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古代史の謎・・和歌や古代音楽の起源をもとめると西王母の謎にいきつく
われわれの周りには、あまりにも多くの謎がある。すべてが謎だといってもいいほどだ。そのなかで日本の古代史の謎がある。われわれは、身の回りの多くの起源を、ほとんどなにも知らないのであることを意識しよう。ニュートンではないが、ありとあらゆる未知の海が目の前にある。ここでは、内容はごちゃごちゃとしてまとまらないが、思いついたことを、いちおうそのままあげておく。
日本にもおおくの起源の謎がある。国の起源もそうだ。日本の起源についても、ありとあらゆることがほとんどなにも知られていない。ここで、ほんのちょっとだけ、仏教以前の宗教を考えてみよう。深入りすると果てしない泥沼がまちかまえている。
・祭りの起源、仏教以前の倭国の宗教
七夕やひな祭りなどの道教的な起源もほとんど知られていない。意識もされない。この道教的な祭儀の場は?金印の委奴国という倭国時代は神社とは、道教の道観だったかもしれない。道教の寺院の道観と神社の関係は?
https://ja.wikipedia.org/wiki/道教
神社の祭儀はどうか?新年の初詣は道教的なものか?いや、お盆と新年は一年を2つに分けたものだから、委奴国(伊都国)なる倭国時代以前の縄文とよばれる倭国、出雲王朝のものだろう。縄文倭国の神社の祭儀が、新年の初詣やお盆だろうか。つまり、縄文倭国に神社も神もあったわけだ。縄文期の宗教の痕跡がここにありそうだ。
伊都国の倭国は、全国に道教をひろめ、旧来の神社、縄文とよばれる出雲倭国の神社体系を変えたようにみえる。これが、歴史から消えていることは銅鐸の伝承や巨石信仰、石神信仰などがほとんど消えうせていることからわかる。とくに明治期には、なぜか古来の神社は、徹底的な破壊があったことが知られている。
ここで、出雲倭国から金印の委奴国の倭国ヘの体制変化がいかに大きかったかということがわかるが、日本のこの大きな変化は天孫降臨の「国ゆずり」ということだろうか。また天神様と八幡様など身の回りにあっても、だれも起源など、なにも知らない。だれもなにも知らないし、郷土のこの時期の古代史をあまり習わないのは、それがいつか捏造の歴史にひっかかってくるのを恐れてなのであろうか?
古い時代の祭儀にかかわる舞や歌や音楽についても、ほとんどなにも知られていないのは、天皇家が常識と異なり、政変で何回となく断絶しているからだと思う。古来からの伝統の宝や叡智が、あまりにも数多く何回も断絶しているのだ。そして、古代からの伝統の宝を収集しようにも、できなくなったことが数多くあったのだ。でも、日本は世界のなかでも幸運なほうだったのであろう。まだ、これだけ残っているから。
・和歌の起源
近畿大和王朝以前の倭国、いわゆる九州王朝については、古田武彦の研究によってかなり明らかになってきた。いわゆる九州王朝なる倭国である。
しかし、それ以前がある。卑弥呼の魏志倭人伝にある伊都国である。金印の委奴国である。仁徳天皇の難波津は、新庄知恵子著「謡曲のなかの九州王朝」p42に博多であると書かれる。そして、紀貫之のいう和歌の始めが、仁徳天皇の難波津であると。しかし、仁徳天皇の難波津は、博多であるが、それ以前の天孫降臨の倭国の和歌、難波津以前の伊都国の和歌があるはずだ。すなわち金印の委奴国という初期倭国のうたはどこかに埋もれているはずだ。
金印の委奴国には、中国の呉が滅んで、委奴国へ中国の呉の王族が避難している。だから、この天孫降臨の倭国は中国色の濃いものだったのだろう。そして、のち倭国の大乱がある。「謡曲のなかの九州王朝」p158にあるように、私も神武東征は大和でなく、委奴国に対してであり、これが倭国の大乱であったと思う。この大混乱のなかから卑弥呼の王朝が出てくるわけだ。
古田武彦の「古代史の十字路」よりも新庄知恵子の「謡曲のなかの九州王朝」のほうが従来の視点からはずれて、大胆に真実にせまっているのは、彼女には和歌をどうしても解明してやる、という血みどろにさえみえる意気込み、必死な思いと情熱があるからだろう。
さらにそれ以前に中国の周王朝と通交した出雲の倭国がある。従来の歴史は、縄文土器、弥生式土器なる時代区分であるが、こんな歴史はでたらめといっていい。たとえば、西欧史を青銅器時代と鉄器時代と2つに分けて論じてもあまりに大雑把すぎて、意味がない。縄文時代も土器の時代区分でなく、権力の衰亡史で見るべきなのである。
銅鐸圏の出雲王朝(中国の周王朝と通交した倭国)と金印の委奴国(中国の漢の伊都国)の間にはいわゆる「国ゆずり」という大きな政変がある。周から秦、漢への変遷は日本でも出雲倭国から伊都国の倭国、矛で国を作った軍事政権登場という政変が連動している。これが、天孫降臨といわれている。
このあたりは秦の始皇帝からつかわされた徐福の時期にあたるし、鉄の製法が日本に伝わった時期とも重なるだろう。九州王朝の伊都国は、鉄の武器をもとに任那と北九州を支配した。とうぜんながら、この金印の委奴国は、漢字の濃密な世界であったはずだ。伊都国とは、中国と同程度の漢字文化圏であったはずになる。日本語における漢字文化の消化は、この金印の委奴国で起こったはずなのである。この王朝の歌は残っているか?
中国の周王朝と通交した倭国である出雲王朝については、古田武彦著「古田武彦が語る多元史観」p42の陶塤iとうけん)と音律のところに和歌の起源のことが、出雲王朝とからめて少し書いてある。
音律の存在とは、和歌と舞が関係していたはずだ。詩とは、音楽とダンスと詩が一体となって存在していたはずなのだ。アルチュール・ランボーの詩が、音楽とダンスがセットになっていたはずはないが、ギリシアのサッポーの詩は、音楽とダンスがセットになっていた可能性があるし、ギリシア悲劇のコロスの詩の美しさは、文学史上、比類ないものであり、翻訳では鑑賞できないので、かって古典ギリシア語をこのため学ぼうとして、私は挫折している。
・太陽神崇拝の起源をたどれば、世界の中心がわかる
日本の和歌や舞や音楽は、縄文時代という名の出雲王朝の日本倭国にすくなくとも原型は誕生していたであろう。しかし、この時期、世界の中心は、どこにあったか?
・・・それは、ふつうシュメルとかエジプトとかイスラエルとか想像される。だがここで、太陽神の問題が出てくる。太陽神崇拝の起源をたどると、行きつくところは、シュメルでもエジプトでもイスラエルでもない。それは、小アジアの原ハッティ国という、少なくとも紀元前の三千年期の知られざる文化にさかのぼる。ここが、古代世界の中心であったのだろうか。
しかし、おそらくそれ以前なのだ。なぜなら小アジアでは、紀元前の九千年、1万年以前までさかのぼるゴベクリ・テペの祭祀場の跡が発見されているからだ。
https://www.youtube.com/watch?v=aXARfOP-SvA
世界の太陽神崇拝をさぐっていくと、ヒッタイト帝国のアリンナ太陽女神崇拝にいきつく。その始原は、それ以前の原ハッティ民族のアリンナ太陽女神に行き着くのだ。
トルコ、Alaca Hoyukアラジャ ホユックがヒッタイト時代のアリンナArinnaの町である。ここが、門外不出の鉄の町であり、アリンナ太陽女神神殿があった町なのである。1万年もの延々と続く遺跡がある。原ハッティ国が、印欧語族ヒッタイト人の侵入で壊滅し、ヒッタイト帝国になる。しかしそれも、BC1190年のヒッタイト帝国の終焉ですべてが終わる。
太陽神崇拝を持っていたヒッタイト帝国壊滅はある意味、「古代」の最後の終わりだったのであった。なぜ、古代がここで終わったかは、ながく私のなかに大いなる疑問としてこだました。これはふつう海の民問題とよばれ、古代史最大の問題となっている。
そしてこの小アジアの多くの都市国家の民族は、地中海を流浪し、イタリアのエトルリア民族となったり、スペインでバスク民族となったのであろう。南へとくだって聖書のヘテびととなり、この地にはダマスクス鋼が残っている。いま野蛮なアメリカ、イスラエル、トルコによって破壊されたシリアというのは、世界最古の文明なのである。
ヒッタイト帝国壊滅によって、鉄の拡散がおこったことが知られるが、拡散したのは鉄だけではないのだろう。文明が拡散したのだ。いわゆるヨーロッパ風と言われる多くの要素は、ヨーロッパとは何の関係もない古代アナトリアの文化なのである。ヨーロッパの民主主義や自由が、にせものなのはとうぜんのことなのだ。
この地域アナトリアのヒッタイトの考古学をやっている大村幸弘の動画がある。
ヒッタイト 鉄の謎に挑む アナトリア考古学研究所・所長大村幸弘
https://www.youtube.com/watch?v=eaUTMBUJH7Q (30:10)
さて、日本の縄文時代とは原始人の社会ではなく、いまよりも、もっと文化的な内容にみちあふれた日常があった世界であったと私は考えている。なぜなら、「古代の終わり」は、まだだったからである。
この時期、世界は凡太陽女神の世界である。だが、エジプトにもシュメルにもイスラエルにも太陽女神はない。ヒッタイト帝国、すなわち原ハッティ国のアリンナ太陽女神神殿こそが世界の中心であり、それゆえ中国は夏王朝のころから殷、周にいたるまでアリンナ太陽女神の国の属国であったわけだ。おそらく中国ははるばる小アジアまで朝貢していたのであろう。孔子がいう周の礼の秩序はアリンナ太陽女神の国の秩序であった可能性があり、後に述べる酒器による国と国の位階制を持っていたのではないか。これはイルミナティの軍事をもととしたピラミッド制秩序ではない。
したがって、縄文倭国文化もこれに同期していたはずだ。つまり、原ハッティ国が知られていないよう、知られざる縄文倭国があり、その高度な文化があったはずなのだ。それは、戦争征服などによる秩序ではなく、平和を愛する伝統で、この縄文倭国の伝統は、いまもアイヌ民族に伝わっている。
いまの貧弱な日本の文化を過去の日本に投射しているから、偉大な縄文倭国が、貧弱に見えるだけなのだろう。戦争法案のアベが日本に登場したことは、恥ずかしくも、なさけないことだ。
周王朝の宗主国であった西方の玉の国?、西王母については以前「古代地中海の精神文明」というシリーズで書いたことがある。古田武彦は邪馬台国の位置を推定したのと同じ方法で西王母の国を調べ、小アジアにあたることを結論しており、かれはエフェソスのアルテミス神殿を推定している。
だが、それはすこしまちがいで、ヒッタイトのアリンナ太陽女神神殿がそれに相当し、ヒッタイト人はユーラシアの侵略民族であるので、それ以前のいわゆる原ハッティ国のアリンナ太陽女神が、それにあたるわけになる。
小アジアの原ハッティ国は、紀元前の三千年期の都市国家と民主主義政治や法治国家であり、人類文化の頂点であったと私は思っている。
発掘される陶器がろくろを使わぬものなので、低い文化だと誤解される。だが、日本のお茶の茶碗がろくろを使わないので、日本のお茶の文化は、原始的な低い文化であると言ったら、日本人ならだれもが笑うであろう。それと同じだ。現代よりもさらに突き抜けた先をゆく文化なので理解できないのかもしれない。ここには、のちの古典ギリシアのような、取っ手をもつ器が多く出土する。エーゲ海という東部地中海と小アジアは一体の都市国家群であったことがわかる。これが、真の「古代」なのであった。
その残照が、ギリシアのクレタ文化、すなわちミノア文化と考えている。いや古典期ギリシアが、最後最大の残照であったかもしれない。だが、古典期ギリシアにもソロモン王国にも、すでにアリンナ太陽女神は消えていた。海の民の動乱と暗黒時代があったからである。流民はもう太陽女神崇拝を持たず、日々の生活のなかで、神もなにも持たないで生きたのである。その反動が、キリスト教であったのかもしれないと考えるときがある。
原ハッティ国が鋼鉄をつくりだし、羊毛の衣料産業を起こした史上最初の偉大な工業国家であったと私は考えてきた。原ハッティやクレタをふくめた都市国家群を、おそらくアトランティスとエジプト神官はいったのだろう。原ハッティならば、大陸になる。
ここで、これはまったくの推測、妄想だが、エーゲ海のテラ火山への小惑星の衝突が、史上最大級のテラ噴火を引き起こし、その後の気象変動や天然痘パンデミックが、最終的に海の民の動乱、人類史上最大級の暗黒時代ダークエイジをもたらしたのではないか?とわたしは考えてきた。UFO問題とからめると、そういう妄想的推論もできるのである。
中国の玉璧(ぎょくへき)は、原ハッティ国のいわゆるスタンダードにあたり、シュメルにもある。アリンナの町アラジャ ホユックでの発掘では、太陽を象徴するのであろう丸いスタンダード徽章が、墓のあちこちに置かれている。これはヒッタイト以前の原ハッティ国王の墓であるらしい。
アラジャ ホユック・・・女神アリンナの神殿と製鉄所(鋼の製造所)
Alaca hoyuk - Corum ASB
https://www.youtube.com/watch?v=5skSBnag5mM#=8m00s
音楽の入らないのがいい。たんたんと見ていられる。
アリンナ太陽女神は、海の民の混乱と暗黒時代ダークエイジのため、最終的に小アジアのエフェソスのアルテミス女神に習合したのだろう。中国の周の穆天子伝は、この西王母アリンナ太陽女神を、むなしく探し求める話である。けっきょく周は西王母の属国を止め、このあと中華思想の立場をとることになる。
のち、ここ小アジアの7つの教会は、初代キリスト教の中心となったが、アルテミス女神は、マリアとなって復活したのである。カトリックがマリアを重視するのはとうぜんのながれなのだ。
アリンナ太陽女神こそが、古代世界の文化の中心であって、孔子のいう周の礼の秩序も舞や歌や音楽も、すべて原ハッティ文化に起源があるとまえ書いた。このなかで、太陽を暗示する印としての中国の玉璧(ぎょくへき)や日本の錦にみられる丸紋、イタリアの教会堂の正面の丸い窓、いわゆるばら窓は、このアリンナ太陽女神を暗示しているとした。
このことは、アリンナ太陽女神のことが知られていないため、たとえば太陽女神としての天照大御神だとか、中国で天子が位につくときの泰山封禅などの儀式の意味をまるで誤解されている事態になっている。
エジプトのツタンカーメンの王族の墓にあるアテン神、太陽神の讃歌は、かれらが原ハッティの避難した王族であったことを示していると私は思っている。ミタンニのフルリ人の王族と言われているが、なにか違和感がある。原ハッティ風の王名を持つが、誓う神は印欧系なのである。フルリ王は、原ハッティ風に名乗るのである。だからツタンカーメンの王族こそが、原ハッティ王族だったのではないだろうか。かれらのアテン宗教革命が短命に終わったのは、外来の太陽神崇拝だったからだろう。このことは、天童竺丸の「憎悪の呪縛」にツタンカーメンの王族が、エジプト外来系の未知の民族であることが、詳細に記されている。
その原ハッティの太陽神の宗教書がツタンカーメンの暗殺時に盗まれ、旧約聖書の中に入れられているのではないか、と、まえ書いたのである。この暗殺と略奪の事情を記したパピルスが、ツタンカーメンの墓の発掘時カーターから、ロスチャイルドに献上され、旧約聖書の起源をくつがえすものとして、とうぜんお蔵入りになり、ロスチャイルドやヴァチカンの例からみて、永遠に門外不出となったわけだ。
だが、旧約の一神教の起源が、盗まれた小アジアの太陽女神の宗教書にあるとなったら、世界の宗教界は、大きな衝撃をうけるであろう。
・周王朝にさかのぼる日本の儀礼の起源
中国の周代以前の文化の多くは、おそらく西王母、アリンナ太陽神の文化に起源し、韻律を持つ詩経や日本の和歌の起源も舞と音楽をともなうものであったであろうところの小アジアのアリンナ太陽神の祭儀に起源するであろう。古代文化の中核は、けっしてシュメルでもエジプトでもないのであろう。
酒をくみかわす日本の儀礼の起源についておもしろい動画がある。公爵、伯爵などの爵位が、周王朝にさかのぼる起源ということ。爵という酒の杯による秩序である。
「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」古田史学の会 正木裕
https://www.youtube.com/watch?v=6Ex00ryujvo#=20m15s
あるいは、曲水の宴の存在も酒の杯と和歌をつかう朝廷の儀式があったことを意味する。701年からの近畿天皇家は、古来の倭国の伝統は実質的に機能していなかったと考えている。雅楽などというのも、おそらく外国起源の音楽であろうと古田武彦が言っているが、おそらく新羅の音楽であろう。日本の古来からの音楽は、たとえば、この動画をみればいい。
筑紫舞 神無月の舞
https://www.youtube.com/watch?v=D6ClKgAUO8I
ここに笛があるが、本来は陶塤ェ使われ、琴は筑紫琴で、もっと音量が小さく、ひなびたものだったはずだ。この錦の服の丸紋が太陽女神をあらわすのだろう。
・日本の音楽の起源としての古代ギリシアの音楽
このペンタトニックという五音音階は、古代ギリシアの音楽もそうであることがわかっているが、ここに、デルポイの神アポロ神に捧げられたデルポイ讃歌がある。第1デルポイ讃歌と第2デルポイ讃歌の両方でひとつの讃歌となる。BC138のアテーナイオスやBC128のリメニオス作曲のもの。デルフォイのアテネ人の宝庫の壁面に彫られた歌に古代ギリシアの楽譜がついている。ミロのビーナスと同時代であるが、金印の委奴国伊都国の倭国とも同時代になる。ヘレニズム時代のあとで、全世界はギリシア化していたのである。
デルポイ讃歌は復元していろいろ奏されているが、「筑紫舞 神無月の舞」のように奏さねばならない。詩のなかのキタラという楽器が復元されていて、どのくらいの音量だとか、よくわかっているはずなのに、まともな演奏はされてない。
が、つぎのはまだまともなほうである。だが、キタラの伴奏はない。これはリメニオス作曲の第2デルポイ讃歌のほうであるが、アテーナイオスの第1デルポイ讃歌のほうがすばらしい。ここの半音階部分は香煙がたちのぼるというところだが、キタラの伴奏があるほうが美しさがきわだつのだ。第2デルポイ讃歌は、半音階部分がないのでグレゴリオ聖歌ふうの合唱のほうでもいいのである。
https://www.youtube.com/watch?v=03zEUD7YoAk
英文のwikiでは、つぎのように
https://www.en.wikipedia.org/wiki/Delphic_Hymns
讃歌の歌は、ギリシア語と英語の対訳がどこかにあるはずだが・・・
デルフォイの遺跡のほうは、たとえばつぎのように動画にある。
https://www.youtube.com/watch?v=bkh2HYvwHI8
https://www.youtube.com/watch?v=OznTE04hC_o
・周や倭国などの、古代からのさまざまなことが身近にある
中国の周代以前の文化の多くは西王母、アリンナ太陽神の文化の伝播があり、それはすくなくとも、漢代の金印の委奴国(中国の漢の時代の伊都国)までは、日本に濃厚に伝わっていたと思う。それ以後でも、3世紀の卑弥呼の使者は大夫という位であり、たしか現在でも名は宮内庁に存在する。また大蔵省という名が、アメリカにつぶされたが、これも倭国という古代から連綿とあった由緒ある名である。
尊敬の尊が意味する容器は、現在でも私の家の仏壇の花瓶としてあり、尊式花瓶というのが世に存在し、これはなにかなあ、とながらく疑問に思っていたものだ。周にさかのぼる位階に関連する酒器の名であったわけだ。
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