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2012.05.15 中国で社会主義批判はなぜできるか
――八ヶ岳山麓から(31)――
阿部治平 (もと高校教師)
謝韜(シエ・タオ、1921〜2010年)という、中国共産党からすればとんでもないマルクス主義者がいた。
四川自貢の人、本名は道炉。1944年金陵大学(現南京大学)を卒業して革命前の46年に共産党に入党。中共系新聞「新華日報」の記者になり延安で編集長をやり、やがて華北人民大学の先生になってマルクス主義を教えた。1949年の革命成功後は華北人民大学の後身、中国人民大学のマルクス・レーニン主義教研室の主任教授であったが、1955年「胡風反革命集団」の「中核分子」とされて身柄を拘束され、60年に北京秦城監獄に放りこまれた。
1965年に一時出獄してからも故郷の自貢に閉じ込められ、1966年の文化大革命が始まってからは「右派分子」中の右派として迫害された。文革が終ってようやく20年間の牢獄と迫害の生活から解放され、雑誌「社会科学」の編集だの中国人民大学教授だのといったまともな仕事につくことができた。最後は人民大学副学長で2010年に死んだ。
謝韜は2006年2月、85歳のときに論文「民主社会主義モデルと中国の前途」を書き、雑誌「炎黄春秋」(2007年第2期)に発表した。内容はそれまでにない根本的体制批判で、「右派分子」の面目躍如たるものであった。ちょうど中共17回大会を控えた時期だったこともあって、新聞雑誌に載った批判・罵倒は大量で、ネット上でも批判をまとめて読者に提供するほどの量であった。
この老人はまったく大胆にも、「中国は(西欧型)民主社会主義をモデルにすべきだ。それは民主的な憲政・(生産手段の)公私混合制・市場経済・社会保障制度である」と主張したのである。ここで彼が「民主社会主義」といっているものは「社会民主主義」と同じものとしていいと思う。
21世紀に入ってから中国の西欧社民主義研究は質・量ともに高まり、論文がネット上にも出るようになった。なかにはスウェーデン社民党史やその政策を批判的に紹介する形をとった論文もあったが、それも含めて執筆者たちは中国が高度福祉社会に進むのを期待していた(と私は受取った)。
論文「民主社会主義モデルと中国の前途」は、マルクス主義の公式的常識をくつがえす。ロシア革命指導者レーニンをマルクスやエンゲルスの後継者ではないとし、ソ連を暴力社会主義と断定した。
「レーニンは、社会主義は先進資本主義国家において同時に勝利するという、マルクス主義の思想に違背して、遅れた東方の一国家で社会主義を建設するという理論を提起した。レーニン主義はマルクスが批判したブランキ主義(の暴力革命)を継承したものである(ブランキ(1805〜1881)は19世紀フランスの暴力革命を目指す秘密結社の首領でパリコミューンの軍事指揮者である)」
歴史を顧みればその通りで、ロシアで1917年の2月革命によって成立した臨時政府は民主化を目指したが、成果をあげないうちに、10月にレーニン率いるボリシェビキ(ロシア共産党)の軍事クーデタによって倒された。2月革命がロシア帝国を否定したとするなら10月クーデタは民主革命を否定したものである。否定の否定として帝政――ロシア共産党独裁国家が現れた。
「『十月革命の砲声』が(中国へ)送り届けてきたものは、レーニン主義であってマルクス主義ではなかった。彼ら(毛沢東を先頭とする中共幹部)は新民主主義革命を標榜して政権を奪取したが……建国以後新民主主義すなわち資本主義発展の道を放棄して、中国の国情をかえりみず共産主義をかたくなにやろうとした。我々はここにブランキ主義=レーニン主義の影響を見てとることができる。だから我々(中国共産主義者)がかつて暴力社会主義の道を歩んだのは偶然ではない」と。
謝韜にとっては中国社会主義もまたソ連同様である。ところが、――では現体制も同様かという当然の疑問には?
「我々の体制は大変良い、西側の民主主義など決して学ぶべきでないという人がある。だが制度の良し悪しは理論問題ではなく実践問題である。実践は真の民主主義とにせものとを検証する唯一の基準だ。我々の制度は50数万のインテリを右派分子とする反右派闘争や、人民公社と大躍進の狂乱が発動されるのを阻止できなかった。ファシズム式の文化大革命が憲法や議会活動を廃止したとき、この制度はどうすることもできなかった」と答える。評価をケ小平支配以前に限っているのである。
さらに、彼は中共指導者がマルクス主義に通じていなかったという。
「わが党の指導者の多くは『資本論』を読んだことがなかった。エンゲルス晩年の最も重要な著作を読んだことがない」「彼らが比較的多く読んだのはレーニンとスターリンの著作である」
この点は、以前紹介した何偉や陳定学ら実証的な研究者と共通の認識である。謝韜がエンゲルス晩年の著作というのはマルクス『フランスにおける階級闘争』(1895年版)へのエンゲルスの「序文」を指す。
たしかに、エンゲルスはそこに「1848年の闘争方法(『共産党宣言』にいう暴力革命)は今日では、どの面でも時代遅れとなっている」と書いている。その2年前1893年5月のフランス「フィガロ」紙記者とのインタービューでは「しかし、われわれには終極目的などありません。われわれは進化主義者です。われわれには、人類に終極の掟を命令するつもりなどありません」と発言した。
これは、共産主義運動は生産手段の社会的所有の方向に平和的改造を進めるもので、革命による共産主義を究極目標として持たないという意味であろう。そこで謝韜は西欧社会民主党こそマルクスとエンゲルスを継承したものだという。
彼は少しの留保もなく、社民主義万歳を叫ぶ。
「(スウェーデン社民党を典型とする)社会民主党の人類文明に対する歴史的貢献は、プロレタリアートとブルジョアジーの、また社会主義制度と資本主義制度の不倶戴天の敵対関係を解消し、社会主義運動を平和的に進化する過程としたことである。社会民主党は発達した資本主義国家の民主的枠内で平和的に社会主義に至る道を創造することに成功した」
「民主社会主義の最大の成果は……(中共がいまだ解決できない)都市と農村、労働者と農民、肉体労働と頭脳労働の差別を基本的に消滅させたことである」
そこでこういう。
「(中国の)政治体制改革をこれ以上引き延ばすことはできない。我党と我国は経済上の改革開放をしただけで、続いて政治体制改革をやることはなかった。ここが重要だが、我々は蒋介石国民党が大陸で滅亡した、あの官僚資本主義の道の二の舞をしているかもしれない。民主的憲政だけが執政党の汚職腐敗問題を解決でき、民主社会主義だけが中国を救うことができる」
中国では、三権分立の要求・一党独裁批判・天安門事件の肯定的評価・少数民族の自治権拡大・解放軍の(党軍から)国軍への要求などは、政治的に怖い(漢語で「敏感」)問題とされる。主張の仕方によっては国家分裂罪や国家に背く罪に問われることは、ノーベル平和賞受賞者の劉曉波の例を見ればわかる。
だいたいが、レーニンや毛沢東を否定し、中ソの社会主義を「暴力的社会主義」とすることは、マルクス・レーニン主義・毛沢東思想を「国是の哲学」とする国家原理に反する。社会民主主義の前提は民主主義であって、これも一党独裁原理に反する。
では、なぜこのような現体制批判の太平楽を並べた議論がとがめられないのか。
2本の異なったものさしがあるからである。一般的、抽象的に議論するなら容認、具体的なら抑圧される。
「政治体制改革は待ったなしだ」ということは、現体制ではだめだということ、あるいは一党独裁を否定することにつながるが、これは容認される。
当局の人権侵害を世界に発信したり、高級幹部の腐敗を摘発したり、人民代表の選出や裁判に対する党の干渉排除を求めたり、中共以外の政党の結成を訴えたりと、現実の切実な問題に対して具体的な要求や主張をすれば問題が起きる。
これは民主改革派もよく承知して議論を展開している。
なぜこうなるか。
政治体制改革論議は現状に不満を持つ人の不満解消、ガス抜きになると現政権が認めているからであろう。つまり当局とすれば、近頃だいぶ増えた「不満分子」が謝韜のような人の言論を読んで、とりあえず溜飲を下げてくれればいいのである。
この言論政策はいまのところ成功している。次期習近平政権でこれが続くかどうかはわからないが。
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