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(中国白書発表、「釣魚島は中国固有の領土である」:中国国際放送局)
http://japanese.cri.cn/881/2012/09/25/161s198860.htm
中国白書発表、「釣魚島は中国固有の領土である」
2012-09-25 17:01:21 cri
【新華社北京9月25日】2012年9月25日、中華人民共和国国務院報道弁公室は「釣魚島は中国固有の領土である」という題目の白書を発表した。全文は次の通り。
目 次
前書き
一、 釣魚島は中国固有の領土である
二、 日本は釣魚島を窃取した
三、 米日が釣魚島をひそかに授受したことは不法かつ無効である
四、 釣魚島の主権に対する日本の主張にはまったく根拠がない
五、 中国は釣魚島の主権を守るために断固として闘う
結びの言葉
前書き
釣魚島およびその付属島嶼は、中国の領土の不可分の一部である。歴史、地理、法理のいかなる角度から見ても、釣魚島は中国固有の領土であり、中国は釣魚島に対して争う余地のない主権を有している。
日本が1895年に甲午戦争(日本では日清戦争という)を利用して釣魚島を窃取したことは不法かつ無効である。第二次世界大戦後、『カイロ宣言』と『ポツダム宣言』などの国際法律文書に基づいて、釣魚島は中国に返還された。日本は釣魚島に対していかなる一方的な措置をとっても、釣魚島が中国に属する事実を変えることはできない。長期にわたり、日本は釣魚島問題をめぐってたえず紛争を引き起こしてきた。2012年9月10日、日本政府は釣魚島および付属の南小島、北小島の「購入」を宣言し、いわゆる「国有化」を実施した。これは中国の領土主権に対する重大な侵犯であり、歴史的事実と国際法理を甚だしく踏みにじるものである。
中国は、日本のいかなる方式による釣魚島に対する中国主権の侵犯にもあくまで反対し、それを食い止めていく。釣魚島問題における中国の立場は明確で、一貫しており、国家主権および領土保全を守る意志は確固たるものであり、世界反ファシズム戦争の勝利の成果を守る決意はいささかも揺らぐことはない。
一、釣魚島は中国固有の領土である
釣魚島およびその付属島嶼は中国台湾島の東北部に位置し、台湾の付属島嶼であり、東経123°20′〜124°40′、北緯25°40′〜26°00′の間の海域に分布している。釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島、南嶼、北嶼、飛嶼などの島礁からなり、総面積は約5.69平方キロである。釣魚島は同海域の最西端に位置し、面積は約3.91平方キロ、同海域で最大の面積を有する島であり、主峰は海抜362メートルである。黄尾嶼は釣魚島の東北約27キロの位置にあり、面積は約0.91平方キロ、同海域で二番目に大きな島であり、最高海抜は117メートルである。赤尾嶼は釣魚島の東北約110キロに位置し、同海域最東端の島で、面積は約0.065平方キロ、最高海抜は75メートルである。
(一)中国が最も早く釣魚島を発見し、命名し、利用した
中国の先人は海洋経営と海上の漁業に従事してきた実践において、最も早く釣魚島を発見し、命名した。中国の古代文献では、釣魚島は釣魚嶼、釣魚台ともよばれている。現在見つかっている範囲で、最も早く釣魚島、赤尾嶼などの地名を記載した史籍は、1403年(明・永楽元年)に完成した『順風相送』である。これは、早くも14、15世紀に中国はすでに釣魚島を発見し、命名したことを示している。
1372年(明・洪武5年)に、琉球国王は明朝に朝貢し、明太祖は琉球へ使節を派遣した。1866年(清・同治5年)までのほぼ500年間に、明・清2代の朝廷は前後24回にわたり琉球王国へ冊封使を派遣し、釣魚島は冊封使が琉球に行くために経由する地であった。中国の使節が著した報告には、釣魚島に関する記載が多く出てくる。例えば、明朝の冊封使・陳侃の『使琉球録』(1534年)によれば、「釣魚嶼、黄毛嶼、赤嶼を過ぎ、…古米山を見る、すなわち琉球に属する者なり」とあり、明朝の冊封使・郭汝霖の『使琉球録』(1562年)によれば、「赤嶼は琉球地方を界する山なり」とあり、清朝の冊封副使・徐葆光の『中山伝信録』(1719年)には、福建から琉球へ行くには、花瓶嶼、彭佳嶼、釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼を経て、「姑米山(琉球西南方の境界にある鎮山)、馬歯島を通り過ぎ、琉球の那覇港に入る」とある。
1650年、琉球の国相・向象賢の監修した琉球国最初の正史『中山世鑑』には、古米山(姑米山ともいう、現・久米島)は琉球の領土であるが、赤嶼(現・赤尾嶼)およびそれ以西は琉球の領土ではない、とある。1708年、琉球の学者・紫金大夫程順則の『指南広義』には、姑米山は「琉球西南方の境界にある鎮山である」とある。
以上の史料は、釣魚島、赤尾嶼は中国に属し、久米島は琉球に属し、境界線は赤尾嶼と久米島の間の黒水溝(現・沖縄トラフ)にあるとはっきり記している。明朝の冊封副使・謝傑の『琉球録撮要補遺』(1579年)には、「往路は滄水より黒水に入り、帰路は黒水より滄水に入る」とあり、明朝の冊封使・夏子陽の『使琉球録』(1606年)には、「水は黒水を離れ滄水に入る、必ずやこれ中国の境界」とあり、清朝の冊封使・汪輯の『使琉球雑録』(1683年)には、赤嶼の外の「黒水溝」こそ「中外の境界」であるとあり、清朝の冊封副使・周煌の『琉球国誌略』(1756年)には、琉球について「海面の西は黒水溝を隔て、閩海と境界をなす」とある。
釣魚島海域は中国の伝統的な漁場であり、中国の漁民は子々孫々同海域で漁業を営んできた。釣魚島は航海の目印として、歴史上中国の東南沿海の民衆に広く利用されてきた。
(二)中国は釣魚島を長期的に管轄してきた
早くも明朝の初期に、東南沿海の倭寇を防ぐために、中国は釣魚島を防御地区に組み入れていた。1561年(明・嘉靖40年)、明朝の東南沿海駐屯軍最高統帥・胡宗憲が主宰し、鄭若曽が編纂した『籌海図編』では、釣魚島などの島嶼を「沿海山沙図」に編入し、明朝の海防範囲に組み入れたことがはっきりしている。1605年(明・万暦33年)徐必達らの作成した『乾坤一統海防全図』と1621年(明・天啓元年)茅元儀が作成した中国海防図『武備誌・海防二・福建沿海山沙図』も、釣魚島などの島嶼を中国の領海内に組み入れている。
清朝は明朝のやり方を踏襲し、引き続き釣魚島などの島嶼を中国の海防範囲に組み入れたのみならず、それらを台湾地方政府の行政管轄下に明確に編入した。清代の『台海使槎録』『台湾府誌』などの政府文献は、釣魚島の管轄状況を詳細に記載している。1871年(清・同治10年)に刊行された陳寿祺らが編纂した『重纂福建通誌』巻84では、釣魚島を海防の要衝に組み入れ、台湾府クバラン庁(現・台湾省宜蘭県)の管轄に属していたとしている。
(三)中外の地図が釣魚島は中国に属することを表示している
1579年(明・万暦7年)明朝の冊封使・蕭崇業が著した『使琉球録』の中の「琉球過海図」、1629年(明・崇禎2年)茅瑞徴執筆の『皇明象胥録』、1767年(清・乾隆32年)作成の『坤輿全図』、1863年(清・同治2年)刊行の『皇朝中外一統輿図』など、いずれも釣魚島を中国の海域に組み入れている。
日本で最も早い釣魚島に関する記録がある文献は1785年に林子平が著した『三国通覧図説』所収の「琉球三省および三十六島之図」であるが、この図では釣魚島を琉球36島以外に列記し、かつ中国大陸と同じ色で表示されている。これは釣魚島が中国の領土の一部であることを示している。
1809年フランスの地理学者ピエール・ラビー(Pierre Lapie)らが描いた『東中国海沿岸各国図』では、釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼が台湾島と同じ色で描かれている。1811年英国で出版された『最新中国地図』、1859年米国出版の『コットンの中国』、1877年イギリス海軍作成の『香港から遼東湾に至る中国東海沿海海図』などの地図は、いずれもが釣魚島を中国の版図に組み入れている。
二、日本は釣魚島を窃取した
日本は明治維新以降、対外侵略拡張を加速した。1879年に日本は琉球を併呑し、沖縄県に改名した。その後ほどなく、日本は釣魚島占拠をひそかに画策し、また甲午戦争の末期に釣魚島をひそかに版図に「編入」した。その後、日本は中国に不平等な『馬関条約』(下関条約)の締結を強いて、台湾全島および釣魚島を含むすべての付属島嶼を割譲させた。
(一)日本は釣魚島窃取をひそかに画策した
1884年、釣魚島に初めて上陸し、その島が「無人島」であることが分かったと公言した日本人がいた。日本政府はただちに釣魚島に対して秘密調査を行い、占拠することを企んだ。日本のこのような企みは中国の警戒を引き起こした。1885年9月6日(清・光緒11年7月28日)付けの『申報』に、「台湾北東部の島で、最近日本人が日本の旗をその上に掲げ、島を乗っ取らんばかりの勢いである」との記事がある。中国の反応に配慮したため、日本政府は軽々しい行動に出られなかった。
1885年9月22日、沖縄県令が釣魚島を秘密調査した後、山県有朋内務卿に提出した秘密報告では、これらの無人島は「『中山伝信録』に記載された釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼などと同一の島嶼であり」、すでに清朝の冊封使船によってよく知られ、かつ琉球に向かう航海の目印として、それぞれ名称が付けられている。したがって、国の標杭を立てるべきかどうか懸念があり、それについて上の指示を仰ぐ、としている。同年10月9日、山県有朋内務卿は井上馨外務卿に書簡を送り、意見を求めた。10月21日、井上馨から山県有朋宛ての回答書簡では、「この時機に公然と国の標杭を立てれば、必ずや清国の猜疑心を招く。ゆえに当面は実地調査およびその港湾の形状、後日開発が期待できるような土地や物産などを詳細に報告するにとどめるべきである。国の標識設置や開発着手などは、後ほど機会を見て行えばよい」としている。井上馨はまた、「今回の調査の件は、おそらくいずれも官報や新聞に掲載しないほうがいい」ことをとくに強調した。そのため、日本政府は沖縄県が国の標杭を立てる要求に同意しなかった。
1890年1月13日、沖縄県知事はまた内務大臣に、釣魚島などの島嶼は「無人島であり、今までその所轄がまだ定められていない」、「それを本県管轄下の八重山役所の所轄にしてほしい」との伺いを出した。1893年11月2日、沖縄県知事は国の標杭を立て、版図に組み入れることをふたたび上申したが、日本政府はやはり回答を示さなかった。甲午戦争の2カ月前、すなわち1894年5月12日に、沖縄県は釣魚島を秘密調査した後、次のとおり最終結論を出した。「明治18年(1885年)に県の警察を派遣して同島を現地踏査して以来、さらなる調査を行ったことがないので、より確実な報告を提出することができない。…そのほか、同島に関する旧記文書およびわが国に属することを示す文字の記載や口碑の伝説などの証拠はない」。
日本外務省が編纂した『日本外交文書』では、日本が釣魚島の窃取を企んだ経緯がはっきり記載されている。その中の関係文書が示しているように、当時日本政府は釣魚島を狙い始めたが、これらの島嶼が中国に属することをよく知っており、軽々しい行動に出られなかったのである。
1894年7月、日本は甲午戦争を発動した。同年11月末、日本軍は中国の旅順口を占領し、清朝の敗勢がすでに明らかになった。こうした背景の下で、12月27日、日本の野村靖内務大臣は陸奥宗光外務大臣へ書簡を送り、「今や昔とは情勢が異なる」とし、釣魚島に国の標識を立て、版図に組み入れることについて、閣議で審議決定することを求めた。1895年1月11日、陸奥宗光は回答書簡で支持の意を表した。同年1月14日、日本の内閣は釣魚島を沖縄県の管轄下に「編入」するという秘密決議を採択した。
日本の公文書は、日本が1885年に釣魚島への調査を開始し、1895年に正式に窃取するまでの過程は終始秘密裏に進められており、一度も公表されたことがないことをはっきりと示している。このことは、釣魚島の主権に対する日本の主張が国際法に定められた効力を持たないことをさらに証明している。
(二)釣魚島は台湾島と共に日本に割譲することを強いられた
1895年4月17日、清朝は甲午戦争に敗れ、日本と不平等な『馬関条約』に調印し、「台湾全島およびすべての付属島嶼」を割譲することを強いられた。釣魚島などは台湾の「付属島嶼」としてともに日本に割譲されたのである。1900年、日本は釣魚島を「尖閣諸島」と改名した。
三、米日が釣魚島をひそかに授受したことは不法かつ無効である
第二次世界大戦後、釣魚島は中国に返還された。しかし、1950年代に米国は釣魚島を勝手にその委任管理の範囲に組み入れ、70年代に釣魚島の「施政権」を日本に「返還」した。米日が釣魚島をひそかに授受したのは中国の領土主権に対する重大な侵犯であり、不法かつ無効であり、これにより釣魚島が中国に属するという事実が変わったことはなく、また、変えることなど許されない。
(一)「第二次世界大戦」後、釣魚島は中国に返還された
1941年12月、中国政府は正式に日本に対して宣戦を布告し、日本との間で締結されたすべての条約を廃棄することを宣言した。1943年12月の『カイロ宣言』は、「日本が窃取した中国の領土、例えば東北四省、台湾、澎湖群島などは中華民国に返還する。その他日本が武力または貪欲によって奪取した土地からも必ず日本を追い出す」と明文で定めている。1945年7月の『ポツダム宣言』第8条では、「『カイロ宣言』の条件は必ず実施されなければならず、日本の主権は必ず本州、北海道、九州、四国およびわれわれが定めたその他の小さな島の範囲内に限るものとする」と定められている。1945年9月2日、日本政府は『日本降伏文書』において、『ポツダム宣言』を受け入れ、かつ『ポツダム宣言』で定めた各項の規定を忠実に履行することを承諾した。1946年1月29日の『盟軍最高司令部訓令(SCAPIN)第677号』では、日本の施政権の範囲が「日本の四つの主要島嶼(北海道、本州、九州、四国)と、対馬諸島、北緯30度以北の琉球諸島を含む約1千の隣接小島嶼」であることが定められている。1945年10月25日、中国戦区台湾省の日本降伏式典が台北で行われ、台湾は中国政府に正式に回復された。1972年9月29日、日本政府は『中日共同声明』において、台湾が中国の不可分の一部であるという中国側の立場を十分に理解し、尊重し、かつ『ポツダム宣言』第8条における立場を堅持することを厳かに承諾した。
以上の事実が示しているように、『カイロ宣言』『ポツダム宣言』『日本降伏文書』に基づき、釣魚島は台湾の付属島嶼として台湾といっしょに中国に返還されるべきものである。
(二)米国は不法に釣魚島を委任管理の範囲に編入した
1951年9月8日、米国は一部の国と共に、中国を排除した状況で日本と『サンフランシスコ講和条約』を締結し、北緯29度以南の南西諸島などを国連の委任管理下に置き、米国を唯一の施政者とする取り決めを行った。指摘しなければならないのは、同講和条約で規定された米国が委任管理する南西諸島には、釣魚島は含まれていなかったことである。
1952年2月29日、1953年12月25日、琉球列島米国民政府は前後して第68号令(『琉球政府章典』)と第27号令(「琉球列島の地理的境界」に関する布告)を公布し、勝手に委任管理の範囲を拡大し、中国領の釣魚島をその管轄下に組み込んだ。これにはいかなる法律的な根拠もなく、中国はこの行為に断固反対するものである。
(三)米日は釣魚島の「施政権」をひそかに授受した
1971年6月17日、米国は日本と『琉球諸島および大東諸島に関する協定』(略して「沖縄返還協定」という)に調印し、琉球諸島と釣魚島の「施政権」を日本に「返還」することとした。これに対して、中国本土および海外の中国人は一斉に非難の声をあげた。同年12月30日、中国外交部は厳正な声明を発表し、「米日両国政府が沖縄『返還』協定で、中国の釣魚島などの島嶼を『返還地域』に組み入れたことは、まったく不法なことであり、これは中華人民共和国の釣魚島などの島嶼に対する領土主権をいささかも改変し得るものではない」と指摘した。台湾当局もこれに対して断固たる反対の意を示した。
中国政府と人民の強烈な反対に対して、米国は公けに釣魚島の主権帰属問題における立場を明らかにせざるを得なかった。1971年10月、米国政府は「元日本から得たこれらの諸島の施政権を日本に返還することは、主権に関わる主張をいささかも損うものではない。米国は日本がこれらの諸島の施政権をわれわれに委譲する前に持っていた法的権利を増やしてやることも、施政権を日本に返還することによってその他の主張者の権利を損なうこともできない。…これらの諸島に関わるいかなる対立的要求も、すべて当事者が互いに解決すべき事柄である」と言明した。同年11月、米国上院での「沖縄返還協定」採択時に、米国務省は声明を発表し、米国は同諸島の施政権を日本に返還するものの、中日双方の同諸島をめぐる相反する領土権の主張において、米国は中立的な立場をとり、紛争のいかなる側に対しても肩を持つことはしないと表明した。
四、 釣魚島の主権に対する日本の主張にはまったく根拠がない
1972年3月8日、日本外務省は『尖閣諸島の領有権についての基本見解』を発表し、釣魚島の主権帰属について日本政府の主張を次のように述べた。一、釣魚島は「無主地」であり、『馬関条約』に基づき日本が清国より割譲を受けた澎湖諸島と台湾およびその付属島嶼には含まれていない。二、釣魚島は、『サンフランシスコ講和条約』第2条に基づき日本が放棄した領土のうちには含まれず、同条約第3条に基づき南西諸島の一部として米国の施政下に置かれ、かつ「沖縄返還協定」により日本に施政権が「返還」された地域の中に含まれている。三、中国は釣魚島を台湾の一部と考えず、『サンフランシスコ講和条約』第3条に基づき米国の施政下に置かれた地域に釣魚島が含まれている事実に対し、従来何ら異議を唱えてこなかった。
日本の上述の主張は事実に著しく背いており、まったく成り立たない。
釣魚島は中国に属し、決して「無主地」ではない。日本人が釣魚島を「発見」する前に、中国は釣魚島に対してすでに数百年にわたる有効な管轄を実施しており、釣魚島の争う余地のない主人である。前述したように、釣魚島が早くからすでに中国に帰属し、国際法における無主地ではないことを日本がはっきり了解していたことは、日本の多くの政府文書で証明されている。日本がいわゆる「先占」原則によって釣魚島を「無主地」としてその版図に「編入」したことは、中国の領土を占拠した不法行為であり、国際法上効力を有さない。
地理的に見ても、中国の歴史的な管轄実践から見ても、釣魚島はずっと中国の台湾島の付属島嶼であった。日本は不平等な『馬関条約』を通じて、釣魚島を含む「台湾全島およびすべての付属島嶼」を割譲するよう清朝に迫った。『カイロ宣言』『ポツダム宣言』などの国際法律文書は、日本が窃取した中国の領土を無条件に返還すべきであるとしている。上述の文書はまた日本の領土範囲をはっきり画定し、その中に釣魚島はまったく含まれていない。日本が釣魚島を占有しようとすることは、実質上『カイロ宣言』『ポツダム宣言』などの法律文書によって確立された戦後秩序に対する挑戦であり、日本が負うべき国際法の義務に甚だしく背くものである。
米国などの国が日本と調印した一方的な講和条約である『サンフランシスコ講和条約』に規定された委任管理の範囲には釣魚島が含まれていない。米国が勝手に委任管理の範囲を拡大し、中国領である釣魚島を不法にその管轄下に編入し、その後、釣魚島の「施政権」を日本に「返還」したことは、いずれも何ら法的根拠がなく、国際法上いかなる効力も有さない。米日の上述の不法な行為に対して、中国政府と人民は一貫して明確に反対している。
五、中国は釣魚島の主権を守るために断固として闘う
長期にわたり、中国は釣魚島の主権を守るために、断固として闘ってきた。
中国は外交ルートを通じ、米日が釣魚島をひそかに授受したことに対して強く抗議し、非難した。1951年8月15日、サンフランシスコ講和会議が開催される前に、中国政府は「対日講和条約の準備、起草および調印に中華人民共和国の参加がなければ、その内容と結果のいかんにかかわらず、中央人民政府はこれをすべて不法であり、それゆえ無効であるとみなす」という声明を発表した。1951年9月18日、中国政府はふたたび声明を出し、「サンフランシスコ講和条約」が不法かつ無効であり、断じて承認できないと強調した。1971年、米日両国の国会が前後して「沖縄返還協定」を採択した行為に対して、中国外交部は、釣魚島などの島嶼は、昔から中国領土の不可分の一部であるとの厳正な声明を発表した。
中国釣魚島の主権を侵犯する日本の不法行為に対して、中国政府は積極的で力強い措置をとり、外交声明の発表、日本への厳正な交渉申し入れ、反対口上書を国連に提出する、などの措置を通じて抗議を表明し、中国の一貫した主張と原則・立場を宣言し、中国の領土主権と海洋権益を断固として防衛し、中国公民の人身・財産の安全をしっかり守ってきた。
中国は国内立法により釣魚島は中国に属することを明確に定めている。1958年、中国政府は領海に関する声明を発表し、台湾およびその周辺諸島は中国に属すると宣言した。1970年代以来、日本が釣魚島に対して行ったさまざまな主権侵犯行為に対して、中国は1992年に『中華人民共和国領海および隣接区法』を公布した際に、「台湾および釣魚島を含むその付属諸島」は中国の領土に属すると明確に定めた。2009年に公布された『中華人民共和国海島保護法』は海島の保護・開発と管理制度を確立し、海島の名称の確定と公布に関して規定を設けた。それに基づき、中国は2012年3月に釣魚島およびその一部の付属島嶼の標準名称を公布した。2012年9月10日、中国政府は声明を発表して、釣魚島およびその付属島嶼の領海基線を公布した。9月13日、中国政府は釣魚島およびその付属島嶼の領海基点・基線座標表と海図を国連事務総長に提出した。
中国は終始釣魚島海域で恒常的な存在を保ち、管轄権を行使している。中国海洋監視船は釣魚島海域でのパトロールと法執行を堅持しており、漁業監視船は釣魚島海域で常態化したパトロールと漁業保護を行っており、その海域における正常な漁業生産の秩序を守っている。中国はまた天気予報や海洋観測予報などの発表を通じて、釣魚島および周辺海域に対しての管轄権を行使している。
これまでずっと、釣魚島の問題は香港・澳門(マカオ)同胞、台湾同胞、そして海外同胞の関心をも集めてきた。釣魚島は古来中国固有の領土であり、これはすべての中国人の共通の立場である。中華民族は国の主権と領土の保全を守る上で確固とした決意を持っている。民族の大義を前にして、両岸の同胞は民族の利益と尊厳をともに守ることで一致している。香港・澳門(マカオ)・台湾の同胞と国内外の華僑・華人は、さまざまな活動を次々に展開し、釣魚島の領土主権を守り、中国人の正義の立場を強く表明し、平和を愛し、国の主権を守り、領土の保全を防衛しようとする中華民族の決意と意志を世界中にアピールした。
結びの言葉
釣魚島は、古来中国固有の領土であり、中国は釣魚島に対して争う余地のない主権を有している。1970年代、中日両国が国交正常化と『中日平和友好条約』を締結する際、両国の先代の指導者たちは両国関係の大局に目を向け、「釣魚島の問題を棚上げし、将来の解決にゆだねる」ことについて諒解と共通認識に達した。しかし、近年来、日本は釣魚島に対してたえず一方的な行動をとり、特に釣魚島に対していわゆる「国有化」を実施したことは、中国の主権に対する重大な侵犯であり、中日両国の先代の指導者が達成した諒解と共通認識に背くものである。これは中日関係を損なうのみならず、世界反ファシズム戦争の勝利の成果に対する否定と挑戦でもある。
中国は日本が歴史と国際法を尊重し、中国の領土主権を侵害するあらゆる行為をただちにやめるよう強く要求する。中国政府は、国の領土主権を防衛する決意と意志を固めており、国の主権を防衛し、領土保全を守る自信と能力を有している。
(新華網日本語により)
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(投稿者より)
中国国際放送局の日本語サイトに掲載された記事です。
私たちはこれを論破する必要がありますが、着眼点の一つとしては、清朝の台湾支配にどれだけの実体があったか、というところでしょうか。清朝の時代、台湾の一行政区に釣魚島は属していたと、この論文は主張しています。現在の宜蘭県ですから、東海岸でしょう。ただ、私の記憶では、清朝は台湾・東海岸の原住民を最後まで服属させることができなかったはずです。もちろん、私の記憶違いかも知れませんが、着眼点は他にもあると思います。慎重な検討がさらに必要と思いました。
ただ、これに対抗できるだけの理論構築を、日本ができるかどうか。その点では、外務省の見解は余りにも短いように思えました。
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