http://www.asyura2.com/12/cult10/msg/788.html
Tweet |
☆乞食坊主と天下人
大明国を建国した朱元璋は紅巾の乱の乞食坊主あがり。
秀吉(稗よし→ひよし、端柴→羽柴)は農民上がりというが、名古屋市中村区も「問題の多い被差別地域」で、昔の赤線地帯。
母のなかはアチコチに売られて、秀吉には何人もの異父兄弟がいた。
偉くなった秀吉は全員探し出して、なで斬りにしたという。
(河原ノ者・非人・秀吉)
※秀吉も羽柴家康(家康は秀吉より羽柴姓を下賜されていた)に天下を引っくり
返されなければ、「天皇のご落胤」で押し通せただろう。
9歳で人買いに売られた家康は、願人坊主として諸国を周り、情報収集する乱破だった。
群馬にある新田、世良田、徳川には秀忠が建てた東照宮があり、明治時代、貴族院議長まで務めた徳川家の威光により正史では、家康=願人坊主ではなく、この地から流れた家康の数代前の時宗の乞食坊主(得川義季)が松平家に入婿したことになっている。
ともあれ、家康の出身地世良田は昔からの同和地区で、1925年には有名な世良田村事件も起こっている。
詳しいことは参考リンクを見て欲しいが、家康は卑賤から身を起こし、穢多・非人という身分制度再固定化したわけで、これが現在も続く、差別の原因となっている。
☆明治の元勲の怪しい素性
明治の志士達は、一般に下級武士と言われているが、どうか?
伊藤博文も山県有朋も松下村塾では外の地べたで聴講する身分だし、英国領事館を焼き討ちしたり、幕府要人を暗殺したりするテロリストでしかなかった。
今風に言えば、外国人スパイと内通し、政府転覆を図るアルカイダというところか?
志士といってもカムイ伝のカムイと大差ない境遇で、下忍頭吉田松陰従う、下忍でしかなっかたが、ご一新後、うまいこと、邪魔者(政敵)を暗殺して元勲に収まった。
山県について付言すると、警備の警察に手を回し、ケネディ暗殺よろしく、伊藤殺しをロシア人スパイにやらせたようだ。
社会主義運動や解放運動ばかり見ていくと暗くなるが、こういう被差別出身の天下取りを見てみると歴史とは面白いと思う。
<参考リンク>
◆朱元璋 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%85%83%E7%92%8B
元末の政治混乱に伴い飢饉・凶作が頻発しており、朱元璋の家族は食べるものも無く飢え死にした(流行病で家族を失った説もある)。朱元璋だけは皇覚寺という寺に身を寄せ托鉢僧となり、淮河流域で勧進の旅を続けながら辛うじて生き延びたが、ほとんど乞食 ...
◆河原ノ者・非人・秀吉
http://d.hatena.ne.jp/zundamoon07/20130224/1361716122
非人の世界に身を置きながら関白にまで昇りつめた秀吉。あらゆる史料を熟読し、秀頼は秀吉の実の子ではないことも立証。被差別民の新たな活動と役割を中世の視座から明らかにする・・・
河原ノ者はいわゆる穢多身分であって、牛馬の処理、皮革加工、刑場処理にあたった。
非人は乞食(こつじき)であり、芸能遊行に従事し、物乞いも行った。
癩病患者もここに含まれた。
サンカは非人であるが、物乞いはしない。定住基地を持つ行商人技術者であった。
三角寛のサンカ説は、小説であって、ノンフィクションではない。
秀吉は6本指であり(おやゆひふたつ)非人出身であった。
多指(趾)症(たししょう)とは、手足の先天性の形状異常のひとつであり、
指(足の場合は趾)が分離形成される段階で、1本の指(趾)が2本以上に分かれて形成される疾患のことである。
結果として手足の指の数が6本以上となる。
豊臣秀吉には、右手の親指が2本あったとルイス・フロイス、前田利家が記録している・・・
◆部落問題(東海アマのブログ)
http://blogs.yahoo.co.jp/tokaiama/320276.html
部落解放同盟や日朝友好協会などにも出向いたが、そこにいた人物の人相風体、雰囲気が非常に悪く、足が竦んでかかわる意欲を持てなかった。あの団体は、人間解放の目的ではなく利権目的であると、なんとなく分かったものだ。
社会問題に強い関心を抱いた大きな理由は、筆者の住む名古屋市中村区が問題の多い被差別地域だったからだ。
今でも、名古屋駅から徒歩10〜20分という絶好の条件でありながら、居住地として異様な不人気で、土地の値段も東部に比べて信じられないほど安いという背景は、歴史的な差別問題と切り離して考えるわけにはいかない・・・
◆名古屋3
http://www1.odn.ne.jp/cam22440/nagoya3.htm
私の実家があった中村区の例をあげると、先に、近鉄烏森駅から一宮市につながる幅数百メートルの「震災の帯」と呼ばれる堆積地帯は、数年前に発見されたばかりだが、江戸時代の地図を見ると、奇怪なことに、烏森集落東から黄金通・西枇杷島町・一宮に至る帯の範囲に、人家集落が非常に少ないのである。まるで震災の帯を避けて集落が構成されているようだ。
ついでに言えば、烏森という地名は、鈴ガ森と同じで、カラスの森という意味であって、こうした地名の由来は処刑場であったケースが多い。特徴は、その側に必ず未解放部落が存在することだ。江戸期の風水で言えば、「城の南西に不浄を置く」という意味があることから、処刑場の記録は見あたらないものの、ちょうど該当する位置にある。
また近くの「万場」という地名も「よろずば」の意味で、これも不浄、つまり死牛馬の解体場、処刑場のことであった可能性がある。隣接する甚目寺町は、そうした業務に関連する、毛皮や肥料などの産業が今も継続している。こうした記述は、住民から歓迎されないので公開されない場合が多いが、未解放部落問題との関連で避けて通ることはできないと考え、あえて記すことにした・・・
◆中村遊廓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E9%81%8A%E5%BB%93
中村遊廓(なかむらゆうかく)は、大正時代以降、名古屋市中村区に作られた公許の娼家が集まる遊廓があった地域である。 現在当地は、名古屋市内唯一のソープランド集中地区としても知られる・・・
◆徳川氏発祥の地世良田東照宮
http://www.net-you.com/toshogu/yurai.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%89%AF%E7%94%B0%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE
◆石崎のルーツ探索掲示板2
http://www1.ocn.ne.jp/~kentei/sub30.htm
・・・因みに、この新田郡 世良田村は、水平運動・部落解放運動の歴史に通じている者にして、知らぬ者はいない。大正年間の忌まわしい事件であったか、「世良田事件」というものが惹起し、一般村民が,勝手な理由を付けて、世良田村内部の、未解放部落地区を襲撃し、有ろう事か、焼き討ち、殺戮に及んだ惨劇であった。
詳しくは、部落解放運動史の専門書を参照されたい。(松島氏、と言う地元の解放運動家がおられる。)・・・
◆世良田村事件(1925年)
http://blhrri.org/nyumon/Buraku_Reality/015.htm
◆第二章 家康公の生い立ち
http://shizuoka.veritas.jp/sigi/02keireki.html
村岡素一郎が主張する家康の出立に関する説明を次のように要約する。
家康公の遠祖は、もともと松平氏とは関連のない別系である。
家康公は駿府の「少将の宮の前町」(今の伝馬町)に誕生し、幼時は近くの華陽院境内で祖母の源応尼に養育されていた。村岡はその記録は、華陽院にある家康公自筆の扁額(昭和15年の静岡大火で焼失)に書いてあると主張する。
家康公の生父は、下野国都賀郡小野寺村出身での江田松本坊である。松本坊は新田の系統で放浪の末、駿府に来て源応尼の娘於大と結ばれ家康公が誕生した。幼名を国松という。江田松本坊は、ほどなく駿府を去り行方知らずになったという。
祖母の源応尼(俗名於万)と娘の於大は、少将の宮の前町に多く居住していた「ささら者(三味線に合せ説教する賎民)」であるという。この境遇の中で家康公は育ち、老尼の慈愛と見識によって成長したと見ている。
徳川家康の出身が当時の社会の底辺にいた「簓(ささら)説教者」とい指摘が、著作「史疑 徳川家康事蹟」を、店頭から姿を消させた最大の理由であろう・・・
◆松平郷の松平氏と親氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B0%8F
・・・後世の徳川氏・松平氏の系譜によると、徳川氏の祖となる松平親氏は清和源氏の新田氏の支流である得川義季(世良田義季、得河三郎義秀とも){上野国新田郡得川郷(現在の群馬県太田市徳川町)が本拠地}の後裔と称する時宗の僧で、松平郷の領主松平太郎左衛門少尉信重の娘婿となってその名跡を継ぎ松平親氏を名乗ったという。
親氏とその弟(叔父とも)あるいはその嫡子とする泰親の代には松平郷近隣に勢力を拡大したらしいが、同時代の史料にその名は見えない。おそらく親氏以前の記録は、家康が系図を整える頃にはすでに失われていたものと見られる・・・
◆伊藤博文の暗殺の犯人は、本当に安重根?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1040357960
別に他の犯人説ではありませんが故意に伊藤博文を狙れやすくした動きはあったという話があります。
本心では韓国併合に反対であった伊藤博文ですが総監として朝鮮内部の憎しみを浴びてしまう立場でした。
このために暗殺の情報があったのに併合を望む軍部の一部があえて願って警備を薄くしたというものです。
これには同じ長州ですが山県有朋や桂太郎も黙認したとかさらに下の田中義一とか中堅軍人が独断で手配したとかいう内容でした・・・
◆百姓たちの戦国(其の十 キリシタンによる人買い人売り)
http://harada-iory.cocolog-nifty.com/seikoudoku/2011/08/post-3c1c.html
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。