧橋のたもとで大震災にあい父の店が倒産して両親とともに名古屋へ帰り、一家心中をしようという話まであった末に、明治銀行の頭取の生駒という人の世話になることになった。
それから二年して母親が亡くなり、次の年に父親が亡くなり、再び条項して烏森に家を借りて暮らしているうち、今度は盛岡の馬持ちと関係が出来た。その男はなかなかの美男子であったそうだが、千代子も美しい女で男関係が絶えず、髪を切ってやるとか硫酸をかけるとか脅され、色々ゴタゴタの挙げ句に睡眠剤を飲んで自殺をはかった。
それが助かってから、新橋へあらわれて芸妓志願をした。千代子が二十八の年で、昭和七年の十二月である。山本と深くなったのが昭和九年の夏と考えると、それより約一年半前である。三十に手のとどく齢で、いきなり天下の新橋から出たいなど、少しどうかしてやしないかというので、最初は誰にも相手にされなかったらしいが、何と言われても彼女は、「お願いします」の一点張りで、とうとう一念通して、間もなく野島家の梅龍を名のる事になった。
だから梅龍は、芸事はそれほど出来なかった。とても、名妓の列に入れられるような妓ではなかった。ただ。額の広い、面長の色っぽい女で、芸妓というよりお職の花魁のような風情があり、その色っぽさで、すぐ一部に嬌名をうたわれるようになったらしい。賢い人で、普段は行儀もよく、「わたし馬鹿だから、何ンにも分からない」などと言っているが、酔うとがらりと人が変わり、座敷から帰って来て、「取ってえも、取ってえも」と、名古屋弁で朋輩にみな着物を脱がさせてしまうのが癖で、手がつけられなかったという。
梅龍が「おかあさん」と呼んでいた野島家の丸子は、井上馨の妾だった人である。その関係もあり、彼女が少し有名病だったせいもあり、色っぽい梅龍には政界財界の誰彼との間に色んな噂が立ち、やがて決まった人も出来た。』
『取ってえも、取ってえも』という露出癖は、千代子本人が激怒したネタである。わざわざ書くところに、阿川の底意地の悪さがある。また野島家の女将が井上馨の妾であったことを千代子の有名病に結び付けているが、これは田布施村王朝と結びつけるべき要素である。
週刊朝日の続き
『バラの花散る頃 だが、この日、山本は、「この花ビラの散ることを見ていて下さい」と、言い残したまま帰艦していった。十二月五日付、軍艦長門から、千代子に宛てた手紙‐「このたびは、たった三日で、しかも、いろいろ忙しかったので、ゆっくり出来ず、それに一晩も泊まれなかったのは残念ですが、かんにんして下さい。それでも、毎日寸時だけでも会えてよかったと思います。出発のときは、折角心静かに落ちついた気分で立ちたいと思ったのに、いっしょに尾張町まで行くことも出来ず、残念でした。・・・・・・薔薇の花はもう咲ききりましたか。その一ひらが散る頃は嗚呼。どうか、御大事に、みんなに宜しく。写真を早く送ってね。左様なら」』
逆に言えば、週刊朝日の『恋文』には『雄弁女史の来襲で』が脱落している。また望月氏が貰った恋文の『薔薇の花はもう咲きましたか。其の一ひらが散る頃は嗚呼、 どうぞお大事に、みんなに宜しく、写真を送ってね。さようなら 十二月五日夜 五』の部分は、週刊朝日の恋文では『薔薇の花はもう咲ききりましたか。その一ひらが散る頃は嗚呼。どうか、御大事に、みんなに宜しく。写真を早く送ってね。左様なら』となっている。句読点が違うし、『どうぞ』が『どうか』になっている。私はこんな風に大同小異の『五十六の恋文』なるものが、もっとバラ撒かれていると思う。
千代子は望月氏に恋文の箱書きを頼まれると、『お兄さんと呼んでたから、お兄さんでいいでしょう』と言って『お兄さんの手紙』と箱書きしている。やっていることは、ほとんどストーカーである。思うに『お兄さん』というアイデアは、吉行淳之介のかつての内縁の妻が吉行を『お兄ちゃん』と呼んでいたパクリではないだろうか。
週刊朝日の続き
『ちょうど、七日のことだった、千代子の鏡台にバラの花ビラの散ったのは。千代子は、八日朝のラジオ・ニュースで、開戦を知り、山本の言い残した言葉を、改めて考えてみた。ハワイ空襲の成功で日本中が湧いていた十二月二十八日、千代子あての手紙の一節には、「方々から手紙などが山のごとく来ますが、私はたったひとりの千代子の手紙ばかりを朝夕恋しく待っております。写真はまだでしょうか。」とある。越えて翌年一月八日付けの手紙。「三十日と元旦の手紙ありがとうございました。三十日のは一丈あるように書いてあったから、正確に計ってみたら九尺二寸三分しかなかった。あと七寸七分だけ書きたしてもらうつもりで居ったところ、元日のが来て、とても嬉しかった。クウクウだよ」(記者注=クウクウというのは二人が出撃の直前、宮島で撫でた小鹿の鳴声だ)』
望月良夫氏がもらった『五十六の恋文』は、これを換骨奪胎したものである。千代子は同じネタ、フレーズを使いまわして、複数の『山本五十六の恋文』を書いていたのだろう。
週刊朝日の続き
『一月には、八日、十二日、十九日、二十七日と、五日をあけず、千代子のもとに手紙がとどいた。三月十九日に千代子は肋膜炎を病んだ。絶対安静を命ぜられ、一時は酸素吸入で生命を支えたこともあった。四月十八日、東京がはじめて空襲をうけた日、彼女は日記にこう書いている。「苦しき呼吸困難を助けられ、驚きて思わず起き上がる。わが身は先生に見離され、いまさら運命に従うより外になし。悲し」』
『五月十日、連合艦隊は呉に帰港。山本は早速、千代子に電話をかけた。「呉よりしきりと電話くるけれど咳多く出ずるため、電話にて話すことできず、ただただ心あせるのみにて涙とめどなく出ずるのみ」と、彼女は日記に書き、さらに十三日には、「死んでも・・・・・・と心に強くいいきかせて夜の汽車にて呉に向かう。まだ床に起上る勇気もないこの身は看護婦さんの心配するのもきかずとうとう列車に乗せてもらう」十四日、午後四時、彼女は呉に着いた。人目をはばかり、眼鏡をかけ、マスクをした背広姿の山本が、ホームに出迎えていた。彼は瘦せて軽くなった彼女を背負い、ホームから人力車まで歩いた。彼女の日記にはこう記されている。「呉の駅に懐かしの人は待っていて下さった。ああうれしい。これでよかった。うち震える全身を抱きかかえられて、車にて菊川旅館まで運んでもらう。呼吸困難の私はいくたびとなく注射をして頂き、やっとの思いでたどりついたのでした。もう死んでもよい・・・・」』
『再び握らぬ手と手 別れた翌日の彼女の日記。「あの駅頭のお別れはどうしても私は帰るのがいやでございました。あのまま汽車から飛び降りてあなたのそばにいたかったのですのに。……汽車が動き出したとき力一ぱいに握り合ったあの手が私には離したくなかったですのに。あのとき私はちょうど弱った体のために思うような力が出せなかったのに、あなたはずいぶん強い力で、私の手を握って下さいましたね。どこまでも私の手を離さないでつれていって下さいませ」しかし、ふたたび二人の手は結ばれることはなかったのである。』
読んでいると身体が痒くなる文面である。千代子本人の言葉ではなく、ゴーストライターが書いているヨタ文である。
『五月二十七日、ミッドウエ―へ向かう直前、帰艦大和から、千代子あてに便りがとどいた。「あのからだで精根を傾けて、会いに来てくれた千代子の帰る思いはどんなだったか。しかし、病勢を日々克服してゆく千代子の気力は本当におどろくべきものですね。私の厄を皆ひき受けて戦ってくれている千代子に対しても、私は国家のため、最後の御奉公に精根を傾けます。その上は‐万事を放擲して世の中から逃れてたった二人きりになりたいと思います。二十九日はこちらも早朝出撃して、三週間ばかり全軍を指揮します。多分あまりおもしろいことはないと思いますが。今日は記念日(記者注=海軍記念日)の晩だから、これから峠だよ。アバよ。くれぐれもお大事にね。うつし絵に口づけしつつ幾たびか千代子と呼びてけふもくらしつ 五月二十七日夜」』
あろうことかミッドウエ―作戦の出撃日と戦闘期間を知らせている。こんなことを書いた手紙が検閲を通ることは不可能である。後になって辻褄を合わせるために、この手紙は秘書官によって29日の幸便に託されたという作為が施されている。山本五十六がいかにもたるんでいたように思わせる恋文は、源田実がわざと慢心しているように見せかける言動を取っていたことと連動している。これらは、ミッドウエ―の惨敗は相次ぐ勝利に慢心していた海軍の驕りによるものだ、というシナリオの布石である。ミッドウエー海戦の真相についてはいずれ検証するが、アメリカが最後の五分間で奇跡の大逆転を起こすというシナリオは、アメリカ側はヴィクター・ロスチャイルドが送り込んだスプルーアンス、日本側は源田実が中心になって、日米共同演出で行ったヤラセである。『運命の五分間』というのはプロパガンダ用語で、実際はかなりの幅を設けられてヤラセが行われている。但し、私はこのヤラセから山本五十六と南雲忠一を除く立場である。
望月氏が千代子からもらった『恋文』は、前述した他にも次のものがある。五十六バッシングの中でも筆頭に上げられる、ミッドウエ―出撃前夜の『恋文』である。望月氏は、自分がもらった『恋文』は阿川の本にはない、と書いている。阿川が自著に引用した週刊朝日の『恋文』とは違うそれを、望月氏はもらっていると言っているのである。5月27日付の手紙をそれぞれ較べると、阿川本と望月氏の『恋文』はまったく別物である。
望月良夫『山本五十六の恋文』より以下抜粋。
『しばらく訪ねなかったからだろうか、ある日、電話をもらったので早速訪ねた。応接室で待っていると、さとに支えられるようにして入ってきた千代子が、「先生に貰っていただきたいものがあります」と一通の封書を差し出した。何枚もの便箋に墨書きした五十六の手紙だった。最後の一通と直感し、千代子に済まないような気持ちになった。私は重いものを貰ってしまった。
午後の診療が一段落して書斎に入り、便箋十二枚にびっしり埋められた二千字を読んだ。この稿の最後に掲げるが、前の手紙より達筆で、昭和十七年五月二十五、二十六、二十七日間の、すこしの時間をさいてていねいに書かれたものである。封筒の上書きは、「京橋区銀座七の三 河合千代子様」裏は山本五十六だけで、切手、消印、検閲印はないから、人伝てに千代子にわたった私信である。
なお、この私信を託した同じ日に、もう一通千代子に手紙を投函している。(注 週刊朝日に掲載された手紙)いただいた私信の読後感はここに書かない。千代子の病身をきづかっている部分が多いが、阿川氏の著書を参考に、当時の千代子の病状を書かないと五十六の気持ちを理解しにくいだろう。
「新版山本五十六」によれば、五月十三日から六日間、戦艦「大和」は呉軍港に投錨した。入港時の慣例で、乗員の希望者はみな、細君を呼び寄せ別れの夜を過ごした。五十六のその日のうちに千代子に電話をかけた。千代子は三月から肋膜炎にかかり、一時は重体で絶対安静を命ぜられていたが、その晩、医師につきそわれて下関行きの夜行列車に乗った。翌日午後、呉駅のプラットホームに、背広に眼鏡とマスクをした五十六が待っていた。病弱の千代子は注射をうけながら、旅館で五十六と四晩を過ごした。
五十六の五月二十七日付の手紙、“あの身体で精根を傾けて会いに来てくれた千代子の帰る思ひはどんなだっかた(中略)私の厄を皆引き受けて戦ってくれている千代子に対しても、私は国家のため、最後の御奉公に精根を傾けます。その上は万事を放擲して世の中から逃れたった二人きりになりたいと思います(後略)”
同じ二十七日に秘書官に託した私信、つまり、私がもらった手紙は、阿川氏の著書にはない。
恋文
けふ廿五日東京へよりし参謀が中村勝平君よりの手紙とかねて御依頼せし万葉集小註を持って段取りしてくれたので千代子がその後経過順調で先月末より本月はじめまで静浦へ静養に出かけ其後は立花で来月になればどこでも行けると先生に言われたとの事を承知して本当に安心しました。
私もことによったら今月は横須賀方面へ行き東京へ打合せに行くかもしれぬ(此前手紙に書いた)と話したのでしたが後其方(横ス賀へ回航しないことになり)は都合で必要がなくなり從って当分上京の機会もなくなりましたそれに此頃いろいろの事が世間や外国へまで漏れるので艦隊の乗員や徴用船の船員の手紙などを検閲するといろいろの軍機のことがかいてあるので之では将来の作戦に不都合の事があってはいけないから当分手紙は出さぬ事にするという事になったのでした。それで私など誠にこまるのですが封書は控え居る次第です。
此手紙は二十九日頃の幸便にたのむつもりなのです(秘書官に)其後引きつづき経過もよいとすればもう注射も大体予定の回数が終わった頃であとは体力の恢復だけで段々全快なのでしょうと想像して嬉しくてたまりませんどうか此夏のあつさだけを充分に気をつけて夏まけしない様にして下さい。
東京からは先日君梅さんからとけふ中村武官の外一切手紙が来ず様子もわかりませんが外に萬々かはった事はないでしょうか。戦争も追々本格の長期戦になり船や飛行機や油やいろいろ入るものばかりになりますが懦座の方はどんなものかそれにつれて花柳界などの影響はどうです結局うちの様子はどんなかなと思い出して居ます追々暑くなると二階もたまらなくなるでしょうと心配です私も出来れば千代子の箱根への転地前にもう一度あって元気のところを見たいのですが次の大きな作戦のことでいろいろ心肝をくだいたり練ったりして居るので当分其機会が得られませんからどうぞ我慢して涼しくなる頃まで待って下さい、そうしてその間に充分からだを丈夫にして元気一杯の千代子になっとって下さいどうぞお願いします。また明日にでも書きたします御機嫌よふ(写真の千代子がジーッとこっちを見てるよ何とか言ってよ)二十五日午後五時
あすは大臣がこちらへ見える相だから東京の話なども出ると思ふけれど千代子は其後島田さんには会ふ機会もなかったでしょうね昨晩澤本さんからの手紙で「河合氏のお見舞いに羊かんを少々送ったらおすしを沢山に貰って恐縮でした丁度よい機会だから御依頼の手紙は直接届けるつもりだ」とかいてあったので自分で中村家へ行ったかそれともうちへ直接行ったかとにかく自分で訪ねていっただろうと思っています。
此手紙は丁度返事もかかなければならぬので中村武官に届けて貰ふ様に頼むつもりですから中村さんも御見舞がてら来る事でしょうがそうなるとうちは海軍省の出張所の様になりますね大臣には秘書官か誰かついて来るのか此頃秘書官は代ったのかどうかちっともわかりません島田さんは明日朝ついて一泊して徳山あたりの工場を廻って二十九日頃は東京へ帰るらしいから今月中には此手紙が届くと思います
今度又何時手紙が出せるかわからぬからお中元の分、少々ばかりわけてあげて下さい入れといたから此手紙のつく頃は或は強羅あたりへ転地して居るのではないかなどとも思いますが来月からかとも思って居りますそれとも他にしましたかおひささんの話の御殿場あたりの田舎もよいかも知れないねともかくこちらからははがきや名刺でも出しますからこれからさきの行動予定など知らせて下さいねどうぞお大事に
うつし絵に口づけしつゝ幾たびか千代子とよびてけふも暮しつ 五月二十六日夜
けふはとてもむし暑くやがて降って来そうの空模様ですあと暫くで島田さんが着くのでついてからの話なども聞いてからもっと書きたいけれどひまがないかもしれぬから一応封をしておく事にしますそれではどうぞ気をつけて充分に養生をしてお乳も腕も背中もお尻もいやになったという程丸々と肥って下さいそれから又しまって来るのはわけないからね、駒さんはおかあさんになってからやって来ましたか、もう一月以上になったでしょうね、みんなによろしく、それではお大事に御機嫌よふ左様なら。五月二十七日朝九時五十六千代子様
萬葉集小註はとても面白く読んでいますありがたふ(引用の手紙三通はすベて原文のまま)』
もう一度27日付の手紙を比べて見よう。
週刊朝日に掲載された手紙(投函され検閲を受けた手紙)
『五月二十七日、ミッドウエ―へ向かう直前、旗艦大和から、千代子あてに便りがとどいた。「あのからだで精根を傾けて、会いに来てくれた千代子の帰る思いはどんなだったか。しかし、病勢を日々克服してゆく千代子の気力は本当におどろくべきものですね。私の厄を皆ひき受けて戦ってくれている千代子に対しても、私は国家のため、最後の御奉公に精根を傾けます。その上は‐万事を放擲して世の中から逃れてたった二人きりになりたいと思います。二十九日はこちらも早朝出撃して、三週間ばかり全軍を指揮します。多分あまりおもしろいことはないと思いますが。今日は記念日(記者注=海軍記念日)の晩だから、これから峠だよ。アバよ。くれぐれもお大事にね。うつし絵に口づけしつつ幾たびか千代子と呼びてけふもくらしつ 五月二十七日夜」』
望月氏がもらった手紙(人伝に届けられた私信)
『けふはとてもむし暑くやがて降って来そうの空模様ですあと暫くで島田さんが着くのでついてからの話なども聞いてからもっと書きたいけれどひまがないかもしれぬから一応封をしておく事にしますそれではどうぞ気をつけて充分に養生をしてお乳も腕も背中もお尻もいやになったという程丸々と肥って下さいそれから又しまって来るのはわけないからね、駒さんはおかあさんになってからやって来ましたか、もう一月以上になっ
たでしょうね、みんなによろしく、それではお大事に御機嫌よふ左様なら。
五月二十七日朝九時五十六』
望月氏が貰った手紙は、
『此頃いろいろの事が世間や外国へまで漏れるので艦隊の乗員や徴用船の船員の手紙などを検閲するといろいろの軍機のことがかいてあるので之では将来の作戦に不都合の事があってはいけないから当分手紙は出さぬ事にするという事になったのでした。それで私など誠にこまるのですが封書は控え居る次第です。此手紙は二十九日頃の幸便にたのむつもりなのです(秘書官に)』
という事情のもとに、人伝で千代子に届けられた私信である。機密情報も書かれていない。
一方、週刊朝日に掲載された手紙は検閲を受けたものである。にも拘わらず、『万事を放擲して世の中から逃れてたった二人きりになりたい』という失楽園的コメントや、『二十九日はこちらも早朝出撃して、三週間ばかり全軍を指揮します。』という機密情報の漏洩、『多分おもしろいことはないと思いますが』という不謹慎なフレーズがある。
しかも週刊朝日の続きには、六月二十一日付の手紙が掲載されていて、これが五月二十五日付の文面とほぼ同一のものなのだ。
こんな支離滅裂な話をデッチあげているのである。
週刊朝日続き
『ミッドウエ―敗戦・戦死・国葬 六月初旬に行われたミッドウエ―開戦は、惨憺たる敗北に終わった。「このごろ作戦行動などが、だいぶ世間や外国へ洩れる形跡があるというので、しばらく艦隊から封書は出せないということになったので、此間は名刺に簡単に書いたのです。千代子もどうしたのか変に思ったでしょうね。」(六月二十一日) 』
すでに五月二十五日付の手紙で、私信にした理由を説明しているのだから、『変に思ったでしょうね』と書く方が変なのである。『同一の文章を書いて、変に思ったでしょうね』というならまだ話は分かるが、まったく辻褄が合わない話である。否、辻褄を合わせようとする配慮が千代子には欠けている。週刊朝日のこの二十七日付の『恋文』に限らず、望月良夫にプレゼントした『五十六の恋文』も、海軍省の焼却命令で焼いたという『恋文』も、焼かずに密かに隠し持っていたという『19通の恋文』も、後には隠し持っていたのは『5通の恋文』ということになっているそれらを含めて、全ての『山本五十六の恋文』は創作物である。
週刊朝日の続き。
『最後の便り 昭和十八年四月二日付の手紙は、旗艦大和の長官室で散髪した遺髪を同封されて、千代子の許にとどけられた。ガダルカナル失陥後二ケ月、南方戦視察に赴く直前の手紙である。これが最後の便りとなった。「三月二十七、八日の御手紙、昨四月一日の夕方受け取りました。それから今度はあまり度々だからと思っておったのに参謀長藤井、渡辺、鹿岡、佐雉(記者注=みな連合艦隊の参謀)と沢山よんで貰って、本当に嬉しく御礼申します。皆んなもとても喜んで、入れかわり立ちかわり、神谷町(記者注=千代子さんの家)のことや、山口での話などをしてくれて私もなんだか、ちょっと家へかえって千代子にあったようの気持ちになりました。・・・・藤井君も押しかけて御馳走になり、夜おそく帰った。一杯機嫌で上り込んで、いつまでもご迷惑をかけ、おまけに鹿岡と公務の事まで話し始めたら、いつの間にか、気をきかせて下へ行っていたらしいなど、とても気の付く人ですねと感心して居ったから、僕が天皇陛下の前に内心あたまの上がらぬのは、あの人なんだが、そのねうちはあるだろうというと、いやいくら言われても致方ありません、まけましたといって皆で陽気に笑いました。本当に楽しかったよ。私のからだは先日言って上げた通り、血圧は三十代の人と同様、とてもよいという事です。それから手がしびれるというのは、右の薬指と小指のあたまがほんのわずかいびれるようでしたが、しかし軍医長にヴィタミンBとCの混合液を四十本注射して貰って、もうすっかり能くなりました(表面はまだ少しいけないように言っておきましたが)から、本当は少しも心配しないで下さい。・・・・・・それから明日からちょっと前線まで出かけて来ます。参謀長、黒島参謀、渡辺参謀長等が一家です。それでに収監ばかり御ぶさたをしますから、そのつもりでね。私も千代子の様子を聞いたので勇ましく前進します。四月四日は誕生日。愉快です、一寸やるのは」』
週刊朝日の記事には、『千代子さんに宛てた元帥最後の手紙』として封書の写真が掲げられている。表書きの左端には『戦時郵便』と記され、下に『検閲済』の印が押してある。つまり通常のルートで検閲を受けた手紙である。先の五月二十七日付の手紙同様、こんな『恋文』を書いたとしても検閲を通るのは到底不可能である。しかも参謀の役職名がデタラメ。『それから明日からちょっと前線まで出かけて来ます。参謀長、黒島参謀、渡辺参謀長等が一家です。』→参謀長は宇垣纏、黒島亀人は先任参謀、渡辺安次は戦務参謀。『渡辺参謀長』などと五十六が書くことは間違ってもない。
だから阿川弘之は、この最後の手紙も勝手に改変している。例によってあれこれ尾ひれも付けている。改変を目立たなくさせるための小細工と思われる。改変や尾ひれの部分に※を付けておく。相変わらず語句や句読点などいい加減で、オリジナルに合わせていない。
『新版 山本五十六』より
『三月廿七日、八日のお手紙はお天気がわるく飛行機が飛ばなかったのでおくれて漸く昨四月一日の夕方受けとりました ※それと浴衣や石鹸や目刺山口の煮豆などいろゝとどきました ありがとう※ 夫れから今度はあまり度々だからと思って居たのに参謀長 藤井 渡辺 鹿岡 佐雉など沢山よんで貰って本当に嬉しく御礼を申します 皆んなもとても喜んで 入れかはり立ちかはり 神谷町のことや山口での話などをして呉れて私もなんだか一寸家へかへって千代子にあった様の気持ちになりました
※渡辺君はことに神谷町のうちの様子や千代子の健康のことやいろゝ親切にしてもらった事などを事詳しく三時間も話して十二時過になりました さうして長官へは古い浴衣だのに私に新しいのをどうしても持って行けといはれ又雨で靴下をぐちゃゝにしたら洗濯したり新しいのを沢山頂いたり大変度々ご馳走になったりして恐縮でしたと云ふから夫れは君が三年半も下で一生懸命働いて呉れて居るのを度々話してあるので能く知って居って感謝して居るからだよと言ったらあんなに能く気のつく親切な方はありませんねというふてしんみりと感激して居りました※
藤井君も押しかけで御馳走になり 夜おそく酔った一杯機嫌で上がり込んで(オリジナルは「藤井君も押しかけで御馳走になり、夜おそく帰った。一杯機嫌で上り込んで、」) いつまでも御迷惑をかけ、おまけに鹿岡と公務の事迄話しはじめたら、いつの間にか、気をきかせて下へ行って居られるなど(オリジナルは「居たらしいなど」)、とても気のつく人ですねと感心して居ったから、僕が天皇陛下の外に(オリジナルでは「前に」)内心あたまの上がらぬのは あの人なんだが そのねうちはあるだろう云ふと いやいくら言われても致方ありません 負けましたといって 皆で陽気に笑いました 本当に嬉しかったよ(中略)(オリジナルでは中略の表示はない)
※梅駒さんも許可が下りて何よりでした。あの家が其のまゝ立って行けば気持ちがよいわけですね※
私のからだは先日言って上げた通り 血圧は三十代(オリジナルでは「台」)の人と同様とてもよいという事です。夫れから手がしびれるといふのは 右の薬指後小指のあたまがほんのわづかしびれる様でしたが ※東京へは少し大げさにわざと云ってやりましたので少し問題になった様です(問題になる様にしたのです)※ しかし軍医長にヴィタミンBとCの混合液を四十本注射して貰って もうすっかり能くなりました(表面はまだ少しいけない様に言っておきましたが)から、本当は少しも心配しないでください。 ※又此の事は誰にも言わないでなんだか暑い処で土も踏まないので少し弱ったらしい位に言つといて下さい 夫れから明日から一寸前線まで出かけて来ます※ 参謀長黒島参謀渡辺参謀等(オリジナルでは「参謀長、黒島参謀、渡辺参謀長等」)が一処です(オリジナルでは「一家です」) 夫れで二週間ばかり御ぶさたしますからそのつもりでね 私も千代子の様子を聞いたので勇ましく前進します 四月四日は誕生日です 愉快です 一寸やるのは ※夫れではどうぞ御大事に 御きげんよふ 四月二日 五十六 千代子様』
阿川が付け足している『このことは誰にも言わないでください』は、『五十六の恋文』のキャッチコピーである。問題の『参謀長、黒島参謀、渡辺参謀長等』の部分も、変わらず姑息な手を使ってごまかしている。まず間合いを詰めて『参謀長黒島参謀渡辺参謀等』と列記し、『渡辺参謀長』から『長』をさり気なく取っている。渡辺安次は勅令で戦務参謀として五十六に貼り付き、河合千代子の自宅に出入りしてアリバイ工作をして昵懇になっている。藤井茂は千代子の家に出入りしたこともないし、渡辺安次のように一線を越えたこともない。ちなみに藤井茂は渉外参謀である。
五十六は慰問の手紙をもらえば、それが小学生であろうと必ず直筆の返信を書く。長岡小学校の小学生にも一々返信をするので、校長先生が自粛を呼びかけたほどである。河合千代子はそのことを利用すれば、五十六本人直筆の返信を入手できるし、実際入手していただろう。もちろん中身は普通の礼状である。
藤井茂はトラック島に碇泊中の武蔵に待機、昭和18年4月17日に五十六の視察スケジュールを打電している。4月2日からラバウルの前線に二週間ほど指揮を執りに行っている五十六が、18日にブインを視察する前夜のことである。その際、藤井茂は4月から大幅に刷新された暗号乱数表ではなく、すでに米軍に解読されていた古い暗号表を使って打電している。これが米軍に視察スケジュールを解読された真相である。この勅令を藤井茂に伝えたのは、海軍主計中曽根康弘である。パシリ中曽根に指令を出したのは、フィクサー吉田茂である。
文中、『僕が天皇陛下の前に内心あたまの上がらぬのは、あの人なんだが、そのねうちはあるだろうというと、いやいくら言われても致方ありません、まけましたといって皆で陽気に笑いました。』というのは、「五十六が天皇陛下の次に、内心、頭の上がらないのは河合千代子であり、千代子にはその値打ちがるだろうと言うと、いやいくら言われてもその通りです、負けました、ごそうさま、と皆で陽気に笑った」という意味である。
五十六は成りすまし昭和天皇に恐懼しことはない。また五十六がこの世で一番頭が上がらないのは、陰で支えてくれた妻の礼子である。五十六が最後に家族と過ごした夜、礼子は肋膜炎に罹って枕から頭さえ上がらぬ状態であったが、苦しいとも痛いとも一言も言わずに家の中のことに気を配っていた。五十六はそうやって家庭を守ってくれてきた妻と最後の一夜を過ごし、夫婦水入らずの訣別をしたのである。五十六が瞼に焼き付けたただ一人の女性は、その夜の礼子である。だから礼子は、戦後、新橋のガード下で石鹸の叩き売りをしたり保険の外交員をしたりして子どもたちを育て上げ、『神様は信じられないけど、パパちゃんのことは信じられるわ』と言ったのである。
しかし阿川弘之は、これ以上はないというくらいにその礼子をこき下ろしている。誹謗中傷しか書いていないといっても過言ではない。彼は『山本五十六』を書くにあたって、まったく遺族に聞き取りをしていない。伝聞と風聞だけで妻を貶め、愛人を持ち上げている。五十六の結婚は失敗であるという大前提のもとにひたすら妻を人格否定し、五十六が愛人を持つことの妥当性を強調している。すでに物故している堀悌吉をダシに使って、さまざまなガセネタを創作している。
阿川が遺族から名誉棄損で訴えられた後で出したのが新版『山本五十六』である。どこをどう配慮してあるのかまったく分からない。新版ではさらに堀悌吉にみっともない真似をさせ、デマカセを喋らせている。阿川が配慮しているのは、愛人ネタで辻褄の合わないところをごまかしてある所だけである。
五十六の無二の親友である堀を狂言回しに使う方法を思いついた時、阿川は(しめた!)とほくそ笑んだのであろうか。堀悌吉は海軍の至宝と言われた秀才で人格者であるが、阿川弘之の筆にかかると、いつも五十六とつるんで色事に協力している俗物になり下がっている。
もう一人の友人である古賀峯一も、千代子のガセネタのダシに使われている。
『新版 山本五十六』より
『古賀は、かつて河合千代子に、「山本の将来を思って、つらいだろうが別れてやってくれ」という話を持ちかけ、千代子に、「古賀さんの言うこと、分からないじゃないけど、今どき新派悲劇は流行らないわよ」と、あとで笑われたという堅人であったし翌昭和十九年の三月、連合艦隊司令部をひきいてパラオからフィリッピンのダバオに向かう途中、乗っていた二式大艇が嵐に巻き込まれて行方不明になって、あまり華々しいいくさもしないままに山本のあとを追うてしまったので、一般にはあまりパッと印象を与えているようだが、山本とは仲のいい古い友達でその志操も米内と全く同じであった。』
古賀峯一は勅令で『行方不明』にされたのである。福留繁が古賀を『行方不明』にして、機密書類を敵側に『奪われる』ようしている。米内光政に志操はない。昭和天皇に唯々諾々と従うだけの哀れな便利屋である。
阿川弘之『山本五十六』より
『彼の沓下には、よく穴があいていた。お洒落の癖に、彼のスボン下は、いつも、そんなにきれいではなかった。これは、山本があまり家庭に寄りつかなかったか、家庭の方で山本をあんまり構いつけなかったか、どちらかの結果である。女たちは、彼の沓下につぎをあて、ズボン下を洗濯し、次に来るまでに乾かして、アイロンをあてておいてやる。こういう事は、彼女らの母性本能を刺激したであろう。
山本源太郎大将は、禮子の母親と従兄妹で、したがって山本の家と、山下大将の家とは、親戚づき合いである山下の妻の徳子が、山本の家へ遊びに行っていると、夕方、山本が帰って来る。「やあ、小母さん来てたの?」などと言って、山本は出されている林檎を、手を使わずに、ナイフと フォークだけでむいて見せる芸当などして見せて、それから着更えに別室へ立って行くが、禮子は知らん顔をしている。「禮ちゃん、あんた、行って、旦那さまの着更えぐらい、手伝って上げなさいよ」と、徳子が言っても、「あら、そう?」と、彼女はけろりとしているという風であった。』
いったい阿川はこれを誰から聞いたのであろうか。旧版『山本五十六』には引用元が明示されていなかったが、新版には聞き取り証人の名前が明記されている。その中に山下徳子の名前はない。もとより阿川は禮子に一度も会っていない。どうしてこんなシーンが描けるのか。フィクションなのかノンフィクションなのか、はっきりさせるべきである。阿川の『山本五十六』をあたかも既成事実のように捉え、文献として引用している作家はたくさんいる。その弊害は甚大である。
『山本と結婚するまで、一度も東京へ出た事がないという、根っからの田舎育ちで、押しが強く、茶碗が欠けていようが不揃いであろうが、そんな小さな事は一向に気にならないという性であったらしい。山下夫人の徳子は、「あそこの家じゃ、女中の給料、五十六さんが自分で渡してるんだってよ。禮ちゃんは一体、何をしてるんだろうね」と言っていたそうである。黒潮会のある新聞記者は、山本の留守宅に訪ねて行って、海軍中将の家の玄関に、洗濯盥がほうり出してあるの見て、びっくりしたと言っている。山本はその反対で、何にでもよく気がつく。彼は、部下の夫人たちにでも、どうかすると誤解を受けはしまいかと思われるほどよく気を使って、外国へ行けばコテイの白粉と口紅を土産に買って来る、部下が新居へ引っ越せば、奥さんの方がかねて欲しい欲しいと思って眺めていたコーヒー・セットを、ちゃんと知っていて祝いに持って行ってやる。』
『・・・そうである』は阿川の十八番である。これを使っていくらでもガセネタを書きまくる。
『禮子の方は、家に客が来ても、髪でも結っていれば、三十分でも四十分でもほったらかして、出ては来ない。山本は、海軍関係で、家庭と家庭との付き合いをするのを、次第にいやがるようになり、禮子をめったに人前に出そうとしなくなった。現在、彼女を識っている人々に訊いてみると、太っ腹で、親切な、いい方なのだが、都会人の神経で接すると、やはりちょっと・・・・と、大抵の人がそう答える。禮子にして見れば、なぜ自分のやり方がそんなに山本の気に入らないのか、よく理解が出来なかったかも知れない。彼女はある時、「わたしは、一度も主人と一緒に散歩というものをしたことがないのよ」と、悲しげに人に語ったことがあるそうである。』
阿川はよくこういう事を書けると思う。五十六と禮子は部下や知り合いの仲人を何回もしている。その行き帰りには一緒に歩いたことだろうし、伴侶を人前に出したくないほど不和な夫婦に仲人が務まろうはずもない。
『結婚の事情を詳しく見ると、其の点、山本も勝手であった。山本夫人の里は、会津若松の、農家を兼ねた牛乳屋で、父三橋康守、母亀久の、禮は三女であった。堀悌吉から話が出て、山本がこの三橋禮と、東山温泉で見合いをした前後、彼が長岡の家兄に宛てた手紙の中には、「本人は大正三年会津高等女学校卒業後女中代としては母を捕け現業に従事東京と見たる事なし 身体頑健困苦欠乏に堪ふとのこと・・・」とか「先方は最も質朴の家風らしく当人は丈ケ五尺一寸許り躰格極めて頑健の女なれば大抵の困苦には可堪ものと認め整婚に同意致候次第に御座候」とか、まるで身体頑健で、大抵の困苦に堪えそうなところだけが禮子の取り得で、専らそれが気に入ったような言い方をしている。
堀悌吉は、どこから此の縁談を持って来たかというと。前述の通り、禮子の母親の三橋亀久は、山下源太郎と従兄妹である。山下源太郎夫人と、四竈夫人とは、姉妹であった。四竈幸輔(ママ)は、のちに中将となったが、山梨勝之進らと同期の、当時大佐で、堀は此の四竈と親しくしていた。話は四竈幸輔(ママ)から堀悌吉に行き、堀から山本に伝えられた。最も親しい友人の堀が持って来てくれた縁談だからというので、山本は最初に心を動かしたらしい節がある。
だが‐「所謂栄達の人々」を避けるのはよいとして、候補者が「身体頑健困苦欠乏に堪ふ」「東京を見たる事なし」の、若松の人間だからというので、「明日あると期し難き身に」「ややつり合」い、それで万事うまく行くだろうと考えたとすれば、いくら昔風の、軍人の結婚でも、夫婦生活というものに対し、山本は少し浅慮であったというそしりは免れまい。あとになって、禮子に、都市的な繊細な神経が書けていると不足を想って見ても、それは山本の勝手である。彼の結婚生活が失敗であったとするなら、少なくとも其の責任の半分は、やはり山本が追わなくてはなるまい。
それまでも、山本は禮子を人前に出すことを嫌い、海軍士官の家同士の交際をさけたがっていたが、部下の細君に、「奥さま、お元気ですか?」と訊かれて、「あんな、松の木みたいなもの、大丈夫だよ」と答えたり、艦内の幕僚が細君の写真を飾っているのを見て、「お前は、恋女房でいいなあ、俺はもう匙を投げたよ」と、彼が言ったりするようになるのは、すべて此の時期(注 次男が生まれた昭和7年11月。昭和9年ごろ河合千代子とデキたとされている)あたりよりあとである。山本夫婦は、それぞれもう、両方で勝手に独立しているように見えたという。
禮子は、趣味の無い人であったが、土地や家作の売買には、男勝りの、なかなかの手腕を発揮した。山本は鎌倉に住んでいた大佐の頃、「鎌倉の材木座で、一番小さな家を探して来りゃ、それが俺ンとこだよ」と言っていたくらいで、将官になっても、売り買いする程の財産は持っていなかったけれども、何かで少しまとまった金が入り、長い苦労をかけているからと、彼が禮子にそれを渡すと、禮子はすぐ其の金で、土地を買ってしまったという事もあった。
山本は情に溺れる方で、そういう潤いの無い禮子のやり方は、気に入らなかったに違いない。しかし、一旦言い出したら、禮子はめったに後へは引かなかった。喧嘩になると、山本はすぐ、蒲団をひっかぶって寝てしまったそうである。山本はもはや、家庭に慰めを見出していないように見え、事実、彼は、次第に家庭から遠ざかるようになって行った。結婚十五、六年後、そういう状態の下で、山本五十六の前に不意に立ちあらわれて来たのが、河合千代子の梅龍であったのである。』
『身体頑健困苦欠乏に堪ふ』『明日あるを期し難き身にややつり合う』という理由の、どこが浅慮のそしりを免れないのであろうか。すばらしい長所ではないか。五十六は部下にもなるだけ晩婚を勧めるほど、軍人未亡人をつくることを憂慮している。山本家を継いだ責任感、嗣子を儲ける義務がなければ、五十六はもっと晩婚かあるいは生涯独身を通したかもしれない。わざと曲解しているにしても、『浅慮のそしりを免れない』のはそれを解さない阿川の方である。
そもそも阿川のいう『都会的な繊細な神経』というのは、何を指すのか。会津若松にも独特の文化と伝統がある。千代子こそ『都会的な繊細な神経』を持ち合わせていて、それが五十六の趣味だとでも言いたいのだろうか。しかし前述したように、阿川は河合千代子のことも本当の意味ではほめていない。阿川は千代子を持ち上げる文章の合間に、古川敏子から仕入れた千代子の過去の素性や、見ず転芸者としての行状をそこまで書く必要があるのか?と思うほど晒け出している。
夫婦の仲は夫婦にしか分からないという。人前では完璧に夫婦円満を装う仮面夫婦もいるし、横暴で亭主関白で愛情表現など一切しないが熱愛している夫婦もいる。阿川は当事者に取材さえせずに決めつけ、その決めつけは今や『史実』になっている。『わたしは、一度も主人と一緒に散歩というものをしたことがないのよ』を歴史的人物の一言として取り上げているブログを見たことがある。ウイキペデイアの山本五十六の項にも河合千代子が愛人として堂々と記載され、五十六の『戦死』については、妻の礼子ではなく千代子の言動が取り上げられている始末である。
『山本はしかし、宵のうちに官舎に戻っている事はめったになかった。家族は青山の私宅の方に置いて、官舎では女中と二人だけの所帯で、山本は天長節の重い礼装なども、自分で着つけをやっていたそうであるが、帰館は大抵一時頃で、此の時刻になると、女中ももう寝ている、山本が、自分用の鍵を持っていて、勝手に官舎の玄関を開けて入り、女中の入ったあとの風呂に入るというのは、新聞記者の間で有名な話であった。』
この阿川のプロパガンダに対する反証として出版されたのが、山本義正『父・山本五十六 その愛と死の記録』である。義正氏は名誉棄損の訴えを起こしたが、マスコミにもっとひどいことになるとやんわり脅され、訴えを取り下げざるを得なかった。その代りに本書を反証として上梓したのである。
山本義正『父・山本五十六 その愛と死の記録』光文社より
『母との結婚にあたっても、父は、くどいほど自分の体のことを、母方の人びとに念を押したそうである。東京で、あらましまとまりかけた縁談に乗り気だった父は、見合いのために母の里会津まで出かけて行った。それは、自分が相手を見る目的というより、自分を赤裸々にして見てもらうことを目的としたようである。この会津における見合いのときに、父は、自分の欠点を洗いざらい書きつづった身上書を持参し、母方の人に見せている。自分の至らない性格についてふれ、とくに体の傷については、その原因、負傷部位、傷痕の大きさなど、詳細に書き記されてあった。「欠点ばかりくわしく書いてあって長所らしい点は、なにも書いてなかった。」と、後年、母は私に語っている。』
身体頑健困苦欠乏に堪ふ嫁を娶るために、五十六は自分を丸裸にして見せている。そし
て五十六は、礼子の見てくれにも惚れている。阿川は千代子を美人だと持ち上げる一方で、いかにも礼子のことは人前に出せないような女として描いているが、礼子は色白で大柄な器量良しである。結婚式の白無垢姿はあたりを払うような美しさで、周囲にいる女性たちを霞ませている。
阿川がクサした材木座の家も、礼子が五十六の許可を得て創意工夫で建てたものである。
義正氏前掲書の続き
『父の生存中、私の一家は十回近く引っ越しをしている。私が小学校へ入学したころ、一家は鎌倉の材木座に住んでいた。病気がちだった子どもたちの健康のために、父母が場所を選んで建てた、はじめての自宅であった。
父と母が結婚したとき、新居は、東京・麻布の高樹町であった。会津からポッと出て来たばかりの母のために、当座は何かと心細かろうという配慮から、仲人の四竈氏の家の近くに、父が見つけた借家だったという。家を選ぶことや、必要な道具をそろえることなど、父はまめにやったらしい。その後、千駄ヶ谷に転居し、そこで、長男である私が生まれた。三年後に、父が霞ヶ浦海軍航空隊勤務となったため、一家は、茨城県・土浦に転居する。
まもなく父は駐米大使館勤務となり、留守を守る一家は、もう土浦にいる必要がなくなったので、神奈川県・鎌倉に引っ越し(略)鎌倉への転居は、父がアメリカに行って不在中のことだから、すべて母がとりしきった。もっとも、手紙でアメリカにいる父とは相談を重ねたらしく、父から、鎌倉は空気のよいところだから子どもの体によいだろうということ、古い歴史の地であり教育環境としてもよいだろうということなどにふれた手紙が来ている。「九月三十日 五十六 礼子殿 忽ち秋となり年も追々終わりに近づき申し候。当地目下秋晴の好時節、詩人玩月遊子懐郷の頃と相成り候。あいかわらず頑健、御安心くだされたし。御地も避暑客退散、落ちつきたる旧府鎌倉として住み心地よきことと存じられ候。貴地にある幾多の名所は、これを中心として日本歴史に幾多の意義を留むるもの、多日、子女教養のため、このごとき時機に於いて、青史の『趣味を喚起し修養に資せらるるの要ありと存じられ候(中略) 坊、澄子、もとちゃん(当時家にいた女中さんのこと)も元気のことと存じられ候。」
このころから、母はなんとかして自分の家を持ちたいと考えたそうである。ひとつは家賃を毎月払わねばならないのがつまらないことと、父がいないので、家計をきりつめれば、そうとうの余裕ができること、出来合いの家でなく、好みの間取りの家に住みたいこと、などの理由からだった。海軍から渡される月給の中から、少しずつたくわえた貯金と、郷里の両親や親類からの借金で、なんとか一軒の家を建てられる見通しがついたようだ。こうして、鎌倉の材木座に、山本家としては、はじめての自分の家を持つことになった。物色した土地は、滑川の川べりで、一面のネギ畑の一角であった。そこに、母が間取りを設計した家が、大工さんの手で建てられたのである。三角屋根の二階家で、二回の二部屋は、屋根裏部屋で、そのうちの一部屋は最後まで造作ができないままだった。
借金の末に建てた家なので、門や庭木にはとても手が回らなかった。近くの家で、大きなビワの木を切り倒そうとしたとき、頼んでゆずりうけ、庭の片隅に植えたりした。このビワの木は、その後もすくすくとのびて、毎年の初夏には小粒ながらいっぱい実がなり、わが家の庭の主役であった。そのほか、庭に植えられたのは、なにか実のなるものがいいという実利的な母の考えで、書き、梅、イチジク、トマト、サヤエンドウ、ナス、イチゴなどが、ごたごたと植えられた。門は、大きな生木を買ってきて、これを縦に割り、皮のついたほうを外側に向けて、左右二つを埋め込んで代用した。扉はなしで、それでも外から見ると、一軒風雅な感じであった。時期がくると、この門柱から、キノコがにょきにょき生えたもので、八百屋の小僧さんが、「これは食えますよ。毒はありません」と教えてくれた。が、けっきょくこのキノコだけは、だれも食べなかった。この、はじめての自分の家は、私たちにとって、まったくすばらしい家だった。
そのころの私は、いたずらばかりする反面、やせていて病気がちの子だった。(略)母が心配して、たぶんアメリカにいる父の指示だと思うが、横須賀の海軍病院へ私を連れていき、伊蜜検査を受けたとがある。(略)こんな私の健康のために、父は、鎌倉に住むことをたいへ喜んでいた。それは、母へのよりの中で、しばしばふれており、また二年後に帰国してからも、自分の通勤の不便をしのんで、鎌倉に長くとどまっていたのである。』
五十六が渡した金で礼子が勝手に土地を買ってしまった、五十六は材木座の家を不満気に思っていた、と阿川が『伝聞』で書いていることとはまったく違う。
海軍次官時代、官舎で五十六が女中と二人暮らしで、女中の入った後の風呂に入るというのは新聞記者の間で有名だった、というのも阿川の悪意である。五十六は家族と一緒に住んでいたし、風呂の残り湯の件も全然ニュアンスが違う。五十六の帰宅が再々深夜に及ぶので、先に風呂に入って十時前には就寝するようにという配慮である。
義正氏前掲書の続き
『私たち一家が、霊南坂の官舎へ引っ越したのは、昭和十一年の暮れも押しつまったころである。この年の十二月一日、海軍航空本部長であった父が、海軍次官に就任したからである。
はじめて見る官舎は、とほうもなく大きくて、広かった。青山の自宅にいたころは、置くところにも困った家財道具が、官舎に運ばれると、いったいどこへはいったのかと思うほどだった。
夕方、父が役所から帰ってきた。送ってきた車を帰したあと、父は、官舎の部屋をひとつひとつ見てまわりはじめた。つぎつぎに部屋のスイッチを入れてゆき、そのたびに広い館の部屋が明るくなった。全部の部屋を見おわったとき、樹林にかこまれた暗闇の中で、建物全体が、明々と光に満ちたのである。
「おれの家は太平洋。家の大きさや、ちっぽけな庭なんか、どうだっていいよ」と来客に笑って話していた父を覚えている。しかし、その夜、どこもしこも広びろとしていて、明るく電灯のともった家を、庭から眺めながら、父の顔はやはりうれしそうだった。
母にしてみれば、この広い家は、いろいろな意味でたいへんだった。まず掃除、これはとうてい母ひとりの手に負えなかった。大型の電気掃除機があったが、それを操作するために海軍省から掃除の小母さんが派遣されてくる。母は恐縮して、たびたびの掃除をことわっていた。それでも、週に一度ぐらいは小母さんが電気掃除機で掃除に来ていた。
ただ、自宅とちがって、官舎には多少なりとも公的な来客や仕事もあり、母だけは、帯をとくひまもないほどきりきり舞いをさせられたらしい。政府や海軍関係の来客、あるいは新聞記者などの訪問も、毎日のようであったと記憶している。しかし、母は、「忙しかったけど、やはり霊南坂がいちばん楽しかった」と、いまも語っている。』
阿川のいう『官舎に女中と二人住まいで云々』と比べると、多少の違いどこではない。阿川は戯作者なのである。阿川は会津には行かなかったが、長岡には反町栄一からネタを仕入れるために出かけている。そして長岡での五十六の言動をパクって、五十六が合千代子との逢瀬に泊まった宿の宿帳に『山本長陵 職業船乗』と書いたかもしれないないと書いている。こういう阿川弘之の『山本五十六』を、なぜに世の作家連中は史実として引用するのか。阿川の本書のカバーの前の折り返しには小泉信三が『みごとな伝記』、後ろの折り返しには大宅壮一が『大きな記録的価値』、と題して絶賛の言葉を寄せている。小泉信三は成りすまし天皇家のために、生き残り戦略を考案した人物である。『みごとな伝記』というのは、本音だろう。大宅壮一は、『日本人一億総白痴化』を唱えたことで有名な評論家であるが、一億の勘定の中に自分を入れてないのだろうか。
では阿川の『みごとな伝記』『大きな記録的価値』と、工藤美代子の聞き取りを比較対照してみよう。工藤の関係者に食い込んで取材する才能は、大したものである。成りすまし天皇家の嫁っ子たちにも直かにインタビューして、姑・貞明皇后との私的にわたることまで聞き取っている。この分野おいては工藤の独壇場である。
○礼子の出自について
阿川弘之の『みごとな伝記』『大きな記録』より
『山本夫人の里は、会津若松の、農家を兼ねた牛乳屋で、父三橋康守、母亀久の、禮は三女であった。』
工藤美代子『山本五十六の生涯 海燃ゆ』より
『三橋家は現在でも会津若松の名家として知られている。礼子の父、三橋康守は安政六年に会津藩士として生まれた。戊辰戦争のときは、わずか九歳だった。今ではあまりにも有名になった白虎隊は十五歳からしか参加できなかった。そこで康守は燃焼の子供たちだけを集めて隊を作り、出陣した。明治維新の後、康守は上京し山川健次郎の家へ寄宿して学校へ通った。山川家に寄宿しながら苦学しえ司法官となった。裁判官として康守は日本各地を転々とした。後一年勤めれば恩給が尽くと言う時に、何を思ったか康守は仕事を辞めた。山川健次郎に頼み東京大学農学部の教授を紹介してもらい、牧畜の研究を始めた。康守には気宇壮大な計画があった。新天地を開拓して牧場を作りたかったのである。明治四十二年、五十歳になったのを機に、康守は牧場経営へと乗り出していった。まずは若松氏の郊外に牧場を開き、これを成功させると大正元年に単身朝鮮に渡った。そもそもはブラジルに行き開墾をする夢があったのだが、あまりに遠いため朝鮮にしたのだという。康守の発想は明治末から大正の時代にしては、おそろしく斬新だった。アメリカから牛を輸入し、農家に貸し付けて牛乳を集め、それを殺菌して卸し売りをするといった新しい商法を考え出した。また、北海道から種芋を取り寄せて、農場でじゃが芋を栽培した。三橋のじゃが芋は出来が良いと評判になった。当時としては珍しいトマトも、もうこの頃から栽培していた。康守が米沢へ一歩足を踏み入れると、牛の値段が上がると噂されるほど、牧畜に関しては目利きだった。その三女である礼子は会津高等女学校を卒業した後、自宅で家事の手伝いをしていた。』
○見合い話から成婚にいたる経緯
阿川弘之
『結婚の事情を詳しく見ると、其の点、山本も勝手であった。(略)堀悌吉から話が出て、東山で見合いをした前後、彼が長岡の実兄に宛てた手紙の中には、(略)まるで身体頑健で、大抵の困苦に堪えそうなところだけが禮子の取り得で、専らそれが気に入ったような言い方をしている。(略)堀悌吉は、どこから此の縁談を持って来たかというと、前述の通り、禮子の母親の三橋亀久は、山下源太郎と従兄妹である。山下源太郎夫人と、四竈孝輔夫人とは姉妹である。(略)堀は此の四竈と親しくしていた。話は、四竈から堀悌吉に行き、堀から山本に伝えられた。最も親しい友人の堀が持って来てくれた縁談だからというので、山本は最初に心を動かしたらしい節がある。』
工藤美代子
『と阿川はかく。しかし、これは全くの間違いだと指摘するのは五十六の長男、山本義正氏である。実際の月下氷人はもっと身近にいたのである。(略)三橋礼子のいとこにあたる水野礼司という人が帝大附属病院の医者をしていて、婦長だった京(注 高野京 五十六の姪だが、密かに五十六に慕情を抱いている)と親しかった。その関係で水野は五十六とも友人になった。独身の五十六は、「嫁さんもらってもいいな。ただし、別嬪で、体格のよい、気立ての優しいのがいいなあ」と話したという。それを聞いて、水野が礼子のことをさっそく紹介したのだった。もともと三橋家は美人系で、六人いる娘たちはそろって器量良しだった。(略)「あなたがもらわないのなら、僕がもらうことになるよ」と冗談めかしていったりしたくらいだから、水野も礼子を気に入っていたのだろう。礼子の写真を見せられた五十六は、あまりに美しいのですっかり乗り気になってしまった。よし「これに決めた」といった。もう見合いをする前から、五十六は礼子の写真に一目惚れをしてしまったのである。(略)形式的に仲人としては四竈孝輔が立てられた。三橋家に山本少佐の写真と経歴、それに山本自らが自分の欠点を赤裸々に書いた七枚の手紙が届けられた。その手紙は公開されていないのだが、自分は御奉公のため世の常の人のように妻子をかまっていられないと思うが、その点よく承知してほしいということと、公務に関しては絶対に口を出さないことをしかと心得てもらいたいという二点が書かれていたという。読みようによってはずいぶんと厳しい内容である。しかし、この手紙を読んだ礼子の妹は、「お姉様、この方はやさしい方ですね。私はこんなやさしいお手紙はもらったことがありません」といった。礼子も同じ気持ちだった。自分の思いを正直に打ち明けるのは勇気がある証拠だ。そして相手への配慮がるからこそ初めにきちんと夫婦間の約束を告げてきた。(略)お互いに写真ろ履歴書を交換して、すっかり心は決まったので、いよいよ五十六と礼子は見合いをする運びとなった。(略)この見合いの席で、五十六はわざわざ上半身の衣を脱いで、戦傷や手術の跡があるのを見せ、「こんな身体だが良いか」と尋ねたと伝えられる。(略)五十六はいつも礼子の写真を大事に懐に入れていた。あるとき、それを京に見つけられてしまうと、「懐に入れて風をひかないようにしているのさ」と、照れくさそうに弁解した。後に京が義正氏に語った話である。』
○礼子の手蹟
阿川弘之
『字などはこれまた極めて達筆の男まさりで、非常に太っ腹のところもあったらしい。』
工藤美代子
『亀久は見事な筆跡で字を書いたといわれるが、それは礼子も同じだった。一説によると、礼子の書を見て五十六はまず惚れ込んだのだという。』
礼子の書は山本元帥景仰会が発行した『山本五十六の「覚悟」』の中に写真が掲載されている。これを見て『男まさり』『非常に太っ腹』と感じる人は、おそらく阿川だけだろう。
○礼子の嫁ぶり
阿川弘之
『ある時、禮子の母親の亀久が、会津から出て来て、「五十六さん、あなたは大変な立身をなすったが、娘が相変わらずで、さぞお困りでしょう」と、愚痴だか皮肉だかを言ってかきくどくと、山本は、これを読んで下さいと、紙に、「見る人の心々にまかせおきて雲井にすめる秋の夜の月」という和歌を一首書いて渡したそうである。』
事実無根である。
工藤美代子
『「お母様がお父様をずっと長岡から東京まであおぎ続けたというのは本当ですか?」「ええ、本当だと思います」義正氏は静かな声で答えた。「母はたくさんいる兄弟、姉妹の中で一番辛抱強い性格でしたからね」(略)もともと五十六は恩師や親族などを経済的に援助することをいとわぬ性格だった。(略)月給が全額手渡されることは絶対にないわけである。薄給の中から山本家や河野家の親類に送金し、長岡社にも寄付をする。やっと生活できるだけの金額しか残らなかった。(略)少ない給料でも家を守っていくことが礼子に課せられた義務であり約束だったのである。』
阿川が一言のもとに斬って捨てた材木座の家についても、工藤は細部まで聞き取りをしている。
工藤美代子前掲書
『(略)つまり、礼子はいつも家計のやりくりをしなければならない。ところが、夫はアメリカに赴任した。その間は日本の家族のために支給される給料がある。それを貯金すれば、家が建てられるかもしれないと考えたのである。貧乏生活に慣れている礼子にしれみれば、余った給料で贅沢をするなどとは思いもよらなかった。むしろ、爪に火をともすようにして、それらのお金を蓄えて、鎌倉に土地を買った。
さて、礼子は鎌倉の材木座の一角で、滑川に沿ったところに、変形になった土地を見つけた。入り口が狭くて、そこから入ると中の地形も四角ではない。そのため相場よりずっと安く土地を手に入れることができた。
まず材木は、日本産のものは高いので、米材と呼ばれる外国産の木を使った。設計図はすべて自分で引いた。(略)たとえば押し入れは、二部屋の間に作り、両方から引き戸をつけて中のものを取り出せるようにした。また台所と茶の間の真ん中に棚を作り、台所で作った料理をその棚に載せ、茶の間から受け取れるようにした。(略)部屋と部屋の間に半畳ほどの板敷を作り、そこを通れば、他の部屋に足を踏み入れないないでどの部屋にも行けるように設計した。各部屋に電気用品用の差込口をつけたのも、当時としては斬新だった。
部屋の隅に小さな四角い切り口を作り、戸をつけた。掃除をしたゴミはその戸口から外へ掃き出した。その先にみかん箱が置いてあり、ゴミが溜まると処理した。家を建てると、どうしても屋根裏が無駄になる。そこで、三角屋根にして屋根裏部屋を作ろうと礼子は思いついた。そのため屋根は軽くする必要があるので、昭和初期には珍しいスレートを使用した。(略)階段は周り階段にして幅を広くとり、なだらかな傾斜で、子供が怪我をしないよう気を配った。まさに礼子の創意工夫に満ちた家だった。
礼子にはこういう才能があり、ペンキ塗りなど男のする仕事もやすやすとこなした。家が出来上がったとき、もう礼子には門柱を作る金がなかった。それで近所から生木を買ってきて、それを真っ二つに切って代用した。(略)そんな状態なので、庭も、もちろん手造りだった。今から考えると「たべられるものばかり植えました」と義正氏はいう。
「お金がかからない生活をする」ということで、雑誌「主婦の友」などの付録を見て勉強し、編物は独学でマスターした。その他、洋裁、和裁もできたので、子供たちや自分の服はすべて手製だった。義正氏の瞼に焼きついているのは、暇さえあれば身体を動かし、手を動かして働いている母の姿だった。家にはオーブンもあり、礼子は新しい料理にも挑戦してみた。また、圧力釜を買って、玄米を炊き、魚の骨まで調理した。
「母は家族の病気もほとんど自分で治したのですよ」と義正氏はいう。子どもだったのではっきりと覚えてはいないが、「完全看護の秘訣」と言ったような題の赤い表紙がついた分厚い本を克明に読んでいた。そして、一家の誰かが病気になると、素早く手当をしてくれた。その手当は、まさに万全だった。まず見立てが確かなのである。この子は腸チフスだとか肺炎だとかいうことをすぐに見抜いて、自宅で治せるかどうかを判断する。ただちに病院へ連れて行くこともあったが、たいがいは自分で手当てをした。
「母のお陰で父もずいぶん助かったのです」とは義正氏の回想だ。もともと五十六は呼吸器系統が弱かった。五十六が風をひいたときの礼子の看護の仕方は完璧だったという。絶対に安静にさせて、吸入器をかけた湿布をする。「部屋にね、蚊帳を吊るのです。そして火鉢を置いてやかんをかけて湯気を立てます。それから練り辛子を塗った湿布を胸につけます。五分くらいピリピリ痛いのですが、それを何べんも繰り返したのです」そのお陰で五十六が長患いをすることはまずなかった。
いずれにせよ、礼子が無理をしてまで鎌倉の家を建てたのは、子供たちの健康のためだった。義正氏は自著の中で「この、はじめての自分の家は、私たちにとって、まったくすばらしい家だった」と書いている。(略)のびのびと育つ留守宅の子供たちに、五十六はアメリカからクリスマスカードや手紙を送っている。』
○妻子に対する五十六の態度
阿川弘之
『一体、今までたくさん世に出た山本五十六の伝記のどれをあたってみても、彼が部下や、郷士の人人や、兄姉甥姪に対して、親身によくつくした話はいくらでも出て来るが、妻に対しても同様情が厚かった事を証するような記述は、ほとんど見出すことができない。(略)部下のある人々にとって、敬愛措く能わざる上官であったようには、彼は妻に対してよき夫ではなかったし、子供たちにも、あまりよき父親ではなかったように見える。』
工藤美代子
『五十六と礼子の最も大きな共通点は、二人とも、人一倍子煩悩であったところだ。礼子は、いわゆる口うるさい母親ではなかった。逆におっとりしたやさしい母親で、子供たちのいたずらにも、あまり怒ることはなかった。(略)五十六は五十六で、子供たちとたわむれるのが大好きだった。家にいるときは必ず子供たちと一緒に風呂に入った。
礼子は五十六と二人のときは「あなた」と呼び「お父さん」とは言わなかった。子供たちに対しては、夫を「パパちゃん」と呼んだ。
また五十六は実に小まめに礼子の親類ともつきあった。(略)礼子の兄弟姉妹は九人もいた。その配偶者たちも含めた家族ぐるみの往来を、五十六は全く厭わぬどころか、楽しんでいるふうだった。義正氏は両親が夫婦喧嘩をしているところを見た覚えがなかった。
ある意味ではサービス精神が旺盛な五十六だったが、こと自分の家族となると話は全く別だった。家族を人前に出すのを五十六は極端に嫌った。長男の義正氏が今でもはっきりと記憶している光景がある。それは五十六がロンドンから久しぶりに青山の家へ帰って来たときのことだった。会議の結果がうまくいかなかったと、家族はなんとなく察知していた。五十六の表情もすぐれなかった。しかし、そんな事情にはおかまいなく、どっと新聞記者たちが山本家に押しかけて来た。家の中に入って来て、家族との写真を撮らせてほしいと口々に叫んだ。そのとき、五十六がすっくと立ち上がり大声で一喝した。「君たちは家庭には来ないでくれ」そして、玄関の前に一人で立つと、好きなだけ写真を撮れといった。しかし、家族の写真は絶対に許可しないと毅然とした態度で伝えた。(略)ロンドン軍縮会議から帰国した五十六は、めっきり白髪が増えていたという。
ロンドン軍縮会議から帰った五十六は、礼子の身内の者それぞれに珍しい外国のお土産を用意していた。末子さんもコテイのおしろいや口紅をもらって嬉しかったという。「でもねえ、姉にはもう、そりゃあ沢山お土産を買ってきました。お化粧品ばかりじゃなくて、姉は洋裁も上手だったので、向こうでわざわざ姉の好きそうな柄の布地を選んで持って帰ってくれたんです。もちろん、姉も喜んでいました。」末子さんは昨日のことのように、昭和十年当時を語る。礼子の姉妹が集まると、よくそれぞれの夫も悪口が出る。ところが礼子だけは絶対に夫の悪口をいわなかった。いつでもおだやかで控えめにしているのが礼子であり、それは阿川の「山本五十六」に登場する礼子像とは全く違う姿だった。「なぜ、あんなふうに書かれたのか不思議だと末子さんはいう。
「あの関東大震災のときね、義兄は出張でロンドンに行っていたのです。その義兄に姉はすぐに電報を打ちました。この大地震の後は必ずケーブルがダメになって電報が打てなくなるから、今のうちにといって、もう地震の直後に電報を打ちに行ったんです。(略)義兄は、はやばやと姉から無事だという電報をもらっていましたから、安心していられたんですね。」』
この件について阿川は次のように書いている。
『また此の年、彼がロンドン滞在中に、関東大震災の報が届いた。ロンドン在留の日本人一同、大いに驚き騒ぐ中で、山本は、実業家連中に向かって、「大丈夫だよ。日本は必ず、前以上に復興するよ。今のうちに、東株でも買占めておけばいい。」などと言って、泰然自若としていたという。泰然自若はいいが、彼は一体、国に置いて来た妻の禮子と、生まれた十一か月の長男義正の身の上は案じたのか案じなかったのか、家族の無事はそれとも、早く電報で分かっていたのか、そのへんのところは、どうもあまりはっきりしない。』
全文、五十六に対する冒涜である。五十六は航空兵が練習中に行方不明になると、真っ青な顔をして一晩中心配する。着艦が下手な航空兵が海にドッポンしそうになると、一人で飛びかかって止めようとする。関東大震災が起きても、「大丈夫だよ、東株でも買占めておけばいい」などと言って泰然自若として・・・そんな訳ないだろうが。妻子の『身の上は案じたのか案じなかったのか』とは何という言いぐさだろう。こんな雑駁な神経の持ち主である阿川を、『記録的価値が大きい』などと持ち上げる大宅の神経も相当なものだ。
しかし阿川のいい加減さを実証している当の工藤美代子も、阿川の河合千代子ネタをガセだとは思わないのである。工藤美代子は不思議な作家である。
阿川弘之『山本五十六』より
『千代子は、あでやかで、頭もよく、字も上手であった。しかし、前に書いた通り、なにぶん新橋の名妓というわけではない。名古屋にいた頃から先の素性も、あまりはっきりはしない。せっかくあてがった旦那から、金が素通りして山本のところへ行くのだから、土地の女将連中は、決してよくは言わない。真偽とりまぜて、色々悪い評判がある。そういう女性に、山本五十六が、五十を過ぎて、どうしてそれ程まで夢中になってしまったのかと言えば、結局は、彼が家庭で求めて得られなかったものを、梅龍の千代子のうちにさぐりあてたからと解釈するより他はあるまい。』
再び週刊朝日の暴露記事の続きに戻る。
『さらにこんな短歌も、小さい紙片に書かれて同封されていた。「大ろかに吾し思わばかくばかり妹が夢のみ夜毎に見むや」』
短冊の写真が掲載されている。地方図書館でも閉架を併設している所であれば、昭和初期の週刊朝日のバックナンバーは保存してあるので、探してご覧になられたい。『毎夜』の傍らに『ヨゴト』とルビが振られたり、『大ろかに』の側にカッコして(ナミ大テイニ)という言葉の注釈が書いてあり、万葉集の歌から取ったものと言われている。
週刊朝日の続き。
『戦死の公報 大本営発表(昭和十八年五月二十一日十五時)連合艦隊司令長官山本五十六ハ本年四月(十八日)前線ニオイテ全般作戦指導中敵ト交戦飛行機上ニテ壮烈ナル戦死ヲ遂ゲタリ。 時に六十歳。千代子は、この悲報を、発表前日、知ったが、日記には次のように書き記している。 五月二十日 いつも見る堀さん(元浦賀ドッグ社長、元帥と同期生)の顔が、今朝は何となくこわばった色にさえなく、私もただ胸のひきしまる感を覚えつつ承る。その言葉、「突然に意外にもこの悲しきお知らせを・・・・」山本五十六戦死とは。ただ茫然として切なく力なく、堀氏の顔さえ見上げる術さえ知らず。すべては終わりぬ。武人の死とは私には限りなき淋しさの極みのみなり。 五月二十一日 心の準備なれるはずなりしも、少しも落ち着かず。午後三時のニュースをいま一度耳にして確かなるやをただしたく。堀氏の言葉信ぜざりしか?信じたくなし。浅ましき女心よ。 五月二十二日 心の動揺激しく依然として落ち着かず。浮世に何事も絶えし心地ぞする。 五月二十三日 無言の凱旋とか。悲しさに耐えこらえて今日の日を待ちぬ。されど表に迎える勇気もなし。みな、「お迎えに」と電車通りへ走りいでしあと、のこされし千枝(女中)としずかに二回の窓一ぱいに引きあけて、 五月二十四日 今日は一般焼香の許されることとて水光社に歩む。このとき、わが手足はつめたく、感じさえなきようなりしも、安置された英霊の前に額づきぬ。夜、渡辺中佐(参謀)訪問。・・・許される範囲の事、いろいろと話し聞かされしも、語られる君の顔のいとも青く沈みたりき。遺骨捧げし中佐殿には、神谷町あたり通過の折には、心もいたく知らず知らずのうちに遺骨の小箱を高々と捧げられし、と語れる君の心中いかばかりかと。 六月一日 悲しさも落ち着かぬわが胸に、また悲しさはめぐり来し。亡き君が心からなるあの懐かしのお便りを、堀氏来訪とともに残らずもちゆかれたり。 六月五日 国葬。限りなき悲しみの中に静かに更けてゆく今宵。おくやみ孟子あげるこの心に一生涯の最も悲しい記憶として、今宵は永劫に刻みつけられましょう。 六月三十日 六月も悲しみの中に終わりぬ。あくまでも世の誤解と冷遇と闘わねばなりません。魂よ魂よどこへもゆかずここにきて、千代はどこへもゆかずここにおりますと、窓辺によりて呼び入れぬ。声なきいとしの人は一年ぶりにて、わが許に参られしか。さぞやおつかれなされしを・・・・・』
河合千代子と渡辺安次は男女関係にある。千代子は金にならない客とは寝ない主義であるが、渡辺安次とは保身のために寝たのである。借金のかたに妾にされ、身を持ち崩して以来、身を守るものは金だけなのだ。千代子に30年以上付き添った女性の証言によると、夫になった後藤銀作は嫉妬深くて千代子を束縛したが、一方では五十六グッズを持ち出しては商売に利用していたという。後藤銀作にとって『元帥の元愛人』という触れ込みの千代子を妻にすることは、戦利品を獲るような意味合いがあったのだろうか。望月氏が取材した晩年の千代子は、五十六との関係妄想だけを支えに生きている状態にあった。それは千代子にとって唯一のプライドだったのだろう。千代子がなぜ死んだ人間のストーカーになったかを考える時、私はそう思う。だから故人のストーカーになった千代子の沼津時代の顔は、新橋時代よりも落ちついた人相をしている。
渡辺安次は五十六暗殺を事前に知っていて、見殺しにした張本人である。彼は戦務参謀でありながら五十六のブイン視察について行かず、先任参謀の黒島亀人と共にラバウルの基地に残っている。もちろん黒島もシナリオを知っている。長官機には航空戦の神様といわれた若き天才樋端久理雄(といばなくりお)も同席する。三和義勇の代わりに連合艦隊航空甲参謀になっていた樋端は、五十六と一石二鳥で始末されたのである。私が渡辺安次の正体が見抜けずにいたころ、彼が戦後になって米軍の調査に協力した折、五十六暗殺の真相について逆に米軍に誰何したことを以て、渡辺の無実の根拠として書いた。しかしこれは渡辺のクサい芝居であった。不明をお詫びして撤回したい。
阿川はこの渡辺安次にも取材している。
『新版 山本五十六』より
『聯合艦隊参謀の中で、山本に最も目をかけられ、山本が戦死した時その遺骨の収容にいった渡辺安次は、山本にすべてを託して安らかにという意味で地震「安山」という俳号をつけているほど彼に私淑した人で、「山本さんに女があったというなら、私などは五十人ぐらい女があった」と言って彼をかばうが、それは、渡辺安次に「五十人」女があった計算程度には、山本にも女関係があったということである。』
阿川の詭弁である。渡辺安次は、自分に「五十人」女がいることはあり得ないと言う意味で、この「五十人」を使っている。渡辺安次に「五十人」も女がいることはあり得ない、それと同じくらい五十六の女関係もあり得ないと言わんがための例えなのである。渡辺安次は殊勝にも真実を話している。
週刊朝日続き
『“誤解と冷遇”に耐えて 「世の誤解と冷遇」とは何であったか?国葬直前の六月四日、過去十年、一尺四方の高さにまでなった元帥から千代子あての手紙のうち、昭和十六年以降の部分が、堀氏の手を通じて海軍省へ持ち去られたのである。のちに一年ほどたって、この手紙は再び堀氏の手で千代子の手にかえされたが、「全部焼却するよう」という海軍省の命令が言い渡された。彼女はとりわけ思い出深い十九通を残して、マッチをすったのだった。紫色の煙と真赤な焔はいまだに、彼女の眼裏にやきついている。
この国葬前後の迫害はそれだけではなかった。ある軍人は、海軍省へ彼女を呼びつけて、「国葬までに自決されたい」といい渡し、彼女を知る軍人のある者も、暗にそれをすすめた。軍神のかげに女があっては困るというのである。彼女自身、元帥の死報を耳にしてから、何度か自殺を思いたっている。愛する人への強い思慕からであった。夜中に鴨居を見つめたまま、寝床の中で一睡もせぬこともあった。知人の医者から薬を手に入れようとしたが、失敗した。』
手紙を取り上げておいてからまた返却し、「全部焼却するよう」と命令する間抜けがいるだろうか。五十六の恋文が本物で、それを海軍省が取り上げたのが本当なら、この週刊朝日に暴露したような機密情報が書かれている恋文などは、その場で直ちに焼却しているだろう。また千代子は焼かないで残した五十六の手紙の数について、週刊朝日では『彼女はとりわけ思い出深い十九通を残して、マッチをすったのだった』となっているが、望月良夫氏には全く違う証言している。
望月良夫前掲書より
『またあるときは、自決を迫られる話をしてくれた。「自決しろ!」と
五十六が戦死したその日か翌日、軍務局長を含む三、四人の海軍省の軍人が
来て、元帥にあなたのような女がいると恥辱だからすぐ自決してくれ、と言わ
れた。しかし、三十九歳の若さではとても死ねなかった(五十六の戦死は五月
十一日の大本営発表で一般国民に知られた)。その後しばらくして海軍省から、
元帥から来た手紙を全部提出せよ、命令に従わないなら家宅捜索をして取り上
げる、という通達が来た。仕方なしに、五、六通を隠し、六十通ほどの来信を
提出した。』
昭和十六年以降の五十六の手紙は、堀悌吉が海軍省に持ち去り、一年後にまた堀の手を通じて「全部焼却せよ」という命令と共に返された。千代子はその中から十九通残して焼却した→海軍省から提出命令が来たので、千代子は五、六通を隠して六十通を提出した・・・・全然違う話である。
軍務局長が自宅まで来て愛人に自決を迫ったというが、軍神に愛人がいても別にかまわないではないか。軍務局長は海軍省の各局の中で最も重要なポストで多忙を極めているから、そんな酔狂なことに割くヒマはないだろう。それとも軍務局長というのは、元軍務局長の堀悌吉のことを指しているのだろうか。何でもかんでも堀にお鉢を回せば済むと思っているのだろうか。また『医者から薬を手に入れようとしたが、失敗した』というが、夜中に一睡もせず見つめた鴨居で首を吊れば済む話である。海軍省が自決を迫ったというのも、恋文の焼却命令と同じ作り話である。千代子の存在が本当に邪魔なら、秘密裡に始末している。彼らは五十六のみならず、南雲も三和義勇も朝倉隆も殺害しているのだ。
週刊朝日続き
『悶々の日々に明けくれていた彼女は、昭和十九年三月、神谷町の自宅を、元帥の旧部下渡辺参謀に貸して、沼津市静裏の保養館に疎開していった。ここは、東京の地主、故清水栄三氏の別邸で、一部、海軍の施設に利用されていた。清水家の仕事を手伝ったりしながら、終戦を迎えたが、平安な途は残らなかった。』
海軍省に自決を迫られた河合千代子が、海軍の施設に利用されている保養館に疎開するというのは矛盾している。静浦の手前に牛臥(うしぶせ)という風光明媚な海岸沿いの村があり、沼津御用邸があった。貞明皇后はこの御用邸に滞在中、暗殺されている。後に河合千代子はその沼津御用邸のそばで、料亭を経営する。
週刊朝日続き
『ペンを持つことが好きだった彼女も、戦後は、日記を綴る意欲さえ起らなかった。ただ、強く生きることだけ。幸い、温暖な気候のせいで身体が回復したので、東京時代に蓄えた資産で沼津市内に料亭を建築するとともに、夫婦養子をとり、昭和二十五年からささやかに営業を続けているのである。「山本さんが、ああして戦死なさったのも、仕合わせだったかもしれません。生きのびて、戦犯として処刑されることなどを考えましたならば・・・・・私は悲しみません。ただ、心の恋人として、山本さんの姿を胸に秘めて、強く生きてゆくばかりです」いま、彼女は、こう述懐する。そして、古い日記を涙にむせびながら、読み聞かせるのであった。』(以上、週刊朝日の記事終了)
この翌年、千代子は後藤銀作と結婚する。暴露記事を出したこの時期には、すでに後藤の想い人である。しかも千代子は以前から五十六との関係を吹聴していたので、近所では元帥の元愛人として知られていた。『心の恋人として、山本さんの姿を胸に秘めて、強く生きていくばかりです』も何も糞もないのである。
望月良夫氏の前掲書に寄せられた感想文より
『後藤千代子さんの思い出 熊倉弘二
(前略)私が同女にお目にかかったのは、昭和二十六、七年の頃です。八幡町の割烹“せせらぎ”で行われた沼津市内の酒屋の会合で同行した方から「ここの女将さんは新橋に出ていた名妓で、山本五十六元帥のお妾であった人ですよ」と密かに告げられ、山本元帥が名提督として戦中国民の畏敬を一身に集めていた当時の思い出もあって、どんなお人柄であろうと興味を持ったものの、かかわり合いなど聞くわけにもいかず、あでやかさを期待していたのとは裏腹に、どちらかといえば地味な清楚な感じの方という初印象でした。
二十七年夏、沼津税務署の関税課長から、名古屋国税局へ転任することとなり、“せせらぎ”で催された送別会に出席、同女とはとおり一辺の挨拶をして去ったのですが、妻子を伴って名古屋に赴任してみると、すでに発送した筈の引っ越し荷物がまだ届いておらず、沼津の運送屋に問い合わせの電話を掛けたところ、どう間違ったのかその電話がせせらぎ荘に繋がり、千代子さんが電話口に出られました。「それはお困りでしょう。私が運送屋さんのほうに連絡してあげますよ」、そんなことでいろいろご親切な手配をして頂き、それから一か月余り経って沼津に出張したさい、“せせらぎ荘”にお礼の挨拶に参上、同女と初めて話す機会を得ました。
お茶を頂きながら、「あの人(元帥のこと)は、困るとよく逆立ちしていましたよ」「熊倉さん、いずれは中央の大きな舞台で活躍することが大切よ、何でも勉強し、努力していかれることが大切よ」、そんなとりとめもない会話でしたが、今でも鮮烈な印象として記憶にあります。(後略)』
阿川は週刊朝日に暴露記事が載る経緯について次のように書いている。
『新版 山本五十六』より
『しかし、山本五十六にこういう女がいたという事は、戦前戦中はもとより、戦後も約十年間一般にはまったく知られていなかった。それを素っ破抜いたのは、昭和二十九年四月十八日号の「週刊朝日」である。ある方面から、沼津八幡町の料亭「せせらぎ」の女将河合千代子という人が、昔、山本五十六の思われ人で、山本の恋文をたくさん持っており、それを公表する意志があるらしいという事を聞きこんで、「週刊朝日」の記者とカメラマンとは沼津へ彼女を訪ねていった。千代子は快く彼らを迎え、手紙の束を出して見せ、達筆すぎて若い記者には読めないところは、自分で声を出して読んで聞かせ、自分の境遇についても語って聞かせた。』
かつてワシントン・ポストの二人の若手敏腕記者が、ウオーターゲート事件を素っ破抜いて大スクープを上げたヤラセを髣髴とする場面である。ワシントン・ポストはイルミナテイの身内組織である。ニクソンも連中の使い走りの小僧だが、金本位制を敢行しようとして失脚させられたのである。一方、ヤラセの立役者ボブ・ウッドワードは、ホワイトハウス関連のプロパガンダ本の大家になっていく。あれほどどうしょうもないジョージ・ブッシュを堂々と賞賛する稀有な才能を持っているのは、ウッドワードを措いて他にない。しかしウッドワードの人相がだんだんゾンビ化しているように見えるのは、私の錯覚だろうか。
『堀悌吉はこの時未だ健在で、発表の寸前にこれを知り、さる筋を通して、「出すのをやめてもらえないか」と朝日に差し止めを望んで来たが、新聞社の輪転機はもう廻りはじめたあとで、堀が、「まあ、嘘じゃないんだし、それじゃ仕方がないだろう」と言って、あきらめたという説もあり、実際は非常に憤慨していたという説もある。しかし少しのちになって気持ちが落ち着いてからは、「世間じゃ色々言うけど、結局山本はあれで一つ偉くなったじゃないか」と堀は言っていたそうである。』
堀悌吉をここまで虚仮にできる稀有な才能を持っているのは、阿川を措いて他にない。
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