04. 2013年4月17日 01:26:10
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世界から見えない中国農村の貧困の現実
政府からも国際社会からも見捨てられた人たち 2013年4月17日(水) 福島 香織 先日、編集者との打ち合わせの時に、「中国の農村というのは、いまだそんなに貧しいのですか」と、たずねられた。そうか、日本人が旅行やビジネスで訪れることができる中国には、もうさほどの貧困は見られないんだな、と気付いた。そこで、「年収2300元(約3万6500円)、1日の生活費6.3元(約100円)を貧困ラインと呼んでいますが、その貧困ライン以下の人口は1.28億人以上、と公式に発表しています。これはかなり保守的な数字です」と答えてみた。 だが、それで中国農村の貧困が実感として分かるだろうか。餓死者が出ますか、と問われれば、今の中国で飢餓だけで死ぬことはまずない。医者にかかれない、学校にいけない、いろいろ表現を考えてみたが、それではあの絶望的な貧しさは伝わらないだろう。そもそも貧しさって何なのか。その定義もあいまいだ。人によっては日本こそ世界一貧しい国だという感じ方もある。 そう思っているときに、中国のドキュメンタリー映画「三姉妹―雲南の子」(王兵監督、2012年)の試写を見て、これを見れば、中国の農村の貧しさの質が理解できるだろう、と思った。 男の子を産めない母親は行方不明に 王兵監督は、中国ものドキュメンタリーでこれまでも国際的に高い評価を得ており、この「三姉妹」もベネチア国際映画祭オリゾンティ部門のグランプリなど、いくつかの大きな国際賞を受賞している。 監督は偶然にも私と同じ歳。一度、インタビューしたことがあるが、映画少年がそのまま大人になったかのような人だ。海外受けする中国人監督によく見られる意図的に反体制的なテーマばかりを追うタイプではない。本人は、政治的なものには関心がない、と言う。 前作の「無言歌」は彼にとって初の物語映画で、反右派闘争の政治犯が送り込まれた強制労働収容所の甘粛省、夾辺溝が舞台だが、テーマは政治的なものではなく「飢餓を描きたかった」そうだ。「三姉妹」にもさほど政治性はなく、テーマは一言でいえば、貧困農村の現実、だろう。 「三姉妹」にはあらすじらしいものはない。舞台は雲南の最貧困地域、標高3200メートルにある、ごうごうと風の吹きすさぶ約80世帯の村、洗羊塘。その村の、いわゆる「留守児童」である英英10歳、珍珍6歳、粉粉4歳の三姉妹の生活を淡々と、手持ちビデオに収めただけのフィルムである。 「留守児童」とは両親が都市・町に出稼ぎに行っている間、故郷の農村に残された子供たちで、公式の統計では5800万人(14歳以下)とされている。面倒を見てくれる祖父母や親せきが同じ村にいるとはいえ、子供たちが味わう不安と孤独は想像にかたくないだろう。保護者がいないことで、誘拐やレイプなどの犯罪の対象になったり、ぐれて犯罪に走ったり、十分に学校に通わせてもらえなかったり、親戚から虐待されたり、いじめにあったり、といろいろな問題が起きている。 その留守児童が16〜18歳になると、こんどは都市・町に出稼ぎに行く。出稼ぎ者の子供がまた出稼ぎに行くので、第二代農民工、とも呼ばれる。彼らの多くが「留守児童」として幼少期に十分な家族の愛情や保護を受けていないため、どこか欠落した部分を抱えているといわれている。「留守児童問題」はこの10年、中国の大きな社会問題である。 この幼い3姉妹は母親がいない。中国の産児制限政策「一人っ子政策」の禁を破って子供を3人も生んだのに、結局、男の子は授からなかった。男の子を産めない女は農村社会の中で居場所がない。母親は子供を残して行方知れずとなった。 父親は町に出稼ぎに行っている。その間、10歳の英英が妹たちの面倒をみる。家は土間に石を積んだだけの囲炉裏がある原始的な作りで、3姉妹はいつも煤と泥にまみれている。湯を沸かして手足を洗うことさえ普段は忘れ、父親が町に出て以来、もう何年も風呂に入っていないという。服も当然、着た切り雀だ。食事の面倒は、近くに住む伯母に見てもらっているが、おかずに箸を伸ばすたびに「本当に食べるのか?そんなに食べられないだろう」とけん制を受け、肩身の狭い思いをしている。腹がすくと、ジャガイモをゆでて食べる。ジャガイモは家畜のエサでもある。 学校の宿題をするのもままならない生活 食事を食べさせてもらっている代わりに、伯父母の家の羊や牛や豚の世話をする。英英の不注意で家畜の行方が分からなくなると、彼女だけでなく妹も体罰を受ける。勉強は好きみたいで、仕事の間のわずかな時間に宿題をしようとするが、祖父や伯母に仕事を言いつけられしばしば中断せざるをえない。祖父は言う。「勉強なんかするな。勉強より羊の方が大事だろう」。 英英が幼い妹たちのえりあしに沸いたシラミを取ってやる姿は、慈愛に満ちているが、大人の前では、無口でめったに感情をみせない。父親が何年かぶりに村に帰ってきて、英英が映画の中で初めて安堵の表情を見せたとき、彼女の不安や孤独がいかばかりであったかに気づかされる。村に返ってきた父親は祖父と再婚の相談をする。2000元払えば、女性が来てくれるという。「結納金」と言えば聞こえはいいが、その女性にも2000元という金と引き換えに中国最貧困村に我が身を売るように嫁がねばならない事情があるはずだ。 父親は再び町に出稼ぎに行く。次の出稼ぎは子供たちも連れて行くというが、学校がある英英は村に残らねばならない。英英が自分の意見を言う前に、祖父が「英英は俺と2人でなんとかやっていくよ」と断言する。新しい靴を買い与えられて、彼女は居残りを承諾せざるを得なかった。 英英が祖父に連れて行かれた村の会合で、村長は共産党中央が打ち出す「農村復興」について語る。しかし、村長の言葉に、村民たちからは「何、それおいしいの?」みたいな鈍い反応しか返ってこない。 それが農村医療保険(新型農村合作医療=新農合)の強制実施という具体的な話になると、村民に動揺が広がる。この村の多くの人は年間10元の医療保険料が払えないほど貧しい。払えなかったら?村長は、自分はクビになり、地元政府は日当100元で人を雇ってみんなから強制的に保険料を徴収するだろう、と言う。現金がなければ、家畜が没収されるかもしれない、と。鳴り物入りで農村に導入されている新農合が必ずしも現地で歓迎されていない実態も垣間見える。 こんな英英の暮らしぶりが153分続く。退屈な映画だと言えばその通りなのだが、そこに映し出される貧困と厳しい環境、そして意外に美しい農村の風景は、人の心をひどく揺さぶるだろう。 農村の嫁になるか、売春婦になるか この農村はあまりに貧しいということで強制移住が予定されている。しかし、いつ、どこに行くかは、村民にはまだ知らされていない。貧困村問題の解決法として、貧困村そのものを消滅させるという方法は中国でよく採られるのだが、それは村民にとって幸せなのかという点はあまり考えられていない。強制移転の結果、村民が離散し、流浪の民と化すことも多いと聞く。村民の不安は募る。 雲南の風景映像が美しいのでさほど陰鬱な気分にはさせられないのだが、中国の貧困社会に希望といえるものは一筋もないことも分かるだろう。 私は英英がその後、どうなるか想像してみる。彼女は時おりごほごほと嫌な咳をする。おそらく結核だろう。中国には結核感染者が5億5000万人いる。人口の42%、そのうち1割が発病し、毎年患者が100万人ずつ増え、10分に1人、肺結核で死亡している。中国衛生部が先の世界結核デー(3月24日)にそう発表している。 結核持ちは、きちんとした工場では雇ってもらえない。彼女の出稼ぎ口は限られているだろう。そういう農村の若い女性が生きて行く道はだいたい決まっている。町の売春婦になるか、農村の嫁になるか。あるいは農村の売春婦になるか。いずれにしろろくな暮らしではない。栄養も十分でなく、医療を受ける機会もない状況を考えれば、あまり長い人生ではないかもしれない。 中国は世界第2位のGDPを誇る一方で、このような絶望的な貧困を内に抱えている。その絶望的な貧困を抱えた国の新しい指導者、習近平国家主席は3月25日、初の外遊先のアフリカ・タンザニアのダルエスサーラムの中国の援助で建てられたばかりのピカピカの国際会議場で演説し、こう訴えた。 「中国は3年内にアフリカへの融資枠を200億ドルに拡大し、アフリカとのパートナーシップを打ち立て、農業、製造業の分野で互恵互利の協力関係を築き、アフリカの資源を発展に転換させるお手伝いをし、持続的な自主発展を実現させます」 「アフリカ人材育成計画を積極実施し、今後3年の間に3万人のアフリカ各界の人材を研修し、1.8万人の奨学金留学生を受け入れます」 タンザニアのキクウェテ大統領は、習主席との会談で、これら援助への感謝を述べるとともに中国の領土と主権問題について中国側を断固支持すると表明した。 声を上げて指摘しなければならない 一方、4月に海南島で開催された博?国際フォーラムに参加していたビル・ゲイツ財団のゲイツ総裁は「貧困者への投資」というテーマで講演し、中国の対貧困政策を「人類史上もっとも偉大」と持ち上げた。 「わずか30年で国民生活や貧困撲滅の分野で巨大な成果を上げました。この経験をもって、他の国家の貧困解消に貢献できるでしょう」 「中国は世界中の貧困人口をさらに健康に豊かにする能力を持っています。中国の潜在能力を解き放ち、人類共同のより平和で繁栄した世界を作るために貢献してもらいましょう」 中国の農村の貧困が、なぜかくも絶望的に見えるのか。それは彼らが、中国政府からも世界からも完全に見捨てられている「棄民」だからだろう。「三姉妹」のパンフレットに「世界から見えない場所で3人だけで生きた」というキャッチコピーがついていたが、中国の貧困は世界から見えないところに、まだまだ多く存在する。中国政府にとっては、そんな国内の片隅に残る貧困を救う余裕があるならば、資源外交や国家戦略に利し、単純で善良な国際社会の慈善家からも高い評価を得られるアフリカの貧困を援助した方が、費用対効果が高いのだ。 だから、せめて中国の貧困を目の当たりにしたことがある者は、そこに救いようのない貧しさがあると、声を上げて指摘せねばなるまい。そこから目をそらして行う政治的な目的の他国への投資や援助など、本当の意味で貧困にあえぐ現地の人々の救いになっているかも怪しいではないか、と。 福島 香織(ふくしま・かおり) ジャーナリスト 大阪大学文学部卒業後産経新聞に入社。上海・復旦大学で語学留学を経て2001年に香港、2002〜08年に北京で産経新聞特派員として取材活動に従事。2009年に産経新聞を退社後フリーに。おもに中国の政治経済社会をテーマに取材。著書に『潜入ルポ 中国の女―エイズ売春婦から大富豪まで』(文藝春秋)、『中国のマスゴミ―ジャーナリズムの挫折と目覚め』(扶桑社新書)、『危ない中国 点撃!』(産経新聞出版刊)、『中国のマスゴミ』(扶桑社新書)、『中国「反日デモ」の深層』(同)など。 中国新聞趣聞〜チャイナ・ゴシップス
新聞とは新しい話、ニュース。趣聞とは、中国語で興味深い話、噂話といった意味。 中国において公式の新聞メディアが流す情報は「新聞」だが、中国の公式メディアとは宣伝機関であり、その第一の目的は党の宣伝だ。当局の都合の良いように編集されたり、美化されていたりしていることもある。そこで人々は口コミ情報、つまり知人から聞いた興味深い「趣聞」も重視する。 特に北京のように古く歴史ある政治の街においては、その知人がしばしば中南海に出入りできるほどの人物であったり、軍関係者であったり、ということもあるので、根も葉もない話ばかりではない。時に公式メディアの流す新聞よりも早く正確であることも。特に昨今はインターネットのおかげでこの趣聞の伝播力はばかにできなくなった。新聞趣聞の両面から中国の事象を読み解いてゆくニュースコラム。 http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20130415/246641/?ST=print
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