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(回答先: 尖閣どころか沖縄領有まで狙う中国 メディア総動員で「日本が盗んだ」 (ZAKZAK) 投稿者 赤かぶ 日時 2012 年 12 月 01 日 16:14:00)
遠い「日本」、底流に親中
那覇市の中心街から10分ほど北西に歩くと、白壁に囲まれた緑地が見えてくる。「福州園」。中国福建省の省都福州市と姉妹都市になったことを記念して1992年に建設された中国式庭園だ。
そのちょうど600年前、この地に中国から造船などの技術者が多数渡来して土着した。子孫は久米三十六姓と呼ばれ、琉球王朝の枢要ポストを占めた。
現在の仲井真弘多知事もその流れをくむ。中国には知事のことを当時にさかのぼり、わざわざ「蔡さん」と呼ぶ人もいるそうだ。
1609年、薩摩藩が沖縄に攻め込むと琉球王は中国に助けを求めた。だが、北方民族の南進に苦しんでいた明はそれどころではなく、琉球王朝は薩摩軍に屈服した。
沖縄の多くの人が抱く「日本」への違和感は、沖縄戦で住民とあつれきがあった旧日本軍だけが生み出したのではない。
琉球史を振り返ると、この列島が中国の一部になっていたかもしれないと思わせる場面がいくつもある。
16世紀の大航海時代、沖縄は東アジアの貿易の担い手として繁栄を享受した。軍事力に乏しい琉球王朝がなぜ、この地域の貿易で主導権を握ることができたのか。
当時の明は倭寇取り締まりのため海禁(鎖国)政策を採っていた。閉ざされた中国への小さな窓として、多くの沖縄人が密貿易などで接触の機会を持った。日本と中国を股にかけて繁栄を築いた沖縄は今、日米両国と中国の橋渡し役を夢見る。
この20年ほどで中国は大きく変化した。だが、ウチナー(沖縄)の心情に組み込まれた中国大陸への親近感というDNAを知らずに、中国軍の海洋進出の脅威やその抑止力としての米海兵隊の重要性を説いても上滑りに終わるだけだ。
琉球民謡の名人だった嘉手苅林昌さんの歌にこんな一節がある。
〜唐ぬ世から大和ぬ世〜大和ぬ世からアメリカ世〜ひるまさ変わたる〜くぬ沖縄〜
「よくまあ変わるもんだよ、この沖縄は」という締めくくりには、大国に翻弄される小さな島の悲哀と同時に、何があろうと生き抜く沖縄人のたくましさも感じさせる。
なお遠い沖縄と「日本」はどう向き合うのか。反基地運動を刺激しないためのばらまき予算を続けるだけでは何も変わらない。そのことだけはこの40年ではっきりしたはずだ。
(編集委員 大石格)
[日経新聞2012年5月15日朝刊]
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