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尖閣諸島「中国が日本の領土と認めていたことは明白」と識者(NEWSポストセブン)
http://www.asyura2.com/12/china3/msg/264.html
投稿者 馬鹿まるだし 日時 2012 年 9 月 30 日 12:25:57: XrXUVCoFJUfoI
 

尖閣諸島「中国が日本の領土と認めていたことは明白」と識者(NEWSポストセブン)
2012.09.29 16:00

 尖閣諸島の領有権をめぐって、中国ではテロにも等しい半日暴動を起こすなど、大きな外交問題となっている。

 中国は、日本が「日清戦争後に自国領土とした台湾と尖閣諸島」を“我が領土”と主張している。しかし、中国の「尖閣諸島は日本が清から略奪したもの」という主張は荒唐無稽といっていい。というのも歴史上、清が尖閣諸島を領有したことは一度もないのだ。国の体制が清から中国に変わっても、1970年代に至るまで、尖閣諸島の領有権を主張することはなかった。しかし――東海大学海洋学部教授で、東京都の尖閣諸島担当として尖閣諸島の調査にも参加した山田吉彦さんが解説する。

「1968年に国連の極東アジア経済委員会が、東シナ海に中東に匹敵するほどの石油資源が埋蔵されている可能性があるとの調査結果を報告しました。すると1971年に台湾と中国が突如、領有権を主張し始めたのです。要するに油田獲得が目的なのです」

 実際、尖閣諸島の領有権が日本にあるのは明らかで、その証拠も複数ある。『日本人が行けない日本領土』(小社刊)の著書があるフォトジャーナリストの山本皓一さんの話。
「1919年、中国・福建省の漁船が難破して31人が魚釣島に漂着。島に住んでいた日本人が彼らを救助しました。この時、中華民国の長崎領事は島民に感謝状を送りましたが、その宛名には『大日本帝国沖縄県八重山郡尖閣諸島』と記されていました。つまり、当時の中華民国は尖閣諸島が日本の領土だと明確に認めていたことがわかります」

 さらに中国や台湾が1970年以前に発行していた中国の地図でも、尖閣諸島は日本の領土とされていた。

『ひと目でわかる日韓・日中 歴史の真実』(PHP研究所)の著書があるジャーナリストの水間政憲さんが語る。

「例えば1960年4月に北京市地図出版社が発行した『世界地図集』では、尖閣諸島が日本の領土として『魚釣島』『尖閣群島』と日本名で表記されています。中国の地図は皆国定ですから、中国が日本の領土だと認めていたことは明々白々です」

 それが1970年以降の地図になると国境線が勝手に移動され、国境は尖閣諸島の東側へと、都合よく書き換えられていく。

 それは台湾の地図でも同じ。1965年に発行された『世界地図集 第一冊 東亜諸国』のなかの、琉球群島と題された図版を見てわかるように、1965年の段階では明らかに日本領だと認識していた。

 では、日清戦争後に日本の領土になったという指摘は正しいのか。実はそれも事実とは異なる。尖閣諸島に日本人が最初に足を踏み入れたのは、1884年のこと。福岡の実業家・古賀辰四郎氏が探検隊を派遣し、無人島であることを確認。1895年に日本が領有を決定したが、日清戦争以前にそもそも日本人が上陸していたもので、日清戦争とは無関係。

 その後、古賀氏が日本政府から島を借り受けて開発を進め、カツオブシ工場と鳥の剥製工場を作った。最盛期には最大248人が島に住んでいたという。1932年には島は国から古賀氏に払い下げとなり、以降、島は個人の所有地になっていた。

※女性セブン2012年10月11日号

http://www.news-postseven.com/archives/20120929_146235.html


<関連記事>

中国は自国の地図で「尖閣諸島は日本領土」と明記していた(NEWSポストセブン)
2010.10.05 17:00

 温家宝首相に国連演説で「領土では一切妥協しない」と恫喝されたうえ、謝罪と賠償金を要求されるなど、中国にやられ放題の日本。政府の腰砕け外交のツケはあまりにも大きいというほかはない。

 歴史をひもとけば、中国の主張が偽りなのは一目瞭然。

 それが、1960年4月に北京市地図出版社が発行した『世界地図集』に掲載されている日本の「琉球群島」の部分である。2004年にこの地図を発掘したジャーナリストの水間政憲氏がいう。

「尖閣諸島は日本の領土として、しっかり日本名の『魚釣島』『尖閣群島』と表記されています。日本と台湾(中国)の国境線も、国連海洋法条約に従って、与那国島と台湾本島の中間に引かれている。67年に発行された別の地図集でも同様の表記でした。当時、中国は尖閣諸島を日本の領土だと認めていたわけです」

※週刊ポスト2010年10月15日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101005_2737.html  

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コメント
 
01. 馬鹿まるだし 2012年9月30日 12:39:25 : XrXUVCoFJUfoI : EODmeMmQL2
中国は尖閣を日本の領土と認めていた! 池上 彰氏(元NHKキャスター)が解説 「教えてMr.ニュース」フジテレビ You Tube(青山繁晴氏のファンサイト・淡交 ブログより)

中国が尖閣諸島を日本の領土として認めていた・・・ということはネット上では聞かれることと思いますが、これを元NHKのニュースキャスターが生放送で解説しているところが面白いと思い、貼り付けました。
「清」「中華民国」「中華人民共和国」それぞれの時代で、いくつかの証拠を挙げて分かりやすく解説しています。


(中略 ※引用者注:紹介されていたYouTube動画はすでに削除されている)


さて、動画の方ですが、フジテレビ「教えてMr.ニュース LIVE」という番組。
先ず、のっけから・・・
「実は日本の領土だよ、ということを向こうも認めていたよね、という証拠の品が色々あるんですね」
「今からそれを、いくつかお見せしましょう」・・・という言葉から始まります。
(前半の大事な部分を簡単にまとめてみます)

先ず現在の共産中国ではない「中華民国」の時代の話から。
1920年(大正9年)、尖閣諸島周辺で中国の漁民が遭難したのを、日本の漁民が救出した。
これに対し、中華民国から感謝状が日本側に贈られている。
その感謝状には、はっきりとこう書かれている。
「日本帝国 沖縄県 八重山郡 尖閣列島」
つまり中華民国の時代には、尖閣諸島を日本の領土だと認めていたことになる。

しかし、証拠はこれだけではなく、
現在の「中華人民共和国」も、尖閣を日本の領土と認めていたという証拠がある。
1953年、中国共産党の機関紙である「人民日報」1月8日付の記事に、沖縄での反米運動の記事が出ている。
その時に、中国の国内向けに「そもそも琉球群島とは何処か?」という解説が出ていて、
これを見ると、「琉球群島には尖閣諸島が含まれる(包括尖閣諸島)」と書いてある。

また中華民国以前の「清の時代」に於いても、
日本は「尖閣諸島は何処の領土でもない」という事を確認、「清の領土でもない」という事も確認した上で、尖閣を日本の領土とした。
1917年当時(感謝状の3年前)は、かつおぶし工場などもあったため、中国の漁民を助けることも出来たが、燃料代が上がったりしたこともあって工場を放棄し、その後はずっと無人島となっている。

さらに1958年、北京で発行された地図にも琉球群島を解説しているものがあり、「沖縄などの琉球群島の中に尖閣諸島も含まれる」と書いてある。

以上です。

http://blogs.yahoo.co.jp/tankou_2008/33989127.html


02. 2012年9月30日 13:30:30 : YXJS0kkUHo
 中国は,彼らの主張を米国の新聞に意見広告として大々的に流布している.
だから,我々,日本の民間人は,これに対抗して,インターネット上に,真実を世界に明かさなければならない! (日本政府が中国と同じように意見広告を出すことも必要だろうが,水掛け論にされてしまうだろうし,中国と同じように下品である.民間から声を挙げよう!.)

03. 2012年9月30日 18:55:32 : MEgeolNnl6
東京都に集まった、尖閣購入の寄付金を 尖閣の意見広告の費用としたら
いいのではないだろうか。
まずは 世界人口の90%をカバーする6−8カ国語程度
(英・仏・中・西・独・日・印)のWeb Siteのたちあげ。

ついでに、日本が中国の復興にどれだけ貢献してきたかもアピールすればよい。


04. 2012年9月30日 21:44:08 : YxpFguEt7k
万猛氏
「中国の立場から言えば、何よりも恐れるのは台湾独立だ。これを抑えるためにも、釣魚島の領有権を主張するのは、国家の核心的利益だ。」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33607?page=7

尖閣諸島問題
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6%E5%95%8F%E9%A1%8C

「周辺海域に豊富な天然資源があることがほぼ確実であると判明すると、ただちに台湾がアメリカ合衆国のガルフ社に周辺海域の石油採掘権を与えた。」

沖縄返還は1972年だから、もし尖閣が沖縄に属していたのなら、ガルフ社は「アメリカ合衆国」から採掘権を得るのがスジではないのか。それが「台湾」から石油採掘権を得ているのはおかしい。アメリカですらあそこは「台湾」だと認識していたのではないでしょうか(推測ですが)。

中国政府は日本ではなく、「台湾」に尖閣を渡したくないのでは?


05. 2012年10月01日 10:49:22 : rMrJXX84Ac
そもそも地球上に領土などという境界線は無かったのだ!
 
今の国境は、結局、国家という権力集団によって、力ずくで決めた(奪った)もの。

最後は、力だ!

愚かな人類は、地球にとって癌細胞のようなものだ!

領土争いの果てに滅びるがよいのだ!


06. 恵也 2012年10月01日 11:42:40 : cdRlA.6W79UEw : EMvJuNDo9g
>> というのも歴史上、清が尖閣諸島を領有したことは一度もないのだ。

間違い!
清の西太后が薬草を上納した人に、尖閣諸島の魚釣島、久場島、久米赤島
をあたえてますので「一度もない」というのは確認ミス。

むしろ尖閣諸島は戦争のドサクサに沖縄県に入れたために、中国当局が気づかず
台湾と一緒に戻してもらってるものと勘違いしただけ。
1945年〜1970年までの25年間、中国当局のミス。

竹島は日露戦争のドサクサに、韓国から日本がカッパラッタ島。
北方領土は第二次大戦のドサクサに、日本からロシアがカッパラッタ島。

ーーーー引用開始ーーーー
(1893年)10月、慈禧太后(西太后)は、釣魚島を郵傳部尚書の盛宣懐に与え、
薬剤の採取地とする詔書を発した。

詔書には「盛宣懐が献上した丸薬は効果が非常に高い。上奏によると、薬の原料
は台湾沖にある釣魚台小島のものである。この霊薬は海上で産出され、効能は本
土のものよりも優れている。

聞くところでは、汝の家系は薬局を開き、診察を行い、貧しい人や病気の人を助け
てきた。これはとりわけ称賛に値することである。よって釣魚台、黄尾嶼、赤嶼の3島
を薬剤採取に供するため、財産として盛宣懐にあたえる」
(1996年10月18日付 「人民日報」第8面 作者:鐘厳 より)

>> 日清戦争とは無関係。

日清戦争で勝てそうだとの確証がなければ、日本領土にはしてないでしょう。
10年前1985年に日本外務省は清国領の可能性があるとして、反対してました。

ーーーー引用開始ーーーー
清国の抗議をおそれる外務省の異議により、山県内務卿の釣魚諸島領有の
たくらみは実現できなかった。九〇年の沖縄県の申請にも、政府は何の返事
もしなかった。九三年の沖縄県の再度の申請さえ政府は放置した。

それだのに、いま、こんなにすらすらと閣議決定にいたったのは何故だろう。その
答えは、内務省から外務省への協議文中に、かつて外務省が反対した明治
十八年の「其ノ当時ト今日トハ事情モ相異候ニ付キ」という一句の中にある。
http://www.come.or.jp/hshy/j96/10si4.html

>>01 「清の領土でもない」という事も確認した上で、尖閣を日本の領土とした。

間違い!
戦争をやってる真っ最中に、「清の領土でもない」という事も確認できるはずがない。
清の艦隊を撃滅し、旅順を占領し大勢が決まってる状態でどうやって確認するの?

日本は敗戦でカイロ宣言・ポツダム宣言を受諾し、清からカッパラッタ領土は戻しま
すと約束したんだから、尖閣を中華民国に渡すのが当たり前。

中華民国当局が25年間気が付かなかったミスはあるけど、貿易立国を目指すのなら
一度した約束は守ることが出来なければ信用をなくすよ。

ーーーー引用開始ーーーー
満州、台湾及澎湖(ぼうこ)島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域
を中華民国に返還することに在り日本国は又暴力及貪欲(どんよく)に依り日本国
の略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし
(カイロ宣言 より)

>>04 中国政府は日本ではなく、「台湾」に尖閣を渡したくないのでは?

この可能性はあると思う。
尖閣のすぐそばまで中国海洋石油株式会社がガス田を掘ってるけど、台湾に
正式に渡ったら所有権がおかしくなってしまいそうだ。

とくに台湾独立派が政治権力を持った状態になったら、どうするんだろうね。
カイロ宣言からみると、台湾の中華民国に戻すことになるからアメリカのガルフ社
が海底石油を掘るのだろうか???
周恩来が田中角栄に「尖閣については今は話したくない」と言った理由が判る気がする。


07. 2012年10月01日 12:39:49 : CJkB4LqGx6
>それが1970年以降の地図になると国境線が勝手に移動され、国境は尖閣諸島の東側へと、都合よく書き換えられていく。

笑)これは日本も同じ!

それを物語るのが1966年版の『高等地図帳』(二宮書店)(尖閣列島は載っていない)と「尖閣」が騒がれだした1972年版(尖閣列島が書き加えられ、日本領となるように台湾とのあいだに長い線引きがされている)の違いだ。 しかも、この改訂された地図帳のうち「南西諸島」の部には尖閣列島は全く書かれていない。政府は、尖閣列島は南西諸島の一部だと繰り返し主張してきたが、肝心の「南西諸島」の部に、尖閣列島は書かれていないー尖閣列島が問題になったあと改訂出版された地図帳に、だ。


08. 2012年10月01日 14:35:26 : cqRnZH2CUM

>尖閣のすぐそばまで中国海洋石油株式会社がガス田を掘ってるけど、台湾に
正式に渡ったら所有権がおかしくなってしまいそうだ。

台湾は中国の一部だから、別に心配してないだろう

中国が心配してるのは、米国がどこまで関与するつもりかと、国内の権力闘争だな


09. 2012年10月01日 14:41:19 : Ztglimrg4A
>>07
ここで知りたいのは沖縄返還以前の国土地理院の発行した地形図(5万分の1とか20万分の1とか)の類の扱いはどうなっていたか。誰か知っている人がいたら教えて欲しい。二宮書店の『高等地図帳』は一応准教科書の扱いだから、文部省検定などもあったのだと思うが、地図類で政府が発行し最も権威があると思われるのは、やはり国土地理院のが発行した物だと思われるため。

中国の場合は政府発行の地図類があるのかどうかは知らないが、「中国地図出版社」発行の地図が一般に入手可能なものとしては政府認定で権威のあるものと思われる。それでは確かに中国が領有権を主張し始める以前の50〜60年代の地図には「尖閣諸島」という日本名の記載になっている。


10. 恵也 2012年10月01日 20:11:01 : cdRlA.6W79UEw : Ejwdo2geXE
>>09 沖縄返還以前の国土地理院の発行した地形図(5万分の1とか
>>  20万分の1とか)の類の扱いはどうなっていたか。

沖縄返還前ならとうぜん沖縄県の土地でしょう。
1895年からずっと日本領土として記載してるのが、地理院としての義務でしょう。
中国側の公務員なら1970年からの地図は中国領にするのじゃないかね。

でも台湾省にいれるか福建省にするか悩むと思う。
中華人民共和国と中華民国で見解は違うのじゃないかな。


11. 2012年10月01日 20:11:21 : o8dGLED3pY
09> 50〜60年代の地図には「尖閣諸島」という日本名の記載になっている。

としても、中国の言っていることは清王朝の時代に盗んだと言っているのよね。
盗まれたことをそのまま書いていたんだね。最近のことを言っても仕方ない。


12. 2012年10月01日 20:29:28 : HNPlrBDYLM

そもそも清王朝は満州人の建てた王朝で中国人は被支配国にしか過ぎない。

たとえ清王朝の人間が尖閣諸島に上陸した事が有ったとしても、中国とは関係ない。


13. 2012年10月01日 20:36:39 : HNPlrBDYLM

尖閣諸島第二次調査

1952年、高良鉄夫氏は尖閣諸島の更なる生物調査と富源調査を企画、前回の単独調査に続く第二次調査として調査メンバーを選び参加を呼びかけました。
呼びかけに応じたメンバーの一人、多和田真淳氏は植物学、考古学が専門の博物学者でした。

調査から帰って後、多和田氏は自身の報告「尖閣列島採集記」で「〜尖閣諸島に昔人間が住んだ證拠を一つでも探そうとしましたが全くありません。つまり此処は昔からの全くの無人島だつたのです。〜」と明らかにしました。

のちに尖閣諸島の領有権問題が起こる1970年代よりも遙か以前に尖閣諸島は歴史的に無人島であった可能性を調査し明らかにしたこと、これは考古学の専門である多和田氏ならではの視点でしょう。
http://pinacles.zouri.jp/bunken/tawada_a.htm


 【尖閣列島の歴史はどんなものか】

 島々に上陸して貝塚とか、城とかの跡があるか、石器や土器があるか、何でもよいとに角昔人間が住んだ證拠を一つでも探そうとしましたが全くありません。つまり此処は昔からの全くの無人島だつたのです。然し昔の人はこゝをユクン、クバ島ととなへ漁民や航海者はこれを知つていた様です。
 その昔琉球王国の遣唐使は那覇を出帆して久米島へ行き赤尾嶼、魚釣島を道しるべに支那の福州へ達した様です。

 明治十七年に古賀辰四郎氏が発見したと伝えられていますが真の発見ではありません。又一八四三年〜一八四六年英国軍艦サマラン号が東洋探検の途上魚釣島によつていますが之も同様です。
 尖閣列島は昔から琉球の一部だつたのです。然し同列島は長い年月どこの国のものやらはつきり決らなかつたのですが明治二十七八年の日清戦役の翌年勅令で日本帝国領土として八重山郡石垣町に入りました。
 今は石垣市字登野城一番地になつています。

 ∇魚釣島は明治十八年ごろから古賀辰四郎氏の手で盛に開発事業が進められましたが今はうつちやられています。

 ∇黄尾嶼は大正十年頃古賀氏によつて燐鉱採掘事業が初められましたがそろばんが合わんでやめてしまいました。

 ∇北小島の海鳥(セグロアジサシ)は同じく古賀氏によつて生物標本を作つて米国に送つていましたが明治四二年頃事業をやめています。

 これらの島々には屋敷の跡や工場の跡や水タンク等が残つています、魚釣島の工場跡はまるで小さい御城の様です。この御城の様な石垣がこいの中に今は与那国島の人々がカツオの漁期にだけ上陸してカツオ節を半がわかしするクバ( ビロウ) ぶき三むねの工場を建てています。之が私達調査団の有難い御宿になりました。

http://pinacles.zouri.jp/bunken/tawada.htm

中国人も台湾人も船から尖閣列島を眺めたのを実効支配していたと言ってるだけなのさ。中国人は地図に自分の版図だと勝手に記入しただけだろ。

尖閣列島は大昔から漁民には有名だったから、日本の縄文人も琉球人も大昔から時々は上陸していた。

漢民族も台湾民族も尖閣諸島に住んだ事は一度も無い。

中国が尖閣諸島を実効支配した歴史的事実なんて存在しない。


日本人は100人がずっと住んでいた。

中国の地図で1970年まで日本の領土になっていたんだから、日本の領土にしかならない。

尖閣諸島に日本人が最初に足を踏み入れたのは、1884年のこと。福岡の実業家・古賀辰四郎氏が探検隊を派遣し、無人島であることを確認。1895年に日本が領有を決定したが、日清戦争以前にそもそも日本人が上陸していたもので、日清戦争とは無関係。
 その後、古賀氏が日本政府から島を借り受けて開発を進め、カツオブシ工場と鳥の剥製工場を作った。最盛期には最大248人が島に住んでいたという。1932年には島は国から古賀氏に払い下げとなり、以降、島は個人の所有地になっていた。

実効支配というのは人間が住んでいた場合に限られる。

尖閣諸島を実効支配していたのは有史以来日本人だけ。

だから中国も1970年まで尖閣諸島を日本の領土だと認めていたのさ。


14. 2012年10月01日 20:52:35 : o8dGLED3pY
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E9%80%9A%E8%A6%A7%E5%9B%B3%E8%AA%AC#.E5.B0.96.E9.96.A3.E8.AB.B8.E5.B3.B6.E5.95.8F.E9.A1.8C
江戸時代から、そして神代の時代から追求しないとね。
たかだか100年を言ってもはじまらない

15. 2012年10月01日 20:56:12 : HNPlrBDYLM

尖閣諸島は10000年前から日本の縄文人が頻繁に立ち寄っていた島さ。

その頃遠洋航海ができたのは縄文人だけなのさ。

従って、尖閣諸島は10000年前から日本の領土だ。


16. 2012年10月01日 21:21:08 : ivSIEBzGRI
>09. Ztglimrg4A
>ここで知りたいのは沖縄返還以前の国土地理院の発行した地形図(5万分の1とか20万分の1とか)の類の扱いはどうなっていたか

私が知ってる限り、在るのは、1970年以前は、「中学校社会科地図」(樺骰聡痩@s42)と「社会科中等地図」( 且O省堂 s38 三省堂)の2つ位ですね。

後は全て無い。世界原色大百科事典(小学館s42)新詳高等地図(樺骰聡痩@s32、37)標準世界地図(人文社s37)日本歴史地図(全国教育図書鰍31)最新高等地図(鞄本書院s39).高等地図(鞄本書院s37、38)最新高等地図(鞄本書院s39)は有りません。


17. 2012年10月01日 21:28:48 : ivSIEBzGRI
15. HNPlrBDYLM

えーと、10000年前は「日本人」は居ないのだがwwww
ジョ、ジョーモンジンっだって???
ジョーモンジンは「日本人」ではありませんが。wwww
何かもうお笑いコーナーになった感じ???


18. 2012年10月01日 21:33:17 : HNPlrBDYLM
日本人の遺伝子の半分は縄文人さ。東北人は縄文人に近い

中国人は歴史も人類学も考古学も何も知らないな。

だからみんなに馬鹿にされるんだ・


19. 2012年10月01日 21:36:08 : o8dGLED3pY
18>
勝手に言ってな
みずから志願して戦争にいきな

20. 2012年10月01日 21:37:18 : HNPlrBDYLM

琉球人とアイヌ人の遺伝子の9割は縄文人と同じだ。

従って、琉球人とアイヌ人も日本人だ。

沖縄は中国人とは遺伝子距離で一番遠いのさ。


21. 2012年10月01日 21:41:44 : o8dGLED3pY
20>
だからあんたは自ら一人で志願して戦争にいきなといってるんだよ。

22. 2012年10月01日 21:50:24 : ivSIEBzGRI
>18.、20.

もう滅茶苦茶。
国家と国民と民族と人種とをごちゃ混ぜにしてるんだから、もうこれはウンチの垂れ流しと一緒。
幾ら何でも、ババッちいのはゴメンだぜ。
脳天パーとは付き合う積りはないなwww


23. 2012年10月01日 21:55:35 : HNPlrBDYLM
"国家と国民と民族と人種とをごちゃ混ぜにしてるんだから、もうこれはウンチの垂れ流しと一緒。

アホに教えてやるけど、漢民族という民族は存在しない。

中国は王朝が変わる度に、人口の9割は殺されたから、前王朝の人間の遺伝子は残っていない。

今の漢民族は400年前はモンゴルに居たのさ。

今の漢民族が400年前はここは中国の領土だったと言っても、400年前の漢民族は全く別の民族だから無意味なのさ。


24. 2012年10月01日 21:58:59 : o8dGLED3pY
23
気が狂っているのではないですか

25. 2012年10月01日 22:00:05 : HNPlrBDYLM

日本人というのは縄文人か弥生人の血が入っている民族のことさ。

日本人に関しては国家と国民と民族と人種はすべて同じなのさ。

因みに、弥生人は1万年前から2000年前まで長江で稲作をやっていた民族の唯一の生き残りさ。中国人より歴史は遥かに古い。


26. 2012年10月01日 22:01:47 : o8dGLED3pY
25
あんたを相手にしても仕方ないのよね。
いつまでも主張してな

27. 2012年10月01日 22:02:02 : HNPlrBDYLM
アホ中国人は知らないだろうけど、秦や漢の時代の中国人はコーカソイドだ。

今の醜い中国人とは容姿も遺伝子も全然違う。


28. 2012年10月01日 22:07:28 : HNPlrBDYLM

要するに、中国では国民に真実の歴史を教えていないという事だな。

29. 2012年10月01日 22:14:53 : ivSIEBzGRI
何かもう投稿者名と同じ、馬鹿まるだしになっちゃった処で、お開きにしましょかね。www

マトモに対応出来ないレベルでは精一杯の誤魔化し、ということで。


30. 2012年10月01日 22:18:06 : HNPlrBDYLM

アホ工作員君ももう少し尖閣諸島の歴史について勉強してから来いよ。

だから中国人は何処へ行っても馬鹿にされるんだ。


31. 2012年10月01日 22:26:20 : o8dGLED3pY
30<
あんたはコメント覧の最後になりたいのだから
もう一回コメントしてね。

32. 2012年10月01日 22:45:11 : HNPlrBDYLM
総括

2012年9月18日火曜日


「日本の男を殺せ、日本の女を犯せ」と、中国で煽られている


中国の反日デモは大規模化して、打ち壊し、放火、略奪と、日本人に対しての暴力が止まらなくなっている。

罵られた、蹴られた、眼鏡を叩き割られた、脅迫された、入店拒否されたと連日のように報道されている。

日本車に乗っていた中国人もとばっちりに遭い、車をぼこぼこにされた上でレンガで頭を割られて重体になる事件も起きている。

これらはすべて、「愛国無罪」だ。暴動はデモ隊に紛れ込んだ私服の公安が行っており、略奪と破壊は、組織的かつ計画的でもある。

また、中国漁船1000隻が2012年9月18日から尖閣諸島付近でデモを兼ねた操業に入る。


日本人が殺害のターゲットになる

日本も日本海洋巡視船を出航させているので、場合によっては物理的な衝突は避けられない。

9月18日は、満州事変(柳条湖事件)が起きた日であり、中国にとって特別な日として認識されている。

ここで衝突が起きれば、恐らく共産党主導のデモは民衆主導のデモに転換していく可能性もある。組織された暴動から、収拾のつかない大混乱に陥るということだ。

その結果、何が起きるのか。中国国内の日本人が殺害のターゲットになるということである。

現在、中国でこのような看板が出ていることが知られている。


日本人の男を殺し、日本人の女をレイプせよ。
これに賛同する人が左側の紙に赤ペンで署名している。


「募集、日本人の娼婦(10時間以上持つのが条件)」と書いているのだが、中国にいる日本人は、その下に書いてある中国語をよく確認したほうがいい。

见日本男人就杀
看日本女人就奸

と、そこには書かれている。漢字を見ただけでも、少しは理解できるだろう。日本語にすると、このような意味だ。


日本の男を見たら、すぐに殺せ!
日本の女を見たら、すぐに犯せ!

これは、中国の若者のグループが訴えているもので、実際に署名活動をして多くの中国人が署名をしていた(コラージュだと言い張っている人もいるが、コラージュではない)。

もちろん、単に反日デモでの中での「一部の先鋭化した中国人の暴走」と捉える日本人もいる。


若者のグループが、署名を集めている。内容はこうだ。
「日本の男性を殺し、日本の女性をレイプすること」


「殺せ、犯せ」と、連呼し、叫び、煽り立てている

しかし、中国版のネットではさらなる過激な言葉が踊り狂っていることを知らなければならない。

「污辱日本女孩(日本の女の子をめちゃくちゃに犯してやれ)」「杀光日本狗(イヌ日本人を殺せ)」

インターネットの中で大勢の中国人が激しい勢いで、日本人を殺せ、日本の女たちをレイプしろ、と連呼し、叫び、煽り立てているのである。

そのうちに、彼らの願望の通り、日本人の男は殺され、日本人の女性はレイプされるだろう。

すでに中国では日本車が破壊されて転がり、日本の工場が焼かれ、日本のスーパーはその8割が略奪を受けたと言われている。

これに対して日本政府はどのように動いているのか。実は、何も動いていない。首相である野田佳彦は他人事のようにこう言っているだけだ。

「こういう事態は大変残念で、抗議している。少なくとも在中国の邦人、企業に危害が及ばないよう厳重に監視してもらわなければいけない」

邦人を守るために救出機を派遣するとか、緊急帰国命令を出すとか、渡航禁止措置を出すとか、そういったことは何もない。

中国に対して「激しい抗議」もない。馬鹿のひとつ覚えのような「遺憾の意」すらも出さない。なぜか、日本政府は日本人を守ろうとしないのである。

事態が悪化するがままに任せて、完全に「他人事」として振る舞っている。得意の「事なかれ主義」「先送り」である。それがさらに事態を悪化させていることにまったく気がついていない。

今後、中国で操業している日本企業の日本人幹部の監禁や殺害もありえない話ではない。

なぜなら、過去にも日本人の企業統括者がストライキの際に監禁された事件が多発していたからである。

今となっては非常に胡散臭いプロパガンダ

韓国もこの日本の窮地を見て非常に喜んでおり、今後は市民団体がさらに竹島問題について「徹夜抗議デモ」や「在日韓国人と手を組んで日本国内での抗議活動」もしていくと宣言している。

中国・韓国が、完全に日本を敵国として照準を合わせて攻撃をしているということが分かるはずだ。

日本には「友好」を強要してカネだけは収奪し、自国では激しい反日活動を繰り広げている。

これほど明確な事実が見えてきているのに、マスコミはこのような事態をいっさい解説しようとしない。

つまり、中国と韓国は完全に敵になってしまったことを国民に知らせない。

そして、テレビではいまだに「韓流」だとか言って韓国の芸人をテレビに出すようなことをしているのである。マスコミは「乗っ取られている」という事実がここに見えるはずだ。

激動の時代に入ったらマスコミや政治家や為政者を信じてはいけないのである。

原発が爆発して放射能が大拡散している最中に、政治家は「ただちに危険はない」と言い、マスコミは御用学者をテレビに出して「安全デマ」を出していた2012年3月のときを思い出して欲しい。

事態が逼迫し、危険な状態になっているその最中に、テレビをつけて情報を取ると、為政者のプロパガンダを聞かされて洗脳されてしまうのである。

現在の為政者のプロパガンダは、「日中友好」「韓流」というものだ。どちらも、今となっては非常に胡散臭いプロパガンダであったことが証明された。

引き続き、中国・韓国に旅行に行ってはならない。そして、「日中友好」「韓流」にも騙されてはならない。そうしないと彼らの思う壺になって、最後には中国人の叫ぶ内容が実現してしまう。

见日本男人就杀
看日本女人就奸

日本の男を見たら、すぐに殺せ!
日本の女を見たら、すぐに犯せ!

http://www.bllackz.com/2012/09/blog-post_18.html


あなた自身が中国人や韓国人に殺される日が来るかもしれない


経済がうまくいかなくなると国民は政府に不満を持つようになる。そして、破壊と暴力のエネルギーが国民の間に増していく。

政治家はその暴力が自分のところに向かってこないよう、どこか他に「はけ口」を見つける必要がある。

景気悪化が本格的になりつつある中国も、不動産バブルがまさに崩壊しようとしている韓国も、恰好のはけ口として「日本」を標的にしている。

そして、領土問題や歴史問題で突き上げられた日本でも、2010年から中国・韓国に対する憎しみが膨れあがってきた。

本来、日本は中韓の言いがかりには謝罪で対応してきたが、日本人の忍耐が切れつつあるのが今の現状だ。


いつでも日本を侵略できると考えている

時代はどこに向かっているのか。もちろん「戦争」だ。

東アジアで民族対立が徐々に拡大し、先鋭化し、そして互いに互いを憎み合っているのだから、やがて「殺し合いが起きる」と考えるのは別に不自然なことではない。

むしろ、互いに反目が深まっているのに、それが友好と平和に向かうと考えるほうが不自然である。東アジアは平和に向かっているのではなく、一触即発の戦争に向かっているのである。

東アジアで戦争が起きるとすれば、その標的は日本になる。

すでに日本の政府は「弱腰」「事なかれ主義」の政治家ばかりで、さらには中韓に取り込まれて日本人の国益などまったく考えていない。

周辺国にとって、日本の後ろ盾になっているアメリカさえ手を出さなければ、いつでも日本を侵略できると考えているフシもある。

日本の後ろ盾であるアメリカはリーマンショックでダメージを受けていて、中東からもアジアからも兵を引いて影響力が少しずつ消失している。

この流れはずっと続いていくと考えられるから、いずれにしても日本はこれから否が応でも混乱と戦争に巻き込まれていく。

日本は1945年から今日までずっと平和が保たれていて「平和ぼけ」という言葉が言われるほど危機感のない国だった。

「日本がまた戦争や紛争に巻き込まれることはない」と国民は盲目的に信じていた。そういった根拠のない楽観主義は終わった。


領土問題は菅直人という男の弱腰がすべての始まり

尖閣諸島問題、竹島問題、北方領土問題が次々と深刻化する今、やっと多くの日本人が「日本も紛争に巻き込まれるかもしれない」と思うようになってきた。

さらに、一歩進んで考えなければならない。「紛争にまきこまれるかも」ではなく、「戦争になる」と考えなければならないのだ。

領土問題で譲歩したら、すぐに次がやってくる。中国は尖閣諸島問題で日本を突き上げ、日本が弱腰だと見ると、今度は「沖縄も中国のものだ」と言い始めた。

韓国は竹島問題で日本を突き上げ、日本が弱腰だと見ると、今度は「対馬も韓国のものだ」と言い始めた。

領土問題で譲歩するというのは、次から次へと国土をむしり取られるということなのである。

2010年の尖閣諸島沖漁船の問題で当時の首相だった菅直人は中国に恫喝されるがままに中国人船長を送り返した。

このときの弱腰が現在の中韓の「言いがかり」や「つけ上がり」として拡大しているのである。現在起きているのは、菅直人という史上最悪の政治家が引き起こしたツケなのである。

もちろん、その前の自民党政権が素晴らしかったというわけではない。

自民党もまた売国政治家たちの巣窟になっていて、中国や韓国に対して謝罪外交を繰り返していたから、同じ穴のむじなだと言える。

こういった長年の政治家の失策が現在の領土問題を根の深いものにしてきた。そして、領土問題はすでに次のステージに向かっている。「紛争」「戦争」というステージだ。


憎悪の連鎖が完成した

韓国大統領の李明博が2012年8月10日に竹島に上陸したあげく、「天皇は足を縛ってひざまづいて謝罪しろ」と放言した。

これまで韓国の横暴には目をつぶって見ないふりをしてきた日本だったが、これによって多くの日本人は怒りを感じて、韓国を憎むようになった。

日本の底辺ではすでに多くの国民が韓国に対して言いようのない憎しみを募らせている。

テレビや雑誌が「韓国は素晴らしい」と礼賛し、韓流を煽れば煽るほど、それが逆効果となっている。

日本で歌って踊っている韓国の芸人も、本国に帰れば反日発言をしているというのもよく知られるようになった。

また、日本のテレビに出ている芸人のほとんども、実は日本人ではなく、日本名で日本人になりすましているニセモノの日本人だったという事実も知られるようになった。

こういった事実や、「韓国にいいようにやられている」という感情は怒りとなって沈澱していくのである。

怒りは憎しみへ、憎しみはさらに深い憎悪へと成長していき、それはその人の心の中に一生残っていく。

すでに中韓の国民は、反日教育の成果で日本人に対して激しい憎悪を心の底に持っており、いよいよ日本人も領土問題から中韓に対する憎悪を持つに至った。

憎悪の連鎖が完成したと考えてもいい。

日中韓の国民がお互いに憎しみ合う。そして、その憎しみが様々な言動となって相手を刺激し、さらにそれが憎しみと対立を煽る。もう逆戻りはできない。


あなたが中国人や韓国人に殺される日

人間の怒りの感情とは強く激しいものである。その憎悪はやがて暴力事件に発展し、引くに引けない対立となっていく。だから、これから先に待っているのは、「戦争」なのだ。

日本人と韓国人は互いに殺し合いを始める。日本人と中国人も互いに殺し合いを始める。

東アジアで戦争が起きれば、アメリカが武器弾薬を供給するのだからアメリカ自身は損しない。むしろ、軍需産業が大儲けできるので東アジアの戦争は望むところだろう。

何しろ、日本も中国も韓国もたんまりと金を持っており、大量の武器を購入できる国なのである。

どんどん武器を消費して互いに消耗戦をしてくれれば、アメリカは空前の軍需景気に沸く。

いったん日中韓の戦争が始まれば、アメリカはそれを長期戦になるように仕向けるはずだ。短期決戦では軍需産業が儲からないからだ。

日本人は今まで意識しなかったかもしれないが、アメリカは世界中でそのような「憎悪」を煽って武器を売るという戦争ビジネスをして生きていた国である。

ソ連との冷戦が長引いたのは軍需産業が儲かるためだ。ベトナム戦争が長引いたのも軍需産業が儲かるためだ。

アルカイダとの戦争が長引いたのも軍需産業が儲かるためだ。イラク戦争が長引いたのも軍需産業が儲かるためだ。

日中韓はいずれ戦争になる可能性が高まったが、その戦争は日本が焦土になるまで長引いていくことになるだろう。

2012年の韓国大統領の竹島上陸や天皇謝罪要求によって、多くの日本人の心の中に憎悪が芽生えた。今後、中韓が何かすればするほど、その憎悪ははっきりと明確な形で育っていく。

私たち日本人は、いよいよ新しい紛争と戦争に向けて歩み始めた。

戦争という暴力を他人事のように考えてはならない。あなたは当事者になる。

つまり、歴史が動き始めると、あなたは中国人や韓国人に殺されるということだ。あるいは、あなたが自分の手で中国人や韓国人を殺すことになる。

そのとき、あなたが持っている武器はアメリカ製だが、相手が持っている武器もきっとアメリカ製だ。これもまた歴史のひとこまになる。


日本を消滅させよ、と叫ぶ中国の反日デモより
http://www.bllackz.com/2012/08/blog-post_28.html


無防備に中国と関わっていると、取り返しのつかないことになる 2012年9月29日

中国経済は2004年から2007年にかけて、経済成長率(GDP成長率)は毎年10%を超える勢いだった。

2008年、2009年はリーマンショックのあおりを受けて9%台に落ちたが、2010年にはまた10.3%の大台に乗せた。

しかし、2011年には再び9%台(9.2%)に落ち込み、2012年も10%は難しいのではないかと言われている。

折しも2012年9月から尖閣諸島問題を受けて日中関係が非常に激しい対立を見せてその余波は今も続いている。

中国の内部はこれを受けて日本企業の排斥や不買運動が活発になり、日本はもちろんダメージを受けるが、中国自身も経済失速することになる。


カントリーリスクが意識され、対中投資が減少

そして、この日中の問題が長引けば長引くほど、中国への悪影響は広がって行くことになる。なぜなら、中国のカントリーリスクが意識されて、対中投資が減少していくからだ。

中国は外資を呼び込んで、そこで膨大な数の国民を働かせて雇用を確保すると同時に、技術を「盗んで」から外資を追い出すという方法を使って成長を続けてきた。

中国が何か新しいものを産み出したり、革新的な技術を発見したりすることはない。

安い労働力と大量の人口を生かして、安いモノを作って作って作りまくり、外国の技術を盗んで盗んで盗みまくって回転してきたのである。

中国に技術を与えている(盗まれている)のは、中国に進出する企業に他ならない。

しかし、中国自身が肥大する中華思想に取り憑かれて外資を最初から排斥するような動きになるとどうなるのか。

当然、新しい工場はできない。技術を盗むこともできなくなり、最後には中国経済そのものが崩壊してしまう。

2000年代、全世界の先進国が中国にのめり込むようにして入り込んでいったが、いよいよその動きも終わりに近づいているのではないかと言われるようになってきた。

2012年に入ってから、日本をのぞく外国企業は静かに中国から足抜けしていて、ゴールドマン・サックスの試算では外国企業の対中投資は1月から8月の累計で3.4%も減少しているという。

これは後半も盛り返すことはあり得ない。尖閣諸島問題が世界に意識されればされるほど、チャイナリスクが高まっているのだと判断されるのだから、これで対中投資が増えるはずがない。

日本は2012年に入ってからも唯一、「中国詣で」を繰り返している国だったが、それも終わりだ。

中国自身が激しい日本企業排斥をしているのだから、経団連がいくら「中国に媚びよ」と叫んでも、きちんと常識を持った企業は「あんな危ないところに投資できるか」と考えて当然だ。

日本も、2012年後半から否が応でも中国から足抜けせざるを得なくなる。


日中対立の元になっている尖閣諸島


中国経済のハードランディング

いったい何が起きているのか。

特に難しいことではない。中国の経済成長が2008年と2009年に「失速した」のがそもそもの原因だ。

2008年 9.6%
2009年 9.1%

失速したとは言っても、いまだに9%台だから大したものなのだが、問題は、中国国民全体が豊かになっていないのに、経済失速してしまったことにある。

中国は13億人もの膨大な人口を抱えており、まず最初に沿岸部の国民から豊かになっていった。しかし、中国内部の多くの国民がいまだに取り残されて暮らしていると。

中国では年間10万件以上もの暴動が起きているが、格差があまりにも広がってしまってそれが社会不安を引き起こす元凶になっているのである。

だから、国民がある程度豊かになるまで中国は経済成長を続ける必要があった。

必死になって「経済至上主義」を貫いて、環境破壊や劣悪な労働条件を無視して突っ走ったのはそのためだ。

ところが2008年からグローバル経済の失速に巻き込まれる形で中国も経済成長が頭打ちになり、貧困層が取り残された。

また、経済成長が停止すると不動産価格も頭打ちになる。すると、不動産投機をしていた中流階級の人間たちが追い込まれることになる。

彼らが負債の返済ができなくなって損を覚悟で不動産を売り飛ばすと、それが不動産バブルの崩壊となって、中国版リーマンショックが発生する可能性もある。

つまり、経済成長がストップし、景気が後退すると、中国経済は急激に悪化し、まるで飛んでいた飛行機が地面に叩きつけられるような衝撃となる。

高く飛んでいた飛行機ほど、墜落したときの衝撃は強い。これを「ハードランディング」と言う。


中国国内で起きている反日デモ。中国は暴動が起こりやすい国だ。


日本は今「水に落ちて溺れた犬」

経済がハードランディングしたら、もちろん豊かになれない国民と、貧困に叩き落とされた国民が、激しい怒りと憎しみを感じて中国政府に不満の矛先を向ける。

中国共産党は、最初から情報封鎖し、強権で国民を押さえ付け、末端では賄賂と汚職で乱れきっているので、国民の怒りは政府に向かいやすいのである。

今でもそうなのだから、今後、経済失速が鮮明になっていけば、この政府批判の動きがますます巨大化していく可能性がある。

中国共産党が崩壊すると、他に受け皿になる政党は皆無なのだから、中国はその瞬間にバラバラになって崩壊してしまうことになってしまう。

だから、中国政府は、常に外部に敵を求めており、国民の怒りが政府に向かいそうになると、外側の敵に目を転じさせるのである。

そして、2012年9月に入ってから、中国は明確に外部の敵を「認定」した。それが「日本」だった。

折しも日本は自民党政権末期から政治が弱体化し、無力化し、1990年以降のバブル崩壊で経済的にも衰弱した。

しかも、2011年には巨大地震に見舞われて、原発事故を引き起こすという悪運に見舞われている。

それだけではない。今まで日本を守っていたアメリカが、リーマンショックで倒れそうになっている。

軍事費を捻出することもできなくなって、口では「アジアを守る」と言いながら、実際にはアジアから軍を引いて行こうとしている。

だから、日本は今「水に落ちて溺れた犬」のような状態になっているのである。

中国にとって叩きやすく、御しやすい「敵」がそこにある。叩き続ければ、尖閣諸島も、沖縄も、奪える可能性がある。だから、中国は日本を叩いている。

中国経済が苦境に落ちれば落ちるほど、日本叩きは激しくなる。

では、中国経済はこれから回復して成長路線に乗っていくのだろうか。それとも、グローバル経済の停滞に巻き込まれて成長率を落とすのだろうか。

もちろん、中国経済は今後も坂道を転がり落ちるように落ちていく。場合によっては不動産バブルの劇的な崩壊で、飛行機が墜落するような破滅的な落ち方をする可能性もある。

だから、これからも中国の内部に投資続ける日本企業は、大きなツケを払うことになる。

そして、それでも「中国との友好が」と言っている政治家は頭がおかしいということだ。今は、そういう状況ではない。

http://www.bllackz.com/2012/09/blog-post_29.html



33. 2012年10月01日 23:42:30 : ivSIEBzGRI
>32

この、やたらと、無意味に長いコメントをやるヤツは中川某だったのか!

どうりで、何かこう、違う次元に逝ってそうな徒輩が湧いて出て来たかのようなー丸でゾンビの様なおぞましさを感じた、はずだ。www



34. 中川隆 2012年10月02日 00:26:10 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

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読んでね


一刻も早く中国・韓国と縁を切ろう
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/437.html

宮脇淳子 _ 中国は何故かくもずうずうしいのか?
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/439.html

中国人はクルクルパー _ 近海漁業、小魚までとる乱獲と環境汚染で資源枯渇
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/432.html

「カネがすべて」中国人のエゲツナイ商売 現地進出の社長が激白
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/374.html

牙をむき始めた中国
http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/508.html

中国最後の皇帝 毛沢東 _ 共産革命とは一体何であったのか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/537.html

毛沢東はセッ○ス狂
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/760.html

中国大好き
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/287.html

中国人も日本人が大好き
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/291.html

中国人が日本人を大好きになった理由
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/319.html

中国人がみんな日本に来たがる理由
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/292.html

中国人のこういう所が大好き
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/289.html

台湾は中国ではないんだけど
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/288.html

中国美女も日本男性が大好き
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/290.html

政治家の鑑_小沢一郎先生が中国を大好きになった理由
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/294.html

これが中国 _ 漢民族は無数の民族の総称で川筋が違えば敵同士 _ これでは愛国心も道徳心も育たない
http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/480.html

中国語は奥深い _ レイプは腕立て伏せ、暴行死事件は鬼ごっこ
http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/482.html

日本の歴史的位置
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/423.html

子供手当ての申請をした同胞に差別した公務員
http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/451.html


35. 2012年10月02日 00:28:36 : o8dGLED3pY
中川隆
こりないね
誰が読んでくれるんだ

36. 中川隆 2012年10月02日 00:43:29 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

中国人を日本に入れると…

中国人留学生による福岡一家4人惨殺事件の実像

2003年6月に起きた福岡一家4人殺害事件の実像は、文字通り惨殺と言われるモノであった。だが、その内容はあまりにも凄惨過ぎて報道では完全に伏せられている。

松本さん宅に押し入った中国人留学生グループの内、一人が最初に風呂場で入浴中だった奥さんの千加さんをレイプ。
他の二人が室内を物色中に長男の海君(11才)を見つけたので、すぐに頚椎を折って殺害。


そして夫が帰宅するまでの間、暇つぶしとしてに奥さんを「拷問」。
その時、カード等の暗証番号を聞きだした。 拷問は中国では『凌遅刑』と呼ばれ

「生きたまま苦痛を与えつつ、順番に肉を刃物で切り取っていく」

という陰惨なものである。

死亡した時に最後に肉を切り取った人間には罰ゲームがある。
その罰ゲームとは「8歳の娘のひなちゃんを殺す役」
そこで最終的に奥さんに致命傷を与えた男が娘のひなちゃんを殺すことになった。
何も知らずに帰宅した夫の真二郎さんを待っていたのは正に地獄の光景だった。

「俺は死んでもいいから、娘だけは助けてくれ」

と土下座をしての嘆願も無視し真二郎さんの目の前でひなちゃんを絞殺。

結局金のありかを言わなかったので、夫もそのまま二人がかりで左右から絞殺した。 妻と長男を殺された事実を中国人留学生から伝えられ、目に前で最愛の娘が首を絞められて殺される絶望感はどんなものであっただろうか?
あまりにも無念だったろう。

これが特定の中国人留学生だけの話だと思ったら大間違いである。 実は中国人の大部分が、日本人には何をしても構わないと教えられているのだ。 彼らのモラルからすれば例え日本人を殺したとしてもそれほど大した事ではない、むしろ「ざまあみろ」というのが本音であろう。

今の日本の状況では、第二第三の同様の事件が起きるのも時間の問題であろう。
・・・我々、日本人が外国人に食いモノにされる日が終わるのはいつなのだろうか?

http://dailynews777.blog69.fc2.com/?mode=m&no=801

中国『開放雑誌』2004年意識調査。

25歳以下の青少年の82? %が、捕虜や婦女子の銃殺に「賛成」。

「日本人婦女は強姦して殺すべき」

「日本人の男は腸を開いて皮を剥ぎ、女は輪姦して殺すべき」

「日本人は嬰児から老人まで殺しつくすべき」

という回答が多数。


中国の反日教育の実態

Anti-Japanese Education in China
http://jp.youtube.com/watch?v=8Db4vorG0ug
(英語ナレーション・日本語字幕)

さて、ここからは被害者の妻 千加さんに行われたとされる「凌遅刑」について記述します。

清の時代まで中国で行われた処刑方法であり、生身の人間の肉を少しずつ切り落とし長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑。歴代中国王朝が科した刑罰の中でも最も重い刑とされています。

その方法とは・・・

凌遅は三等に分かつ。

第一等は三千三百五十七片に刻む。
第二等は二千八百九十六片に刻む。
第三等は千五百八十五片に刻む。


※ 清代になってからは最高でも五百刀の執刀になったそうです。ここでは、「凌遅五百の刑」について記述します。


第一刀が右の乳首、
第二刀が左の乳首、
第三刀もやはり胸.....


第五十刀で両胸の肉は全て切られ、肋骨が現れ、肋骨の間に薄い膜が覆い、心臓が踊ります。

第五十一刀で性器を、
第五十二刀、
第五十三刀で睾丸を、

第五十四刀は、袁世凱の命令で罵詈雑言を封じるために舌を切り取り.....

続いて二百刀で太股の肉を、
五十刀で両腕の肉を、さらに腹から五十刀、左右の尻からそれぞれ七十刀を切り取り、

残すは六刀のみ。


四百九十五刀目で左耳、
四百九十六刀目で右耳、
四百九十七刀目で左目、
四百九十八刀目で見開いた右目を切り、
四百九十九刀目で鼻を削ぎ、

五百刀目、最後の一刀で心臓を刺し貫き致命傷を与えます。

http://eleanor5000.blog66.fc2.com/blog-entry-148.html

凌遅刑写真
http://www.google.co.jp/search?q=%E5%87%8C%E9%81%85%E5%88%91%E5%86%99%E7%9C%9F&hl=ja&lr=lang_ja&tbs=lr:lang_1ja&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=v89nUJGmAafLmAWaxoHYCQ&ved=0CDEQsAQ&biw=1057&bih=892

http://ingakankei.blog130.fc2.com/blog-entry-47.html

この写真は、紫禁城に無断で侵入したものに対して実際に行われていたシナの「凌遅処死」という処刑の様子を写真に撮ったものだそうです。凌遅の刑ともいう。

この刑は、人を丸裸にし、生きたまま、3357箇所の肉をそぎ落とすというものです。

しかも10刀ごとに息を入れ、一喝して正気に戻す。

第1日目は親指から手の甲、胸の左右へと357刀肉を削ぎ取り、翌日もその翌日も、その刑が続く。

最初の一刀には大量な出血があるけれど、二刀目からは出血が減り、恐怖で血が下腹部や脹ら脛に溜まり、削ぎ終わってから胸を開けば一挙に血が噴き出すという残虐なものです。

「いや、そんなのは昔のことでしょう」という声も聞こえそうです。

いいや、違います。

彼らは、今もなお、属国にした東トルキスタンなどで、こうした残虐な行為を続けている。

そして施政者によってこうした残虐な行為を見せつけられた庶民は、自分たちよりも弱者に対し、まったく同様の残虐行為を行う。
http://daily2.sakura.ne.jp/86.html


文 化 大 革 命 当 時 の 中 国


【 無 抵 抗 な 一 般 人 が 人民解放軍や紅衛兵によって虐殺され「食われる」 】


 事件の一端が明らかになったのは、中国・広西省武宣県である。ここだけで「殺され、迫害によって死んだ人間は524人、その内、食われた者は百数十人。

武宣県の食人者は推定1万〜2万人にのぼる」。ここでは上からの犠牲者割り当てに応じて、走資派や実権派をデツチ上げ、「まず批判闘争宣言があり、糾弾集会を行い、その後、人間を殺して、生きているままに人肉を削ぎ、生きている人間が絶命すると、人間の心臓、肝臓、胆嚢、腎臓、胸肉、骨髄、太もも、足、筋、・・人間の骨肉を切り取り、削ぎ取って、それを煮たり、揚げたり、炒めたり、そして酒にゆっくりと漬けたりして、さまざまな調理方法で、豊かな献立にしたのである。また<人肉宴会>では酒を飲み、杯を交わし、論功行賞をした。」、


「こうして食人の嵐がうずを巻き、集会があるごとに闘争があり、闘争があるごとに死者が出て、死者が出れば、かならず食われ、惨劇が繰り広げられたのだ」。


『食人宴席 抹殺された中国現代史』
       鄭義(ツェンイー)著、93.11.25発行 より
http://33m33.blog122.fc2.com/blog-entry-138.html

中国から移民を1000万人も入れると日本は間違い無くこういう社会になります:

殺戮大陸メキシコの狂気 被害者の下着が舞うレイプ・ツリー
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/410.html



37. 2012年10月02日 00:52:43 : o8dGLED3pY
36>
誰も読まないものをコピペでよく書く。
阿修羅の住人は皆スルーする。

38. 中川隆 2012年10月02日 07:46:08 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

中国の工作員君も最近は必死になってきたねwwwwwwwwwww

まあ、こういう事だから:


2012年9月15日土曜日

中国・韓国にはもう行くな。暴力やリンチの対象になる日本人


2012年に入ってから、中国・韓国で反日感情が非常に高まっていている。

現在も反日デモが11都市に拡大して暴徒化しているが、9月18日にも日本の在外公館に対する中国人による大規模反日デモが計画され、韓国もそれに呼応するという情報が流れている。

9月18日は満州事変が起きた日だ。反日の抗議デモを起こすには大義名分があって都合が良い。恐らく何か起きるだろう。

すでに、日本の外務省も注意勧告を出している。現地で襲われる日本人の事件も報道されているが、これからも続出するかもしれない。

こんなときに中国や韓国に旅行に行く人間は愚かだ。

今後は、日本人ビジネスマンも襲撃の対象になっていくだろう。中韓とのビジネスは非常に危険なリスクの高いものになりつつある。

なぜなら、憎悪が日中韓で充満していくからだ。


日本人を襲う事件が多発している

2012年8月27日、北京で丹羽宇一郎・駐中国大使が乗った公用車が襲われて日本国旗を奪われている。尖閣諸島の問題で揺れている最中での事件だった。

犯人は日本の国旗を掲げた車を見て衝動的に犯行を思い立ったと供述しているのだが、これについて中国公安当局はこのように語ったとされている。

「彼らは愛国者だ。処分は重くならない」

つまり、中国公安はこう言ったも同然だったのだ。「日本人を襲っても問題ない。罪は軽い」

そして、これに対して、日本政府は毅然とした態度を見せなかった。

だから、その経緯を見ていた中国人が、9月に入ってから安心して日本人を襲うようになった。何しろ、日本人を襲ったら「愛国者」として賞賛されるのである。

すでに多くの事件が起きている。

歩道を歩いていたら、「お前は日本人か」と言われて麵を顔にぶっかけられたという。ひとりは目に軽傷を負い、ひとりはメガネを叩き割られて持ち去られた。

同じく、「お前は日本人か?」と声をかけられて、足を何度も蹴られて打撲傷を負ったという事件も別の場所で起きている。

さらに、タクシーで移動していたら、バイクがタクシーを停めさせて、「日本人を乗せるな。カネを払うから降ろせ」と恫喝したという事件も起きている。

アタマから炭酸飲料をぶっかけられた、食事中に因縁をつけられて暴行を受けたという事件も報道されている。

こういった事件が立て続けに起きているのである。


麺かけられ・眼鏡割られ…上海で日本人暴行続発

上海の繁華街を歩いていたところ、「お前は日本人か」と声をかけられ、突然、足を蹴られて打撲傷を負うケースがあった。

このほか、〈1〉深夜に食事中、中国人に因縁をつけられ暴行を受けた〈2〉タクシーで移動中、バイクの運転手が追いかけてきて「乗客を降ろせ」と言われた〈3〉複数人で歩道を歩いていたところ、中国人から「ジャパニーズ」と言われ、1人が麺をかけられてケガを負い、1人が眼鏡を割られ、持ち去られた――などのケースがあったという。

日本は敵国だったし、憎しみの対象だった

日本のマスコミは韓国については都合の悪いことはいっさい報道しない。しかし、実際には韓国でも8月から非常に反日気運が高まっている。

タクシーに乗った日本人女性が、「独島(竹島)はどちらの国のものか言ってみろ」と脅したとか、日本人女性に向けて韓国語で侮蔑していたとか、そんなのは日常茶飯事で起きている。

あるインターネット・カフェでは「日本人は立ち入り禁止、ただし独島は韓国領と3回叫ぶと入店可能」と張り紙をしたとされる。

日本人の食べるものにツバやタンを吐いたものを出しているとか、日本人だけボッタクリ価格を提示するとか、悪質で陰険ないやがらせも受けているようだ。

これらは驚くべきことではない。

今、日本人は中国や韓国から公然と憎まれて敵国として扱われている。中韓の人々にとって、日本は敵国だったし、憎しみの対象だったのである。

そんなことは、もうはるか昔から分かっていたことであって、今ごろ動揺しているほうがおかしい。

日本はカネを持っている国なので、そのカネだけはもらうが、日本そのものは「滅びてしまえ」と心から願っている。それが中韓の正体だ。

そんな国の芸人をテレビがちやほやしているのはなぜか。芸能界もマスコミもほとんどが在日韓国人のものになったからだ。

韓流も日本人の本意ではない。それは最初から最後までマスコミだけが踊っている流行だった。

韓国は日本を敵だと思っているのに、日本は韓国を敵だと言えないように、テレビやマスコミが率先して世論形成をしている。

だから、テレビはもう捨てなければならない。見ればみるほど洗脳される。


それは真実のひとつだが、真実のすべてではない

ところで、中韓は日本を完全に敵国だとしているのに、日本は必ずしもそうではない。

中韓を敵だと認識させないために、一部のマスコミやアナリストが世論誘導の工作をしている。

彼らはどのような論理を使っているのか。

それは「アメリカが分断工作をしている。悪いのは中韓じゃない。アメリカだ」というものだ。

それは真実のひとつだ。しかし、真実のすべてではない。アメリカが分断工作をするとかしない以前に、すでに中韓は歴史的に日本を憎み切っているのである。

世界中どこでも隣国同士は仲が悪いのは誰でも知っている。長い歴史の中で、国と国は常に対立してきている。

特に、隣国とは宗教や領土や貿易の問題で激しい対立が生まれやすい。人間の紛争はすべてこれらの問題で生まれていると言っても過言ではないほどだ。

それが長い歴史になって、埋めがたい憎悪として根付いている。

アメリカが分断工作をしてそれを煽り立て、武器弾薬ビジネスを活発に進めているというのは事実だ。

しかし、その前に最初からすでに日中韓は歴史的な確執と憎悪が存在しており、周期的に火を噴くものだったのである。

「悪いのは中韓じゃない。アメリカだ」というのは一面では真実だが、それがすべてだと思うと間違いだ。

「日中韓の間には、最初から埋めがたい憎悪が存在している」という部分を忘れてはならない。

2012年8月10日に韓国大統領である李明博が竹島に上陸したり、「天皇は足を縛って跪いて謝罪しろ」と言っているのは計算やアメリカの分断工作だけではなく、それがこの大統領の本音だったと考えるべきなのである。


その相手は少なくとも「日本の味方」ではない

日本が今後衰退していくのと並行して、今後は中韓との衝突が、今以上に激しく危険なものへとエスカレートしていくことになる。

この問題は一過性のものではない。東アジアが軍事衝突の現場になる可能性さえ懸念されるほど燃え上がっていくことになる。

放置していれば、日本の領土は侵略されていく。尖閣諸島や竹島どころか、沖縄や対馬ですら奪われ、やがては九州や新潟や北海道ですら奪われる可能性もある。

それなのに今、政治界やマスコミには、その中枢にまで韓国ロビ−が入り込んでいるので、日本人は韓国を憎まないような世論の誘導が行われている。

それでも韓国を嫌う日本人がネットに集結すると、今度はネットで「アメリカの工作だ」と誘導して、やはり韓国を憎まないように世論を誘導している。

しかし、韓国が日本を敵国だと認識して、領土の侵略や日本の中枢の破壊を仕掛けているのであれば、日本人は明確に韓国を敵だと認識しなければならないのである。

韓国が日本を敵国だと言うのであれば、さっさと国交断絶してしまえばいい。

お互いに相容れないのだから、無理に付き合うほうがおかしい。政治も外交も、仲良しクラブではない。

相手が「日本は敵だ」と心の底から思っているのであれば、その相手は少なくとも「日本の味方」ではない。そんなことすらも日本人は理解できなくなったのだろうか。

信じられないのだが、そんな単純なことすらも理解できない日本人がいる。そして、中韓に行って罵声を浴びせられたり、暴力を振るわれて、彼らは驚くのである。


反日デモ:中国11都市に拡大 日系スーパーなど襲撃

地元メディアや中国版ツイッター「微博」などの情報によると、この日、中国各地の少なくとも11都市で反日デモが発生した。デモ隊が暴徒化した北京だけでなく、湖南省長沙でも一部が暴徒化するなど、混乱が広がっている。夕方にかけデモ参加者が増大し、さらに過激化する恐れもあり、治安当局も警戒を強めている。

江蘇省蘇州ではデモの規模が1万人を突破。湖南省長沙でも数千人が集まり、日本車のフロントガラスを割るなど暴徒化しているほか、山東省青島でも数千人規模のデモが発生、一部が日系スーパーに突入し、設備を破壊したとの情報がある。
http://www.bllackz.com/2012/09/blog-post_15.html


人の良い日本人ももう日中友好は有り得ない事に早く気付いて欲しい。

中国は環境破壊で農業用水はおろか飲み水さえ無い。

後5年以内に中国の崩壊が確実なので、中国人はあせっている。移民申請の状況から見て、中国9割の官僚家族と8割の富豪がすでに移民申請を出した。

金持ち以外の中国人には日本人を皆殺しにして日本列島を乗っ取るしか生きる道は無い。それが今回の尖閣問題の背景にある。


39. 2012年10月02日 08:46:19 : rfcCuFHQZE
領土問題は、どこの国にとつても解決は難しい。石原都知事の戦争挑発に中国軍は乗らないから戦争は無いだろうが、尖閣諸島問題が日本の旧体制[天皇制や軍国主義と国家主義体制に戻し対外戦争の出来るようにする」復活派に調子を与えたのは紛れも無い事実だ。日本は平和主義の仮面に隠れ軍備強化に努め、今、もし「尖閣戦争」が仮に起きても、「アメリカの核の威」を紋所に、中国軍を邀撃し[自衛隊単独で軽く撃滅できる」と日米などの軍事専門家がそろつて予想するほど戦争実力を持つていた事に世界はあつと驚いているだろう。日本は「核武装も6カ月以内にできる準備をすでに完了している」と軍事専門家が断言している。現在でも米、ロ以外ならどこと戦争しても勝てるぐらいの実力はある印象だ。来年あたり自公民などのタカ派や橋下[日本維新の会」や日本軍国主義、国家主義や政財官界タカ派や大手メデイ11社や既得権益勢力に残存している日本のナチズム、フアシズムの残党一味が連携して次のことがひとつひとつと実行されると予想している。日本は今、報復戦争を目指したヒツトラー台頭期のドイツの雰囲気だ。@現憲法即時廃棄A日本の核武装B天皇制復活C国防軍創設C原発再稼動、核武装のために必要だから]D原発、衛星、ロケツト、の軍事転用の強化E日の丸掲揚と君が代斉唱強制の全国化F尖閣諸島への自衛隊展開G自由と民主主義の制限、と明治憲法精神への回帰H「太平洋戦争は日本が勝つた」とか中韓に対しての虐殺や蛮行についても無かつた、過去の謝罪は必要なかつた。など侵略戦争や蛮行を否定する教育の全国化I徴兵制や「集団自衛名目での戦争参加」と「戦争準備のための法整備」などが矢継ぎ早に実行されると見ている。杞憂には終わらないだろう。

40. 恵也 2012年10月02日 09:16:08 : cdRlA.6W79UEw : aWVGBoz7i2
>>12 たとえ清王朝の人間が尖閣諸島に上陸した事が有ったとしても、中国とは関係ない。

中国とは多民族国家なんだよ。
だから満州人も中国人の一員で、カイロ宣言でも清国から取った領土を
中華民国に返すように書かれて日本はそれを受諾した。

戦争に敗れて受諾したということは、国家として返すことを約束したわけだ。
約束を守れないような国家じゃ、貿易立国なんて成立しないぞ。

>>13 尖閣諸島に昔人間が住んだ證拠を一つでも探そうとしましたが全くありません。

大昔に人間が住んでいた痕跡なんて、わからないのが当たり前でわかるのが例外だろ。
大勢の人間が住み、巨大建造物でも作ったのなら別だが。

与那国島の海底には巨大な石作りの遺跡があるという。
こういった例外があるから、考古学者の活躍する場所があるのじゃないかな。
それに無人島でも領有権はあるでしょう。

>>  その昔琉球王国の遣唐使は那覇を出帆して久米島へ行き赤尾嶼、
>>  魚釣島を道しるべに支那の福州へ達した様です。

これはデマ!
那覇から久米島へは行けるが、むかしの動力のない船では久米島から赤尾嶼
へは真っ黒な色をした黒潮の激流で無理です。

福州から那覇への航路なら、潮の流れに乗って簡単にいけますが逆走は無理。
江戸時代の林子平の地図でも、2つのコースが書かれてます。
アンタはまともに地図さえ見てないようだね。

ーーーー引用開始ーーーー
中国名の赤尾嶼と琉球名の久米島との間が、「中外ノ界ナリ」と明記されている
中国の文献が二つもあり、江戸時代日本人のこの島々を記録した唯一の文献
『三国通覧図説附図』も、ここをはっきり中国領としているのだから、これでもなお、
「無主地」ということは、とうていできない。
http://www.come.or.jp/hshy/j96/10si4.html


41. 恵也 2012年10月02日 09:20:17 : cdRlA.6W79UEw : aWVGBoz7i2
>>39 石原都知事の戦争挑発に中国軍は乗らないから戦争は無いだろうが、

可能性はある。
中国は経済力もない状態で、中ソ国境戦争をやり、中越戦争をやり
領土問題では簡単に戦闘を行ってきてます。


42. 2012年10月02日 12:10:06 : FZgGiDbYMh
村上春樹氏「日本の政治家、ヒトラーの結末を見よ」 (中央日報) 

http://japanese.joins.com/article/459/160459.html?servcode=A00§code=A10


43. 2012年10月02日 18:16:39 : x6gNs4j9SQ
中国は、日本を占領することが、最終目的では? そのためのプロパガンダを世界中に広めるため、尖閣諸島次は、琉球諸島、最後は日本列島そのものを狙っている。 ここで野太鼓が変な妥協をすれば、次は沖縄が危ない。 

44. 2012年10月02日 19:01:39 : 3mW67inchA
※中国側の論理を喝破するための参考文献

尖閣諸島問題の概要
http://senkakujapan.nobody.jp/page005.html


45. 2012年10月02日 21:01:22 : JvjH27tLXI
>41. 恵也

私は中国は100%無いと思っています。 100%です。

その理由は中国人というのは、本来、政治的な人達だからです。
政治から見れば有り得ない。

逆に言えば、問題は、政治を見る目を持っているか否か?です。

持論は何れ。

(影)


46. 恵也 2012年10月02日 23:49:33 : cdRlA.6W79UEw : B9gS4EsYrI
>>43 中国は、日本を占領することが、最終目的では?

占領するには大きな海軍力がいる。
今の世界に日本を占領できるだけの海軍力を持ってるのは米国くらいのもの。
日本は軍事費でもとっくに世界の5大国には入ってるんだよ。

ーーーー引用開始ーーーー
図2 2001年度の主要各国の軍事費
http://eritokyo.jp/war-env/newyearcolum2.html

>>44 中国側の論理を喝破するための参考文献

せっかく出してもらったが喝破できるような内容ではありません。
タダの洗脳記事で、具体的に調べたら穴だらけのもの。

洗脳記事とまともな記事の違いは、自分の言葉で表現できるかなんだよ。
あなた自身、読んでる時にはなんとなく「喝破」した気になるようだが自分の
言葉では表現できないでしょう。

他人が作った死んだ洗脳記事じゃなく、まともな内容の生きた文章で反論
しなさい。さもなければ程度の低い洗脳教育で頭の中が単細胞になる。
むかしの軍国少年の二の舞だよ。


47. 恵也 2012年10月03日 10:55:46 : cdRlA.6W79UEw : NBsueGtusY
>>45 その理由は中国人というのは、本来、政治的な人達だからです。

政治的な人間が多いのだったら、ソ連の経済援助ですごく世話になってたのに政治
路線問題があったとしても中ソ国境で領土問題に軍隊を動員して、戦争するかね。

中越戦争にしても、ベトナムがカンボジアの虐殺政権を退治するため侵攻したから
「ベトナムを懲罰するため」としてベトナムに1979年に侵攻してボロ負け。
中国なんて正義も悪もグチャグチャな国家なんだよ。
政治的な人が中国に本当の意味で多ければ、こんなトンチンカンなことはしないでしょう。


48. 2012年10月03日 13:20:09 : hWHYuomnrg
>>44
>その理由は中国人というのは、本来、政治的な人達だからです。

これは「(中国で云うところの)語権」に関する文化的な要因ということですか?
引き続き質問ばかりで悪いんですけど、自身の中国(や朝鮮・韓国)に対する認識は正しておきたいので。
メディアの大半がまったく当てにならない現状で、だけどクロートさんにお訊き出来る機会があるなら
これは逃したくない。

政治的な人間が多いのだったら、ソ連の経済援助ですごく世話になってたのに政治
>路線問題があったとしても中ソ国境で領土問題に軍隊を動員して、戦争するかね。

政治路線問題があったからこその行動と見るべきでは?
つまり中ソ対立の一部分。

>中越戦争にしても、ベトナムがカンボジアの虐殺政権を退治するため侵攻したから
>。ヨベトナムを懲罰するため」としてベトナムに1979年に侵攻してボロ負け。

これは米中関係がらみじゃなかったですかね。
いずれにしろやはり政治的な行動ではないですか。


49. 2012年10月03日 13:24:50 : hWHYuomnrg
上記

これは逃したくない。

>政治的な人間が多いのだったら、ソ連の経済援助ですごく世話になってたのに政治

の間に

>>47

が抜けています。以上お詫びして訂正。


50. 2012年10月03日 20:47:56 : HNPlrBDYLM
中国人が政治的というのは平気で嘘を付くという意味さ:


一年前、支那漁船衝突事件は、世間を騒がす大きな事件だったけれど、当時、このブログをはじめ多くのブロガー等が、尖閣に眠る海底資源を話題にしました。
けれど、当時、そのことを指摘したメディアは、すくなくとも私が知る限り、やまと新聞社くらいなもので、大手メディアは、一切そのことに触れようとしなかった。むしろ、そんな資源など、ありはしないという声さえもありました。

けれどここにきて、メディアが海底資源問題に触れるようになりました。
やっぱり、事実、資源はあったわけです。
当然です。
支那はすでに盗掘をはじめているのです。

けれど、せっかく報道をはじめながら、「えっ?80兆円?」なのです。
山田教授は、実際に試掘しているわけではないので、学者らしい慎重な言い回しでそのように述べているのです。原油そのものは、1000億バレルの埋蔵量です。
つまり埋蔵原油は、800兆円分あるわけで、それをあえて80兆円と強調するのには、なにやらメディアの意図的な情報操作のようなものを感じてしまうのです。

もちろん80兆円もたいへんな額であることには違いありません。
けれど日本の国家予算規模からしたら、視聴者の受けるイメージは必ずしも衝撃的なものとはなりません。
むしろ後に続く「(尖閣海域は)クロマグロの産卵海域で、中国漁船の乱獲が懸念されている」という事の方が、インパクトのある情報として訴求されます。

「知っていて、意図的に隠してる」
そうとしか見えない、メディアの姿勢です。

そもそも尖閣領域の海底資源調査は、国連のアジア極東経済委員会(ECAFE)によって昭和43(1968)年10月12日〜同年11月29日まで行われ、調査結果が翌昭和44年5月に公刊されています。
そこには、次の文章があります。

〜〜〜〜〜〜〜〜
台湾と日本との間に横たわる浅海底は、将来、世界的な産油地域となるであろうと期待される
〜〜〜〜〜〜〜〜

この調査結果を受けて日本が調査を行ったのが昭和44(1969)年〜昭和45年のことで、このときの試算では、尖閣海域に眠る原油の埋蔵量を、1095億バレルと算出しています。

さらにその10年後には、この海域での埋蔵資源調査を支那政府が行っています。
このとき支那は、原油埋蔵量を700億〜1600億バレルと推計しています。

この埋蔵量は、実に膨大なものです。
世界第二位の産油国といえばイラクですが、イラク全土の推定埋蔵量は1125億バレルで、尖閣領海内には、世界第二位のイラクの油田に匹敵する(もしくはそれ以上の)莫大な量の原油が眠っていることになります。

埋蔵量1000億バレルなら、金額に換算すれば800兆円です。
これが原油だけの価格です。
原油は精製されて、ガソリンやオイル、化学製品などに転換されますから、その資源が及ぼす経済効果は、千兆円の十倍、1京円に相当するともいわれています。
尖閣領域には、それだけ莫大な利権が眠っているのです。

もし、この埋蔵原油を全部日本政府が領有した場合、日本政府はまたたく間に国債を全額償還し、国政が完全無借金経営となるだけでなく、福祉、介護、医療、保険、児童保育、学校教育などの全ての公的サービスを、完全無料化して、なお、予算に余りが出ます。
尖閣海域は、それだけインパクトのある資源海域なのです。

ただし、これだけの埋蔵量があるということは、良いことばかりではありません。
イラクの油田同等の大油田のフタが開くということは、世界的には原油価格の暴落を招く危険があるからです。
こうなると困るのは、既存の産油国である中東諸国です。
彼らは怒る。商売ガタキとなるからです。

ですから不用意に日本が石油の採掘をはじめるならば、中東諸国は自衛のため(原油の暴落を防ぐため)に、日本に対する石油輸出を一切停止するくらいのことは言い出しかねません。
そうなると困るのは日本です。
石油があるから石油に困るという、おかしな状態を迎えてしまうのです。

つまり、あまりにも莫大な原油は、長期的には日本にとって大きなメリットがあっても、短期的にはマイナス危険もあるわけです。
ですから、開発には慎重にならざるを得ません。

さらに問題があります。
尖閣海域が、日本と台湾、支那が国境を接している、という点です。
海域の領有面積は、日本が圧倒的で、支那、台湾は、わずかな領海しか保有していません。
埋蔵資源も、ほぼ9割以上が日本の領海内にあります。
けれど、地下資源を、三国が汲み出せるという状況にあるのは事実です。
つまり、日台支三国の足並みがきちんと揃わなければ、尖閣は国際紛争の火種になってしまうのです。

で、こうした国際的大問題を前にした日本政府が、これまで何をやってきたかというと、
「臭いものにフタをしてきた」わけです。
どういうことかというと、この海域に関する資源は、とりあえず「なかったこと」にしたのです。
戦後の日本という国の軟弱外交のひとつの象徴です。

国土地理院の発行する日本資源地図という、日本国土内で産出する様々な資源を詳細に記した地図があるのですが、日本全国津々浦々、きわめて詳細な書き込みがなされているこの地図にも、なぜか尖閣領海付近に関しては、まるっきり空白になっています。
まるで、そこだけマスクをしてコピーでもしたみたいですが、要するに政府方針が「棚上げ」で「なかったこと」にしてきた、これもひとつの象徴です。

この海域の原油が、国連のアジア極東経済委員会によって公開された昭和44年頃といえば、ちょうど支那は文化大革命のまっただ中でした。
支那の中央政府の意向を受けて、14〜5歳の子供達が、ありとあらゆる支那の伝統や文化に対して破壊の限りを尽くしていた時代です。
とてもじゃないが、当時の支那には、原油まで考えるだけの余裕などありません。

この文革を指導した毛沢東の頭には、当時、資源といえばむしろ「鉄鋼」しかなく、ために文革の紅衛兵たちは、鍋釜針金に至るまで、およそ鉄でできているありとあらゆるものを学校の校庭などにかき集め、机や椅子などの木材を燃やして鉄を溶かして、鉄塊を集めていました。
もっともこうして集められた鉄は、さまざまな不純物の混じったただのくず鉄にしかならず、結果、単に破壊の後の廃材だけが残った。バカなことをしたものです。

こうした文化大革命の混乱が収束すると支那は、さっそく尖閣領域をめぐって策動を始めます。
最初の動きは、昭和54(1979)年でした。
搶ャ平が来日し、「尖閣諸島の問題は次の世代、また次の世代に持ち越して解決すればよい」と声明を出したのです。
これを聞いた日本のメディアや政府は、さすがトウ小平は物分かりがいい、と発言を大歓迎しました。
これによって、当面の棚上げが実現できるからです。

ところがその搶ャ平は、自身が権力を握った平成4(1992)年2月、全国人民代表大会の常務委員会(7期24回)において、
「中華人民共和国領海及び隣接区法(領海法)」を制定しました。
国内法によって、一方的に尖閣領域を支那の領土と決定してしまったのです。

同法第2条です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
中華人民共和国の領海は中華人民共和国の陸地領土と内海に隣接する一帯の海域とする。
中華人民共和国の陸地領土は、中華人民共和国の大陸とその沿海の島嶼、台湾及びそこに含まれる釣魚島とその付属の各島、澎湖列島、東沙群島、西沙群島、中沙群島、南沙群島及びその他一切の中華人民共和国に属する島嶼を包括する
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「魚釣島」というのが、尖閣諸島です。

つまり支那はこの法で、尖閣諸島を含む台湾や澎湖諸島はもとより、ベトナムやフィリピンなどと係争中の南シナ海の西沙、南沙両諸島まで中国の領土だと、一方的に支那国内法で決めたのです。

これを「所詮は国内法にすぎない」などと笑ってはいけません。
国内法によってそこが領海と定められれば、軍はその領海の保全ないし確保のための具体的動きをしなければならなくなるし、情報省(宣伝省)は、世界中にこの海域が支那のものであると認識させるための具体的な活動をしなければならなくなるのです。
さらに教育省は、国内の子供たちにそこが自国の領海であり、日本などにより、そこが不法に占拠されているのだと、教えるようになる。

そして現代に至っています。
子供の頃から、尖閣領域は古来の支那の領土で、日本が勝手に侵略してきた領土であると信じ込まされた世代が、何の疑問も持たずに、ひたすらに日本が悪い!と主張する時代となったのです。

けれど領土領海の問題というのは、中世のように大砲を撃って占領すれば何とかなる、というものではありません。
国際的に認められ、承認を得なければならないのです。

そこで支那が、国内教育や宣伝工作を推進するとともに、何をやったかというと、彼らは沖縄に手を伸ばしてきたのです。

沖縄に多数の人民解放軍スパイを送り込み、日本人に同化させました。
日本語を流暢にあやつる彼らは、中共政府から給料をもらい、工作資金をもらい、さらに日本の企業に就職してそこから給料をもらいます。
日本に来て、まだほんの数年しか経っていないのに、彼らがいきなりキャッシュで家を買ったりできるのも、そこに理由があります。
しかも、平均的な日本人よりはるかに金回りの良い彼らは、多くの日本人に歓迎されました。
そして気がつくと、沖縄でいつの間にか、日本人になりすまして生活している。

同時に彼らは、本国に家族を人質としてとられています。
もし中共政府の指示に逆らえば、いつにても簡単に家族が拉致され拷問され殺害されるという環境にある。
そして日本に来ている本人も、逮捕拘留される。
日本にいて自由を謳歌し、ショッピングを楽しみ、休日のバカンスを楽しめる生活を保持するためには、中共政府の意向にだけは絶対に逆らってはいけない。
そういう環境下に彼らは置かれているのです。
そもそもバスの運転手に、支那人を採用すること自体が間違っている。

2007年10月には、支那で「琉球共和国建国運動」の<基本綱領>も出されました。
支那語で書かれたこの綱領は、日本語訳すると次の内容となっています。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
1 沖縄は、琉球古来より主権を持って独立した国家である。
  沖縄の民は、日本の琉球群島に対する植民地支配を承認しない。
2 琉球国の主権の独立と領土保全を回復して、琉球共和国を建国する。
3 必要な時期及び政治組織、団体設置のために「琉球国臨時政府」を設ける。
4 琉球国の政治制度は、琉球国建国後に民衆の願望によって決定する。
5 いかなる個人、団体、党派、国家であれ、琉球国の独立に対する質疑は、これを認めない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

台湾に支那人工作員の大統領が誕生し、沖縄が日本から独立して支那の傘下に入ることで、支那が受ける目的とメリットは、尖閣海域に眠る海底資源の独占です。
はっきり言って、中共政府には、沖縄県民の福祉や生活、身の安全などどうでもよろしい。
逆らえば殺すだけのことです。
彼らはチベットでもウイグルでも満州でも、そのようにしてきました。

ちなみに支那は、琉球国臨時政府によって、琉球国憲法案などもすでに用意しています。
そしてそこには、
「第四条 琉琉球共和国は3つの主要な州(奄美州、 沖縄州、八重山州)と、各州の3つの列島の群を含める琉球群島のすべての島で構成する」
と書かれています。

琉球共和国の領土に、奄美を含むと書いているのです。
奄美は、沖縄県ではありません。鹿児島県です。
なぜ奄美かといえば、答えは簡単です。
尖閣領域の海底資源確保のためには、奄美諸島(薩南諸島)エリアを抜きにしては語れないからです。

しかも奄美近海には、最近の海洋調査によって、現在の使用量にして約五千年分の金、銀、コバルトなどの埋蔵があるといわれています。
まさに尖閣領域から奄美にかけては、大資源地帯なのです。

さらにこの憲法案には、第七条に「沖縄の公用語を支那語にする」と書かれています。
沖縄県民が日常使用している言葉ではないのです。
どういう政権なのか、これで明確になろうというものです。

このことは、沖縄県民が琉球国誕生によって言葉を奪われることを意味します。
公用語が支那語になるのです。
お役所関係、届出関係、公共工事の受発注、福祉、学校教育の一切が、ある日突然、支那語に変わる。
支那語がわかる人でなければ、まともな生活さえもできなくなるのです。
沖縄は、琉球国誕生によって、瞬時にして、支那人民解放軍と称する無法者たちに支配される無法地帯となるのです。

日本人が、平和だ反戦だ、地方主権だ、自由だ平等だ、沖縄の独立だと煽動され、浮かれている間に、支那は着々と尖閣領域の領有のため、着々と手を打ってきているのです。

日本人は、騙すものと騙される者がいたとき、騙す方が悪いと考える、世界的に希有な民族です。
これに対し支那は、騙される方が悪い、騙された者は、全てを奪われるのは当然だ、と考える民族です。
そして日本人と異なり、ありとあらゆる残虐性を遺憾なく発揮する民族です。
しかも欲得のためには、公害や環境問題など、まるでおかまいなしという手合いです。

そういう連中が、いま露骨に尖閣に手を伸ばしてきている。
絶対に守らなきゃならない。
そう思います。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1501.html



51. 中川隆 2012年10月03日 22:27:49 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM


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尖閣について書いたHPを見つけたので貼っておきます。
沖縄はもちろん日本だけど、尖閣は沖縄とは関係無いのかもしれないですね:

「尖閣」列島−−釣魚諸島の史的解明

      井上  清 Kiyoshi INOUE

筆者紹介:1913年高知県生まれ。1936年東京大学文学部卒業。京都大学名誉教授であったが、2001年11月23日87歳で逝去された。著書に「条約改正」「日本現代史T=明治維新」「日本の軍国主義」「部落問題の研究」「日本女性史」「日本の歴史・上中下」等がある。

この論文は、1972年10月現代評論社から出版された井上清氏の著書『「尖閣」列島−−釣魚諸島の史的解明』が釣魚諸島問題と沖縄の歴史との2部構成であるうち、釣魚諸島問題に関する第1部の全文であり、1996年に著者の同意を得、転載するものです(転載責任=巽良生1996-10-14)。なお、本論文は、1996年10月10日第三書館から上記と同じ書名で再刊されました。

Copyright by K. Inoue 1972

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内容:

1なぜ釣魚諸島問題を再論するか
2日本政府などは故意に歴史を無視している
3釣魚諸島は明の時代から中国領として知られている
4清代の記録も中国領と確認している
5日本の先覚者も中国領と明記している
6「無主地先占の法理」を反駁する
7琉球人と釣魚諸島との関係は浅かった
8いわゆる「尖閣列島」は島名も区域も一定していない
9天皇制軍国主義の「琉球処分」と釣魚諸島
10日清戦争で日本は琉球の独占を確定した
11天皇政府は釣魚諸島略奪の好機を九年間うかがいつづけた
12日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った
13日本の「尖閣」列島領有は国際法的にも無効である
14釣魚諸島略奪反対は反軍国主義闘争の当面の焦点である
15いくつかの補遺

林子平「三国通覧図説」付図「琉球三省并三十六島之図」、釣魚諸島位置図、釣魚諸島略図

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  一 なぜ釣魚諸島問題を再論するか
 昨年(一九七一年)の十一月はじめ、私ははじめて沖縄を旅行した。主要な目的は、沖縄の近代史と、第二次大戦における日本軍の「沖縄決戦」の真実を研究し、とくに二十余年にわたる米軍の占領支配とそれに抗する沖縄人民の偉大なたたかいの歴史に学ぶために、沖縄の土地と人間に、親しく接し、沖縄のいろいろな人の考えや気持をできるだけ理解し感じ取ることであった。むろん、そのための文献も得たいと思った。

 私はさらに、いま日本と中国の間に深刻な領有権争いのまとになっている、沖縄本島と中国の福建省とのほぼ中間、台湾基隆(キールン)の東およそ百二十浬(かいり)の東中国海に散在する、いわゆる「尖閣列島」は果して昔から琉球領であったかどうか、それをたしかめる史料を得たいとも願っていた。私の貧弱な琉球史に関する知識では、この島々が琉球王国領であったという史料は見たことがないので、沖縄の人に教えを受けたいと思っていた。

 さいわいこの旅行中に、沖縄の友人諸氏の援助をうけて、私は、いわゆる「尖閣列島」のどの一つの島も、一度も琉球領であったことはないことを確認できた。のみならず、それらの島は、元来は中国領であったらしいこともわかった。ここを日本が領有したのは、一八九五年、日清戦争で日本が勝利したさいのことであり、ここが日本で「尖閣列島」とよばれるようになったのは、なんと、一九〇〇年(明治三十三年)、沖縄県師範学校教諭黒岩恒の命名によるものであることを知った。

 これは大変だ、と私は思った。「尖閣列島」−−正しくは釣魚諸島あるいは釣魚列島とでもよぶべき島々(その根拠は本文で明らかにする)−−は、日清戦争で日本が中国から奪ったものではないか。そうだとすれば、それは、第二次大戦で、日本が中国をふくむ連合国の対日ポツダム宣言を無条件に受諾して降伏した瞬間から、同宣言の領土条項にもとづいて、自動的に中国に返還されていなければならない。それをいままた日本領にしようというのは、それこそ日本帝国主義の再起そのものではないか。

 領土問題はいたく国民感情をしげきする。古来、反動的支配者は、領土問題をでっちあげることによって、人民をにせ愛国主義の熱狂にかりたててきた。再起した日本帝国主義も、「尖閣列島」の「領有」を強引におし通すことによって、日本人民を軍国主義の大渦の中に巻きこもうとしている。

 一九六八年以来、釣魚諸島の海底には広大な油田があると見られている。またこの近海は、カツオ・トビウオなどの豊富な漁場である。経済的にこれほど重要であるだけでない。この列島はまた、軍事的にもきわめて重要である。ここに軍事基地をつくれば、それは中国の鼻先に鉄砲をつきつけたことになる。すでにアメリカ軍は、一九五五年十月以来、この列島の一つである黄尾嶼(こうびしょ、日本で久場島という)を、五六年四月以来赤尾嶼(せきびしょ、日本で久米赤島とも大正島ともいう)を、それぞれ射爆演習場としている。そして日本政府は本年五月十五日、ここがアメリカ帝国主義から日本に「返還」されるとともに、ここを防空識別圏に入れることを、すでに決定している。またこの列島の中で最大の釣魚島(日本で魚釣島)には、電波基地をつくるという。周囲やく十二キロ、面積やく三百六十七へクタールで、飲料水も豊富なこの島には、ミサイル基地をつくることもできる。潜水艦基地もつくれる。

 この列島の経済的および軍事的価値が、大きければ大きいほど、日本支配層のここを領有しようという野望も強烈になり、この領有権問題で、人民をにせ愛国主義と軍国主義にかりたてる危険性も重大になる。すでに一九七〇年九月、これらの島がまだ米軍の支配下にあった当時でさえ、日本政府は、海上自衛隊をして、この海域で操業中の中国台湾省の漁船団を威嚇してその操業を妨害させたことがある。また本年五月十二日には、政府は、五月十五日以降は、もし台湾省その他の中国人がこの海域に来た場合には、出入国管理令違反として強制退去させ、さらに、もし彼らが上陸して建物をたてた場合には、刑法の不動産侵奪罪を適用することとし、海上保安部と警察をして取締りに当らせると決定している(『毎日新聞』一九七二・五・一三)。こうして中国人の「不法入域」などのさわぎをつくりあげて、国民を反中国とにせ愛国主義にかりたてる舞台は、すでにでき上っている。

 それだけに、この島に関する歴史的事実と国際の法理を、十分に明らかにすることは、アジアの平和をもとめ、軍国主義に反対するたたかいにとっては、寸刻を争う緊急の重大事である。私は、沖縄の旅行から帰ると、すぐこの列島の歴史を調べにかかった。そして年末には、ここは本来は無主地であったのではなく、中国領であることは、十六世紀以来の中国文献によって確かめられること、日本の領有は、日本が日清戦争に勝利して奪いとったものであることを、ほぼ確認することができた。

 まだはっきりしない点も多かった。ことに日本の領有経過には、重要な点で、わかっていないこともあった。しかし、私はそのときすでに、七二年一月初めには西ドイツ旅行に出発することにきまっており、それはもはや変更できなかった。そこで私は、とりあえず、わかっていることだけまとめて、「釣魚諸島(尖閣列島等)の歴史と帰属問題」という小論を書き、歴史学研究会機関誌『歴史学研究』七二年二月号(一月下旬発行)にのせてもらうことにした。またその『歴研』論文の要旨を、一般向けに簡単に書いた「釣魚諸島(尖閣列島など)は中国領である」という一文を、日本中国文化交流協会機関誌『日中文化交流』二月号にのせることにした。

 そのとき私は、次のように考えていた。

 −−もともと中国の歴史はあまり勉強していなく、まして中国の歴史地理を研究したことは一度もない私が、沖縄の友人や京都大学人文科学研究所の友人諸君の援助を受けて、一カ月余りで書き上げたこの論文には、欠陥の多いことはわかっている。私などには見当もつかぬ史料で、専門家にはすぐ思い当るような文献も、たくさんあるだろう。しかし、とりあえず、いま急がなければならないのは、釣魚諸島の帰属問題を正しく解決して、日本帝国主義が、この問題で国民の間ににせ愛国主義をあおりたて、現実に外国の領土侵略の第一段階を完了する(それが完了されれば第二段階以後はきわめて容易になる)のを、くいとめるために、歴史家は歴史家なりに、できるだけのことを、とにかくやることである。りっぱな、完成された論文ではなくても、基本的な事実はこうだと、いまわかっていることだけでも、すぐ出すことが大切だ。この拙い論文でも、まだ歴史家は誰も公然と発言していない釣魚諸島問題の歴史学的論議をさそう一助ともなれば、つまり玉をみがく他山の石の役目は果せるであろう。−−

 こんな考えで、本年一月はじめに小論を『歴研』編集部に渡したまま、私はヨーロッパへ旅立ち、三カ月ほどして、三月の末に帰国した。その間に、小論は学界に何の反応もおこさなかった。まじめに小論を批判し、誤りを正し、足らざるを補うてくれる論文が、一つも出なかったばかりか、小論を全面的に誤りとするものもなかった。

 要するに、小論はすっかり無視され黙殺されている。

 小論自体のなりゆきなどはどうでもよい。たが、釣魚諸島は無主地であったのではなく、元から中国領であったし、現在も中国領であるという中国の主張が、歴史解釈についての科学的で具体的な反論もなしに、高飛車に否定されて、日本の領有が既成事実とされていくことは、日本帝国主義の外国領土侵略とにせ愛国主義のあおり立てが、現に始まったことであり、日本人民の運命にかかわることであると、何らの誇張もなしにあえていわねばならない。

 琉球政府や日本政府が、中国の主張を全く無視しているだけでなく、私の旅行中の短い間に、日本軍国主義の復活に反対と称する日本共産党も、佐藤軍国主義政府と全く同じく、いやそれ以上に強く、「尖閣列島」は日本領だと主張し、軍国主義とにせ愛国主義熱をあおり立てるのに、やっきとなっていた。社会党も、日中国交回復、日中友好に力をいれていながら、「尖閣列島」は日本領だと主張することは、政府および反中国の日共と全く同じである。『朝日新聞』をはじめ大小の商業新聞も、いっせいに筆をそろえて、政府と同じ主張を書きたてていた。じつにみごとな、そして何という恐ろしい、「国論の一致」ではないか。

 この「国論」と真向うから対決し、日本帝国主義の釣魚台略奪をゆるすなと、公然と人民によびかけ、たたかっているのは、政治党派としては、現在のところいわゆる新左翼のセクトが一つあるだけである。去年の秋には、べつの新左翼の組織が、同じようにたたかっていたが、その派の指導部が変わってからは、もはや釣魚諸島のことはとりあげなくなった。ほかのいわゆる新左翼諸派も、全く釣魚諸島問題をかえりみようともしない。日中友好の諸団体さえ、その機関紙誌に、日本側の主張の根拠のないことをつこうとする「研究会」の文章をのせたり、また釣魚諸島は中国領だという個人の署名入りの文章をのせたりするものはあっても、それらの団体が、その団体として、公然と、日本政府の中国領釣魚諸島略奪に反対する、ということを公式に決定し、反対運動を展開しているものは、一九七二年六月はじめの現在までに、まだ一つもあらわれていない。沖縄では、私が旅行した当時すでに、労働組合もふくめすべてのいわゆる民主団体も、「尖閣列島の開発」に、早くも熱をあげていた。

 まことに重苦しい情況である。そうであればあるほど、私たちはいっそうの勇気と情熱をもって、その打開に立ち向わねばならない。私は、あらためて、釣魚諸島の歴史の研究にとりくんだ。ことに今度は、明治維新以後、日本政府は、どのようにして、どんな情勢下に、釣魚諸島を領有していったかの解明に、力をそそいだ。幸いにして友人諸君の援助をうけて、重要なことはほぼ明らかになった。まだ足りない点もある。たとえば完全を期するためには、見なければならぬ地図で、まだ、探し当てていないのもある。イギリス海軍の一八八〇年代前後の水路誌には、釣魚諸島が中国領であることを明示する記述がありそうに思われるのに、それを見ることができていないのも、何とも気がかりである。

 けれども、気のついたかぎり、前回の小論の足りないことは補い、あやまりは訂正することができた。それゆえ、私は、ここでいちおうの区切りをつけて、急進展する情勢にちかずけるため、あえてこれを印刷に付する。

 この論文の主要な課題は二つある。

 第一は、釣魚諸島はもともと無主地でなくて中国領であった、ということを確認することである。これは、前回の小論で、叙述のしかたはまことにたどたどしかったが、基本的には達成したと信ずる。今回は、さらに有力な史料をいくつか加え、叙述を整理し、前回よりもいっそうはっきり、ここが中国領であることを明らかにできた。この部分は前回の論文と、重複するところが相当あるのは、さけがたいことである。

 第二は、日本がここを領有した経過と事情を、明らかにすることである。これは、前回の小論では、きわめて不十分であった。今回は、この領有が日清戦争の勝利に乗じた略奪であることを、当時の政府の公文書によって、かなりくわしく明らかにできた。そして、私はここに、前回の論文の不十分というよりも誤りを訂正しなければならない。

 すなわち、前論で、この略奪を日清戦争における日本の勝利と結びつけたのは正しかったが、さらにこれを日清講和条約(下関条約)第二条と直接に結びつけ、台湾とその付属島嶼を奪った中に、釣魚諸島もふくまれているかのように書いたのは、正しくなかった。正確にいえば、台湾と澎湖島は下関条約第二条により、公然明白に強奪したのであり、釣魚諸島はいかなる条約にもよらず、対清戦勝に乗じて、中国および列国の目をかすめて窃取したのであった。しかもこの強奪と窃取は、時間的につらなっているのみか、政治的にも一体不可分のものであった。このことを論証するのが、本論の第二の課題である。

 本論にあやまりがあれば正し、足りないことは補ってくださるよう、読者のみなさんの御援助をお願いする。

二 日本政府などは故意に歴史を無視している
 現在の釣魚諸島領有権争いにおいて、日本側が最初に、公的にその領有を主張したのは、一九七〇年八月三十一日、アメリカの琉球民政府の監督下にある琉球政府立法院が行なった、「尖閣列島の領土防衛に関する要請決議」であった。それは日本領であるという根拠については、「元来、尖閣列島は、八重山石垣市宇登野城の行政区域に属しており、戦前、同市在住の古賀商店が、伐木事業及び漁業を経営していた島であって、同島の領土権について疑問の余地はない」といい、これ以上に日本領有の根拠を示したものではなかった。

 この立法院決議をうけて、琉球政府は、同年九月十日「尖閣列島の領有権および大陸棚資源の開発権に関する主張」という声明を出し、さらに同月十七日、「尖閣列島の領土権について」という声明を発表した。後者は、琉球政府がこの列島の領有権を主張する根拠を系統的にのべている。それは、まず一九五三年十二月二十五日の琉球列島米国民政府布告第二十七号により、尖閣列島はアメリカ民政府および琉球政府の管轄区域にふくまれていることをのべ、つづけて次のようにのべている。

 (1)この島々は、十四世紀の後半ごろには、中国人によってその存在を知られており、中国の皇帝が琉球国王の王位を承認し、これに冠や服を与えるために琉球に派遣する使節−−冊封使(さくほうし)−−が、中国の福州から琉球の那覇の間を往来したときの記録、たとえば『中山傳信録』や『琉球国志略』その他に、これらの島々の名が見える。また琉球人の書いた『指南広義』付図、『琉球国中山世鑑』にも、この島々の名が見える。

 しかし、「十四世紀以来、尖閣列島について言及してきた琉球側及び中国側の文献のいずれも、尖閣列島が自国の領土であることを表明したものはありません。これらの文献はすべて航路上の目標として、たんに航海日誌や航路図においてか、あるいは旅情をたたえる漢詩の中に、便宜上に尖閣列島の島嶼の名をあげているにすぎません。本土の文献としては、林子平の『三国通覧図説』があります。これには、釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼(いわゆる尖閣列島の島々−−井上)を中国領であるかの如く扱っています。しかし『三国通覧図説』の依拠した原典は、『中山傳信録』であることは、林子平自身によって明らかにされています。彼はこの傳信録中の琉球三十六島の図と航海図を合作して、三国通覧図説を作成いたしました。このさい三十六島の図に琉球領として記載されていない釣魚台、黄尾嶼などを、機械的に中国領として色分けしています。しかし傳信録の航海図からは、これらの島々が中国領であることを示すいかなる証拠も見出しえないのであります。」

 要するにこの列島は、「明治二十八年(一八九五年)に至るまで、いずれの国家にも属さない領土として、いいかえれば国際法上の無主地であったのであります。」

 (2)「明治十二年(一八七九年)沖縄に県政が施行され、明治十四年に刊行、同十六年に改正された内務省地理局編纂の『大日本府県分割図』には、尖閣列島(尖閣群島のあやまり−−井上)が、島嶼の名称を付さないままにあらわれている。」そのころまでここは無人島であったが、明治十七年(一八八四年)ごろから、古賀辰四郎がこの地でアホウ鳥の羽毛や海産物の採取事業をはじめた。「こうした事態の推移に対応するため、沖縄県知事は、明治十八年九月二十二日、はじめて内務卿に国標建設を上申するとともに、出雲丸による実地踏査を届け出ています。」

 (3)「さらに一八九三年(明治二十六年)十一月、沖縄県知事より、これまでと同様の理由をもって、同県の所轄方と標杭の建設を内務及び外務大臣に上申して来たため、一八九四年(明治二十七年)十二月二十七日、内務大臣より閣議提出方について外務大臣に協議したところ、外務大臣も異議がなかった。」そこで「翌一八九五年(明治二十八年)一月十四日閣議決定で、沖縄県知事の上申通り標杭を建設させることにした。」

 (4)「さらにこの閣議決定にもとづいて、明治二十九年四月一日、勅令第十三号を沖縄県に施行されるのを機会に、同列島に対する国内法上の編入措置が行はれています。」

 琉球政府の声明は、これにつづけて、右の「国内法上の編入措置」について、るる説明というよりも弁明をしている。その部分もふくめて、この声明の全文は、一見、ありのままの史実をのべているかのようで、ひじょうに多くの重大なごまかしやねじまげがあり、また重要な事実を、故意にかくしてもいる。それらは後にいちいちばくろする。

 本年(一九七二年)に入ってから、日本政府外務省の統一見解(三月八日)、朝日新聞社説(三月二十日)、日本社会党の統一見解案(三月二十五日)、日本共産党の見解(三月三十日)、そのほか多くの政党や新聞の尖閣列島日本領論が出されたが、それらはいずれも、右の琉球政府声明以上にくわしい、あるいは新しい「論拠」を示したものではない。そしてそれらはみな、その「尖閣列島」領有権の主張の根底を、これらの島は、一八九五年に日本政府が領有を閣議決定するまでは無主地であった、ということに置いている。じっさい、そうしないで、これらが中国領であったことを認めれば、「無主地の先占」なる近代現代の植民地主義・帝国主義の国際法上の「法理」をこじつける余地すらもなくなる。しかるにその彼らの全主張の根底について、彼らは、何ら史料にもとづく科学的な証明をしていない。

 外務省は、「尖閣列島は明治十八年(一八八五年)以降、政府が再三にわたって現地調査を行ない、単にこれが無人島であるだけでなく、清国の支配が及んでいる痕跡が無いことを慎重に確認した上で」、明治二十八年一月十四日の閣議決定で、「正式にわが国の領土に編入することとしたものである」というだけである。この「清国の支配が及んでいる痕跡が無い」というのは、一八八五年(明治十八年)、沖縄県令らがこの地は中国領かもしれないからという理由で、直ちにこれを日本領とすることにちゅうちょしたのに対して、内務卿山県有朋が即時領有を強行しようとして、これらの島は『中山傳信録』に見える島と同じ島であっても、その島はただ清国船が「針路ノ方向ヲ取リタルマデニテ、別ニ清国所属ノ証跡ハ少シモ相見へ申サズ」(本論文第十一節を参照)と主張したことのくりかえしにすぎない。

 共産党の「見解」は次の通り。「尖閣列島についての記録は、ふるくから、沖縄をふくむ日本の文献にも、中国の文献にも、いくつか見られる。しかし、日本側も中国側も、いずれの国の住民も定住したことのない無人島であった尖閣列島を、自分に属するものとは確定しなかった。」「中国側の文献にも、中国の住民が歴史的に尖閣列島に居住したとの記録はない。明国や清国が、尖閣列島の領有を国際的にあきらかにしたこともない。尖閣列島は『明朝の海上防衛区域にふくまれていた』という説もあるが、これは領有とは別個の問題である。」

 朝日新聞社説も、これと同じようなことしかいわない。「尖閣列島の存在は、すでに十四世紀の後半には知られており、琉球や中国の古文書には、船舶の航路目標として、その存在が記録されている。だが尖閣列島を自国の領土として明示した記録は、これらの文献には見当らず、領土の帰属を争う余地なく証明するような歴史的事実もない。」

 日共や朝日新聞はこのように、明・清時代の中国が「尖閣列島」の領有を国際的に明確にしたことはないなどと、たいへん確信ありげに断定しているが、このさい彼らは、何ら科学的具体的に歴史を調べているのではなく、佐藤軍国主義政府とまったく同じく、現代帝国主義の「無主地」の概念を、封建中国の領土に非科学的にこじつけて、しぶんたちにつごうの悪い歴史を抹殺しようとしているのである。政府にしても政党にしても、短い声明の中で、いちいち歴史的論証をするわけにもいかないだろうが、何らかの形で、彼らの機関紙誌なり、パンフレットなりで、その証明をすることは、これだけ重大な国際問題に対処するための、政府や公党たるものの責任ではないか。しかし、彼らはいっこうにそれをやろうとはしない。政府やこれらの政党の御用学者はたくさんあるのに、彼らも、国士館大学の国際法助教授奥原敏雄のほかには、あえて歴史的説明を公表したものはまだ一人もあらわれていない。

三 釣魚諸島は明の時代から中国領として知られている
 日共の見解や朝日新聞の社説は、「尖閣列島」に関する記録が「古くから」日本にも中国にも「いくつかある」が、どれもその島々が中国領だと明らかにしたものはないなどと、十分古文献を調べたかのようなことをいうが、実は彼らは古文献を一つも見ないで、でたらめをならべているにすぎない。むろん「尖閣列島」という名の島についての明治以前の記録は、中国にも日本にも一つもあるはずがない。そして釣魚島とそのならびの島々に関する「古い」(というのは、明治以前のこととする)記録も、日本にはただ一つしかない。林子平の『三国通覧図説』(一七八五年刊)の付図の「琉球三省并三十六島之図」のみである。それは、一九七〇年の琉球政府声明がのべているように、中国の冊封副使徐葆光(じょほうこう)の『中山傳信録』の図によっている。それだから価値が低いのではなくて、価値がきわめて高いことは後にくわしくのべる。

 琉球人の文献でも、釣魚諸島の名が出てくるのは、羽地按司朝秀(後には王国の執政官向象賢 こうしょうけん)が、一六五〇年にあらわした『琉球国中山世鑑』(註)巻五と、琉球のうんだ最大の儒学者でありまた地理学者でもあった程順則(ていじゅんそく)が、一七〇八年にあらわした『指南広義』の「針路條記」の章および付図と、この二カ所しかない。しかも『琉球国中山世鑑』では、中国の冊封使陳侃(ちんかん)の『使琉球録』から、中国福州より那覇に至る航路記事を抄録した中に、「釣魚嶼」等の名が出ているというだけのことで、向象賢自身の文ではない。

 (註)伊波普猷、東恩納寛惇、横山茂共編『琉球史料叢書』第五にあり。

 また程順則の本は、だれよりもまず清朝の皇帝とその政府のために、福州から琉球へ往復する航路、琉球全土の歴史、地理、風俗、制度などを解説した本であり、釣魚島などのことが書かれている「福州往琉球」の航路記は、中国の航海書および中国の冊封使の記録に依拠している。しかも、このとき程順則は、清国皇帝の陪臣(皇帝の臣が中山王で、程はその家来であるから、清皇帝のまた家来=陪臣となる)として、この本を書いている。それゆえこの本は、琉球人が書いたとはいえ、社会的・政治的には中国書といえるほどである。

 つまり、日本および琉球には、明治以前は、中国の文献から離れて独自に釣魚諸島に言及した文献は、実質的にはひとつも無かったとさえいえる。これは偶然ではない。この島々は、琉球人には、中国の福州から那覇へ来る航路に当るということ以外には、何の関係もなかったし、風向きと潮流が、福建や台湾から釣魚諸島へは順風・順流になるが、琉球からは逆風・逆流になるので、当時の航海術では、きわめてまれな例外はいざ知らず、琉球からこの島々へは、ふつうには近よれもしなかった。したがって琉球人のこの列島に関する知識は、まず中国人を介してしか得られなかった。彼らが独自にこの列島に関して記述できる条件もほとんどなかったし、またその必要もなかった。

 琉球および日本側とは反対に、中国側には、釣魚諸島についての文献はたくさんある。明・清時代の中国人は、この列島に関心をもたざるをえない事情があった。というのは、一つには琉球冊封使の往路はこの列島のそばを通ったからであり、また一つには、十五、六世紀の明朝政府は、倭寇(わこう)の中国沿海襲撃に備えるために、東海の地理を明らかにしておかねばならなかったから。

 この列島のことが中国の文献に初めて見えるのは、紀元何年のことか、それを確かめることは私にはできないが、おそくも十六世紀の中期には、釣魚諸島はすでに釣魚島(あるいは釣魚嶼)、黄毛嶼(あるいは黄尾山、後の黄尾嶼)、赤嶼(後の赤尾嶼)などと中国名がつけられている。

 十六世紀の書と推定される著者不明の航海案内書『順風相送』の、福州から那覇に至る航路案内記に、釣魚諸島の名が出てくるが、この書の著作の年代は明らかでない。年代の明らかな文献では、一五三四年、中国の福州から琉球の那覇に航した、明の皇帝の冊封使陳侃の『使琉球録』がある。それによれば、使節一行の乗船は、その年五月八日、福州の梅花所から外洋に出て、東南に航し、鶏籠頭(台湾の基隆)の沖合で東に転じ、十日に釣魚嶼などを過ぎたという。

 「十日、南風甚ダ迅(はや)ク、舟行飛ブガ如シ。然レドモ流ニ順ヒテ下レバ、(舟は)甚ダシクハ動カズ、平嘉山ヲ過ギ、釣魚嶼ヲ過ギ、黄毛嶼ヲ過ギ、赤嶼ヲ過グ。目接スルニ暇(いとま)アラズ。(中略)十一日夕、古米(くめ)山(琉球の表記は久米島)ヲ見ル。乃チ琉球ニ属スル者ナリ。夷人(冊封使の船で働いている琉球人)船ニ鼓舞シ、家ニ達スルヲ喜ブ。」

 琉球冊封使は、これより先一三七二年に琉球に派遣されたのを第一回とし、陳侃は第十一回めの冊封使である。彼以前の十回の使節の往路も、福州を出て、陳侃らと同じ航路を進んだはずであるから、−−それ以外の航路はない−−その使録があれば、それにも当然に釣魚島などのことは何らかの形で記載されていたであろうが、それらは、もともと書かれなかったのか、あるいは早くから亡失していた。陳侃の次に一五六二年の冊封使となった郭汝霖(かくじょりん)の『重編使琉球録』にも、使琉球録は陳侃からはじまるという。

 その郭の使録には、一五六二年五月二十九日、福州から出洋し「閏五月初一日、釣嶼ヲ過グ。初三日赤嶼ニ至ル。赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ。再一日ノ風アラバ、即チ姑米(くめ)山(久米島)ヲ望ムベシ」とある。

 上に引用した陳・郭の二使録は、釣魚諸島のことが記録されているもっとも早い時期の文献として、注目すべきであるばかりでなく、陳侃は、久米島をもって「乃属琉球者」といい、郭汝霖は、赤嶼について「界琉球地方山也」と書いていることは、とくに重要である。この両島の間には、水深二千メートル前後の海溝があり、いかなる島もない。それゆえ陳が、福州から那覇に航するさいに最初に到達する琉球領である久米島について、これがすなわち琉球領であると書き、郭が中国側の東のはしの島である赤尾嶼について、この島は琉球地方を界する山だというのは、同じことを、ちがった角度からのべていることは明らかである。

 そして、前に一言したように、琉球の向象賢の『琉球国中山世鑑』は、「嘉靖甲午使事紀ニ曰ク」として、陳侃の使録を長々と抜き書きしているが、その中に五月十日と十一日の条をも、原文のままのせ、それに何らの注釈もつけていない。向象賢は、当時の琉球支配層の間における、親中国派と親日本派のはげしい対立において、親日派の筆頭であり、『琉球国中山世鑑』は、客観的な歴史書というよりも、親日派の立場を歴史的に正当化するために書いた、きわめて政治的な書物であるが、その書においても、陳侃の記述がそのまま採用されていることは、久米島が琉球領の境であり、赤嶼以西は琉球領ではないということは、当時の中国人のみならずどんな琉球人にも、明白とされていたことを示している。琉球政府声明は、「琉球側及び中国側の文献のいずれも尖閣列島が自国の領土であることを表明したものは無い」というが、「いずれの側」の文献も、つまり中国側はもとより琉球の執政官や最大の学者の本でも、釣魚諸島が琉球領ではないことは、きわめてはっきり認めているが、それが中国領ではないとは、琉・中「いずれの側も」、すこしも書いていない。

 なるほど陳侃使録では、久米島に至るまでの赤尾、黄尾、釣魚などの島が琉球領でないことだけは明らかだが、それがどこの国のものかは、この数行の文面のみからは何ともいえないとしても、郭が赤嶼は琉球地方を「界スル」山だというとき、その「界」するのは、琉球地方と、どことを界するのであろうか。郭は中国領の福州から出航し、花瓶嶼、彭佳山など中国領であることは自明の島々を通り、さらにその先に連なる、中国人が以前からよく知っており、中国名もつけてある島々を航して、その列島の最後の島=赤嶼に至った。郭はここで、順風でもう一日の航海をすれば、琉球領の久米島を見ることができることを思い、来し方をふりかえり、この赤嶼こそ「琉球地方ヲ界スル」島だと感慨にふけった。その「界」するのは、琉球と、彼がそこから出発し、かつその領土である島々を次々に通過してきた国、すなわち中国とを界するものでなくてはならない。これを、琉球と無主地とを界するものだなどとこじつけるのは、あまりにも中国文の読み方を無視しすぎる。

 こうみてくると、陳侃が、久米島に至ってはじめて、これが琉球領だとのべたのも、この数文字だけでなく、中国領福州を出航し、中国領の島々を航して久米島に至る、彼の全航程の記述の文脈でとらえるべきであって、そうすれば、これも、福州から赤嶼までは中国領であるとしていることは明らかである。これが中国領であることは、彼およびすべての中国人には、いまさら強調するまでもない自明のことであるから、それをとくに書きあらわすことなどは、彼には思いもよらなかった。そうして久米島に至って、ここはもはや中国領ではなく琉球領であることに思いを致したればこそ、そのことを特記したのである。

 政府、日本共産党、朝日新聞などの、釣魚諸島は本来は無主地であったとの論は、恐らく、国士館大学の国際法助教授奥原敏雄が雑誌『中国』七一年九月号に書いた、「尖閣列島の領有権と『明報』の論文」その他でのべているのと同じ論法であろう。奥原は次のようにいう。

 陳・郭二使録の上に引用した記述は、久米島から先が琉球領である、すなわちそこにいたるまでの釣魚、黄尾、赤尾などは琉球領ではないことを明らかにしているだけであって、その島々が中国領だとは書いてない。「『冊封使録』は中国人の書いたものであるから、赤嶼が中国領であるとの認識があったならば、そのように記述し得たはずである」。しかるにそのように記述してないのは、陳侃や郭汝霖に、その認識がないからである。それだから、釣魚諸島は無主地であった、と。

 たしかに、陳・郭二使は、赤嶼以西は中国領だと積極的な形で明記し「得たはずである」。だが、「書きえたはず」であっても、とくにその必要がなければ書かないのがふつうである。「書きえたはず」であるのに書いてないから、中国領だとの認識が彼らにはなかった、それは無主地だったと断ずるのは、論理の飛躍もはなはだしい。しかも、郭汝霖の「界」の字の意味は、前述した以外に解釈のしかたはないではないか。

 おそくとも十六世紀には、釣魚諸島が中国領であったことを示す、もう一種の文献がある。それは、陳侃や郭汝霖とほぼ同時代の胡宗憲(こそうけん)が編纂した『籌海図編』(ちゅうかいずへん)(一五六一年の序文あり)である。胡宗憲は、当時中国沿海を荒らしまわっていた倭寇と、数十百戦してこれを撃退した名将で、右の書は、その経験を総括し、倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器・船艦の制などを説明した本である。

 本書の巻一「沿海山沙図」の「福七」〜「福八」にまたがって、福建省の羅源県、寧徳県の沿海の島々が示されている。そこに「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」、「黄尾山」、「橄欖山」、「赤嶼」が、この順に西から東へ連なっている。これらの島々が現在のどれに当るか、いちいちの考証は私はまだしていない。しかし、これらの島々が、福州南方の海に、台湾の基隆沖から東に連なるもので、釣魚諸島をふくんでいることは疑いない。

 この図は、釣魚諸島が福建沿海の中国領の島々の中に加えられていたことを示している。『籌海図編』の巻一は、福建のみでなく倭寇のおそう中国沿海の全域にわたる地図を、西南地方から東北地方の順にかかげているが、そのどれにも、中国領以外の地域は入っていないので、釣魚諸島だけが中国領でないとする根拠はどこにもない。

 一九七一年十二月三十日の中華人民共和国外交部声明の中に、「早くも明代に、これらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域にふくまれており」というのは、あるいはこの図によるものであろうか。じっさいこの図によって、釣魚諸島が当時の中国の倭寇防衛圏内にあったことが知られる。このことについて、日共の「見解」は、「尖閣列島は『明朝の海上防衛区域にふくまれていた』という説もあるが、これは領有とは別個の問題である」などという。しかし、自国の領土でもない、しかも自国本土のもっとも近い所からでも二百浬以上もはなれている小島を防衛区域に入れるのは、いまの日本の自衛隊が、中国領の釣魚諸島を日本の「防空識別圏」にいれるのをはじめ、アメリカや日本など近代現代の帝国主義だけのすることであって、それと同じことを、勝手に明朝におしつけて、防衛区域と領有は別だなどというのは、釣魚諸島はどうでもこうでも中国領ではなかったと、こじつけるためのたわごとにすぎない。

四 清代の記録も中国領と確認している
 以上で、釣魚諸島は中国領であったことを確認できる記録が、十六世紀の中ごろには少なくとも三つあることが明らかとなった。それ以前のことについての記録は、私はまだ知ることができていないが、記録の有無にかかわらず、釣魚諸島が中国人に知られ、その名がつけられた当初から、中国人はここを自国領だと考えていたにちがいない。もっとも、最大の釣魚島でも、後にのべるように、海岸からすぐけわしい山がそそり立ち、平地は、もっとも広い所で、当時の技術水準では、数人しかおれないような小島を、彼らが重視したとも思われないが、さりとてそんな小島をわざわざ沿海防衛図に記入しているのを見ても、彼らがこれを無主地と考えたはずもない。そして十六世紀の中頃に、三つの文献がここをはっきり他国領と区別して記述しているのは、偶然ではあるまい、このころは、中国の東南沿岸は倭寇になやまされており、倭寇との緊張関係で、中国人はその東南沿海の自国領と他国領との区別に敏感にならざるをえなかったのだから。

 郭汝霖の後には、明朝の冊封使は、一五七九年、一六〇六年、一六三三年と三回渡琉している。そのはじめの二回の使録を私は読んだが、それらには、陳・郭二使録のような、琉球領と中国領の「界」に関する記述はない。最後の使節の記録は、一部分の引用文しか見てないので、領界についての記述の有無はわからない。この後まもなく明朝は滅び、清(しん)朝となり、琉球王は清朝皇帝からも、前代と同様に冊封をうける。清朝の第一回の冊封使は、一六六三年に入琉しているが、その使記にも、中・琉の領界の記述はない。

 このように、陳・郭以後の使節にしばらくは領界の記述がないことも、奥原によって、釣魚諸島無主地論の一根拠とされているが、どうしてそんな理屈がひねり出せるものか、わけがわからない。後代の使節は、みな陳・郭以来の歴代の使記をよく読んでいる(もともと冊封使記は、当時および後世の朝廷とその琉球使節に読ませるために書かれた、公用出張の報告書の性質をもつものである。琉球政府などが、わざと軽視しているような、たんなる私的な航海記ではない。)。それゆえ彼らは、赤嶼と久米島が中・琉の領界であることも十分承知していたわけであるが、彼ら自身の使記に、それを書きつけるほどの特別の関心または必要がなかったまでのことである。

 ところが清朝の第二回目の冊封使汪楫(おうしゅう)は、一六八三年に入琉するが、その使録『使琉球雑録』巻五には、赤嶼と久米島の間の海上で、海難よけの祭りをする記事がある。その中に、ここは「中外ノ界ナリ」、中国と外国との境界だ、と次のように明記している。

 「二十四日(一六八三年六月)、天明ニ及ビ山ヲ見レバ則チ彭佳山也……辰刻(たつのこく)彭佳山ヲ過ギ酉(とり)刻釣魚嶼ヲ遂過ス。……二十五日山ヲ見ル、マサニ先ハ黄尾後ハ赤尾ナルベキニ、何(いくばく)モ無ク赤嶼ニ遂至ス、未ダ黄尾嶼ヲ見ザルナリ。薄暮、郊(或ハ溝ニ作ル)ヲ過グ。風涛大ニオコル。生猪羊各一ヲ投ジ、五斗米ノ粥ヲソソギ、紙船ヲ焚キ、鉦ヲ鳴ラシ鼓ヲ撃チ、諸軍皆甲シ、刃ヲ露ハシ、(よろい・かぶとをつけ、刀を抜いて)舷(ふなばた)ニ伏シ、敵ヲ禦(ふせ)グノ情(さま)ヲナス。之ヲ久シウシテ始メテヤム。」

 そこで汪楫が船長か誰かに質問した。「問フ、郊ノ義ハ何ニ取レルヤ。(「郊」とはどういう意味ですか)と。すると相手が答えた。

「曰ク、中外ノ界ナリ。」(中国と外国の界という意味です)。

 汪楫は重ねて問うた。

「界ハ何ニ於テ辯ズルヤ。」(その界はどうして見分けるのですか)。相手は答えた。

「曰ク懸揣スルノミ。(推量するだけです)。然レドモ頃者(ただいま)ハアタカモ其ノ所ニ当リ、臆(おく)度(でたらめの当てずっぽう)ニ非ルナリ。」

 右の文には少々注釈が必要であろう。釣魚諸島は、中国大陸棚が東海にはり出したその南のふちに、ほぼ東西につらなっている。列島の北側は水深二百メートル以下の青い海である。列島の南側をすこし南へ行くと、にわかに水深千数百から二千メートル以上の海溝になり、そこを黒潮が西から東へ流れている。とくに赤尾嶼付近はそのすぐ南側が深海溝になっている。こういう所では、とくに海が荒れる。またここでは、浅海の青い色と深海の黒潮との、海の色の対照もあざやかである。

 この海の色の対照は、一六〇六年の冊封使夏子楊(かしよう)の『使琉球録』にも注目されており、前の使録の補遺(私は見ていない−−井上)に『蒼水ヨリ黒水ニ入ル』とあるのは、まさにその通りだ」とある。そして清朝の初めには、このあたりが「溝」あるいは「郊」、または「黒溝」、「黒水溝」などとよばれ、冊封使の船がここを通過するときには、豚と羊のいけにえをささげ、海難よけの祭りをする慣例ができていたようである。過溝祭のことは、汪楫使録のほかに、一七五六年入琉の周煌の『琉球国志略』、一八〇〇年入琉の李鼎元(りていげん)の『使琉球録』および一八〇八年入琉の斉鯤(さいこん)の『続琉球国志略』に見えている。

 これらの中で、汪楫の使記は、過溝祭をもっともくわしくのべているばかりでなく、溝を郊と書き、そこはたんに海の難所というだけでなく、前に引用した通り、「中外ノ界ナリ」と明記している点で、もっとも重要である。しかもこの言葉が、ここをはじめて通過した汪楫に、船長か誰かが教えたものであることは、こういう認識が、中国人航海家の一般の認識になっていたことを思わせる。

 さらに周煌は『琉球国志略』巻十六「志余」で、従来の使録について、そのとくに興味ある、または彼が重視した記述を再確認しているが、その中で彼は、汪楫の記述を要約し、「溝ノ義ヲ問フ、曰ク中外ノ界ナリ」という。すなわち彼は汪楫とともに、赤尾嶼と久米島の間が「中外ノ界」であると確認し、赤尾嶼以西が中国領であることを、文字の上でも明記している。なお『琉球国志略』は、すぐ後にのべる『中山傳信録』とならんで、中国人のみならず琉球人・日本人にも広く読まれた本で、句読、返り点を施した日本版も一八三一年(天保二年)に出ている。また斉鯤は、赤尾嶼を過ぎた所で「溝ヲ過グ、海神ヲ祭ル」と書くだけであるが、彼の使記は、周煌使記の後をつぐ意味の『続琉球国志略』と名づけられているのだから、その中で周煌の記述に批判や訂正のないかぎり、彼も汪・周とともに、ここを中外の界としていたことは明らかである。これでもなお、赤嶼以西が無主地であったとか、中国側のどの文献にも釣魚諸島が中国領であると明示したものはない、などといえようか。

 斉鯤の前の封使李鼎元だけは、赤嶼ではなくて釣魚嶼の近くで過溝祭をしているのみならず、「琉球ノ夥長(かちょう)」(航海長)は「黒溝有ルヲ知ラズ」といったと記し、かつ李自身もその存在を否定している。彼は徹底した経験主義の自信家であり、自分の航海が、往復ともまれにみる順風好天で、すこしも難航しなかったという体験を基にして、先人の記録よりも琉球人航海家の言を信じた。ただしこの場合、彼の関心はもっぱら海の難所という点に集中されていて、「中外ノ界」という意味の溝(郊)については、彼は何ものべていない。したがって海の難所という意味の溝を否定した李鼎元ただ一人の体験に追従して、彼の前と後の封使がともに認めている「中外ノ界」を否定することは、とうていできない。

 のみならず、この「界」は、汪楫の次、周煌の前の使節徐葆光(一七一九年入琉)の有名な『中山傳信録』によっても確かめられる。

 徐葆光は、渡琉にあたって、その航路および琉球の地理、歴史、国情について、従来の不正確な点やあやまりを正すことを心がけ、各種の図録作製のために、とくに中国人専門家をつれていったほどである。彼は琉球王城のある首里に入るとすぐ、王府所蔵の文献記録の研究をはじめ、前に紹介した程順則および程より二十歳も若いが、彼につぐ当時の大学者−−とくに琉球の王国時代を通じて地理の最大の専門家蔡温(さいおん)(註)を相談相手とし、八カ月間琉球のことを研究した。

 (註)蔡温は、福州に三年間留学して、地理・天文・気象を専攻した。後に王府の執政官となり、琉球の産業開発と土木に、前後に比類のない貢献をした。(前出『琉球史料叢書』第五巻の東恩納寛惇による「解説」)

 『中山傳信録』は、こうして書かれたものであるから、その記述の信頼度はきわめて高く、出版後まもなく日本にも輸入され、日本の版本も出た。そして本書および前記の『琉球国志略』が、当時から以後明治初年までの、日本人の琉球に関する知識の最大の源となった。この書に、程順則の『指南広義』を引用して、福州から那覇に至る航路を説明している。それは、従来の冊封使航路と同じく、福州から、鶏籠頭をめざし、花瓶、彭佳、釣魚の各島の北側を通り、赤尾嶼から姑米山(久米島)にいたるのだが、その姑米山について「琉球西南方界上鎮山」と註している。

 この註は、これまで釣魚諸島を論じた台湾の学者や日本の奥原らみな、『指南広義』の著者程順則自身の註であると解しているが、私の見た『指南広義』の原文には、そのような註はない。私見では、これは引用者徐葆光の註である。その考証はここでは略すが(註)、これが程順則のものでも、徐葆光のものでも、実質的には同じである。というのは、徐は、滞琉中はもとより帰国後も、たえず程と意見を交換して『中山傳信録』を書いたので、この書は両人の共著といっても言いすぎではないから。

 (註)この考証は、『歴史学研究』一九七二年二月号の小論でひと通りのべた。

 もしも徐葆光が、久米島を琉球の「西南方界」とだけ書いていたら、それは正確ではないことになる。八重山群島の与那国島が琉球列島の西のはてであり、しかもそこは久米島よりはるかに南でもあるから。琉球の正確な西南界が八重山群島にあることは、『中山傳信録』の著者も知っており、彼は、八重山群島について、「此レ琉球極西南属界ナリ」と、きちんと説明している。彼がこのことを知りながら、なおかつ久米島について、「琉球西南方界上鎮山」と註したのは、「鎮」という字に重要な意味がある。

 「鎮」とは国境いや村境いの鎮め、「鎮守」の鎮であり、中国の福州から、釣魚諸島を通って、琉球領に入る境が久米島であり、それは琉球の国境の鎮めの島であるから、この説明に界上鎮山の字を用い、またここが琉球王国の本拠である沖縄本島を中心とする群島の西南方であるから、これを「琉球西南方界上鎮山」と書き、純粋に地理的に全琉球の極西南である八重山群島については、「此レ琉球極西南属界ナリ」と書きわけたのである。つまり中国人徐葆光(あるいは琉球人程順則)は、久米島が中国→琉球を往来するときの国境であることを、「西南方界上鎮山」という註で説明したのである。その「界」の一方が中国であることは、郭汝霖が「赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ」とのべたときの「界」と同じである。

五 日本の先覚者も中国領と明記している
 これまで私は、もっぱら明朝の陳侃、郭汝霖、胡宗憲および清朝の汪楫、徐葆光、周煌、斉鯤の著書という、中国側の文献により、中国と琉球の国境が、赤尾嶼と久米島の間にあり、釣魚諸島は琉球領でないのはもとより、無主地でもなく、中国領であるということが、おそくとも十六世紀以来、中国側にははっきりしていたことを考証してきた。この結論の正しいことは、日本側の文献によって、いっそう明白になる。その文献とは、先に一言した林子平の『三国通覧図説』の「付図」である。

 『三国通覧図説』−−以下の文では略して『図説』ということもある−−とその五枚の「付図」は、「天明五年(一七八五年)秋東都須原屋市兵衛梓」として最初に出版された。その一本を私は東京大学付属図書館で見たが、その「琉球三省并三十六島之図」は、たて五十四・八センチ、横七十八・三センチの紙に書かれてあり、ほぼ中央に「琉球三省并三十六嶋之図」と題し、その左下に小さく「仙台林子平図」と署名してある。この地図は色刷りであって、北東のすみに日本の鹿児島湾付近からその南方の「トカラ」(吐葛刺)列島までを灰緑色にぬり、「奇界」(鬼界)島から南、奄美大島、沖縄本島はもとより、宮古、八重山群島までの本来の琉球王国領(註一)は、うすい茶色にぬり、西方の山東省から広東省にいたる中国本土を桜色にぬり、また台湾および「澎湖三十六島」を黄色にぬってある(註二)。そして、福建省の福州から沖縄本島の那覇に至る航路を、北コースと南コース二本えがき、その南コースに、東から西へ花瓶嶼、彭隹(佳)山、釣魚台、黄尾山、赤尾山をつらねているが、これらの島は、すべて中国本土と同じ桜色にぬられているのである。北コースの島々もむろん中国本土と同色である。

 (註一)沖縄本島の北側の与論島から鬼界島に至る、奄美大島を中心とする群島は、もと琉球王国領であったが、一六〇九年島津氏が琉球王国を征服した後、これらの島々は島津の直轄領地とされた。そのことは『中山傳信録』著者も林子平もよく知っていたが、それでも、これらの島々は琉球三十六島のうちに入れるのが、中、琉、日のどの国の学者にも共通している。

 琉球の蔡温が『琉球国中山世鑑』の誤りを正した父の著書を、いっそう正確に改修した『中山世譜』(一七二五年序)の首巻には、「琉球輿地名号会記」と地図があるが、それも、全琉球を中山および三十六島とし、鬼界カ島までを琉球にいれている。子平より大分前の新井白石の『南島志』(一七一九年)も、そうしている。もちろん釣魚諸島は琉球三十六島の中に入っていない。

 (註二)林子平が台湾の色を中国本土と区別して書いている理由を正確に断定することはできないが、およその推定はできる。すなわち、『図説』の付図の中には、次にのべる東アジア全図というべきものがあるが、それには、子平がはっきり日本領と見なしている小笠原諸島を、日本本土および九州南方の島や伊豆諸島とはちがう色にぬってある。これから類推すると、彼は台湾は中国領ではあっても本土の属島ではないと見て、ちょうど小笠原島が日本領であっても九州南島などのように本土の属島とはいいがたいので、本土とは別の色にしたのと同じく、台湾をも中国本土やその属島とは別の色にしたのではあるまいか。

 この図により、子平が釣魚諸島を中国領とみなしていたことは、一点のうたがいもなく、一目瞭然であり、文章とちがって、こじつけの解釈をいれる余地はない。『図説』の付図には「三国通覧輿地路程全図」という、「朝鮮、琉球、蝦夷并ニカラフト、カムサスカ、ラッコ島等数国接壌ノ形勢ヲ見ル為ノ小図」もあるが、日本を中心として北はカムチャッカ、南は小笠原、西は中国に至る広範囲の、いわば東アジア全図にさえ、釣魚諸島のような、けし粒ほどの島が−−ほかの多くのはるかに大きい島も描いてないのに−−、はっきり描かれ、それも中国本土と同じ色にぬられている。子平の『図説』にとっては、各国の範囲、その界を明確にすることは、決定的に重要であったので、釣魚諸島をはぶくわけにはいかなかったのであろう。

 子平の琉球図は、彼が『図説』の序文で「此ノ数国ノ図ハ小子敢テ杜撰スルニアラズ……琉球ハ元ヨリ中山傳信録アリ、是ヲ証トス」と誇らしげに書いている通り、『中山傳信録』の地図に拠ったものである。しかし彼はそれを無批判にうのみにしたのではない。子平は『中山傳信録』および子平の時代までの日本人の琉球研究の最高峰である新井白石の『琉球国事略』などを研究し、自分の見聞を加えて、『図説』の本文と地図を書いたのである。そして『傳信録』の図には、国による色わけはないのに、林子平は色をぬりわけた。

 このことについて先の琉球政府声明は、子平は、『中山傳信録』に三十六島以外は琉球領とはしていないので、その外である釣魚島などを機械的に中国領として色分けしたのだ、そんなものに価値はないという。これは何とも気の毒なほど苦しい言いのがれである。子平は決して「機械的に」色分けしたのでないことは、図そのものにも明白である。すなわち、彼は中国領であることはよく知られている台湾、澎湖を中国本土とちがう色にぬり、釣魚諸島は本土と同色にぬっている。これをみても彼が琉球三十六島以外の島々はみな一律に中国本土と同じ色にしたのでないことは明らかである。子平は『中山傳信録』をよく研究し、そこに久米島が「琉球西南方界上鎮山」とあるのにより、その文を私が前節で解釈したのと同じく、ここを中国領と琉球領との界とし、ここに至るまでの釣魚諸島は中国領であることを信じて疑わなかったのであろう。そしてそのことをとくに明らかにする色分けをしたのである。

 じっさい、『中山傳信録』の姑米島の註は、郭汝霖や陳侃の使記の、すでに引用した記述と同じく、久米島から東が琉球領であり、その西の島々は中国領であることを明らかにしていると解するのが、漢文の読み方としてしごく当然のことである。

 私は『歴史学研究』二月号に、釣魚島の沿革を書いたとき、まだ『三国通覧図説』とその「付図」の天明五年版本を見ていなかった。そのとき私が使ったのは、一九四四年に東京の生活社が出版した『林子平全集』第二巻の活版本であった。その付図は国ごとの色わけはしてなかったので、私はたんに、子平の地図では、釣魚諸島は琉球と区別していることを指摘するにとどまった。いま原版を見ると、このようにはっきり中国領であることを色で示しているではないか。

 それだけでなく、京都大学付属図書館の谷村文庫には、「琉球三省并三十六島之図」の江戸時代の彩色写本が二種類ある。それには、「林子平図」あるいは「三国通覧図説附図」の写しということはどこにも書いてないが、一見して、子平の図の写しということは明らかである。その一つ(仮にこれを甲図という)は、『図説』の付図五枚−−蝦夷、琉球、朝鮮、小笠原島のそれぞれの図および前記の日本を中心として「数国接壌ノ形勢ヲ見ル為ノ小図」−−を、丈夫な和紙に、多分同一人が筆写した一組みの中に入っている。これは、琉球は赤茶色に、中国本土および釣魚諸島などはうすい茶色に、日本は青緑色に、台湾、澎湖は黄色にぬり分けてある。

 もう一種の図(これを乙図と名づけよう)は、琉球を黄色に、中国の本土と釣魚諸島を桜色に、台湾をねずみ色に、そして日本を緑にぬり分けてある。

 なお谷村文庫には、『三国通覧図説』付図の「朝鮮八道之図」の写本が、三種類あり、そのうちの一種は、前記琉球図の甲と一組みになっているものであり、もう一種は、前記琉球図の乙と同じ紙質の紙に、恐らく同一の筆者と思われる筆跡で書かれている。そしてこの朝鮮八道図と琉球図の乙には、元の所蔵者のものと思われる同一の朱印がおしてある。残りのもう一種は、原版をかなり精密に模写したものである。これと一組みになっていた琉球図その他の写本もあったにちがいないと推定されるが、そうだとすれば、原版のほかに、琉球図の写本−−というよりも、『三国通覧図説』の付図五枚一組の写本が、少なくとも三種類はあったことになる。

 さらに京都大学国史研究室には、もう一種の「琉球三省并三十六島之図」の江戸時代の彩色写本がある。

 周知のように、林子平はこの『三国通覧図説』および『海国兵談』の著作・出版により、幕府から処罰され、これらの版木も没収されてしまった。彼は日本人の近代的民族意識の先駆者であった。彼が『図説』を著述したのは、日本周辺の地理をよく知ることは、日本の国防−−徳川幕府とか諸藩とか、あれこれの封建領主あるいはその総体の防衛ではなく、それらを超えた次元の「日本」の防衛のために、緊急の必要であると考えたからであり、また、その緊要の知識を、たんに幕府や諸藩の役人あるいは武士階級にだけ独占させず、「貴賎ト無ク文(官)武(官)ト無ク」、「本邦ノ人」=日本民族のすべてにひろめねばならない−−なぜなら、事は日本の防衛にかかわる日本民族の問題であるから−−として、あえてこの書を出版した。しかも付図は色刷りにして、異なった国と国との位置関係が一目でわかるように心を使った。

 このように一介の知識人が、あえて日本の防衛を日本人民にうったえるという、まさに近代的民族主義的な思想と行動が、徳川幕府封建支配者の怒りにふれたのである。しかし、子平は日本人の近代民族的意識の成長を代表し、かつ、それに支えられていた。それゆえ、発売も発行も禁止された彼の本は、『海国兵談』も『三国通覧図説』も、争って読まれ、語られ、写され、ひろげられていった。

 さらにまた、『三国通覧図説』は、早くも一八三二年には、ドイツ人の東洋学者ハインリッヒ・クラプロート(Heinrich Klaproth)によって、フランス語に訳され出版されている。付図も原版と同じ色刷りである(註)。これにより、本書が国際的にもいかに重視されていたかということ、また釣魚諸島が中国領であることは西洋人にも知られていたということがわかる。

 (註)私はまだこの仏訳本を見ていないが、大熊良一『竹島史稿』の二二ページに、クラプロートの経歴とその『図説』翻訳に関する紹介がある。また台湾の『政大法学評論』第六期に、同書の琉球図の色刷りがある。

 林子平のような日本の民族的自覚の先駆者が、当時までの中国人、琉球人また日本人の、琉球地理研究の最高峰であり集大成である、徐葆光や新井白石の著書を十分に研究し、民族の防衛を日本のすべての人にうったえるために精魂こめて書き、あえて出版した本、そして徳川封建支配者の弾圧に抗して、愛国的知識人の間にひろめられていき、国際的にも重視された本の図に、釣魚諸島は中国領であることが明記されているのである。こういう本の記述をしも、明治の天皇制軍国主義者とその子孫の現代帝国主義者およびその密接な協力者日本共産党などはまったく無視して、釣魚諸島は無主地であったなどと、よくもいえたものである。

六 「無主地先占の法理」を反駁する
 琉球と釣魚諸島に関する、十六世紀から十八世紀にいたる、中国人、琉球人および日本人の最良の文献が、一致して、釣魚諸島は中国領であることを明らかにしているのに、あるいは、その中国語文章表現が現代の法律文とはちがうことを利用して、勝手にその意味をねじまげ、あるいは、どうにもねじまげることの不可能な地図については、それは機械的に色分けしたにすぎないなどと、軽薄なおのれの心をもって真剣な先覚者の苦心をおとしめる。このような議論の相手をするのは、いささかめんどうくさくなってきたが、そうも言ってはおれない。彼らが、二言めにはもち出す「国際法上の無主地先占の法理」なるものについて、駁撃しておかねばならない。

 彼らは、一八八五年に釣魚諸島を奪いとろうとした天皇制軍国主義の最も熱烈な推進者、最大の指導者、陸軍中将、内務卿山県有朋と同じく、いくら明・清の中国人が釣魚諸島の存在を知り、それに中国語の名をつけ、記録していても、ここに当時の中国の政権の、「支配が及んでいる痕跡がない」、つまり、いわゆる国際法の領土先占の要件としての実効的支配が及んでいない、だからここは無主地であった、などという。

 それでは、その「国際法」とはどんなものか。京都大学教授田畑茂二郎の書いた、現代日本の標準的な国際法解説書である『国際法T』(有斐閣『法律学全集』)には、国際法の成立について、次のようにのべている。すなわち、ヨーロッパ近世の主権国家の相互の間で、「自己の勢力を維持拡大するため、激しく展開された権力闘争」において、それが余りにも無制限に激化するのを「合理的なルールに乗せ限界づけるために、国際法が問題とされるようになった」(一六ぺージ)。この「合理的なルール」とは、私見では、つまりは強者の利益にすぎなかった。そのことは、とくに「無主地の先占の法理」において顕著である。田畑は次のように書いている。「戦争の問題とならんで、いま一つ、近世初頭の国際法学者の思索を強く刺戟したものは、新大陸、新航路の発見にともない展開された、植民地の獲得、国際通商の独占をめざした、激しい国家間の闘争であった。」この植民地争奪の激化に直面して、「国家間の行動を共通に規律するものとして(もっともこの場合には、他国に対して自国の行動を正当づけるといった動機が、多くの場合背景になっていたが)、国際法に関する論議がさかんに行なわれた。領域取得の新しい権原として、先占(occupatio)の法理がもち出され、承認されていったのも、こうした事情であった」(一九ぺージ)。

 「他国に対して自国の行動を正当づける」ために、もち出された「法理」が、「国際法」になるというのは、つまり強国につごうのよい論理がまかり通るということである。無主地先占論はその典型で、スペイン人、ポルトガル人が、アメリカやアジア、アフリカの大陸、太平洋の島々を、次から次へと自国領土=植民地化しているうちは、「発見優先」の原則が通用していた。それに対してオランダやイギリスが、競争者として立ちあらわれ、しだいにスペイン、ポルトガルに優越していくとともに、オランダの法学者グロチウスが、「先占の法理」をとなえだしたのである。それはオランダやイギリスにつごうのよい理論であって、やがてそれが「国際法」になった。

 先占の「法理」なるものが、いかに欧米植民地主義・帝国主義の利益にのみ奉仕するものであるかは、「無主地」の定義のしかたにも端的に出ている。田畑教授より先輩の国際法学者、東京大学名誉教授横田喜三郎の『国際法U』(有斐閣『法律学全集』)によれば、無主地の「最も明白なものは無人の土地である」が、「国際法の無主地は無人の土地だけにかぎるのではない。すでに人が住んでいても、その土地がどの国にも属していなければ無主の土地である。ヨーロッパ諸国によって先占される前のアフリカはそのよい例である。そこには未開の土人が住んでいたが、これらの土人は国際法上の国家を構成していなかった。その土地は無主の土地にほかならなかった」(九八ぺージ)。これはまたなんと、近世ヨーロッパのいわゆる主権国家の勝手きままな定義ではないか。こういう「法理」で彼らは世界中を侵略し、諸民族を抑圧してはばからなかった。

 横田も先占「法理」の成立について、「一五世紀の末における新発見の時代から、一八世紀のはじめまでは、新しい陸地や島を発見した場合に、それを自国の領土であると宣言し、国旗をかかげたり、十字架や標柱をたてたりして、それで領土を取得したことになるとされた」という。しかし、十九世紀には、それだけではだめで、「多くの国によって、先占は土地を現実に占有し支配しなければならないと主張され、それがしだいに諸国の慣行となった」。「おそくとも一九世紀の後半には、国際法上で先占は実効的でなければならないことが確立した」(九八〜九九ぺージ)。「先占が実効的であるというのは、土地を現実に占有し、これを有効に支配する権力をもうけることである。そのためには、或る程度の行政機関が必要である。わけても、秩序を維持するために、警察力が必要である。多くの場合にはいくらかの兵力も必要である」(九九ぺージ)。

 これも何のことはない、軍事・警察的実力で奪いとり保持したものが勝ちということである。このように近代のヨーロッパの強国が、他国他民族の領土を略奪するのを正当化するためにひねりだした「法理」なるものが、現代帝国主義にうけつがれ、いわゆる国際法として通用させられている。この「法理」を、封建時代の中国の王朝の領土に適用して、その合法性の有無を論ずること自体が、歴史を無視した、現代帝国主義の横暴である。

 ヨーロッパ諸国のいわゆる領土先占の「法理」でも、十六、七世紀には、新たな土地を「発見」したものがその領有権者であった。この「法理」を適用すれば、釣魚諸島は、中国領以外の何ものでもない。なぜなら、ここを発見したことが確実に証明されるのは、中国人の発見であり、その発見した土地に、中国名がつけられ、その名は、中国の公的記録である冊封使の使録にくり返し記載されているから。

 しかも、その使録の釣魚諸島を記載している部分を、琉球王国の非中国派の宰相向象賢も、その王国の年代記に引用し、承認している。日本の近代民族主義の先駆者林子平も、承認している。そしてその子平の本を西洋の東洋学者も重視している。つまり国際的にも中国領であることが確認されている。十六世紀ないし十八世紀に中国領であったものに、二十世紀の帝国主義の「国際法理」なるものを適用して、その要件をみたしていないという理由で、あらためてこれを無主地とすることが、どうしてゆるされよう。

 かりに、「先占は実効的でなければならない」という現代帝国主義の「法理」を釣魚諸島に適用するとしても、この小さな無人島に行政機関をもうけるなどということは、明・清の時代には不可能であり無用でもあった。現代の先占についても、横田は次のようにのべている。
「先占される土地の状態によっては、この原則(実効的支配の原則−−井上)をそのまま適用することができないこと、その必要がないこともある。たとえば無人島のような場合で、行政機関をもうけ警察力や兵力を置くことは、実際的に必要がない。住むことができないような場合には、それを置くこともできない。」

 明・清時代の釣魚諸島は、まさにこのような、人が定住することもできない無人の小島であった。だから、そこに現代的な「実効的支配」の痕跡を見出そうとしても、そんなものはありえないことは自明である。横田によれば「このような場合には、附近にある陸地や島に、行政機関や警察力を置いて、無人島が海賊の巣にならないよう、ときどき見廻って、行政的な取締りを行ない、必要があれば、相当な時間のうちに、軍艦や航空機を派遣できるようにしておけば、それで十分である。」

 これはもちろん現代において可能な処置である。「軍艦や航空機」も、レーダーも無線電信機もない昔のことではない。しかも「人の住むことのできないような島」が、「海賊の巣」になることもありえないから、ここを「ときどき見廻る」必要もない。とすれば、いったい明・清の中国人は、釣魚諸島をどうすれば、現代日本の帝国主義政府やその密接な協力者日本共産党などを満足させる「実効的支配の痕跡」を残すことができよう? 明・清の中国人が、後世に残すことのできた唯一のことは、この島の位置を確認し、それに名をつけ、そこに至る航路を示し、それらのことすべてを記録しておくことだけであった。そして、「それで十分である!」

 しかも明朝の政府は、それ以上のこともしている。明の政府は、釣魚諸島をも海上防衛の区域に加え、倭寇防禦策を系統的にのべた書物、『籌海図編』に、その位置とその所管区を示していたのである。これはつまり横田のいう「附近の島や陸地に行政機関や警察力を置いて……」ということの、明代版にほかならない。

 こういったからとて私は、明・清の中国政府や中国人が、現代帝国主義の「国際法理」にかなうよう、釣魚島の「先占」をしていたなどと説明する必要はみとめない。彼らは、彼らの死後数百年たち、二十世紀になって、「先占の法理」などで彼らの領土に文句をつけられようなどとは夢にも思わなかったにちがいない。ただ、彼らがここを彼らの領土であると確認していたればこそ、現代帝国主義の先占論をもってしても、ここが中国領であったという歴史的事実を否定できない証拠が残っているということを、明らかにしたまでのことである。

七 琉球人と釣魚諸島との関係は浅かった
 これまでの各節により、釣魚諸島はおそくとも明の時代から中国領であったことが、中国人はもとより琉球人、日本人にも確認されていたことが明らかにされたが、琉球人は、この列島のことをどう見ていたか。釣魚諸島の名が見える琉球人の書物は向象賢の『琉球国中山世鑑』と程順則の『指南広義』の二種しか現在までに知られておらず、その両書ともこれらの島を中国名で記載し、中国領と見なしていたことは、すでにのべた。この外に、文献ではなくても、釣魚諸島についての琉球人の口碑伝説が何かあるだろうか。

 『地学雑誌』の第一二輯第一四〇〜一四一巻(一九〇〇年八〜九月)にのった沖縄県師範学校教諭黒岩恒の論文「尖閣列島探険記事」には、明治十八年(一八八五年)九月十四日付で、沖縄県美里間切(まきり)詰め山方筆者大城永常が、県庁にさしだした報告書を引用しているが、それには、「魚釣(よこん)島と申所は久米島より午未(うまひつじ)の間(南々西)にこれ有り、島長一里七、八合程、横八、九合程、久米島より距離百七、八里程」とある。この島は、位置と地形から見て釣魚島であることは明らかだが、そうだとすれば、琉球ではこの当時、漢字では中国語の釣魚島を日本語におきかえた魚釣島と書き、琉球語で「ヨコン」とよんでいたことになる。また同年九月二十二日付で、沖縄県令西村捨三が山県内務卿に上げた上申書(註)は、「久米赤嶋、久場島及ビ魚釣島ハ、古来本県ニ於テ称スル所ノ名ニシテ……」という。この久米赤嶋は中国文献の赤尾嶼、久場島は黄尾嶼であることは後文で資料をあげる。魚釣島は釣魚島である。

 (註)『日本外交文書』第一八巻「雑件」の「版図関係雑件」。全文は第一一節に示す。

 県令の上申書では、「古来」、このようによんでいたというが、釣魚島を魚釣島というのは、琉球王国をほろぼして沖縄県とした天皇政府の役人が考えついたことであって、琉球人民のよび方は、「ヨコン」(あるいはユクンもしくはイーグン)といっただけであろう。その一証拠として、前記の「尖閣列島探険記事」のつぎの記述をあげることができる。

 「釣魚島、一に釣魚台に作る。或は和平山の称あり。海図にHoa-pin-suと記せるもの是なり(本章末の付註を参照−−井上)。沖縄にては久場島を以てす。されど本島探険(沖縄人のなしたる)の歴史に就きて考ふる時は、古来『ヨコン』の名によって沖縄人に知られしものにして、当時に在っては、久場島なる名称は、本島の東北なる黄尾嶼をさしたるものなりしが、近年に至り、如何なる故にや、彼我称呼を互換し、黄尾嶼を『ヨコン』、本島を久場と唱ふるに至りたれば、今俄かに改むるを欲せず。」

 ここには、釣魚島が琉球では「魚釣」島と書かれていたとも、よばれていたとも、のべてはいない。琉球人は、もとはこの島を「ヨコン」といい、黄尾を「クバ」といったのが、最近はなぜか、その名が入れ替ったというだけである。

 さらに、沖縄本島那覇出身の琉球学の大家東恩納寛惇の『南島風土記』(一九四九年五月序)にも、「釣魚島」とあって魚釣島とは書いてない。またその島について同書は、「沖縄漁民の間には、夙(はや)くから『ユクン・クバシマ』の名で著聞しているが、ユクンは魚島、クバシマは蒲葵(こば)島の義と云はれる」という。これでは、ユクン(あるいはヨコン)が元の名か、クバシマが元の名かわからない。

 また石垣市の郷土史家牧野清の「尖閣列島(イーグンクバシマ)小史」には「八重山の古老たちは、現在でも尖閣列島のことを、イーグンクバシマとよんでいる。これは二つの島の名を連ねたもので、イーグン島は魚釣島のことであり、クバ島は文字通りクバ島を指している。しかし個々の島名をいわず、このように呼んで尖閣列島全体を表現する習慣となっているわけである」という(総理府南方同胞援護会機関誌『沖縄』五六号)。

 牧野は「イーグンクバシマ」は釣魚一島の名ではなくて、釣魚、黄尾両島の琉球名であり、かついわゆる「尖閣列島」の総称でもあるというが、この説は正しいだろうと私は推測する。琉球列島のうち釣魚諸島にもっとも近いのは、八重山群島の西表(いりおもて)島で、およそ九十浬の南方にある。沖縄本島から釣魚島は二百三十浬もある。釣魚島付近に行く機会のあるものは、中国の福州から那覇へ帰る琉球王国の役人その他とその航路の船の乗組員のほかには、琉球では漁民のほかにはないから、地理的関係からみて、八重山群島の漁民が、沖縄群島の漁民よりも、たびたび釣魚諸島に近より、その形状などを知っていたと思われる。それゆえ、八重山で生活している研究家の説を私はとる。

 もし牧野説の方が正しければ、東恩納が「ヨコン・クバシマ」を釣魚一島の名とするのは、かんちがいということになる。そして、一九七〇年の「現在でも」、八重山の古老は魚釣島(釣魚島)をイーグンといい、久場島(黄尾嶼)をクバシマとよんでいるならば、そのことと、一九〇〇年に黒岩が、元は釣魚島をヨコン−−ヨコン(Yokon)・ユクン(Yukun)・イーグン(Yigun)は同じ語であろう−−といい、黄尾嶼をクバシマといったのが、「近年に至り」、そのよび名が入れ替わったと書いているのとは、相いれないように見える。その矛盾は、どう解釈すれば解消するか。十九世紀のある時期までは、釣魚がヨコン(イーグン)、黄尾がクバであり、一九〇〇年ごろは釣魚はクバ、黄尾はヨコン(イーグン)、とよばれ、その後また、いつのころか、昔のように釣魚をヨコン(イーグン)、黄尾をクバとよぶようになって現在に至る、と解するほかにはあるまい。

 何ともややこしい話であるが、とにかく、この両島の琉球名称の混乱は、二十世紀以後もなお、その名称を安定させるほど琉球人とこれらの島との関係が密接ではないということを意味する。もしも、これらの島と琉球人の生活とが、たとえばここに琉球人がしばしば出漁するほど密接な関係をもっているなら、島の名を一定させなければ、生活と仕事の上での漁民相互のコミュニケイションに混乱が生ずるので、自然と一定するはずである。

 現に、生活と仕事の上で、これらの列島と密接な関係をもった中国の航海家や冊封使は、この島の名を「釣魚」「黄尾」「赤尾」と一定している。この下に「島」、「台」、「嶼」、「山」とちがった字をつけ、あるいは釣魚、黄尾、赤尾の魚や尾を略することがあっても、その意味は同じで混乱はない。しかし、生活と密接な関係がなく、ひまつぶしの雑談で遠い無人島が話題になることがある、というていどであれば、その島名は人により、時により、入れちがうこともあろう。ふつうの琉球人にとって、これらの小島はそのていどの関係しかなかったのである。こういう彼らにとっては、「魚釣島」などという名は、いっこうに耳にしたこともない、役人の用語であった。

 那覇出身の東恩納によれば、「ヨコン」とは琉球語で魚の意味であるそうだが、同じ琉球でも八重山の牧野は、前記の「小史」で「イーグンとは魚を突いてとる銛(もり)のことで島の形から来たものと思はれる」という。

 この是非も琉球語を知らない私には全然判断できない。もしもヨコンとイーグンが同語であり、その意味は牧野説の方が正しいとすれば、銛のような形によってイーグン(ヨコン)とつけられた名前が、そうかんたんに、ほかの、それとは形状のまったくちがった島の名と入れ替わるとも思われない。

 黄尾嶼は、全島コバでおおわれており、コバ島というにふさわしいが、その形は銛のような形ではなく、大きな土まんじゆうのような形である。

 釣魚島は南北に短く東西に長い島で、その東部の南側は、けわしい屏風岩が天空高く突出している。これを銛のようだと見られないこともない。しかし、その形容がとりわけピッタリするのは、釣魚島のすぐ東側の、イギリス人がPinnacle(尖塔)と名づけ、日本海軍が「尖頭」と訳した(後述)岩礁である。もしも「イーグン」が銛であるなら、八重山の漁民は、操業中に風向きや潮流の情況により釣魚・尖頭・黄尾の一群の群島の近くに流され、銛の形をした尖頭礁から強い印象をうけ、これらの島を、特定のどれということなく、イーグンと名づけ、また、その中の黄尾嶼の中腹から山頂にかけて全島がクバ(コバ)でおおわれているので、これをクバともいい、この全体をイーグンクバシマとよんだのではないか(ピナクルから釣魚へは西へほぼ三浬、黄尾へは北へやく十三浬、そして黄尾と釣魚の間はやく十浬で、これを一群の島とする。赤尾は黄尾から四十八浬も東へはなれているので、この群には入らない)。

 ただし、イーグンは銛、ヨコン(ユクン)は魚の意味で、この二つは別の語であるなら、またちがった考え方をしなければならないが、私にはそこまで力が及ばない。

 『南島風土記』はまた、『指南広義』に、那覇から福州へ行くのに、「『那覇港ヲ出デ、申(さる)ノ針(西々南の羅針)ヲ用ヒテ放洋ス、辛酉(かのととり)(やや北よりの東)ノ針ヲ用ヒテ一更半(一更は航程六〇華里)ニシテ、古米山並ニ姑巴甚麻(くばしま)山ヲ見ル』とある『姑巴甚麻』は、これ(釣魚島)であろう」という。これは東恩納ともあろう人に似合わない思いちがいである。この「姑巴甚麻山」は、久米島の近くの久場島(また木場島、古場島)で、『中山傳信録』その他に「姑巴訊(正しくはさんずいへんであるが、JIS漢字に無いためごんべんで代用する−巽)麻山」と書かれている島のことでなければ、地図と照合しないし、那覇から福州への正常な航路で、釣魚島を目標に取ることもありえない。それゆえ、右の引用文によって、釣魚島が、『指南広義』の書かれたころ(一七〇八年)からすでに、コバシマと琉球人によばれていたということはできない。

 要するに、釣魚島が琉球人に「コバシマ」(クバシマ)とよばれるようになったのは何時ごろのことか、推定する手がかりはない。また、「ヨコン」(ユクン)あるいは「イーグン」といわれはじめた年代を推定する手がかりもない。さらに琉球人が黄尾嶼を久場島といい、赤尾嶼を久米赤島とよんだのも、いつごろからのことか、確定はできない。ただこの二つの名は、文献の上では、私の知り得たかぎり、琉球の文献ではなくて中国の清朝の最後の冊封使の記録に出てくる。

 すなわち一八六六年(清の同治五年、日本の慶応二年)の冊封使趙新(ちょうしん)の使録『続琉球国志略』(註)の巻二「針路」の項に、彼の前の冊封使の航路を記述した中で、道光十八年(一八三八年)五月五日、福州から海に出て、「六日未刻(ひつじのこく)、釣魚山ヲ取リ、申(さる)刻、久場島ヲ取ル……七日黎明、久米赤島ヲ取ル、八日黎明、西ニ久米島ヲ見ル」と書いてある。そして趙新自身の航路についても、同治五年六月九日、福州から海に出て、「十一日酉(とり)刻、釣魚山ヲ過ギ、戌(いぬ)刻、久場島ヲ過グ、……一二日未(ひつじ)刻、久米赤島ヲ過グ」という。この久場島と久米赤島は、それぞれ黄尾嶼と赤尾嶼に当る。

 (註)斉鯤の使録と同名であるが、著者も著作年代も巻数もちがう別の本である。

 趙新がどうして中国固有の島名を用いないで、日本名を用いたのか、その理由はわからない。しかし、彼はその船の琉球人乗組員が久場島とか久米赤島とかいうのを聞いていたから、その名で黄尾嶼・赤尾嶼を記載したのであろう。そうだとすれば、琉球人が、それらの名称を用いたのは、おそくも十九世紀の中頃までさかのぼらせることはできよう。また、黄尾・赤尾について日本名を用いた趙新が、釣魚については依然として中国固有の名を用いているのは、その船の琉球人乗組員も、まだこの島については、ヨコンともユクンまたはイーグンとも名づけていなかったのか、あるいは彼らはすでにそうよんでいても、それに当てるべき漢字がなかったので、趙新は従来通りの中国表記を用いたのであろうか。

 また、琉球では、元来は釣魚をヨコンといい、黄尾をクバとよんでいたのが、「近年に至り」その名が入れ替わったという黒岩の説と趙新使録の記述とを合わせ考えれば、黒岩のいう「近年」とは、明治維新以後のいつごろかからであることがわかる。

 いずれにしても、琉球人が釣魚諸島の島々を琉球語でよびはじめたのは、文献の上では十九世紀中頃をさかのぼることはできない。彼らは久しく中国名を用いていたであろう。それはそのはずである。彼らがこの島に接したのは、まれに漂流してこの島々を見るか、ここに漂着した場合か、もしくは、中国の福州から那覇に帰るときだけであって、ふつうには琉球人と釣魚諸島とは関係なかった。冊封使の大船でも、那覇から中国へ帰るときには、風向きと潮流に規制されて、久米島付近からほとんどまっすぐに北上して、やがて西航するのであって、釣魚諸島のそばを通ることはないし、まして、小さな琉球漁船で、逆風逆流に抗して、釣魚諸島付近に漁業に出かけることは、考えられもしなかった。したがって、この島々の名称その他に関する彼らの知識は、まず中国人から得たであろう。そして、琉球人が琉球語でこれらの島の名をよびはじめてから後でも、上述のように、明治維新後もその名はいっこうに一定しなかった。それほど、この島々と琉球人の生活とは関係が浅かった。

 次の節であげるイギリス軍艦「サマラン」の艦長バルチャーの航海記には、同艦が一八四五年六月十六日、黄尾嶼を測量した記事がある。その中に、同嶼の洞穴に、いく人かの漂流者の一時の住いのあとがあったことをのべている。バルチャーは、「その漂流者たちは、その残してある寝床が、Canoe(カヌー、丸木船)に用いる材料とびろうの草でつくられていることから察して、明らかにヨーロッパ人ではない」という。漂民たちは、天水を飲み、海鳥の卵と肉を食って生きていたろうとバルチャーは推測している。この遭難者たちは、福建あるいは台湾あたりの中国人か、それとも琉球人であろうか。洞穴内に彼らの遺体が無いことから察すれば、彼らは幸運にも、救助されたのであろうか。もし救けられたとすれば、誰が彼らを救い出したのだろうか。中国人の大きな船が救いだした公算は、琉球の小舟が救う公算より大きい。

 これまでの各節により、釣魚諸島はおそくとも明の時代から中国領であったことが、中国人はもとより琉球人、日本人にも確認されていたことが明らかにされたが、琉球人は、この列島のことをどう見ていたか。釣魚諸島の名が見える琉球人の書物は向象賢の『琉球国中山世鑑』と程順則の『指南広義』の二種しか現在までに知られておらず、その両書ともこれらの島を中国名で記載し、中国領と見なしていたことは、すでにのべた。この外に、文献ではなくても、釣魚諸島についての琉球人の口碑伝説が何かあるだろうか。

 『地学雑誌』の第一二輯第一四〇〜一四一巻(一九〇〇年八〜九月)にのった沖縄県師範学校教諭黒岩恒の論文「尖閣列島探険記事」には、明治十八年(一八八五年)九月十四日付で、沖縄県美里間切(まきり)詰め山方筆者大城永常が、県庁にさしだした報告書を引用しているが、それには、「魚釣(よこん)島と申所は久米島より午未(うまひつじ)の間(南々西)にこれ有り、島長一里七、八合程、横八、九合程、久米島より距離百七、八里程」とある。この島は、位置と地形から見て釣魚島であることは明らかだが、そうだとすれば、琉球ではこの当時、漢字では中国語の釣魚島を日本語におきかえた魚釣島と書き、琉球語で「ヨコン」とよんでいたことになる。また同年九月二十二日付で、沖縄県令西村捨三が山県内務卿に上げた上申書(註)は、「久米赤嶋、久場島及ビ魚釣島ハ、古来本県ニ於テ称スル所ノ名ニシテ……」という。この久米赤嶋は中国文献の赤尾嶼、久場島は黄尾嶼であることは後文で資料をあげる。魚釣島は釣魚島である。

 (註)『日本外交文書』第一八巻「雑件」の「版図関係雑件」。全文は第一一節に示す。

 県令の上申書では、「古来」、このようによんでいたというが、釣魚島を魚釣島というのは、琉球王国をほろぼして沖縄県とした天皇政府の役人が考えついたことであって、琉球人民のよび方は、「ヨコン」(あるいはユクンもしくはイーグン)といっただけであろう。その一証拠として、前記の「尖閣列島探険記事」のつぎの記述をあげることができる。

 「釣魚島、一に釣魚台に作る。或は和平山の称あり。海図にHoa-pin-suと記せるもの是なり(本章末の付註を参照−−井上)。沖縄にては久場島を以てす。されど本島探険(沖縄人のなしたる)の歴史に就きて考ふる時は、古来『ヨコン』の名によって沖縄人に知られしものにして、当時に在っては、久場島なる名称は、本島の東北なる黄尾嶼をさしたるものなりしが、近年に至り、如何なる故にや、彼我称呼を互換し、黄尾嶼を『ヨコン』、本島を久場と唱ふるに至りたれば、今俄かに改むるを欲せず。」

 ここには、釣魚島が琉球では「魚釣」島と書かれていたとも、よばれていたとも、のべてはいない。琉球人は、もとはこの島を「ヨコン」といい、黄尾を「クバ」といったのが、最近はなぜか、その名が入れ替ったというだけである。

 さらに、沖縄本島那覇出身の琉球学の大家東恩納寛惇の『南島風土記』(一九四九年五月序)にも、「釣魚島」とあって魚釣島とは書いてない。またその島について同書は、「沖縄漁民の間には、夙(はや)くから『ユクン・クバシマ』の名で著聞しているが、ユクンは魚島、クバシマは蒲葵(こば)島の義と云はれる」という。これでは、ユクン(あるいはヨコン)が元の名か、クバシマが元の名かわからない。

 また石垣市の郷土史家牧野清の「尖閣列島(イーグンクバシマ)小史」には「八重山の古老たちは、現在でも尖閣列島のことを、イーグンクバシマとよんでいる。これは二つの島の名を連ねたもので、イーグン島は魚釣島のことであり、クバ島は文字通りクバ島を指している。しかし個々の島名をいわず、このように呼んで尖閣列島全体を表現する習慣となっているわけである」という(総理府南方同胞援護会機関誌『沖縄』五六号)。

 牧野は「イーグンクバシマ」は釣魚一島の名ではなくて、釣魚、黄尾両島の琉球名であり、かついわゆる「尖閣列島」の総称でもあるというが、この説は正しいだろうと私は推測する。琉球列島のうち釣魚諸島にもっとも近いのは、八重山群島の西表(いりおもて)島で、およそ九十浬の南方にある。沖縄本島から釣魚島は二百三十浬もある。釣魚島付近に行く機会のあるものは、中国の福州から那覇へ帰る琉球王国の役人その他とその航路の船の乗組員のほかには、琉球では漁民のほかにはないから、地理的関係からみて、八重山群島の漁民が、沖縄群島の漁民よりも、たびたび釣魚諸島に近より、その形状などを知っていたと思われる。それゆえ、八重山で生活している研究家の説を私はとる。

 もし牧野説の方が正しければ、東恩納が「ヨコン・クバシマ」を釣魚一島の名とするのは、かんちがいということになる。そして、一九七〇年の「現在でも」、八重山の古老は魚釣島(釣魚島)をイーグンといい、久場島(黄尾嶼)をクバシマとよんでいるならば、そのことと、一九〇〇年に黒岩が、元は釣魚島をヨコン−−ヨコン(Yokon)・ユクン(Yukun)・イーグン(Yigun)は同じ語であろう−−といい、黄尾嶼をクバシマといったのが、「近年に至り」、そのよび名が入れ替わったと書いているのとは、相いれないように見える。その矛盾は、どう解釈すれば解消するか。十九世紀のある時期までは、釣魚がヨコン(イーグン)、黄尾がクバであり、一九〇〇年ごろは釣魚はクバ、黄尾はヨコン(イーグン)、とよばれ、その後また、いつのころか、昔のように釣魚をヨコン(イーグン)、黄尾をクバとよぶようになって現在に至る、と解するほかにはあるまい。

 何ともややこしい話であるが、とにかく、この両島の琉球名称の混乱は、二十世紀以後もなお、その名称を安定させるほど琉球人とこれらの島との関係が密接ではないということを意味する。もしも、これらの島と琉球人の生活とが、たとえばここに琉球人がしばしば出漁するほど密接な関係をもっているなら、島の名を一定させなければ、生活と仕事の上での漁民相互のコミュニケイションに混乱が生ずるので、自然と一定するはずである。

 現に、生活と仕事の上で、これらの列島と密接な関係をもった中国の航海家や冊封使は、この島の名を「釣魚」「黄尾」「赤尾」と一定している。この下に「島」、「台」、「嶼」、「山」とちがった字をつけ、あるいは釣魚、黄尾、赤尾の魚や尾を略することがあっても、その意味は同じで混乱はない。しかし、生活と密接な関係がなく、ひまつぶしの雑談で遠い無人島が話題になることがある、というていどであれば、その島名は人により、時により、入れちがうこともあろう。ふつうの琉球人にとって、これらの小島はそのていどの関係しかなかったのである。こういう彼らにとっては、「魚釣島」などという名は、いっこうに耳にしたこともない、役人の用語であった。

 那覇出身の東恩納によれば、「ヨコン」とは琉球語で魚の意味であるそうだが、同じ琉球でも八重山の牧野は、前記の「小史」で「イーグンとは魚を突いてとる銛(もり)のことで島の形から来たものと思はれる」という。

 この是非も琉球語を知らない私には全然判断できない。もしもヨコンとイーグンが同語であり、その意味は牧野説の方が正しいとすれば、銛のような形によってイーグン(ヨコン)とつけられた名前が、そうかんたんに、ほかの、それとは形状のまったくちがった島の名と入れ替わるとも思われない。

 黄尾嶼は、全島コバでおおわれており、コバ島というにふさわしいが、その形は銛のような形ではなく、大きな土まんじゆうのような形である。

 釣魚島は南北に短く東西に長い島で、その東部の南側は、けわしい屏風岩が天空高く突出している。これを銛のようだと見られないこともない。しかし、その形容がとりわけピッタリするのは、釣魚島のすぐ東側の、イギリス人がPinnacle(尖塔)と名づけ、日本海軍が「尖頭」と訳した(後述)岩礁である。もしも「イーグン」が銛であるなら、八重山の漁民は、操業中に風向きや潮流の情況により釣魚・尖頭・黄尾の一群の群島の近くに流され、銛の形をした尖頭礁から強い印象をうけ、これらの島を、特定のどれということなく、イーグンと名づけ、また、その中の黄尾嶼の中腹から山頂にかけて全島がクバ(コバ)でおおわれているので、これをクバともいい、この全体をイーグンクバシマとよんだのではないか(ピナクルから釣魚へは西へほぼ三浬、黄尾へは北へやく十三浬、そして黄尾と釣魚の間はやく十浬で、これを一群の島とする。赤尾は黄尾から四十八浬も東へはなれているので、この群には入らない)。

 ただし、イーグンは銛、ヨコン(ユクン)は魚の意味で、この二つは別の語であるなら、またちがった考え方をしなければならないが、私にはそこまで力が及ばない。

 『南島風土記』はまた、『指南広義』に、那覇から福州へ行くのに、「『那覇港ヲ出デ、申(さる)ノ針(西々南の羅針)ヲ用ヒテ放洋ス、辛酉(かのととり)(やや北よりの東)ノ針ヲ用ヒテ一更半(一更は航程六〇華里)ニシテ、古米山並ニ姑巴甚麻(くばしま)山ヲ見ル』とある『姑巴甚麻』は、これ(釣魚島)であろう」という。これは東恩納ともあろう人に似合わない思いちがいである。この「姑巴甚麻山」は、久米島の近くの久場島(また木場島、古場島)で、『中山傳信録』その他に「姑巴訊(正しくはさんずいへんであるが、JIS漢字に無いためごんべんで代用する−巽)麻山」と書かれている島のことでなければ、地図と照合しないし、那覇から福州への正常な航路で、釣魚島を目標に取ることもありえない。それゆえ、右の引用文によって、釣魚島が、『指南広義』の書かれたころ(一七〇八年)からすでに、コバシマと琉球人によばれていたということはできない。

 要するに、釣魚島が琉球人に「コバシマ」(クバシマ)とよばれるようになったのは何時ごろのことか、推定する手がかりはない。また、「ヨコン」(ユクン)あるいは「イーグン」といわれはじめた年代を推定する手がかりもない。さらに琉球人が黄尾嶼を久場島といい、赤尾嶼を久米赤島とよんだのも、いつごろからのことか、確定はできない。ただこの二つの名は、文献の上では、私の知り得たかぎり、琉球の文献ではなくて中国の清朝の最後の冊封使の記録に出てくる。

 すなわち一八六六年(清の同治五年、日本の慶応二年)の冊封使趙新(ちょうしん)の使録『続琉球国志略』(註)の巻二「針路」の項に、彼の前の冊封使の航路を記述した中で、道光十八年(一八三八年)五月五日、福州から海に出て、「六日未刻(ひつじのこく)、釣魚山ヲ取リ、申(さる)刻、久場島ヲ取ル……七日黎明、久米赤島ヲ取ル、八日黎明、西ニ久米島ヲ見ル」と書いてある。そして趙新自身の航路についても、同治五年六月九日、福州から海に出て、「十一日酉(とり)刻、釣魚山ヲ過ギ、戌(いぬ)刻、久場島ヲ過グ、……一二日未(ひつじ)刻、久米赤島ヲ過グ」という。この久場島と久米赤島は、それぞれ黄尾嶼と赤尾嶼に当る。

 (註)斉鯤の使録と同名であるが、著者も著作年代も巻数もちがう別の本である。

 趙新がどうして中国固有の島名を用いないで、日本名を用いたのか、その理由はわからない。しかし、彼はその船の琉球人乗組員が久場島とか久米赤島とかいうのを聞いていたから、その名で黄尾嶼・赤尾嶼を記載したのであろう。そうだとすれば、琉球人が、それらの名称を用いたのは、おそくも十九世紀の中頃までさかのぼらせることはできよう。また、黄尾・赤尾について日本名を用いた趙新が、釣魚については依然として中国固有の名を用いているのは、その船の琉球人乗組員も、まだこの島については、ヨコンともユクンまたはイーグンとも名づけていなかったのか、あるいは彼らはすでにそうよんでいても、それに当てるべき漢字がなかったので、趙新は従来通りの中国表記を用いたのであろうか。

 また、琉球では、元来は釣魚をヨコンといい、黄尾をクバとよんでいたのが、「近年に至り」その名が入れ替わったという黒岩の説と趙新使録の記述とを合わせ考えれば、黒岩のいう「近年」とは、明治維新以後のいつごろかからであることがわかる。

 いずれにしても、琉球人が釣魚諸島の島々を琉球語でよびはじめたのは、文献の上では十九世紀中頃をさかのぼることはできない。彼らは久しく中国名を用いていたであろう。それはそのはずである。彼らがこの島に接したのは、まれに漂流してこの島々を見るか、ここに漂着した場合か、もしくは、中国の福州から那覇に帰るときだけであって、ふつうには琉球人と釣魚諸島とは関係なかった。冊封使の大船でも、那覇から中国へ帰るときには、風向きと潮流に規制されて、久米島付近からほとんどまっすぐに北上して、やがて西航するのであって、釣魚諸島のそばを通ることはないし、まして、小さな琉球漁船で、逆風逆流に抗して、釣魚諸島付近に漁業に出かけることは、考えられもしなかった。したがって、この島々の名称その他に関する彼らの知識は、まず中国人から得たであろう。そして、琉球人が琉球語でこれらの島の名をよびはじめてから後でも、上述のように、明治維新後もその名はいっこうに一定しなかった。それほど、この島々と琉球人の生活とは関係が浅かった。

 次の節であげるイギリス軍艦「サマラン」の艦長バルチャーの航海記には、同艦が一八四五年六月十六日、黄尾嶼を測量した記事がある。その中に、同嶼の洞穴に、いく人かの漂流者の一時の住いのあとがあったことをのべている。バルチャーは、「その漂流者たちは、その残してある寝床が、Canoe(カヌー、丸木船)に用いる材料とびろうの草でつくられていることから察して、明らかにヨーロッパ人ではない」という。漂民たちは、天水を飲み、海鳥の卵と肉を食って生きていたろうとバルチャーは推測している。この遭難者たちは、福建あるいは台湾あたりの中国人か、それとも琉球人であろうか。洞穴内に彼らの遺体が無いことから察すれば、彼らは幸運にも、救助されたのであろうか。もし救けられたとすれば、誰が彼らを救い出したのだろうか。中国人の大きな船が救いだした公算は、琉球の小舟が救う公算より大きい。

八 いわゆる「尖閣列島」は島名も区域も一定していない
 琉球人が、琉球語で釣魚諸島の島々をヨコン(イーグン)とかクバとかよぶようになっても、彼らがこれを「尖閣列島」とよんだことは、一九〇〇年以前には一度もない。この名は、じつに西洋人がこの群島の一部につけた名をもとにして、一九〇〇年につけられたものである。

 西洋人が釣魚諸島の存在を何時ごろから知るようになったか、それについて私も多少の考証はしているが、本論文にはそこまで書く必要はあるまい。確実に言えることは、十九世紀の中頃には、釣魚島をHOAPIN−SAN(または−SU)、黄尾嶼をTIAU−SUというのは、すでに西洋人の地図の上では定着していたということである。また、彼らは釣魚島の東側にある大小の岩礁群をPINNACLE GROUPSまたはPINNACLE ISLANDSとよんでいた。

 イギリス軍艦「サマラン」(SAMARANG)は、一八四五年六月、恐らく世界で最初に、この諸島を測量しているが、その艦長サー・エドワード・バルチャー(Sir Edward Balcher)の航海記(註)に、十四日、八重山群島の与那国島の測量を終えた同艦は、そこからいったん石垣島に立ちもどり、その夕方「海図上のHOAPIN−SAN群島をもとめて航路を定めた」という。このホアピンサンは釣魚島のことである。

 (註)"NARRATIVE OF THE VOYAGE OF HMS SAMARANG DURING THE YEARS 1843〜46", by CAPTAIN SIR EDWARD BALCHER : LONDON 1848.

 サマラン号は、その翌日、PINNACLE ISLANDS(ピナクル諸嶼)を測量し、十六日、TIAU−SU(黄尾嶼)を測量した。これらの測量の結果は、一八五五年に海図として出版されている(註)。この海図およびサマラン艦長の航海記の記述が、この後のイギリス海軍の海図および水路誌のホアピン・スーとチアウ・スーの記述の基礎になっていると思われる。

 (註)"THE ISLANDS BETWEEN FORMOSA AND JAPAN WITH THE ADJACENT COAST OF CHINA" 1855.

 そして、明治維新後の日本海軍の『水路誌』のこの海域の記述は、最初はほとんどもっぱらイギリス海軍の水路誌を典拠としていたようである。

 さきに引用した総理府の南方同胞援護会機関誌『沖縄』には、一八八六年(明治十九年)三月刊行の海軍省水路局編纂発行『寰瀛水路誌』巻一、下、第十篇の釣魚諸島に関する記述がある。

 この「編纂縁起」によれば、「其第十編ハ即チ洲南諸島ニシテ、明治六年海軍大佐柳楢悦ノ実験筆記ニ拠リ、支那海針路誌第四巻(一八八四年英国海軍水路局編集刊行、第二版−−井上)及ビ沖縄志ヲ以テ之ヲ補フ」という。

 右にいう柳大佐の「実験筆記」も「沖縄志」も私は見ていないが、この水路誌は釣魚島を「和平山(ホアピンサン)島」と漢字で書いて英語名のルビをつけ、黄尾嶼は「低牙吾蘇(チヤウス)島」、赤尾嶼は「爾勒里(ラレリ)岩」と書いている。これらは、それぞれ、Hoapin-San, Tiau-Su, Raleigh Rockと、前記英国軍艦サマラン号の航海記に書かれている島嶼のことであり、これが一八八四年版の『英国海軍水路誌』によるものであることは明らかである。

 なお、前掲の雑誌『沖縄』に抄録されている日本海軍の水路誌は、この後も上記の島々を、以下のように書いている。

 一八九四年(明治二十七年)七月刊『日本水路誌』第二巻は、カタカナで「ホアピンス島」、「チャウス島」、「ラレー岩」と記す。

 一九〇八年(明治四十一年)十月の第一改版『日本水路誌』第二巻は、「魚釣島(Hoapin-Su),「黄尾嶼(Tiau-Su),「赤尾嶼(Raleigh Rock)」とする。すなわち、釣魚島を当時の内務省などと同じく「魚釣島」とし、黄尾、赤尾は漢字で中国の古来の名称通り書き、いずれもその下に英語名を書いてある。黄尾を久場島とし赤尾を久米赤島とするなどの琉球名はつけていない。この点はこの後も一貫している。これにより、「魚釣島」だけが日本の役所で一定共通の名となったが、他の島は、海軍と内務省とでもちがっていたことがわかる。

 一九一九年(大正八年)七月刊『日本水路誌』第六巻では、「魚釣島」、「黄尾嶼」、「赤尾嶼」とだけ書く。これまであった英語名はすっかりなくなった。 一九四一年(昭和十六年)三月刊行『台湾南西諸島水路誌』も、「魚釣島」、「黄尾嶼」、「赤尾嶼」と書くが、何故か赤尾嶼だけには「赤尾嶼(セキビ)」としている。あるいはこれは雑誌『沖縄』にこれを抄録したさいに、こうなったのであろうか。

 古くから日本にも知られている釣魚諸島の名称を、その中国名でも、また琉球名でも記載せず、イギリス名で記載するほどイギリス一辺倒の初期の日本海軍水路誌の釣魚島に関する説明は、イギリス海軍水路誌のもとになったサマラン号航海記の記述と、文章までほとんど同じである。

 サマラン号の航海記の一節(第一巻第九章、三一八ぺージ)を、なるベく直訳して次にかかげよう。これをAとする。

 「ホアピン・サンの最高点は一、一八一フィートである。島の南側は、この高さからほとんど垂直に西北西の方向に断ち切られている。その他の部分は東向きに傾斜しており、その斜面には、良質の水の細流がたくさんある。居住者または来訪者の痕跡は全然なかった。じっさい土地は半ダースの人を容れるにも不十分である。」

 「艦上から見たこの島の上部の地層は、北東に深く傾斜した層理の線を示していた。そのために水流は容易に北東側の海岸に流れる。この水の供給が一時的なものでないことは、多くの天然の池に、淡水魚がいることによって明らかである。そしてその池は、ほとんどみな海に連結しており、水草がいっぱい茂っていて、池をおおいかくしている。」

 次は一八九四年六月版の『日本水路誌』第二巻の一節である。これをBとする。

 「此島の南側最高処(一、一八一呎(フィート))より西北に向へる方は、削断せし如き観を呈す。此島に淡水の絶ゆることなきは、諸天然池に淡水魚の生育せるを以て知るべし。而して此池は皆海と連絡し、水面には浮萍一面に茂生す。(中略)此島は地六、七名の人を支ふるにも不十分にして、人居の跡なし。」

 AとBを比べれば、Bの『日本水路誌』の記述は、サマラン航海記のAの部分をたいへん上手に簡潔に翻訳しているといってもいいくらいである。

 以上によって、明治維新後の日本人の釣魚諸島に関する科学的知識は、ほとんどみなイギリス海軍の書物や図面によって得られたものであることがわかる。そして、尖閣列島という名も、イギリス海軍のいうPinnacle Islandsを、日本海軍が「尖閣群島」あるいは「尖頭諸嶼」と翻訳したことに由来する。

 『寰瀛水路誌』には、Pinnacle Islandsのことを「尖閣群島」と漢字で書き、その横に「ピナクルグロース」とルビをつけている。この「グロース」はグループス(Groups)のPの音が脱落したものであろう。これが一八九四年の『日本海軍水路誌』第二巻では「ピンナクル諸嶼」となり、一九〇八年の水路誌では「尖頭諸嶼」となっている。「ピナクル」とは元来はキリスト教会の尖塔形の屋根のことをいう。釣魚島の東側の列岩の中心の岩礁の形が、ピナクル形であるので、イギリス人が、この列岩を Pinnacle Islands と名づけたのであろう。それを日本海軍で尖閣群島または尖頭諸嶼と訳したわけである。

 そして、釣魚島、尖閣群島(尖頭諸嶼)および黄尾嶼を総称して、「尖閣列島」というのは、すでに再三言及した黒岩恒が一九〇〇年にこう名づけたことに始まる。彼は一八九八年(明治三十一年)に『地質学雑誌』第五巻に「尖閣群島」という文章をのせていることが、大城昌隆編『黒岩恒先生顕彰記念誌』の「年譜」にのっているが、私はまだその論文を見ていないので、その地名がどの範囲をさすか知らない。彼は前に引いた一九〇〇年の報告、「尖閣列島探険記事」で、次のように書いている。

 「ここに尖閣列島と称するは、我沖縄島と清国福州との中央に位する一列の小嶼にして、八重山列島の西表(いりおもて)島を北に距る大凡九十哩内外の位置に在り。本列島より沖縄島への距離は二百三十哩、福州への距離もまた略(ほぼ)相似たり。台湾島の基隆へは僅に二百二十余哩を隔つ。帝国海軍省出版の海図(明治三十年刊行)を案ずるに、本列島は、釣魚嶼、尖頭諸嶼、及び黄尾嶼より成立し渺(びょう)たる蒼海の一粟なり。(中略)而して此列島には未だ一括せる名称なく、地理学上不便少なからざるを以て、余は窃かに尖閣列島なる名称を新設することとなせり。」

 尖閣列島の名は、『地学雑誌』のこの論文によって、はじめて地理学界に広く知られるようになった。それ以前にはこういう名称はない。

 しかるに奥原は前にあげた論文に、『寰瀛水路誌』を引用し、それにすでに「尖閣群島」とあるとだけ書き、あたかもこの名が黒岩の名づけた「尖閣列島」と同じ範囲であるかのように、読者に印象づけようとしている。この尖閣群島がピナクル諸嶼であることは、奥原は百も承知であるのに、わざとあいまいな書き方をするのである。

 また、例の琉球政府の「尖閣列島の領土権について」の声明は、「明治十四年に刊行、同十六年に改訂された内務省地理局編纂の大日本府県分割図には、尖閣列島が、島嶼の名称を付さないままにあらわれている」というが、この『大日本府県分割図』の沖縄県の地図には、「尖閣列島」なるものはない、「尖閣群島」があるだけである。そしてその「群島」は、ピナクル諸嶼のことである。それをあたかも今日のいわゆる尖閣列島の名がすでに、その当時あって、それが地図上で沖縄県に入っているかのようにみせかけるのは、琉球政府も、まことにつまらぬ小細工をするものである。

 さらに、いっそうこっけいなのは、日本社会党国際局の「尖閣列島の領有問題についての社会党の統一見解案」である。それは、多分琉球政府の右の声明をうのみにしただけで、じっさいにその地図を見て検討することもなく、「尖閣群島」(ピナクル諸嶼)と黒岩の名づけた尖閣列島との混同の上に立って、「いわゆる尖閣列島は、一八八一年(明治十四年)、当時の政府内務省地理局の手により、沖縄県下に表示されるなど、一連の領有意思の表示をへて」などというのである。この地図のどこに「尖閣列島」領有の意思があろう。

 さて、黒岩がこの人さわがせな名をつけた尖閣列島の範囲は、彼が明記している通り、釣魚島、ピナクル諸嶼および黄尾嶼の総称であって、赤尾嶼はふくんでいない。それは地理学的には当然のことで、赤尾嶼は黄尾嶼から四八浬もはなれているので、釣魚などと一群をなしているのではなく、黒岩の前記報告も、この島については一言もしていない。そして、琉球政府が一九七〇年九月十日に発表した「尖閣列島の領有権及び大陸棚資源の開発権に関する主張」は、「北緯二十五度四十分から二十六度、東経百二十三度二十分から百二十三度四十五分の間に散在する尖閣列島」という。この範囲は、黒岩が名づけた尖閣列島と同じ範囲で、赤尾嶼(北緯二五度五五分、東経一二四度二四分)はふくんでいない。

 しかし、同じ琉球政府が右の声明の一週間後に出した、たびたび引用する「尖閣列島の領土権について」という声明では、「明治二十八年一月の閣議決定は、魚釣島(釣魚島−−井上)と久場島(黄尾嶼−−井上)に言及しただけで、尖閣列島は、この島の外に、南小島及び北小島と沖の北岩、沖の南岩ならびに飛瀬と称する岩礁(南小島から飛瀬までは、ピナクル諸嶼のこと)、それに久米赤島(赤尾嶼−−井上)から成っております」という。琉球政府も、尖閣列島の範囲について、赤尾嶼を入れたり出したり、いっこうに定まらない。

 以前の海軍水路部あたりは、はっきりしているかと思うと、これも、さに非ず。一九〇八年までの水路誌には、釣魚、黄尾とその間のピナクル諸嶼を総括する名称も、それに赤尾を加えて総括する名称も、全然記載されていない。ところが、一九一八年の水路誌には、「尖頭諸嶼」という名称で、「尖頭諸嶼ハ沖縄群島ト支那福州トノ略中央ニ在リ、……、黄尾嶼、魚釣島、北小島、南小島及沖ノ北岩、沖の南岩ヨリ成ル。魚釣島ハ其最大ナルモノナリ」という。

 上記の北小島から沖の南岩までの岩礁はピナクル諸嶼のことであり、同じ水路誌が、一九〇八年九月には「尖頭諸嶼(Pinnacle Is.)」と記し、一八九四年七月には「ピンナクル諸嶼」、そして一八八六年には「尖閣群島(ピンナツクルグロース)」と記したものである。それが、一九一九年には、前記の通り、黒岩恒の名づけた「尖閣列島」と同じ区域をさすことになっている。さらに右の水路誌は「此等諸嶼ハ位置ノ関係上古来琉球人ニ知ラレ、尖頭諸嶼、尖閣列島、或ハ Pinnacle Islands 等ノ名称ヲ有ス」と、念入りの説明をしているが、ここでは、黒岩の命名した尖閣列島も、イギリス海軍のつけたピナクル・アイランヅも、またその訳語として日本海軍水路部自身が以前に用いた「尖頭諸嶼」も、何もかもごたまぜにしている。

 一九四一年の『台湾南西諸島水路誌』は、一九一九年の水路誌と同じく「尖頭諸嶼」をかかげ、その範囲も、一九年版と同じである。そして「尖頭諸嶼ハ位置ノ関係上、古来琉球人ニ知ラレ、尖閣列島トモ呼バレタリ、外国人ハ之ヲPinnacle Islands と称セリ」という。ここでは、「尖閣列島」というのは、「古来」琉球人にそうよばれていた、この地域の旧名であり、現在は尖頭諸嶼というかのような書き方である。

 いまの日本外務省の本年三月九日の「尖閣列島領有権に関する統一見解」は、「尖閣列島は……明治二十八年一月十四日に現地に標杭を建設するとの閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものである」というからには、明治二十八年の閣議で標杭を建設するとした島、すなわち魚釣島(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)だけとなる。ピナクル諸嶼さえも入らないことになる。もっともピナクル諸嶼は、釣魚と黄尾の間にあるから、これは、とくに言及しなくても、「尖閣」の中にふくまれているものとみなしてもよいが、赤尾嶼はどうしても入らない。しかし、現実には、政府は赤尾嶼も「尖閣列島」の中に入れて中国から盗み取ろうとしている。

 日本共産党の「見解」も、外務省と同じで、「尖閣列島」の範囲を明示しないが、「一八九五年一月に、日本政府が魚釣島、久場島を沖縄県の所轄とすることをきめ、翌九六年四月に尖閣列島を八重山郡に編入し…」という。これでは、「尖閣列島」とは、魚釣島(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)のことをいうと解するほかない。このばあいも、両島の中間のピナクル諸嶼は自動的にふくむとすると、これも黒岩恒の命名した尖閣列島の区域と同じである。ところが声明の後段には、「一九四五年以降、尖閣列島は沖縄の一部としてアメリカ帝国主義の政治的軍事的支配下におかれ、列島中の大正島(赤尾礁または久米赤島)および久場の両島も米軍の射爆場にされ……」という。ここでは赤尾嶼まで「尖閣列島」に入っている。日共の宮本委員長さん、いったい尖閣列島とはどの範囲をいうのか、しっかりした典拠によって明示したらどうですか。

 琉球政府も、日本外務省も、日本共産党も、黒岩恒が地理学的根拠をもって明示した尖閣列島と、黒岩がそれからはずしている赤尾嶼をともに日本領土としたいのだが、彼らといえども、赤尾嶼をふくめた尖閣列島なる名称は、公的にはもとより私的にも、未だかつて存在したことがないのを、内心では知っているので、明確に一義的に尖閣列島とはこの範囲だと言うことができず、まず黒岩のつけた名称をあげて、後でこっそり赤尾嶼をその中に加えるのである。

 領土問題を、こんな風にコソ泥のようにしかあつかえないのは、帝国主義者としても、何とみみっちいことだろう。

 また、黒岩のつけた尖閣列島という地理学的名称は、一度も日本国によって公認されたことはない。それゆえ、軍事的必要から地理の記述には厳密性をもっとも強く要求する海軍の水路誌でさえ、後になると、前記のように尖閣列島とは、その地域の古い名称のことと思いちがいして、その名を用いず、本来はピナクル諸嶼のみの訳名であった「尖頭諸嶼」の名を総称として用いている。ところが、いまの日本政府や琉球政府は、尖閣列島とよぶ。ただしその範囲はでたらめである。日共はそのでたらめ政府に盲従追随するのみである。

 「尖閣列島は歴史的に日本領土であることは、争う余地はない」などと、日本政府、琉球政府、日本共産党、大小の商業新聞はいっせいにいうが、ごらんの通り、その範囲さえ明確でなく、またその名称も「尖閣列島」とも「尖頭諸嶼」ともいって確定しておらず、さらにその列島の個々の島の名称すら、政府機関内ですら魚釣島のほかは一定していない。黄尾嶼は久場島といい、しかもその久場島がある時期は釣魚島であったり他の時期は黄尾嶼であったりする。赤尾嶼はまた久米赤島というかと思うと、いつのまにか大正島ともいう。海軍は黄尾嶼、赤尾嶼というかまたは英語名でしか記録しない。地域の名称もその範囲もはっきりしない領土などというものが、どこにあろう。このことは、たんに名称だけの問題ではなく、政治的実質的に重要な意味がある。これは日本天皇制が、これらの島を「領有」したその仕方、他国領を盗みとったということから、必然に生じた現象である。このことは第一三節で改めて論ずる。

 (付註)イギリスの海図などのHOAPIN-SAN または HOAPIN-SU が釣魚島であり、TIAU-SU が黄尾嶼であることは、地図およびその島に関する記述を見れば明らかである。しかし、これらの名称の由来は、明らかでない。東恩納の『南島風土記』は「海図にホアピンスウとあるのは、黄尾嶼の華音である」という。この説はまちがいであろう。現在中国の共通語で「黄尾」はファンウェイという。また福建地方の語でもウンボエといい、ホアピンあるいはそれに似た音ではない。

 また、黒岩恒は、釣魚島は一名「和平島」ともいうと書いている。もしこれが正しければ、HOAPINは「和平」の中国音をローマ字表記したものといえる。しかし、私は中国の古い文献でこの島を「和平」島(あるいは嶼)と書いてあるのを見たことがない。もしここを「和平」島と書くとすれば、それは、本来中国語でそうよばれていたからではなくて、ローマ字でHOAPINと書かれている中国音に「和平」という字を当てたのであろうか。そして最初にそうしたのは日本海軍の最初の水路誌の作者ではあるまいか。

 あえて私の推測をいえば、「ホアピンスウ」というよび名は、釣魚島から西ヘ二つめの花瓶嶼(ホアピンスウ)の中国音を、西洋人があやまって釣魚島にあてたものであろう。本論文の第三章にあげた『籌海図編』の「沿海山沙図」では、西から東への島の順が、彭加山、釣魚嶼、化瓶山、黄尾山……となっているが、歴代の琉球冊封使録や『中山傳信録』などでは、花瓶嶼、彭隹(佳)山、釣魚台の順でつらなっている。中国人にこういう島名の入れちがいがありえたとすれば、西洋人がまさに釣魚島とあるべき島を花瓶嶼=ホアピンスウの名でよぶことも大いにありうるであろう。そしてその「ホアピン」に「和平」という漢字を日本海軍の翻訳者が当てたのであろう。

 また、TIAU-SUは恐らくは中国語の釣嶼(釣魚嶼の略)のローマ字表記であろう。その字を釣魚島そのものにあてないで、その東北の黄尾嶼にあてたのも、Hoapin-Suを、花瓶嶼の二つ東の釣魚島にあてたのと同じ性質のことであろう。

九 天皇制軍国主義の「琉球処分」と釣魚諸島
 琉球人さえも、「イーグンクバシマ」の存在を知っているというていどで、その島々と日常の関係もなく、まして日本人は、一部の先覚者のほかには、ふつうの武士や民衆は、その存在さえも知らなかった幕末期に、釣魚諸島を日本領だと称して領有しようとするこころみなどのあるわけもなかった。

 幕末の騒乱期にも、徳川幕府は、南方では伊豆南方の無人島(小笠原島)を、イギリス、アメリカと争って日本領にとりこもうとし、北方では樺太における日本領とロシア領の境界について、ロシアに一歩も譲らず対抗していた。西方では幕府役人および長州の桂小五郎(後の木戸孝允)らは、一八六〇年代に早くも朝鮮侵略を構想(註)していた。これほど辺境の領土に対する関心が深く、領土拡張の要求もはげしかった幕府であり、その幕府をも「夷狄」に屈従すると攻撃してやまなかった勤王派ではあったが、彼らのうちの誰一人として、琉球を併合しようとか、その清国との関係を断ち切らせようとか考えるものはなかった。まして琉球の先の無人の小島、釣魚諸島については、関心をよせるものさえなかった。

 (註)井上清『日本の軍国主義』U所収「征韓論と軍国主義の確立」にこの具体的事実をあげてある。

 一八六八年(明治元年)、勤王派は徳川幕府を倒して天皇政権をうちたてた。七一年(明治四年)には、諸藩も廃止され、天皇を唯一最高の専制君主とする高度の中央集権の統一国家がつくられた。そのころすでに天皇政府は、朝鮮、台湾、そして琉球を征服する野心をいだいていた。この三地域への天皇制の政策は、たがいに深く関連しており、一体となって天皇制の軍国主義をきわだたせている。そして、その軍国主義が、やがて釣魚諸島にも食指をのばす。それゆえ、天皇政府と釣魚諸島の関係を論ずるに先立ち、琉球処分を中心として、天皇制軍国主義の展開を見ておかねばならない。

 廃藩置県により、島津藩も廃止されたので、天皇政府は、従来島津藩の属領でその封建的植民地であった琉球王国をも、天皇政府の属領になったものとみなした。ただし、琉球王国が清国に朝貢し、清の皇帝から冊封を受けることを禁止したのではなく、従来通り清国と宗属関係を保つことを認めていた。

 この翌七二年、天皇政府は、琉球人民が台湾東岸に漂着してそこの住民に殺された事件(七一年十一月のこと)を利用して、日本人民たる琉球人のために仇をうつと称し、清国領である台湾を侵略しようとした。その侵略を正当化する一つの根拠として、琉球王国は日本領であり、その人民は日本国民であり、清国の属国民ではないとする必要にせまられた。そこで、政府はあれこれと討議したあげく、七二年九月、「琉球尚泰」(琉球国王尚泰とはいわない)を、日本天皇が琉球藩王に封じ、華族に列し、金三万円を賜わるとともに、琉球の外交事務はすべて日本外務省が管轄する、とした。尚泰王自身および王府は、こうされることに強く反対したが、天皇政府は、あるいは威圧し、あるいは外務省高官が口頭で、琉球の「国体・政体」は今まで通りでよろしい、その外交事務は本省で管するが、琉球と清国との関係は従来のままでよい、などと甘い言葉でだましたりして、一時をごまかした。

 天皇政府の台湾遠征は、アメリカの駐日公使デ・ロングC.E.de LONG と、彼の推薦により七二年十一月以降外務省の顧問となったアメリカの退役将軍のル・ジャンドルLe GENDREの強力な支援と指導のもとに、七四年(明治七年)七月に強行される。彼らがこれを正当化する口実としたのは、第一は、前記の通り「日本人」が殺されたということ、第二は、その「日本人」を殺した「生蕃」の土地は、現代風にいえば、国際法上の無主地であり、「生蕃」は中国属領民ではないというこじつけであった。この後の論法には、現在の釣魚諸島無主地論の論法と共通する点がある。

 すなわち、当時の外相副島種臣は、台湾遠征を正当化する下地をつくるために、一八七三年北京に行き、六月九日、北京駐在イギリス公使に会った。そのとき公使が、もし清国政府が、台湾はわが属領であるから、政権はわれより加えるといったら、どうするかと問うたのに対し、副島は次のように答えている。

 「此ノ権清ニ在リト云フヲ得ザルノ証跡有リ、生蕃ノ地ニ清国ヨリ嘗テ官吏ヲ派シ置ク事無ク、清ノ輿地図(全国地図)ニ生蕃ノ地名ヲ記載スルヲ見ズ、且ツ数年前、米人曾テ清ノ政府ニ告ゲズシテ彼ノ地ニ入リ、蕃人ト戦ヒ(ル・ジャンドルのことをさす)、又生蕃自ラ米人ト約ヲ結ブコトヲ得タリ。清国モシ彼ヲ属下ト謂ハバ、和戦、結約、彼レガ自ラ為スニ任セ、政府之ヲ知ラズシテ可ナル乎。我ハ此故ヲ以テ、清ノ政府ハ生蕃ノ地に於ケル権ノ及ブ可キ無シト謂へルナリ。」(『日本外交文書』第六巻)

 また六月二十一日、副島は駐清の柳原公使をともない、清国の外交部である総理衙門を訪い、台湾人の琉球人殺害について会談した。そのとき、日本側ではもっぱら柳原公使が発言するが、彼はたくみに相手を誘導して、台湾の「生蕃」は「之ヲ化外ニ置キ甚ダ理スルヲ為サザルナリ」と言わせる。そして柳原は、「貴大臣既ニ生蕃ノ地ハ政教ノ及バザル所ト謂ヒ、又旧来其ノ証跡有リテ、化外孤立ノ蕃夷ナレバ、タダ我ガ独立国ノ処置ニ帰スルノミ」と言い放って、ひきあげた。柳原は、台湾住民の一部に清国の「教化」が及んでいないという儒教的政治思想の概念と、政権が及んでいないという近代国際法的概念とは、全く別の問題であることは百も承知しながら、あえて両者を同一視し、「蛮地」は教化の外だと清国がいうのを、近代国際法にいわゆる実効的支配がなされていない「無主地」であるとこじつけて、侵略を正当化する根拠としたのである。そして、この翌年、台湾侵略を実行した後、清国の、当然の厳重な抗議を受けるが、それにたいしては、清国は「蛮地」は「化外の地」と言ったのではないかという論法で対抗する。

 このような、中国語の概念と表現を近代的概念にねしまげる論法を、陳侃・郭汝霖の使録や『中山傳信録』の、久米島と赤尾嶼に関する記述の解釈に用いたのが、釣魚諸島の無主地論である。

 七四年の台湾侵略のさいは、日本の実力では、まだ清国の実力およびイギリスの動向に抗して、「蛮地」=無主地論をおし通すことはできなかったが、この後、天皇政府の軍国主義と侵略の野望はいっそう強められた。その侵略の当面の目標を、天皇政府は、イギリスの示唆と支持をうけて、天皇政権成立の早々からねらっていた朝鮮に集中する。ところが、朝鮮国王は琉球国王と同様に、以前から形の上では清国に朝貢し、その外臣となっていたのだから、もし日本が、琉球王国を琉球「藩」とした後も、「藩」王の清朝への朝貢・臣属を認めたままでいるならば、そのことは、朝鮮国を完全に清朝の勢力から切りはなし、やがて日本の属領にしようという大政策の妨げにもなり得る。

 そこで一八七五年七月、天皇政府は、琉球「藩」王に、清朝との朝貢・冊封関係をきっぱり断つことを厳命し、かつ、王の上京と「藩」政の大改革を強要した。また琉球王らの反抗を鎮圧するために、那覇の郊外に、琉球人民の土地を強制収用して熊本鎮台(後の師団)の分営を設けた。琉球王や士族らは、これに必死に抵抗し、ひそかに清朝に援助をもとめた。清朝は、日本政府に、清の「属邦」(琉球)の朝貢を禁じたことについて、再三抗議したが、有効な琉球王援助は何もできなかった。

 この間に天皇政府は、七五年九月、軍艦「雲揚」をして、朝鮮の江華島付近の漢江に不法侵入させ島の守備兵を挑発させた。守備兵はついに発砲のよぎなきに至った。天皇政府はただちにその「罪」を問うとして、陸海軍の全力をあげて朝鮮に攻め入る準備をし、その圧力を背景にして、翌七六年二月、朝鮮に最初の「修好条約」をおしつけ、ついで八月、貿易規則をおしつけた。

 それらの条約は、日本が外国におしつけることのできた最初の不平等条約であった。「修好条約」により、日本は朝鮮の釜山その他を開港させ、そこに居留地をもうけ、居留民の治外法権を定めた。貿易規則では、「当分の間」日朝両国とも輸出入関税は無税、そして日本は朝鮮の開港場で日本の通貨(紙幣をふくむ)を以て自由に朝鮮人から物資を買い入れることができると定めた。これは、日本が早くも朝鮮を政治的に従属させ、朝鮮経済を日本資本のほしいままな略奪の場としたことを意味する。しかもこの苛酷な不平等条約の第一条には、空々しくも、「朝鮮国ハ自主ノ邦ニシテ日本国ト平等ノ権ヲ保有セリ」と書いてあった。それは、朝鮮国は清国の属邦ではないということを規定したもので、その裏には、やがては朝鮮を日本の属国にしようとする野望がかくされていた。十一年後の日清戦争の種火は、早くもここに日本によって点火された。

 朝鮮強圧の成功の勢いに乗じて天皇政府は、あくまで清の「属邦」たることをやめようとしない琉球「藩」の「処分」を急いだが、日朝修好条約おしつけの翌年は、政府は西南戦争の大乱を乗切るのに全力をとられた。それにようやく勝利して、そのさしあたりの後始末もほぼかたづいた一八七九年(明治十二年)四月、政府は四百五十名の軍隊と百六十人の警官隊とで、三百年このかた軍隊というものは設けたことのない琉球「藩」王を弾圧して、うむをいわせず藩を廃止し、これを天皇政府直轄の沖縄県とし、旧藩王は強制的に東京に移住させた。

 いわゆる「琉球処分」はここに完了した。これを、もともと琉球人は本土日本人と同一民族でありながら、政治的に分立していたのが、いまや政治的にも単一の日本民族国家に統一されたのだ、と解釈する説が支配的であるが、私はその説には反対である。

 琉球では、十二世紀に最初の小国家が成立し、十四世紀に沖縄本島で三つの国が分立し、十五世紀の末に全土を統一した国家ができるが、それらの国は、日本の歴代の国家権力とは対等につきあう独立国で、十四世紀末から中国の皇帝にだけ朝貢臣属していた。やがて十七世紀初めに島津藩に征服され、以後は島津の苛酷な搾取と支配を受けることになったが、それでも琉球王国はなお独自の国家として存在し、中国の王朝にも朝貢していた。この国が、近代天皇制によって名実ともに独自の国家的存在を奪われ、中国への臣属も断ち切られ、天皇制の植民地にされたのが「琉球処分」の歴史的内容である。私はすでに、この問題を歴史的に、また民族理論的に、くわしく論じて(註)あるので、関心のある人はそれらを見ていただきたい。

 (註)岩波講座『日本歴史』第十六巻「近代」Vにのせた「沖縄」(一九六二年)。中野好夫編『沖縄問題を考える』(一九六八年、東京、太平出版社)に書いた「日本歴史の中の沖縄」。全国解放教育研究会編、雑誌『解放教育』第四号(一九七一年十月号)の小論「沖縄差別とは何か」)。

一〇 日清戦争で日本は琉球の独占を確定した
 一八七二〜七九年の琉球処分の時期の天皇政府は、辺境の帰属問題を解決し、自己の支配領域を確定すると同時に、できればそれを拡張することに夢中であった。「琉球処分」以外の事実を年代順にあげれは、以下のような諸事件がある。 一八七三年九月〜十月、政府内における征韓論の大論争。西郷隆盛ら征韓派の敗退。 一八七四年二月〜十二月、台湾侵略。

 一八七五年五月、ロシアとの千島・樺太交換条約に調印。幕末以来の樺太における日露の領界争いに、日本の大譲歩で結末をつけた。日本は樺太の南半部に対して早くからもっていた権利をすべて放棄し、同島の全部をロシアの領有とする、その代償として、ロシアは千島列島のうちのウルップ島以北という、南樺太とは経済的価値も軍事地理的重要性も、当時としてはけたはずれに低い島々を日本に譲り、エトロフ島以南の元からの日本領と合わせて、千島全島を日本領とすることになった。

 一八七六年二月、朝鮮に日朝修好条約をおしつけ、ついでその付属貿易規則をおしつける。これは、強大なロシアに、領土的利益と国家的威信をともにむしり取られた代償を、弱小の隣国の侵略に見出そうとしたことであり、また前述のように「琉球処分」の推進と切りはなせない。

 一八七六年十月、小笠原諸島を日本政府の管轄とすることを、諸外国に通告した。同島については、イギリスとアメリカが、幕末に無主地の先占による領有権を主張し、日本と対立していた。近代国際法理論のみからいえば、英・米の主張にも、日本におとらないだけの根拠があったので、英・米があくまでもその権利を主張すれば、日本がここを独占することは不可能であったろう。しかし、アメリカ政府はその当時は、遠隔の地に領土をもつことは不利であるとの思想が強く、一八七三年には、小笠原島に関する領有権の主張を全面的にとりやめて日本を支持した。イギリスはなおその権利を主張していたが、これも、その全アジア政策の長期展望に立って、太平洋の小島のことで日本と深く対立するよりも、ここは譲って、日本をイギリスの味方にひきつけ、東アジアにおける大英帝国の前哨として利用する方が有利であると考え、七五年から日本の主張を遠まわしの方法で、みとめた。そのおかげで日本はこの領有権を確立(註)し、上記の通告が可能になった。

(註)このことは、『日本外交文書』第五〜九巻(明治五〜九年)の、小笠原島関係の文書をみれば容易に確認できよう。幕末の幕府と英・米との交渉は、大熊良一『千島小笠原島史稿』を参照。

 上の年代記で明らかな通り、天皇政府は、ロシアやイギリスやアメリカとは対抗できず、これらには全面的に譲歩するか、またはその好意に頼っただけであり、その反面では、朝鮮国、清国および琉球国へは、一貫して強圧、拡張の政策をとって、自己の支配領域を拡張しようとした。しかし、実力の不足はどうしようもない。いったんはむりやり中国との関係を断ち切らせ、「処分」=併合した旧琉球王国領についても、ある条件のもとでは、その一部分を清国にゆずろうとしていた。この琉球分島問題は、釣魚諸島の帰属問題と、この時点では関連はないが、後には重要な関連をもってくるので、かんたんにこの経過をのべておこう。

 日本の「琉球処分」に対しては、琉球王国を数百年来の属国とみなしていた清国は、日本が琉球王の朝貢をさしとめたときから、抗議していた。そして七九年四月四日、日本が完全に琉球を併合すると、五月十日、清国政府は北京駐在の日本公使宍戸(王+幾 たまき)に、日本の処置は承認できないと申し入れた。これより琉球の領有について、日清両国間の一年半にわたる交渉がはじまる。その間に、たまたま東アジアを旅行中のアメリカの前大統領グラントが、清国の依頼により、日清間の調停をこころみたこともあり、まず清国側から、本来の琉球−−「琉球中山」=沖縄本島および「琉球三十六島」−−を三分し、北部の十七世紀以来島津藩に直轄されていた奄美群島を日本領とし、中部の沖縄本島を主とする群島は、元の琉球王の領土として王国を復活させ、南部の宮古・八重山群島は清国領とするという、琉球三分案を出した。

 日本側はこれを一蹴した。それと同時に政府は、琉球を清国との取引きの元手にすることを考えた。すなわち、もし清国がすでに諸外国にあたえている、また将来他国にあたえるであろう「通商の便宜」−−清国内地通商の自由その他−−を、日本人にも一律に均霑(きんてん)させることに同意し、そのことを現行の日清修好条規の追加条約とするならば、その代りに日本は、宮古・八重山群島を清国領とし、沖縄群島以北を日本領として、琉球を二分しようというのである。

 このいわゆる「分島・改約」の日本案に対して、清国政府内では、種々の異論があった。そのときたまたまロシアとの間に、伊犁(いり)地方の国境紛争がおこったので、清国の総理衙門では、琉球問題は日本に譲歩して早く解決し、日清関係を親密にしてロシアを孤立させる方が得策であるとの意見が有力になった。その結果、一八八〇年十月、総理衙門は宍戸公使と、日本案による分島・改約の条約案を議定した。

 ところが、この後で、清国政府内で、またも北洋大臣李鴻章らが強硬に分島・改約に反対した。そのため清国代表は議定した条約案に調印できなくなった。そのうちに十一月一日、中国側は宍戸公使に、分島・改約案については、皇帝が南洋・北洋の両大臣の意見を待った上で、改めて日本側に通告するであろう、といってきた。 宍戸はその不当を責め、翌一八八一年一月五日、中国側に、「貴国はわが好意をしりぞけて、すでに両国代表間で議定したことを、自ら棄てたからには、今後は永遠に、我国の琉球処置について貴国の異議はうけいれない」との趣旨の文書をたたきつけ、憤然として帰国した。

 (註)『日本外交文書』第一三、一四巻「琉球所属に関し日清両国紛議一件」。王芸生『六十年来中国与日本』第一巻。

 琉球分界の日清交渉はこうして決裂したが、日本政府はこのときはまだ、宍戸公使が清国にたたきつけた文書のように、今後琉球問題についてはいっさい清国にとりあわないとの方針を定めていたわけではなかった。宍戸の帰国後も、外務卿井上馨は、天津駐在領事竹添進一郎に、李鴻章と非公式に会談してその腹をさぐらせた。竹添は八一年十二月十四日、李と会談し、その様子を詳細に本省に報告するとともに、李の真意は、宮古・八重山二島を得て、そこに琉球王を復活させたいというにある、日本は李の希望をいれ、その代り日清修好条規の改約を実現するのが上策である、今をおいて日清条約改正の好機はない、と意見具申した。これに対して井上外相は、翌一八八二年一月十八日、竹添領事に、ひきつづき李の意向をさぐるよう訓令し、また政府の分島問題についての次のような考えを知らせた。(『日本外交文書』第一九巻、「日清修好條規通商章程改正ニ関スル件」付記一六)

 宮古・八重山二島を割与するだけで李が満足するなら、「土地ノ儀ニ付テハ当方ニ聊カモ異議コレ無ク候」、また琉球王を立てるというのが、日本の割与した二島に、清国政府が旧琉球王尚泰の親類または子を立てて王とするということなら、これも「別ニ異議ナシ」。しかし、日本がいったん廃王した尚泰その人を、再び日本で王に立てることはできない。

 この後の竹添と李との非公式話し合いの進行状況はわからないが、結果からみると、井上外相の右の考え方の線により再び日清の正式交渉ということにはならなかった。

 ついで、八三年三月、日本政府は来る四月二十九日で満期になる、日清修好条規付属の貿易規則の改定交渉を清国に申し入れた。これに対して五月、清国の駐日公使は井上外相に、日本はこの改約と琉球問題とを一体にして交渉するかどうか、と問うてきた。それに対して外相は、つぎのように答えている。

 琉球問題は、「前年宍戸公使ヲシテ貴政府ト和衷ヲ以テ御商議ニ及バセ候処、貴政府ニテ御聴納コレ無キヨリ、事スデニ九分ニ及ンデ一分ヲ欠キ居候」、この問題と、満期になった貿易規則の改定とは全く別のことであり、当然別に交渉すべきであると、わが政府は考える(『日本外交文書』第一六巻、「日清修好條規通商章程改正ニ関スル件」)。

 この通り、井上外相ないし日本政府も、琉球問題はまだ最終的に解決していないことを認めていた。いいかえれば、八〇年に日清両国代表が議定した分島・改約案に、清国政府がすみやかに調印しないので、以後の交渉を日本側がうち切ったことをもって、その時から琉球全島が日本の独占となったと確定したのではない。琉球問題はまだ交渉すべき懸案であると、日本政府も認めていたのである。

 井上外相の右の回答をうけた清国側は、琉球問題と一体としない貿易規則改定のみの交渉には応ぜず、そのまま一八八六年に至った。この年は、日本の対欧米条約の改正交渉が進行していたので、井上外相は、その交渉を有利にするために、日清条約の改正の促進を強く希望し、三月、公使として北京に赴任する塩田三郎に、現行の日清条約改正の交渉方を訓令した。そのさいとくに、条約改正に琉球問題を決してからめないよう、入念に注意した。塩田公使は四月二十二日から、清国側と条約改正の交渉をはじめた。清国側は、しばしばその交渉に琉球問題をからめてきたが、日本側はそれをたくみにすりぬけた(註)。こうして琉球領有権に関する日清間の対立は、そのまま放置されて、八年後の日清戦争に至る。

 (註)『日本外交文書』第一九巻、「日清修好條規通商章程ニ関スル件」。なお条約交渉は一八八八年(明治二十一年)九月までつづけられる。その交渉で、日本は欧米なみの地位・権利を得て清国に優越しようとするが、清国は多くを譲歩しないので、日本の方から交渉を打ち切った。

 日本はこのとき、対欧米の条約改正交渉を有利にするために、中国に対して欧米諸国なみの優位に立つ新しい日清条約を結ぶことを望んでいたが、しかも、その日清条約交渉と、琉球分島の問題とをきびしく切り離したのは何故であろうか。八〇年の日清交渉では、琉球を日清間で分割する代償に、条約改定をかちとろうとしたし、その後も清国側は、分島すれば改約に応ずる意向を原則的には変えていないこと、したがって早く改約するには、それと分島をからめるのが有利であることは、井上外相も承知していながら、あえて八三年以来は、両者を切り離したのは何故か。

 その理由は、すでに、天皇政府は、きわめて近い将来の日清戦争を予期し、その準備を精力的に進めており(註)、清国ともっとも近い琉球の南部を、清国に渡すことはもはや決してできなかったからであろう。ここが清国領になれば、それは、戦争のさい清国が日本を攻撃する有力な根拠ともなり、日本がここを領有すれば、清国本土の南部や台湾への進攻根拠地にもできるのに、どうしてここを譲ることができよう。いま急いで譲ったりしないでも、近い将来には、日本の全琉球独占の既成事実を清国はいやでも認めざるを得なくなると、政府は考えたことであろう。

 沖縄がもっぱら軍事的見地から重要視されていたことは、たとえば日清戦争中の一八九五年一月、貴族院で「沖縄県々政改革建議」が可決されたとき、提案理由の説明でも、討論でも、「沖縄の地たる、東洋枢要の地」、「軍事上の枢要の地」ということのみくり返し強調され、その要地の県政を改革して「海防に備へねばならぬ」ことが力説されたことに、端的にあらわれている(琉球政府編『沖縄県史』四、「教育」第六編第二章。『大日本帝国議会誌』)。

 (註)天皇政府は早くから「征韓」をめざし、そのために清国との対立を深めていたが、一八八二年朝鮮の壬午事変(朝鮮兵士の朝鮮政府および日本人軍事教官に対する叛乱とソウル市民の反日闘争が結合した事件)の直後から、朝鮮の支配権をめぐって清国との戦争をめざした軍備大拡張とそのための大増税をはじめる。さらに一八八四年十一月、朝鮮で、日本と結びついた金玉均ら開化党がクウデターで政権をとるが、わずか三日で、清国に支援せられた朝鮮保守派の反撃でつぶされ、ソウルの日本公使は生命からがら日本へ逃げ帰った。これより日清両国の朝鮮出兵となり、日清戦争の危機が切迫した。しかし、このときは、まだ日本政府は戦争する自信がなかったので、翌八五年四月、首相伊藤博文が自ら全権使節として天津に行き、李鴻章と談判して、「天津条約」を結び、日清両国の朝鮮からの同時撤兵、今後の朝鮮出兵は相互に通告することなどをきめた。これより天皇政府は、対清戦争準傭のために軍備、政治、外交、財政、思想、そのほかあらゆる方面で、国力をかたむける。

 政府の日清戦争準備の影は、沖縄県そのものにも濃くうつされる。井上外相が、日清条約改正交渉では、それに琉球問題をからませることを断乎として拒否したのと同じ八六年三月、「大日本帝国」の軍隊をつくりあげてきた最高の指導者であり、対清戦争のもっとも熱烈な推進者であり、時の内務大臣でもある山県有朋中将が、天皇の侍従をしたがえて、沖縄の視察に行った。その翌八七年四月には、沖縄県知事に長州出身の予備役陸軍少将福原実が任命された。沖縄の知事に軍人が任命されたのはこれが初めてである。そしてその秋十一月には、首相伊藤博文が、陸軍大臣大山巌、海軍軍令部長仁礼(にれ)景範らを従え、当時の日本最精鋭の軍艦三隻をひきいて、六日間も沖縄を視察した。伊藤はこのとき「命ヲ奉ジテ琉球ヲ巡視ス」と題する漢詩をつくっている。その句に曰く「誰カ知ル軍国辺防ノ策、辛苦経営ハ方寸ノ中(註)」と。こううたった伊藤はもとより、内相の肩書の山県中将の琉球視察も、対清戦争準備のためであることは疑いない。

 (註)比嘉春潮『沖縄の歴史』(一九五九年、沖縄タイムス社刊)

 その準備があらゆる面ですっかり完了し、しかも清国には対日戦備は思想的政治的には全然なく、軍備もようやく近代化に着手したばかりというとき、一八九四年七月、日本は、イギリス帝国主義の支援とはげましをうけて(註)、宣戦布告もせず、二十五日、海軍が豊島沖で清国艦隊を不意打ちし、二十九日、陸軍が朝鮮の牙山・成歓で清国陸軍を不意打ちして、対清戦争を開始した。その後で八月一日、ようやく宣戦を布告した。

 (註)井上清『条約改正』(岩波新書)に詳述した。

 戦争は従来の国家関係の断絶であるから、開戦とともに自動的に、交戦国間のすべての条約も懸案も消滅する。そして戦後には講和条約にもとづき、新しい国家関係がつくられる。日清戦争で勝利した日本は、下関の講和条約にもとづいて、政府が年来希望していた以上に日本の特権を定めた、新しい通商条約・貿易規則などを清国にのみこませた。

 琉球問題も、日清開戦と同時に、もはや名実ともに両国の懸案ではなくなった。下関講和会議でも、日本側はもとより清国側も、琉球のことは何ら問題にしなかった。したがって、講和条約にも、琉球に関することが一字も書かれるはずもない。すなわち、日清両国の新関係の創出=講和のさい、日本がそれまでに琉球につくりあげていた既成事実に対して、清国が何らの異議も出さなかったことによって、その既成事実は確立された。いいかえれば、日本は日清戦争の勝利によってはじめて、清国の琉球に対するいっさいの歴史的権利・権益を最終的に消滅させ、日本の琉球独占を確立したのである。

一一 天皇政府は釣魚諸島略奪の好機を九年間うかがいつづけた
 朝鮮・中国に対する侵略戦争の準備強化との関連で、天皇政府が琉球を重視し、その全島を日本の独占とする方針を確定した後の一八八五年(明治十八年)、はじめて琉球と、中国本土の間の海に散在する釣魚諸島が、天皇政府の視野に入ってきた。

 これより先一八七九年、琉球藩が沖縄県とせられた直後に、福岡県出身の古賀辰四郎という冒険的な小資本家が、さっそく那覇に移り住み、沖縄近海の海産物の採取、輸出の業をはじめた。そのうちに一八八五年(註)、古賀は「久場島」(釣魚島)に航して、ここに産卵期のアホウ鳥が群がることを発見し、その羽毛を採取して大いにもうけることを思いたった。彼は那覇に帰って、その事業のための土地貸与を沖縄県庁に願い出たらしい。

 (註)従来、古賀は「明治十七年」(一八八四年)にこの島を「発見」し、翌八五年沖縄県庁に、この島で営業するために借地願いを出したといわれているが、明治二十八年(一八九五年)六月十日付で古賀が内務大臣に出した「官有地拝借願」には、「明治十八年沖縄諸島ヲ巡航シ舟ヲ八重山島ノ北方九拾海里ノ久場島ニ寄セ……」という。前掲『沖縄』五六号)

 「尖閣列島」は無主地の先占による合法的な日本領であると主張する、琉球政府や日本共産党その他は、もっぱら、古賀の釣魚島「開拓」という、平和的経済的な動機から同島の日本領有が進められたかのようにいう。一八八五年に政府がこの島に目をつけるにいたった直接のきっかけは、あるいは古賀の「開拓」願いが出されたことにあったかもしれないが、政府がここを日本領にとりこもうとしたのは、たかがアホウ鳥の羽毛を集めるていどのことのためではなく、この地の清国に対する上での軍事地理的意義を重視したからであった。そのことは、一八八三年以来の政府の琉球政策が何よりもまず軍事的見地からのみたてられ実行されてきたことから、容易に類推されるし、また八五年以降の釣魚諸島領有の経過の全体をみれば、いっそう明白となる。

 琉球政府や日共は、八五年に古賀の釣魚島開拓願いをうけた沖縄県庁が、政府に、この島を日本領とするよう上申したかのようにいうが、事実はそうではなく、内務省がこの島を領有しようとして、まず、沖縄県庁にこの島の調査を内々に命令した。それに対して、沖縄県令は八五年九月二十二日次のように上申している。

 「第三百十五号
     久米赤島外二島取調ノ儀ニ付上申
 本県ト清国福州間ニ散在セル無人島取調ノ儀ニ付、先般、在京森本本県大書記官ヘ御内命相成候趣ニ依リ、取調ベ致シ候処、概略別紙(別紙見えず−井上)ノ通リコレ有リ候。抑モ久米赤島、久場島及ビ魚釣島ハ、古来本県ニ於テ称スル所ノ名ニシテ、シカモ本県所轄ノ久米、宮古、八重山等ノ群島ニ接近シタル無人ノ島嶼ニ付キ、沖縄県下ニ属セラルルモ、敢テ故障コレ有ル間敷ト存ゼラレ候ヘドモ、過日御届ケ及ビ候大東島(本県ト小笠原島ノ間ニアリ)トハ地勢相違シ、中山傳信録ニ記載セル釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼ト同一ナルモノニコレ無キヤノ疑ナキ能ハズ。

 果シテ同一ナルトキハ、既ニ清国モ旧中山王ヲ冊封スル使船ノ詳悉セルノミナラズ、ソレゾレ名称ヲモ付シ、琉球航海ノ目標ト為セシコト明ラカナリ。依テ今回ノ大東島同様、踏査直チニ国標取建テ候モ如何ト懸念仕リ候間、来ル十月中旬、両先島(宮古・八重山)へ向ケ出帆ノ雇ヒ汽船出雲丸ノ帰便ヲ以テ、取リ敢へズ実地踏査、御届ケニ及ブベク候条、国標取建等ノ儀、ナホ御指揮ヲ請ケタク、此段兼テ申上候也

  明治十八年九月二十二日
           沖縄県令 西村捨三
   内務卿伯爵 山県有朋殿」

 この上申書によって、いくつかの重要なことがわかる。

 第一に、内務省は沖縄県に、福州・琉球間の無人島の「取調べ」を「内命」したのはなぜか。なぜ公然と正式に命令しなかったか。

 第二に、ここには、それらの島に「国標」=日本国の領土であるとの標柱を建設する問題が出されているが、これは沖縄県が言い出したことか、内務省が言い出したことか。

 この二つの問題は関連する。国標取建ては、上申書の文脈から見て内務省の発案にちがいない。内務省−−内務卿は天皇制軍国主義の最大の推進者山県有朋である−−は、琉球をもっぱら軍事的見地から重視するとともに、その先の島々も日本領とする野心をいだき、その実現のために必要な調査を沖縄県に命じた。ただし、事が国際関係にふれ、日本と清国がはげしく対立している現状で、公然と正式に命令すると、どういう障害がおこるかわからないので、「内命」したのであろう。

 第三に、この内命をうけた沖縄県では、「久米赤島」などを日本領とし沖縄県に属させてもよさそうなものだが、必ずしもそうはいかない、とためらっている。その理由は、これらの島々が『中山傳信録』に記載されている釣魚島などと同じものであると思われるからである。同じものとすれば、この島々のことはすでに清国側でも「詳悉セル(くわしく知っている)ノミナラズ、各々名称ヲモ附シ、琉球航海ノ目標ト為セシコト明ラカナリ」。つまり、これは中国領らしい。「依テ」この島々に、無主地であることの明白な大東島と同様に、実地踏査してすぐ国標を建てるわけにはいかないだろう、としたのである。

 沖縄県令の以上のようなしごく当然な上申書を受けたにもかかわらず、山県内務卿は、どうしてもここを日本領に取ろうとして、そのことを太政官の会議(後の閣議に相当する)に提案するため、まず十月九日、外務卿に協議した。その文は、たとえ「久米赤島」などが『中山傳信録』にある島々と同じであっても、その島はただ清国船が「針路ノ方向ヲ取リタルマデニテ、別ニ清国所属ノ証跡ハ少シモ相見ヘ申サズ」、また「名称ノ如キハ彼ト我ト各其ノ唱フル所ヲ異ニシ」ているだけであり、かつ「沖縄所轄ノ宮古、八重山等ニ接近シタル無人ノ島嶼ニコレ有リ候ヘバ」、実地踏査の上でただちに国標を建てたい、というのであった。この協議書は、釣魚諸島を日本領にする重要な論拠に、この島が沖縄所轄の宮古・八重山に近いことをあげているが、もしも八〇〜八二年の琉球分島・改約の方針が持続されていたら、こういう発想はできなかったであろう。

 これに対し外務卿井上馨は、次のように答えている。

 「十月廿一日発遣
 親展第三十八号
           外務卿伯爵 井上 馨
  内務卿伯爵 山県有朋殿

 沖縄県ト清国福州トノ間ニ散在セル無人島、久米赤島外二島、沖縄県ニ於テ実地踏査ノ上国標建設ノ儀、本月九日付甲第八十三号ヲ以テ御協議ノ趣、熟考致シ候処、右島嶼ノ儀ハ清国国境ニモ接近致候。サキニ踏査ヲ遂ゲ候大東島ニ比スレバ、周回モ小サキ趣ニ相見ヘ、殊ニ清国ニハ其島名モ附シコレ有リ候ニ就テハ、近時、清国新聞紙等ニモ、我政府ニ於テ台湾近傍清国所属ノ島嶼ヲ占拠セシ等ノ風説ヲ掲載シ、我国ニ対シテ猜疑ヲ抱キ、シキリニ清政府ノ注意ヲ促ガシ候モノコレ有ル際ニ付、此際ニワカニ公然国標ヲ建設スル等ノ処置コレ有リ候テハ清国ノ疑惑ヲ招キ候間、サシムキ実地ヲ踏査セシメ、港湾ノ形状并ニ土地物産開拓見込ノ有無ヲ詳細報告セシムルノミニ止メ、国標ヲ建テ開拓等ニ着手スルハ、他日ノ機会ニ譲リ候方然ルベシト存ジ候。
 且ツサキニ踏査セシ大東島ノ事并ニ今回踏査ノ事トモ、官報并ニ新聞紙ニ掲載相成ラザル方、然ルベシト存ジ候間、ソレゾレ御注意相成リ置キ候様致シタク候。
 右回答カタガタ拙官意見申進ゼ候也。」

 この外務卿の回答は、山県内務卿とはちがって、清国との関係を重視している。山県は、たとえ中国が島名をつけてあっても、(1)中国領であるとの証跡がなく、(2)島の名称は、日本と清国でちがうというだけのことで気にすることはない、そして(3)八重山に近い、(4)無人島であるから、日本領にしよう、というのだが、井上外務卿は、そういう論点には一つも同意しないばかりか、かえって、(1)それらの島は沖縄に近いと同様に中国の「国境」(中国本土のこと)にも近いことを強調し、(2)ことに清国ではその名をつけていることを重視する、(3)清国人は、日本が台湾近くの清国の島(釣魚諸島もその一つである)を占領することを警戒し、日本を疑っている。こういうさいだから、いま国標をたてるのは反対であるという。

 つまり、井上外務卿は、沖縄県の役人と同様に、釣魚諸島は清国領らしいということを重視し、ここを「このさい」「公然」と日本領とするなら、清国の厳重な抗議を受けるのを恐れたのである。それゆえ彼は、日本がこの島を踏査することさえ、新聞などにのらないよう、ひそかにやり、一般国民および外国とりわけ清国に知られないよう、とくに内務卿に要望した。しかし、この島を日本のものとするという原則は、井上も山県と同じである。ただ、今すぐでなく、清国の抗議を心配しなくてもよいような「他日ノ機会」にここを取ろうというのである。山県も井上の意見を受けいれ、この問題は太政官会議にも出さなかった。

 ついで同年十一月二十四日付で、沖縄県令から内務卿ヘ、かねて命令されていた無人島の実地調査の結果を報告し、かつ、「国標建設ノ儀ハ、嘗テ伺(うかがい)書ノ通リ、清国トノ関係ナキニシモアラズ、万一不都合ヲ生ジ候テハ相済マザルニ付キ、如何取計(はか)ライ然ルベキヤ」、と至急の指揮をもとめた。これに対しては、内務・外務両卿の連名で、十二月五日、「書面伺ノ趣、目下建設ヲ要セザル儀ト心得ベキ事」と指令した。

(註)以上の沖縄県、内・外両卿の往復文書はすべて、『日本外交文書』第一八巻「雑件」中の「版図関係雑件」にある。また前掲の『沖縄』五六号にもある。

 以上の政府文書により、一八八五年の政府部内および沖縄県の釣魚諸島領有をめぐる往復は、(1)まず内務省が、この地方領有の意図をもって沖縄県にその調査を内命したこと、(2)沖縄県は、ここは中国領かもしれないので、これを日本領とするのをためらったこと、(3)しかもなお内務省は領有を強行しようとしたこと、(4)外務省もまた、中国の抗議を恐れていますぐの領有には反対したこと、(5)その結果内務省もいちおうあきらめたこと、を示している。

 ところが琉球政府の例の声明「尖閣列島の領土権について」は、「尖閣列島は明治十年代の前半までは無人島であったが、十七年頃から古賀辰四郎氏が、魚釣島、久場島などを中心に、アホウ鳥の羽毛、綿毛、ベッ甲、貝類などの採取等を始めるようになった。こうした事態の推移に対応するため、沖縄県知事は、明治十八年九月二十二日、はじめて内務卿に国標建設を上申するとともに、出雲丸による実地踏査を届け出ています」という。 これは、どんなに事実をねじまげていることか。

 第一に、内務卿が先に沖縄県知事に釣魚島の調査を内命したことをかくし、第二に、沖縄県はここが清国領であるかもしれないからとの理由で国標建設をちゅうちょする意見を上申しているのに、それをあべこべにして、沖縄県から現地調査にもとづいて国標の建設を上申したようにいつわる。しかも第三に、古賀の釣魚島における事業の発展が、沖縄県の国標建設上申の機縁となっていることにしているが、このときはまだ古賀の事業は計画段階である。第四に、内務卿の意見に外務卿が、清国との関係悪化のおそれを理由に反対し、そのため内務卿もこのさいはあきらめざるをえなかったことを、すっかりかくしてしまっている。そして第五に、沖縄県が出雲丸による現地調査の結果を報告した同年十一月の「伺」でも、同県は重ねて、釣魚諸島に国標をたてることは、「清国トノ関係ナキニシモアラズ」としてためらっている。このこともすっかりかくしてしまい、たんに九月に現地調査をすると届け出たことのみしか書かない。その書き方も、調査結果を届け出て、それにもとづいて国標建設を上申したといわんばかりである。歴史の偽造もはなはだしい。

 この後も、日清両国の関係は、日本側から悪化させる一方であり、日本の対清戦争準備は着着と進行した。その間に、古賀辰四郎の釣魚島での事業も緒についた。そして一八九〇年(明治二十三年)一月十三日、沖縄県知事は、内務大臣に、次の伺いを出した。

 「管下八重山群島石垣島ニ接近セル無人島魚釣島外二島ノ儀ニ付、十八年十一月五日第三百八十四号伺ニ対シ、同年十二月五日付ヲ以テ御指令ノ次第モコレ有候処、右ハ無人島ナルヨリ、是マデ別ニ所轄ヲモ相定メズ、其儘ニ致シ候処、昨今ニ至リ、水産取締リノ必要ヨリ所轄ヲ相定メラレタキ旨、八重山役所ヨリ伺出デ候次第モコレ有リ、カタガタ此段相伺候也」(前掲『日本外交文書』第二三巻、「雑件」)

 沖縄県のこの態度は、八五年とはまったく反対である。今度は清国との関係は一言もせず、県から積極的に、古賀の事業の取締りを理由に、日本領として沖縄県の管轄にされるように願っている。このときの知事は、かつての西村県令が内務省土木局長のままで沖縄県令を兼任していたのとはちがって、内務省社寺局長から専任の沖縄県知事に転出した丸岡莞爾といい、沖縄に天皇制の国家神道を強要しひろめるのに努力した、熱烈な国家主義者である。そういう知事なればこそ、釣魚諸島と清国との関係はあえて無視して、古賀の事業取り締りを口実に、ここを日本領にとりこもうと積極的に動いたのであろう。

 これに対する内務、外務両省の協議の文書は見えないが、政府が何の指令もしなかったことは、次の節にかかげる明治二十七年(一八九四年)十二月二十七日付、内務大臣より外務大臣への協議書で知られる。

 さらにおどろくべきことに、日清戦争の前の年一八九三年(明治二十六年)十一月二日、沖縄県知事−−薩摩出身の有名な軍国主義者で沖縄人民をもっとも苛酷に圧制した、悪名高い奈良原繁−−は、一八九〇年一月の上申と同じ趣旨で、「魚釣島」(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)を同県の所轄とし、標杭を建設したい旨を、内務、外務両大臣に上申した。これに対しても、両大臣は九〇年の上申に対するのと同様に、一年以上も何らの協議もしなかった(註)。

 (註)『日本外交文書』第一八巻「版図雑件」の「付記」「久米赤島、久場島及ビ魚釣島版図編入経緯」と題する文書に、「明治二十六年十一月二日、更ニ沖縄県知事ヨリ、当時ニ至リ本件島嶼へ向ケ漁業等ヲ試ムル者有ルニ付キ、之ガ取締ヲ要スルヲ以テ、同県ノ所轄ト為シ、標杭建設シタキ旨、内務外務大臣へ上申アリタリ、依テ二十七年十二月二十七日、内務大臣ヨリ……外務大臣へ協議……」とある。これで、二十六年十一月の沖縄県の上申は、一年以上も政府によって放置せられていたことがわかる。

 それのみでない、日清戦争が始められる明治二十七年になってもまだ、開戦前か後かわからないが、いずれにしても日本の清国に対する戦勝が確実になる以前のことであるが、例の古賀辰四郎が、釣魚島開拓の許可願いを沖縄県に出したところ、県は「同島の所属が帝国のものなるや否や不明確なりし為に」、その願いを却下した。そこで古賀は、「さらに内務・農商務両大臣に宛て請願書を出すと同時に、上京して親しく同島の実況を具陳して懇願したるも」、なお許可せられなかった。

 右のことは、『沖縄毎日新聞』の明治四十三年(一九一〇年)一月一日−九日号に連載された、「琉球群島における古賀氏の業績」という、古賀をたたえる文(註)中に書かれているが、もしも政府が、釣魚島を無主地と本心から見なしていたら、すでに対清戦備はほとんど完了している、あるいは開戦後かもしれないこの時点でもなお、同島の帰属不明ということで、古賀の請願を許可しない理由はないはずである。政府は、実はそこを中国領と知っていればこそ、まだ中国を打ち破っていないうちは、なおも慎重を期していたのであろう。

 (註)この新聞記事は、那覇市編集『那覇市史』史料篇第二巻に収録。

 天皇政府はこうして、一八八五年に釣魚諸島を中国から奪う腹をきめながら、そのための「他日ノ機会」を、九年間うかがいつづけた。

一二 日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った
 政府が古賀の懇願をしりぞけてまもなく、九年このかた待ちに待っていた、釣魚諸島略奪の絶好の機会がついに到来した。宣戦布告に先立つ日本軍の清国軍不意打ちで火ぶたを切った日清戦争で、日本の勝利が確実になった九四年末こそ、その機会であった。このとき天皇政府は断然、釣魚諸島を日本領とすることにふみ切った。まず十二月二十七日、内務省から外務省へ、去年十一月の沖縄県知事の申請に回答して、魚釣島と久場島に標杭をたてさせることについて、秘密文書で協議した。その本文は次の通りである(傍註は『日本外交文書』編者のもの【都合上傍註は内記載に変更した:巽】 )。

 「秘別第一三三号
 久場島、魚釣島へ所轄標杭建設ノ儀、別紙甲号ノ通リ沖縄県知事ヨリ上申候処、本件ニ関シ別紙乙号ノ通リ明治十八年貴省ト御協議ノ末指令ニ及ビタル次第モコレ有リ候へドモ、其ノ当時ト今日トハ事情モ相異候ニ付キ、別紙閣議提出ノ見込ニコレ有リ候条、一応御協議ニ及ビ候也

  明治廿七年十二月廿七日
          内務大臣子爵 野村 靖(印)
   外務大臣子爵 陸奥宗光殿」

 この文末にいう「別紙」閣議を請う文案は次の通り。

 「沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島、魚釣島ハ、従来無人島ナレドモ、近来ニ至リ該島へ向ケ漁業等ヲ試ムル者コレ有リ、之ガ取締リヲ要スルヲ以テ、同県ノ所轄トシ標杭建設致シタキ旨、同県知事ヨリ上申コレ有リ、右ハ同県ノ所轄ト認ムルニ依リ、上申ノ通リ標杭ヲ建設セシメントス。 右閣議ヲ請フ」

 この協議書は、九年前の同じ問題についての協議書とちがって、とくに朱書の「秘」とされていることが注目される。政府はよほどこの問題が外部にもれるのを恐れていたとみえる。

 外務省もこんどは何の異議もなかった。年が明けて一八九五年(明治二十八年)一月十一日、陸奥外相は野村内相に、「本件ニ関シ本省ニ於テ別段異議コレ無キニ付、御見込ノ通リ御取計相成リ然ルベシト存候」と答えた。ついで同月十四日の閣議で、前記の内務省の請議案文通りに、魚釣島(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)を沖縄県所轄として標杭をたてさせることを決定、同月二十一日、内務大臣から沖縄県知事に、「標杭建設ニ関スル件請議ノ通リ」(註)と指令した。

 (註)『日本外交文書』第二三巻、「八重山群島魚釣島ノ所轄決定ニ関スル件」の「付記」。

 八五年には、清国の抗議をおそれる外務省の異議により、山県内務卿の釣魚諸島領有のたくらみは実現できなかった。九〇年の沖縄県の申請にも、政府は何の返事もしなかった。九三年の沖縄県の再度の申請さえ政府は放置した。それだのに、いま、こんなにすらすらと閣議決定にいたったのは何故だろう。その答えは、内務省から外務省への協議文中に、かつて外務省が反対した明治十八年の「其ノ当時ト今日トハ事情モ相異候ニ付キ」という一句の中にある。

 明治十八年と二十七年との「事情の相異」とは何か。十八年には古賀辰四郎の釣魚島における事業は、始まったばかりか、あるいはまだ計画中であったが、二十七年にはすでにその事業は発展し、「近来同島ニ向ケ漁業ヲ試ムル者アリ」、政府をしてその取締りの必要を感じさせるようになった、ということであろうか。それも「事情の相異」の一つとはいえる。しかし、それが唯一の、あるいは主要な「相異」であるならば、その相異はすでに明治二十三年にははっきりしている。その相異を理由に、沖縄県が、釣魚島に所轄の標杭をたてたいと上申したのに対して、政府は何らの指令もせずに四年以上もすごした。さらに二十六年十一月に、沖縄県が前と同じ理由で重ねて標杭建設を上申したのに対しても、政府は返事をしなかった。その政府が二十七年十二月末になって、そのとき沖縄県から改めて上申があったわけではないのに、突如として一年以上も前の上申書に対する指令という形で、釣魚諸島の領有に着手したのであるから、漁業取締りの必要が生じたということは、九年前と今との「事情の相異」の唯一の点でないのはもとより、主要な点でもありえない。決定的な「相異」は、べつのところになければならない。

 明治二十三年にも二十六年にも、政府はまだ日清戦争をはじめてはいない。さらに二十七年に古賀が釣魚島開拓を願い出た月日が、日清戦争前であればもとよりのこと、たとえ開戦直後であっても、まだ日本は清国に全面的に勝利していたわけではない。だが、その年十二月初めには、すでに日本の圧倒的勝利は確実となり、政府は講和条件の一項として、清国から台湾を奪い取ることまで予定している。これこそが、釣魚諸島を取ることに関連する「事情」の、以前といまとの決定的な「相異」である。

 日清戦争は、陸でも海でも日本軍の連戦連勝であった。九四年九月、日本陸軍は朝鮮の平壌の戦闘で、海軍は黄海の海戦で、いずれも決定的な勝利をかちとった。つづいて陸軍の第一軍は、十月下旬までにことごとく鴨緑江を渡り、十一月中旬には大東溝・連山関を攻略、第二軍は、十月下旬に清国遼東半島の花園口に上陸、十一月上旬に金州城を奪い、大連湾砲台を攻略し、同月二十一日には連合艦隊と協力して旅順口をも占領した。この間に海軍は、清国海軍の主力北洋艦隊を、渤海湾口の威海衛にひっそくさせた。

 戦局の推移を注目していたイギリスは、早くも十月八日、駐日公使をして、日本政府に講和の条件を打診させた。そのころから政府は、日本の圧倒的勝利を確信し、清国から奪い取るベき講和条件の具体的検討をはじめた。その重要条件の一つは、台湾を割譲させることであった。

 清国側でも、総理衙門の恭親王らは、十月初めにすでに、清国の敗戦をみとめて早期講和を主張しており、十一月初めには、抗戦派の総帥である北洋大臣李鴻章も、早く講和するほかないことをさとった。

 この情勢の中で、十一月末から十二月初めにかけて、これから大陸では厳寒に向う冬期において、日本はどのような戦略をとるべきか、大本営では意見が分れた。一方は、勢いに乗じてただちに北京まで進撃せよと主張した。他方は、冬期はしばらく兵を占領地にとどめ、陽春の候をまって再び進撃せよ、という。

 このとき首相伊藤博文は、明治天皇の特別の命令により、文官でありながら、本来は陸海軍人のみによって構成される大本営の会議に列席していた。彼は十二月四日、冬期作戦に関する論争を批判し、独自の戦略意見を大本営に提出した。その要旨は次の通りである。

 北京進撃は壮快であるが、言うべくして行なうべからず、また現在の占領地にとどまって何もしないのも、いたずらに士気を損うだげの愚策である。いま日本のとるべき道は、必要最小限の部隊を占領地にとどめておき、他の主力部隊をもって、一方では海軍と協力して、渤海湾口を要する威海衛を攻略して、北洋艦隊を全滅させ、他日の天津・北京への進撃路を確保し、他方では台湾に軍を出してこれを占領することである。台湾を占領しても、イギリスその他諸外国の干渉は決しておこらない。最近わが国内では、講和のさいには必ず台湾を割譲させよという声が大いに高まっているが、そうするためには、あらかじめここを軍事占領しておくほうがよい(春畝公追頌会編『伊藤博文傳』下)。

 大本営は伊藤首相の意見に従った。威海衛攻略作戦は、翌一八九五年一月下旬に開始され、二月十三日、日本陸海軍の圧勝のうちに終った。この間に台湾占領作戦の準備も進み、九五年三月の中ごろ、連合艦隊は台湾の南端をまわって澎湖列島に進入し、その諸砲台を占領した。さらに、ここを根拠地として、台湾攻略の用意をととのえているうちに、日清講和談判が進行して、清国をして台湾を割譲させることは確実となったので、連合艦隊は四月一日佐世保に帰航する。

 天皇政府が釣魚諸島を奪い取る絶好の機会としたのは、ほかでもない、政府と大本営が伊藤首相の戦略に従い、台湾占領の方針を決定したのと同時であった。一八八五年には、政府は、釣魚諸島に公然と国標をたてたならば、清国の「疑惑ヲ招キ」紛争となることをおそれたのだが、いま日本が釣魚諸島に標杭をたてても、清国には文句をつけてくる力などはない。たとえ抗議してきても一蹴するまでのことである。政府はすでに台湾占領作戦を決定し、講和のさいには必ずここを清国から割き取ることにしている。この鼻息荒い政府が、台湾と沖縄県との間にある釣魚島のような小さな無人島は、軍事占領するまでもない、だまって、ここは沖縄県管轄であると、標杭の一本もたてればすむことである、と考えたとしてもふしぎではない。

 釣魚諸島を沖縄県管轄の日本領としようという閣議決定は、このようにして行なわれた。しかるに本年三月八日の外務省の「尖閣列島」の領有権に関する「見解」は、「尖閣列島は、明治十八年以降、政府が再三にわたって現地調査を行ない、単にこれが無人島であるだけでなく、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認した上で、同二十八年一月十四日、現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行ない……」という。これがいかにでたらめであるかは、本論文のこれまでの各節によって、まったく明白であろう。

 明治政府が釣魚諸島の領有に関して現地調査をしたことは、一八八五年の内務大臣内命による沖縄県の調査があるだけである。しかもその調査結果を内務省に報告したさいの沖縄県令の「伺」は、「国標建設ノ儀ハ、清国トノ関係ナキニシモアラズ、万一不都合ヲ生ジ候テハ相スマズ」と、この島に対する清国の権利を暗にみとめて、国標の建設をちゅうちょしている。すなわち沖縄県の調査の結果は、この島の日本領有を正当化するものにはならなかった。この後政府は改めてこの地の領有権関係の調査をしたことはない。したがって、これらの島々に「清国の支配が及んでいないことを慎重に確認した」というのも、まったくのうそである。そんなことを「慎重に確認した上で」、釣魚諸島領有の閣議決定はなされたのではない。一八八五年には清国の抗議を恐れなければならなかったが、いまは対清戦争に大勝利をしており、台湾までも奪いとる方針を確定しているという、以前と今との決定的な「事情の相異」を、「慎重に確認」した上で、九五年一月の閣議決定はなされたのである。

 閣議決定とそれによる内務省から沖縄県への指令(一月二十一日)は、日清講和条約の成立(九五年四月十七日調印、五月八日批准書交換)以前のことである。したがって、いま政府がいうように、その閣議決定によって釣魚諸島の日本領編入が決定されたとすれば−−閣議で領有すると決定しただけでは、現実に領有がなされたということにはならないが、かりにいま政府のいう通りだとすれば、それらの島は、日清講和条約第二条の清国領土割譲の条項によって日本が清国から割き取ったものには入らない。しかし、講和条約の成立以前に奪いとることにきめたとしても、これらの島々が歴史的に中国領であったことは、すでに十分に考証した通りである。その中国領の島を日本領とすることには、一八八五年の政府は、清国の抗議をおそれて、あえてふみきれなかったが、九五年の政府は、清国との戦争に大勝した勢いに乗じて、これを取ることにきめた。

 すなわち、釣魚諸島は、台湾のように講和条約によって公然と清国から強奪したものではないが、戦勝に乗じて、いかなる条約にも交渉にもよらず、窃かに清国から盗み取ることにしたものである。

一三 日本の「尖閣」列島領有は国際法的にも無効である
 日本が「尖閣列島」を「領有」したのは、時期的にたまたま日清戦争と重なっていただけのことで、下関条約によって台湾の付属島嶼として台湾とともに清国に割譲させたものではない、したがってこの地はカイロ宣言にいうところの、「日本国が清国人から盗取した」ものではない、というものがある。たとえば日本共産党の「見解」がそれである。たしかに、この地は下関条約第二条によって公然と正式に日本が清国から割き取ったものではない。けれども、この地の日本領有は、偶然に日清戦争の勝利の時期と重なっていたのではなく、まさに日本政府が意識的計画的に日清戦争の勝利に乗じて、盗み取ったものである。このことは、本論の前二節に詳述した、一八八五年以来の本島の領有経過によって明白である。

 朝日新聞の社説「尖閣列島と我が国の領有権」(一九七二年三月二十日)は、もし釣魚諸島が清国領であったならば、清国はこの地の日本領有に異議を申し立てるべきであった、しかるに「当時、清国が異議を申立てなかったことも、このさい指摘しておかねばならない。中国側にその意思があったなら、日清講和交渉の場はもちろん、前大戦終了後の領土処理の段階でも、意思表示できたのではなかろうか」という。

 しかし、日清講和会議のさいは、日本が釣魚諸島を領有するとの閣議決定をしていることは、日本側はおくびにも出していないし、日本側が言い出さないかぎり、清国側はそのことを知るよしもなかった。なぜなら例の「閣議決定」は公表されていないし、このときまでは釣魚島などに日本の標杭がたてられていたわけでもないし、またその他の何らかの方法で、この地を日本領に編入することが公示されてもいなかったから。したがって、清国側が講和会議で釣魚諸島のことを問題にすることは不可能であった。

 また、第二次大戦後の日本の領土処理のさい、中国側が日本の釣魚諸島領有を問題にしなかったというが、日本と中国との間の領土問題の処理は、まだ終っていないことを、この社説記者は「忘れて」いるのだろうか。サンフランシスコの講和会議には、中国代表は会議に招請されるということさえなかった。したがって、その会議のどのような決定も、中国を何ら拘束するものではない。また当時日本政府と台湾の蒋介石集団との間に結ばれた、いわゆる日華条約は、真に中国を代表する政権と結ばれた条約ではないから−−当時すでに中華人民共和国が、真の唯一の全中国の政権として存在している−−その条約は無効であって、これまた中華人民共和国をすこしも拘束するものではない。すなわち、中国と日本との間の領土問題は、まだことごとく解決されてしまっているわけではなく、これから、日中講和会議を通じて解決されるべきものである。それゆえ、中国が最近まで、釣魚諸島の日本領有に異議を申し立てなかったからとて、この地が日本領であることは明白であるとはいえない。

 明治政府の釣魚諸島窃取は、最初から最後まで、まったく秘密のうちに、清国および列国の目をかすめて行なわれた。一八八五年の内務卿より沖縄県令への現地調査も「内命」であった。そして外務卿は、その調査することが外部にもれないようにすることを、とくに内務卿に注意した。九四年十二月の内務大臣より外務大臣への協議書さえ異例の秘密文書であった。九五年一月の閣議決定は、むろん公表されたものではない。そして同月二十一日、政府が沖縄県に「魚釣」、「久場」両島に沖縄県所轄の標杭をたてるよう指令したことも、一度も公示されたことがない。それらは、一九五二年(昭和二十七年)三月、『日本外交文書』第二三巻の刊行ではじめて公開された。

 のみならず、政府の指令をうけた沖縄県が、じっさいに現地に標杭をたてたという事実すらない。日清講和会議の以前にたてられなかったばかりか、その後何年たっても、いっこうにたてられなかった。標杭がたてられたのは、じつに一九六九年五月五日のことである。すなわち、いわゆる「尖閣列島」の海底に豊富な油田があることが推定されたのをきっかけに、この地の領有権が日中両国側の争いのまととなってから、はじめて琉球の石垣市が、長方型の石の上部に左横から「八重山尖閣群島」とし、その下に島名を縦書きで右から「魚釣島」「久場島」「大正島」およびピナクル諸嶼の各島礁の順に列記し、下部に左横書きで「石垣市建之」と刻した標杭をたてた(註)。これも法的には日本国家の行為ではない。

 (註)「尖閣群島標柱建立報告書」、前掲雑誌『沖縄』所収。

 つまり、日本政府は、釣魚諸島を新たに日本領土に編入したといいながら、そのことを公然と明示したことは、日清講和成立以前はもとより以後も、つい最近まで、一度もないのである。「無主地」を「先占」したばあい、そのことを国際的に通告する必要は必ずしもないと、帝国主義諸国の「国際法」はいうが、すくなくとも、国内法でその新領土の位置と名称と管轄者を公示することがなければ、たんに政府が国民にも秘密のうちに、ここを日本領土とすると決定しただけでは、まだ現実に日本領土に編入されたことにはならない。

 釣魚諸島が沖縄県の管轄になったということも、何年何月何日のことやら、さっぱりわからない。なぜならそのことが公示されたことがないから。この点について、琉球政府の一九七〇年九月十日の「尖閣列島の領有権および大陸棚資源の開発権に関する主張」は、この地域は、「明治二十八年一月十四日の閣議決定をへて、翌二十九年四月一日、勅令第十三号に基づいて日本の領土と定められ、沖縄県八重山石垣村に属された」という。

 これは事実ではない。「明治二十九年勅令第十三号」には、このようなことは一言半句も示されていない。次にその勅令をかかげる。

 「朕、沖縄県ノ郡編成ニ関スル件ヲ裁可シ、茲(ここ)ニコレヲ公布セシム。

  御名御璽

 明冶二十九年三月五日

        内閣総理大臣侯爵 伊藤博文

        内務大臣     芳川顕正

  勅令第十三号

第一條 那覇・首里区ノ区域ヲ除ク外沖縄県ヲ盡シテ左ノ五郡トス。

 島尻郡  島尻各間切(まきり)、久米島、慶良間諸島、渡名喜島、粟国島、伊平屋諸島、鳥島及ビ大東島

 中頭郡  中頭各間切

 国頭郡  国頭各間切及ビ伊江島

 宮古郡  宮古諸島

 八重山郡 八重山諸島

第二條 郡ノ境界モシクハ名称ヲ変更スルコトヲ要スルトキハ、内務大臣之ヲ定ム。

  附則

第三條 本令施行ノ時期ハ内務大臣之ヲ定ム。」

 この勅令のどこにも、「魚釣島」や「久場島」の名はないではないか。むろん「尖閣列島」などという名称は、この当時にはまだ黒岩恒もつけていない。琉球政府の七〇年九月十七日の声明「尖閣列島の領土権について」は、右の三月の勅令が四月一日から施行されたとして、そのさい「沖縄県知事は、勅令第十三号の『八重山諸島』に尖閣列島がふくまれるものと解釈して、同列島を地方行政区分上、八重山郡に編入させる措置をとったのであります。……同時にこれによって、国内法上の領土編入の措置がとられたことになったのであります」という。

 これはまた恐るべき官僚的な独断のおしつけである。勅令第十三号には、島尻郡管轄の島は、いちいちその名を列挙し、鳥島と大東島という、琉球列島とは地理学的には隔絶した二つの島もその郡に属することを明記しているのに、八重山郡の所属には、たんに「八重山諸島」と書くだけである。この書き方は、これまで八重山諸島として万人に周知の島々のみが八重山に属することを示している。これまで琉球人も、釣魚諸島は八重山群島とは隔絶した別の地域の島であり、旧琉球王国領でもないことは、百も承知である。その釣魚諸島を、今後は八重山諸島の中に加えるというのであれば、その島名をここに明示しなければ、「公示」したことにはならない。当時の沖縄県知事が、釣魚諸島も八重山群島の中にふくまれると「解釈」したなどと、現在の琉球政府がいくらいいはっても、釣魚島や黄尾嶼が八重山郡に属すると、どんな形式でも公示されたことはない、という事実を打ち消すことはできない。

 じっさい、この勅令は、もともと釣魚諸島の管轄公示とは何の関係もない、沖縄県に初めて郡制を布く(これまで郡制は沖縄県にはなかった)ということの布告にすぎないのである。

 釣魚諸島は、事実上は何年何月何日かに沖縄県管轄とせられたのであろう。あるいはそれは明治二十九年四月一日であったかもしれない。しかし、そのことが公示されたことがないかぎり、いま政府などがさかんにふりまわす帝国主義の「国際法」上の「無主地先占の法理」なるものからいっても、その領有は有効に成立していない。

 明治政府は、どこかの無主地の島を新たに日本領土としたばあいには、その正確な位置、名称および管轄を公示することの決定的重要性はよく知っていた。釣魚諸島を奪いとる四年前、一八九一年(明治二十四年)、小笠原島の南々西の元無人島を日本領土に編入したさいにも、まず同年七月四日、内務省から外務省に次のように協議した。

 「小笠原島南々西沖合、北緯二十四度零分ヨリ同二十五度三十分、東経百四十一度零分ヨリ同百四十一度三十分ノ間ニ散在スル三個ノ島嶼ハ、元来無人島ナリシガ、数年来、内地人民ノ該島ニ渡航シ、採鉱、漁業ニ従事スル者コレ有ルニ付キ、今般該島嶼ノ名称、所属ニ関シ、別紙閣議ニ提出ノ見込ニコレ有リ候。然ルニ右ハ国際法上ノ関係モコレ有ルベシト存候ニ付キ、一応御協議ニ及ビ候也。」

 「別紙」の閣議提出案には、この島の緯度・経度を明記し、かつ、「自今小笠原島ノ所属トシ、其ノ中央ニ在ルモノヲ硫黄島ト称シ、其ノ南ニ在ルモノヲ南硫黄島、其ノ北ニ在ルモノヲ北硫黄島ト称ス」と、その所属と島名の案も示してある。外務省もこれに異議なく、ついで閣議決定をへて、明治二十四年九月九日付勅令第百九十号として、『官報』に、その位置、名称及び所管庁が公示された。さらに、そのことは当時の新聞にも報道せられた(『日本外交文書』第二四巻「版図関係雑件」、『新聞集成明治編年史』)。

 さらに、釣魚諸島の「領有」より後のことであるが、一九〇五年(明治三十八年)、朝鮮の鬱陵島近くの、それまでは「松島」あるいは「リャンコ島」として、隠岐島や島根県沿岸の漁民らに知られていた無人島を、新たに「竹島」と名づけて日本領に編入(註)したさいも、一月二十八日に閣議決定、二月十五日、内務大臣より島根県知事に「北緯三十七度三十秒、東経百三十一度五十五分、隠岐島ヲ距ル西北八十五浬ニ在ル島ヲ竹島ト称シ、自今其ノ所属隠岐島司ノ所管トス。此ノ旨管内ニ告示セラルベシ」と訓令した。そして島根県知事は、二月二十二日内相訓令通りの告示をした(大熊良一「竹島史稿」)。

 (註)この「竹島」を日本領としたことは、朝鮮国領土の略奪であると朝鮮側が主張していることは、周知のことであろう。私はまだこの問題を十分に研究していないが、この領有は無主地の先占であるという、自民党調査役大熊良一の「竹島史稿」の説には、大いに疑問をもっている。

 「竹島」領有の経過を詳述した自由民主党調査役大熊良一は次のようにのべている。「このような(竹島領有のばあいのような)閣議決定の領土編入についての公示が、直ちに国の主権に及ぶという手続きは、明治初年いらい明治政府によってとられてきた慣行であり、こうした事例によって無主の島嶼が日本国領土に編入された事例が多くある。硫黄島(一八九一年)や南鳥島(一八九八年)さらに沖の鳥島(一九二五年)などの無人の孤島が、日本国の領土に編入され、それが国際的にも認知されるに至った公示の手続きは、すべてこの竹島の国土編入の手続きと同じように、地方庁たる府県告示をもって行なわれたのである。」(硫黄島は前記の通り、勅令で公示されている−−井上)

 帝国主義支配政党である自由民主党調査役でさえ、この通り、新領土編入の場合にはその公示を必要とすることをみとめているが、釣魚諸島の領有についてだけは、それがまったく行なわれていない。日本政府は、この島々の緯度・経度も、名称も、所轄も、どんな形式によっても、ただの一度も公示せず、すべて秘密のうちに、日清戦争の勝利に乗じて、勝手に、いつのまにか日本領ということにしてしまった。これを窃かに盗んだといわずして何といおう。

 こういう次第であるから、現在政府や日本共産党や諸新聞が「尖閣列島」と称している島々の地理的範囲も、どこからどこまでのことか、いっこうにはっきりしない。またその「列島」内の個々の島の名称も、政府部内においてさえ、海軍省と内務省系統とはよび名がちがう。このことはすでに本論文の第七、八節でくわしくのべた。也国の領土を、内心ではそうと気づきながら、「無主地」だなどとこじつけ、こっそり盗みとるから、その「領有」を公示もできず、その「領有」の年月日も、その地域の正確な範囲も、位置も、その名称すらも一義的に確定できないのである。

 これが、彼らのいう「無主地の先占」の要件を一つも充たしていないことは、彼らが「硫黄島」や「竹島」を領有したしかたとくらべてみれば、誰にもすぐわかるであろう。

 釣魚諸島は本来無主地ではなく、れっきとした中国領であった。この地に「無主地の先占」の法理を適用すること自体が本来不可能であるが、かりに無主地であったと仮定しても、その「先占」なるものも、この通り日本領編入を有効に成立させるのに必要な法的手続きを行なっていない。真の無主地を、あるいは本気で無主地と信じている土地を、何らの悪意もなく領有するのではなく、内心では中国領と知りながら、戦勝に乗じてそこをかすめとるから、こういうことにならざるをえないのである。これはどうりくつをつけてみても、合法的な領有とはいえない。

 一八九五年、日清講和条約第二条で、台湾を日本が領有すると、ただちに、台湾の南側と、当時はスペイン領であったフィリピン群島との境界を、スペイン政府が問題にした。これについては、日本とスペイン両国府の交渉があり、同年八月七日の両国政府共同宣言(註)で、「バシー海峡ノ航行シ得ベキ海面ノ中央ヲ通過スル所ノ緯度平行線ヲ以テ、太平洋ノ西部ニ於ケル、日本国及ビスペイン国版図ノ境界線ト為スベシ」ということ、その他が決定され、日本領台湾とフィリピンの境界は明確にされた。

 (註)『日本外交文書』第二八巻第一冊「西太平洋ニ於ケル領海ニ関シ日西両国宣言書交換ノ件」。

 また同じ下関条約で日本が領有することになった、台湾の西側の澎湖列島の範囲については、条約にその緯度・経度が明示されていたから、これと中国その他の領土との境界も、はじめから明確であった。

 ただ、台湾およびその付属島嶼の北側と東側の境界については、講和条約に何の規定もなく、また、それに関する清国と日本との別段の取りきめも行なわれなかった。清国政府は、台湾はおろか本土の要地遼東半島までも一時は日本に割譲をよぎなくされるほどの敗戦の打撃で、いまだ一度も放棄したことのない琉球に対する清国の歴史的権利を主張する力さえ失っていた。まして琉球と台湾の中間にあるけし粒のような小島の領有権を、いちいち日本と交渉して確定するゆとりはなかったであろう。日本政府はそれをもっけの幸いとして、琉球に関する中国のいっさいの歴史的権利を自然消滅させるとともに、かねてからねらっていた釣魚島から赤尾嶼に至る中国領の島々をも、盗み取ってしまったのである。

一四 釣魚諸島略奪反対は反軍国主義闘争の当面の焦点である
 日本政府や日本共産党が、どんなに歴史を偽造し、ねじまげ、事実をかくし、帝国主義の国際法なるものをもてあそんでも、中国の領土は中国の領土であり、日本が盗んだものは盗んだものである。

 したがって、日本が第二次世界大戦に敗れ、中国をふくむ連合国の対日ポツダム宣言を無条件に受諾して降伏した一九四五年八月十五日(降伏文書に正式調印したのは九月二日)から、釣魚諸島は、台湾・澎湖列島や「関東州」などと同じく、自動的にその本来の領有権者である中国に返還されているはずである。なぜなら、ポツダム宣言は、降伏後の日本の領土に関して、「カイロ宣言の条項は実行される」と定めてあり、そのカイロで発せられた中国、イギリス、アメリカの三大同盟国の共同宣言は、「三大同盟国の目的は……満洲、台湾、澎湖島のような、日本国が清国人から盗取したすべての地域を、中華民国に返還することにある」とのべているから(カイロ宣言中の「中華民国」は現在では、全中国の唯一の政権である中華人民共和国と読み替えるべきである)。

 釣魚諸島を盗み取った一八九五年以後に、日本政府がここを国内法的にどうあつかい、ここにどんな施設をしようとも、また古賀辰四郎が一八九六年九月、多年の宿願を達して釣魚全島を政府から「借地」し、そこで事業を盛大に営んだとしても、それらのことは、現在この島を日本領とする根拠には、まったくなり得ない。また、日本が盗み取っていた期間に、中国からそれについて一度も抗議が出なかったとしても、そのことは、「日本国が清国人から盗取したすべての地域」は中国に返還されなければならないという、カイロ宣言の実行を規定したポツダム宣言の効力に、何の影響もあたえるものではない。

 さらに、また日本が連合国に降伏した一九四五年八月以後も、アメリカ帝国主義が琉球列島とともに中国領釣魚諸島を占領しつづけ、さらに一九五二年四月二十八日発効のサンフランシスコ講和条約で、釣魚諸島をもひきつづき米軍の支配下に置くことが定められたことも、それらの島が歴史的に中国領であるという事実をすこしも変更するものではない。したがって現在、アメリカ政府から、釣魚諸島の「施政権」が、「南西諸島」の米軍施政権にふくまれるものとして、日本に「返還」されても、そのことによって、釣魚諸島があらためて日本領になるのではない。どこまでいっても、中国のものは中国のものである。

 それにもかかわらず、あらゆる歴史の真実と国際の正義にさからって、日本帝国主義は釣魚諸島を、いま、「尖閣列島」の名で、再び中国から奪い取ろうとしている。そして中国が、釣魚諸島はずっと昔から中国の領土である、この不法略奪はゆるさない、と正当な主張をすれば、日本政府のみならず、軍国主義・帝国主義に反対と自称する日本共産党も日本社会党も大小の商業新聞も、ことごとく、完全に帝国主義政府に同調して、何らの歴史学的証明もせず、高飛車に、ここが歴史的に日本領であることは自明であるとして、日本人民を、にせ愛国主義・排外主義・軍国主義の熱狂にかりたてようとしている。

 かつての天皇制軍国主義は、その最初の海外侵略のほこ先を、イギリスまたはアメリカにはげまされ、支持され、指導までされて、まず朝鮮・台湾に向け、それとの関連で、島津藩の半植民地琉球王国を名実ともに滅ぼして天皇制の植民地とし、やがて日清戦争に突入した。そしてその戦争の勝利が確実となるやいなや、琉球の向うの中国領釣魚諸島を盗み取った。これが近代日本の支配者が奪いとった百パーセント外国領土の最初の地であった。そしてこの天皇制軍国主義は、その後の日本帝国主義の、とめどもない朝鮮、中国、アジアの侵略につらなり「発展」していった。

 それとまったく同じ型の道を、いま、第二次大戦の惨敗から再起した日本帝国主義支配層は、アメリカ帝国主義にはげまされ、援助され、指導どころか指揮までうけて、まっしぐらに突進している。一九六五年の「日韓条約」、六九年の佐藤・ニクソン共同声明、そして本年五月十五日発効の「南西諸島」−−琉球と釣魚諸島その他の島−−の「施政権」をアメリカから日本に「返還」するという日米協定による、これらの地域の日米共同軍事基地化は、明治の天皇制軍国主義の歩んだと同じ道である。そして釣魚諸島が、日本の奪いとる外国領土の最初の地であるということまで、天皇制軍国主義そっくりそのままである。この次のねらいは台湾と朝鮮であろうか。

 火事は最初の一分間に消しとめなければならない。いまわれわれが、日本支配層の釣魚諸島略奪を放任するならば、やがて加速度的に日本帝国主義のアジア侵略の大火は燃えひろがるであろう。ただし、朝鮮人民、中国人民、アジア人民は、昔のように日本帝国主義の野望の実現をゆるすことは、決してないであろう。

 帝国主義反対、軍国主義反対と、どんなに声高くさけんでも、アジア革命勝利を百万遍となえても、現実に、具体的に、その日本帝国主義・軍国主義が、すでに中国領釣魚諸島に侵略の手を着けていることに反対してたたかわなければ、そのいわゆる帝国主義・軍国主義反対は、現実には日本帝国主義・軍国主義を是認し支持することにしかならない。

 ましてや、「尖閣列島は日本領である」などといって、帝国主義政府と緊密に協力しながら、「尖閣列島」の軍事的利用はゆるさない、ここを平和の島にせよなどという、日本共産党などは、日本帝国主義の積極的な共犯者である。帝国主義が他国の領土を奪い取るのに全力をあげて協力しておいて、さてその奪い取ったものの使い方に、平和主義をよそおう注文をつけるのは、きわめて悪質な人だましである。これと同じことを、かつて一九二七年以来の日本帝国主義の中国侵略のさい、社会民衆党その他の右翼社会民主主義者がやった。いまの日共はそれと瓜二つである。

 「尖閣列島は日本のものでもない、中国のものでもない、それは人民のものである。われわれは、日本と中国の国家権力の領土争いには、どちらにも反対である」などといって、いかにも国際主義の人民の立場に立っているかの如く幻想するものがある。これこそ掛値なしの「革命的」空論である。その空論で現実の日本帝国主義を支援するものである。

 この地上から、いっさいの帝国主義と搾取制度が消滅させられ、いっさいの階級がなくなり、したがって国家も死滅する、遠い将来のことはいざ知らず、現在、すべての具体的現実的な、生きた人間は、階級に編成され、国家に区分されている。この現代の、生きた人民の国際主義の最大の任務は、帝国主義に反対することである。とりわけ帝国主義国の人民は、何よりもまず自国の帝国主義に反対しなげればならない。たとえ自国帝国主義と他の帝国主義国とが戦争した場合にさえ、国際主義の人民・プロレタリアートは自国帝国主義に反対してたたかう。決してどちらにも反対などといってすましてはいない。まして自国帝国主義が、現代世界の反帝勢力の拠点である中国の領土を盗むのに反対しないような、反帝はありえない。現在、われわれが日本帝国主義の釣魚諸島略奪に反対するのは、それがまさに日本帝国主義の当面の侵略の目標であり、その達成によって日本帝国主義がいっそう侵略を拡大する出発点がつくられるからである。とくに中国領をとろうとするからそれに反対するのではなくて、外国領土を取ろうとする、これが再起した日本帝国主義の出発点であるから、今、すぐ、その出発点をつぶさなければならないのである。そうするのは、中国びいきの人であろうとなかろうと、中国のためにするのではなく、日本帝国主義下にある日本人民の国際主義の貫徹としてであり、だれよりもまず日本人民自身のためである。人民、あるいはプロレタリアートを、生命のない、抽象的観念と化してしまい、「人民」は日中両国家の領土争いには反対である、などとの空論にふけることは、日本帝国主義に反対する日本人民の国際主義のたたかいに水をぶっかけ、日本帝国主義を助けるものでしかない。

 またある人々は次のようにいう。軍国主義に反対の日本人民は、いま日本と中国との国交回復に全力をあげるべきである。そのためにまず解決すべきことは台湾問題である。日本の支配者たちをして、完全に蒋介石一派と絶縁して日台条約を破棄させ、台湾省は中国の一省であり、台湾省をもふくめて全中国を支配する唯一の政権は中華人民共和国であるということを公式に認めさせ、その中国と日本との国交回復をかちとることが当面の中心課題であって、釣魚諸島問題は、国交回復後に、日中両国政府が平和五原則にもとづいて話し合いで解決されるだろう、それまで釣魚諸島問題をさわぎたてない方がよい、などというのである。

 この説は、公然と明示されていないけれども、ひじょうに広く存在している。この説は、いま釣魚諸島問題をもちだせば、大衆は軍国主義者のあおるにせ愛国主義のとりこになり、反中国になり、日中国交回復をさまたげるものとみなしている。それと同時にこの主張は、中国政府は釣魚諸島問題が日中国交正常化の妨げにならないよう配慮している、と伝えられているのを頼りにしている。このように日本人民を信じないで、中国外交の賢明巧妙に頼るだけで、日本軍国主義とたたかうことが、どうしてできよう。われわれ日本人民は、中国政府のきめの細かい巧妙な外交に頼ってわれわれ自身のたたかいを放棄するのではなく、反対に今のうちにこそ、すなわち日中が国交正常化して、次の平和条約の交渉に移った段階で必然に釣魚諸島の帰属が日中両国政府間の交渉の重大案件として大きく前面に出て来る以前にこそ、われわれは声を大にして、釣魚諸島に関する歴史と道理を人民にうったえ、日本帝国主義の中国領釣魚諸島略奪反対のたたかいを広範に展開すべきである。いまそうしないで、この問題が日中政府間交渉の議題に上ったときに、ようやく、釣魚諸島は中国領だと正論を宣伝しようとしても、そのときはすでにおそし、政府、自民党、日共をはじめ各政党とマス・コミがいっせいにあおる、尖閣列島は日本のものだ、中国に屈服するな、などという反中国のにせ愛国主義と軍国主義の猛焔が、日本中をつつんでいることだろう。

 釣魚諸島略奪反対のたたかいは、後日ではなく、まさに今日、日本人民が全力をあげてとりくむべき、日本軍国主義・帝国主義反対の闘争の当面の焦点である。このたたかいに目をつむって、反帝も反軍国主義もありえない。釣魚諸島略奪反対の闘争と日中国交回復の闘争とを、切りはなしたり、甚しきは対抗させたりすることは、じつは日帝を援助することである。本気で、まじめに、具体的に、日本帝国主義軍国主義に反対してたたかおう。そのたたかいの、当面の最大の緊急の焦点である、日本帝国主義軍国主義の中国領釣魚諸島略奪反対に、全力をあげよう。

一五 いくつかの補遺
 この原稿が印刷所に入ってから後に、私は二つの、それぞれにちがった意味で、興味ある雑誌を見た。一つは、朝日新聞社発行の『朝日アジアレビュー』第十号である。これには「尖閣列島」問題が特集されている。もう一つは台湾の学粋雑誌社編『学粋』第十四巻第二期「釣魚台是中国領土専号」である(本年二月十五日付発行)。これらの論文を、いちいち紹介批評するのは、ここでの私の目的ではなく、これらに触発されて、私が考えたことを、本論文の補遺として、二、三書いておきたい。

 『朝日アジアレビュー』の高橋庄五郎の「いわゆる尖閣列島は日本のものか」の一節は、東恩納寛惇が琉球諸島は元来日本領であったことの証拠の一つとして、「オキナワ」その他の島名が日本語であることの意義を指摘しているのを引用し、その論法を釣魚諸島問題に適用し、これらの島が中国名であることに注意をうながしている。

 釣魚諸島は、明・清の時代には無人島ではあったが、決して無名の島ではなかった。りっぱな中国名をもっていた。ふつう国際法上の「無主地」として「先占」の対象になる島は、無人島であるばかりでなく、無名の島である。大洋中に孤立した無人島で、かつ、それに何国語の名もついていないならば、それは無主地であるとみなすことができようが、それに、れっきとした名称がついているばあいには、その名称をつけた者の属している国の領土である可能性が多い。

 釣魚諸島は、明・清時代の中国人の琉球への航路目標にされた。福州から琉球へ航するさい、まずこれこれの島を目標にし、ついでこれこれの島を目標にすると航路を確定するためには、その島々の位置を明らかにし、一定の名称をつけておかなければならない。こうして釣魚諸島には中国人によって中国語名がつけられ、かつそのことが中国の公的文献に記録され、伝承された。しかもその島々は、中国の沿海にあり、中国領であることは自明の島々につらなっている。のみならず、その島々のさらに先につらなる島は琉球語名がつけられており、はっきりと琉球領として中国語名の釣魚諸島とは区別されている。こういうばあいに、その中国名の島々を、「無主地」だなどと中国人はもとより琉球人も考えるわけはない。まして、本文でくわしく論じたように、中国名の赤尾嶼と琉球名の久米島との間が、「中外ノ界ナリ」と明記されている中国の文献が二つもあり、江戸時代日本人のこの島々を記録した唯一の文献『三国通覧図説附図』も、ここをはっきり中国領としているのだから、これでもなお、「無主地」ということは、とうていできない。

 高橋論文によって、私は島名の重要性を教えられたのだが、その論文が、釣魚諸島は下関条約第二条によって清国から日本に奪いとられたのではないか、としている疑問には、私は否定的に答える。高橋が指摘している通り、台湾・澎湖諸島とその付属島嶼の受け渡しは、「実に大ざっぱな形だけの受け渡し」であったことはまちがいない。それゆえ私も、『歴史学研究』二月号にのせた論文を書いたときは、高橋と同じように考えていたが、いまは本文第一二、一三節に書いた通り、ここは台湾略取と同時に、かつ台湾略取と政治的にも不可分の関連をもって、げんみつに時間的にいえば台湾より少し早く、法的には非合法に何らの条約にもよらず、清国から窃取したと考える。もしこの島々が、下関条約第二条にいう台湾付属の島(地理学的なことではない)として、台湾とともに日本に割譲されたものであれば、どうしてこの島は台湾総督の管下になくて沖縄県に所属させられたのか説明できない。明治十八年以来、天皇政府がこの島を盗みとろうとねらいつづけた全過程をみれば、この盗み取りが、日清戦争の勝利と不可分ではあるが、下関条約第二条との直接の関係はないと言わざるをえない。

 『朝日アジアレビュー』の奥原敏雄の「尖閣列島と領土帰属問題」は、「尖閣列島」日本領論者がいよいよその帝国主義的強盗の論理をむき出しにしたものとして「興味」深い。彼は書いている、「無主地を先占するに当っての国家の領有意思存在の証明は、国際法上かならずしも、閣議決定とか告示とか、国内法による正規の編入といった手続きを必要とするものではない。先占による領域取得にあたって、もっとも重要なことは実効的支配であり、その事実を通じ国家の領有意思が証明されれば十分である」(二〇ぺージ上段)と。彼はまた、「尖閣列島の自然環境や居住不適性を考えるならば、現実的占有にまで至らなくても、国家の統治権が一般的に及んでいたことを立証することができれば、国際法上列島に対する日本の領有権を十分に主張しうるといえよう」(二一ぺージ上段)ともいう。

 中国の封建王朝の領土支配の諸形態のうちの一つに、近代現代の主権国家の領土支配と同じしかたのいわゆる実効的支配が行なわれていないからといって、そこは「無主地」だと強弁する奥原が、日本国家の行為については、「尖閣列島」は自然環境が悪くて人が住むのに適していないから、そういう地域は「現実的占有」をしなくても、領有を「公示」しなくても、また日本領編入の国内法上の手続きをしなくても、日本政府がここを日本領とするときめて支配すれば、日本領である、とにかく、オレの領土として支配している所はオレの領土だ、というのである。これほど帝国主義的な自分勝手の議論がまたとあろうか。彼がこのように、なりふりかまわず、居直り強盗の論法をふりまわさざるをえないということこそ、釣魚諸島日本領論の完全な破綻を自らばくろするものである。

 奥原は、このような居直り強盗の論法で、明治十八年以来日本はここを領有し、「統治行為」を行なってきたのだと、あれこれの事をあげているが、ここが明治十八年以前に「無主地」であったという論証は、一字もしていない。彼はそれ以前の論文で、陳侃や郭汝霖の記述は、釣魚諸島が琉球領でないことを示すだけで、中国領であることを示すものではない、それは無主地であった、ということは証明ずみであるかのようによそおっている。だが、その説に対しては、私は『歴史学研究』本年二月号で、批判を加え、陳・郭の文章をどう読むのが正しいかを明らかにし、さらに、汪楫の使録で、赤尾嶼以西が中国領であることは、文言の上でも明確にされているという史料もあげておいた。奥原はこの批判に対しては、一言半句も反論もせず、すっかり無視したかのようである。彼は反論できないのである。

 釣魚諸島が無主地でなく中国領であったということが確認されれば、いかなる「先占」論も一挙に全面的に崩壊する。私はその証明を、今回の論文で、前回の『歴史学研究』論文よりも、いっそう明確にしたが、私見をさらに補強する史料が、前記の雑誌『学粋』に出ている。それは、方豪(ほうごう)という人の「『日本一鑑』和所記釣魚嶼」という論文である。

 『日本一鑑』は、一五五五年に、倭寇対策のために明朝の浙江巡撫の命により日本に派遣された鄭舜功(ていしゅんこう)が、九州滞在三年の後に帰国して著作した書物である。同書の第三部に当る「日本一鑑桴海図経」に、中国の広東から日本の九州にいたる航路を説明した、「万里長歌」がある。その中に「或自梅花東山麓 鶏籠上開釣魚目」という一句があり、それに鄭自身が注釈を加えている。大意は福州の梅花所の東山から出航して、「小東島之鶏籠嶼」(台湾の基隆港外の小島)を目標に航海し、それより釣魚嶼に向うというのであるが、その注解文中に、「梅花ヨリ澎湖ノ小東ニ渡ル」、「釣魚嶼ハ小東ノ小嶼也」とある。この当時は小東(台湾)には明朝の統治は現実には及んでおらず、基隆とその付近は海賊の巣になっていたとはいえ、領有権からいえば、台湾は古くからの中国領土であり、明朝の行政管轄では、福建省の管内に澎湖島があり、澎湖島巡検司が台湾をも管轄することになっていた。その台湾の付属の小島が釣魚嶼であると、鄭舜功は明記しているのである。釣魚島の中国領であることは、これによってもまったく明確である。こういう史料は、中国の歴史地理の専門家は、さらに多く発見できるにちがいない。

 『朝日アジアレビュー』の特集の巻頭言「尖閣を日中正常化の障碍とするな」は、「尖閣列島」が歴史的には中国領であったことを、抹殺しようとつとめている。

 いわく「共産圏では大体、欧米より国家主義が強い。チェコで案内書の一節におどろかされた。いわく−−われらの祖先は、かつてアドリア海から北海にいたる地域を支配していた、と。

 妙な話だと思い、よく読んでみると、その大国は神聖ローマ帝国のこと。チェコの首都プラハは、大帝国の首都でもあったのである。

 歴史主義もこの場合ご愛嬌だが、世界各国がそれぞれの最盛期における版図を現在もし主張すれば、たいへんな騒動になるだろう。

 尖閣列島の問題も、歴史主義だけではかたづかない。」

 この一文はまるで、現代中国が、歴史上の中国の最大版図をいまの中国領であると主張しているかのように読者に印象づける。そして、同誌編集部のつくった「尖閣列島問題年史」は、一八七二年、日本政府が琉球国王尚泰を琉球藩王としたことからはじまり、それ以前の、陳侃使録以来、釣魚島が中国領と記録されている長い時代については、一字も書こうとしない。歴史をまったく無視抹殺している。

 この年表によれば、明治十八年九月、沖縄県令がここを沖縄県所管とする国標をたてるよう内務卿に上申したことになっている。これはうそである。事実は、内務卿が国標をたてようとして沖縄県に調査を内命したのに対して、沖縄県は調査の結果、ここは中国領らしいとの理由で、国標建設をためらう意見を出した。このことは本文にくわしくのべた。

 またこの年表は、一八八六年三月「海軍水路部『寰瀛水路誌』に尖閣列島に関する調査結果を発表」と書いている。これでみると、いかにも日本海軍が独自に調査したようであるが、実はそれは英国海軍水路誌の記述の抄訳であったことも、本文で明らかにした。さらにこの年表は、一八九六年四月一日「勅令第一三号による郡制の沖縄県施行により、沖縄県知事は尖閣列島を八重山郡に編入後国有地に指定(魚釣島、久場島、南小島、北小島)」とある。勅令第十三号云々のでたらめも本文で明らかにした。

 『朝日アジアレビュー』はこのように歴史を抹殺しながら、「国際問題に関心をもつ日本人の多くは、尖閣問題について語りたがらない。中国に悪く思われはせぬか、商売上の損になってはこまる、といった発想法であろう。だが意見は意見として述べないのは、信頼をえる道ではあるまい」などと、現在の事実をもねじまげる。

 「尖閣」問題について、国際関係に関心をもつ専門家も、歴史家も語ろうとしないのは事実である。私が『歴史学研究』にこの問題に関する論文を寄稿したら、編集長は、それをのせたということで、委員会でつるしあげられたらしい。釣魚諸島は歴史的に中国領であって無主地ではないことを考証した、学術論文を専門雑誌にのせることさえ、容易ではない。

 このようなことが起るのは、何も日本人が中国に気がねしてではない。まさにその逆である。日本の権力者、ジャーナリズム、右翼および日本共産党の顔色をうかがうからである。歴史学的にも、国際法論的にも、釣魚諸島は無主地だったとか、日本の領有は無主地の先占であるとか、まじめに、事実を事実とし論理を論理とするかぎり、いえたものではない。しかし、そういわないで、ここは中国領であったと正しいことをいえば、「国益に反する」「売国奴」として、さまざまの中傷・迫害をうける。領有問題がもっと尖鋭になれば、正論を吐くものへの迫害もいっそう尖鋭になろう。まして、議員選挙では、この正論は必ずしも得票と結びつかない。それどころか、自分自身がにせ愛国主義を克服しておらず、大衆は領土欲が強いものとひとりぎめにしている人々には、釣魚問題で正論をはけば大いに得票がへるだろうと恐ろしくてならない。議員候補者たらんとする者や政党はみなそう思っているので、日本共産党のように、積極的に、「尖閣は日本領だ」とどなりたてて、「にせ愛国主義」をあおって票をかせごうとするか、そこまでだらくできないものは黙っている、ということになるのである。学者でも、中国に気がねではなくて、日本の国家主義と日共に気がねして、正論をはくことがこわい以上は、「沈黙は黄金なり」をきめこんでいるのである。

 そして、「次元の低い国家主義」に反対と称する『朝日アジアレビュー』は、この島々の歴史をまったく無視して、歴史的論文は一篇ものせないばかりか、年表からさえも、これが中国領であることを示す事はすっぱりと切り棄てて、その上に巻頭言で、専門家よ、歴史にこだわるな、ここが日本領であると大声でさけべと煽動しているのである。

 こういう危険な状況に対して、反帝とか反軍国主義とか日中友好とかをいう人々が、毅然として立ちむかい、真実を真実として公然と発言することを切望する。「尖閣の問題は、歴史的事実がどうか、法律の上でどちらが正しいか、私などにはよくわからないので、だまっているほかない」などと、いいかげんな逃げ口上はやめて、わからなければ研究し調査して、どんどん発言しようではないか。これは、よくわからないですませられるような問題ではない。再起した日本帝国主義軍国主義に反対するかどうか。われわれ日本人民の前途にかかわる決定的な問題である。

 (一九七二年六月十一日追記。『中国研究月報』六月号)
http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html
 


52. 2012年10月04日 00:39:22 : e0IlhGmDvk
>>51
中川隆さん、いくら井上御大の論文を何回も何回も色々なところに貼り付けても無駄ですよ。

しかもいつも、同じ論文ですね。
それしか無いのでしょうか?
残念ながら、井上先生のその論文は、現在では何の説得力も持っていないのです。
日本の象牙の塔のシステムがどの様なものなのか御理解下さい。


53. 2012年10月04日 08:04:21 : HNPlrBDYLM
井上先生の論文で価値が有るのは

尖閣は琉球民族との関係は無く、台湾に属する島嶼だという事。

これに対する反論が無い以上、井上先生の論文の価値は普遍ですね。


問題は尖閣が琉球人のテリトリーかどうかという事ですね。

歴史的にも位置的にも尖閣は沖縄圏ではなく台湾圏なのです。

従って、無人島だからといって勝手に日本人が居住する事自体が犯罪になるのです:


縄文文化の影響が強かった沖縄諸島に対し、先島諸島(宮古諸島・八重山諸島)ではかなり違った様相が見られる。縄文時代に当たる古い時期には、厚手平底の牛角状突起がある下田原(しもたばる)式土器などが見られる。

これらは縄文土器よりも台湾先史時代の土器との共通点が指摘されており、この時期には縄文文化と異なる東南アジア系の文化があったとも考えられる。その後約2500年前から先島諸島は無土器文化の時代に入るが、この時代もシャコガイを用いた貝斧など東南アジアとの関連性を示唆する遺物がみられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

まあ、瀬戸内海の無人島にここには今迄日本人が住んだ事は無いと言ってアメリカ人が居住して、

100年後にここはアメリカの領土だと宣言するのと同じ状況ですね。


54. 2012年10月04日 08:46:43 : aLjoTxJYyw
>52.
>日本の象牙の塔のシステムがどの様なものなのか

これはね、’原子力ムラ’の専門家なるムラ人の在り様を見ればね、仰る通りでしょう(笑)

しかしながら、それはね、’原子力ムラ’同様、「正しい」とか「真実」とは何の関係も無い、ということに過ぎないのではないですかね。

第一、井上氏の所論に対して、氏自身も言ってる様に、正面から反論なり批判がなされていないのは、「象牙の塔」においても、(学者としての良心まで捨てて)正面切って体制御用を務めることへの躊躇いが在った、ということでしょう。
だとすると、反論なり批判がなされていない事自体がこの問題の答えにもなってるように思われますが。


55. 2012年10月04日 12:14:30 : e0IlhGmDvk
>>53
別のところでも書きましたが、井上先生は鄭若曾の琉球國圖を御覧になってません。
つまり、2012年現在ならば網羅しうる資料を、網羅せずに書かれたものなので、
現在では説得力がないのです。

>歴史的にも位置的にも尖閣は沖縄圏ではなく台湾圏なのです。

上記の御主張も、巷に数ある主張の中の一つでしかありません。
当然、それとは違う主張も存在しているわけです。

中国はあの様な体制の国なので除外しますが、言論の自由が保障された国においては、色々な考え方が存在します。
井上先生の論文は、そういった色々な中の『日本における中国帰属論者』の論文の
一つでしかなく、別にそれが真実であるというわけでもありません。

>>54
井上先生の主張と異なる主張の論文はいくつも存在します。
面倒くさいので、御自分で調べて下さい。
(沖縄出身の学者・緑間栄先生等も井上論文に反論をされています。)

井上先生は歴史家であって、海洋や海域、あるいは国際法や国際関係の専門家ではありません。
ですから歴史研究の手法で尖閣諸島を料理しているわけですが、関係する全ての史料を駆使して書かれたわけではないのです。
(鄭若曾の「琉球国図」を見ていない。)
それゆえ、現在では、井上論文は瑕疵が生じた論文となってしまっているのです。

井上先生は日本史学のアカデミズムにおいては偉大な業績を残された先生ですが、だからと言って、象牙の塔の中での地位がそのまま論文の価値になるわけではありませんよね。


56. 恵也 2012年10月04日 17:05:40 : cdRlA.6W79UEw : oqQC6dkzcw
>>55 井上先生は鄭若曾の琉球國圖を御覧になってません。

アンタ水戸黄門が好きじゃないの?
印籠だけで平伏するのはテレビの中だけだよ。

水戸黄門は江戸城と水戸まで歩かれたことがあるようだけど、それ以外は
荒唐無稽の小説なんだけどね。
あなたの記事のほうがはるかに説得力がないよ。

>> 言論の自由が保障された国においては、

日本に言論の自由があると信じてるんだね。
世界ランクで言えば、言論の自由ははるかに下なんだけど・・・・
森田実氏や三井環氏、植草氏と言論の自由がないことは常識だと思ってたよ。

俺は中国と同ランクだと思ってる。
中国人はマスコミを政府がコントロールしてるのを知ってるけど日本人は知らない
だけ救いがない!

ーーーー引用開始ーーーー
三井さんが逮捕された日は午後3時から、大阪市内のホテルで三井さん本人の
内部告発を収録する予定だった。テレビとして初めて顔を出しての告発だった。

しかし、その日の午前中、待機する私たちに東京のテレビ局のプロデューサーから
「三井さんが逮捕された」と電話が入った。私は「検察もそこまでやるのか」と驚くと
同時に、最高の司法権力が見えも外聞もかなぐり捨てたという恐怖感を抱いた。

 登録免許税の軽減措置を図ろうとした(詐欺の)容疑は、高検幹部という司法
の重要人物を逮捕するには余りに軽微過ぎる。一般市民なら身柄を拘束される
事案でない。私は、マスコミへの告発や国会での証言を予定していた三井さんの
口封じとしか思えなかった。
(鳥越俊太郎氏 より)


57. 2012年10月04日 21:32:50 : ZA5fXNvf26
>55.

何だかなあ、、、

>鄭若曾の琉球國圖

これって、単なる地図、「三国通覧図説」の様な所属を明らかにする為ではなく、どの島がどのような位置に在るのかという、配置図でしょう。

何故なら、もしもこれが琉球に所属する島々を示したものならば「小琉球」=台湾も琉球に所属することになる。

しかも、もしも鄭若曾の琉球國圖が領属関係を示したもので、中国の琉球認識となったのであれば、それ以後の冊封使にその認識は反映されていなければならないはず。 
また他方、当該地域が琉球に属することが琉球人の認識になってるのであれば、当然、琉球の正史「中山世鑑」にそれは反映されていなければならないはず。

それ以後の冊封使の記録にも「中山世鑑」にもそれを覗わせる様なものは無いのだから、鄭若曾の琉球國圖は単なる地図(配置図)と観るのが正解だと思いますね。

>緑間栄

寡聞にしてその人の名前は存知あげないが、ネットで見ただけで、読むまでもないと思いましたなww
あの「正論」レベルってだけでね(嘲笑)
何せ、自ら検証もすることなく、「先占」手続きを取ってると断言する「国際法の専門家」だなんて、それこそ非常識ぶりが白日の下に曝け出された原子力ムラの連中と同じでしょう。
貴方もまた、言論の自由についての刷り込まれといい、良い勝負ではあるけど。w


58. 中川隆 2012年10月04日 21:50:33 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

尖閣までわざわざ漁に行った沖縄の漁民は存在しなかった

琉球人で尖閣の事を知っていたのは中国と交易していた極一部の商人だけ。

従って尖閣は琉球の領土ではなく台湾の領土であるのは間違いない:


沖縄の先島(筆者注 宮古・八重山群島)では、中国名の魚釣台と黄尾嶼は、古来からユクン・クバシマの名で親しまれていた。ユクンとは魚島の意であるから,魚釣島が当時から両国(筆者注 日中両国)の好漁場として知られていた(傍点は筆者)のであろう(奥原敏雄論文「尖閣列島」『沖縄タイムス』一九七○年九月二日号)。


 逆風や逆流や台風などによって、列島への渡海や移住の試みが失敗したことはあったが、こうした事実は、尖閣列島が日本に編入される以前の一時期、すなわち明治二十四(一八九一)年ごろまでであった。

 彼らが列島への渡海や移住に失敗したのは、渡航の時期や季節風、自然環境などを無視したこともあったが、最大の理由は、資本もなく、しかも伝馬船や沖縄で用いられているサバニといったくり船で船で列島に渡ろうと試みたからであった・・・・・・。

 基隆より台湾漁船が列島に赴き,操業をおこなうようになったのは、第一次大戦終了前後のころからのようである
(奥原敏雄論文「尖閣列島の領有権と『明報』論文」『中国』一九七一年六月号)。


奥原氏のこの二つの論文には、おかしな点がある。

 第一のおかしな点は、奥原氏が

「古来からユクン・クバシマの名で親しまれた……魚釣島が……両国の好漁場として知られていた」

というが、それでは古来、先島諸島からどんな漁船で魚釣島に行ったのか。沖縄のなかでも特に貧しい先島諸島の漁民たちは、小さなサバニしか持っていなかったと思う。彼らは人頭税と名子制度に苦しみ抜いており、悲惨な生活を強いられていた。この人頭税は一九○三(明治三十六)年までも残されていた。また古来というからには、五○年や一○○年前のことではあるまい。

 第二のおかしな点は、渡航の困難なユクン・クバシマがどうして先人の人たちに親しまれたのかということである。

実生活と深いかかわりあいのない無人島に、どうして親しみをもったのか。親しみをもつからには、しばしばそれを見て美しいと感じたのか。尖閣列島は決して美しい島ではない。では先島の人たちの生活に豊かさをもたらかしたの
か。尖閣列島が開発されるまではそんなこともなかった。では航路の目標として親しまれたのか。これはありうる。しかし、そのような親しみをもった者は、朝貢船か南方諸国との貿易船の乗組員たちだけであったと思う。そして、それはどごく少数の人たちであった。宮古島の保良は海上交易が盛んなころの重要な港であったが,朝貢船、貿易船のほとんどは、那覇からでて那覇に帰ってきた。薩摩藩が琉球の貿易を牛耳っていたからである。牧野清氏は

「八重山としては、十五世紀の末葉ころから始まった南蛮貿易業者や、沖縄航海に従事していた一部の人々にのみ知られてたいと思われる。それが一般的にイーグンクバジマとして広く知られるようになったのは、古賀辰四郎氏が魚釣島やクバ島で事業をはじめてからであるようだ」

といっているが筆者もそう思う。それは決して古来からではない。一九六九年になっても尖閣列島は「交通の便がないために普通に人々が行くことができない、彼方の夢の島」(「尖閣列島標柱建立報告書」一九六九五月十五日)であった。

 第三のおかしな点は、尖閣列島への渡海や移住の試みに失敗したというのは、一八九一(明治二十四)年ごろまでであったというが、一八九三(明治二十六)年には伊沢弥喜太氏が渡航したが、帰路台風に遭って福州に漂着している。伊沢氏は汽船で渡ったわけでなくサバニか伝馬船で渡ったものであろう。

 では、沖縄にはどんな船があったのか。

 マーラン船=これは中国から造船技術を学んで造られた船で、朝貢や海外貿易に使われた三本マストの帆船である。中国のジャンク船に似た船である。帆はガマを織ってつくったガマ帆であった。

 山原船=近代になってから、沖縄本島の北部の山原から木材や薪を運ぶために、マーラン船の小型のものが造られた。これが山原船である。一八七九年の廃藩置県後も山原船は国頭地方の住民にとって、唯一の交通機関、輸送手段であった。

 サバニ=これはくり船といわれる。一八九一(明治二十四)年までは、日本には動力付きの漁船は一隻もなかった。そして全国の漁船のうちくり船は二・一%で、沖縄には二、三一九隻のくり船があった(全国のくり船数は六、二五一隻)。糸満のサバニは船足は非常に速いが、ひっくりかえり易いものである。トカラのくり船は頑丈で安定していたが、そのかわり糸満のくり船のような操縦の軽快さを欠いていた(「九州・沖縄篇」『風土記日本』平凡社刊、九四〜一○七頁)。沖縄に石油発動機ができたのは一九一一(明治四十四)年ごろからである。

 フィリピン型漁船=長い棒を横に出して、船の安定を保つようにしたもの。

 和風型=沖縄本島以外の島々で、初めて沖縄本島などを巡航できる船を造ったのは宮古島である。これは本土から流れてきた船大工によて造られたもので、艫には舵もついており日本の帆柱をもっていた。宮古島から首里王朝へ朝貢船につかわれた(司馬遼太郎著『街道をゆく6』一三二〜三頁参照)。

 一八八二(明治十五)年以降、田代安定、赤堀廉蔵、笹森儀助氏らが沖縄探検をおこなっている。このうち田代安定氏は三回探検し、一八八五年に第二回目の探検をおこなったが、西表島から与那国島に渡るのに、サバニでは渡れなかった。やむなく彼は、西表から四〜五○キロメートルの波照間島に渡った。それにはサバニ二隻を横に並べて、これをくくりつけてようやく渡った。サバニでは、西表島から七○キロメートル離れた与那国には、渡れなかったのである。だから宮古、八重山などの先島諸島から百数十キロメートルも離れた魚釣島に、魚をとりにゆくのは非常に
困難であった。また蛋白源としての魚貝類は、苦労して魚釣島まで行かずとも、島の近辺でとることができた。五月から九月は扁南風が吹き、沖縄は台風の銀座である。そして十月から翌年四月までは「新北風」といわれる北東の季節風が吹く。とくに二月風廻といわれる一月、二月は海の荒れる季節である。

 司馬遼太郎氏の『街道をゆく6』(朝日新聞社刊)に与那国の「小さな魚市」というのがある。

 婦人が魚屋さんに「いくらですか」ときくと、若い主人は「一斤三百円です」と答えた。司馬氏が沖縄の一斤は何グラムかと聞いてたら「この魚四匹です」というおおらかな答えだった。だから何グラムかわからないが、一ぴき七五円であるということはたしかである。しかし、商売にしているのかといえばそうでない。この島では、竹富島もそうであるように、魚屋という独立の商業は存在しないのである。農家の者でも釣りに行って、余分に釣れれば臨時に魚屋になって、それを近所のひとに売ってやるという仕組みなのである。いかにもそれがのんきそうで、いい眺めだったという。また貝は海岸で子供が拾えるから、一家の働き手が半日仕事を休んで採りにゆかなければならぬようなしろものでなかった。

 司馬氏のこの見聞は、一九七四年のことである。何も危険をおかして魚をとりに、尖閣列島まででかける必要はない。これは今も昔もおなじである。


 一九六八年現在で、沖縄の一トン未満のくり船と一〜五トン級沿岸漁船との合計は、沖縄の全魚船数の九○%五〜五○トンの近海漁船は八%、五○トン以上のものは二%である。(『日本の文化地理』講談社刊、第一七巻二六六頁)。

 ところが魚釣島周辺は、台湾漁民にとっては大きな利害関係がある。一九五○年代の末ごろから台湾漁船の数が急激に増え、魚釣島周辺は台湾漁民の好漁場で、年間三、○○○隻の漁船が漁撈に従事しているという。台
湾漁民のうち、尖閣列島周辺に出漁しているのは宣蘭県の漁民がもっとも多く、宣蘭県にある一、三○○余隻のうち三○○余隻が操業していた。尖閣列島周辺での台湾の水揚量は、一九五八年で一万七、○○○トンであったという(一九六八年の沖縄全体の水揚量は三万三、四二三トン)。だから宣蘭県漁民にとっては、生活がかっている

わけである。台湾漁民は尖閣列島に夜間碇泊できなくなると、水揚げが激減することになるという。しかし最近でも沖縄から尖閣列島周辺に出漁する漁船はいない。奥原教授は日本が台湾を支配していた当時の台湾漁民の魚釣島周辺での漁撈は、国際法的には日本人としての行為であったといっている。しかし問題は、台湾漁民の方が
尖閣列島に深いつながりがあったということである。

 たしかに、尖閣列島周辺海域には魚が多い。黒潮にのって北上するカツオ、マグロ、カジキ等は、必ずこのあたりを通り、またサメ類、サバ、アジなどもいた。しかし尖閣列島は、琉球人にとって古来から明治になっても、小さなサバニで危険を冒し、何日もかけて、冷凍も発達していない時代に、魚とりにいかなければならない好漁場ではなかった。琉球人の生活にとって尖閣諸島は、あまり関係のない、まさに「夢の島」だったのである。


  (5) 尖閣列島の発見者はだれか


 沖縄の人たちで、尖閣列島を発見したのは古賀辰四郎氏だという人がいる。それは、そのようにきかされてきたからだろうが、これは全くの誤りである。また、日清戦争直後に『熊本日日新聞』が報道したといわれる、伊沢弥喜太郎が鳥島(尖閣列島のこと)を発見というのも誤りである。これらの発見というのは、彼らがはじめて尖閣列島を見たということで、この誤りは歴史がこれを証明している。

 古賀氏や伊沢氏が、いまでも八重山の古老のあいだで、イーグン・クバ島といわれている尖閣列島に行ったときには、尖閣列島の島々には、すでに中国が島名が付けていた。そして、その島名は、中国や琉球の古文書にもはっきり書いてある。一八八五(明治十八)年九月ニ十二日付けで西村捨三沖縄県令が山県有朋内務卿に提出した公文書のなかでも釣魚台、黄色嶼、赤色嶼、の島名が使われている。

 一三七二年、明の太祖が琉球の中山王察度に招諭を与えて以来、琉球の北山、中山、南山の三王は中国(明)に朝貢し、一四○二年には中山王が三山を統一して、一四○四年には明の太祖の冊封使が琉球に来た。

 尖閣列島は琉球と中国とのひん繁な往来の交通路にあたり、また一五世紀以来、琉球が東南アジア(とは当時はいわなかった)のルソン(フィリッピン)、シャム(タイ)、マラッカ(マレーシア)、ボルネオ、スマトラ、スダン、ジャワ、サンプツサイ(パレンパン)パタニ(ビルマ)などと手広く貿易をやるようになると、尖閣列島の辺りは、まさに海の銀座どおりとなった。福州から那覇へはいる船も、南方諸国との貿易船も釣魚嶼(また魚釣台あるいは釣魚山)―黄色嶼―赤尾嶼(または赤嶼)そして久米島―那覇という航路をとったから、尖閣列島はこれらの人たちによく知られていた。琉球から中国に行った船は、みな福州にはいった。福州には「琉球館」ができた。琉球王朝は貿易によって繁栄したのである。沖縄の記録によると、「琉球から南方にでかけた貿易船は、シャムがもっとも多く五八船で、合計一○四隻となっているが、実際には一五○隻を下らなかったといわれている」(『日本の文化地理』講談社、第十七巻)。

 琉球は中国に対して礼節を尽くしたので、中国は琉球を守礼の国とよんだ。琉球は中国に朝貢し、中国は琉球王を冊封した。薩摩藩の島津義久は、琉球の対中国貿易の利権を手にいれようとして、豊臣秀吉とも話しをつけていたが、あらためて徳川家康から「琉球征伐」の許しを得て得て、一六○九(慶長十四)年「琉球征伐」をし、琉球を「付庸の国」(殖民地)にした。そして琉中貿易の利益を収奪した。

 そればかりでなく、島津は琉球の産物を収奪した。薩摩藩が琉球に要求したのは、年貢米九、○○○余石、芭蕉布三、○○○反、琉球上布六○反、下布一万反、ラミー(唐苧)一万三、○○○斤、い草のむしろ三万八、○○○枚、しゆろ縄一○○方であった。八重山上布は美しい伝統的な布である。女たちは麻の繊維から糸を紡ぎ、染めあげ、夜になると番所で役人の監視のもとで布を織った。昼は男とともにに野良で働いた女たちにとって、夜も憩いの時ではなかった。一晩に一尺をおるのがせいぜいだった。美しい八重山布には、女たちの恨みが織り込まれていた。そのことは平凡社刊『日本残酷物語』に明らかである。

 また、「久米島の仲里村の真謝部落は紬の里といわれており、いまでも織られている。琉球王朝はこの袖を中国と薩摩に貢いだ。織り方がまずかったり、期限におくれたりすると織った布で体を縛られ、村じゅうを引き回されたりした」(『沖縄の孤島』朝日新聞社刊)。

 琉球の税制は統一されておらず、税は現物納であった。とくに宮古、八重山の農民は人類税と名子制度に苦しめられ、過酷な労働を強いられた。このような、しいたげられ人々にとって、尖閣列島は全く関心の外にあった。だから古賀辰四郎氏が尖閣列島を発見したときいても、別に興味をしめさなかった。日常生活に関心がなかったから、尖閣列島をしらなくても、それですんだのである。

    (6) 日清戦争とバカ鳥の島


古賀辰四郎という人

 牧野清氏の「尖閣列島小史」によれば、古賀辰四郎氏は古賀門次郎氏の三男で、一八五六(安政三)年に福岡県八女郡山田村に生まれた。ここは八女茶の産地である。実家は代々茶の栽培と製造をしていた中流農家だった。一八七九(明治十二)年に二十四歳で那覇に渡り、寄留商人として茶と海産物業の古賀商店を開いた。

 一八七九年といえば、明治政府が王制復古、廃藩置県の大号礼をだしても尚泰琉球王はどうしても従わず、従来どおり中国との関係を断たなかったので、政府は四○○人の兵と一六○人の警察官を差し向けて、全く軍備をもっていなかった首里城を接取し、武力を背景に琉球処分をやった年である。

 琉球王は中国に助けをもとめた。前アメリカ大統領グラント将軍が、世界漫遊の旅にでて中国を訪問した際、李鴻章北洋大臣から日本政府の琉球処分についてあっ旋を頼まれ、明治天皇と琉球問題について話した年である。 牧野清氏は、古賀氏は生来進取の気性に富んだ人だったと書いているが、なかなか太っ腹の人だったようである。四月に沖縄に廃藩置県が強行された直後に那覇に渡ったのだから冒険好きといえる。沖縄で燕尾服を着たのも、ドイツ製の安全カミソリをもったのも、ピストルを手に入れたのも古賀氏が最初であった。古賀氏がピストルをもって台湾
探検をしたのは一八九七年であったが、彼はピストルを使わなかった。また彼は、二台の遠心分離機を買って分密糖製造を始めたり、御木本幸吉氏と共同出資で石垣島名蔵湾で真珠養殖をしたりしている。またいちはやく大東島の開拓にとりくんだが、のちにこれを玉置半右衛門氏に譲ってしまった。古賀氏は養殖興業の功によって一九○九年に藍綬褒章を受けた。沖縄で藍綬褒章を受けたのは、慶良間のカツオ漁業の功労者松田和三郎についで二人目であった。

牧野氏によると、古賀氏は石垣島に支店を出した翌々年の一八八四(明治十七)年に尖閣列島を探検して、その有望性を認め、ただちに鳥毛、フカのひれ、貝類、ベッ甲などの事業に着手し、その直後に仲御神島を探検して、同島にも目標の事業を始めた、となっている。これはどうも手際がよすぎる。

 上地龍典著『尖閣列島と竹島』では「石垣市で尖閣列島の話を聞いた古賀は、明治十七(一八八四)年人を派遣して列島の探検調査に当たらせ……無人島開拓に意欲を燃す』とあり、古賀氏自身は尖閣列島に渡っていない。

 一九六八年の高岡大輔氏のリポートには「尖閣列島の開拓史についての詳細を知る由もないが、八重山歴史と島の所有者……古賀善次氏の話とを総合するに、福岡県で茶舗を営んでいた故古賀辰四郎氏が山茶を求めて無人島を探検している時に初めて開発したもので、明治十七(一八八四)年のことだったという」と書いてある。

 ところが、新里金福・大城立祐『沖縄の百年』太平出版社刊、第一巻によると、「廃藩置県後に那覇に渡った古賀は大東島やラサ島(沖大東島)、赤尾嶼、仲御神島などを探検した、そして彼が尖閣列島を発見したのは日清戦争の直前である」と書いている。

 『沖縄の百年』の書いてあることが正しいとすると、尖閣列島を最初にみたのは熊本県下益城郡河江村字住吉出身の伊沢弥喜太氏だということになる。奥原敏雄教授は雑誌『日本及日本人』(一九七○年新年号)に記載した「尖閣列島―歴史と政治のあいだ」に伊沢矢喜太と書いているが、これは伊沢弥喜太が正しい。奥原教授はこう書いている。

「尖閣列島は明治十年代の前半までは無人島であったが、十年代の後半明治十七年ごろから古賀辰四郎が魚釣島、久場島などを中心にアホウ鳥の羽毛、綿毛、べっ甲、貝類などの採取を始めるようになる。こうした事態の推移に対応すべく沖縄県知事もまた明治十八年九月二十二日、内務卿に国標建設を上申するとともに、出雲丸による実地踏査を届けでた」、

「その後明治二十四(一八九一)年伊沢矢喜太(熊本県)が魚釣、久場島に沖縄漁民ととともに渡航し、海産物とアホウ鳥を採集することに成功したが、長く滞まることなく石垣島にもどり、次いで翌々二十六(一八九三)年花本某外三名の沖縄人が、永井・松村某(鹿児島県)に雇われ、久場島に赴いたが、食糧が尽きて失敗する。同年にはさきの伊沢が再び渡航し、採取成功するが、岐路台風に遭い、九死に一生をえて福州に漂着している。なお同年にはさらに野田正(熊本県)ら二○人近くのものも、魚釣、久場島に伝馬船で向かうが、かれらも風浪のため失敗している」。


尖閣列島を日本領に編入させた日清戦争

 古賀辰四郎氏の息子の善次氏(一九七八年六月五日、八十四歳で死去)は、雑誌『現代』一九七二年六月号でこう語っている。

 当時八重山の漁民の間で、ユクンクバ島は鳥の多い面白い島だという話が伝わっておりまして、漁に出た若者が、途中魚をとるのを忘れて鳥を追っていたというような話がよくあったようです。おやじもそんな話を聞いたんですね。そこで生来冒険心が強い人間なもんですから、ひとつ探検に行こうということになったんです。明治十七年のことですがね。

 この探検の詳細な記録は残っておりませんが、何か期するところがあったのでしょう。翌明治十八(一八八五)年、父は明治政府に開拓許可を申請しています。しかし、この申請は受理されませんでした。当時の政府の見解として、まだこの島の帰属がはっきりしていないというのがその理由だったようです。

 ところが、父の話を聞いた、当時の沖縄県令西村捨三がたいへん興味を持ちまして独自に調査団を派遣しました。
調査の結果、島は無人島であり、かつて人が住んでいた形跡もないことがはっきりしまして、以後西村は政府に日本領とするようしきりに上申しまた。

 明治政府が尖閣列島を日本領と宣言したのは、父の探検から十一年後の明治二十八(一八九五)年です。父の探検から西村県令の上申もあったのでしょうが、日清戦争に勝ち台湾が日本領土となったということが、宣言に踏み切らせた理由と思います。


尖閣列島は、本書で客観的にみてきたとおり、歴史的にも地理的にも台湾の付属島嶼であり、日清戦争の結果、中国から割譲を受けて日本領となったのである。これよりほかに考えようがない。下関条約第二条によって日本に割譲されたものであれば、台湾総督の管下になくてはならないというのは、あまりにもまともな考え方であり、明治軍国主義は、後世のまともな学者が、まともに考えて理解できるようなことはやっていないのである。どうして台湾総督の管下におかなかったのかといえば、水産取締りのために魚釣島、久場島などに標杭を建てたいと政府に上申したのは沖縄県知事であり、バカ鳥の島を開拓させてほしいと政府に願いでていたのは、那覇在住の古賀辰四郎氏だったことを考えれば、尖閣列島を日本領にした以上、沖縄県下に所属させたのは当然であり、何の不思議もない。もっとおおざっぱに、もっと乱暴に考えた方が、伊藤内閣のやった現実に合致する。

 井上教授は

「日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った」

といわれるが、なるほど経過をみればそうともいえる。しかし事実ことの本質は、下関条約第二条によって、井上教授のいう窃取が割譲に変ってしまったのである。この条約によって沖縄と台湾とのあいだに国境がなくなってしまったことにより、尖閣列島の日本領有は割譲によって確定したというほかはない。

http://senkakujapan.nobody.jp/page067.html


59. 2012年10月05日 01:20:05 : e0IlhGmDvk
>>57
だから、琉球国を構成する島々の配置図ということではないですか?

また、この時代、小琉球も琉球国に属すると思われていたとしても、なんら不思議はないと思いますよ。
これが描かれた時代、台湾は明領ではありませんでした。
また、明治時代に台湾に流れ着いた沖縄漁民が台湾人に殺害された際、清国は、台湾は清国の外である旨を日本政府に通達して来る…なんてこともありましたね。

しかしながら、「琉球國圖」をよく見ると、小琉球は福健と繋げてあるのです。
つまり、小琉球については福健に属することをちゃんと描いているわけですね。
それに対して、釣魚嶼や古米山などは「繋ぎ」は描かれていないのです。
そもそも、福健や小琉球がシンプルな描かれ方なの対し、琉球国の島々や琉球の本島は非常に細かく描かれています。墨一色で表わさねばならない時代、描き方で両者を分けたと考えられます。

鄭若曾は明に於いて、その時代もっとも琉球や日本について研究している人物でしたから、「琉球國圖」がある『琉球圖説』は、彼の研究の集大成の一つであるわけで、「琉球國圖」と銘打って描いた以上、釣魚嶼が非琉球であると鄭若曾が認識していたのならば、福健と小琉球の関係性の記入に類するような分かり易い仕掛けが描かれていてもいいはずです。
一方ではその関係性を明示し、一方はしない…ということは有り得ないでしょう。

このことは、鄭若曾より一世紀下った、清朝の琉球使・汪楫の詠んだ歌に馬祖島を過ぎれば福健領は終わるという意味の文言が入っていることとも一致します。
つまり、そういう認識であったということでしょう。

井上先生は自ら、琉球史や中国史や台湾史に明るくないことは御自身で認めてらっしゃいます。中国大陸の言語についても、井上先生がどれほどの読解力をお持ちなのか不明です。ですから、尖閣諸島に関する論文は「専門外分野の論文」ということになります。
ですが、歴史学の研究者を自負するのであれば、目を通しうる史料は目を通してから論文を書くべきでしょう。近現代史家であるにも関わらず、中華人民共和国施政下で中国で発行された地図等も見ていないようです。
もしかしたら、見ても見なかったことにした可能性もあります。
また、論文中に妄想的なものも多く、これは井上論文の特徴です。

井上先生が門外漢であるにも関わらず、この論文を書いたのはこの分野を専門とする研究者の中に井上先生と同じ主張の人間がいなかったからだと思われます。
また、井上論文以降、井上先生の主張を引き継ぐ日本史家は現れていないのではないでしょうか?
肝心の中国人をはじめ、尖閣諸島中国帰属論者がいつまでも井上論文を論拠として持ち出して来るのは、他に無いからでしょう。
逆に言えば、中国帰属論者が井上論文を持ち出せば持ち出す程、井上論文しかないことが知れ渡るのです。

結果的に、この論文を書いたがために、井上先生の評判は下がってしまいました。
専門である日本近代の民衆史、特に明治維新に関する井上先生の慧眼までも否定される昨今、大変、残念な思いでいます。
また、現在の日本史学における近代史分野にも、悪影響を及ぼしているように思えます。

尖閣諸島の中国帰属論を主張されるのならば、華人研究者が論文を書いているのですから、何故、そちらを論拠とされないのか不思議です。
井上論文よりも、妄想度は低いのではないのですか?


60. 中川隆 2012年10月05日 08:01:22 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM
井上先生の上記論文で重要なのは尖閣諸島が琉球人とは関係がないというところだけ。

それ以外の部分をいくら否定しても意味ないよ。

実際、琉球人は尖閣周辺の海域では石器時代から現代まで漁労は活動していない。

尖閣諸島や西表島は石器時代から台湾文化圏だった。

西表島の場合は10世紀に九州人が台湾系の原住民を殺して島を乗っ取ってから琉球の領土になったが、尖閣は人が住めないので放置された。

したがって、尖閣は台湾の領土だという事で間違いない。


中国や日本の交易だけしか考慮していない「琉球國圖」なんか持ち出しても無意味だよ。大事なのは文化圏や生業だからね。


61. 2012年10月06日 11:13:24 : p9WdumonD6
>59.

それにしても、意味の無い三百代言を繰り返す御仁ですな。
基本的な視点は前回述べた通りで、修正する必要もないし、繰り返すまでもないから端折るよ。

>琉球国を構成する島々の配置図ということではないですか?

だったら、同じ鄭若曾による『籌海図編』が中国側からの「釣魚諸島」領有の根拠とされてるのは何だい?
同じ人物が当該地域について異なる認識を持っていたとは考えられないから、どちらかが誤りか?そのどちらでもないか?だろう。
第一、「尖閣日本領有」の中心人物である奥原敏雄国士舘大学教授自身が「沿海図といった性格のものは、かならずしも、自国の領土だけでなく、その付近にある島々や地域を含めるもの」と言っておるではないか。
やはり、当方の言った通り、単なる地図と見るのが妥当であろう。

>清朝の琉球使・汪楫の詠んだ歌に馬祖島を過ぎれば福健領は終わるという意味の文言が入っている

一体、汪楫が琉球に行った年代は何時だね?
オランダ支配、鄭氏政権を経て、清国に組み込まれた1683年じゃないか。
つまり、その間、台湾は大陸(中国)とは切り離されていたのだから、「福健領は終わる」と台湾付属の島(釣魚諸島)とは、認識において、何の矛盾も無いだろうが。


>この分野を専門とする研究者の中に井上先生と同じ主張の人間がいなかったからだ

はて?逆に、それまで「尖閣日本領有」の研究とか論文なんて、どれだけ在ったの? 
殆ど無かったからこそ、60年代までの日本の地図には「尖閣列島」の記載が、僅かの例を除いて、無かったのだと考えるのが至当であろうし、仮に在ったのなら、井上氏はそれらに矛先を向けただろうね。


>、この論文を書いたがために、井上先生の評判は下がってしまいました。

これは全く違うだろ。
井上氏は熱烈な「文革支持者」であり、「文革」が当の中国自身から否定されて自らの立場を無くした、ということが響いているとしか考えられない。 加えて、冷戦の終焉以降の左翼否定の風潮と。 それをこの論文の所為にするなんて「学問的誠実さ」に欠けるし、井上氏の学問的業績よりもその人の在り様で否定するのは、’セクハラ’しちゃったからその学者の業績もダメと言うのと同じ。

>井上先生の主張を引き継ぐ日本史家は現れていないのではないでしょうか?

笑) 原子力ムラの徒輩を観れば分かる様に、「学問的良心」なんて欠片も無く、体制御用を務めることをホイホイやっちゃう様な手合いばかりになればそうなるのでしょうな。ww

>華人研究者が論文を書いているのですから、何故、そちらを論拠とされないのか不思議です。

笑)残念ながら、これは日本人とか華人とかは関係無いこと。
当たり前の理非曲直が判断出来るか? 
フツウの理性の持ち主であるかどうか?だ。


62. 2012年10月08日 19:46:42 : 6kuobrWeYc
>だから中国も1970年まで尖閣諸島を日本の領土だと認めていたのさ。

おいおい、沖縄が返還されたのがいつだったかちゃんと確認しろ。
米軍に占領され帰属がどうなるかわからないところをどうやって
「日本の領土」だって認めるのよ。


63. 2012年10月08日 20:01:03 : HNPlrBDYLM

正確には

”だから中国も1970年まで尖閣諸島を沖縄の一部だと認めていたのさ。”

が正しい。

但し、その後の考古学や民俗学の知見から

尖閣諸島は台湾の一部だというのが学問的には正しい。

それから、台湾人は漢民族ではなく、中国には属さないポリネシア系の民族だというのも明らかになった。

だから、この現代に昔の文献や先人の書いた物を持ち出してあーだこーだ言ってもも意味無い。


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