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現われたのは赤裸々な階級闘争 問われる独裁体制に抗する闘い
早野 一
毎春の「政治的劇場」と揶揄される中国の全国人民代表大会が、この一年の政府活動の総括および向こう一年の政治方針が記された政治報告を了承して三月一四日に閉幕した。
党の最高指導部である中国共産党中央委員会政治局常務委員の交代が予定されている一八回党大会を半年後に控えた全人代だけに国内外から注目された。閉幕の翌日三月一五日、中国内外に大きなニュースが伝えられた。秋の党大会で、政治局常務委員に就任できるかどうかに注目が集まっていた重慶市トップの薄煕来・重慶市党委員会書記が、その職を解任されたというニュースである。
一党独裁とい
う一つの派閥
薄煕来の解任は、党大会を前にした党内二大派閥の権力闘争の一端としてブルジョアメディアでも大きく報じられている。
派閥のひとつは共産党の青年組織である共産主義青年団系の「団派」。もう一方は中国革命の元老ら老幹部の子弟ネットワークである「太子党」である。八〇〇〇万共産党員の頂点に位置する九人で構成される中国共産党中央政治局常務委員のうち、党序列第一の胡錦涛国家主席や第三位の温家宝首相、副首相の李克強の三人が「団派」、それ以外の秋の党大会で国家主席に就任予定の習近平国家副主席など六人が「太子党」および前国家主席の江沢民の人脈につらなる「上海閥」とみられている。
江沢民を最大の庇護者とする「上海閥」は、陰に陽に中央政治に影響力を行使し、改革開放政策が招いた資本主義化のなかで利権構造にどっぷりとつかっている。それに比べ「団派」は中央や地方の要職を歴任する実務的能力に優れた政治家集団という評価があるといわれる。しかしこれらの派閥に明確な組織や主張があるわけではなく、在外メディアが勝手につけた名称である。実際には「団派」も「太子党」も「上海閥」も、「一国社会主義」から「グローバル資本主義」への過渡として全面的に展開された改革開放のさらなる深化がもたらした社会的矛盾と民衆の抵抗の拡大を、党・軍・警察機構をはじめとする強大な暴力装置を通じて抑圧することに同じ利害を持つ「一つの派閥」である。 グローバルに拡大する経済的既得権や利害関係の複雑化が、トップ官僚やそれにつながる派閥の間に若干の立場の違いを生じさせ、それが外交関係や軍事的領域の拡大にまで影響していることは確かである。しかし、いや、だからこそ、労働者民主主義なき一党独裁を断固維持するという「一つの利害」を防衛する「一つの派閥」が必要となる。新たな社会革命を目指す中国と世界の労働者運動はこの「一つの派閥」と明確な一線を画さなければならない。
薄煕来とは誰か
その政策と人脈
「太子党」のホープとして頭角を現してきた薄煕来は、党トップ二五人で構成される中国共産党中央政治局のメンバーの一人である。うち九人が中央政治局常務委員として合議あるいは多数決による最高決定を下す。
薄煕来は秋の党大会で中央政治局常務委員への昇格を狙っていた。中国共産党は熾烈な社会矛盾や利害衝突を覆い隠し「調和ある社会」として描き出すための壮大な演出として、暴力装置の動員とともに「党の絶対的指導」という集団指導体制を中央政治局常務委員メンバーの合議または多数決によって実践してきた。この集団指導体制の絶対化は、文化大革命という権力機構トップから下部機構すべてにいたる壮絶な内ゲバ、民主化運動への対応を巡って指導部が動揺しその一部が分裂する事態にまで発展した一九八九年北京の春という二つの苦い経験によって裏打ちされたものでもある。
薄煕来はこの集団指導体制の枠からはみ出た「野心家」としてさまざまなうわさが絶えなかったが、中央政治局常務委員の一人でもある周永康とその親分である江沢民ら「上海閥」がバックについていることから、強引さや華々しさが目立つ政策をあえて実践しながら、大連市書記、遼寧省長、商務部(経済産業省)大臣などの重要ポストを歴任し、二〇〇七年一〇月の一七回党大会で政治局委員に就任し、翌月に内陸部の最重要都市である重慶市のトップである重慶市委員会書記に転任後は「重慶モデル」と呼ばれる独自の開発政策を進め注目されてきた。
党指導部を揺る
がした亡命未遂
この「重慶モデル」は、「改革開放によって生じた貧富の格差を解消するためと称して『唱紅』(毛沢東時代の革命家を歌おう)と『打黒』(マフィアや汚職・腐敗などの犯罪を撲滅しよう)というキャンペーンを展開し……『打黒』により検挙した案件は三万件以上に上り、一万名近くを逮捕・投獄している。……遼寧省時代の部下であった王立軍を呼びよせて公安局長に抜擢し、二〇〇八年まで重慶市の司法局局長をしていた文強を『暴力団と裏取引があった』として二〇〇九年に逮捕し、わずか一〇カ月で死刑に処した」(『チャイナ・ナイン 中国を動かす九人の男たち』遠藤誉)として一部の毛沢東派や左派知識人らからもてはやされてきたことは有名だ。
だが今年二月初め、薄煕来の懐刀として「打黒」に大ナタを振るってきた副市長兼公安局長の王立軍がその職を解任され、その数日後の二月六日、王立軍は三四〇キロ離れた四川省成都市にあるアメリカ領事館に逃げ込み、亡命を申し出たが米政府に拒否され、二四時間後に身柄を中国の国家安全局に引き渡されるという事件が起こった。
王は薄をめぐる党中央の権力闘争のさまざまな証拠を米大使館に渡したと伝えられている。それは主人(薄)の出世のために利用された揚句に抹殺の危惧を感じた飼い犬(王)の最後の抵抗であった。秋の党大会で退任する胡錦涛国家主席にかわり国家主席に就任することが確実視されている習近平国家副主席が、党大会前の最大のセレモニーの一つであるアメリカ訪問およびオバマ大統領との会談を一週間後に控えた極めて敏感な時期だっただけに、党指導部に激震が走った事は想像に難くない。
グローバル化と
「重慶モデル」
「重慶モデル」は、「野心家」による「毛沢東復古主義的」な一エピソードとしてではなく、グローバルに拡大した資本主義中国が模索するさまざまな「経済モデル」のひとつとしてとらえる必要がある。われわれは、薄煕来や王立軍の没落をめぐる権力闘争の構造に深く分け入りその行く末を予想するのではなく、「中国の特色ある社会主義」と呼ばれる「中国の特色ある資本主義」において民主主義を実現する階級闘争に問われるインターナショナルな課題を研究・実践しなければならない。
大衆受けする「打黒」や民衆動員型の「唱紅」といった手法から、薄煕来や「重慶モデル」を「毛沢東回帰型」とする意見もある。一部の毛沢東主義者や左派知識人たちが「重慶モデル」をもてはやしてきたことも影響しているだろう。しかしそれは実際にはまったく誤ったとらえ方である。薄煕来が「重慶モデル」を進めるにあたって採用したのは大衆受けする民衆動員型という手法のみであって(だから最終的に排除された)、その経済政策の中身は「毛沢東回帰型」や「社会主義」どころか、「中国の特色ある資本主義」の深化そのものだからだ。われわれはこのような観点から「重慶モデル」をとらえ返す必要がある。
重慶市は中国西部最大の都市で、一九九七年に四川省から独立して直轄市となった。「市」といっても、総人口(戸籍ベース)三二五七万人、都市人口九〇七万人、農村人口二三五〇万人という超巨大自治体である。去年の成長率は一六・五%と、中国全体の平均である九・二%を大きく上回り、最も成長率の高い地域の一つとなっている。中国では大型国有企業が安定して拡大する一方、民間企業が競争力で劣り厳しい局面に立たされる「国進民退」(国有企業の進出、民間企業の退場)という経済状況がみられると言われており、重慶でも国有企業への優遇や違法な民間企業への取り締まりが厳しかったことなどから、「重慶モデル」は「国進民退」の「毛沢東時代への回帰」などと言われることもある。
しかし実際には薄煕来の重慶市書記就任以降、重慶市のGDPに占める民間経済の割合は二五%から六〇%に上昇している。外資企業の誘致にも熱心だ。合弁による完成車(二輪車を含む)工場にはフォード、マツダ、ボルボ、スズキ、ホンダ、ヤマハなどが出資・提携している。
低所得者向け住
宅政策のねらい
「重慶モデル」をもてはやす左派は二〇一〇年から実施された低所得者向けの公共賃貸住宅の整備などを挙げる。しかし、一軒当たりの面積が狭く、中心部からも離れたものも多く、単身の(出稼ぎ)労働者を想定して作られたものであり、それは住民のためというよりも重慶に投資する資本の労働力確保のためではないか、という批判もある。
重慶市の両江新区は、上海市浦東、天津市濱海に続き、中国国務院に批准された第三番目の国家副省級の新区となり、保税開発区として開発が進んでいる。これまでにペプシコーラ、フォード、コカ・コーラ、ジョンソン、ヒューレット・パッカード、ウォルマート、ゼネラル・エレクトリック、マイクロソフト、ホンダ、いすゞ、スズキ、マツダ、住友商事、新日本石油、伊藤忠、丸紅、アルカテル、スエズ、ルノー、キングフィッシャー、シェルケミカルズ、ボルボ、エリクソン、ネスレ、フィアットなどの企業が進出しており、第十二次五カ年計画でもプロジェクトの一つとして記載されたことから、昨年一〇月には日立が、省エネルギー・環境保全や低炭素経済などの分野において、モデル事業づくりや技術交流、関連産業での協業を推進することで重慶市と合意するなど、中国内陸部における資本主義の管制高地としての地位を発揮し続けることになる。
ある独立系の学者は「国進民退」ではなく「国進民也進」(国有企業も民間企業も進出する)というのが「重慶モデル」の核心であると述べている。
党への忠誠を誓
う「唱紅」運動
毛沢東時代の革命歌を集団で唱和する「唱紅」運動はどうだろうか。ブルジョアメディアなどでは定年後の高齢者が公園などで毛沢東時代の革命歌を合唱するシーンなどが映し出されるが、昨年の党建設九〇周年をピークに盛り上がった巨大なスタジアムやコンサート会場での「唱紅」大会などの大がかりなイベントに動員されるのは、党の外郭団体や住民組織だけでなく、国有企業の経営陣を筆頭に組合組織を通じて動員された従業員などが主力であった。党や上級機関にこびへつらう忠誠心の証として国有企業の管理者や従業員が先を争って参加してきたという一面がある。
つまり、党建設九〇周年の二〇一一年七月一日にむけた全国規模での愛党・愛国運動という一面とともに、権力や企業のトップに忠誠心を誓うパフォーマンスという一面もあり、企業全体で組織的に行われた場合には労務管理のひとつとしての効果を持つことにも注意が必要である。
農地の売買と農
地取引所の設立
注目すべき政策はまだある。二〇〇八年一二月に中国で最初の農村土地取引所が重慶で設立された。農地を不動産証券として売買が可能となり、農民は不動産証券の売却によって得た資金で都市部の低価格住宅の購入や賃貸が可能となる。農村の人口移動の促進とともに農村の土地売買自由化にむけた一里塚となる政策である。
すでに二〇〇万人近くの農村部住民が農地の証券化を通じて都市部へ移転したといわれている。しかし重慶市の廉価な住宅は、倒産した国有企業用地や住宅の強制立ち退きなどによって実現されたものであり、労働者農民の居住権、労働健、土地への権利を犠牲にして成り立っているともいえるのだ。
資本主義化が荒
廃地を生み出す
温家宝首相は全人代が閉幕した三月一四日に記者会見を行った。重慶市の王立軍副市長の米国総領事館駆け込み騒動についての質問に次のように答えていた。
「重慶市の政府と住民はこれまで改革に多大な努力を払い、目覚ましい成果を収めてきた。しかし現在の党委員会と政府は今回の一件からしっかりと教訓をくみ取り、反省する必要がある」。
その翌日には薄煕来の更迭のニュースが流れたが、「重慶モデル」は「目覚ましい成果を収めてきた」と評価されたままである。しかし、この「重慶モデル」は中国政府が全国ですすめてきた国有企業の民営化、都市開発に伴う農地収用など、この三〇年来の改革開放政策によって労働者農民の既得権を徹底してたたきつぶした荒廃地のうえに打ち立てられた「中国の特色ある資本主義」のモデルの一つに他ならない。
王立軍とともに「薄煕来の片腕」と言われた黄奇帆・重慶市長はさきの全人代で「この三年、土地収用を理由とした陳情が行われたことはない」と平然と言い放っている。だが昨年の全人代閉幕直後の二〇一一年四月一日には重慶の失地農民(土地収用などで農地を失った農民)ら一〇〇〇人が黄奇帆の罷免要求を重慶市人民代表大会事務局に提出している。二〇一〇年一月には中央政府に陳情をおこなった失地農民が重慶市公安当局にひどい暴力的弾圧をされるというニュースも伝えられている。
「重慶モデル」下
の農民と労働者
農民だけではない。一九九〇年代末から二〇〇〇年代にかけて中国全土で国有企業の改革と称する民営化が進められ、無数の労働者が街頭に投げ出されたが、重慶は民営化攻撃がもっとも激しかった地区と言われている。
二〇〇〇年代中頃からいくつもの反民営化闘争が伝えられている。〇四年には偽装倒産による民営化に反対し工場を占拠した重慶三四〇三工廠の労働者の闘争、〇五年には重慶嘉陵化工廠と重慶特殊鋼鉄工廠でも同じく偽装倒産による民営化に反対する労働者たちの闘争が伝えられている。
薄煕来着任後の〇八年一〇月には、タクシー運転手八〇〇〇人のストライキや重慶各地の学校教職員らのストライキが打たれた。薄煕来はタクシー運転手のストの背景に非合法組織の暗躍があるとして王立軍をスト弾圧に投入する。インターネットを通じてつながった重慶各地の教職員らの抵抗に対しては、通信手段の遮断や恫喝や懐柔を織り交ぜて労働者の自主的組織の破壊を狙った。〇九年にはリストラに抗する重慶嘉陵グループの労働者のストライキや重慶渝運グループの労働者の陳情闘争など国有企業労働者の闘争、一〇年には重慶?江での過労死に端を発したストライキなどが伝えられている。政府・行政主導で国有企業への優遇政策を進める「社会主義型」の経済政策と誤って認識されている「重慶モデル」下の労働者の境遇は、階級なき社会である社会主義は言うに及ばず、社会民主主義的社会にもはるか遠くに及ばないと言えるだろう。
スパイを強要
する監視社会
二週間にわたる全人代の会期中、北京のみならず全国各地で治安維持のためにありとあらゆる暴力装置が動員され、官僚と資本家の独裁に抗する民衆の抗議の声を封じ込めようとした。重慶から北京に汚職告発の陳情に訪れた重慶市人民代表が北京のホテルから重慶警察によって連行されるという事件も起こっている。
治安に関する「重慶モデル」の実例を紹介しておこう。旧ミリタント派の「労働者インターナショナルのための委員会」(CWI)の香港のシンパ組織は、ここ数年にわたり重慶市在住の活動家と連絡を持ってきた。重慶市在住のこの活動家は香港で運営されている同組織のウェブサイトに寄稿したり資料を提供してきた。昨年二月のアラブの春のうねりが中国におけるジャスミン革命の呼びかけに発展した際、重慶市警察は中国全土の他の治安機関と同じく危険人物の摘発に乗り出した。
この活動家は昨年二月二四日に拘束され、家宅捜索などを受け、今後情報提供者になることに同意しなければ身の安全を保証しないなどと恫喝され、やむなく同意した。一〇月、香港で同組織の集まりがあるのでそれに参加して情報を収集するようにスパイ強要が行われた(費用などはすべて重慶市警察が負担)。彼は協力をするふりをして香港での集まりに参加し、監視役として尾行してきた重慶市公安職員を出し抜いてその集まりに参加していた同組織のメンバーらにことの真相を告げたことで、この事件が発覚した。
彼はそのまま香港にとどまり、今年一月には民主派議員らの庇護のもと同組織の国会議員がいるスウェーデンに渡航し、同国国会の中国問題公聴会などで重慶市警察によるスパイ強要や労働者農民運動への弾圧の実態を証言した。これが「重慶モデル」のもう一つの現実である。
加速される官僚
支配体制の危機
薄煕来の更迭によって「重慶モデル」における「毛沢東回帰型」パフォーマンスは消えていくだろう。秋の党大会をめぐる党内権力闘争は様々な形態を取って立ち現れるだろう。
党や行政主導の「重慶モデル」に象徴される開発政策は、中国全土の後発発展の都市部で実施されている政策であり、「重慶モデル」はそのもっとも代表的かつ集中的なモデルとして注目を集めたに過ぎない。後発・内陸部の発展モデルとしての「重慶モデル」、改革開放政策の先進モデルである「上海浦東モデル」や自由放任・労働集約型産業主導の「広東モデル」をはじめ、いくつもの社会・経済的特徴をもつ複数の資本主義のフロンティアモデルがグローバル資本主義と絡み合いながら存在する「中国の特色ある資本主義」として認識すべきだろう。
温家宝首相の「重慶市……の党委員会と政府は……反省する必要がある」という記者会見での発言とその後の薄煕来の更迭は、集団的指導体制に対する反抗は許さないという断固とした意思の表れであると同時に、官僚支配体制を通じて中国社会全体に広がった資本主義的利害関係によって加速される官僚支配体制それ自身の遠心分離的状況を反映したものである。そしてわれわれが何よりも関心を払うべきは、温家宝のこの発言が、極度に官僚的に歪曲化されたものではあるとはいえ、社会衝突と階級矛盾、つまり農民や労働者の怒りを反映したものであるということだ。
「重慶モデル」に社会主義の幻想を抱き「北京コンセンサス」に行き詰まる資本主義のオルタナティブを重ね合わせてきた一部の左派知識人の夢ははかなくもはじけた。
夢から覚めた後に現れつつあるのは、グローバル資本主義と労働者民主主義なき独裁体制の業火に抗う階級闘争の地平である。その地平は国境を越えてグローバルにつながっている。
二〇一二年三月二〇日
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