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「娯楽に飲み込まれた」文化的価値観によって我々が失うものとは?
2014年02月21日14:05
ただ騒ぎたいだけなのか?それとも何かを表現しようとしているのか?物語を再構築しようとしているのか?それとも常識を覆したいだけなのか?ますます多くの人が低俗なジョークやあり得ないような突飛な物語、享楽的な娯楽に夢中になり、伝統文化が娯楽の喧騒の中に埋没していく中、我々は世の中に向けてこのように問いかけざるを得ない。「娯楽に飲み込まれた」文化的価値観によって我々が失うものは何なのか?――人民日報が伝えた。
■低俗なパロディや歴史を歪曲した突飛な物語
− 歴史の真実は灰のように舞って消えさるだろう
「もし唐朝を舞台にしたやくざものを撮るなら、当然、男性主人公は李白で決まりでしょう。李白は、溢れんばかりの才気のため異星人と疑われた古代の詩人であり、ひどい酒好きで、妖術を使うプロの道士。また、中国で2番目の腕前を持つ剣客で、喧嘩ばかりするチンピラ---なんだ、結局李白は、詩をかける豊小宝(香港の人気作家・金庸による武侠小説「鹿鼎記」の主人公)なだけじゃないか」。
このような文章は、中国の歴史を敬い、宝として考えている多くの学者を心から嘆かせるものだ。しかしながら、現在の中国の市場にはこのような類の書籍が溢れている。さまざまな歴史の脚色やパロディ、ギャグが満載された内容が読者からの人気を集め、ベストセラーランキングに名を連ねるだけでなく、こういった書籍に対して、「独特の歴史観が非常に興味深い」という感嘆の声をあげる人までいる。
確かに、ひたすら真面目な歴史書を読んでいると、言葉が難解なために本を読み続けることが苦痛になることがある。しかし、ファストフードのような簡単な注釈による歴史小説は我々の眼を覆い隠し、歴史に対する理性的な推察力だけでなく、さらには正確な価値観に対する判断の目を曇らせる。このほかに学者が憂慮しているのは、それぞれの作家が歴史をまるで若い娘のように飾り立て、勝手に脚色してしまうことで、真実が灰のように宙に舞って消えてしまうということだ。
「五色は人の目をして盲なら令む。五音は人の耳をして聾なら令む」のごとく、あらゆる伝統文化が消費され、あらゆる信仰が娯楽に飲み込まれる。にぎやかで豪華きらびやかな文芸の光景が映し出すのは、実のところ普遍的な焦燥感と空虚感である。最終的に消えて無くなるのは、厳粛な伝統文化や人々の豊かな魂への追求だ。
■伝統を覆すことで得た商業的創造性の寿命は短い
数日前、延安街にある焼肉の露店で、「西遊記」の孫悟空と八戒のキャラクターに扮装した店主が炭を起こし、「新鮮な唐僧の肉」と称して10元6本の肉の串を売っていた。5歳の子供がこの光景を見て、泣き出した。子供は母親に納得いかない様子で聞いた。「どうして忠実なはずの孫悟空は師匠である唐僧を殺したの?もしかして、孫悟空は悪い人なの?」。母親は、やるせない様子で、子供が目にした光景をどのように説明すればいいかわからないようだった。
ネット上では、この件に対する批判の書き込みが相次いだ。この行為は確かに違法ではないが、中国の古典文化が継承する価値観を覆すものであり、ここから生まれるものは単にマイナスのエネルギーでしかない、という主張だ。
確かにそうだ。「創造性に罪はない」と主張する別の人物もいたが、大多数の人々はある共通認識を持つに至った。それは、商業的な創造性は伝統を覆すことを代価にしてはならない、というものだ。「これは、売り手が守るべき原則であり、超えてはならないボーダーラインだ」という考えだ。伝統文化を覆すことで、人々をひきつけるマーケティングは、確かに一時的には注目を集めることに成功するかもしれない。しかし、その効果は長続きするものではない。しかも、一旦こういった商業的ギャグによる亜流文化の現象が氾濫してしまうと、伝統の古典文化は娯楽に飲み込まれて死滅してしまうだろう。
伝統文化を商業的なマーケティングの手段にする、と言えば、かつて大ブームを巻き起こしたテレビによる「国学ブーム」や「学者芸能人」、とくに伝統文化を主な研究内容とする「学者の芸能人化」について触れざるを得ない。
「歴史ブーム」や「国学ブーム」によって、数多くの視聴者がブームに乗らされただけでなく、これによってテレビ局や出版社も莫大な利益を得た。しかし、伝統文化フォーラムなどの番組が高視聴率を記録すると同時に、数多くの論争も巻き起こった。その論点は、テレビによる「国学ブーム」や「学者の芸能人化」の背景にあるのは、「伝統文化の復興なのか?それともいわゆる文化の低俗化なのか?」であった。
あるテレビの講座番組の製作者たちが、「テレビで伝統文化を語ることは、まるで漫才のようなもので、3-5分で要点をまとめて笑わせなければならない。そのため、学術は二の次であり、重要なのは娯楽性である」と率直に認めた際には、さらに多くの学者たちの「テレビによって、人は本当に娯楽に飲み込まれ、思考は死にいたる」ことに対する憂慮を深刻化させた。テレビ業界のすさまじい速度の発展に伴い、テレビに出演する芸能人たちは視聴者たちにとっての精神的なアイコンとなった。しかし、視聴者がテレビの娯楽化から受け取ったものは、伝統文化の真髄による満足感などでは全くなく、単にテレビ文化に対する強烈な心理的な依存と、それによってもたらされた冷静さに欠いたアイドル崇拝でしかなかった。
このほか、「学者の芸能人化」よりも恐ろしいのは、「知識のばら売り」であることを心配する学者もいる。これは、学者が商業モデルに屈して、非理知的な大衆文化のニーズに自ら迎合および加担してしまうことであり、また文化の規範が失われてしまった状態の中、大衆に向けて文化的ニーズが日増しに功利的で軽薄なものとなり、視聴者の好みにつけこんで、低俗化に歯止めがかからなくなっていくことだ。
実のところ、テレビメディアを介して広く伝統文化が放送されること自体は、良いことである。学者にとっては、書斎に座っていようと、大衆に向かっていようと、大衆にとっての良き学問や真の学問を提供し、視聴者により理性的で科学的な歴史の知識の系譜を与え、自主的に学術の低俗化を拒否することだけが、提唱するに値するものだ。一方、大衆にとっては、優れた伝統文化への尊敬と敬意を持ち続け、娯楽を文化産業製品の唯一の基準としないことによってしか、伝統文化の正確な位置づけを守っていけない。
刺激性を原則として芸術を消費すれば、精神的な空虚感が強まる
「もともと生活が苦しいのに、芸術性や純潔性を持ち続けるなんて、疲れすぎないか?テレビや広告、ドラマ・映画作品は見る人の身心をリラックスさせたり、気持ちを楽しくさせたりするもの。だから歴史のギャグ・パロディ化は無罪だし、伝統を解体することは合理的だ!」。これは、現在の多くの青少年たちを代表する主流的な考え方だ。芸術形態の伝統文化の解体に対して、青少年たちは非常に肯定的に見ている。
この考え方は一見理にかなっているようにも思えるが、よく考えてみると、全く道理にかなっていない。なぜなら、もし芸術の消費が鑑賞性を原則とするのなら、人の内心を豊かにさせ、精神的に成長させるが、刺激性を原則として芸術を消費すれば、将来さらなる精神的な空虚感や身心の疲労をもたらすことになる。
中国海洋大学の林少華教授は海外生活の経験からさらにこの考え方を支持している。「西洋人は改編されていない原作を読むことを通して文化を継承している」と林教授は指摘する。フランスには名作古典の改編を管理する専門機構があり、誰も「レ・ミゼラブル」のような古典の名作をパロディ化しようなんてことは考えない。米国の大学では、詩人ホメーロスの作とされる長編叙事詩「オデュッセイア」や、古代ギリシアの哲学者プラトンの「国家」、ヒッポのアウグスティヌス「告白」などが、大学過程の選択必修科目に組み込まれている。
自分たちの国家の古典や伝統を保持するだけの敬虔さや敬意を持っている西洋人に対し、我々はなぜよりにもよって中途半端な歴史のパロディやギャグに夢中になっているのだろうか?英国の生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリーは100年程前にすでにこのように予言している。「もし文化が墜落したら、文化は遅かれ早かれ消滅するだろう」と。また、米国のメディア理論家、二―ル・ポストマンは著書「Amusing Ourselves to Death」でより明確に指摘している。「娯楽が拡大しているが、我々は死ぬまで楽しみ続けるつもりだろうか?」。
伝統文化を尊重すること。それは、読んでよくわからなかったり、内容がうまく伝わってこなかったとしても、それを安易に壊したり、バラバラに解体したりしてはならないということだ。 まさしく作家のフランツ・カフカが我々に忠告しているように。「お前が家を出て行く必要はない。じっとお前のデスクに座って、耳を澄ますがいい。耳を澄ますこともない、ただ待つがいい。待つこともない、すっかり黙って、ひとりでいるがいい。お前の前に世界は真実の姿を現し、仮面を脱ぐだろう。世界はそうするほかないのだ。恍惚として、世界はお前の前で身をくねらすことだろう」。(「夢・アフォリズム・詩」フランツ・カフカ、吉田仙太郎編訳、平凡社ライブラリー、1996)
「人民網日本語版」2013年2月21日
http://j.people.com.cn/206603/8543047.html
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