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副島氏の月刊ザ・フナイ2010年8月号のイルミナティ=フリーメイソン論です。
この文章は色々なごころで手を変え品を変え使われているため良く見たことがあると思います。フリーメイソンにモーツァルトが入会していたことをモーツァルトの書簡などから副島氏が付きとめた内容です。(日本の陰謀論者というより共同謀議追究者と呼ぶべきか?の故太田龍氏や宇野正美氏は前世紀にとっくの昔に言明していたし魔笛はイルミナティの入会儀式だということを言及していた。)モーツァルトは魔笛でフリーメイソンの儀式を綿密に描いたため殺された。映画アマデウスのようなサリエリに殺されたのではないということは上記共同謀議追究者達はほぼ同様の意見だった。
この点については副島氏は何も思っていないのだろうか。まあ、フリーメイソンに入会したモーツァルトが自由闊達な精神を持ち貴族階級に対して反発していたことばかり書いていたからそんな意見があっても彼は否定するのだろう。
ヤコブ・モルガンなどの著作が出ていた出版社がいた時代は9.11以降を思うと自由闊達な時代であった。
では転載開始。私にしてはペースが速いのでミスタッチが多いのを御了承して頂きたい。
なお注意して頂きたいのは2,010年の7月中旬までに書かれた記事だということです。
誰も書かない世の中の裏側―― イルミナティ=フリーメイソンとは何かその2
副島隆彦 2010年8月号より
フリーメイソンの会員であったモーツァルト
前号に引き続き、イルミナティ=フリーメイソンとは何かについて論じる。イルミナティ=フリーメイソンは、いわゆる陰謀論者たちが言うような「世界をあやつる闇の権力」ではない。秘密結社ではあるだろう。
日本にも、「財団法人東京メソニック協会」として堂々と存在を明かしている。その活動理念を次のように公表している。「メイスン財団は事前博愛の真の教訓を助長し、振起し、実施し、以って弱気を助け、盲しいたるを導き、踏みにじられたるを助け、寡婦、孤児を護り、政府を支持し、宗教の本義、儀式を尊重し、道徳を諭し、純潔を守り、学問を広めたることを基本理念として、人類の幸福のため。活動しています。」自由・平等・博愛を旨とする団体である(※):財団法人 東京メソニック協会<設立>昭和30(1955)年12月23日。<主務官庁>厚生労働省 社会・援護局 URL省略
フリーメイソンとは、ヨーロッパの歴史の中で勃興した、都市の商工会議所たちの自主的団体だ。優れた技術者や芸術家たちが多く入会した。その典型はウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-91)である。前号で少し触れたように、偉大なる音楽家モーツァルトは明らかにフリーメイソンの会員だった。彼は朝の5時に起きて、7時くらいから仕事を始め、夜の10時くらいまで根をつめて、真面目に作曲や音楽教師の仕事をし続けた人だ。決して放蕩三昧の生き方をした人ではない。当時の気風に従い勤勉実直な人だった。ただし、当時の革新的な政治思想に影響されて、支配階級である貴族やローマ教会に逆らった。彼は1781年に25歳の時、雇い主の貴族と喧嘩して、お雇い音楽家の職を辞して大都会のウィーンに移り住んだ。ここを中心にして。パリやべルリンやイタリア地方に演奏旅行へ出て、自由な音楽家として生きた。そのため、低収入がなかったので苦労してウィーンで10年暮らして。35歳で死んだ。
モーツァルトの人となりがよく表わされている『モーツァルトの手紙』(原著1962年刊柴田治三郎・編訳、岩波文庫1980年刊)から引用します。
父(在ザルツブルグ)へ
ヴィーン、1784年4月28日
大好きなお父さん!
大急ぎで書きます。ピアニストのリヒター氏が、周遊旅行をして母国オランダへ帰ります。<中略>この人の演奏はと言えば、それはそれは沢山演奏します。しかし、お聴きになれば分かりますが、粗雑で、重っ苦しく、趣味も感情もさっぱりよくありまああああせん。私が曲を弾いてみせると、じっと私の指を見ていて、それからいつも言います。「何てことだろう!私は汗をかくほど努力して弾くのに、ちっとも喝采を受けない。ところがあなたはまるでただ遊んでいるように弾く」―― 私は言いました。「そうです。私も大いに努力しなければなりませんでした。その結果、今ではもう努力せずにすむようになったのです」―――それはともかく、この人はやはりすぐれたピアニストの仲間に入る一人です。それに誠実な、いい男です。ピアニストなのですから、大司教【引用者註:モーツァルトの故郷であるザルツブルグの大司教にして同時に貴族であるコロレド伯爵】は多分、むしろ、私に対する腹立ちから、(えこひいきして)この人の演奏を聴くだろうと思います。その腹立ちは、私にとっては願ってもないことですが・・・・・。
このように『モーツァルトの手紙』には、大司教との確執が率直に書かれています。モーツァルトが所属したフリーメイソンの人たちは、「聖なるものを拒否して世俗的なるものへ」と転換したセキュラーマン(世俗主義者 secularism の人間)です。
モーツァルトが生きた18世紀の後半は、まさしくフリーメイソン=イルミナティ運動という隆盛する都市商工民、芸術家、技術者たちの時代だった。彼らは、ローマ・カトリック教会が強制する「神によってつくられら秩序」を虚偽であり、偽善であると見抜いていた。彼らはもう黙らない。抑えつけられたままに生きないと決めた。キリスト教と国王が支配する中世ヨーロッパの支配体制に対して抗議して立ち上がると決意し始めた。
これが、前号で書いた、神学者のアダム・ヴァイスハウプト・インゴルシュッタット大学教授が。1773年に口火を切って始めたイルミナティ運動だ。インゴルシュタットの都市は、ミュンヘンの北100kmぐらいのところに今もある。イルミナティ運動は正式には、その3年後の1776年にミュンヘン(ババリア州の州都)で始まった。そして燎原の火のように全ヨーロッパ諸都市に広がっていった。この年に、モーツァルトは20歳である。この当時の全ヨーロッパを巻き込んだ革命思想に、敏感な感受性をした彼が参加していったのは当然のことである。フランス革命が起きた1789年にモーツァルトは33歳であり。この2年後の1791年にウィーンで死んでいる。
モーツァルトは当時の貴族や司教たちから非常に嫌われた。モーツァルトは大司教や領主に逆らい過ぎたので、そのことを父レオポルトから心配されて手紙で再三たしなめられ、注意されている。
次の手紙は当時。裕福だったウィーンの音楽好きの商人プーホベルグに宛てたモーツァルトからの借金の依頼である。1788年の手紙だから32歳の時である。死の2年前だ。「最愛の同志よ!」と叫びかけているところに、プーホベルグとモーツァルトがフリーメイソンに属していたことが分かる。
プーホベルグ(在ウィーン)へ
ヴィーン、1788 年6月
最愛の同志よ!
あなたの真の友情と同志愛のおかげで、私はこんなにも大胆になって、あなたの絶大なご好意におあずかりする次第です。あなたはまだ8ドゥカーテンの借りがあります。今のところそれをお返しすることもできませんのに・・・・・(以下略)
次に死の床にある最愛の父レオポルトに向かって書いた手紙だ。
父(在ザルツブルグ)へ
ヴィーン、1787年4月4日
・ ・・・たった今、私をひどく打ちのめすような知らせを聞きました。(中略)死は(厳密に考えて)われわれの一生の真の最終目標なのですから、私は数年前から、(死という)人間にとっての真の最善の友ととても親しくなって、その姿が私にとっては、もう恐ろしいものではなくなり、むしろ多くの安らぎと慰めを与えてくれるものとなっています!そして、神様が私に、死こそがわれわれの真の幸福の鍵だと知る機会を(私が言うことがおわかりになりますね)幸いにも喜んで下さったことを、ありがたいと思っています(以下省略)
このようにモーツァルトは当時の教会支配の社会では決して口にしては(書いては)ならない危険な思想を表明しています。200年前の当時のヨーロッパでは、啓蒙思想(エンライトメント)の自由思想は。まだまだ危険思想でした。階級社会の打破して「四民平等」を唱えることは。本当に危険なことであり、十分に過激な言動だった。フランス革命がパリで勃発したのは、この手紙が書かれた翌々年であるから、革命前夜の“不穏な雰囲気”がヨーロッパ全体に満ち溢れていただろう。
フランス革命こそは、まさしく当時のパリのイルミナティ=フリーメイソンの市民階級の会員たちによって決行された革命だったのである。
ここでモーツァルトが書いている「死こそはわれわれの真の幸福の鍵である」とは、フリーメイソンの思想そのものである。キリスト教(と言っても、ペテロとパウロによて歪められて発展したローマ・カトリック教)の教え(教義)では、「人は死んでも永遠に墓の中に眠るのではなく、最後の日には呼び戻されて審判を受ける。永遠の命を与えられる地獄に堕ちる者とに分けるという“復活”の思想」である。ローマ・カトリック教にとっては死は決して安らかなものではない。だから、大胆に死を肯定し、しかもそれを“神から与えられた真の幸福の入り口”だとモーツァルトが父に書いたのは十分に危険思想である。
モーツァルトは1784年12月にフリーメイソン入会した。28歳の時である。26歳で最愛の妻コンスタンツェと結婚している。会の独自の死生観を学び、自由思想を身につけ精神の安定を得ていた。彼は身近な人間たちをイルミナティ=フリーメイソンに引っ張り込んだ。父親レオポルトや、このころから個人的に親密な交友が始まったハイドンである。
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732−1809)はモーツァルトと並び称されるドイツの古典派の大音楽家である。ハイドンはモーツァルトよりも24歳年上である。ハイドンはモーツァルトが25歳だった1781 年にウィーンで出会い、交友して共に大いに影響影響を与え合った。互いの優れた才能を十分に認め合った。ただし、ハイドンはモーツァルトmpように自由奔放に生きた人ではない。彼は車大工(車輪や荷車の製造および修理を行う職業)の息子に生まれて、刻苦勉励して才能で這い上がってきた人だから、過激な行動は取っていない。モーツァルトのように貴族たちとぶつかって嫌われるようなことをしていない。
モーツァルトは、自分の故郷の領主様であり同時に大司教(カトリック教会の高僧)でもあったコロレド伯爵に嫌われたので教会付きの楽師(お雇い音楽家)としての安定した職を失くしている。それで自由な(フリーランスの)音楽家として、作曲家、演奏家、音楽家庭教師として生きるしかなかった。いつの時代でも定職と収入がない暮らしは大変だ。だから、25歳まででウィーンに移ってからは、あちこちの大都市に出かけては演奏や作曲をしている。いくら才能と名声があって人々を魅了しても、貴族たちの間に悪い評判が立ったら生活は大変だったと思われる。だから、借金に次ぐ借金を重ねた。
「モーツァルトは夫婦共に家計をきちんと管理する能力がなく贅沢に暮らした」と後世言われている。しかし、それなりの社会的な体面があったし、ウィーンでの立派な暮らし振りを見せなければいけなかっただろうから、モーツァルトの暮らしは徐々に貧窮に追い込まれていったのだ。
モーツァルトは意地を張って、貴族たちの風下に立とうとせず。自分の才能を当時の社会に浩然と認めさせようとした。だから、モーツァルトが1791年12月5日にウィーンで死んだ時も。教会と神父たちに嫌われていたので、お墓を作ることを許してもらえず。遺体は城外の無縁墓地の穴に投げ捨てられた。満足な葬式もなかった。
それに対してハイドンの方は、1809年に77歳で死亡するまで、貴族たちの庇護下にあってお雇いの音楽家として裕福な暮らしをしている。ハイドンもフリーメイソンの会員であるが、表面立って、過激な言動はしおなかった。しかし、ハイドンも、当時の無能で尊大なだけの貴族たちへの反感と軽蔑の感情を激しく持っていた。それが当時の勃興する市民(der Buger)たちの市民階級(Burgerschft)の堅実な市民意識(Burgerlischkeit)というものであった。
モーツァルトはフリーメイソンに入会後も多くの作曲をした。当時は、威張り腐っていた貴族・僧侶階級と実力でのし上がって来た市民たちの間でいろいろな争いが起きていた。やがて流血の対立(小作争議)を生み、農民の都市への大量の流出が起こっていた。
オペラ『フィガロの結婚』(初演1786年)は、封建貴族に仕える家臣であるフィガロの結婚をめぐる事件を通じて、貴族を痛烈に批判している。そのために、当時でも名声を博したこの歌劇は当時にたびたび上映禁止にあった。貴族や教会の反感を買ったのだ。また、オペラ『ドン・ジョバンニ』(初演1787年)は、女たらしの貴族ドン・ジョバンニが、貴族の娘を誘惑し、その父親を殺害した。そしてその後、墓場で石像の側を通りかかったとき、殺した父親の幽霊に出会い、戯れに宴会に招待したところ、本当の石像が動き出し、大混乱になり、ドン・ジョバンニは石像によって地獄によって引き込まれてゆく、という物語である。
モーツァルト作のこの2つのオペラは、当時の社会階級の流動化を“性愛の自由なる解放”という視点から描いている。即ち、カトリック教会に対する痛烈なる批判である。
交響曲第40番(1788年に完成)は、前に引用した実業家プーホベルグに借金を依頼する手紙を書いている頃の生み出されたものだ。モーツァルトの何ものかに突き動かされるような悲劇的情感が表れている。実際には演奏される当てもないのに、優れた交響曲群をあふれ出る湧水のごとくモーツァルトは生まれながらの天才で次々と作曲した。これらの作品はすべて後世の大傑作である。天真爛漫の全くの子供のような性格であったとも言われる。モーツァルトが、当時の危険思想であったフリーメイソン=イルミナティノルデン(光明会)に入会し、大きな自由と感動を得ていたからだろう。
転載終了。文中ドイツ語のウムラウトを上手く書けなかったことを御了承いただきたい。
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