02. 2013年8月27日 02:17:01
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空き家、空き地が急増、 ゴーストタウン化する中国の地方都市 2013年08月27日(Tue) 姫田 小夏 アメリカ・ミシガン州のデトロイト市が財政破綻してから1カ月以上が過ぎた。負債額180億ドルという、米国史上最大級の自治体破綻である。かつて工業都市の中心を担ったデトロイト市の破綻は、日本の地方都市にとっても中国にとっても対岸の火事では済まされない。共通点は「空き家」や「空き地」の続出だ。 空き家の出現は、生産拠点の外部への移転によってもたらされた。かつて「モーターシティ」として急成長したデトロイト市は、1950年に185万人の人口を抱えていたが、現在では半分以下の70万人にまで減少した。 デトロイト市だけではない。アメリカでは東海岸を中心に、1960年代をピークに古い工業都市が衰退し、産業の構造転換とともに多くの工業用地が低利用地や未利用地と化した。 この現象が見られるのはアメリカだけではない。先進国の多くの都市で、生産拠点の移動や人口増加のピークアウトとともに、続々と工場跡地や空き家が発生している。少子高齢化や経済の停滞による地価下落、企業の投資意欲減退と財政危機で、都市の衰退に歯止めをかけられないのが現状だ。 「8万に達する空き住宅、空きビル、空き工場、それに空き地を加えて、市域の3分の1が『空き』という殺伐とした風景が出現した」(日本経済新聞、8月7日、矢作弘龍谷大学教授)と描写されるように、デトロイト市では不動産価値を失った土地や家屋が散乱している。 その悲惨な状況は、米タイム誌のフォトエッセイをクリックすると、リアルに伝わってくる。デトロイト市には、第2次世界大戦以前から続く「デビルズナイト」という風習がある。10月30日のハロウィンの前夜に、近所の住宅に卵を投げつけるなどのちょっとしたイタズラなのだが、80年代に入るとこれが空き家への放火にエスカレートし、84年には800件を超える放火を引き起こした。タイム誌の写真には、燃え上がる住宅と消防隊員の姿に加え、焼け跡に張られたミシガン州の放火防止委員会による「保証金5000ドル」の張り紙も掲載されている。不動産価値を失った住宅ならば、いっそ燃やしてしまった方が保険金も出る、そんな思惑から自分の資産に火を放つ者も出現した。 ピッツバーグにおける「第3の力」による再生の取り組み かつての製鉄の街であるピッツバーグ市(ペンシルベニア州)も、同じ悩みに直面している。産業の構造転換により淘汰された工場跡地の再開発と、新たな産業育成と都市再生が目下の課題だ。特に、土壌汚染が深刻な製鉄所跡地の再生は、ピッツバーグ市に重くのしかかっている。 ピッツバーグ市では、地元のGテックという組織による地域再生の取り組みも進んでいる。空き地や工場跡地を緑化して都市の活力を再生する「グリーン戦略」という取り組みである。 市内のある製鉄所跡地では、ヒマワリの栽培が行われている。土壌の汚染物質を吸収し浄化する作用があるヒマワリを植えることで、土壌汚染問題を解決しようというのだ。これ以外にも、菜の花やキビなどの栽培も行う。これらはエタノールのような生物燃料となる。 Gテックは地元市民に栽培指導も行っている。土壌の浄化と低・未利用地の再利用、さらにそれを職業訓練と結びつけ、その地域に成長をもたらそうというのが狙いである。 Gテックの誕生は2006年にさかのぼるが、もともとはカーネギー・メロン大学のハインツ公共政策管理学院の卒業プロジェクトとして活動は始まった。この試験的な取り組みが成功し、様々なコミュニティや組織に向けてその活動を拡大した。 「空き地」や「空き家」は不動産の資産価値の減少というマイナスの要素を持っているが、「空きスペース」という意味ではたくさんの可能性を秘めている。ピッツバーグ市では、政府でもない、企業でもない、「第3の力」による取り組みで克服しようとしている。そのトライアンドエラーは、国境を越えて多くの都市に示唆を与えてくれるだろう。 日本の泣き所は土地制度 日本でも「空き家」や「跡地」問題は深刻だ。東京23区内でさえコイン駐車場は至る所にあり、山手線の外側の郊外では空き家の多さに驚く。地方都市は言うまでもなく、いまどきは都市部でさえ「シャッター街」は珍しくない。 団地の空洞化も深刻だ。約60年にわたって住宅供給を続けて来た都市再生機構(旧・日本住宅公団)は、戦後の住宅不足の解消のためには確かに不可欠な公共政策だったと言えよう。しかし、旧公団は住宅の供給が充足した後も事業を存続させ、組織を肥大化させた。そしてバブル崩壊を経て少子高齢化を迎えた今、巨大な負の遺産を背負うに至っている。 現在の都市再生機構のストック(約77万戸)はだぶつき、削減、再編が求められている。その一方、特殊法人(現在は独立行政法人)という曖昧な位置づけは組織を不透明にし、腐敗の温床となり続けた結果、13兆円もの有利子負債を抱えるに至っている(2012年時点)。 多くの工場跡地の出現も、地方経済に打撃を与える。だが、経済産業省の“再生”の取り組みに積極性は感じられない。「日本では多くの土地が私有財産であり、権利関係も複雑なため手も足も出ない」(同省職員)ためだ。 日本の場合、問題の一因となっているのは、「行政が私有地の処分と活用に介入できず再開発を進めにくい」という点だ。国や自治体が主導して再開発をしたくとも、所有者が土地を離れてしまっているために権利移転を不可能にしているケースが多いのだ。使用・収益・処分のすべての領域において自由が保障される日本の「絶対的土地所有権」のあり方は、今後問われることになるだろう。 地籍調査も同様だ。地籍調査で確認する土地の境界は、土地資産の基礎となる重要な情報だ。しかし、土地所有者など関係者が立ち会いのもと、双方の合意の上で土地の境界を確定するという「面倒くささ」から、地籍調査の進捗率は50%未満と先進国でも異例の低水準となっている。中には所有者の所在が分からず、棚上げになる例も多い。これでは次世代に土地を引き継ぐことができず、日本の国土はどんどん荒廃する一方である。 ゴーストタウン化まっしぐらの中国の都市 中国はどうだろうか。内陸部では相変わらず開発ラッシュが続いているが、地方都市は次第に先進国と同じ衰退への道を歩みつつある。 地下鉄(正しくは「軌道」)3号線のマンション群 中国の1人当たり住宅面積はかつての「平均7平方メートル時代」から脱し、ついに5倍の35平方メートルに達した。だが、13億5000万人に拡大した人口は、2050年には13億人に減少すると言われ、「もはや住宅は不足していない」という専門家の声も出始めている。
事実、空き家は急増中である。筆者は上海市内を南北に走る軌道3号線上を活動の拠点としているが、曹楊路駅、鎮坪路駅付近を通過すると、無数の高層マンション群が視界に飛び込んでくる。そのたびに、「こんなにマンション開発してどうするのか?」と呆れてしまう。 歩道に並ぶ空き室情報の看板 拡大画像表示 下車して駅を背に居住区に向かうと、ワッと不動産仲介業者に囲まれる。林立する高層マンションの足元で、不動産業者が歩道に看板を並べて客引きを行っているのだ。店舗で来客を待つという“待ちの営業”では間に合わないほど、空き室が増加しているというわけだ。
確かに上海は交通至便な国際都市でもあり、マンションを「建てれば売れる」という時期があった。だが、かつて日系企業の工場が集積していた嘉定区では、2006年からあの手この手の作戦で工場の追い出しが始まった。多くの工場が移転した結果、マンションも空き室が目立つ状況に陥っている。 それでも上海市内なら「腐っても鯛」の上海ブランドがあるからまだマシだ。問題は、中国全土でやみくもに開発された住宅地である。 中国の地方政府は、息のかかった建設会社に資金を融通し、国有の土地を転売することで都市化の発展を主導してきた。マンションを次々に建設し、オリンピック会場に匹敵するようなスタジアムを建設・・・、そんな箱物開発が全国津々浦々で進められてきた。中国の今日の発展は融資と投資がもたらした濫開発である。 だが、遅かれ早かれ全国規模でゴーストタウンが出現することは目に見えてる。しかも、開発時に正当な評価からかけ離れた担保設定が行われたため、不良債権問題が顕在化しつつある。不良債権問題は、深刻な影響を地方経済にもたらすだろう。 浙江省の温州市、内モンゴルのオルドス市では、買い手のつかない建物や空き部屋がすでに多数出現し、地方政府の債務を巨大化させている。ある専門家は、「すでに破産適用レベルの地方政府があるが、地方政府の財政破綻の明確な定義はなく、事態を曖昧にしてしまっている」と警鐘を鳴らす。 それにもかかわらず地方都市では「城鎮化(都市化)」の大号令のもと、さらなる住宅建設が進められようとしている。デベロッパーに危機感はない。それどころか「地方都市は破産などしない」という妙な自信がある。いざとなったら中央政府が必ず手を打つ、と信じているためだ。 「民」の力が存在しない中国 さて、土地制度の改革なくして、日本の国土の将来は危ういと述べた。日本では「民」の力が強すぎるのである。 ちなみにピッツバーグ市では、市の社会資本投資や都市再開発において、都市再開発公社(URAP)が主導的な役割を果たしてきた。これは全米で初めて“土地収用権”を持つことが認められた公社でもあり、土地買収において収用権を行使し、老朽建築物などを一掃してきたという経緯がある。 また、ドイツでは「所有権は義務を負う」とし、「その利用は、同時に公共の福祉に奉仕すべきである」と憲法に定められている。都市を再生させるカギは、「公と民のパワーバランスにある」と言っていいだろう。 その一方で、中国の将来は暗澹たるものがある。なぜなら、中国には「民」の力がまったく存在しないからだ。 中国では、企業も国民も「官」が書いたシナリオの上をひた走ることに慣れきっている。たとえそれが誤っていようとも、それが取り返しのつかないことになろうとも、疑問を抱かずに突き進むしかない。「官」は、たとえそれが誤った結果を招いても、曖昧に処理し、隠蔽し、開き直る。いつも正しいのは国家であり、「民」のパワーは結束することを許されない。 民主的かどうかという以前に、「民」という概念自体がそもそも欠落している中国では、今後も官主導の「箱物開発」が続くだろう。その先に待っているのはまぎれもないゴーストタウン化である。「民」不在の国土の荒廃はもう誰にも止められない。 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38532 |