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みなさんにお詫びしなくてはならにことがあります。
太田龍の動画『2.26真相全面開示』について、
一部重大な誤りがあります。
「真崎大将は2・26事件には無関係であるが、
人格高潔でイルミナテイのエサになびかないから陥れられた。
真崎大将の名誉回復が急務である」
という太田龍の見解は誤まりです。
河野司編『二・二六事件 獄中手記遺書』
の中に収められている礒部浅一の獄中手記、
及び2・26裁判記録に目を通すと、
真崎大将が事件に関与したことは動かせない事実であり、
青年将校を幇助しながら敵前逃亡したことが了解されます。
また真崎大将が無罪を主張する強弁詭弁には、
目を覆わんばかりのものがあり、
「真崎大将は人格高潔なためイルミナテイに陥れられた」
などというのはまったく馬鹿げています。
こんなトンデモを太田龍に吹き込んだのは誰でしょうか・・・
情報提供者としての落合莞爾の名前が頻繁に出ていますが・・・
よく調べもしないで転載したことを大変申し訳なく思います。
重ねてお詫びいたします。
以下に磯部浅一の獄中手記および2・26事件裁判に関係した本から、
真崎が事件に関与した証左となる該当箇所を抜粋します。
河野司・編『二・二六事件 獄中手記遺書』河出書房新社
礒部浅一
前掲書より写真転載
明治三十八年四月一日山口県大津郡菱海村河原に生まれる。
広島陸軍幼年学校を経て、陸士士官学校卒業。安藤輝三と同期。
陸軍経理学校を卒業し一等主計になる。
『十一月二十日事件』によって村中孝次とともに停職処分。
怪文書『粛軍に関する意見書』を作成・配布して免官。
2・26事件後第一次判決にて死刑宣告。
北、西田裁判の関係上、刑の執行が一年遅れた間、
長文の獄中手記を記し昭和十二年八月十九日銃殺刑に処される。
以下、礒部浅一獄中手記より抜粋します。
極秘(用心に用心をして下さい)
千駄ヶ谷の奥さん(西田税夫人から、北玲吉先生、サツマ(薩摩雄次)戦死、岩田富三夫先生の御目に入る様にして下さい。万々一、ばれた時には不明の人が留守中に部屋に入れていたと云って云いのがれるのだよ(読後焼却)
・・・第三に申上げることは、反間苦肉の策であるかもしれませんが、一つの方法と信じます。それは、川島陸相、香椎中将(事件当時の戒厳司令官)、堀中将(事件当時の第一師団長)、村上大佐(事件当時の軍事課長)、小藤大佐(第一連隊長)、真崎大将、の七氏を叛乱幇助在で告発することです。・・・多くの青年将校を、死刑にせねばならない様な羽目に落とし入れたのは、寺内は勿論ですが、筆頭に揚ぐ可き人物は、川島陸相他前記の人です。
真崎を起訴すれば川島、香椎、堀、山下等の将星にルイを及ぼし、軍そのものが国賊になるので、真崎の起訴を遷延しておいて、その間にスッカリ罪を着た、西田になすりつけてしまって処刑し、軍は国賊の汚名からのがれ、一切の責をまぬかれようとしているのです。軍部の腹の底は、北、西田、青年将校を先ず処刑してしまって、誰も文句を云うものがなくなった時、真崎を不起訴にし、川島、香椎等々の将軍、否、軍全部を国賊の汚名からのがれさせようとしているのです。
私は今真崎に対し、川島、香椎、山下、堀、小藤、村上及び事件当時の戒厳参謀課長を告発せよと云うことを、シキリにすすめているのです。真崎はまだ決心がつきませんが、何とかして真崎に決心してもらいたいと努力しています。・・・私はこの数か月、北、西田両氏初め多くの同志の事を思って毎夜苦しんでいます。北、西田両氏さえ助かれば、少しなりとも笑って死ねるのです。どうぞどうぞ、たのみます、たのみます。
真崎大将を不起訴にする様に運動している御連中がたくさんいる様ですが、私はこれに対しては非常に反感をもちます。真崎はたしかに吾々に対して同情して、好意的に努力してくれた人です。ですから、真崎個人に対して感謝もしますけれども、吾々同志が義士か国賊かと云う問題を決定する為には、真崎が義士か国賊か、川島その他軍首脳部の書簡が国賊化否か、而して真崎と如何に関係深かりしかを決定せねばならぬのです。
吾々が国賊ならば、当然に真崎と川島とその周囲の人は国賊であるはずです。彼等が法の制裁をうけないならば、吾人も当然法の制裁を受けない筈です。二月事件に戒厳令を発したでもなく、大臣告示を発したるにもあらざる北、西田両氏の如きは、当然も当然も当然すぎるほどに制裁のケン外にある筈です。
吾々青年将校は、北さんの戒厳命令により、或いは西田氏の大臣告示によって行動したのではないのでずぞ。陸軍の親玉からもらった命令によって動作したのに、命令を発した人は罰せられずに、命令を受けた人が殺されたり、全く命令や告示の圏外にあった人が死刑を求刑されるのです。こんなトンチンカンなベラボウな話はありません。
どうしても話のすじ道を通す為には、真崎を起訴し、川島、香椎、堀、山下、村上等が起訴され、勅裁経て陸軍大将の裁判長を定めて黒白を明らかにせねばならんのです。而してこれをすることは、実に寺内等を窮地に追い込む第一弾になるのです。然るに真崎の不起訴を策動する人物の如きは、同志を犬死させたり、見殺しにさせたりするところのふとどき至極の奴輩です。
所が入所して日時の経過するに従って、軍首脳部の公判方針がチョロチョロと出かかり出しまして、小生はそのたびに心痛をせねばならなくなりました。それは前記諸氏が小生を全く国賊あつかいにし、叛徒として無茶苦茶な証言をしているのです。これでは助かりそうにはない。全部処刑され、死刑も多数あるという様なことを思うと、私は同志に対して、立っても居てもおれない程にすまなくなりました。数日数夜を考えあげた末に、遂に意を決して真崎、荒木、川島、安倍、香椎、安井戒厳参謀長、古荘、山下、堀等十五士氏を告発しました。
原秀夫『二・二六事件軍法会議』文芸春秋より、以下抜粋します。
(事件から60年ぶりに初公開された裁判資料に基づいたものです)
二・二六事件の裁判の中で、最後に残ったのが、真崎大将の公判だった。すでに昭和十一年七月十二日、香田ら十五人の将校らは、代々木陸軍衛戍刑務所内の処刑場で銃殺刑に処せられた。磯部、村中は、同じく死刑判決を受けながら、北一輝、西田税に対する裁判の証人として刑の執行が延期されていたが、翌昭和十二年八月十九日に処刑される。ちょうどこれと同じ頃、真崎大将の公判が進められていたのである。真崎公判は、事件発生から一年三か月たった昭和十二年六月一日から始まった。起訴はその年の一月だから、公判準備に半年かかったわけである。
磯村裁判長
「これより裁判官たる法務官をして、被告の尋問、証拠調、及び弁論の指揮に関する事項を行わせる」
真崎大将
「私は、尋問を受くるに先立ちまして、一言申し上げておきたいと存じます。私は、これ迄、検察官及び予審官の御取調に対しては、事のありの侭に、又私の感じた侭を、極めて率直に申し上げて置いてあります。しかし腹の立った事もあり、不都合な云い現わし方、こう申上げた方が判り易かったと思うことがあります。私は実は公判廷では何も申し上げまいと思いましたが、天皇の御名に於いて行う神聖な法廷ですから、真相を究めるために、どんな御質問に対しても、お答え申し上げ、閣下方に訴えたいと思います」
小川法務官
「只今、検察官が述べられた公訴事実に意見があるか」
真崎大将
「意見があります。香田清貞を招きどうしたとか、教育総監更迭に最後まで同意しなかったと述べたとか、昭和維新を何したとか、述べられましたが、実に驚き入った次第であります。礒部の問題も違っており、漸く挙げて承りますと、御読み聞けの事柄は、全部も全部まるっきり事実と相違しております。何所で御聞きになり、何うして御調べになったか知りませんが、何も殊更このような理屈を付けられた感じがいたし、作り事をした様な気がいたします。いずれ御尋問に従いまして、如々申上げて参ります」
起訴事実を全面否認した真崎甚三郎
原秀夫前掲書より写真転載
第一回公判で読み上げられた調書に、香田清貞大尉の憲兵調書がある。香田大尉は歩兵第一旅団司令部付で、蹶起当日は礒部らと共に陸相官邸の占拠を担当している。香田大尉の調書は、事件の前年、真崎から招かれた私邸を訪ねたときの様子を次のように記している。
香田大尉の調書
<昭和十年十二月二十八日午後七時頃、真崎大将を訪問したところ、同大将は「近頃若い者は国体明徴問題を如何に考えているか。この問題をとらえてしっかり活動したならば、維新は合法的に開けてくるのだ。青年将校の活動が足らん」と言われ、・・・「着眼が悪い」と不満のようでした。「相沢中佐の公判も近づきました」と申すと、大将は奥から相沢中佐の常に口にした詩など書いてある手紙を持ってきて、「相沢公判についてはなにも具体的には話していないが、心の中では誰にも負けないほど、相沢のことについては考えている。相沢は時々やってきていたが、まったく純真な神様に近いような人物である。・・・自分も証人に出る心算である。ただ、自分が出るには勅許を得なければならに」と言われた。私が「国体明徴に関して軍教育の中枢にある渡辺大将が、天皇機関説を擁護する如き訓示をされたのは遺憾」と申すと、「そうじゃ、渡辺があの位置を退くようになれば、維新運動が都合よく運んでいく」と申された。>
真崎大将
「『青年将校の努力はまだ足らん』と発言したことも『同感の意を示した』といった不都合なことを告げたことはありません。どうして、そう間違ったか判りません。『お前は病気にかかっているのである。早く直さねばならぬ。軍人は政治に関与して、かれこれ言うべきではない。』と説き聞かせたのであります。香田は、私の教育方針を取り違えて解したように思います。仮に不都合な事を申したとしても、当時、彼は叛軍ではなく、一歩兵大尉であります。叛軍でない者に向かって彼是申したからとて、何が故に反乱者を利したといえるのでありましょうか・・・妻が病気だったので早く帰ってくれればよいと思った。嫌な気持ちで会った」
第二回、第三回公判では、叛乱の中心人物といえる磯部浅一と、小川三郎大尉の調書の一部が読み上げられた。二人は昭和十年十二月、十一年一月に真崎大将を訪ねている。その折の模様を次のように述べている。
小川大尉の調書
<私は昭和十年十二月二十四日、磯部浅一と共に真崎大将を訪問し、応接室で閣下に、「教育総監の辞表を出されたそうですが」と質問した。真崎大将は、「そんなことを誰が言うたか」と申しました。私「相沢公判は重大だから徹底的にやって貰いたい。辞表を出されたというが、一体どうするのですか」真崎大将「俺はそんな弱いことはしておらん。相沢は命まで捧げてしたが、俺はそこまではいっておらんが、そんな弱いことはしておらん」私「国体明徴問題とか今度の相沢公判が巧くいかねば血が流れるかもしれません」真崎大将「そういうことになるかもしれんが、俺がそんなことを言ったら若い者を煽っているようにいうからどうも困るのだ」などの問答をし、同大将は私どもの如く維新的情勢にかんする時局に対し、相当突っ込んだ考えを有するものと信じた>
礒部浅一の供述
<昭和十一年一月二十八日早朝、真崎大将を訪ね、火急の用事と、強いて面会を願った。私は「統帥権干犯問題につき、決死的努力をしようと思いますから、閣下も尽力して頂きたし」と申したところ、将軍は、「俺は十分やる」と言われた。次いで、「金を下さい」と申し込み、「いくらいるか」と申されたから、「千円ほしいが五百円でも結構です」と申したところ、「俺も貧乏で金はないが、何か物でも売ってやろうか。君は森伝を知っているか。森に話してみたか」と言われたので、私は、「森氏は知っておりますが話さぬ」と答えて帰り、その翌日頃森を訪ねた。森は真崎から呼ばれた話をし、金五百円を手渡された。真崎大将は心より私どもの運動を理解し鞭撻し、私どもが剣をもって起つことも十分承知していると感じた。真崎大将は、わたしや村中のことをすこぶる心配し、「次の時代には免官を元に戻してやらねばならぬ」と言われ、要するに私は、真崎大将は今回の事件を知りながら有形無形の援助をなしてくれたものと信ずる。>
真崎大将
「『直接行動をする様な重大なことなれば、話さないでくれ』とは、私が如何に愚者でも言うはずはない。『俺もやる』とは言っていない。私は『貰いつけているところから貰えばいい』と言った。『都合する』とは言わぬ」
真崎大将
「礒部は嘘を言っております。礒部を絞り上げてください。とにかく維新運動をやっているのは青年将校のアバズレ者だけであります」(第三回公判)
裁判長
「不利なことはことごとく否定するね」
真崎大将
「磯部から金を貸してくれと言われて、考えておくからと答えたのは本当であります。『俺も十分やる』とは言わず、『自分も研究する』とか『考えておく』とか軽い意味の答えをしたと思う」(第六回公判)
真崎大将による事件勃発以後の自らの行動についての弁明
○蹶起を知ったのは、二月二十六日の早朝、亀川哲也の訪問を受けてであった。
○実は亀川は、この数日前にも真崎邸を訪れ、蹶起が近いことを示唆していた。
亀川の調書によると、「『いかなる事態があっても青年将校を見殺しにせぬように』と言うと、真崎大将は『老人を誤らさないように、若い者を指導してくれ』と語った」
真崎大将の反論
「亀川から『青年達を見殺しにしないでくれ』と言われたことなし。『年寄を誤らせない様に
若い者に話してくれ』と言ったこともない。浪人者は他の者に対し、自分の言うことを省いて吹聴しやすいものである。私は亀川を危険視していた」
二月二十五日夜、青年将校らの蹶起を知った亀川は、二十六日午前四時ごろ真崎邸を訪れる。
亀川の憲兵聴取書
<真崎大将の処へ行こうとしたのは、早く知らせる方が良いと考えましたからです。真崎さんを選んだ原因は、彼等が信頼して居るからです。・・・此時、大将を選んだ事は、前夜来西田の言葉もあり、事件の即日収拾、即日大赦の方針で工作を依頼する為に行きました。私は応接間で待って居りますと、(真崎)大将が寝間着に羽織を引っかけて出て来られました。私は大将を見るや胸がつかえて泣き出しました。そして、一語をも申しません。大将は私の傍に立って、「落ち着いたら、落ち着いたら」と言って居られましたが、大将も非常な胸さわぎを感じて居られました。約十分位、私は泣き続けて居った様に思いますが、私は涙を拭いて、「今朝青年将校が、部隊を率いて立つらしい。こう言う事態が無い様にと思って、数年の間願って来たが、とうとう来る所へ来てしまって残念です」と申しましたら、大将は死人のような顔色になられ、腕をくみ椅子に寄りかかり、じっとして居られました。私が続いて、「若い者の行動は乱暴でも、気持ちは純真だから、此際軍の長老連達は、一致結束して、一刻も早く事態を収拾せられねばならず、殊に貴方に対しては、若い者などが大きな望を持って居る。真崎内閣と言うような事も考えているらしい。ぜひ御自重を願いたい」と申しますと、大将は「残念だ。今迄の苦労が水泡に帰した」と言われました。>
真崎大将
「二月二十六日早朝の亀川の言は、閣下(下級者である小川法務官に対して、こう呼んだのである)、すべて捏造であります。亀川は実に酷い奴であります。検察官は亀川のような不逞な奴から愚弄されたのであります。私は『貴様のような危険人物は、早く出て行け』という気持ちで、『鵜沢博士の処には早く行け』と言ったのであります。」
裁判官
「二・二六早朝五時、亀川のような危険人物と、何で早朝に会ったのか。」
真崎大将
「相沢事件のことで来たと思った。私は馬鹿だった。」
裁判官
「危険人物なら面会謝絶にすべきではないか」
真崎大将
「お答えの仕様がありませぬ。神明に誓って偽りは申しませぬ。相沢事件のことが気になって会ったのです。後悔しています。」
裁判官
「二月二十五日夜、今夜は電話があっても起こすなと言っていないか」
真崎大将
「夢を見た様なことを承ります。ありもしない事を作ったものが幾らもあります。」
(裁判官は続けて、真崎の妻・信千代に対する憲兵の聴取書を読み上げる。この中には、妻の証言として、真崎大将が「電話があっても起こすな」と言ったという内容が含まれていた)
真崎大将
「妻がそう言ったなら、そうだろうと思います。
亀川から蹶起の知らせを受けた真崎大将は、午前八時ごろ、陸相官邸に駆けつけて青年将校らから蹶起の趣旨を聞く。その後の真崎大将の行動は、何とか蹶起を擁護し、自分の有利に展開させようという意図から出たものだ、と批判されている。六月十七日の第八回公判において、真崎大将に対して磯部の調書の読み聞けが行われた。
礒部の調書
<歩哨の停止命令をきかずして一代の自動車が辷り込んだ。下車と同時に「閣下、統帥権干犯の賊類を討つ為に蹶起しました。状況は御存知でありますか」というと、「ウン」とだけ申され、次に私が「善処を願います」と申し上げると、「お前たちの精神はよくわかっておる」と二、三度言われたのをはっきり記憶している。同大将を官邸に案内したら、「落ち着いて、落ち着いて」と言われた。>
真崎大将
「二・二六朝、官邸前で礒部に会った覚えなし。『お前たちの気持ちはわかっている』と言った覚えなし。礒部に会ったのは、官邸を出るときである。礒部は夢を見ているのだ。仮に『諸君の精神はよくわかっている』と言ったとしても、『やれやれ』の意味ではなく、物騒に感じたので相手をごまかすくらいの気持ちで言ったのではないかと思います。仮に言ったとすれば、相手をごまかして通すつもりで言ったものと思います。『落ち着いて、落ち着いて』との発言については、兵が銃剣を突付けたので、『落ち着いて、落ち着いて』と言ったのであります)」
(@_@;)
河野司編・磯部浅一獄中手記より抜粋
「(二月二十六日早朝)歩哨の停止命令をきかずして一台の自動車がスベリ込んだ。余が近づいてみると真崎将軍だ。『閣下統帥権干犯の賊類を討つために蹶起しました、情況を御存知でありますか』という。『とうとうやったか、お前達の心はヨヲッわかっとる、ヨヲッーわかっとる』と答える。『どうか善処していただきたい』とつげる。大将はうなづきながら邸内に入る。門前の同志と共に事態の有利に進展せんことを祈る。この間にも丹生は、登庁の将校を退却させることに大いにつとめる。
(原秀夫前掲書より抜粋続き)
また、その後の法廷で真崎大将は、「落ち着いてと何度も言ったのは、自分が落ち着いていないからであります。心の中は煮え返るようになっても、臆していないような風を装うのが、軍隊指揮官に必要なことであります。私は自然に落ち着いたように見えたのだろうと思います」
二・二六事件の朝、真崎大将は勲一等の勲章を佩き堂々たる姿勢で陸相官邸に乗り込んだ。同じ頃、陸相官邸に乗り込み、磯部に拳銃で撃たれた片倉衷(ただし)少佐は、その時の様子を、真崎公判準備のための証人尋問で次のように証言している。<真崎は私が撃たれたのを見ても何もせず、入院先の軍医学校で顔を見ても知らん顔。人情を解しない、愚痴が多い人だ。>
(@_@;)
片倉衷がこんな風に真崎を非難する資格はありません。
石原莞爾のポチとして満州事変で活躍した片倉は、
226を統制派のためのクーデターに転換させる、
『カウンター・クーデター』(片倉本人の弁)の原案を作成、
青年将校たちを人柱として利用したグループの一人です。
私は皇統派と統制派の対立の図式は八百長だと思います。
(原秀夫前掲書の抜粋続き)
真崎大将は、この証言に対して、次のように弁解している。
「彼らを撤退させなくてはいかぬ、と一寸頭に浮かんだが誰にも言わなかった。言えばポンと撃たれるか、突き刺されるように感ずるくらいのゾッとするような空気だった。」
公判記録を読みながら、私はなんともやり切れない気持ちになっていった。法廷には、青年将校らが尊敬する指導者としての陸軍大将の姿はない。ひたすら弁解と言い逃れに努める老人の姿である。
「幸田は自分勝手なことを言っている」
「磯部が私の悪口を言って回っていると聞いている」
「亀川は嘘つきです」
「村中の造り話です」
「平野(助九郎」は不用意の質問をする男です。平野を絞り上げてくれ
山口一郎太の陳述
<午前八時頃になりますと後ろの方がざわざわするので振向くと、真崎大将が入って来られました。若い将校はいぢ等不動の姿勢をとり久しぶりで帰ってきた慈父を迎えるような態度を以て恭しく敬礼をしました。・・・(真崎大将は)成程行い其のものは悪い、然し社会の方は尚悪い、起こったことは仕方がない、我々老人にも罪があったのだから之から大いに働かなければならぬ、又非常時らしくどしどしやらねばならぬ事にも同意だ、と云うう様に大へん青年将校に同情のある言い方をされ、次官が立たれた後の椅子に腰を下されて、大臣との間に短い言葉で話を交わされました。
大臣「大隊、今、斎藤少将からお聞きの通りだ」
真崎「彼らの要望はどんなものか」
大臣「ここに書いたものがある」
と言って紙片を渡されると、真崎大将はそれを眺め、また蹶起趣意書とか、青年将校の希望事項の原稿とかいうものにも、頷きながら目を通しておられました。それから、
真崎「こうなったら仕方がないじゃないか」
大臣「御尤もです」
真崎「来るべきものが来たんじゃないか」
大臣「私もそう思います」
真崎「これで行こうじゃないか」
大臣「それより外、仕方ありません」
真崎「君は何時参内するか」
大臣「もう少し様子を見て」
真崎「僕は、参議官の方を色々説いてみよう」
などの話で、同大将は青年将校に対し、同情のある話しぶりでありました・・・>(山口太一郎予審官第二回調書)
真崎大将
「山口の言う所では、いかにも私が大臣といろいろ話合った様でありますが、夫れは山口の珍問答で小説を作っているのであります。山口の虚構、捏造であります。馬鹿気て聞く気にもなりません。あの場面は、シーンとして何も話すことはなかったのであります」
山口調書
<若い人達は、「牧野、西園寺、宇垣、南の四名を逮捕して下さい」ということを云始め、そして、立派な内閣を作るということを早くやること、皇軍相撃たぬこと等を要求した。これに対して荒木大将が、「そんな老人を捕えて何になる」と言った。一方、真崎大将は、「吾々に総てを委せて呉れんか。委する以上は条件を付けないで呉れ。きっとやるから。吾々も命がけだ。今迄は努力が足りなんだ。今度はきっとやる」と答えた。>
真崎大将
「どうも驚く外ありません。山口の言うのは殆どちがいます。彼らが誰彼を逮捕すること、皇軍相撃せぬこと等の要求があったことは、その通りだが、私が『吾々に全てを任してくれ』と言ったというのは嘘であります。・・・山口等は私が彼らの精神を生かす様に骨を折っていたものと、感じたかも知れませぬが、私は何もそんなことを致して居りませぬ。・・・山口も芝居が好きと見えます。」(第十一回公判調書)
裁判官
「山口大尉は『(真崎大将は)最も呑み込みの早い筈の人であり、嘘を吐かぬという点で有名は将軍でありますから、今朝陸相官邸で言われた処の「此精神を生かさないと、何回でもこういう事が起こるから之を生かす為に骨を折る」と言われた、あの通りに行動し各軍事参議官に此旨を説明され、荒木大将も之に同意して働かれたものと思う』と述べているが如何」
真崎大将
「夫れは彼等の勝手な考えであります」
裁判官
「山口は、被告を嘘を言わぬ有名な将軍だと思っているのだから、ありもせぬ事をいわないと思うが」
真崎大将
「山口は亀川と同じく、英雄の好きな男であります。私は副官に『こんな事しやがって何と理由を付けても申し訳ないぞ』と申してあります」(第九回公判調書)
真崎の回想
<昭和十一年七月十日、礒部と私は対決せしめらるることとなり、私は先に入廷し、礒部を待って居ったが、間もなく礒部も大いにやつれて入り来たり、私にしばらくでしたと一礼するや狂気の如く昂奮して、直ちに「彼等の術中に落ちました」と言うた。私は直ちに頷けるものがあったけれども、故意に、徐々に彼を落ちつけて、術中とは何かと問い返したれば、沢田法務官(注・藤井法務官の誤り)は壇上より下り来たりて「それは問題外なる故触れて下さるな」と私には言い、礒部には「君は国士なる故そんなに昂奮せざる様に」と肩を撫でて室外に連れ出し、これだけで対決は終わった。何のことか分からぬ。私は不思議でたまらなかった>(「暗黒裁判二・二六事件」「特集文芸春秋」昭和三十二年四月号)
問題の七月十日の予審調書は、被告人真崎大将に対する尋問調書であり、礒部は証人としてこの予審廷に出廷している。
(@_@;)
磯部浅一獄中手記より
「真崎とは七月十日に対決した。真崎は余に国士になれと云いて暗に金銭関係等のバクロを封ぜんとする様子であった。余は国士になるを欲しない。如何に極悪非道と思 われてもいいから主義を貫徹したいのだ。だから真崎の言は馬鹿らしく聞こえた。余は真崎に云った、大臣告示も戒厳軍隊に入りたる事もすべてをウヤムヤにしたのは誰だ。閣下はその間の事情を知っている筈だから純真なる青年将校の為に告示発表当時、戒厳軍編入当時の真相を明かして下さい。これによって同志は救われるのです。閣下は逃げを張ってはいけない、青年将校は閣下を唯一のたよりにしているのだ。故に軍内部の事情を青年将校の為にバクロして下さいと願って簡短に引きあげさせられた。予審官たる藤井は余の論鋒をおそれてオロオロしていた。余等を死刑にしたのは藤井等だからおそるるのもムリはない」
(原秀夫前掲書より抜粋続き)
昭和十一年一月二十八日、礒部が来たときの会話について。
真崎
「統帥権干犯問題に付き『決死努力をする』と云ったのに対して『俺もやる』と言った様なことはありません。金の問題に付いても私が家のものを売っても準備すると云った様なことは全然ありません。」
問
「(礒部は)翌日か翌々日被告をよく知って居るものから金五百円貰ったということであるが如何。」
真崎
「私は判りません。」
問
「一月二十八日、礒部が金の話をしたとき、森伝を知って居るかと被告から言い出したということであるが如何。」
真崎
「判りません。」
(@_@;)
磯部浅一獄中手記より
「川島(陸相)との会見に於いて充分なる結果を得なかったので、川島と交友関係に於いて最も暑い真崎を訪ねる事にして、一月二十八日、相沢公判の開始される早朝、世田谷に自動車を飛ばした。・・・真崎は何事かを察知せるものの如く、『何事か起こるのなら、何も云って呉れるな』と前提した。余は統帥権干犯問題に関しては決死的な努力をしたい、相沢公判も始まる事だから、閣下もご努力していただきたいと云って、金子の都合を願った。大将は俺は貧乏で金がないが、いくら位いいるのだと云う。金は千円位あればいい、なければ五百円でもいいと云って、大まけをして半額に下げた。『それ位か、それなら物でも売ってこしられてやろう、君は森を知っているか、森の方へ話してみて必ずつくってやろう』と云って、快諾して呉れた。余は、これなら必ず真崎大将はやって呉れる、余とは生まれて二度目の面会であるだけなのに、これだけの好意と援助とをして呉れると云う事は、青年将校の思想信念、行動に理解と同情を有している動かぬ証拠だと信じた。特に森氏を真崎が絶対に信じている事、及び川島と森氏とが極めて親交があることを先に実見した事から、川島、真崎の関係が絶対に良好であることの確信を得た。森氏が実によく青年将校の情態を知っているのは、真崎、川島から聞くのだ。この事から想像すると、両将軍が青年将校の威武を相当たよりにしている事が明らかである。殊に真崎は村中、礒部は免官になったが、復職させてやるなどと森に語ったことすらあるらしいのだから、尚更だと云える。」
(原秀夫前掲書より抜粋続き)
礒部の予審調書
問
「一月二十八日に真崎邸を訪れたのは何の用件で行ったのか」
礒部
「私共は昨年末頃から決行の意向を有したるを以て、軍首脳部の意向を打診する為行ったのであります。其の理由として、私共が決行するに付いては今度の如く兵を連れて行くことを軍首脳の方はお知りになって居たと思いますが、兵を使うことに付いては私個人の問題でないから、軍首脳の方の判然とした態度を知り度く思った為訪問したのであります。」
問
「夫れで、真崎大将に如何なることを話したか。」
礒部
「統帥権干犯問題に付いて決死的な努力をしたい、相沢公判も本日から開かれることになったのであるから、閣下に於かれてもご努力願い度いと云うことを申し上げますと、閣下は初め私が訪ねたとき「云って呉れるな」と云われましたので之は私が非常な決心で行ったのを見て・・・・其の様に云われたと思いました。私が前の様に申し上げますと閣下は『俺もやるんだ』と云われました。それから、私は金が欲しいと云いますと、何程入るかと云われたので千円位欲しいと答えました処、夫れ位ならば何とかなるであろうと云われましたが、私は如何なる考えか千円出来ねば五百円でもよいと云いました。すると閣下は森伝を知って居るかと云われましたので、私は、余りよくは知らぬが知っては居ります、将軍は森氏を御信用の様ですが、私は考えが違いますと云いますと、俺は貧乏して居るので金がないから物でも売って作ってやろうと云われました。夫れから、森の方へ電話を懸けて見様と云われた様に思いますが、此の点は確かではありませんが、きっと作ってやると云われました。」
以上、原秀夫『二・二六事件 軍法会議』より転載。
(@_@;)
河野司編・磯部浅一獄中手記より抜粋
森伝氏に宛てて
「・・・二月二十九日、入所以来小生は如何にして千五百将兵の賊名を取り除き、叛乱罪たることを破砕せんかに万考、殆ど血滴をしぼりへらし、骨ズイをスリ減らしました。・・・それですから、川島、荒木、真崎、山下奉文、村上啓作等に対して、有利なる証言をして暮れることを一念に祈願しました。事を解決するの鍵は、川島等数氏にあって、これらの諸氏が青年将校の行動を認めたのだと一言云って呉れさえすれば、千五百全部助かるのだ。陸軍そのものが助かるのだ。軍首脳部からも責任者など一人も出さずにすむのだと思うと、川島、荒木、真崎、山下、古荘、村上、香椎等の諸氏の証言がどれだけ大切で、又どれだけ小生には心配であったかわかりませんでした。
この小生の対公判策を有利に発展せしむる為には、真崎将軍をカツギ出すよりほかに仕方がないのです。唯単に真崎を出した丈では、真崎が知らぬといえばそれ迄になってしまうので、勢い金銭関係を云わざるを得なくなったのです。真崎と小生等と、精神的にまた物質的に深い関係がある事になりて、真崎が「僕は青年将校の行動を認める、俺ばかりではない、川島も事件当時は大臣告示を出して認めている。川島のみならず軍議参議官全部が認めたのだ。寺内も認めたではないか。それのみならず大臣告示中には、各閣僚も青年将校の真精神を理解して、今後<匪躬>の誠を致す事と明記されているのだから、青年将校の行動は罰してはならぬ。青年将校を罰するなら軍事案技官全部、特に川島は厳罰になり、又、現寺内大臣にも責任がある筈だ。又事に天皇先刻の戒厳軍隊に編入され、戒厳命令によって警備地区をもらって警備をしているのだから、絶対に罰してはならぬ」と云うてくれたら、吾々は非常に有利になりますので、小生としては先ず真崎にウント強いことを云ってもらい、川島その他をも同意させる事にせねばならないと考えました。
大体以上の様ないきさつから、真崎将軍の事を比較的くわしく延べ、又川島将軍の事、先生の事に及び清浦子、大隈伯と佐賀閥の事にもおよびまして、真にやむを得ず同志を殺さぬ為に止むを得ず、先生を引き合いに出して意外の御迷惑をかけ、誠に相すみませんでした。先生、磯部と云う奴は恩を仇で返す奴だと御叱り下さらずに、小生の同志を救う為の非常手段を許して下さい。何事も那家万年の為めなれば御海容下され度、伏して願上ます。小生の止むを得ざる失言の為めに、先生に永い間の牢獄生活をさせた事を非常にすまなく思っております。何卒御海容下さい。」
荒木貞夫大将
「君、真崎の判決文を読んだことがあるか。あんな奇妙な判決文はないよ。判決理由はひとつひとつ真崎に罪状をあげている。そして、とってつけたように、主文は無罪。あんなおかしな判決はないよ」
三島由紀夫
「礒部の獄中の手記が、ほとんど『ヨブ記』を思わせるような凄まじいい呪いを奔騰させており、悪鬼羅刹の面影をあらわしているのは理由なしとしない。それは日本の国体論者が、その限界状況において、かえって致命的な国体否定者に転化する劇的な瞬間を記録している。
私は事件後三十年にして世に出たこの遺稿が、達筆の手書きの、ほとんど血書を思わせる墨痕淋漓たる姿のまま、現代アメリカの尖端的な複写機ゼロックス(アメリカ人はゼロックスという語をすでに動詞化している)によって複写されたものを読んで、複雑な感慨を禁じえなかった。
絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である。わけてもその希望が一つ一つ裏切られてゆくような状況裡に、たえず希望を語ることは、後世に対して、自尊心と羞恥心を賭けることだと云ってもよい。それは自己弁護ということとはちがう。二・二六事件はもともと、希望による維新であり、期待による蹶起だった。というのは、義憤は経過しても絶脳は経過しない革命であるという意味と共に、蹶起ののちも『大御心に待つ』ことに重きを置いた革命であるという意味である。こういう二・二六事件の根本性格を、磯部ほど象徴的に体現している人物はなく、そこに指導者としての礒部を配したのは、神の摂理とさへ思われるのである。蹶起の指導者としても、又、挫折の指導者としても。
遺稿の第二部の結末で、簡潔に述べられている挿話であるが、礒部に告発された真崎が、獄中で礒部と対決させられる場面は、尽きぬ劇的興趣に溢れている。真崎は、磯部より森との関係を暴露されて、一時入所し、そこで礒部と対決させられることになったのだ。この煽動家の将軍は、恐ろしい呪詛の焔に充ちた青年の目を直視することができない。それでも虚勢を張って、「国士になれ!」と叱咤する。暗に金銭関係の暴露を封じようとして、そう言うのだと礒部は察する。そこで「余は国士になるを欲しない。以下に極悪非道と思われてもいいから主義を貫徹したいのだ」と答えるのである。
しかし、告発し暴露した党の相手に対して、礒部も亦、その証言に頼らなければならぬ弱みを持っている。対決は七月十日のことで、十五士銃殺のわずか二日前である。もし将軍が誠意ある証言をしてくれれば、同志の命は救われるかもしれないのだ。将軍は将軍で、この危険な青年が、どこまで自分を恫喝しうるかを、恐怖を以て測っている。礒部が、蹶起の瓦解を将軍の責任だと信じていることは明白なのである。裏切り者はきらびやかな将軍であり、告発者は追いつめられた虜囚なのだ。ここは礒部の人間研究に甚だ大切なところと思われるので、煩をいとわず引用しておく。
『他の同志はもはや死を観念しているのに、余はひとり楽観して、栗(原中尉)から、礒兄は永生きをする、殺されるのがきまっているのにそんなに楽観出来る様な人はたしかに永生きをする、等と云いて冷やかされた。栗(原)から、礒部さん、あんたは不思議な人だ、あんたに会うと何だか死なぬ様な気がする、等と云われたこともある。余は七月下旬には出所出来る、出所したら一杯飲もう、等云いて、栗(原)、中島をよろこばしたものだ。軍部や元老銃身が吾々を殺そうとした所で、日本には陛下がおられる。陛下は神様で決して正義の士をムザムザ殺される様な事はない、又、日本は神国だ、神さまが余等を守って下さる、と云う余の平素の信念がムクムクと起こって来て、決して死刑される気がしなくなったのだ』
正直に言って、此度発表された遺稿を通して、私にもっとも興味があったのはこの問題である。私の年来の人間観をもう一度検証してみようという気を起こさせたのはこの問題である。ましてそれは三十年を経て今なおなまなましく、もどかしい禿筆の乱れるに委せて書かれた筆跡そのまま、今私の目の前にあるのである。人は日常生活では、これほど肺腑をえぐる、しかもこれほど虚心坦懐な告白に接することは、めったにあるものではない。そこにあるのは、人間の真相にほかならない。」(三島由紀夫『道義的革命の論理‐磯部一等主計の遺稿について』文藝 昭和42年3月 初出)
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