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苫米地英人53歳。
アメリカの上級大学からの博士号PHDを持つコンピューター科学者。コンピューター科学(Computer Science)と一言にいっても、アメリカの先端学界ではバーチャルな領域から、産業に密接した工学技術から人文や医療・法曹にまで知にまつわる広範囲な体系をカバーしているので苫米地のプロフィールには生意気にも「脳機能学者、計算言語学者、認知心理学者、分析哲学者」などという大袈裟な肩書きがここぞとばかり並んでいる。
後二者についてはエール大学時代に挫折した心理学・哲学の下地について、がめつく履歴として持ち出したということで、前二者については、カーネギーメロン大学時代のラボの先生にあたる教授のプロフィール↓によると(ちなみに苫米地の後続で同機関に入所した日本人留学生は女子ばかりだ・・・・どうみてもユトリ科目なんじゃないか・・・・・・)
I am a Research Professor in Carnegie Mellon’s School of Computer Science (SCS). Within SCS, my primary affiliations are with the Language Technologies Institute (LTI) and the Computer Science Department (CSD). I am also affiliated with the Human-Computer Interaction Institute and the Machine Learning Department.
ということなので、この人物の下で研究をしていた苫米地が「計算言語学者」をかたることに詐欺性はないだろう。この専攻内容から果たして「脳機能学者」だといいきれるかには議論の余地があるかもしれないが、コンピューター環境が整備されたフィードバック実験をそう言い換えるのはアリなのだということか。ま、そこは争わん。
もっとも、苫米地は持論として「オレ様のように常人の数十倍ものIQを誇る超人になると、どんなフィールドであるかにかかわらず何に着手しても高次のレベルまで短期間に上り詰めることができる」と言っているので、体験したことは全て世界最高峰の部類までの達成をとげているはずだ。おそらく公式プロフィールには載せていないだけで「英米語での弁論・討論世界一、イングヴェイ・マルモスティーンを超えるギター巨匠、リンポチェ並の瞑想力を誇る解脱者」であらせられるはずである。一度、狭い部屋に閉じ込めて思い存分イジメてやりたくなるほどの傍若無人ぶりであるが、それもそのはず、苫米地は中沢新一と似ていて親子三代のスーパー学者様の御出自なのである。ただ学校のお勉強ができる、とかアメリカ特権の威を借りて世にはばかるとかいうのでなく、本物の知識人階級の子弟なのだ。米コミックのパワーパフガールズにでてくるモジョ・ジョジョみたいな面して何が学者だ、戸籍を貰った貧相な蝦夷猿じゃないかと言いたくなるところだが、まあ英米語学の専門家の家庭出身であることは本当なので仕方ない。
本題に入ろうか。苫米地は天台宗の僧籍を持つ仏教徒でありハワイ支部国際部長の肩書きまで持っているのだが、その二ポン仏教の代表である苫米地が古代ネパールの釈迦を語るという企画がネット配信の番組で実現された。ニポン仏教とネパールの解脱教(Buddhism)は全く別物であり、たとえるなら空手道の選手がヨガの試合?に出るようなもので、起源を抜きにすれば殆ど共通点はない。
それでもオウム報道メディアのアイドル苫米地のことであるから、ネパールの解脱教やチベット密教などにもウルトラ知能を駆使して造詣を深めているのだろう。期待まんまんに私はアホのように長いYoutubeの苫米地ビデオ(一番下↓)を再生したのだった。
まず・・・・私が上に苫米地の学者としての背景を出してきて「あくまで彼はコンピューター科学者であり、それ以上のものでもそれ以下のものでもない」と念を押したのは、エール大学時代の哲学専攻を「挫折・失敗」としてオーバールックするためである。それほど、このビデオで繰り広げられた苫米地の仏教解説はまずすぎるのである。空回りした論理、整合性のない比較話・・・・私ははじめ「苫米地は客層がよっぽどの知障だと鷹をくくってわざとお笑い仕立てにしたのではないか?」と良心的な懐疑心を抱いたが、聞いているうちに、この学者先生には哲学的方法論や思考回路の蓄えが乏しいという現実に気付いた。「彼はあくまで天才コンピューター科学者ですから」とかばいたくなったのはそういった理由によるものだ。
実際の内容に入る。「釈迦の悟りを教えます」と苫米地。まさか「全ては幻影だ、無だ」とか言い出さねえだろうなあコイツ、とタイ餃子と有機レモネードを交互に口に運びながら薄目で動画を追っていると苫米地はあっけなく、それを一文で言い尽くした。
苫米地は英米語のほうが得意なのかしらないが、あまり母国語の表現力が豊穣とはいえないので、少し色をつけて書くとこうなる。「釈迦が悟ったこととは、森羅万象の全てを自我というフィルターにかけてふるわないで、あるがままに知覚することによって宇宙の全て、そして自分の全てがわかるということ」
大爆笑。これは覚醒剤常用者の告白ではないか。ネパール解脱教(Buddhism)はニードル・パークのスポンサーか?その直前に、苫米地はこういったばかりなのだ。
「自我は森羅万象を取捨選択のフルイにかけ、自分の価値観に基づく知識・体識の配置編成を行う。そうすることで、内面(自分)と内面によりはじかれた非内面世界(宇宙)が一対をなして、イーコールで結ばれる」 まるで安部公房(統失の共産党員)の出世作「壁」を中学生が要約しているような仮説でもって、苫米地は必死に稚拙な持論を展開するが、たった一分後にその仮説を全崩壊させてしまうのだ!オーマイガッドである。
いうまでもなく、苫米地(つうか安部公房)が言ったこととは、無限の宇宙の広がりを、内面にも同時に見出せ、と。すると自分の中にある価値観の体系のシャドーが宇宙に置き去りにされていることを知覚できるであろう。それゆえに自分を知ることがその逆説世界としての宇宙を知ることなのだ。(註:これはあくまでコイツらの主張。私はこんな狂った説はそもそもとらない。自分は宇宙の一部であり、知性という関数を宇宙より与えられ受け入れたことにより、その関係発展をとげない初期による源存在を認識することからの理知が可能になっている受身の生物であることは自明であるからだ。ミケランジェロの「アダムの創造」にあるとおり。ありのままでは何にもならず、日に日にフィルターを強化していくことで人間は生かされることができるのである。)
この方法論でいくなら、実に「自分の価値観や社会制約によるフィルターをかけない」ことでは宇宙を理解することはできないという簡単すぎる結論にたどりつくであろう。少なくとも理論的には。一体なんのための前フリだったのか、理解に苦しむ喜劇である。
前後するが、苫米地は釈迦の語った空と縁起が同一の概念だと説明しだす。それはいいのだ・・・・説明が説明になっていれば。
苫米地はいう。「自分を定義する諸条件、親が誰で学歴はどうで就職はどこで・・・・そういったものをいくら並べたところで肝心の自分を表すことはできない」
つまり関係図の中の位置(つなぎめ)からは実体が見えてこないのだと。これが空の原理だとするなら、非常に弱い論理によって支えられているとしかいいようがない。本当にこれが釈迦の説いた人界の深い真理なのだろうか。関係図・・・・関係ないじゃん。親が実体で自分が実体でない、会社が実在して自分が実在しない、などという理屈が通るわけもなく、結局は実体、実存というものが交差する関係図の中での位置に実体が生じないのではなく、そもそも何者にも実体は宿らないということを言っているにすぎないのである。
それに苫米地も亀のような思考プロセスで気付いたのだろう、次の動画では、今度は数学上の概念を用いて説明を行う。これが噴飯、残飯、パパンがパン。「線と線が交わるところに点があるはずなのだが、実際にどこが点だと指し示すことが不可能である」これが新たなる空の定義。どうしてかというと、「線は本来、幅がないのだから」だと。もうタオル投げますよ、苫米地さん。その説明はアウト。ソレ言ったら、点の話じゃなくなってしまう。線という概念がそもそも実在しない・・・・ということで黒板は退場、もうそこからなんにも思考できなくなる。全部が幻想、全部がマボロシ・・・・・そういっているに等しい。それなら因縁すらが全て実際にはないことで、縁起という発想自体まで否定されることは避けがたい。
この論理性では、何にも説明できず、俺もいない、お前もいない、全ては無だといってのっけから現実逃避するしかなくなってしまう。ネパールではそれもよかろうが、現代の先進国では世を捨てて胸張って生きていくことは簡単ではない。なにかというとアメリカの大学を持ち出し役に立たない情報商材をマスプロデュースしては馬鹿な高卒読者相手に、カスカスのそれこそ幻想みたいな屑をあてがって印税を稼ぐペテン師にはわからないかもしれないが、我々は現実という基盤の上で人生を送るのだ。点がなければペンで点を書いて捏造するし、自分がわからなくなればジェームス・ブラウンをかけてアイ・アム・サムバディと口ずさむのである。
ま、今回は自称「分析哲学者」である苫米地の講釈のまずさ、論理の弱さを指摘するにとどめるが、また折があれば仏教についても書いてみるかもしれない。
(あとがき)
天才科学者苫米地のコーチングのおかげで一体、どれだけの人間が自己改善を図りなんらかの向上を達成し実績を残したのか。狂気的な量産をつづける啓蒙書には、どこにでもあるような情報商材にみられる簡単な実践エクササイズの手ほどきがのっているだけで、実際の効果を出したければ自身の主宰するワークショップ、セミナーに参加あれ!と決まり文句で閉めてある。誰もオッサンの実価値について把握はできていないというのが真相だ。
苫米地の下からでてきた人間が3人ノーベル賞(ゆとり分野以外で)を獲り、5人がハーバードで大学院の構成教員に昇進してシナ人やインド人を追い出してしまった・・・なんてことは一切きかない話である。それができる候補者・・・・旧世紀でいう国内エリートの代名詞、東大・京大など国立一期校出身者は、頑迷なことにも上智卒の苫米地がアメリカで付加価値をつけてきたところで自分が上でないと気がすまないからセミナーには殆どこないだろう。結局、彼の周りに集まるのは、早慶や私立医大、それに準ずる層のような・・・(例外はいたとしても大部分は)「一流にあこがれる二流の人材」なのだ。つまり、ある程度デキル人間で平均層の上には立てても天才学者になる器はない、苫米地にとってはいいお客さんである。それだけに目に分かる成果はあらわれない。
エリート教育が無理なら、一番てっとりばやいのは、ものすごく馬鹿な奴を改善させることである。それは弱者救済をも意味する、非常に意義のある啓蒙ではないか。永和文化大学リゾート交流科みたいなアホそうな奴をつれてきて合宿させる。一年以内に、国際レベルの経営学者に成長すれば苫米地ワークスは効果覿面ということである。その場合、私のとこに連れてきてもらいたいね。是非、苫米地のおかげでIQが3倍になった元アホを観察させてくれ。豊胸の成果は別にいいからw
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