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お狐樣の御告げ 伏見橋が崩落し、お天道樣の復活祈願、伏見稻荷大社お火焚祭が行はる。
http://www.asyura2.com/12/bd61/msg/622.html
投稿者 不動明 日時 2014 年 11 月 09 日 07:48:41: yX4.ILg8Nhnko
 

(回答先: 電光石火第二弾  テロ関係法案すべて成立:余命3年時事日記:So-netブログ 投稿者 不動明 日時 2014 年 11 月 09 日 07:20:24)

 
 


洞爺湖:全長50メートルの橋 半分が沢に崩落 - 毎日新聞
http://mainichi.jp/select/news/20141107k0000e040223000c.html
洞爺湖:全長50メートルの橋 半分が沢に崩落
毎日新聞 2014年11月07日 12時54分(最終更新 11月07日 13時11分)

崩落した洞爺湖町の伏見橋=北海道洞爺湖町で2014年11月7日、共同
 7日午前8時15分ごろ、北海道洞爺湖町伏見の町道の伏見橋が崩落していると通行人から110番があった。伊達署によると、けが人や車の落下は確認されていないという。
 洞爺湖町によると、橋は全長約50メートルで、橋の半分ほどが沢に落ちていた。6日夜までは異常はなく、7日早朝に崩落したとみられる。
 1998年に建設された橋が最後に点検されたのは2012年9月で、異常は確認されなかったという。(共同)


洞爺湖町の町道の橋が崩落 けが人はなし、完成後まだ16年−北海道新聞[道内]
北海道・洞爺湖町で50mの橋が崩れ落ちる…2012年点検時には異常なし - 【 大地震・前兆・予言.com 】
 
 
 
 
たかあまはらにかむづまります。すめらがむつかむろぎかむろみのみこともちてやほよろづのかみたちを。かむつどへにつどへたまひ。
高天原にb留まり坐す。皇が親b漏岐b漏美の命以て八百萬b等を。b集へに集へ給ひ。 


かむはかりにはかりたまひて。あがすめみまのみことは。 
b議りに議り給ひて。我が皇御孫命は。


とよあしはらのみづほのくにをやすくにとたひらけくしろしめせとことよさしまつりき
豐葦原瑞穂國を安國と平けく知食せと事依さし奉りき。


かくよさしまつりし。くぬちに。あらぶるかみたちをばかむとはしにとはしたまひ。かむはらひにはらへたまひて。
此く依さし奉りし。國中に。荒振b等をばb問はしに問はし給ひ。b掃へに掃へ給ひて。


ことどひしいはねきねたちくさのかきはをもことやめて。あまのいはぐらはなちあまのやへぐもをいづのちわきにちわきて。
語問ひし磐根樹根立草の片葉をも語止めて。天の磐座放ち天の八重雲を伊頭の千別に千別て。


あまくだしよさしまつりき。かくよさしまつりし。よものくになかと。おおやまとひだかみのくにを。 
天降し依さし奉りき。此く依さし奉りし。四方の國中と。大倭日高見の國を。


やすくにとさだめまつりてしたついはねにみやはしらふとしきたて。
安國と定め奉りて下津磐根に宮柱太敷き立て。


たかあまはらにちぎたかしりてすめみまのみことのみづのみあらかつかへまつりて
高天原に千木高知りて皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて 


あまのみかげひのみかげとかくりまして やすくにとたいらけくしろしめさむくぬちになりいでむ。あまのますひとらがあやまちおかしけむ。
天の御蔭日の御蔭と隱り坐して安國と平けく知食さむ國中に成り出む。天の益人等が過ち犯しけむ。 


くさぐさのつみごとはあまつつみ くにつつみ ここだくのつみいでむかくいでば。
種種の罪事は天津罪國津罪許許太久の罪出む此く出ば。


あまつみやごともちてあまつかなぎをもとうちきりすえうちたちて。
天津宮事以ちて天津金木を本打ち切り末打ち斷ちて。


ちくらのおきくらにおきたらはしてあまつすがそをもとかりたちすえかりきりてやはりにとりさきてあまつのりとのふとのりとごとをのれ。
千座の置座に置足はして天津菅麻を本刈り斷ち末刈り切りて八針に取裂きて天津祝詞の太祝詞事を宣れ。


かくのらば。あまつかみは。あまのいはとをおしひらきてあまのやへぐもを。いづのちわきに。ちわきて。きこしめさむくにつかみは。
此く宣らば。天津bは。天の磐戸を押披きて天の八重雲を。伊頭の千別に。千別て。聞食さむ國津bは。


たかやまのすえひきやまのすえにのぼりまして。たかやまのいぼりひきやまのいほりをかきわけて。きこしめさむ。
高山の末低山の末に登り坐て。高山の伊褒理低山の伊褒理を掻き別けて。聞食さむ。


かくきこしめしては。つみといふつみはあらじとしなとのかぜのあまのやへぐもをふきはなつことのごとく。
此く聞食しては。罪と言ふ罪は在らじと科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く。


あしたのみぎり。ゆうべのみきりを。あさかぜゆうかぜのふきはらふことのごとくおおつべにをるおおぶねを。
朝の御霧。夕の御霧を。朝風夕風の吹き掃ふ事の如く大津邊に居る大船を。


へときはなち。ともときはなちて。おおうなばらにおしはなつことのごとくおちかたのしげきがもとを。
舳解き放ち。艪解き放ちて。大海原に押し放つ事の如く彼方の繁木が本を。


やきがまのとがまもちてうちはらふことのごとくのこるつみはあらじと。はらへたまひきよめたまふことを。
燒鎌の利鎌以て打ち掃ふ事の如く遺る罪は在らじと。祓へ給ひ清め給ふ事を。


たかやまのすえ。ひきやまのすえより。さくなだりにおちたきつ。
高山の末。低山の末より。佐久那太理に落ち多岐つ。


はやかわのせにます。せおりつひめといふかみ。おおうなばらにもちいでなむ。
早川の瀬に坐す。瀬織津比賣と傳ふb。大海原に持出でなむ。 


かくもちいでいなばあらしほのしほのやおあひのやしほじのしほのやほあひにます。はやあきつひめといふかみ。
此く持ち出で往なば荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百曾に坐す。速開都比賣と傳ふb。


もちかがのみてむ。かくかがのみてはいぶきとにますいぶきどぬしといふかみ。ねのくにそこのくににいぶきはなちてむ。
持ち加加呑みてむ。此く加加呑みては氣吹戸に坐す氣吹戸主と傳ふb。根國底國に氣吹放ちてむ。


かくいぶきはなちてはねのくにそこのくににます。はやさすらひめといふかみ。もちさすらひうしなひてむかくさすらひうしなひては。 
此く氣吹放ちては根國底國に坐す。速佐須良比賣と傳ふb。持ち佐須良比失ひてむ此く佐須良比失ひては。


けふよりはじめてつみといふつみはあらじと。
今日より始めて罪と傳ふ罪は在らじと。


きょうのゆうひのくだちのおおはらへにはらへたまひきよめたまふことをもろもろきこしめせとのる
今日の夕日の降の大祓に祓へ給ひ清め給ふ事を諸々聞食せと宣る


大祓詞
大祓詞 - Wikisource
大祓詞 口語訳 | にっぽん文明研究所
祝詞の現代語訳


京都観光ポータルサイト - e京都ねっと | お火焚祭
http://www.e-kyoto.net/saiji2/610
お火焚祭


11月8日(※毎年同じ日程です):伏見稲荷大社
 


 火焚祭とは今年一年間の収穫に感謝する行事で、
 伏見稲荷大社のものは全国一のスケール。
 立ち上る炎に圧倒されます。
 本殿の儀のあと、火焚きの儀が行わます。
 本殿裏手の斎場に3基の火床を設け、
 神田でとれた稲のわらを燃やし、
 恵みをもたらしてくれた神を山に送ります。
 その際、全国から寄せられた約10万本の願い事が
 書かれた火焚き串を焚き、
 神楽女の神楽舞が行われます。


 特に後半が見所。雨天決行。


 御神楽は古の鎮魂祭に基づく神事。
 孝明天皇の時代に、禁裏御所の特別の思召しで
 再興されました。
 薄暗い境内の庭燎(にわび)の中で、
 本歌・末歌・和琴・笛・ひちりきが奏でられ、
 早韓神が歌われるなか「人長舞」が舞われます。
  ・場所:伏見稲荷大社(伏見区深草)
  ・時間:本殿の儀:13時〜、火焚神事:14時〜
  ・御神楽(人長舞):18時〜
  ・料金:拝観自由
  ・アクセス:JR「稲荷」駅、京阪「伏見稲荷」駅
  ・お問合せ:075-641-7331


お火焚きとは?
 11月に入ると、京都の各神社から煙が立ち昇ります。
 お火焚きと呼ばれ、江戸時代から京都地方などで行われる神事で、
 陰暦11月に社前において火を焚き、祝詞や神楽でもって神意を慰めるものです。
 秋の収穫感謝の新嘗祭(しんじょうさい・にいなめさい)の一種、
 または古くから庭燎(にわび)を焚いて神楽を舞ったものの名残であるとも言われており、
 神社だけでなく民間でも行われ、みかんや饅頭、おこしなどを供え、
 神社が参詣者に授与したり、民間の子供たちに与えたりします。
 また鍛冶屋の鞴(ふいご)祭りなどが行われることもあったようで、
 火を用いる業種(鍛冶屋や染物屋、造酒屋など)で
 この様なお火焚きの日が決まっていることが多くあります。


お火焚き饅頭を食べよう!お土産にしよう!
 小豆のこしあんを入れた小判形の紅白饅頭に、宝珠の焼き印をつけたもの。
 お供えのおさがりとして近所の人や普段お世話になっている方々に配って回ります。
 昔は、子供たちは、今日はここ、明日はあっちと近所をまわって、
 お菓子を貰いに行くのが楽しみだったそうです。
 
 
 
 
火焚祭、京都の秋もえる 太陽の復活願う風物詩 : 京都新聞
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20141107000073
火焚祭、京都の秋もえる 太陽の復活願う風物詩



京都市内の主な火焚祭


 冬の足音がひたひたと近づく11月、京都市内の神社で火焚祭(ひたきさい)が相次いで行われる。1980年頃までは市街地でも町内行事として、あちこちで行われていたという。意外に知られていないこの風物詩の歴史と意味を、あらためてたずねてみた。
 市内ではこの時期、火焚祭を営む神社が十数カ所ある。秋の収穫の感謝や厄除けの願いを込めて護摩木を焚き、神楽を舞って奉納する神社も多い。
 「30年ほど前には市内の至る所で火焚祭の開催日時を知らせる張り紙を見かけた」と、民俗芸能学会代表で市歴史資料館の元館長山路興造さん(75)=野洲市=は話す。山路さんによると、火焚祭は太陽光の力が一年で最も弱まる冬至に合わせ、その復活を願ったことに由来する。「身の回りの小さな共同体が受け継ぐ文化だった」
 京都の風俗を描いた江戸時代の絵巻にも、道端で火を焚き、それを子どもが見つめる姿が描かれているという。しかし、都市化とともに「適当な空き地が減り、安全管理の問題もあって徐々に消えていったのではないか」と推測する。
 伏見稲荷大社の火焚祭(8日)は全国有数の規模で知られ、十数万本もの護摩木が焚かれる。午後6時からは神職による「御神楽」が奏される。
 山路さんによると、江戸時代の稲荷大社文書には、現在の南丹市に当たる地域の村人が巫女(みこ)として伏見稲荷大社の祭礼に参勤し、神楽を舞っていたことが記されている。他にも京都では多くの巫女が職能集団をつくり、50人ほどが集住して村を形成する例もあったという。
 平安時代には宮廷儀式の一つだった神楽は、中世以降、神社などでも演じられるようになった。さらに明治時代、国家神道政策の一環で神職演舞禁止令が出されたことで、一般の村人の間に伝承されるようになった。
【 2014年11月07日 12時17分 】
 
 
 
 
伏見宮 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/伏見宮



伏見宮十四裏菊


 伏見宮(ふしみのみや)は、かつてあった日本の宮家の一つ。宮家御紋は伏見宮十四裏菊。世襲親王家の4家の中では最も歴史が古く、持明院統の嫡流で北朝の崇光天皇の第一皇子栄仁親王を初代とする。宮号はその所領だった伏見御領に因む。
 第3代貞成親王の第一王子彦仁王(後花園天皇)は嗣子のない称光天皇の猶子となって皇統を継ぎ、この系統が今日の皇室に連なっている。一方、貞成親王の第二王子貞常親王の系統は以後代々と伏見宮を継承し、明治になるとそこから数多くの連枝が新宮家を創設した。
 昭和22年(1947年)昭和天皇の弟である直宮3家を除いたすべての傍系宮家が皇籍を離脱することになったことにともない、代24代博明王が臣籍に下って伏見博明を名乗った。このとき皇籍離脱した11宮家はいずれもこの伏見宮の系統である。


歴史
 北朝第3代崇光天皇第一皇子栄仁親王は持明院統の嫡流にあたったが、その皇位継承は将軍足利義満に忌避されたと考えられ、皇位を継承することなく御領のひとつ伏見御領に移り、伏見殿と呼ばれるようになった。
 栄仁親王王子の3代貞成親王は、自ら伏見宮と称していた。貞成親王の第一王子は後花園天皇として即位し、第二王子の貞常親王が4代目となったが、貞常親王は兄の後花園天皇から永世「伏見殿」と称することを勅許され、以後、代々「伏見宮」と名乗るようになった。
 幕末から明治維新の時の19代貞敬親王および20代・23代邦家親王は子女に恵まれ、貞敬親王からは梨本宮、邦家親王からは山階宮・久邇宮・華頂宮・小松宮・北白川宮・東伏見宮がそれぞれ創設されたほか、幕末に断絶していた閑院宮をも継承して再興している。また久邇宮からはさらに賀陽宮・東久邇宮・朝香宮が創設された。維新後に創設された宮家はそのすべてが伏見宮家の系統である。
 邦家親王の跡を継いだ24代貞愛親王は、元帥・陸軍大将に累進。明治天皇および大正天皇の信任も厚く、皇族の重鎮として、大日本農会・在郷軍人会総裁を歴任した。
 貞愛親王の跡を継いだのが、25代博恭王である。博恭王は当初、華頂宮家を継承していたが、伏見宮家の継嗣とされていた弟の邦芳王が病弱のため、伏見宮に復帰して継嗣となった。元帥・海軍大将・軍令部総長として昭和海軍の実力者であった。博恭王は、1946年(昭和21年)8月16日に薨去し、博恭王の第一王子の博義王は父よりも早く薨去していたので、博義王の第一王子である博明王が26代となった。
 博明王は1947年(昭和22年)GHQの指令により10月14日皇籍離脱し、伏見氏を名乗る。


伏見宮家邸宅
 江戸時代の伏見宮家は京都御所周辺に2ヶ所の邸宅を有しており、その時の当主の都合で、どちらかを本邸として使用していた。御所東部と御所北部に、その邸宅は存在した。御所北部の邸宅は現在、同志社女子大学の敷地の一部となっている。周囲には桂宮家と五摂家の二条家と近衛家の邸宅があった。
 御所東部(出町北鴨口)の邸宅跡地付近には、「妙音弁財天」を祀る伏見宮家の鎮守社が今も残る。
 明治初期以降の伏見宮邸の跡地は、現在はホテルニューオータニとなっており、庭園にその名残がある。なおこの場所には、はじめ加藤清正の下屋敷があり、後には井伊家中屋敷があった。


歴代当主
01.栄仁親王(北朝第 3代崇光天皇第 1皇子)
02.治仁王
03.貞成親王(後花園天皇父、後崇光太上天皇)
04.貞常親王
05.邦高親王
06.貞敦親王
07.邦輔親王
08.貞康親王
09.邦房親王
10.貞清親王
11.1邦尚親王
12.邦道親王
13.貞致親王
14.邦永親王
15.貞建親王
16.邦忠親王
17.貞行親王(桃園天皇第 2皇子)
18.邦頼親王(15代貞建親王王子)
19.貞敬親王
20.邦家親王※
21.貞教親王
22.貞愛親王(元帥陸軍大将)
23.博恭王(元帥海軍大将、軍令部総長)
24.博明王(皇籍離脱、伏見氏を名乗る)


※ 正確には、邦家親王→貞教親王→貞愛親王→邦家親王(再継承)→貞愛親王(再継承)→博恭王という継承が行われた。そのため、系図によっては邦家親王を20代・23代、貞愛親王を22代・24代、博恭王を25代と数えているものもある。
 また11代邦尚親王については、その父である10代貞清親王よりも7か月早く薨去しているので歴代当主に数えない説もある。同様に、24代博明王の父の博義王については、その父である23代博恭王よりも早く薨去しているが、博義王については歴代当主に数えていない資料が多い。
 
 
 
 
旧皇族 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/旧皇族
 旧皇族(きゅうこうぞく)とは、1947年(昭和22年)に皇籍離脱した11宮家51名の元皇族とその子孫を指す俗称である。旧宮家ともいう。
 いずれにしても俗称であるから、正式・正確な定義というものは存在しない。各人が各人の立場や好みにより自由な解釈を行っている。
 竹田恒泰によれば、宮内庁は1947年に皇籍離脱した11宮家51人の王、王妃、女王を「元皇族」、その中で当時宮家の当主だった王を「旧皇族」と定義しているという[1]。また高森明勅や小林よしのりらは自身の著書や講演での発言において、旧皇族とは実際に1947年に皇籍離脱した人物であるとし、離脱後に誕生した男系子孫については一度も皇族であった時期がないという点から「旧宮家系国民男子」と呼んでいる。


概説
 旧皇族の11家は、すべて室町時代以来続く世襲親王家の筆頭であった伏見宮家の男系子孫にあたる。現皇室と旧皇族の男系での共通の先祖は伏見宮貞成親王(後崇光院)である。旧皇族の各家は、いずれも明治維新前後の時期に、伏見宮家の第19代貞敬親王及び第20代・第23代邦家親王の王子が還俗して、宮家を創設もしくは継嗣のいない宮家を相続したことに起源を有する。ただし、この時期に新立した宮家に関しては1代限りとして2代目からは臣籍降下させて華族に列することとし、世襲は想定されていなかった。
 伏見宮家をはじめ、桂宮・有栖川宮・閑院宮の各世襲親王家に共通することであるが、これら4家が代々、親王の身位を世襲してきたのは、時の天皇との血縁の近さによるものではなく、あくまでも家の特権としてである。歴代の当主及び継嗣は、そのときどきの天皇または上皇の猶子となることにより擬制的な親子関係を構築し、そのことを根拠にして親王宣下により親王の地位と称号を与えられてきたのである。また、門跡寺院に入寺する法親王・入道親王は天皇または上皇の養子として親王宣下を受けることになっており、明治維新前後に新設された宮家は、当時の廃仏毀釈の風潮に乗って続々と還俗した元門跡たちに、その身分にふさわしい礼遇を与えるためのものであった。
 旧皇族は、伏見宮貞常親王の兄彦仁王が、男子を儲けないまま崩御した称光天皇の後を受けて後花園天皇となって以後、現在の皇室(後花園天皇の男系子孫)とは男系血統では完全に分岐しているため、上述の通り男系での血縁は非常に遠い。
 また明治天皇の皇女である4人の内親王が、竹田宮、北白川宮、朝香宮、東久邇宮の各家に、昭和天皇の皇女・成子内親王が東久邇宮家にそれぞれ嫁いでいるため、現皇室とも姻戚関係が深い。なお、昭和天皇の皇后である香淳皇后は久邇宮家の王女である。


旧皇族11家の構成
 ・伏見家(世襲親王家の一つ。現当主は伏見博明。)
 ・閑院家(世襲親王家の一つ。皇籍離脱時の当主、春仁王の死去により
  1988年(昭和63年)断絶。ただし師仁親王の子孫は現天皇家。)
 ・久邇家(現当主は久邇邦昭。香淳皇后の実家)
 ・山階家(皇籍離脱時の当主:武彦王の死去により1987年(昭和62年)断絶)
 ・北白川家(現当主は北白川道久。)
 ・梨本家(皇籍離脱時の当主:守正王の死後、未亡人の伊都子が甥の徳彦を養子とした。
  実子系統では断絶)
 ・賀陽家(皇籍離脱時の当主:恒憲王の死後、長男:邦寿が1986年(昭和61年)に死去し断絶。
  ただし三男:章憲には男子の子孫[2]がある)
 ・東伏見家(皇籍離脱時に周子のみ。彼女の死去により1955年(昭和30年)断絶。
  なお、久邇宮邦彦王の第三王子、東伏見慈洽が同家の祭祀を継承している)
 ・朝香家(現当主は朝香誠彦)
 ・竹田家(現当主は竹田恒正)
 ・東久邇家(現当主は東久邇信彦)
  (宮家創設順。なお、下記略系図も参照)


現在の皇室との近親関係
 香淳皇后の実家(今上天皇の伯父筋にあたる家系)
  ・久邇家
 久邇家は香淳皇后を通して現在の天皇家、常陸宮家と姻戚関係にあるが、これは香淳皇后が入内したことによるもので久邇家には明治天皇以降の男系の血統は入っていない。久邇宮朝融王は今上天皇の伯父にあたる。
 明治天皇の女婿たる家(今上天皇の義理の大叔父筋にあたる家系)
  ・北白川家
  ・竹田家
  ・朝香家
  ・東久邇家
 昭和天皇の女婿たる家(今上天皇の義兄筋にあたる家系)
  ・東久邇家
 東久邇宮稔彦王は明治天皇の第九皇女の泰宮聡子内親王と結婚しており、今上天皇の義理の大叔父に当たると同時に久邇宮家出身の香淳皇后を通して実の大叔父にもあたる。また稔彦王の第一王子の盛厚王は昭和天皇の第一皇女の照宮成子内親王と結婚しており、盛厚王は今上天皇の大叔父の子であると同時に義兄でもある。


皇籍離脱の経緯
 終戦後の1947年(昭和22年)10月14日、11宮家51名は、GHQの指令により皇室財産が国庫に帰属させられたため、経済的に従来の規模の皇室を維持できなくなったことから皇籍離脱した。『昭和財政史』によれば、終戦前後の皇室の財政規模は約2,500万円と推定されている。うち450万円が政府の一般会計から支出されていた。この450万円という額は明治43年度から昭和22年度まで完全に固定され、その後の財政規模の拡大にともなう差額は山林・有価証券・農地などの皇室独自の財源からまかなわれていた。終戦後には皇室が自らこの差額を調達することは不可能となり、長年固定されていた皇室費を一挙に数倍に増額することは、敗戦直後の極度に逼迫した財政のもとではとうてい合理的な説明がつかなかったのである。
 皇籍離脱という着想自体は、GHQにより新たに持ち込まれたものではない。東久邇宮稔彦王は、1945年(昭和20年)に内閣総理大臣を辞任した直後にも、自らの臣籍降下を昭和天皇に願い出ており、さらにそのことをマスコミにも語り、他の皇族も自分にならうことを求めたために、宮内省があわてて否定の声明を出す一幕もあった。また、賀陽宮恒憲王も天皇に同様の申し入れをしている。
 当然、この動きに対し昭和天皇や一部の皇族から激しい抵抗があり、香淳皇后の実家である久邇宮家や昭和天皇の第一皇女成子内親王の嫁ぎ先である東久邇宮家などの一部の宮家に関しては皇室に残す案も出た。しかし最終的には、昭和天皇の実弟である秩父・高松・三笠の3宮家のみを残し、伏見宮系の11宮家は全て皇籍離脱させることになった。11宮家51名の皇籍離脱は、形式上は現行の皇室典範の第11条第1項「その意思に基き、皇室会議の議により」、第11条第2項「やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により」もしくは第14条「その意思により」または第13条「皇族の身分を離れる親王又は王の妃並びに直系卑属及びその妃は、他の皇族と婚姻した女子及びその直系卑属を除き、同時に皇族の身分を離れる」によってそれぞれ行なわれた。


永世皇族主義と旧皇族
 1889年(明治22年)2月11日制定の皇室典範は元来永世皇族制を原則としていたが、1907年(明治40年)の皇室典範増補で早くも例外が設けられた。たとえば、同増補第1条には、


  「王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムコトアルヘシ」


とあるように、臣籍降下ができるとされたのである。
 しかし、その後、王の臣籍降下は北白川宮輝久王(侯爵小松輝久)の1例のみにとどまった。そこで、1920年(大正9年)5月19日に制定された内規「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」により、この趣旨はさらに徹底された。準則第1条には、


  「皇玄孫ノ子孫タル王明治40年2月11日勅定の皇室典範増補第1条及ヒ皇族身位令第25条ノ規定ニヨリ
   情願ヲ為ササルトキハ長子孫ノ系統4世以内ヲ除クノ外勅旨ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列ス」


とあり、情願をしない王は、皇族会議及び枢密顧問の諮問を経て勅旨によって臣籍降下させて華族に列することが明記された(皇族身位令第25条は、情願をすることができるのは満15歳以上の王に限る旨の規定である)。
 具体的には、皇玄孫までを皇族としその子孫は臣籍降下させること、ただし宮家を継承する長男のみは例外とするが、これも皇玄孫のさらに4世(玄孫)までを皇族とし、それ以降の世代は臣籍降下させることとされた。伏見宮系の皇族はもちろんこの範囲には収まらないが、邦家親王を皇玄孫に擬制し、邦家親王の4世(玄孫)までを皇族の身分にとどめるものとされていた。
 旧皇族との関連で言えば、準則は、伏見宮系の皇族を皇位継承資格として確保することよりも、むしろ邦家親王の子孫からこれ以上皇族が増加することを抑制し、将来的には全員の臣籍降下に導くことを意図していた。そのことは、皇族の範囲を狭く限定する趣旨(これは大正天皇の直系子孫の王・女王であっても同様に適用されるとした)が準則の第1条にまず謳われ、邦家親王の子孫に関する規定は特例として「附則」に言及されているに過ぎないことからも明白である。準則は、同増補では明確でなかった皇玄孫以降の子孫たちが順次臣籍降下してゆく基準を具体的・機械的に定めるものであった。 なお、降下の情願をなさなかった場合において、準則に基づいて勅旨によって降下する可能性があった者は以下のとおりである。(※を付した人名は2006年12月現在の生存者)


伏見宮邦家親王━┳━山階宮晃親王━━━━━菊麿王━━━━━━武彦王(断絶)
        ┃
        ┣━久邇宮朝彦親王━━┳━賀陽宮邦憲王━━━恒憲王━━━邦寿王(断絶)
        ┃          ┃
        ┃          ┣━邦彦王━━━━━━朝融王━━━邦昭王※
        ┃          ┃
        ┃          ┣━梨本宮守正王(断絶)
        ┃          ┃
        ┃          ┣━朝香宮鳩彦王━━━孚彦王━━━誠彦王※
        ┃          ┃
        ┃          ┗━東久邇宮稔彦王━━盛厚王━━━信彦王※
        ┃
        ┣━北白川宮能久親王━┳━竹田宮恒久王━━━恒徳王━━━恒正王※
        ┃          ┃
        ┃          ┗━成久王━━━━━━永久王━━━道久王※
        ┃
        ┣━貞愛親王━━━━━━━博恭王━━━━━━博義王━━━博明王※
        ┃
        ┣━閑院宮載仁親王━━━━春仁王(断絶)
        ┃
        ┗━東伏見宮依仁親王(断絶)


 むろん、皇族を勅旨によって強制的に臣籍降下させることを原則とするこのような規定には異論もあり、裁定にあたって準則の諮詢を受けた枢密院での審議でも、一律・機械的に適用するのではなく個別の事情に応じて判断する旨の説明がなされている。枢密院はこれを受けて満場一致で準則を可決した。ついで諮詢を受けた皇族会議でも一部の皇族たちの反発が予想されたため、宮内省側は、皇族会議の議員は「自己の利害に関する議事」では採決に参加できないという皇族会議令第9条の規定を利用して採決を行わずに議長であった伏見宮貞愛親王の判断のみで皇族会議を通過させている。
 皇族の身分に関する事柄は天皇の大権事項であるから、この準則が存在したとしても、天皇の意思があれば例外を作ることは可能であったと考えられる。しかし、皇室典範増補制定以来の政府の皇族増加抑制策は、明治維新前後の時期に創設された宮家が、いわゆる世襲親王家とは異なり、本来は世襲を予定しなかったにもかかわらず、当初の意図に反してなしくずしに永世皇族に移行してゆき、結局、皇室典範での永世皇族制の成立に結びついた経緯への反省を踏まえたものでもあり、天皇の大権を発動して例外を作るケースが実際に発生したとは考えにくい。
 その後、準則が制定されてから1946年(昭和21年)に廃止されるまでの26年間に12人の皇族の臣籍降下があった。いずれも皇室典範増補第1条に基づく情願による降下であり、準則の適用を受けて自らの意志に反して降下させられたケースはひとつもない。しかし、情願をしなければ強制的に降下させられる以上、そのような不名誉を避けるためには、準則の条件に該当する皇族は望むと望まざるとにかかわらず降下の情願をせざるを得ない状況に置かれていたのである。準則の強制力は非常に強いものがあった。準則の規定に反して例外がつくられたケースはひとつもない。


皇籍離脱後の旧皇族
 彼らは、皇籍離脱後は、それぞれ宮号から「宮」の字を除いたものを名字として名乗り、民間人としての生活を始めた。財産税の賦課を受けてほとんどの者が資産の多くを失い、長く経済的な困窮に苦しんだ者がいる一方、資産の一部を確保して一定の生活レベルを維持できた者、事業を興して成功した者、皇室・旧華族・神道などに関係する職に就いたりして、社会の名士として活動を続けた者もおり、その後の運命はさまざまである。なかには、新聞の三面記事を賑わすスキャンダルを起こした者もいる。旧皇族は世間の注目を避けて静かに生活してきた者がほとんどだったが、最近では賀陽正憲、竹田恒治など外交官に就いた者、竹田恒泰のように積極的に著作や講演などで活躍し、マスメディアに登場している者もいる。なお、プリンスホテルの社名は、ホテルの建物が旧皇族の手放した土地に立地していることに由来している。
 皇籍を離脱した後も皇室の親戚という立場には変わりがなく(皇族ではないが民法上は天皇の親族である者もいる)、皇室の親族が所属する親睦団体の菊栄親睦会に所属して現在でも皇室と親しく交流を続けている。久邇朝融(香淳皇后の兄)や東久邇成子など、一部の旧皇族は特例として豊島岡墓地に葬られている。


旧皇族の著名人
 ・東久邇宮稔彦王(第43代内閣総理大臣。
  また、皇籍離脱後たびたび新聞の三面記事を賑わせた。)
 ・東久邇信彦(全日本野球会議名誉会長、崇敬会「東郷会」名誉会長)
 ・多羅間俊彦(ブラジルに移民し、コーヒー園を経営している。)
 ・久邇邦昭(神社本庁統理、元伊勢神宮大宮司)
 ・北白川道久(元伊勢神宮大宮司。妹肇子は今上天皇のお妃候補として有力視されていた。)
 ・竹田恒徳(日本オリンピック委員会会長、日本馬術連盟会長)
 ・竹田恒治(在ブルガリア日本国特命全権大使)
  ※下記の3人は皇籍離脱後の誕生であるため、厳密に区分すると
   「旧皇族の男系子孫」である。
 ・竹田恒和(日本オリンピック委員会会長)
 ・竹田恒泰(評論家、元慶應義塾大学講師)
 ・賀陽正憲(在デンマーク大使館一等書記官)
 ・旧皇族邸および跡地の利用[編集]
 ・朝香宮邸:白金台に現存し、現在は東京都庭園美術館として一般に公開されている。
 ・賀陽宮邸:現存せず。三番町の跡地には千鳥ケ淵戦没者墓苑がある。
 ・閑院宮邸:現存せず。永田町の跡地には衆議院議長公邸・参議院議長公邸がある。
 ・北白川宮邸:現存せず。高輪の跡地にはグランドプリンスホテル新高輪がある。
 ・久邇宮邸:邸宅の一部(御常御殿)が渋谷の聖心女子大学構内に久邇ハウスとして残る。
 ・竹田宮邸:品川のグランドプリンスホテルの貴賓館として現存する。
 ・梨本宮邸:現存せず。渋谷の跡地には東京都児童会館がある。
 ・東久邇宮邸:終戦の日に放火され焼失。高輪の跡地にはホテルパシフィック東京がある。
 ・東伏見宮邸:渋谷に現存。現在の常陸宮邸。
 ・伏見宮邸:現存せず。紀尾井町の跡地にはホテルニューオータニがある。
 ・山階宮邸:現存せず。富士見町の跡地には衆議院議員九段宿舎がある。


旧皇族の皇籍復帰問題
 1965年(昭和40年)の秋篠宮文仁親王の誕生以来、2006年(平成18年)の悠仁親王の誕生までの41年間、男子の誕生がなかった。一方、現行の皇室典範の規定では、男系の男子しか皇位を継承することができないため、近い将来に皇位継承資格者が存在しなくなる皇位継承問題が予想されている。この問題へのひとつの対処として、旧皇族から男系男子を補充して皇族の数を維持しようというアイディアが提示されている。現行の皇室典範・旧皇室典範ともにいったん皇族の身分を離れた者がふたたび皇族になることを禁止しており、このアイディアの実現には法改正が必要である。具体的な方法については旧皇族男性を現在の皇族の養子とする、旧皇族男性を未婚の女性皇族と結婚させるなどのアイディアが提示されている。首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」は旧皇族男性を養子にする案については「当事者の意思により継承順位が左右され、一義性に欠ける」として否定的見解が出された。
 近代以前の朝廷では、いったん皇族でなくなった者がふたたび皇族となった例がいくつかある。
  ・宇多天皇は父である光孝天皇の意向でいったん臣籍に降り「源定省」と
   称したが、父が危篤となり皇位継承者の不在を回避するためふたたび皇族
   となり皇太子とされ、父の死後即位している。
  ・醍醐天皇は父である宇多天皇が源氏を称していた時期の出生である。
   はじめ「源維城」と名乗り、父の即位とともに皇族の身分を獲得して
   「敦仁」と改名、その後皇太子となり、父の譲位を受けて即位した。
   なお、光孝天皇は先代の陽成天皇が突然の不祥事により廃位された
   ことにともなって即位した暫定の天皇であった。陽成の弟であり
   関白藤原基経の外孫である貞保親王は有力な皇位継承者としてなお
   健在であり、光孝は貞保に遠慮して子女26人の全員を臣籍降下させた。
   宇多・醍醐父子が臣下として暮らした3年間はそのような特殊な事情による。
  ・兼明親王(醍醐天皇の皇子)は6歳で源氏となったが、57年後に親王宣下を受けて
   ふたたび皇族となった。ただしこれは兼明から左大臣の官職を剥奪するための
   陰謀によるもので、あきらかに左遷であった。詩人として知られている兼明が
   このときの怒りと悲しみを詠った詩が残っている。
  ・惟康親王(後嵯峨天皇の孫)は鎌倉幕府6代将軍宗尊親王の子であり、父の跡を継いで
   7代将軍となった。7歳で臣下に降って「源惟康」と名乗ったが、24歳になって突然
   親王宣下を受けて皇族に復帰した。理由は不明であるが、いずれにせよ鎌倉幕府の
   内部事情によるもので皇位継承に関係するものではない。
  ・忠房親王は承久の乱で謀反人となった順徳天皇の曾孫であり、祖父忠成王は
   四条天皇の急死で皇位継承者が不在となった際に一時新天皇候補に擬せられた。
   父彦仁の代から源氏となった。そのような危険な家系の出身である忠房が
   皇族となった理由は不明である。忠房の子彦良はふたたび源氏となり、その子孫が
   どうなったかもわからない。
  ・承鎮法親王(忠房親王の弟)
  ・守子内親王(忠房親王の妹)
 旧皇族のなかには皇位を継承しさらに未来の皇位継承者を生み出すことのできる若い男性が数十人おり、このことは上記のいくつかの先例と合わせて女系天皇反対論・旧宮家皇籍復帰論の強力な精神的支柱となっている。ただし積極的に皇族の身分への復帰を希望する旧皇族はいまだに現れていない。
 

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