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60年代はよかったなあ。
飽食と浪費のバブル80年代に青春期を送った団塊二世世代の私は実際には60年代の空気は吸っていないのだが、そう信じて疑わなかった。退屈な毎日、自由であるはずなのにかかわらず昨日今日明日の三角関係が永遠にもつれたままの状態を抜け出すことのできない虚無感。未来を見ても閉塞から逃れるためのホールはみえないが、しかし過去には活き活きとした理想郷が横たわっていたではないか。80年代以降の世の中には絶対にないような興奮と激動の時代、それが60年代後半から70年代にかけてのカウンターカルチャー期である。
ベトナム戦争には介入しなかった日本でも、見せ掛けの反戦ムードができていたせいか学生運動が各地ですげー盛り上がっていた。死人まで出た。エクセレントだった。昼ひなかからいい年した奴がそこらで座り込んでギターをひいていても無職・ニートのそしりを受けないのが日常であった。生産的な生活をしないことが正当化される、まさにダメ人間にとっての楽園である。浅間山では銃撃戦がおきた。ニートVS公務員、ギャラの発生しないガチンコのビーバップタイマンだ。キャッホー。市ヶ谷の自衛隊本部では三島由紀夫が立てこもり集団切腹までした。嘘のような話だが、現実に起きたことである。現在では過激映画家といわれる若松孝二の作品が現実の過激さを上回っていたわけではないことが当時を物語る指標である。
ミュンヘン五輪ではアラブのテロ団体がイスラエル選手団を虐殺し、捕まった犯人はハイジャック機の交換条件で簡単に釈放され逃亡。フィクションの中でしかありえないような事件が頻繁に現実の紙面をにぎわす。テロリストは中東の特産物ではなく、我が国のチーム・ジハード達もダサダサ人民服みたいな工作制服と理解度の怪しいマルクス語録をチグハグに身にまとい、過激な活動を続けた。労働紛争をあおり、大学を機能不全にし、建物を爆破、内ゲバで暴力、あげくに構想3日準備4日の即席ハイジャックで厚かましいことに兼高かおるも立つ瀬のないようなローバジェット・ノーリターン世界旅行に旅立った。世界同時革命だ〜。911のツインタワー崩壊も、当時であれば誰もが「またやったか」と目を細め、想像力を打ち破られ震撼するようなこともさほどはなかっただろう。
必ず誰かが何かをやらかし、エンターテイメントが必要でなくなるほど、日々のネタには不自由のなかったカウンターカルチャーの時代。毎日、セクメトの魔の手によってかき回されたグツグツ煮え立つ『時代の鍋』の中を渦巻く熱流が何重にも飛び火して社会の心拍数を数倍に高めていたあの頃。一体、あの時代はどこに行ってしまったのか?もうあの興奮はジャイアンツのV9と同じく歴史のファイルに閉じられたきりなのだろうか。
60年代をもう一度!カウンターカルチャーを我々の手に今一度!そう叫ぶのが小説家の島田雅彦。「遅れてきた全共闘世代」を自任し、80年代に数々の反社会的反抗者を描いた作品を世に送り出した島田は文筆業のキャリアを通し一貫して「対抗文化回帰」の路線を貫いてきた。現在、有名大学教授として社会的な地位を得ながらも、やはり彼の発言は異端者、主流文化に抵抗する者を代表しているようだ。
彼がここ数年、提唱しているニルヴァーナ・ミニとは、現実からのわき道に開かれた小さなポケットのことだ。個人を守り、個人の世界観を包む小さな空間は、人間の思索、想像活動にとっての原点であり、自分が自分である認識を維持するための砦だ。岡倉天心に触発された、だの千利休の追求した境地だ、などといろいろと島田は理屈をこねるのだが、元々のアイデアは国内カウンターカルチャー期の一つの象徴であるmキaチtガsイu安z部a公w房aの「箱男」からきているのは自明である。
最近の著作の中で、島田はその自身のトレードマークであるニルヴァーナ・ミニを再定義。「経済不況による窮乏と、長引いた国際戦争による疲労」により社会の困憊した現在のアメリカは丁度、ヒッピー時代のカウンターカルチャー期に匹敵すると主張する島田は、「ここに当時カウンターカルチャーを司ったダイナミックなアートや社会運動が復活すれば、2010年代の世界において対抗文化が再現されるのだ」と持論を展開。それを振興させんとする勢力を結び合う媒体こそがニルヴァーナ・ミニであるとこじつける島田。これまで時空を超えたものがニルヴァーナ・ミニだとか言っておいて、平気で掌を返す。
結局は、この男の考えることは80年代からずっと同じところを堂々巡りしているわけであり、簡単にいえば60年代リバイバル、学生運動(幼児革命)復興が自分や自分を支持するネクラ層にとってのゴールというわけである。彼にとっての理想の世の中とは、長髪の若い奴が学校へ行かず輪になりゴネだし、フーテンが溢れる繁華街にリーマンが肩をせばめ、自称芸術家や役者の集まるアシッド・パーティーには誰でも参加でき、庶民が奇天烈な希望や夢を大声で語れ、朝鮮人や障害者が笑顔で目抜き通りを闊歩し、TVをつけると大橋巨泉と應蘭芳が遊興放送の司会をする・・・・バラ色の日々なのだろう。国籍および不倫の永久欠番◎を背負った柳美里や、妄想少女応援隊リーダーの大槻ケンジなど60年代後半生まれの半端なフーテンワナビーが手を叩いて喜びそうな話であるが、本当にこんなものに価値があるのだろうか。
退屈なポスト・対抗文化期には、それまでのヒッピー文化の隆盛が嘘にしか思えないほど沈黙の時代が訪れたのは事実だが、それでも潜在的なところで60年代の因子というものは見え隠れしていたのだ。私は90年代初頭に岩手県を旅行している際、「極左暴力を根絶しよう!」という公安の張り紙をみてそのアナクロさに驚いたことがある。じゃあ青森までいけば「落武者に注意」とでも言われるのだろうか・・・・。都市部ではそういう露骨な形で対抗文化時の遺物は見えてこないが、たとえば「怪人二十一面相(一連のグリコ・森永事件の黒幕キャラ)」や「赤報隊襲撃事件」など安保闘争時代の残党によって引き起こされ転換期のイデオロギーが浮き彫りにされるような出来事も節目ごとに登場し、そして90年代の幕開けに発表されたビートたけしによる邦画「3−4X10月」は対抗文化リバイバルの隠れた金字塔をうちたてた。
青島幸男が60年代にクリエイトした映画のパロディーまでがでてくる「3−4」は、60年代に青春期を送ったビートたけしによるタイムカプセルの開帳であった。ビートニックを意味する芸名を持つビートたけしは、それまでにも昭和40年代のノスタルジーを作品にしていたし、泉谷しげるやネジメ正一といった時代錯誤な過激派にも支持的であり、「3−4」はまさにカウンターカルチャーの復興であるかのようにみえた。
しかし、60年代のタケシは決して、周囲の和製ヒッピーに同調的ではない。みずから大学をドロップアウトし、演劇団員の見習いになり、ジャズ喫茶でアートや思想を語らっては運動にも加わる・・・・そういった典型的な当時の反体制学生崩れを任じながらも、「日本のヒッピーは偽者」だと強い批判精神を持っていたタケシが当時の時代の風潮に完全に迎合することはなかった。体制派でもないが、主流文化に反抗するヒッピー・ムーブメントにも抵抗するのがビートたけしであった。カウンターカルチャーが収束し二世代が過ぎた90年に「3x4」を世に出したビートたけしが達成したこととは決して当時のリバイバルなどではなく、60年代末期の風潮に反抗的であった自分が、バブルの時代においても反抗的でいるための手段が「カウンターカルチャー期」の孤独をあえて再現することだ、という表示行為にすぎなかったのである。スコセッシが「タクシードライバー」で描いた「周囲からずれた個人的世界観からの現実への殴りこみ」に近いものがあるかもしれない。
ニューフロンティアが挫折の上行き着いた金融工学、戦争、そして経済不況の三角関係が市民を”未来なんかどうでも「えじゃないか」ムード”に導く2010年代に、今一度カウンターカルチャーへ若者を誘おうとアメリカで運動を起こした島田雅彦。彼自身、幼少時からの異端ぶり、社会不適合者としての仮烙印をネタにしてきた作家であり、時代が60年代に似通う展開をみせ与太者が増え抑圧が解け、あらゆるディバーシティーにも理解が深まれば住み易い世の中になるとでも想像しているのかもしれないが、実際はそうはいかないだろう。カルチャーの作り手とマスコミに煽られた無数のヤジウマとの距離、運動の発案企画執行する側とそれととりまく無数のヤジウマとの断絶の無情、そこに気付いた瞬間、ビートたけしの持っていたような孤独なアパシーは島田をカウンターカルチャー運動から遠ざけてしまうだけだろう。体制のほうにもカウンター勢力のほうにも、神の見えざるウィスクによって全体の中で均衡がもたらされる力学の前に個人の行動学はロールプレイと化し、決して独断の探求行為が実を結ぶような土壌がそこにはないのだ。クリエイターはどこまでいっても孤独なのであり、ニルヴァーナ・ミニが生来的に持つ幽閉的特性は永遠に保障されるであろう。
ちなみに世界のカウンターカルチャーのアイコンであるジョン・レノン。彼ほどになると、まだ市民運動やヒッピー・ムーブメントがクライマックスに達する前より、すでに転換期を見切ったことを宣言しているのだ。Revolutionと名づけられたヒット曲で、レノンは若者の先端文化の担い手としてどれだけ革命の重要さを説き、社会の変革を謳うのか、と思いきや、なんと革命をすっぱり斬ってしまうのである。「お前らなんかに革命はできないし、やる必要はない。ヤジウマの君達の出る幕はもうないんだよ」と三行半をつきつけたのがビートルズのヒット曲なのである。これこそが、カウンターカルチャーの枠組みを作ったのがその推進的な存在によるものではなかったことを如実に示す証拠である。島田はマスコミの作った60年代像、テレビの伝えた激動の時代にとらわれていただけで、実際のカルチャーの原動力にまで思念を到達させることがなかったのだ。
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