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秀吉、名古屋市中村区を調べてて興味深い記事がありました。
これを読めば部落問題の本質がつかめる気がします。
東海アマのブログから
http://blogs.yahoo.co.jp/tokaiama/320276.html
http://blogs.yahoo.co.jp/tokaiama/331372.html
筆者は中学生の頃から社会問題に関心を抱き、さまざまな集会や催し物に顔を出し、高校でも社会科学研究会に所属して熱心に取り組んだ。高校一年頃から、ベトナム反戦デモに参加し、日中友好協会(正統本部)に出入りしたりしていた。
部落解放同盟や日朝友好協会などにも出向いたが、そこにいた人物の人相風体、雰囲気が非常に悪く、足が竦んでかかわる意欲を持てなかった。あの団体は、人間解放の目的ではなく利権目的であると、なんとなく分かったものだ。
社会問題に強い関心を抱いた大きな理由は、筆者の住む名古屋市中村区が問題の多い被差別地域だったからだ。
今でも、名古屋駅から徒歩10〜20分という絶好の条件でありながら、居住地として異様な不人気で、土地の値段も東部に比べて信じられないほど安いという背景は、歴史的な差別問題と切り離して考えるわけにはいかない。
といっても、その事情を詳しく知っている者はほとんどいないが、通った中学校では、ケンカをしたときの蔑称として「エタ」とか「四つ」という言葉が飛び交っていた。筆者も、よく「エタ」と罵られたものだ。
それが何を意味するか、当初はちんぷんかんぷんだったが、やがて、驚くほど深く激しい差別の歴史を知るようになり、部落問題というのは日本社会の根底で、物凄く大きな意味があるのではないか、と思うようになった。
江戸時代、社会の最底辺で残酷な弾圧処刑を行う権力への怒りを、直接処刑役を強要されていた「穢多」に向けることで、矛先がすり替えられる卑劣な支配体制が敷かれていた。
明治政府が徴兵・納税の平等のため身分差別を撤廃し、「平民解放令」が出てからも、民衆の心の底に淀んだ差別観念が消えることはなく、むしろ潜行して、ときに激しく燃え上がった。
政府は、こうした差別観念に対して、真正面から、その誤りを議論させるのではなく、ただ「見ざる、言わざる、聞かざる」の「臭いモノにフタ」という隠蔽政策をとった。
このことで部落問題は、逆に本質的解決が遠のいてしまい、人々の心の底に呪われた澱として残ることになった。
差別観念こそ、実は日本社会が分け隔てのない人情社会を見失い、「自分は選ばれた人間だ」という逆の選別意識を産み出し、社会の構造的悪化をもたらした本質であることに気づかねばならない。日本の学歴エリートへのおぞましい羨望は、実は、こうした差別意識が担保したものだったと誰が指摘してきただろうか?
今こそ、我々は差別の呪縛から解き放たれ、逆に、エリート意識、選抜主義の愚かさに気づくべき時代がやってきたと認識すべきである。
「優秀な人」など幻想にすぎず、実際には何の価値もないこと、「穢多・部落民」は差別されるべき何の理由も存在しないことを明確にすべきであり、これは真正面から隠さずに取り上げるべきなのである。
今の50歳以下の人たちで差別事情を知る人は少ない。すでに、かつてのような壬申戸籍や部落総監などは消え、ワープロの変換用語からさえ、穢多・非人・部落などの文字が消されているのが実情だ。ただ同和という言葉のなかに歴史的な片鱗が残されているわけだが、それすら意味を理解している人は少ないだろう。
だが、部落問題は隠され続けたが故に、解決したわけではなく、むしろ陰湿に潜行しているのが実情だ。また、地名や文化にまつわる負の遺産、事情を教えないことで、地域社会に対する民俗学的理解も異様な抑圧を受けているのである。
何があったのか?
例えば、筆者の子供時代、1970年頃までは、岡林信康の「チューリップのアップリケ」で歌われたような結婚の悲劇などはザラというより常識であって、その差別感覚は広く国民に浸透し、部落民とレッテルを貼られたなら、結婚はおろか、まともな就職さえできなかった。とりわけ役所・銀行・大企業は、出身地を調査し、それが部落総監に記載されているなら絶対に採用しなかった。
その差別が、どれほど広範で、深刻、激烈なものだったか、ほとんどの人が陰湿な差別を知らなくなった今こそ、再び陽光に晒すべきなのだ。
部落の地名なども隠蔽され、それを公開するならば激しい非難が浴びせられた。だが、それは間違っている。隠せば問題が解決するわけではない。潜行するだけなのである。その証拠に、最近、再び、2ちゃんなどでエタ呼ばわりが拡大している風潮がある。
また、大本・天理・黒住など江戸末期〜明治の近代宗教発祥地は、すべて峻烈な部落差別地域と重なっている。また創価学会も朝鮮籍の成田作によって巨大化した。今でも在日者の熱烈な信仰を集めている。これは、差別がどれほど人々の心に重い悲しみを与え、救いを求めていたかを示すものなのだ。
差別が現実の世界で解決されないものならば、人は心の世界で解決し、幻想や虚構に委ねようとする。差別を直視せず隠蔽している限り、人々の心の傷は永遠に癒えることはなく、いつまでも宗教や金儲け、権力など幻想の世界に逃避するしかないのである。
そして、差別の主役であったはずの権力世界にすら、深刻な影響を及ぼしている。
小泉純一郎は父親が在日朝鮮人であり、竹中平蔵・野中広努は部落民出身であった。こうした出身は、かつて絶対に上層部に行くことができなかった。だから能力のある者は外国に向かったのである。そして、都合よく権力を獲得すると、今度は被差別の怨念が、国家への復讐という形で現れたのかもしれない。
彼らの行ったことも差別の解決ではなく、金儲け思想への逃避であり、国民全体を金融幻想に巻き込み、日本国家そのものを破滅に追いやることになった。やはり心底では、自分たちをひどい目に遭わせた差別国家に復讐したかったにちがいない。
被差別地域の特徴は、地理的に好条件でありながら、高度経済成長期でさえなぜか開発が行われなかったという特徴がある。それは差別者が作った「部落地名総監」(帝国興信所)に記載されていたからだ。
江戸期に穢多部落が固定されたとき、為政者は風水上の理由から、城の南西に処刑場を設置した。だから基本的には、全国の主要な城の南西に深刻な差別地域が存在している。筆者の育った名古屋市中村区でも、城の四里南西であり、深刻な差別に溢れていた。
これまで隠されてきた事実に真正面から光をあてて直視することこそ解決への真の道程であると筆者は考える。隠蔽は百害あって一理なしだ。「部落であったことが分かれば土地の値段が下がる」という経済的理由での隠蔽が多かったが、これも決して隠しおおせるものではなく、逆に風評を深刻化させるだけなのである。
学区に大門という旧赤線歓楽街を抱えていた小・中学では、部落問題よりもヤクザ問題の方がはるかに深刻で、被差別問題が話題になることは、それほど多くなかった。
しかし、区内にある烏森(カラスの舞う森→処刑場)・万場(ヨロズ場→死体処理)・八田(毛皮を張る田→肉加工)という地名から分かるように、中村区周辺に被差別の深刻な歴史が隠されていた。おおむね食肉・毛皮加工業者の集まる地域は関係が深い。
名古屋周辺では、甚目寺町が尾張藩最大の未解放集落で、筆者の育った中村区の他、千種区王子地区(市営団地になった)や、牧野・笹島地区などがあった。ここでは主に牛馬解体・毛皮・馬具・皮革・肥料製造が行われていた。
この地域の宗派は曹同宗が多く、部落民の檀家には戒名に獣の字を入れるという悪質な差別行為を続けてきた。(牛捕院乳起信士のように)筆者の姉が曹同宗の古刹に嫁入りしているが、禅宗は、元々、武家の帰依が多いことから差別意識の非常に強い伝統があるようだ。
筆者の子供の頃、人を侮蔑する最大の表現が「四つ」であり、これは四足を意味し、すなわち江戸時代から牛馬解体などに携わった被差別部落民に対する最悪の蔑称である。未解放部落は動物・畜生に関連してイメージつけられていた。
こうした「四つ」という侮蔑用語について、中部圏に住む現在の40〜70歳の人たちにとって重く陰湿な記憶がある。80歳以上では徴兵制があったため、むしろ同情心が強い。
少し社会の本質を観察してきた人なら、差別の本質は、社会的な身分差別制度、階級分化によって、上から下への一方的な服従を強いられ、この屈辱感、悔しさを、上に対して反発できない人は、何の罪もない下の人たちに向けて憂さを晴らすというメカニズムに気づいているはずだ。
例えば、一家の父親が、会社で上司から理不尽なパワハラを受けて鬱憤を貯めて帰宅するとしよう。
父親は帰宅後、憤懣が収まらず、母親に向けて発散しようとする。従順な母親は、理不尽な夫の怒りを受け止めきれず、やはり不満を心に貯める。今度は、それを我が子に向けて発散しようとする。子供も、なんで母親が怒っているのか理解もできず、憤懣が募り、今度は飼犬に向けて当たり散らす。
飼犬も怒られた理由が分からずストレスを貯めて、今度はネコや別の犬や、生物に対して当たり散らすのである。こうして父親の憤懣が、家族や地域全体に拡大再生産されてゆくメカニズムが存在している。
部落差別の本質も、このメカニズムから一歩も外れることのない単純素朴なものだ。
かつて日本は激しい差別社会であった。おそらく、それは朝鮮百済王国の差別制度がそのまま日本に持ち込まれ、別の発展を遂げたものであろう。
支配階級が機能するためには、対極底辺に被差別階級が必要なのである。士農工商の身分差別では、農民の憤懣のやり場がないために、さらに、その下に穢多・非人階層を必要とした。処刑や汚穢処理を強要し、「汚れた人」というイメージを作り出し、権力に対する理不尽の怒りを彼らへの蔑視にすり替えていったのである。
しかし、それでは穢多部落民は、憤懣のやり場をどこに持ってゆけばよいのか?
それも、ちゃんと考えられていた。人でない非人たちには納税義務はなく、このため江戸時代、もっとも裕福な階層こそ穢多だったのだ。
全国穢多総差配であった弾左衛門屋敷は浅草〜吉原の広大な敷地にあり、内部における豪華さは将軍家以上とも謳われたものであり、そこには京都の貧乏公家から特級美女ばかりが買われてきていた。
また全国の被差別集落の名主たちの裕福さも目を見張るものであり、江戸期を通じて、もっとも貧しさから遠い階層であった。さらに、牛馬解体を一手に引き受け、鎌倉仏教による肉食禁止のタンパク質不足のなかで、唯一恵まれた供給源があった。
そして処刑業務委託から、実は凄腕の武人揃いだったともいわれる。今の大相撲理事長もそうだし、江戸末期の著名な剣豪も部落出身者が多い。有名なところでは近藤勇・沖田総司・斉藤弥九郎などだ。力道山や大山枡達も在日朝鮮人であった。
被差別者こそ、実はいつの時代、どの社会でも、もっとも強大な実力を備えるのである。
部落差別問題は、隠蔽された結果、潜行し、忘れ去られたかもしれないが、実はまったく解決されていない。思い出される機会があれば、必ず復活するのである。
だからこそ、2ちゃんで差別用語が飛び交い、軽薄な気分で人を侮蔑する風潮の拡大している現在、まさに真正面から取り組む必要が出てきていると考える。
差別システムこそは、国家権力の生命線である。「人の上に人を置けば、人の下に人を置かねばならない」のである。今の日本社会でも、かつて穢多だった被差別階層が、今度は犯罪者、オチこぼれ階層に代わってきている。
日本は、社会の底辺に新たな穢多階層を産み出そうとしているのであり、それは、学歴体制のオチこぼれであり、貧しい派遣労働者の階層なのである。
今、穢多非人の歴史を見つめることにより、これから、彼らが新たな穢多として固定してゆくメカニズムを指摘し、それを根底的に断固として阻止する必要がある。
次回は、被差別の歴史的経緯について書きたい
・・・・
近藤勇や沖田総司が部落民と書いたら、意義が出たが、実は筆者も確実な証拠があるわけでなく、状況証拠による推理である。
近藤の実家は調布飛行場内にあった宮川家だが、当時、飛行場などに接収される地域は容易な被差別集落が多かったことに加え、新撰組が奈良の被差別集落から剣士を公募していた事情があり、そうした人間関係を構築できたのは同じ出身だからと推理した。また後に大名を目指したコンプレックスの強さも傍証要素である。
沖田は、白河藩士の子だが、養子であって出自は定かでない。当時、出身がどうであれ、素養・素質があれば養子縁組という手段での身分転換が広く普及しており、わずか8歳で近藤の元に出される事情は、被差別民のような非常に軽い身分からの養子であったことを示すと考える。斉藤弥九郎も同じで氷見の仏生寺村(弥助)を調べれば分かる。
明確な証拠もなく断定的に書いたのは、筆者の問題であり軽薄であったかもしれない。以上訂正しておきたい。
日本の部落差別制度は、どのように成立したのか? 今では大きな謎だが、筆者は、朝鮮儒教における古代差別システムが百済王国の移住とともに、日本に持ち込まれたと推理している。
古代朝鮮において、儒教体制における、カーストにも類似した非常に苛酷な差別制度があったことが知られている。百済王国では16階級もあり、さらに、それぞれ細分化された地位があった。
秦の始皇帝の子孫を称する女真扶余族だったが、中華文明の影響を強烈に受けて、後に苛酷な形而上学を展開する李氏朝鮮の原型となる儒教的差別様式が、すでに完成していたと考えられ、科挙制度まであったことが、その証拠と考える。
百済王国が日本に移住したのは1600〜1400年ほど前と考えられ、蘇我氏が百済重臣であったことは、すでに歴史学会の定説であろう。高松塚はじめ、ほとんどの古代遺跡に百済文化様式が明瞭に見えている。
聖徳太子以降の天皇家、豪族支配下における民衆支配のシステムも、最初から明確な身分差別制度に貫かれている。ここでは長くなるので、興味があれば各自で調査されたい。
日本史における古代賤民の記述は、遣隋使あたりには明瞭で、生口という奴隷が中国に献上されたことが有名である。当時、権力を持たない大衆は生口・奴卑であり、家畜としての扱い以外のものではなかった。それは王〜太夫階級権力者の所有財産にすぎなかった。
部落差別制度の直接の創始は、おそらく大宝律令における賤民規定ではないかと考える研究者が多い。
賤民身分が固定し、権力とともに強固に構築されるメカニズムは、「人の上に人を作れば、人の下に人が作られる」という原理によるものだ。
すなわち、人の認識は「対立の統一」という思考法に規定されており、例えば、「明るい」という概念を理解するためには「暗い」という概念が同時に必要とされる。「光」は「闇」と共にでなければ決して認識されることはない。
この意味で、天皇など頂点に君臨する支配階級を認めるためには、社会の最底辺にいる賤民と同時にでなければ人は認識できない仕組みを持っている。このため、高貴な天皇を作り出すためには、同時に卑しい賤民をも作らなければならないのである。
最初に、「エライ人と卑しい人」概念の導入によって、人々は差別の存在を知る。そして、そのなかで自分の位置を表現しようするわけで、「自分がエライ人」であると認識するためには、自分の下に「卑しい人」を作り出す必要がある。
このメカニズムによって、差別階級はどんどん細分化されてゆく仕組みをもっており、とりわけ差別思想の大好きな儒教社会では階級細分化が進んだ。
例えば、李氏朝鮮にあっては、基本は良民・賤民の分化でありながら、やがて両班・中人・常民・賤民と分化し、さらに賤民だけで8種類と細分化されて、全部で30を超す身分差別体系が成立してゆく。
こうした差別思想は現代にも引き継がれていて、北朝鮮では現在54階級の差別体系が生きているとされる。ちなみに、やはり差別の大好きな特権階級クラブであるフリーメーソンでは33階級あり、上流階級になる気分も大変だと分かる。
このなかで、李氏差別体系のなかで現代にまで生きる白丁(ペクチョン)階級と、日本の穢多・非人階級の類似性が指摘されている。
いずれも社会の最底辺で、家畜解体・汚穢処理・皮革処理・処刑などに携わることを強要され、社会全体の憎しみを直接浴びる立場で、権力者を守る防波堤にさせられていた。
処刑を命令する両班・武家階級は、公開処刑において、民衆を直接殺す役割を白丁・穢多にしておくことで憎悪が彼らに向かうわけであり、怒りの矛先を直接浴びずにすむことになったわけで、権力維持の大切なシステムであったことがわかる。
例えば、1950年前後に、韓国政府が120万人の自国民を大量虐殺した保導連盟事件では、おそらく白丁階級が直接の殺害に当たらせられたことで、民衆の憎悪を浴びて政府批判の緩衝となった。白丁階級に対する差別意識は激化し、事実を明らかにすることもできず沈黙が続いたことで、この事件が闇に葬られる原因になったと考えられる。
江戸期から明治中期までは権力による処刑は基本的に見せしめのため公開されていて、その直接の殺害役を部落民が強要されていたという事実が、民衆の怒りの矛先を、どれほど部落民にすり替えさせ、歴史的な蔑視感情を醸成するのに役立ったか、誰にでも分かるはずだが、多くの人たちは理性よりも目先の感情に依存するものであり、このことにより、部落差別の恐ろしいほどに深刻な実態が形成されていったのである。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」
「ありゃー、ありゃー」と、犠牲者に槍を突き立てる穢多に対する憎悪は、凄まじい怨念として民衆の心の底に沈殿していった。このことで、穢多集落に対する偏見と憎悪が累積し、一切のコミュニケーションは閉ざされ、部落は陸の孤島となった。
そして、彼らの住む地域そのものに対する憎悪まで醸成されていった。それが「部落地名総鑑」という本になり、そこに掲載された地域は、例え、商業的価値がどれほど有利であろうと顧みられず、異様に安い値で取引されても、それでも住みたがる人は少ない。
筆者は、そうした土地で育った。その中心地では、歴史的に死弊家畜解体を穢多だけに許された事情から食肉文化が発展し、いつも美味しそうなホルモンの臭いが漂っていた。いっておくが、現在の超人気、焼肉ホルモン食文化は、まさしく被差別部落由来である。部落の人たちに感謝する気持ちがない者は、食べる資格などない。
関東では浅草に将軍家より豪華な弾左衛門屋敷があり、隅田川沿いに大規模な汚穢処理場が広がっていた。江戸住民の、あらゆる汚穢は、すべて現在の立石〜千住界隈の屎尿処理田に集められ、数年間も腐熟させて、素晴らしい肥料となり、江戸庶民の食生活を支えたのである。
被差別部落の果たした役割は、まさしく3K仕事(汚い、きつい、嫌われる)であり、民衆の忌み嫌う仕事を一手に引き受けて人々の生活を底辺で支え続けたのである。
その代償は、徹底的な差別であり侮蔑であった。だが、今、我々の生活で、ゴミ屎尿処理、肥料製造などの仕事を蔑視でもしようものなら、たちどころに凄まじい汚穢のなかに住むことになる。我々は、そうした仕事を引き受けてくれている人たちに、心から感謝の念を抱かねばならない。
それとともに、歴史的に庶民の生活を底辺で支え続けた未解放集落の人たちに対する評価を根底から改める必要がある。
今、我々が、ここに生きていられるのも、彼らの辛い仕事の積み重ねのおかげである。今こそ、穢多階級が、どれほど素晴らしい仕事を続けてくれたのか、民衆を文句も言わずに支えてくれたのか、心の底から感謝の気持ちをこめて問い直さねばならないのだ。
人間が生きている以上、ウンコも出す、人も家畜も死ぬ、ゴミもたまる、そうした汚い処理仕事から顔を背けるならば、たちどころに我々の生活は行き詰まり、ひどいことになる。
そんな人の嫌がる仕事を続けている人を蔑視するなど、とんでもない愚かな話であって、そんなヤツは、今後、クソ小便の始末も自分でやりやがれ、ゴミも自分で始末しろ! 人様の努力に世話になっておきながら、「四つ」とか蔑称をつけて差別するとはなにごとだ!
これまで、少しでも、そうした仕事を軽蔑した人は、たった今からでも、彼らに土下座して詫びよ!
ネットで検索すると、面白半分で、被差別集落について侮蔑感丸出しで書き込んでいるゴミ、阿呆が後を絶たないが、社会の最底辺の人たちこそ本当に社会を支えてくれる聖人なのだと理解できないクズであり馬鹿野郎どもだ。とっとと失せろ!
しかしながら、とりわけ戦後、民主主義教育の名の下で、部落問題を真正面から議論せずに「臭いモノにフタ」の愚かな対応を行って、事実を隠蔽しまくったツケにより、部落問題は深く潜行してしまい、今では同和対策事業がヤクザの資金源になったり、未解放部落がヤクザ、非合法活動の温床になったりと、負の遺産が蓄積されてしまっている。
我々は、今からでも、部落問題を真正面から取り上げ、何一つ隠さず、正々堂々と議論する必要があるのだ。
とりわけ、畜産食肉事業に、同和対策の闇が構築されてしまっている。
例えば、ハンナン・フジチク・丸明など食肉偽装詐欺問題は、ほとんどすべて同和利権問題であり、それが意図的に隠蔽されてきた問題である故に、闇に光が差し込みづらかったのである。
すなわち、警察もマスコミも、同和事業に介入しようとすれば、部落解放同盟(今では暴力団幹部に占拠されている)がたちどころに猛烈な抗議を行うことで聖域化している事情があり、これを利用して暴力団が行政からカネをせびり、脱税など非合法工作や食肉偽装の温床となっている。
この文章も、いずれ抗議や嫌がらせを受けるかもしれないが、そのときは真正面から対決するつもりだ・・・・
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