http://www.asyura2.com/12/cult10/msg/774.html
Tweet |
三島事件の要求書の本読みに引き続き、
事件現場の検証をします。
これはとりもなおさず最終的な命題、
三島由紀夫は自決したのかor殺されたのか、
という問いについて答えることでもあります。
私見では三島は殺されています。
三島事件を解き明かす鍵は、
これは国内事件ではないということ、
国外事件として考えるべきだということです。
自衛隊がいかに三島に特別待遇をしてきたか、
あり得ない違憲そのもの訓練内容、
対心理戦スペシャリスト山本舜勝の接近など、
自衛隊という『正規軍』が、
楯の会を『不正規軍』として育てる経緯には、
国ぐるみの謀略どころか、
超国家権力の関与を物語って余りあります。
だってね自衛隊って、
「旧軍の悪いところを見習わないようにネ」
なーんて昭和天皇に言われて、
「ハハーッ」って平伏しただけで、
トップが更迭されるような哀れな集団なんですよ。
こんな組織に何ができますか?
そこには歴然と日本を売り渡した売国奴集団の雄、
京都皇室と秘密破壊工作の痕跡が見られます。
『楯の会』の会員は蓋を開けてみれば平泉澄と谷口雅春の門下生、
すなわち天皇教カルト教祖の信者たちです。
生長の家をオーガナイズさせたのは堀川辰吉郎。
堀川辰吉郎こそは出口王仁三郎を官憲の弾圧から庇護し、
ワンワールドの宗教の雛形を創るべく指導した人物です。
ここからスピンオフしたのが 岡本天明の日月神示であり、
岡田茂吉の世界救世教であり、谷口雅春の成長の家です。
カルト神示、カルト宗教の陰の総帥が堀川辰吉郎。
昭和天皇を完全否定する三島由紀夫は、
天皇教カルトとは極致にああります。
それが証拠に楯の会お披露目パレードの直前に、
持丸博が「平泉門下生として三島先生の考えにについていけない」
ということを理由の一つに挙げて遁走しています。
そんなことは初めから分かっていたことであり、
理由にも何にもならないどころか、
そもそも三島が『英霊の聲』を書いて物議を醸した1941年の年の瀬に、
論争ジャーナル(天皇の指南役田中清玄の肝煎り)の若者たちが、
三島を来訪して協力を求めたこと自体が支離滅裂なのです。
橋川文三に云わせると『英霊の聲』は昭和天皇への『巨大な怨恨の書』なんですよ。
なんで昭和天皇を崇拝している平泉門下生たちが三島と組むんですか。
ここらあたりの事情をスルーして三島神話を吹聴しているのが持丸博です。
そして持丸博を協賛しているのが桜チャンネルと田母神俊夫。
彼らが三島神話を持ち上げるのは一体何のためでしょうか。
さて本題に戻って京都皇室と諜報組織の関与についてですが、
蹶起した五人組のうち二人は生長の家の信者です。
前述したように谷口雅春を動かしていたのは京都皇室の堀川辰吉郎。
堀川辰吉郎は三島が『英霊の聲』を書いた数か月後に没していますが、
亡くなる前夜まで普段と変わることなく元気だったということですから、
三島破滅プロジェクトが始動した時点ではピンシャンしていた訳です。
私は堀川辰吉郎が平泉澄と谷口雅春を動かした黒幕ではないかと推測しています。
そして殺害したのは門下生たちではなく、おそらく秘密破壊工作部隊でしょう。
益田総監はこれを裏付けるような証言をしています。
実は総監室にはある人物が隠れていたのであると。
その人物に「衝立に隠れてすべてを見届けろ」と命じたのだと証言しています。
その人物は事件の一分始終を見届けると、
廊下から総監室に雪崩れ込んできた人々に紛れて、
外へ出て行ったから誰も気が付かなかったと。
この人物について証言したのは益田総監ただ一人です。
他の証言者はこれについては一切口を閉じています。
自衛官とマスコミにも箝口令が布かれているのでしょう。
三島事件の現場写真を掲載したのは朝日新聞です。
三島を世界周遊の旅に出してメジャーに押し上げた朝日新聞が、
三島の見るも無残な遺体を公開しているというのは非常に意味深で、
私はこの行為を三島を処刑した象徴として捉えています。
この残虐さはどうでしょう。JFKの公開処刑にも勝るとも劣りません。
連中の身内でありながら裏切った者への見せしめなのでしょうか。
おそらく三島を殺害した者は日本人ではないでしょう。
総監室にいた者たちの証言によると、
三島は「ヤーッ」という掛け声とともに腹を切り、
森田が何回も介錯しそこなった三島の首を、
生長の家の会員が一刀のもとに切り落とした・・・
ということになっています。
そうやって生き残った者による証言に合せて、
三島事件は語られてきました。
彼らが口裏を合わせて偽証しているということは、
なぜか議論されることなく済ませてきました。
しかし私は彼らは偽証しているとはっきり思っています。
三島は事件当日市ヶ谷に来てもらった知り合いの記者たちに
「何事もなく終わることもある。その時は私は11時40分に出てくるから」
だからその時は何も書かないでくれ、と釘を刺しています。
これは一体何を意味しますか?
三島事件は三島の単独行動ではないということ、
三島が死ぬかどうかは未知数だったことではないですか。
世情云われるような『三島美学の完成』とか『行動の美学の終焉』とか、
そんなタワケたものでなくもっと実際的なもののために、
三島は命を引き換えにしようとしていたのではないですか。
連中の身内として戦後25年間を享受した総決算として。
しかしそれはあくまでクーデター成就と引き換えにです。
自決はクーデター成就の責任を取る意味で行うのです。
しかしそれでもなお三島は激しく葛藤しています。
せっせと遺書を書いたり遺言を作成する一方で、
「限りある命なら永遠に生きたい」
というメモ書きを残しています。
三島の葛藤を傍らで見ていた瑤子夫人は生前、
「九州が悪いのよ」
という一言だけ残しています。
九州というのは熊本の神風連のことでしょう。
豊穣の海四部作『奔馬』の取材に訪れています。
その結果『英霊の聲』を執筆せずにはいられなかった、
と三島本人が書いています。
両親はどうでしょうか。夫人に比べてものすごく多弁です。
両親による三島の回想記を読みましたがため息が出ました。
母親の倭文重は自分がいちばん息子のことを理解している、
その証左として事件前に三島がどんどん痩せて憔悴して、
歩く後姿もガックリと肩を落としていて、
「お母様、僕が何をしてもとめないでくさださい」
などとしきりに予告するようなことを云っていた、
それで心配で仕方なかったが自分が何をいっても無駄だろうから、
見守るしかなかったみたいなことを書いています。
でもこれって三島の必死の「お母様、僕を止めてださい」
というサインではないのですか。
みなさんが愛する人がどんどん憔悴して、
こんなことを何回か言ったとしらどうですか。
「いいか、止めるなよ、分かったな、止めるんじゃねーぞ」
それは「止めてくれよ」と背中で言っているのだと思いませんか。
「お母様、止めないでください」なんて何回も言ったら、
私だったら「何を止めるなつってんだ、テメー何をしでかすつもりなんだよ」
って首を締め上げて聞き出しますよ。
それを「何が起こるか心配で」なんて、
きれいごといってんじゃねーって涙が出そうですよ・・・
三島は殊に母親孝行だからオメーにそんなこた云われたかねーよって、
怒るかもしれませんけど・・・
葬儀で三島の好きだった薔薇を手向けるのに白い薔薇の花束をもって来た弔客に、
「あの子が初めてやりたいことをやったんですから赤いバラの花束にしてください」
といってのけた母親の矜持を見せる場面にも同じものを感じます。
母親の誇りとは子供の幸福ではないのですか。
三島が自分の好きなことではなく義務をこなして生きていたのが分かっていたなら、
なぜ好きなことをさせてあげなかったのかでしょうか。
三島にとって小説を書くことは本当に彼の本望だったのでしょうか。
私は彼の白鳥の歌ともいうべき天人五衰を読んで、
彼は最後の最後にそれを放擲しようとしていたと感じます。
その象徴行為として安永徹という堕天使から視力を奪ったと。
三島は現実世界から切れた異形の人間であると自分を規定しています。
三島は世界と繋がることができない。宇宙を冒涜する手しかもっていない。
そういう自分を初めて認めて許したのが『天人五衰』なのではないでしょうか。
三島のもう一人の分身である本田の正体を出歯亀として描くことで、
名門家門の正体を暴露して徹底的に破壊しています。
これが三島にとっての救済と解放でなくて何でしょうか。
三島は最後の最後に来て小説を書く労苦を擲ったのだと思います。
父親の梓に至っては完全に嘘をついていますね。
三島は事件の数日前に梓の友人の弁護士に蹶起を知らせる手紙を書いています。
友人から父親に蹶起を知らせてもらい、父親に止めてほしかったとしか思えません。
あたかも『奔馬』の中に登場する1シーンのように。
しかし折あしく友人の弁護士は出張中で、帰京して手紙を見たのは当日の朝。
それでも友人はすぐに父親の処に電話しています。
だけど『倅 三島由紀夫』にはそんな経緯には一言も触れていません。
梓が一人で茶の間で煙草をのんでいるとお昼のニュースで「三島由紀夫・・・」
という文字があらわれたので「おやっと思って見入りますと・・・」
それで初めて事件を知って驚愕したなんてシラジラしいことを書いています。
これって父親が倅の殺害事件の隠蔽に手を貸しているってことじゃないですか?、
それに倭文重が乗っかって自己満足の愛を語っているんです。
ものすごく悲しいことですがこの両親の本を読んで私はそういう疑惑を抱いています。
三島の両親は三島事件の真相をすり替えることに協力していると。
私は三島事件の真相を次のように推理しています。
安藤武『三島由紀夫 日録』を本読み”しながら時系列に添って記します。
◎十一月二十五日日午前十時、益田総監に予定通り伺うことを電話する。
「国会クーデターを予定通り十一時に始動、そちらも始めてください」
という連絡が入って初めて三島は動き出す手筈になっています。
◎『午前十時六分、伊達宗克と徳岡孝夫両記者に電話。「ご面倒ですが、十一時二市ヶ谷会館においでいただけませんか。そこに楯の会のものがおり、田中か倉田というものがご案内します」』
◎午前十一時、第六十回臨時国会の開会式が参議院本会議にて天皇陛下を迎えて行われる。
国会クーデターが始動したと思った三島は蹶起の行動に移ります。
私は益田総監が縛り上げられたのはお芝居だと思っています。
益田総監は三島を自衛隊に引き入れる工作をしたグループの一人で、
初期のころから三島に接触している人物です。
私は三島が益田総監を縛り上げるフリをしたのは、
益田のためにアリバイ作りをしてあげたのだと考えています。
もしくは全然縛っていないかもしれません。
なぜなら飯島洋一『三島由紀夫と近代 <三島>から<オウム>へ』平凡社
によると益田総監は次のような奇妙な証言をしているというのです。
以下抜粋します。
三島の自決までの経緯を書いてきたが、彼の死の意味について考える前に、少し気になることを書いておきたい。それは前出の『三島由紀夫と自衛隊』を読んで、いささか奇妙な箇所があることに気がついたからである。この本の著者たちによると、「この日、益田総監は三島由紀夫に面会する前から何かを予感していた。それが何であるかは自分でもはっきりつかめなかった」という。そしてこう続ける。
「真っ先にづかづかと入って来た三島は、昔陸軍将校が佩剣したものと似た一振りの『軍刀を左手に持ちかえていた。これを見た瞬間、彼の不吉な予感の正体が何であったかをはっきりと知覚した。傍らにいたS副官もその異様を直観した。その副官に落ち着いた声でささやいた。『この部屋を出て行くふりをして、衝立の陰に隠れろ。どんなことがあっても出てきてはいかん。』副官は一瞬総監の指示に驚いたが、その意図は直ちに理解できた。早くも三島たちが総監の机の迄に整列、挨拶にかかったので、副官は三島に目礼してその部屋を立ち去るかの如く、衝立の陰に身をひそめた。」
益田の判断は、「いざというときのために、自分が殺されたときの唯一の事実を知るものとして副官のS三佐を陰に隠し」たのである。そしてことが終わった後、「衝立の陰に潜んでいたS副官は、ドヤドヤと入って来た警察、警務の隊員や報道陣に逆らって、総監室を去った」という。
私がこの部分を読んで、いささかの奇妙な思いをしたのは、S副官という伏兵が、当日、部屋の中にいたということではない。そうでなく、このことと、『裁判記録 「三島由紀夫事件」』を照らし合わせた時、どうにも納得のゆかない事実に突き当たるのだ。というのも、『裁判記録』では、裁判の法廷に何人かの証言者が出頭していて、その中には益田総監をはじめ、原勇、吉松秀信の顔も見えるが、S副官とされるべき人の名前が見当たらないのである。
もしもいたなら、裁判に証人として出廷しなければならないはずである。Sという人物が衝立からずっと現場を見ていたなら、その人は縛られていた増田よりも、ことの次第をよく見ていたはずだからである。しかし、そのSは裁判の記録には見えない。彼が誰かというより、彼がなぜ証言台に立たなかったのかが、私には奇妙でならないのだ。
以上抜粋。
益田総監の証言を“本読み”してください。
おそらく彼はこれを命懸けで言っているのです。
益田総監はこの後罷免され3年後に死去しています。
時系列の続きです。
◎午前十一時三十分頃、三島は、総監室前廊下から総監室窓ガラスを破り、窓越しに三島を説得しようとする吉松陸将補、功力一佐、第三部長川久保一佐らに対し、日本刀を示しながら、「要求書があるから、これをのめば総監の命を助けてやる」といって破れた窓ガラスのところから廊下に要求書を投げた。
三島は幕僚たちに要求書を出します。
「攻撃行動、望外行動をくわえなければ、総監に危害は加えない。十二時までに隊員を集めろ。もし要求を容れなければ、総監を殺害して自決する」
これは脅しで三島はクーデター成就の後に自決する予定はありましたが、
益田総監を殺害するつもりは最初からまったくありません。
このことは事前に楯の会会員たちに言い含めています。
要求書の“本読み”については既述してありますので重複を避けます。
そしてスムーズに事は運ばれてバルコニーで演説します。
おそらくヤラセの仲間が幕僚たちの中にもいたはずです。
◎午前十一時五十分頃、森田、小川は、要求項目を書いた垂幕二本を総監室前バルコニーからたらし、「檄文」多数を撒布した。三島は(「七生報国」の鉢巻をし、関の孫六の抜き身を持ち)、バルコニーに立つ。三島は、集合した自衛官に向かい演説したが、自衛隊員の野次と怒号と図上のヘリコプターの騒音で演説をしばしば中断した。
時の自衛官があんな野次を飛ばせる自由があるとは信じていません。
私はサクラが配置されて妨害していたと考えています。
◎「お前ら聞けエ、聞けエ!よく聞け、聞け、聞け、聞けい!よく聞け、よく聞け、よく聞けい、静聴せい!男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。・・・そこでだ、俺は四年間待ったんだよ。俺は四年間待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を。・・・そうした自衛隊の・・・最後の三十分に、最後の三十分に・・・待ってるんだよ」
三島の「最後の30分に待っているんだよ」というのは何を30分待っているのか。
国会占拠→戒厳令発動→憲法改正→ヘリポートにクーデター軍到着→共に蹶起
という流れの中の「憲法改正」の知らせが届くまでの、
「最後の30分に待っているんだよ」という意味で、
憲法が改正される際、昭和天皇の退位というのは三島の中では決定事項です。
天皇は京都へ遷り、三島がアンケートに答えた通り、
三島の胸中では1970年代に皇居は国民のために解放されるシナリオになっています。
◎「・・・まだ諸君は憲法改正のために立ち上がらないとみきわめがついた。これで俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ。それではここで俺は天皇陛下万歳を叫ぶ。天皇陛下万歳!天皇陛下万歳!天皇陛下万歳!」
待てど暮らせど援軍は来ません。森田の表情を見てください。
これは三島が裏切られつつあることを憤っている表情だと思いませんか。
もとより森田必勝は命知らず、この状況に臆しているはずはありません。
やがて「これで俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ・・・」
と呟いて天皇陛下万歳を三唱した後、三島は森田とともに総監室に戻ります。
◎午後零時十分頃、総監室に戻り、「二十分間ぐらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」と独り言。総監には「恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方がなかったのえす」といって制服を脱ぎ、正座して短刀を両手に持つ。森田に「君はやめろ」と三言ばかり殉死を重いとどまらせようとした。
これは生き残った証人たちが口裏を合わせた偽証でしょう。
三島と森田を迎えたのは益田総監と楯の会会員3名と、
『S副官』が象徴する人物、おそらく複数の秘密破壊工作員たち。
三島は本当にギョッとしたでしょう。
私はこの時点で三島は死ぬ覚悟はなかったと思います。
バルコニーで演説して総監室に戻ってすぐ自決するはずはないのです。
裏切られたことについて益田総監に問いただしたいはずです。
そんな短時間に心の整理をして自決するほど、
三島は自決に対して完全な覚悟があったわけではありません。
しかし秘密破壊工作員たちは三島を取り押さえて、
有無を言わさず『割腹自殺』させ生長の家信者に介錯させます。
森田が何回も介錯に失敗したという首の傷は、
三島を苦しめるために彼らが行ったものかもしれません。
森田がスムーズに三島の介錯をするはずなどないのです。
これでは話が違うではないかと三島のために抗議したはずです。
その森田必勝も『割腹自決』させられます。
後に残った楯の会会員は脅しておけば口を割りませんが、
命知らずの森田は脅しなんかに屈することはありません。
義憤から決して黙ってはいないでしょう。
だから口封じのためには「三島の道連れ」にするしかありません。
以上が三島事件の現場推理です。
「だが最近になり奇妙なことを知った。それは、三島から父の友人斎藤直一弁護士に11月22日『事件の決行と覚悟の死を告白した」書簡を送っていたとのことである。その文面には、公私に渡り力添えになった御礼とその言葉がある由。その斎藤氏は、出張先から帰宅の際に飛行機が遅れ、帰宅した日が自決決行日で、すぐ三島宅に電話をしたが既に市ヶ谷へ向かった後であった。死を止めることができなかった。さらに、斎藤氏が電話した相手が父梓だった。
謎は謎を深めた。さらに驚くことに斎藤氏宛てのほか、厚誼の人に宛てた二通の書簡が存在するらしい。遂にその二人からも密告は果たされなかった。やがて、その書簡の所有者が闇の底から謎の仮面を取り、封印された紐の結び目を解く日も近づいているのであろう。」(安藤武『三島由紀夫の生涯』より)
三島由紀夫と森田必勝のために心より冥福を祈ります。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。