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「1551」番 栗原康 (くりはらやすし)著 『現代暴力論』 という新刊書 がすばらしいので、私が書評して強く推薦します。 副島隆彦 2015年8月25日 から抜粋
http://www.snsi.jp/tops/kouhou/1847
今日は、私が、読んでびっくりした一冊の新刊本を紹介し、強く推薦します。その評論文を載せます。
その本は、 栗原康(くりはらやすし)著 『現代暴力論(げんだいぼうりょくろん)「あばれる力」を取り戻す』 (角川新書 2015年8月刊)です。
私は、この本を読んだ驚きを すぐに 知人の編集者にメールで伝えました。以下に、私が書いた4日前(8月21日)にそのメールの文を載せます。この文は、この本に対する最大限の 評価、賞賛の 書評文(ブックレヴュー)でもあります。
(転載貼り付け始め)
**書店 編集部
****さまへ
私は、3日前(8月18日)に、品川駅の 新幹線乗り場の構内の 書店で、出たばかりの 『現代暴力論「あばれる力」 を取り戻す」(角川新書 、栗原康 著 2015年8月10日 刊)という本を 買いました。 そして、その日と一昨日で 読み終わりました。
私は、この 「暴力 を取りもせ」 「あばれてゆく力、暴力だ」(13ページの文) という本を書いた栗原康氏を最大限に評価し共感し賞賛します。 私は、アナキストの大杉栄(おおすぎさかえ)の研究者で、大学の非常勤講師の36歳で、なよなよした 感じの若手学者 と これから 会って、いろいろ と真剣に話したいと思います。
私は、この 本に感動した、と書くだけでなく、「非常によく書けている」と、年長者(ねんちょうしゃ)の 知識人が若い後進(こうしん)の 知識人に対して 高い評価を与えるときに 使うコトバを 使いたいと思います。
ですから、まず**さんは、私が今からずっとこのまま書くこのメールを、 あなたと同じ****書店の編集部にいる同僚の編集者の****氏に、プリントアウトして届けてください。
私はこの日この本を手にして、このあと****社の****氏と会って自分の本の打ち合わせをしたのですが、買って、そのあとも電車の中で途中まで読んだばかりの この本のことを冒頭で、ずっと 彼に話したら、 「私は彼を知っています。 私たちの編集者たちの集まりで、栗原くんに賞をあげようと話したことがあります。**くんは、佐藤優(さとうまさる)さんの担当で、副島さんにも会ったことがあるんじゃないかな」 との ことでした。それで、あなたにこのメールを託します。
この本の はじめの方(12ページ)に、こう書かれている。
「でも、今の世の中では、この力(引用者注。=民衆の側の暴力)がなかなか行使できなくなってきている。 支配のための暴力とでもいえばいいのだろうか。 ひとにぎりの人間が暴力を独占し( 引用者注。=権力者たちによる暴力の独占)、それ以外の暴力をみとめようとしない。
はじめから(人間は)こう考えるべきだとか、こうふるまうべきだとか、そういうのがぜんぶ決められていて、さからえば犯罪者あつかいされて取り締まられる( 引用者注。 =もし暴力行為を行えば、すぐに逮捕されて刑罰を与えられる)。
それがあたりまえになってくると、いわれたとおりにしないことが、倫理的にわるいことであるかのようにおもわされ、自分からいうことをきくようになってしまう。暴力(の国家、権力者による)簒奪、(民衆の側の暴力の )自己放棄だ。
それは、生きるよろこびを失うことであり、とても息苦しいことだ。私たちは、、こういう暴力をしりぞけるために、いまいちど(引用者加筆。ふつうの人々、民衆が持つ)暴力の力 を 手にすることができるだろうか 」
と、栗原 君は、書いている。 私、副島隆彦は、この考えに同感です。「・・・手にすることができるだろう」で、とめないで、「か」と疑問文にしているあたりの躊躇い(ためら)
いと自己疑問の深さも、私はよく分かります。
同ページのその前の方に、 大杉栄の 「むだ花 」という評論文からの一節で、 「闘え。 闘いは生の花である。 みのり多き生の花である。 」 を引用している。
36歳の若い政治学者である栗原康の 学問上の最大業績は、 すでに出版している 『大杉栄伝 ー 永遠のアナキズム 』 (夜光社、2013年刊)で、きっと展開し始めたであろう、 「 現代国家がやっていることは ・・・・ 対テロ戦争(引用者注。ウォー・アゲインスト・テロリズム) という名 の (引用者注。国家の側の)テロリズムである」という 大発見だ。 この 国家による 「テロリズム反対という名による 国家によるテロリズム」を 栗原康は、徹底的に暴き立て、その 悪辣(あくらつ)で 愚劣な 本性を 満天下に 証明し続けている。
これは、この国の 他の 若い 政治学者、社会学者、評論家には、できない仕事だ。
たとえば 古市憲寿(ふるいち・のりとし、1985年生、30歳)のように、『誰も(ボクたちに)戦争をおしえてくれなかった』(講談社刊、2013年)のように、軽やかな新しい世代のリベラル派の書き手とみせかけながら、 アウシュビッツや 広島やらをたくさん論じるくせに、 政治なるもの本当のおそろしい 悪 を 糾弾することをしない。 誰も敵に回さない。彼は、私たちの 中田安彦(アルル)君が、一瞬で鋭くその正体を見破ったとおり、 「 御用学者(ごようがくしゃ)ならぬ 御用大学院生(ごようだいがくいんせい) 」だ。
自民党の勉強会でも、テレビでも、それから 文部科学省の 審議会の委員でも ホイホイ引き受けるズルい、ワルい 若者だ。この古市くんと 栗原くん は、その生き方が全く違う。 古市憲寿 をホメた 上野千鶴子(うえのちずこ)も、加藤典洋(かとうてんよう)目が節穴だ。 自分たち自身が、すでに鈍感リベラルの おいぼれロートルなのだ。
古市憲寿とはちがって、栗原康を 自民党も官僚たちもメディア(テレビ、新聞)も 利用することはできない。 ここまで過激だと、権力側・体制側は、栗原康を自分たちのいいように手懐(てな)ずけ 飼育することはできない。
今のアメリカがすべての音頭を取っている 「テロとの戦争」、「テロリズムを撲滅するための世界的な共同行動 」という「 対テロ戦争」こそを、私たちは深く疑うべきだ。
アメリカは、自分たちがやった イラク侵略戦争(アメリカによるイラクへの侵略戦争 )を、「アメリカ・イラク戦争」と正しく表記することを世界に禁じた。イラク戦争(2003−2012年)を War in Iraq (ウォー・イン・イラク) 、War against Terrorism (ウォー・アゲインスト・イラク) と 呼び続けて、世界中の新聞、テレビ(メディア)にもそのように書かせ続けた。
栗原康は、このことの欺瞞をしっかりと見抜いている。 「対テロ」と言う名の 国家(政府)によるテロリズム」が陰湿に、民衆=国民を 自分たちの下に押さえ付けて、国家のいうことをなんでも聞かせ続ける態勢と体制、を 彼は糾弾している。それをものすごく 自分の身体からにじみ出る柔らかい文体と正直な生き方で、表現している。
栗原康は、 西暦2000年ごろからの 世界体制である、「対テロリズム と言う名の 国家テロリズム」 の本性をしっかりと見抜いて、私たちに この本で明瞭に明確に提示した。 すばらしい本である。
国家なる支配秩序が、暴力を独占する(警察と軍隊は国家だけのものである)という 本質をはっきりと抉(えぐ)り出した。 そして、「国家が行う“テロリズム反対”というテロリズム 」を 日本で明確にしたことで、 栗原康は、この研究で高い評価を受けるだろう。
彼がすでに書いている 他の本である、『学生に賃金を』(新評社、2015年)も、『はたらかないで、たらふく食べたい ― 「生の負債」からの解放宣言』 ( タバブックス刊、・・・年) も 明らかに、今の 恵まれない、働きたいのに いい職がない若者たちの知的な部分に強く訴えかける。ブラック企業での 奴隷労働のような仕事しかない。このことへの怒りが今の日本に充満している。だからこれらの本は、 多くの真剣に生きる、何の特権も、コネもないかわいそうな若者たち の胸と脳にズシリと響くだろう。
今の日本で、 一番、かわいそうなのは、大学を出ても、介護の職( 障害者や老人のウンコの世話) 以外に ろくな職がない 知能の高い若者たちだ。 それにくらべて、昔から居るのだが、 親や一族のコネで、当然の特権階級として、公務員とか、特殊法人とか、大企業に ”裏口入学” している 生来、腐敗した若者たちだ。同じ若者でも、互いに 一生涯の敵だ。だが、社会の表面にはこの深刻な事実は、出てこない。
栗原康の掲げる主題(命題、テーゼ)は、P211に書かれている「 テロ対策の名のもとに、市民の監視でも 暴力の行使でも、警察はなんでもやりたいほうだいだ。これ、いまでは一般化しているように思われるが、テロ対策というのは、言ってしまえば国家による テロリズムなのである。あらゆる国家の根っこには、恐怖による統治がある」である。
本当に、今や、世界中の大都市で、警察による本当に物凄い数の監視カメラがすべての都市のいたるところに据え付けられている。この「カメラとコンピュータによる国民監視」の動きはロンドン市からはじまった。
私、副島隆彦が、書店でこの本を手に取って、ぱらぱらとめくって読み始めたのは、うしろの方の、217ページから223ページの バクーニンの 生き方 を描いた部分だ。 ここで、私は、大きくピンと 来た。
(中略)
社会主義や 左翼の思想運動は、全部 敗北してこの地上から消滅したのだと、右翼たちは考えたいのだろう。日本の反共右翼たちおよび体制派はそのように思っている。 そういうわけにゆくかよ、だ。
私、副島隆彦は、栗原くんのような、しっかりした、そしてきちんとした文章を書いて、分かりやすく、多くの人々を説得できる若い知識人 が出現していることを 本当に嬉しく思う。
栗原くんは、 きっと貧乏私立大学のビンボー非常勤講師だから、たいした収入はない。この本のどこかに年収100万円だと書いてあった。私、副島隆彦も29歳の時に、年収40万円から評論業を始めた。彼は、埼玉の実家で両親と暮らしていて、いつまでも、自立しないで、だらだらと家にいるようだ。女と同棲生活をすることもしていないようだ。それは分からないが、このように見える。
この本の 第一章は、「国家の暴力」 「我々は奴隷精神を植えつけられた」 である。 冒頭から、「国家は、収奪(しゅうだつ)とカツアゲ (=恐喝)をする」 である。 私も、全く同じ考えだ。 これが、カール・マルクスの思想でもある。 佐藤優氏も、いつもはっきりと この考えを書く。
国家は、「有無をいわさずに、税金をむしりとる。まちがいない、それが国家だ」(28ページ)
「東京にでて、街をぶらぶらしていると、警官に声をかけられる。「ちょっとカバンのなかをみせてください」。職務質問だ。 ・・・ブタのようにうんと腹のでた警官二人組にとめられた。・・・・巨大なブタ二匹がとうせんぼしている。・・・・わたしはカツアゲにあったことがなかった・・・ブルブルふるえがとまらない。どうしよう。わたしは、「これって、任意ですよね」と聞いてみたが、警官は、「はい」というだけでピクリともしない。
・・・警官は・・・バシッと 肩をぶつけてきた。私はぶっとばされて、ふらふらしてしまったが、警官が、・・・「あなたは なにか やましいこと でもあるんですか」。 道ゆく人たちが私をみる。恥ずかしい。これじゃまるで犯罪者じゃないか。・・・・警官というか、国家というか、いったいなんなんだろう。 ひとに恐怖と恥辱(ちじょく)をあたえ、むりやりいうことをきかせようとする。 収奪とカツアゲだ。 ・・・・肥えたブタはかならず食われる」
(以下略)
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