41. 2012年10月12日 16:57:42
: HNPlrBDYLM
漢語族言語とひとくちで言っても、アルタイ語、タイ語、ベトナム語系など多数の周辺民族の言語の系統に分かれているという。もし漢民族なるものがいて、異民族を同化してしまって漢化しているのなら、全て同一の系統の言語に収斂しなければならない。そうではないのだから、もともと漢民族なるものが中原にいたとしても、結局は地域ごとに異民族に同化されたと考えるのが自然である。 中央で安定しきって武に衰えた民族を倒す。中原を占拠した支配民族はその地の利を生かし、さらに自らの生存を安定させるために周辺地域を併呑して拡大する。すると力が拡大するから領域も拡大して統一王朝なるものに拡大する。その版図は力次第であろう。中央から追放された民族はどこかに逃れて、一地方民族として存続する。 その分布が現在のような多言語の地域として、例えば広東、福建等として存続している。中国の言語分布はこれほど統一されても混淆することはない。それは異言語すなわち異民族という対応がある程度あるからである。漢民族なるものがあり、異民族を漢化させるのであれば、ひとつの漢語になり、現在のように異なる系統の言語が常に存続するということはあり得ないのである。 中国文化のルーツ チャイナドレス、京劇、辮髪などはすべて清朝に起源を有する。京劇の化粧は明らかに明や唐、宋の時代とは異なるどぎつい趣味である。このように中国文化と理解している多くのものはほとんどが満州族のものである。そして現在中国古来の文化なり習慣として理解されているもののうち、本稿でいう本来の漢民族すなわち漢王朝以前に遡るものは少ない。有名な纏足は唐末に始まったといわれている。19世紀の支那人の風俗として有名な辮髪は満州族に強制されたものである。 唐の始祖安禄山は父がイラン系ソグド人(胡人)、母がトルコ系突厥人(705〜757)であったというH。そして唐王朝は民族国家ではなく、複合民族国家であるという。すなわち纏足は異文化を受け入れたのである。このことから唐は実は元王朝、清王朝がモンゴルや満州族による多民族国家であったように、それこそアラビア系民族による多民族国家であったということになる。 宦官のルーツではっきりしているのは秦王朝の趙高という者である。趙高は秦王朝の宮廷で権力をふるったとされる。宦官は珍しく漢民族ルーツであった。しかし宦官はそもそも家畜に対する去勢から始まったため、牧畜文化であるという説が強い。従って実は農耕民族であった漢民族のオリジナルではなかったのかも知れない。あるいは秦朝自身も西方から来た遊牧民族であるという説もある。 火薬や印刷技術の発明についても中国人の発明と簡単に言われるが、むしろ異文化交流のなかから生まれたものと言える。支那大陸をヨーロッパに例えたが、これらの支那大陸から生まれた発明を単純に中国人の発明とするのはおかしいのである。現に火薬は元朝のモンゴルで武器として発明されたのである。モンゴルの軍隊が強かったのは、このオリジナルの発明によるのも一因である。何でも中国人の発明とするのは、一部中国人の自尊心を満たすだけで科学技術や文化史研究の観点からは正確ではないと言わざるを得ない。 支那大陸がいかに異民族と言われる征服王朝の影響を絶大に受けているかを示す証拠がある。2章で述べたように中共の言語で北京官話を使う地域は、黒龍江、吉林、遼寧、河北、甘粛、寧夏、陝西、河南、湖北、山西、四川東部、貴州東部、雲南、江蘇、安徽、山東の16省にわたる。人口にいたっては「中共人民」の大多数であるとされる。 北京語のルーツは2章で述べたように満洲語である。だから北京語は旧満州の3省と北京を中心とする北方地域に分布する。複数の異言語からなる「南方諸方言」が北京語とは異なる言語として残ることができたのは、清朝の首都北京からの距離が遠かったためもあろう。 もうひとつ重要なのは、清朝皇帝とは満洲人に対しては「8部族の部族長会議の議長」であり、モンゴル人に対しては「大ハーン」であり、チベット人に対しては「チベット仏教の最高の保護者」、東トルキスタンには「ジューンガル帝国の支配権を受けついた者」、そしていわゆる漢字を使う「漢人」に対しては明朝皇帝の後継の「皇帝」という多元支配をしていたこととも関連するF。それは英国のヴィクトリア女王がインド皇帝としてインドを支配していたのと類似している。すなわち皇帝の直轄地域と漢字を使う人たちの地域は明瞭に分かれていたのである。だから北京の影響力が少なく、距離の遠さとあいまって南方では独自の言語が残存する要因があったのであろう。 距離による中央の影響力の低下という事は、フィリピンでも英語の影響が強いのは首都周辺であり、地方に行くと、多数の言語が依然として残されていて、土着言語の主力であるタガログ語で統一することはできないのと同じ事情であろう。フィリピンでは地方になると英語の影響力が少なく土着言語が残りやすかったのは、アメリカの支配が50年と短かったためもあろう。 それでも満洲語すなわち北京官話の影響は絶大であった。300年の長い支配があったため北京官話は比較的均質であり、4つの方言に分かれているだけだが、南方では6つの異言語が融合せずに残った。もとはいくつかの異言語の言語分布があったにもかかわらず、北京語の影響力で満洲語を基層とする方言という程度の言語差に統一されてしまったのである。方言は50年や100年では定着しないであろう。満洲王朝の影響は300年近くもあったのである。その影響の大きさの証拠が多数の話す「北京語」の均質性である。そのことは南方諸方言の方言とはいえない異言語性と比較すれば明瞭となる。 3.8 被支配民族が支配者の言語風俗を受け入れるのは当然 清朝で満洲語が話され、地元の支那人に定着して行ったということは、考えてみれば自然なことである。満洲人は支配者とはいえ漢民族に対して圧倒的少数だといわれる。しかし、そのことは、言語の影響を及ぼしたか否かということと何の関係もない。欧米の旧植民地では上流階級と知識層は全て旧宗主国の言語を話せる。 しかも植民地に滞在する宗主国の人間は圧倒的少数であった。それにもかかわらず宗主国の言語が植民地に普及したのは、ひとえに支配層の言語だったからである。米国は19世紀末にフィリピンを支配したが第二次大戦後独立するまで、わずか50年しかなかったにもかかわらず、英語はフィリピンの公用語のひとつになったのである。300年近く支配した満州族の言語が普及しないと考えるのがおかしい。満州族の少なさと北京への定住を言うなかれ。モンゴルは北京に定住し、少数であったにもかかわらず、モンゴルの言語風俗は「漢民族」化されなかった。 ただしヨーロッパの植民地において宗主国の言語が残存しているのが、上流階級、知識層であり、首都なり大都会の周辺である。満洲語が北京語として旧満州と北京周辺で話されているのと事情は類似している。皮肉なことに北京政府は、満洲語を全国に普及させようとしているがなかなかそうはいくまい。それならばモンゴル語はどうした、という疑問がわく。モンゴルの支配が終えてから明、清という異言語民族の支配があり、モンゴルは元朝崩壊後祖地に撤退した。モンゴル化した北京の支那人はモンゴル人とともに逃亡したのであろう。ベトナム戦争に負けた南ベトナムの人々の多くがアメリカをはじめとする世界各地に逃避定住したのと似ている。 しかも清朝でもモンゴル地域は支配され、中共時代にもモンゴル地域の半分は支配されたのであった。中国における異言語のひとつモンゴル語はモンゴル支配の残像として残った。満洲語も北京語として残った。満洲語が中国語の一部とされて、モンゴル語が明瞭に支那の言語と異言語とされるのはなぜか。モンゴル人が故地に帰り帝国を残存させたから、モンゴルという名前が支那の外に残ったから、モンゴル語は支那人の支配下にあってもモンゴル語なりモンゴル文化と指摘できるのである。そうすると満州族と同様に唐などの異民族支配時代の民族の言語風俗はどうなったのであろうか。 それは必ず残っているのに違いないのである。すると支那大陸における多くの言語、福建語、上海語、広東語などはかつての支配民族の言語であったのではなかろうか。すなわちこれらの言語を話すのは、かつての支配民族すなわち大陸の東西南北周辺にいた異民族が大陸を支配して、その後別の周辺民族に滅ぼされて残った民族の末裔なのであろう。 漢民族は漢王朝末に戦乱と疫病で民族としてはほぼ絶滅し、その後周辺から乱入したいわゆる蛮族に取って代わられている。すなわち漢民族はこのとき少数民族に転落した。その後は外来民族が支配し、その支配がまた周辺民族に取って代わられるという歴史を繰り返したのである。その結果、次々と各種の言語と風俗が各地に定着したのが現在の支那大陸の民族言語地図である。つまり支那大陸は各種民族の雑居する地域なのである。そして広東語の地域は広東語の地域であるごとく、決して地域が地域外と融合することはない。ヨーロッパの類似で言えば、広東語を話すのは広東族としかいいようがないのである。国民国家が成立するとすれば、広東国としかいいようがないのである。 それらの国が合体して中華人民共和国という帝国を構成している。毛沢東が江南の出身であったように、支配者は各地から競って次々と現れる。漢民族はいない。正確に言えばわずかに客家として残った。これが一つの仮説である。それではなぜ異民族の言語が残存したのであろうか。欧米の言語が東南アジアに残ったのと同じである。かつての支配者の言語であったことと、優れた文明を持っていたと考えられることである。満洲語が北京語として定着したのは長期間支配されていたということで十分である。満洲語は北京官話として地方に派遣された官吏の共通言語としても使われていたから普及しないはずはない。 北京語と広東語との相違は英語とドイツ語、フランス語ほどの大きな相違で、方言といえるものではないといわれる。だがヨーロッパ系のどれかの言語を話す者が、英独仏語を外国語として習得する事は、北京語広東語を習得するよりははるかに容易であろう。だからインド人やフィリピンが英語を習得するよりは、広東語を話す者が、北京語を習得する方が容易である。すなわち「漢民族」が満洲語を習得して満人化することは大いにありうるのである。 満州族の方が文明として優れていたと支那の原住民が考えていた証拠もある。支那服は満洲人の服装である。支那服が衣服として、高度な技術を持って作られているのは明瞭である。京劇も紫禁城の中の文物も満州族のものである。支那人はこれらの文化風俗を中国の文化遺産として誇っている。すなわち優れたものと考えている。これらのものを取り入れた原住民が、満洲語を取り入れるのは当然であり、現在も残存するのは当然であろう。満洲民族が漢民族に同化したのではない。北京語を話す漢民族と自称する人々は満洲民族に同化した人たちである。 そんなに満洲の支配がいやであったのなら、清朝を転覆したときに漢民族の言語風俗を取り戻せばよかったのではないか。それはできないのである。清朝転覆に奔走した孫文ら上流階級、白話運動を行った魯仁ら知識階級は何百年もの満洲人の支配で言語風俗まで完全に満洲化しており、取り戻すべき漢民族文化など既に持たなかったのである。地方の民衆はともかく、高度な知識を持ち学問に優れたもの、あるいは財力のあるもの、すなわち革命の原動力を担うことのできる者ほど満洲化していたのである。ちなみに辮髪は残らなかった。すなわち良いものと悪いものは選別されていたのである。 だから彼らの支那訛りの満洲語を北京語とし、満洲服を支那服と偽り、満洲という単語を駆逐忌避するしか、自らのアイデンティティーを満洲文化と区別することはできなかったのである。漢民族という共通した民族は存在せず、異民族が侵入するたびにそれぞれの地域に定住していった、異民族の複合であると規定すれば、中国人なるものの性格は理解できる。チベット、モンゴルなどの少数民族以外、すなわち漢民族と称される人々は概して、個人主義でエゴが強く、他人を信用せず、血族だけを信用するという、ヨーロッパや日本の現代人にあるまじき性格である。すなわち人間不信の世界である。 大陸の歴史は、常に異民族が侵入して王朝が交替することを繰り返した。元々は多数の民族の集合であり多少の戦乱はあっても、日本では多年の同化混淆の後に安定し一民族として融合する歴史を経過した。支那大陸で繰り返された戦乱は日本の戦国時代の比ではない。社会は安定する前にすぐに壊される、賽の河原の歴史を繰り返している。社会のルール、共通した常識やモラルというものが熟成されることがなかったのである。すなわち社会に埋没して安心して暮らせる社会が決してできることがなかったのである。もし漢民族という共通したアイデンティティーがあるならば、このような不幸な社会になるはずがないのである。 せめて広東語、福建語といった共通言語を話す社会の中だけで排他的に安定する社会を作ることができたなら、そのようなことはなかったであろう。共通言語を話す民族同士でも戦乱と統一の繰り返しの中で、共通したアイデンティティーを持つことが妨害された。だから他人を信用せず、血族だけに頼るという事が不幸な「漢民族」の唯一のアイデンティティーとなってしまったのである。彼らが安定した社会を構成するには言語風俗を共通する人々だけで個別の国民国家を構成するしかないのであろう。 しかし長い支那大陸の歴史を閲する限り、分裂したところでそこで安定することがなく、再び統一するといった歴史を繰り返している。すなわちヨーロッパのように国民国家を形成する方向に収斂するということはないように思われる。それならば、唯一あるべき姿は、いわゆる漢民族と自称する人たちの地域と、チベット、内モンゴル、ウイグルなどの非漢民族の地域を分離し、後者がいくつかの独立国となることである。自称「漢民族」の地域は勝手に戦乱と統一を繰り返していればいいと思うのである。 3.9 漢民族滅びる 杉山徹宗氏は次のように書くI。 時代は下がるが、特に三国時代 (三世紀)の末期、蒙彊の諸民族やチベット族が大挙して漢民族居住地に侵入し、いわゆる五胡十六国時代(四世紀から五世紀ごろ)を現出させるが、これによって、それまでの漢民族という人種をほぼ絶滅させ、異民族との混血による新たな漢民族を出現させたことは特筆すべきことであった。したがって隋(五八一〜六一九年)から始まる現在の中国人は、新種とも言うべき漢民族なのである。 これは驚くべき記述である。秦の始皇帝や孔子といった人たちが活躍し、漢字を発明した時代の漢民族は隋成立以前に滅んで、もはやいないというのである。なるほど中国には孔子の何代目と主張する中国人はいる。雪舟の息子が英国に行き、現地で英国人と結婚したとする。そのようにして英国で代々結婚を繰り返して残った人がいて、一方で本国の日本民族が絶滅したとする。すると英国に行った人の末裔が雪舟の子孫だと主張することは勝手だが、民族としての連続性から考えれば何の意味もないのである。紅毛碧眼で日本語を完全に忘れ、風俗文化も継承しないそのような日本人の末裔が、日本人の子孫であると主張することに何の意味もない。孔子の末裔とはこのようなものであろうと想像する。 「東洋史通論」Kには次のような記述がある。 五胡とは匈奴、羯、鮮卑、氏、羌の五つの異民族のことで、これらは西晋の衰亡に乗じて華北に侵入し各々国をたてて互いに抗争し約百三十年間に前後十八国(国名は略)の興亡を見た。その中、西燕は存立期間がきわめて短いために、また後魏(北魏)はのち諸国を平定して江北を統一したので、この二国を除き他の国々を五胡十六国と称する。ただし前涼と西涼、北燕は漢族である。 これは五胡十六国時代の説明である。18国あったうちのわずか3国が漢族であり、残りは漢民族以外の異民族だと言うのだ。その上、これら諸国を異民族の後魏という国が平定して、江北を統一したということなのである。ここにも漢民族の国家が滅びたことが書かれている。通論は杉山氏の著書と異なり定説をのせた教科書的なものである。通論には滅んだ漢民族国家の民はどうしたかと言えば、大量に南下して漢文化の南方への移植を果たしたとある。元来、揚子江流域は開発は進まず、土地は肥沃であったが農耕生産も少なかった、とある。 農耕生産がすくなければ、当然人口は希薄であったに違いない。そして漢文化が南下したということは、当時の揚子江流域には漢文化はなかった、すなわち漢民族はいなかったということである。地図を見るに揚子江は河口付近が平地であるだけで、すぐ上流と揚子江南部は山地であり黄河周辺とは地形が異なり人口が少なかったと想像される。 そして別項で述べるように、このころ南下したのは最初の「客家」と呼ばれる人たちである。そして客家は移住先に混じることなく、独自の文化を維持していたというのは定説である。つまり南部に新たに漢民族国家を形成することはなかった。つまり杉山徹宗氏の言う、漢民族も漢民族国家も絶滅したというのは正しいといえよう。漢民族は隋帝国以前に絶滅したということは、歴史を考える上で重大な事実である。漢字と古代中国文明を発明したあの漢民族は単に消えてしまったのか。その答えは次章にある。 中原にいた本来の漢民族は五胡十六国の時代を経て、彼らの言う夷狄により滅ぼされて言語も文化も異なる北方系の新しい王朝、隋唐の時代となる。正確に言えば秦自体の出自も地理的に言えば、春秋戦国時代にかつての周の西の外れにあったから、夷狄というべき西戎出身といわれる。いずれにしても殷周の時代あるいは秦漢の時代に中原を支配した民族を漢民族とすれば、その後漢民族は絶滅して新しい文化に置き換わった。かろうじて残ったのは漢字だけである。この経緯はギリシアローマが滅びて、彼らの文字の発展形であるアルファベットだけが残って西欧近代世界となった経緯とも類似点がある。現在のイタリア人もギリシア人も古代ギリシアローマの末裔ではない。 ちなみに古代ローマの末裔を主張しているのは文字通り現在のルーマニア、すなわちローメニアンである。宋の時代とて支那大陸に外から定住した非漢民族が前王朝を倒したに過ぎない。大事な点は、これらの非漢民族は支那で漢民族の言語風習を受け入れて漢化したのではないということである。漢民族は滅びて言語も風俗も絶えたのであるから。これらの民族は自らの言語風俗を維持したのは当然のことである。 四書五経の読み方は、作成された当時の漢民族の読み方から切韻というアルタイ語系の読み方に変わっている。これは英語の文章を勝手にドイツ語読みしたりフランス語読みするのに等しい暴挙である。風俗風習も同様で、隋唐以後は非漢民族の各種の民族が入れ替わり立ち代り支配するたびに、彼ら自身の風俗風習を維持し定住していった。 彼らは決して秦漢当時の言語風習を取り入れて漢化するなどということはなかったのである。こうして中国には各種の民族分布が出来上がっていく。モンゴルに支配された支那大陸はモンゴルが故地に帰ると、支那大陸に定住していたどれかの民族が有力となって、支那大陸を支配する。これが明王朝である。これを異民族を漢民族が追放したなどというのは間違いである。モンゴルにとって替わったのが滅びた漢民族でありうるはずがない。それは秦漢の時代に北狄、南蛮、西戎、東夷と呼ばれた民族が漢民族を滅ぼして中原と大陸を支配して定住したなれの果てである。漢民族の復興などというのは、支那大陸を支配するものの正統の象徴であって事実ではない。 我こそ漢民族の復興をなしたる者なるぞ。我が支配に従えというときのせりふである。だから歴史書は支配民族の出自を漢民族と偽って書かされるというのは既に常識である。あれだけ民族の支配被支配が繰り返された支那大陸で、常に不変の漢民族がいて周囲の異民族が漢化されるというのは、ヨーロッパ史のアナロジーからもあまりに馬鹿げている。第一蛮族に滅ぼされるのは蛮族が、野蛮どころか実は文明文化が優れていたからである。現在の米国は軍事力でもテクノロジーでも、文化でも世界を席巻している。テクノロジーが優れているから軍事力が優れ、テクノロジーが優れているから、それにより新しい文化を生むことができる。ハリウッド映画の特殊撮影はテクノロジーに支えられている。 王朝を倒したのは、倒した民族が優れたテクノロジーに支えられた軍事力があったからである。現に「漢民族」は征服者たる満洲族の民族衣装を支那服として取り入れてしまい、京劇として喜んでいる。征服者は優れているから征服者であった。2章でフランク王国とフランスの関係が支那史で関連のない王朝とされるふたつの呉王朝にもあるはずだと書いた。このような整理を行っていくと、支那大陸史は実はヨーロッパのような民族の離合集散が行われていることが発見されるはずである。 このような整理を阻んでいるのは支那史における統一願望である。大帝国とされる唐、元、清にしても統一が保たれているのは建前の期間の半分にも満たない。そう考えれば統一されていた期間は十分の一にも満たないだろう。統一は願望であっても例外であった。そして統一といっても現在の世界各地で見られるような国民国家の統一とは全く異なる。 元朝を例に取る。フビライハーンの帝国は元朝というから誤解される。フビライはモンゴルの元首である大ハーンである。そして支那の元朝の皇帝であり、チベットではダライ・ラマの庇護者として支配といった具合である。それぞれの領域に対して各々の伝統的支配形態をそのままにした君主として君臨したのである。このときの元朝の領域とは、2章で説明した南方方言の使われる地域と北方では河北、河南、山東、山西、江蘇あたりの各省の領域に限られる。そしてここに住む支那人は他の地域に住んではならないのであった。すなわち異国だからである。 さらに支那人の居住域ですら各地では言語が違う。言語が違うまま保持されるということはこれらの地域内の交流はなかったということである。モンゴルの帝国はこのような程度のものであった。さらに漢にしても隋唐にしても似たようなものであったし、各帝国が興ってから滅びる間の大部分は名目上も統一されていなかった。このように支那大陸の統一とは願望であって実態ではない。また2章のような現在の言語分布を考えると、奇妙なことがわかる。客家語は別かもしれないが、南方方言の地域は6つの互いに通じない異言語地域に分かれている。しかし北方方言の地域では地域内の言語の相違が希薄で、互いに何とか通じる範囲であるというのだ。 この明白に区分された南北の相違になぜ疑問を持つ人がいないのだろうか。この区分を地図にしたものを見ると実に不自然である。北方は北京官話で統一されているのに、南方は互いに通じない言語地域に細分化されている。これが奇妙でなければ奇妙なことはない。北方の北京官話の地域とは満洲と首都北京の周辺が主である。北京官話とは満洲人の王朝で話されていた言葉である。そして宮廷には多数の満洲化された漢人がいると書いたことを思い出して欲しい。 ハワイ旅行に行ったときに日系人のみやげもの売り場に若い日系人の若者がいた。普通に英語を話すが日本語は全くの片言。日本語で書かれたパンフレットを見せると漢字が面白いからくれないかといわれた。だが読めないのである。しかし容貌は全くの日本人だから日系人同士で結婚した何世かであろう。白人と混血してはいないから血統は完全な日本人である。しかしこの人は民族としては日本人ではないとしかいいようがない。言語も風俗も完全に米国化したのである。康熙帝伝でいう満洲化した漢人というのはこのような人たちであろう。 すなわち首都近辺の満洲人の支配力の強い地域では土着の支那人−漢民族ではなく、かつて北方西方から来て定住した、鮮卑トルコ系などの人たち−は競って満洲化した。元の出自が各種あり、地域の隔離があるから必然的に方言が生起する。しかし宮廷の満洲人やそのとりまきと交流するから、言語と文化は一定の範囲に収斂する。互いに通じなければならないからである。このように満洲と満洲王朝の影響力の強い地域では、三百年の間に満洲化する。三百年は長い。彼らは満洲人の支那服を着る。満洲人の北京官話を話す。満洲人の京劇を演じ、鑑賞する。血統から言える満洲人がどれ位いるかは問題ではない。中共建国直後満洲族は2〜3百万人と言われた。 それが満洲人を名乗ってもバッシングされないと分かると突然満洲人は一千万人を超えた。しかし彼らは言語風俗も漢民族と区別がつかないといわれる。そうではない北方の地域が満洲化したのだ。聞きたい。言語風俗のどこに孔子孟子の時代の漢民族の痕跡があるというのだ。すなわち現在、北京官話を話す人たちは満洲人である。南方の人たちは、はなから漢民族ではない。一部はベトナムなどの東南アジア系であろう。このことは言語にも証拠がある。繰り返して言う。漢民族は二千年近くの昔に滅びていない。四書五経を作った漢民族はいない。 「世界の言葉」Gは「現在の中国語の南方諸方言の基層に東南アジアや南島語の要素があることを指摘する学者が間々ある。その説に従えば、かつてこのあたりに住んでいた非漢族が後に漢語を習得した結果できあがったのがこれら南方方言ということになる。」と書く。これは筆者の意図とは反してこれら南方方言を話す人たちは漢民族ではないということを言っている。そもそも言語の基層が漢語ではないのに、なぜ漢語を習得したと言えるのだろう。この本の筆者は牢固として中国に入ったら言語は漢語に支配されると信じている。しかしこれらの言語は南方民族が自らの言語を発展させた結果に過ぎない。 例えば英語である。英語は古ドイツ語から発展したものである。言語の基層はドイツ語である。これはドイツ語と英語を比較することによって、両方の言語の理解に役に立つとされていることからもわかる。しかし英語は徹底的にフランス語の影響も受けている。英単語の60%までもがフランス語ルーツであるといわれている。これほどの影響を受けても文法の基本はドイツ語である。すなわち英語の基層はドイツ語にあるといえる。つまり言語の基層は失われないのである。 この地域は中原ではない。漢語ははなからないのである。別項で述べたように漢語を話す客家は北方から逃げてきて、土着民とは混淆していないのだ。そして2章で述べたように客家語は広東福建江西の各省にまたがる地域にわずかに存在するに過ぎない。これがオリジナルの南方語を大きく変容する影響があるとは考えられない。南方方言を話す民族は北方と同じく漢民族ではなく、東南アジア系であると断定せざるを得ない。この地域でも漢民族は存在しないのである。 3.10 軍管区と言語と中共の分裂 週刊誌・サンデー毎日の平成18年10月29日号の北朝鮮の核実験による金正日体制崩壊特集に面白い記事がある。金正日体制が崩壊した場合、中国は緩衝地帯を失いその影響で中国も分裂してしまうだろうというものである。分裂は人民解放軍の7つの軍管区の管轄に分裂するだろうというものである。軍管区は現在軍閥化して半独立国家になっていると言われるから、荒唐無稽なことではない。天安門事件の際も国際社会は各軍管区がどう動くかを注目したが、結局北京政府に従った。もしかすると北京以外の軍管区が離反して中国が分裂するのではないかと疑ったのである。 ちなみに中国における軍閥とは戦前の日本軍を指して言う軍閥とは意味が異なる。中国の軍閥とは頭目が私兵を雇用して、軍事ばかりではなく農耕など全生活にわたって一体化して共同体もしくは半独立国家化したものである。戦前の支那大陸は実際には多数の軍閥が群雄割拠する社会であった。蒋介石も毛沢東も張作霖も実態は軍閥の頭目であった。 蒋介石は英米から金をもらい私腹を肥やし、毛沢東はモスクワの指示で動く傀儡であったし、張作霖は日本の支援を受けて利用されていた。軍閥は戦争などで略奪して子分を養う、日本で言えば強盗集団であり、良くて戦国武将である。支那軍閥の様子はパール・バックの「大地」に描かれている。だが軍閥が分裂して独立するためには、言語との関係をチェックしなければならない。軍管区に異言語があまり混在するようでは、独立の条件としては厳しいからである。独立後、国内に複数の対等の勢力を持つ民族が並立するのは困難だからである。 2章では北京官話の分布を次のように推定した。 @北方官話・・・東北部すなわち旧満洲と北方(黒龍江、吉林、遼寧、河北) A西北官話・・・黄土台地とその西方地域(甘粛、寧夏、陝西、河南、湖北、山西) B西南官話・・・四川とその近隣地域(四川東部、貴州東部、雲南) C東方官話・・・南京とその周辺(江蘇、安徽、山東) 一方「中国人民解放軍」Lによれば、中共の人民解放軍の軍管区は @瀋陽軍管区・・・黒竜江省、吉林省、遼寧省 A北京軍管区・・・北京、天津、河北、山西省、内モンゴル B済南軍管区・・・河南省、山東省 C南京軍管区・・・上海、浙江省、江蘇省、福建省、安徽省、江西省 D広州軍管区・・・湖北省、湖南省、広東省、広西省、海南島 E蘭州軍管区・・・陝西省、甘粛省、寧夏省、青海省、新疆ウイグル F成都軍管区・・・四川省、雲南省、貴州省、チベット 軍管区の区分で注目されるのは、となりに本国というべきモンゴルがあり、独立志向の強い内モンゴルが中共政府の直轄というべき北京軍管区に入れられて監視されていること、独立地域というべき広大な新疆ウイグルとチベットが単独の軍管区を構成せずに、他の軍管区に入れられて、これも監視されていることである。 軍管区と言語の分布との比較でひとつの特徴は、2章で説明した漢語と呼ばれる言語のうち、北京語を除いた、南方中国語諸方言と呼ばれている6種類の言語、呉方言(上海語)、閩方言(福建語)、粤方言(広東語)、客家方言(客家語)、韓(字見つからず、仮字)方言、湘方言は、広州軍管区と南京軍管区に完全に包括されていて、軍管区の方がやや広い さらに詳細に見ると、海南島を例外とすれば、広州軍管区は広東語と湘方言の分布地域であり、南京軍管区には福建語、上海語、韓方言が含まれる。この境界は比較的明瞭である。客家語は両軍管区の中央にまたがって分布しているが、2章で述べたように客家語は土地との結びつきがやや薄いことを考えれば、客家語は例外と考えるべきであろう。 軍管区独立説との関係を見よう。新疆ウイグル、チベット、青海省と四川省西部、雲南州西部などの北京語でも南方中国語諸方言でもない、いわゆる非漢語の地域は、軍管区とは関係なく各々別途独立すべきものと考える。残りの北京語を使う軍管区では、旧満洲の黒竜江省、吉林省、遼寧省の軍管区は他の軍管区と隔離されていること、方言としてもまとまりがあること、旧満州であることを考慮すると、これも分離独立する要素があると考えられる。 さらに残った北京語を話す軍管区では方言という程度の差なので、長い間に軍閥としての軍管区内の結びつきが強くなっていれば、方言の区分ではなく軍管区での区分で独立する要素があるというのはおかしな話しではない。 南方方言の2軍管区は軍管区内での言語の差異が大きいと考えられるので、軍閥としての軍管区内のまとまりが、言語の差異を超えることができるかにかかっている。このように考えると、中共の軍管区による独立説は荒唐無稽とは言えない。中共の分裂は歴史のあるべき姿としてのヨーロッパ化である。しかし多くの暴動が現在でも起こっていることを考慮しても、中共が近いうちに分裂するという徴候があるとは私には考えられない。 中共の分裂は「あるべき姿」と書いたように、私の願望である。ソ連の場合にも私は同じ願望を抱いた。バルト三国などは明らかに第二次大戦のどさくさにまぎれて侵略されたのだし、ウクライナなどは明らかにロシアではない。だからいつか分離独立すべきだと考えた。ただ私が生きている間には到底あるまいと考えた点と、あそこまで多数の共和国が短期間に一気に分離独立した事は予想もできなかった。 中共の分裂の願望もそう簡単には成立しまい。歴史的に見て支那の元、清といった征服王朝は300年近く支配を続けた。まだ中共の帝国は60年程度の歴史しかない。歴代王朝の転覆は内部崩壊の場合には白蓮教などと呼ばれる民間の秘密結社の反乱であった。しかし当時と比べると武器の発展が著しく、政府軍の持つ武器と民間の武器の格差が著しい。 戦車や爆撃機の前に民間のライフルは無力である。実は秘密結社ともいわれる法輪功は簡単に弾圧されたではないか。軍管区分裂説の背景にはこのような武器の発展がある。軍管区は戦車どころか核兵器も持つから、軍管区が独立の意志を持つときは中共政府に対抗できる。民間による反体制運動より軍管区独立説の方が現実味はある。それどころか内モンゴルという内敵を抱える北京政府直轄の北京軍管区は、内部に反対勢力を抱える不安定勢力である。ただし現在の各軍管区には分離独立の動機が見当たらないのである。 しかしいつの日か中共は分裂する。その日を私は見ることはできない。しかし中共の分裂は歴史の予言するところである。しかし分裂が従来の歴史的パターンと異なり、ヨーロッパのような国民国家化として定着すべきであると考える。従来の弾圧と搾取と反乱の繰り返しから脱却し住民が真の幸福を得られる唯一の条件だからである。それはひとえに言語の問題にかかっている。 http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~k-serizawa/sub2-3.html 中国では川筋毎に言葉が異なるから、川の支流の数だけ異なる自称漢民族がいて、みんな自分達は漢民族だと言ってるだけさ。 遺伝子も言葉も文化も全然違うのにね。
本当の漢民族は白人で, 2500年前に滅びてるんだけどねwwwwwwwwww
|