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出典:月刊ザ・フナイの2010年7月号〜10月号までの副島氏の誰も書かない世の中の裏側
隠されたヨーロッパの血の歴史 副島隆彦著 KKベストセラーズ刊
陰謀論とは何か:副島隆彦著 幻冬舎刊
カナンの呪い:ユースタスマリンズ著 監訳太田龍 (マリンズ公認版)成甲書房刊
陰謀論とは何か:副島隆彦著 幻冬舎刊 P198より 副島氏の言葉
以下転載
コンスピラシー・セオリーの重要な文献は、この50年間にはほとんどアメリカ合衆国で描かれたものである。同じ内容でも日本人に書かせると、とたんに知的レベルが低下して室の悪い本ができる。陰謀論全体がアメリカ製の舶来モノ(洋モノ)である。勘が鋭いだけではダメだ。やはりきちんと欧米の政治思想の古典を読んで、その上に、ある程度のふくらましをやるならいい。人間は自分で自分の信用を落とすようなバカな本は書かない方がいい。
転載終了。
まったく副島先生の仰るとおりである。ご自分にも通用することを他人事のように言いきってしまう副島氏の厚顔無恥さには感服する。
その副島氏が尊敬するコンスピラシーセオリストの一人がユースタス・マリンズである。
マリンズ氏の紹介も兼ねて、
以下陰謀論とは何かP55より
以下転載
病院に入っていたエズラ・パウンドの下に駆けつけて、弟子入りしたのがユースタス・マリンズです。マリンズは先生のパウンドを精神病院から出すべく、文化人、知識人たちと釈放運動をした。
マリンズはパウンドたちからいろいろ話を聞いて本を書いた。@『衝撃のユダヤ5000年の秘密』(日本文芸社、1995年刊)A『民間が所有する中央銀行』(秀麗社、1995年刊)B『世界権力構造の秘密』(日本文芸社、1995年刊)という重要な本を書いています。数々の優れた政治告発書を書きました。ふたりともアメリカ白人でカトリック教徒です。
転載終了
マリンズ氏はカトリックとあるが果たして著書をみるとそうなのか?と疑問の思うところもある。キリスト教徒ではあると思うのだが。
副島氏は世俗主義的人間主義に対して肯定的である。
以下転載
月刊ザ・フナイ2010年誰も書かない世の中の裏側 イルミナティ=フリーメイソンとは何かより抜粋
ヴァイスハウプトは、1772年に24歳で教授になり、哲学者のイマヌエル・カントの影響を強く受けて実践理性(プラクテシエ・フェアヌンフト)哲学という思想を大学で講義し始めた。表面上は、教会法の教授(神学者)ということでした。
このドイツ人の若い学者であるヴァイスハウプトが、1773年から、激しく理性(合理性)という信仰の思想をはっきりと唱えました。これが、大きな思想運動となって、一気に広まりドイツ国内にワーッと流行しました。それは、1776年にイルミナティという団体(結社)の公然たる運動となって表面化しました。そして瞬く間に、ヨーロッパの全ての大都市にまで、ほとんど同時的に、この世俗主義の運動が巻き起こり、みるみる広がっていきました。この世俗重視の思想は、ローマン・カトリック教会への批判を秘めていた。勃興する有能な市民たちの階級が我慢しなくなった。無能で傲慢な貴族や僧侶(大司教)の言うことをもう聞かなくなった。だから、この1776年をきっかけとして、西欧白人たちの近代社会であるヨーロッパ全土と、さらには北アメリカの諸都市の植民者たちが成長して豊かな市民階級になっていた地帯でも、イルミナティ=フリーメイソン運動が激しく、燃え上がりました。それがアメリカ独立運動(1776年)の始まるであり、全く同じ年なのです。この事実は重要です。
中略
今から200年前はヨーロッパ社会でも「宗教の自由」はなかった。教会から追放されるということは、日本で言えば江戸時代のお寺の宗旨人別帳から外されるということだ。非人にされてしまう。
そして、死んだときにも、教会の神父から終油の儀式をしてもらえない。教会に葬式をしてもらえないのだから都市の中にある墓地に埋葬してもらえない。「地獄に落ちろ」と言われるに等しいことだった。現代なら別に恐れないが、当時はそうはゆかない。人間は、その時代囚われ人である。前号で述べたモーツァルトは現に、神父(僧侶)たちに嫌われて、ウィーン都市の外(郊外)の貧民用の墓穴に遺体を投げ棄てられた。
だから、教会からの迫害を恐れたフリーメイソンの会員は自分たちの信念と誓いを作り、密かに自分たちだけの共同利益を追究する集団となり、ヨーロッパ全体の横のつながりをつくっていった。彼らは、だから日本で言えば、仏教の僧侶や神道の神主たちの言うことを聞かなくなった平信徒や氏子たちの集まりである。この思想をセキュラリズム secularismと言い世俗主義という。この世俗(重視)という考えは教会中心の神聖性(holy divinity 神性)という考えを真っ向から対立する。そして、フランス大革命(1789年〜)以降、世界はどんどん世俗主義になっていった。今からほんの65年前(1945年の敗戦)に天皇神聖体制から自由になった私達の日本も今は、世俗主義の世界である。
中略
フリーメイソンという秘密結社は、自分達の金儲け肯定の思想を根本を、ラシオリズムあるいはリーズン(合理主義、思想崇拝)だとする。彼らは自分たちの生き方が、教会へ神父たちから唾棄され、毛嫌いされたことへの、激しい反発と怒りに密かに待ち続けている。こういうことのなのである。このことが分からないと、西洋白人世界の、この200年間というものの重要な点が分かったことにならない。私、副島隆彦はこれらの重要な知識が日本国内で文献(書物)に全く描かれていないことが全く不思議であり、ずっと不満だった。
世俗的人間主義に対する副島氏の意見はこれで終了。
まあ、カトリックに窮屈に政治や思想や生活などをがんじがらめにされていたヨーロッパの人間が精神や思想の自由を求めた至極人間的な発想が世俗的人間主義であり金儲けも性欲ももっと自由にした素晴らしいことらしい。
この世俗的人間主義を広めたのが副島氏によるとイルミナティ=フリーメイソンでありその根源となったのがイタリアで15世紀におきたリナシメント(ルネッサンス)と言いたいらしい。
では、ルネッサンスのアカデミア・ネオプラトニカ(新プラトン思想)についての副島氏の意見。
ヨーロッパ隠された血の歴史 P92〜転載
転載開始
老コジモ(メディチ家の当主ルネッサンス運動の初代パトロン)は、死ぬ1464年まで、ちょうど30年間フィレンツェの権力を握りしめた。当時のフィレンツェは、全ヨーロッパで最高に栄えて台とぢである、パリやロンドンなどただの田舎都市であった。きっと多くの商人や旅人でにぎわったことだろう。新プラトン主義(ネオプラトニズム)と呼ばれる大きな思想運動がこのフィレンツェで1439年から起きた。この運動の理解者で支援者となったのが老コジモだ。老コジモが居るところ、そしてその周りに集まり始めた。初期の学者たちがプラトン学院である。そしてそれを孫のロレンツォが引き継いだ。優れた知識人達がこの集まり(サークル・サロン)にたくさん集まって、真実を追究する激しい言論活動をやった。
老コジモが資金を出すことで知識人、学者たちが集まることができた。何十度でも書くが、この新プラトン主義の運動こそはルネサンスそのものである。ルネサンス(人間復興)と後世呼ばれるものは、まさしく、この「アッカデミア・ネオプラトニカ」という思想家集団の集まりのことそのものだ。私は本書で何度でも性懲りもなく、このことを書く、誰にも遠慮しない。すべての人の耳元でガンガンとこの大きな真実を言い続ける。
ロレンツォが死ぬとこの新プラトン主義の思想運動は、その後、闇に葬られた。新プラトン主義のことを神秘主義(ミスティシズム)の枠の中に入れて悪魔(崇拝)主義だとして毛嫌いして、歴史の闇に葬り、世界中の人々が関心を持たないように誘導し、なるべく言及させなくした。話題にのぼらないように意図的に忘れ去らせた。そしてフィレンツェをただの観光名所、ただの芸術作品の都市に墜とした。
新プラトン主義(ネオプラトニズム)こそは、ルネサンス運動そのものであり、ルネサンス運動の魂である。それはまさしく、このフィレンツェのメディチ家の中でできた学問サークルのことであり、メディチ家の居間で催された食事会や、そのあとのサロンで和気あいあいの自由討論のことである。
このメディチ家が主宰してパトロンとなり、知識人たちを支援したこの新プラトン主義の思想は、それなのに1492年のロレンツォの死のあとは巧妙にかき消され無化され、雲散霧消させられた。新プラトン主義が唱導した人間礼賛の思想は押しつぶされた。人が生まれて、そして生きていること自体は罪でも何でもない。「人間は罪を背負って生まれてきた」というカトリックの思想はウソである。巨大なウソである。人間(人類)を騙し、ひざまづかせ、問答無用で宗教に屈従させる。恐ろしい洗脳である。人文主義者たちはこのことを気づいた。人生はそれぞれの人が、自分の力の限り生き、自由に謳い上げることができるのだ。これが「プラトンに戻れ、裸のままの人間を愛したギリシアに戻れ」の思想だ。人間は自由に恋をして愛を語って、生きることの苦労をできる限り吹き飛ばして、一人ひとりそれぞれの生活を思いっきり楽しんでいい。古代ギリシア(当時よりもさらに200年前)の紀元前400年頃のプラトンたちのように芸術を愛し、裸体であることを恥じず、宗教による抑圧や命令もなく、王様による支配もなく、自由に政治や学芸について討論して、のびのび生きてよいのだ。このようにプラトン主義の学者たちはフィレンツェの各所で機会をとらえて講義し主張したはずなのだ。
ところが新プラトン主義の思想運動は、旧来の勢力によって嫌われ、忌避され、疎んじられ、そして弾圧されていった。歴史の闇に葬り去られていった。多くのすぐれた人々が殺された。ルネサンスの魂そのものであり、ルネサンス(リナシメント)の本体そのものである新プラトン思想(アッカデミア・ネオプラトニカ)は絞殺されて消されていった。
転載終了。
ルネッサンスは人間復興、人間礼賛、カトリックという宗教的監獄からの解放を唱えた画期的な運動であったと手放しで褒めている。一般の常識的教科書レベルではそうであろう。
しかし、副島氏が認定するところのユースタス・マリンズの意見は真っ向から違う。
『カナンの呪い』のP126から抜粋
どうして世俗的人間至上主義が議論されないのか
フリーメイソンたるカナン人が成功をおさめているのはプロパガンダの方便を身長に選んでいるからである。そうした方便の中でもっとも有効に働いているのが世俗的人間至上主義で、これによって、キリスト教会の発言者んぼ大部分がフリーメイソン活動に身を転じるところとなった。
世俗的人間至上主義は、人類の利益が何よりも優先されなければならないという基本前提に立ち、「政府の利益」こそ人類の利益を実現するための第一の道具と主張することでサタン主義―――大きな政府すなわち、言うまでも無く、全体主義―――の第一の支持思想となっている。政府の官僚は、このやりかたに則って、常に「人類の利益」を「精神の利益」に対抗させるから「精神の利益」はわきに押しやられることになる。世俗的至上人間主義は、もっと的確に言えば、束の間のことがら、この世界のことがらについての人間主義である。「死後の世界はない」、この世があるだけだと考える人々にとって、生きているうちに全体を支配することは何より重要なことなのである。他方、死後の世界を信じる人々は、この世での非道な行いに対しては寛容すぎるきらいがあって、死後の世界では万事もっとよくなると考える。
「人道主義」という言葉と「人間至上主義」という言葉が頭の中にないまぜになっている人も多くいる。人間至上主義は決して人道主義ではない。
20世紀にもっとも広く知られた人間主義の例といえば、ソヴィエト・ロシアの死の収容所だろう。そこではおよそ6600万人の人々が死亡した。人道主義とは思いやりと誰かの苦しみを癒したいという望みの結果である。一方、人間主義は、古代バビロンの悪魔崇拝と幼児の人身御供に直接由来しているから、敵あるいは敵と目される人に苦しみを負わせることをその究極の目的に掲げる。アメリカ合衆国の人間社会主義書記官は「支援している」と自ら主張している人々を侮辱し、傷つけている。国税局などそうした人間主義期間の最たるもので、国民の財をゆ「より値する」受取人に再分配することをその目的としている。そして、この「より値する」受取人というのは往々にして、外国に住み、合衆国が破壊されるのを心待ちにしている人々である。
人間至上主義には常に特別な政治的方向がある。それが目指すところは、政治機関を乗っ取って恒久的に社会主義を打ち立て、そこで全体主義国家の官僚が「人類の利益」を支配することである。現在実に多くのヨーロッパ諸国で実現されている「福祉国家」はこのゴールに到達するための大きな一歩である。
中略
なんと、マリンズによると人間至上主義とは大きな国家の実現であり全体主義つまりは社会主義国家が究極の目標であるらしい。
副島氏による市民、民衆レベルの人間復興や人間の尊厳を守るというようなユートピアのような話では無いらしい。ごく一部の人間が自己の利益を守るために全身全霊をかける考え方みたいである。
同書P129より再度転載
人間主義の重要要素である憎しみの起源は、古代史の中のバールという邪心崇拝に、「宗教」の名を借りて人身御供でをおこなったカナン人に、そしてその神々を称える儀式において行われた人肉嗜食に、されにはモロクの儀式で行われた幼児殺害に存在する。現代社会において大国を支配し、20世紀を通じて大量虐殺をおこない、私たちの時代を人類史上かつてない大量虐殺の時代としながらさらなる大量虐殺を求めているのも、まったく同じカナン人である。
人間主義の悪魔的根源は、神を否定するその立場にも、神は世界の創造には実際のところ関わっていないとするカバラ思想の主張にも、また、世界の創造をサタンおよびサタンの悪行によるものとするカバラ思想の発想そのものにあらわれている。「霊の世界のすべては堕天使の知恵で動かされる。冥界の霊は降霊紀にもあわわれる…降霊術はこの世の王子、神の称号を未だに維持し、長期にわたってこの世を満たし、動かそうと決意している大堕天使の集中にある媒介手段にほかならない」とするI.M・ハルデマンの言葉を考えると、降霊信望者、降霊術師など、多くの人々がこの世はサタンに支配されていると信じることが明白であり、人間主義者もその行動から察するに、同様であると思われる。サタン主義の慣習を採用しないかぎり、生への憎しみをその思想の第一要素として受け入れることなど、到底できることではない。
一旦転載終了
マリンズによる人間至上主義はそれを実行して自己の利益を追究する人々にとってはある意味憎しみがありその権力者側の人間は民衆を憎んでいる。その思想の発想はカバラ思想でありカバラ思想とはマリンズ氏にとっては悪魔主義のオカルト主義の大変悪しきいかがわしいことであると紹介していると私は解釈する。
では長くなるが転載再会
P131より転載
神秘学派の祖ピタゴラスから連綿とつづく系譜
人間至上主義の長い歴史を検証し、さらには古代世界から現代に至るまでその発露を追跡すると、どの時代にも共通してみられることがあるのに気づく。第一は夕までも無く、悪魔崇拝の儀式に重きを置くバールとアシュトレトのカナン人の世界。第二は世間から大きく抵抗されたためかm「知的」外観という保護衣をまとったこと、すなわちバール神がフォースタス博士(伝説的錬金術師)となったことだ。哲学めいた話を徐々に前面に打ち出すことで、血しぶきがあがるカナン人の祭壇を靄の中に隠したのである。こうした「人間至上主義学派」の開祖がピタゴラス(紀元前五八二―五〇七)で、ピタゴラス学派はクロトナを拠点に「神秘学派」として役割を果たした。つまり、その哲学の「神秘的」側面は、慎重に選ばれた「参入者」の集団に対してだけ説かれたということが。また、ピタゴラスの方程式は二元論の第一原則、すなわち、限りあるもの(有限の源)と限りないもの(無限の源)に基盤を置いていた。事実上、これは最古の弁証学派であり、その教えはヘーゲルや、有名なその門下生カール・マルクスの一九世紀の活動において頂点に達した。
ピタゴラスの一派はさらに、何世紀かのち、<ゾハール書>の中にあらわれる教え、つまりカバラ思想を大々的に扱っていった。その一つが数霊術で、彼は宇宙を数学的等式として凝縮し、それを支配する秘術めいた公式を産出、発見しようと試みた。またこの一派は四列数を取りあげ、一から教えて最初の四つの数字を足すことで得られる一〇を聖なる数とした。
クロトナのピタゴラス一派は今日、私たちの時代に興味深い関連を遺している。一九三〇年代、神智学協会のアメリカ支部が置かれた場所がカリフォルニア州クロトナだった。この町の名前がピタゴラス学派の町にちなんでつけられたものかどうか今もって不明だが。
一旦転載終了
ちょっと休憩。まとめると人間至上主義は秘教つまりカバラ思想が理解できたものが特権的に副島氏のいうところのラチオ、強欲などのイルミナティが掲げるものを追究できるという考え方でありこのカバラ思想はピタゴラスの時から取り入れられていたということなのだな。まったく怪しいものである。そうすると人間至上主義はアダム・ヴァイスハウプトの提唱したイルミナティの思想と一致するということになる。結論は皮肉にも副島氏の意見と一致する。但し、副島氏の否定するオカルティズムや悪魔崇拝は切り離せないが。
陰で世界を支配するメーソン原理はプラトンの発明
ピタゴラスの定理、あるいは数学についての形而上学はプラトンに大きく影響を与えた。私たちはプラトンを哲学者として認識しているが、成人してからの彼はかなりの政治力を行使しつづけ、ペルシア帝国の拡大に反対する地中海学派の政治的集団の指導者として目されていた。彼はまた、地中海地方における政治氏は意見をギリシアに取り戻すために、エリート層の育成に主導的役割を果たした。ピタゴラスの影響から、今日のフリーメイソンのそれにも似たプログラム、すなわち背後で影響力を行使すつつ、隠された計画に従事する秘密のエリート集団を組織し、その計画原理は彼らだけにしか知らせないといったプログラムをつくりあげたのだった。
プラトンはギリシアの連合勢力の指導者として、シラクサの支配者ディオニュシオスを支持した。ディオニュシオスはプラトンにとって、のちの哲人王の手本となった。一方、ディオニュシオスの義弟ディオンは哲学学園の設立資金(アカデメイアの森として歴史に知られることになる一連の建物のための資金)をプラトンに提供した。アテネ郊外に建設されたその建物の一つで、プラトンは『国家』を―――将来の人間至上主義がその社会全体を支配するための手引きとして―――著し、デルフィに対する神聖戦争(この闘いではアポロン神殿がそこに蓄えられた漠台な金もろとも占領された)にあってはティオニュシオス二世に震源をおこなった。また晩年には、師ソクラテスを偲んで対話編『ティマイオス』を著した。
プラトンもピタゴラスも、神秘思想に好まれる魂の転生を信じていた。プラトンが人間至上主義の発展に寄与した重要人物の一人である続けているのは、ピタゴラスのあとを受けて人間至上主義をバールという邪心崇拝に基づく教義から立派な「哲学の一派」に、ほとんど一人で変容させたからである。変容させたとはいえ、それが、みずからを特別に「選ばれた者」、知らない者に対して「知っている者(グノースティック)」と見なす秘密のエリート層によって、人類に仕掛けられた奴隷化を目ざす教義であることに変わりはなかった。
人間至上主義は社会の世俗的側面にいよいよ深く関わりながら、その基本激な教えに忠実であり続けた。その基本的な教えとは、汎神論、自然崇拝、グノーシス主義(紛れもなくその拠りどころになっているサタン主義の化身というべきもの) さらには神秘主義といった主たる「秘教」カルトの教義を混ぜ合わせて成立したものである。このような教義の脅威ゆえ、キリストは有名な警告を発した―――「偽予言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からフドウが、あざみからいちじくが採れるだろうか」<マタイによる福音書7:15−16>
人間至上主義は羊の皮をまとった狼なのである。人類への思いやりを、ホームレスや貧しい人々への関心を宣伝しながら登場するが―――キリストの言葉にあるように―――その実で見分ける必要がある。彼らが何をしようとしているか尋ねるのではなく、彼らが何をしているのかを見出すのである。こうすれば、茨からブドウを、あざみからイチジクを採ろうとすることもないはずだ。
神秘主義思想はヘルメス・トリスメギストス、つまりエジプトの知恵、学問の神トトに与えられたギリシア語名に由来する。この名の本来の意味は「三倍武装する」であり、他より多くの情報を持つも者はより大きな保護を受けることを意味している。フランセス・イエーツは、その著書『ジョルダーノ・フルーノと神秘主義の伝統』には以下のように記している―――「宇宙の生気についての理論は魔術の基礎であり、錬金術は優秀さにおいて神秘主義と同等である。錬金術師の聖典というべき、有名な<エメラルド・タブレット>はヘルメスによって刻まれたものとされている」
それゆえキリスト教指導者による撲滅努力にも関わらず、中世にあってはさまざまな形の迷信黒魔術が流布した。錬金術師は卑金属を金に変えようと躍起になり、ヨーロッパ中で神秘主義ちう新たな弁証法、つまりカバラ思想が大きな力をもつようになった。「カバラ」とはずばり伝統を意味する。それは<ゾハール書>として明確な形をとったが、同署は紀元一二八〇年、ユダヤ人神秘主義者モーセス・ベン・シェムトーブ・デ・レオンによって基本法に関する注釈書(ミドラッシュ)として記された。伝説によれば神がモーセに掟を与えたとき、その掟の秘密の意味に関する第二の啓示も同時に与えたとされていた。この秘密の教えは、何世紀ものあいだ書き記してはならないとされてきたから、参入者の選ばれた一段に口伝するという形で残されていた。「秘密の意味」は「秘教」カルトの基本である。神智学も秘密という意味に基づいていて、その教義はカバラ思想から直接採用されている。
とはいえ、アメリカのカルトに関してもっとも広く読まれている研究所の『カルトの王国』の(ウォルター・マーティン著)の神智学の章にもカバラ思想のことは一切言及されていない。
金満メディチ家の支援で爛熟した新プラトン哲学
<ゾハールの書>は一〇のセロフィト(神性からの流出)と化にの名を構成する二二文字のヘブライ語アルファベットを基盤とする神智学的体系として記されている。一四九二年、ユダヤ人がスペインから追放されたことで、カバラ思想の同師がヨーロッパじゅうに塵、その教義がルネサンス紀の主流哲学、新プラトン学派を生み出した。その新プラトン主義がさらに、その他の哲学の発展の源になって、宗教改革、啓蒙主義運動、革命の時代を直接導き出した。
<ゾハールの書>は、この世の悪魔は、人間と魔性なる者との間に性的交わりに由来し、よく知られているリリスのような悪魔もそのようにして誕生したとするタルムードの伝説を力説している。それゆえ、悪魔的儀式では常に性行為が重視される。新プラトン学派の徒が大きな非難を浴びたのはその師と弟子が同性愛行為を行うことを広く知られたためだった。
新プラトン主義は神秘主義の著作を、カバラ思想を背景にまとめられたグノーシス主義と結びつけ、内なる光明(イルミナティ)(ドイツにイルミナティの発展を生じさせる直接の誘因となった教え)、忘我の状態(エクスタシー)および秘教思想と合理的主義思想の関連を強調した。神秘体験による「自我の解放」は信望者をひきつけて離さず、この哲学体系はほどなくルネサンスをヨーロッパにおける主流文化勢力にした。ビザンチン人のプレトンの影響を吸収しつつ、新プラトン主義はピコ・デラ・ミランンドラの学説の中で結実した。それによれば、魂は展開内に明確な親和力をもち、その実態は火の天空の上部に存在しる四元素から成る同心球層一帯に配されると唱えられた。
プラトンの場合のように、この一派の思想も支配層を引きつける力をもっていたらしく、実際、それはやがて利用された。ルネサンス期に最高権力を有した銀行化であり、イタリアの「黒い貴族」(ゲルフ)の長コジモ・デ・メディチは一五世紀、フィレンツェにアカデミア・プラトニカを設立するための資金を提供した。こうした経済的、政治低支援を得た新プラトン主義は急速に認知され、一四八六年には、ピコ・デラ・ミンデラが新たに思想に関する九〇〇の論文(うち七二の論文が紛れもなくカバラ思想だった)をアカデミア・プラトニカに提出した。著名なヘブライ研究者デラ・ミンドラにすれば、新プラトン主義哲学の多くは自らの研究分野に基づいていた。人間が中心に置かれる宇宙を強調することで、彼はまた実存主義という二〇世紀の哲学を予感させたとも言われる。
また、ヨハン・ロイヒリンは「クリスチャン・カバラ」つまりカバラ思想のキリスト教的解釈を発展させたことで有名になったが、アカデミア・プラトニカにおいてデラ・ミンドラの後継者となり、新プラトン主義の教義を広めた代表的人物である。
ルネサンス人間主義のユートピア思想が共産主義の基盤
新プラトン主義はのち、単に「ルネサンス人間至上主義」の名であるいはクリスチャンカバラ思想として知られたが、多くの場合、神への信仰を排斥していた。このような哲学は基本的に、事象(あるいは生命)は本質的には不完全であり、それゆえ、他の完全なる世界に混乱を引き起こすとするカバラ思想を主要見解としていた。また、「完全な」国家を樹立することで社会の「不完全さ」を正し、国家の完全さは独裁体制によって守られ支えなければならないとしたプラトンの『国家』は将来の「ユートピア」思想、つまり共産主義」としてもっともよく知られる基礎になった。
このような完璧な体制が実現されたら、国家は消滅し、もはや独裁権力が行使される必要などなくなるとマルクスは主張したが、共産主義国家で、このような完全さを実現した国家は未だかつてない。これはあくまでも生命の発展過程に対知る憎しみに起源をもつ完璧な指向なのである。その憎しみゆえに、ソヴィエト・ロシアにおいて六六〇〇万人の人々が殺害されても、「人間至上主義」は両親の呵責など一切感じなかった。それもこれも、宇宙における神の役割の否定という共通基盤をもったカバラ思想および東方的教えであるグノーシス主義の間に新プラトン主義と言う名の「完全なる結婚」が成立したからにほかならない。
イルミナティ世界単一国家思想の源流を見つけた
コジモ・デ・メディチという名の財力と無現の行動支配の可能性を提供する新プラトン主義が結び付いたことで生じた状況は、セムの子孫に対する絶えることのない戦いの中で、カナン仁に指令を与えようと準備されたものだった。プロティノスとその門弟ポリフィリオスによって、新プラトン主義の基本側面、すなわち第一原理および現実の源、一なるもの(善)は存在と嗜好を超越していて、それゆえに知ることのできないという側面はすでに確立されていた。あることがらについては「知ることはできない」が、ふさわしい参入儀式を経験した秘密の一段にはその秘密の意味が明かされるとする教えをその出発点とするのはグノーシス主義の常である。
だからこそ、新プラトン主義の教義は世界中の新(世俗的)神官としての方便として理想的だった。こうした聖職者はバール神の儀式の継承者にすぎなかったが、この時代にはルネサンス、のちには啓蒙運動という名の衣をまとっていた。そしてその究極の姿がイルミナティ、すなわちフリーメイソンに指示を与える秘密集団だったのだ。
オックスフォード英語辞典によれば「人間至上主義」は人類の利益のみへの関心、神聖とは異なるものとされている。そして脚注には以下のように記されている―――「『そのイエスズ会員は独占を誇り、人間至上主義学派に対する権力行使を自慢している』1716 ;M.Devion Anthen. Brit.1 70」
人間至上主義はピタゴラスの相対主義を基盤にしているため、ルネサンス、宗教改革、啓蒙主義、マルクス主義、フロイト主義…の中に流れ込んで発展した。フロイト主義はのち、分派としてフェミニズム、バイセクシュアリズム、ドラッグ・カルチャーを生み出した。英国およびアメリカ合衆国にあって、人間至上主義は社会主義およびフェビアン主義派発展の原動力となった。その中心的伝道者たちは、細心の注意をはらって、人間至上主義が無神論、道徳観のなさ、社会主義的世界単一国思想に基づいていることが実証されないようにした。合衆国の人間至上主義の代表的スポークスマンとなったコーリス・ラモント(J.Pモーガン者の共同出資者の息子)は、「真の人間至上主義文明は世界文明でなければならない」と語った。彼はまた、人道主義的結婚式を採用したが、今ではキリスト教徒の伝統的結婚式に変わって、これが広く執り行われている。
一九五三年、正式に人間至上主義宣言が発表された。それによれば―――
@ 宇宙はみずから存在するものであって、創造されたものではない
A 人類は自然の一部である(フランス革命の先駆者のルソーによれば、人類は「高貴な野蛮人と定義されている)
B 現代科学は宇宙および人類の価値について容認出来る定義だけを提供する
C 宇宙および人類の価値についての超自然的説明はいかなるものも排除する
D 人生の目的は、自由主義と自由教育によって、人間の個性を完全な実現となる
伝統的価値観が破壊されたあとだけに「個の発展」が強調されている点が効果的だった。人々は自分が何者で、その人生の目的は何なのか、もはやわからなくなっていた。「個性」学派のために機は熟していたのである。人間至上主義の伝道者たちはそうして人々を「既存のものに変わるライフスタイル」ホミセクシュアリティ、さらには共産主義革命のプログラムに誘った。人間至上主義はまた、国民の生活のあらゆる側面において自由主義官吏が介入して圧力をかけるための完璧な理由を提供した。私たちの個々の自由および権利は神から直接与えられたものであり――政府による管理はあり得ても―――政府によって授与されたりはく奪されたりすることはないはずだ。
人間至上主義の教義は人類に関する事象に対する神の役割を否定することで、カバラ思想に基づく国家が人間の権利すべてを剥奪し、ソヴィエト式矯正労働収容所あるいは世界矯正収容所を準備するための扉を開けた。このようなことが実現されたときには、セムの子孫に対するカナン人の最終勝利が確定し、宿敵を圧した絶対権力の中で、人間至上主義の核である憎しみが宝物のように祭り上げられているということだろう。
転載終了。
大変長文で申しわけない。
結局、マリンズの著書からみるとルネッサンスの思想である新プラトン主義は結局秘儀を知った一部の人間だけが独占する独裁社会の成立ということとなる。
ルネッサンス、古典復興、芸術復興だけでなく、カトリックにユダヤ人(マリンズの表現ではカナン人)が入り込んでいるのが不十分な時期であったため、メイソンリー、イルミナティーの運動のきっかけになる起爆剤だったということが分かる。
では、副島氏は陰謀論本と書き、イルミナティ=フリーメイソン論をぶちまけた後に都合よくルネッサンス本を書いている。これは偶然の一致なのだろうか?
最初副島氏のルネッサンス本はKKベストセラーズが塩野七生のローマブームと漫画「テルマエ・ロマエ」のブームでソエジにイッチョルネッサンス本を書かそうかとでも思った軽い気持ちかと思ったが。意図的にルネッサンスを思想的な復興としてる?
でもネオ・プラトニカで秘教的な性的儀式の為に同性愛行為をしていたら余計カトリックに迫害を受けていただろう。
副島大先生は尊敬するマリンズのこの記載をどのくらい支持するのだろうか?見ものである。ルネサンス運動はマルクス主義まで発展したからには副島氏と親和性があるというものだろう。
マリンズの言い分を私はすべて信用していいのかどうかは不明であるがアイクやら、スプリングマイヤーらもシオン修道会のルネ・ド・アンジューが老コジモに昔のギリシャやローマやカバラなどの秘密にされていた知識が書いた本を集めさせてルネッサンス運動をさせているというからルネッサンスは結局16、17世紀の表向きのイルミナティ=フリーメイソン運動の源流の一つなのだろう。
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