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なぜ今「天皇主権説」再考なのか・その4 (連載「パックス・ジャポニカ」への道)原田武夫
http://www.asyura2.com/12/bd61/msg/604.html
投稿者 五月晴郎 日時 2014 年 10 月 22 日 18:07:27: ulZUCBWYQe7Lk
 

http://blog.goo.ne.jp/shiome/e/3d9981aa10f3b7ec4980654709aa2961

ここに来て我が国「言論界」において展開されている国家を巡る議論は大別して次の3つである。



●パターンA

「我が国の国家は強大な存在であり、それに『抑圧された個人』が敢然と立ち向かう姿を描く」

●パターンB

「我が国の国家は財政破綻寸前であり、個人資産を如何にして防衛すべきかを描く」

●パターンC

「我が国の国家は精神的に隣国のそれと比べて優位であり、しかも財政破綻はしないと述べる」



パターンAの典型が佐藤優である(以下敬称略)。強大な国家によって抑圧され続ける個人の解放を描くと言うモチーフはかつての左翼文学に通じるものだ。そこでは資本の集積を続けるマシーンとしての「資本家」とそのための道具(Apparat)である「国家」は永続的に肥大化していくことが暗黙裡に前提となっている。

当然のことながらこのパターンAでは「国家が財政破綻する」ことなど全くあり得ないこととされている。なぜならば肝心の国家が破綻してしまっては開放されるべき個人も存在しなくなってしまい、その旗手であるべき著者と読者の共通感覚としての疎外(Entfremdung)もあり得なくなってしまうからだ。したがって仮に我が国が今、経済・金融の面で困難に直面していたとしても、それは所詮、「新自由主義」というより大きな潮流によるものであって、国家という永続的な存在そのものとは無関係なものであるとそこでは整理される。

パターンAは我が国の国民世論において特徴的な「判官びいき」に訴えかけるものでもある。左翼言論に青春の郷愁を感じ、かつ我が国最大の読者層(reading class)でもある「団塊世代」以上の人々にとっては懐かしい思考のフレームワークでもある。したがって2005年頃よりハイライトされるようになって以来、今のところ安定的な読者を獲得している。

だがこのパターンAに未来はない。なぜならば反抗の対象であり、裏を返せば甘えの対象であるべき我が国の国家は程なくして事実上のデフォルト(国家債務不履行)処理に突入するからである。そのプロセスの当初、「誰がデフォルトを招いたのか」という責任論の構図の中でこのパターンAは生き残りをかけた議論を展開することが容易に想像出来る。しかしながらいかんせん、問題はもはやそうした日常的なレヴェルにとどまらないことを加速をつけて進行する現実が如実に示し続けるのである。結果、パターンAはこの5年以内に息をひそめざるを得なくなるようになる。



パターンBの典型が副島隆彦である。それは「強大な国家とその抑圧からの解放を試みる個人を描く」という構図という意味ではパターンAと共通している。そのルーツは我が国の高度経済成長期に典型であった左翼言論の思考の枠組みであることは言うまでもない。

ただしパターンBがパターンAと決定的に異なっているのは、「強大な国家の背景には国際金融資本とそれに操られた米欧エリートのネットワークが存在している」という議論を展開している点である。つまり国家が強大であるのは、その背後にもっと強く、巨大な守護神が控えているからだというわけなのである。

ここでキーワードとなってくるのが「国際金融資本」である。具体的な家系の名前(「・・・家」)といった形でそれに属する個別具体的な人物とその人柄や人脈を一方的に指摘し続けることで読者を圧倒する。その上で読者は検証手段を持たないため、それに盲従するか、あるいは拒否するかのどちらかの選択を迫られることになる。仮に後者の選択肢を選び取った場合、パターンBのスキームにおいては著者から罵倒され、その無知蒙昧さをなじられることになる。

それでも読者が結果的にパターンBの著者たちに従ってしまうのは、我が国において潤沢な個人資産を未だ享受することの出来たこれら読者が日本人に特有の「富の退蔵(hoard)」傾向に従い、何としてでも自らの資産を守ろうと努力しているからだ。パターンBの著者たちはそのことを熟知しており、個別具体的な「出口」(金融商品の紹介)を巧みに示しながら、仮に資産運用で損失が生じたとしてもそれは全て「悪の国際金融資本によるものである」と説明を施すことによって、結果としてあてどない金融マーケットにおける博打へと年金世代の読者たちを誘うのである。

しかし残念ながらこのパターンBも著者としての「必勝の方程式」にはならなくなりつつある。なぜならば肝心の「富裕な年金世代の読者層」が徐々に「生物学的な解決(Biologische Loesung)」、すなわち生物としての淘汰の過程に入り始めているからだ。しかも大前提としている金融資本主義の永続性に疑問符がつけられるといった事態に陥る時、こうした著者たちは普段の冷静さを失い、時に余りにも滑稽な論まで展開するようになる。東日本大震災(2011年3月11日)による福島第一原子力発電所の被災、そしてそこからの放射性廃棄物の大量拡散という現実を前にして「福島に移住するか、否か」という選択肢を読者に迫るといった態度がその典型である。



パターンCの典型が三橋貴明である。パターンA及びBとの決定的な違いはそこで想定されている読者層が我が国最大の読者層である団塊世代ではなく、より若い「団塊ジュニア世代」以下であるという点にある。通常、これら若い世代は書籍を読むのではなく、青年期以降、あるいは世代によっては生まれてこの方慣れ親しんだインターネット上における「言論空間」に影響を受けやすい。そのためのこのパターンCの著者たちも基本的にはインターネット上でまずは個性的な言論を展開し、リアルな書籍を刊行して人口に膾炙するというパターンを辿るに至っている。

パターンCもパターンA及びBと同じく、自らの不遇の原因を「より巨大な他者」に求め、それを徹底的に糾弾し続けている点に特徴がある。ただしそこでいう取り上げられる「仇敵」は強大な我が国の政府機構という意味での「国家」ではなく、しかも「国際金融資本とそれに操られる米欧エリートのネットワーク」でもない。リーマン・ショック(2008年)以降、実際には日米当局間の了解に基づいて行われた円高展開の中で好景気に沸いた韓国をやり玉に挙げる点にパターンCの特徴がある。

パターンCの「愛読者」は上述のとおり、団塊ジュニア世代以下の比較的若い世代である。なぜ彼らが時に熱狂的な支持をこれらの著者に対して表明するのかといえば、金融資本主義の我が国における本格的な展開による「被害者」であるという自己認識があるからだ。しかしパターンA及びBと異なるのはそうした被害者意識によって「国家からの離脱」を模索するのではなく、むしろ「幻想の共同体としての『国家』への帰属意識」を強めている点にある。マーケットにおいてますます激しくなるヴォラティリティの中で世間から、企業から、そして時には家族・友人たちからも見放されるに至ったこれらの世代はインターネット空間で喧伝されるヴァーチャルなビッグ・ブラザーである「国家」へと吸い寄せられているのだ。

そうした状況をパターンCの著者は巧みにとらえた。チャールズ・ハンディの「シャムロック型組織(Shamrock organization)」ではないが、金融資本主義の高度な進展に伴いエマージング・マーケットの興隆が続く中、決してコモディティ化しない付加価値を生むためにはまずは就労者自らが「グローバル/イノヴェーション/リーダーシップの三位一体(Global/Innovation/Leadership-Trinity)を身につけなければ生き残ることは出来ない。だがいかんせん、この世代が受けた学校教育はそれに対応するものでは全くなかったのである。いわゆる「平成バブル崩壊」のプロセスが進展するに従い、一人また一人とこの世代の者たちは我が国経済のメインストリームから弾かれていき、脱落していった。

そこに来て「円高・ウォン安」を絶好の機会としてとらえ、宣伝攻勢をかけてきたのが韓国だったのである。健全な国民国家としての態度を越え、ここぞとばかりに「美男美女」集団によるマスメディアを通じたプロパガンダ攻勢をかけつつ、我が国に対して「過去の清算」を求めるその態度はこれら世代にとって格好の標的となる形になった。つまりパターンAにとっての「強大な我が国国家機構」、そしてパターンBにとっての「国際金融資本とそれに群がる米欧エリート・ネットワーク」に相当する”永遠の攻撃対象”がそこでロックオンされたというわけなのである。

パターンCの著者は容赦なく隣国・韓国を攻撃し、こうした新しい世代の読者層から拍手喝采を浴びた。そうした光景に目を付けたのが我が国の保守系政党勢力であった。「高まる不満」ほど人々を政治、そして投票行動へと駆り立てるものはない。パターンCの著者らに「国政選挙への切符」を手渡し、甘言を弄する代わりにこれら新しい世代の読者層からの集票を戦略目標とした我が国の保守系政党勢力はこれら著者らに出番を与え、そのプロモーションを行った。

こうして、元来はインターネット空間の一隅において孤高の叫びをか細くあげているに過ぎなかったこれらの著者は一躍ヒーローとなったのである。その様子を当初は怖々と見ていた団塊世代以上という意味での旧世代の「読者層」も徐々にその言論にはまり始めた。そしてそのことでパターンCの著者は更に大きな渦を創り上げることに成功する。

なぜならばこれらの著者は隣国・韓国との「永遠の歴史論争」を繰り広げるため、我が国の「絶対的な優位性」を主張し続けるというスタンスをとっているからだ。当然それは文化的なものにとどまらず、国民経済という観点でも「我が国は絶対的に優位である」という主張になってくる。具体的には「我が国はデフォルトなど絶対にしない。民間セクターの対外債権をこれだけ保有している国がそうした事態に陥るわけがない」といった一見すると理路整然とした、しかしその実、金融資本主義の動き続ける実態を全く前提としていない、その意味でイデオロギー的な主張がそこでは特徴的なのである。

パターンCの著者はグローバルな人的ネットワークに基づいてリアリティを描いているわけではない。たとえ「多産家」であったとしてもそこで展開する議論の前提としているものは公開情報であり、その一面的な解釈に過ぎない。しかし熱心な読者にとってそんなことはもはやどうでも良いのである。劣悪になり続ける生活環境の中で「代弁者」として登場したこれら著者の勇ましい姿に自らの境遇を投影し、熱心に支持し続けている。無論、こうした著者とそのバックにいて彼らを支えるプロモーション産業がある種の「貧困ビジネス」を展開しているとは全く気付かずに、である。

一見するとこれからますます繁栄の一途を辿って行きそうなパターンCであるが、残念ながらそうはならない。なぜならばそれが大前提としてきた「我が国はデフォルトなど絶対にしない」という教条(ドグマ)がもはや現実とは全く合致しないことが早ければこれから2年後、遅くとも5年以内に誰の目にも明らかになるからだ。無論、最後の瞬間までこれらパターンCの著者たちは「日本は大丈夫だ」と言い続け、さらには旧世代の財務省批判論者(高橋洋一ら)と共に「デフォルト・リスクの異常な高まりは既得利権を代弁する財務官僚による陰謀だ」と叫ぶことは間違いない。だが結局のところ、そんなことを叫び続けたところで何ら意味がないことは明明白白になるのである。―――なぜならば統治機構という意味での「我が国」は事実上のデフォルト処理によって大混乱に陥るのであるから。



さて、このように2005年頃より続いてきた「国家」を巡る思潮は程なくして激変を迎えることになる。それではそこで生じる新たな方向性は一体どのようなものなのであろうか。

デフォルト・リスクの高まりは決して我が国のみにおける現象ではない点にその特徴がある。そうであるにもかかわらず、我が国における「国家論」は決してそのことを顧慮せず、他方で経済アナリストたちの述べる「国富論」はこの問題が国家論の再構成につながることを語ろうとはしないのである。そこに我が国言論界に特徴的な内向性が如実に浮かび上がっているわけであるが、視線を海外、特に米欧の言論界に転ずるならばそこでは果たしてどういった議論が展開されているのであろうか。

こうした観点から筆者が注目しているのが英国の有名経済ジャーナリストたちの手による次のような一節である(John Micklethwait & Adrian Wooldridge, "The Foruth Revolution. The Global Race to Reinvent the State"):



"The Fourth Revolution will be no easier: The half success of the Reagan-Thathcer reforms shows that. It will force many Westerners to rethink two things that are widely regarded as self evident goods: the welfare state and the practice of democracy." (p. 269)



"This revolution is about liberty and the rights of the individual. That is the tradition that propelled first Europe and then America forward. The West has been the world's most creative region because it has repeatedly reinvented the state. We have every confidence that it can do so again, even in these difficult times." (p. 270)



要約していうと今現在、課題となっている本当の論点はこうだというのである:



●金融メルトダウンを通じて起きているのは「国家とは何か、どうあるべきか」という永遠の課題に関する”第4の革命”とでもいうべき現象である。そしてこれは米欧に限られる出来事ではなく、エマージング・マーケットも含め、全世界で「競争」とでもいうべき状況を創り出すに至っている

●なぜそのような事態が生じているのかといえば、これまでの国家システムにおいて暗黙の前提とされてきた「民主主義」によって増進されるはずの「国民福祉」が、公的債務残高の天文学的な増大という状況の中でもはや立ち行かなくなってしまったからである

●つまり問題は目標としての「国民福祉」、そしてその手段としての「民主主義」について再検討すべき時期が到来している点にある。だが、そこでの立脚点はあくまでも個人の自由であり、権利であるべきだ



これで明らかになったのはこれから必要なのが上述のとおり、我が国における「国家」を巡る3つの思潮(パターンA〜C)に典型的であった「国家からの自由」ではなく、自らの頭で新たに「公」そして「国家」を再定義し、それをその手で創り上げるという意味での「国家への自由」なのであるということなのだ。その意味でパターンA〜Cは完全に効力を失うことは明らかなのである。それらが議論の前提としてきたパラダイムそのものが音をたてて変わるのであるから。

だが、この本の著者たちが述べているように「立脚点はあくまでも個人の自由であり、権利である」などと果たして言っていられるのかどうかは甚だ疑問ではある。我が国において伝統的な陰陽五行説に現状をあてはめて考えた場合、次のことが分かる:





●日本銀行による異次元緩和によって通貨、すなわち陰陽五行説でいう「水」が極限まで増えてしまっている。たとえていうならばこれが決壊してしまった場合、我が国社会は大洪水に巻き込まれることになる。すなわち「ハイパーインフレーション」である

●そのためこれを抑え込むには「水克火」あるいは「土克水」の原理を使うしかなくなってくる。ここで「火」とは要するに戦争経済へ移行することを意味している。他方で「土」は我が国の国土が甚大な被害を受け、激変を蒙ることを意味している(激甚災害)

●日本国憲法が当面の間維持されることは自明であるため、「火」すなわち戦争経済による問題の抜本的な解決はあり得ない。他方で米欧をはじめとするそれ以外の世界各国は憲法上のこうした制約を一切受けることがないため、同じく量的緩和による悪影響を打開すべく戦争経済へと一気に移行していくことになる。その結果、逃げ場を失いかけた「水」=マネーは我が国に怒涛のごとく流入することになる。それによって我が国はバブル(「日本バブル」)の本格化を迎えるが、しかし何もしなければハイパーインフレーションになるという状況そのものに変わりはないのである

●そのため、我が国はますます窮地に陥ることになる。すなわち「何も起きなければ」ハイパーインフレーションに陥らざるを得なくなるのである。だがそこで人智を越える展開としての激甚災害が発生すれば状況は一変する。想定されるべきは「太陽嵐」から始まり「南海トラフ大地震」「富士山大噴火」に至るまで我が国の国土を一変させる事態である



いかがであろうか。―――これで安倍晋三総理大臣が、表向きの理由はともかく、「なぜ集団的自衛権の行使を可能にし、戦争経済への道を開いたのか」、そして「国土強靭化のための政府予算を大量に割き、女性の建設労働者の増大を図っているのか」が理解出来たはずだ。

そして事態はもはや単なる数合わせとしての多数決をベースとした「民主主義」では一切前に立ち行かないことも明らかなのである。そこには全くもって新しい政治原理、しかも私たち日本人に限らず、およそ「ヒト」が拠って立つ天と地という森羅万象との和合を旨とするそれが登場しなければならないというわけなのだ。



いよいよ私たちはこの論考を通じ、我が国において「天皇」が担うべき全く新しい主導的な役割について考えるべきステージに到達したようである。次回はこの点について端的に論じることとしたい。



原田武夫記す

(2014年10月12日 旭川にて)

・・・  

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コメント
 
01. 2014年10月22日 18:17:35 : bBRdiSWRjI
http://blog.goo.ne.jp/shiome/e/5bd47d5b3c57bcb72224e3fd60b76eaf

「国政は議会制民主主義によって決すべき」―――私たち日本人が当たり前と思ってきたそんな大前提が今、目の前で音をたてて崩れ落ちつつある。その理由は2つある。



一つは議会(国会)における議論が再び「劇場政治」と化してしまい、与野党共にどう考えても「国家として喫緊の大問題」とは思えない出来事に拘泥し、勝ったの負けただのといった茶番を激しく演じ続けているからである。ここに来ていよいよ刑事告発にまで至りつつある松島みどり法務大臣を巡る一件は正にその極みというべき案件なのだ。




そもそも何故に議会主義(Parlamentarismus)が採用されているのかといえば、近代合理主義の伝統の下、それが最も「全体意思(Volonté générale)」を顕現(reveal)させるのにふさわしいと素朴に信じられてきたからである。だが、そうした期待が現実のものとなるためには以下の2つの「大前提」が満たされている必要があるのだ:

―国民代表の役割を務める代議士たちが均しく「理性」の持ち主であり、また彼・彼女らが「理性」に基づいて議論を重ねることによって最終的には「理性」そのものだけが導き出すことのできる最善の選択に至ることが出来ると確信していること

―その意味で代議士の行動原理は「理性」のみなのであって、代議士はその資質について他者より優れているからこそ、選挙民たちによって推挙されるという仕組みが機能していること。選ばれた後に代議士はいかなる個別具体的な利益状況によっても左右されることなく、最後には自らの「理性」によってのみ議論や議場での投票行動を行うという慣行が確立されていること



逆にこれらが満たされない場合、一体どうなるのだろうか。―――まず代議士たちは「理性」によって選ばれない場合を考えてみよう。この時、代議士たちは選挙民たちの気まぐれによって選ばれ、ちょっとした「物の言い方」や「見てくれ」によって選ばれることになる。要するに議会主義は「美人投票」に堕してしまうというわけなのである。

そうである時、代議士の側は自らが永遠に「美人」であるかのように装い、また選挙民にそう想い続けてもらうため、全力で行動するようになる。その結果、「理性」ではなく、気まぐれな選挙民たちのナマの欲望にどれだけ応じることが出来るかがカギということになってくるのである。当然、「口利き」が横行し、そのために政治資金が飛び交うといった事態が当然視されるようになってくる。「力のある代議士」とはイコール、「理性」をもって議論を行い、「全体意思」を顕現させることが出来る者ではなくなってくる。そうではなくて、むしろ情動的であり、個別具体的な生々しい利益に対して即応できる組織(Apparat)を築き上げてきた世襲政治家一家こそが、その任にふさわしいということになってくるのである。



だが、こうした議会主義の現実的なあり方がもはやこれからの私たち日本人を取り囲むことになる環境のドラスティックな変化に全く適合的ではないことは誰の目にも明らかなのである。鳴り物入りで始まった「アベノミクス」は明らかに大きな障壁にぶつかっている。大きな期待を抱かせる形で始まった「日朝交渉」もまた巨大な暗礁にぶつかった。

さらにいえば「エボラ熱」「イスラム国」といった国際的な課題が山積しているのが現実なのだ。「選挙民向けのうちわ」だの、「赤いマフラー」だのといった議論を延々と続けている余裕は我が国には全くないのである。それなのに膨大な国費を費やして、誰もが呆れる議論を公然と繰り広げている我が国の議会(国会)はもはや機能不全を越えて、無用の長物となってしまっているといっても決して過言ではないのだ。




そもそも議会主義において、これまた暗黙の前提とされてしまっている「政党政治」も大問題を抱えている。寄らば大樹の陰とばかりに資金力、そしてその意味での影響力のある代議士の下へと数多くの代議士たちが寄り集うことによって成立する「政党」は元来、一体不可分であるはずの「全体意思」を顕現させるどころか、国論を二分、あるいはそれ以上の無数に分解するためのツールでしかないのである。

そう、議会主義はそもそも決して消すことの出来ない巨大な矛盾を抱えているというわけなのである。「国家危急の時」にあって、国家としての方向性を指し示す全体意思を顕現させるどころか、逆にそれを真正面から妨げ、分裂させるための仕組みに過ぎない議会(国会)をこれ以上、現在のまま「国権の最高機関(日本国憲法第41条)」に据えておいてよいのであろうか。―――私は率直にいって素朴な疑問を禁じ得ない。



それでもなおこれまでかろうじて議会主義が維持されてきたのは、もう一つの原理である「民主主義」と結び付けて論じられてきたからである。この時、民主主義とは要するに単純なゲームの規則としての「多数決原理」を指している。「数こそ力」なのであって、最後の最後には「多数派(majority)」が決断したことが全体意思であると”みなされる”という「みなし民主主義(Pseudo-democracy)」こそ、現実に我が国において存在してきた政治システムの原理原則なのである。一般には「議会制民主主義」と呼ばれている。



だがこの「議会制民主主義」はもはや機能しないということを私たち日本人は、もう間もなくまざまざと見せつけられることになる。なぜならば金融資本主義(financial capitalism)の必然的な末路としての金融メルトダウンの止まらぬ伸展の中で「国家」は莫大な公的債務を抱えるに至っており、この問題(sovereign debt issue)を解決するための道のりを至急模索せざるを得なくなっているからだ。

そもそもなぜこの様な問題が生じたのかといえば、「福祉国家(welfare state)」に対する素朴な信仰が「議会制民主主義」のこれまた大前提として維持されてきたからである。とりわけ1970年代から加速し始めたインフレ拡大経済の中で私たち日本人は「国家とは打ち出の小槌である」と信じ込み、時の為政者たちから提案されるままに福祉国家の拡大を容認してきた。「議会制民主主義」における為政者とはイコール、議会(国会)における多数派であり、個別の代議士の集合体である。代議士たちの関心事項はただ一つ、「次回の選挙でも選ばれること」でしかない。そのため週末に地元選挙区に帰っては公金分配の口約束を行い、それをもって「選挙公約」となし、めでたく当選した暁にはそれを霞が関の行政庁に対してねじ込む、といった振る舞いを集団で行い続けてきたのである。その結果、とんでもない金額にまで公的債務残高が我が国においては積み上がってしまったというわけなのだ。

「歴史の皮肉(Ironie der Geschichte)」とは実によく言ったものである。公的債務残高問題をいよいよ解消するとなった時、我が国に限らず、世界の各国にとって残された手段は全部で4つしかない:

―経済成長を遂げて歳入を増やす

―債務交換/債務減免を投資家との間で行う

―ハイパーインフレーションを引き起こし、債務を無価値化する

―戦争経済に移行する



この内、最初の手段は長期金利の上昇を伴うため、それを補って余りあるほどのイノヴェーションがなければ不可能である。次の手段がどれだけ厳しいものであるのかは、例えば今、アルゼンチン政府が味わっている塗炭の苦しみを見れば明らかだ。

一方、我が国の「日本国憲法第9条」により、最後の選択肢をとることは事実上不可能である。「全ての戦争は防衛を名目に始まる」とはいっても、自国の経済状況を常に勘案しながら機敏に戦争を拡大・縮小していくことは憲法上の制約から出来ないからだ。

したがって残された選択肢、いや私たち日本人が自主的に選ぶのではなく、「消極的」に選ばされることになっているのが第3の手段すなわちハイパーインフレーションによる債務の無価値化なのである。日本銀行が「何があっても異次元緩和を続ける」と断言しているのはそのためである。当面の間は資産バブル展開となるため、いわゆる「富裕層」を中心にそれによって裨益する者たちがいることは事実だ。だが、ある段階で火がつくや否や、日本円そして日本国債は一気にその価値を暴落させ始めるのである。



「それでは海外に資産を逃避させればよい」



そんな声が聞こえてきそうだ。だが、一歩海外に目を向けると「エボラ熱による大量の死亡者発生」という現実、そして「イスラム国(Islamic State)に対する終わりなき拡大と大量破壊兵器による惨事」という現実が拡大の一途を辿っているのである。その結果、私たち日本人は「自分自身の国である日本(NIPPON)に止まって何とかしなければならない」という、真に急迫不正かつ他に選択肢の無い状況へと追い込まれることになるというわけなのだ。

しかもこうした選択肢を選ばざるを得なくなるまでの時間はそう長くは残されていないこともまた現実なのである。早ければ2年、最も遅くとも5年後である2020年までには「その時(moment of the truth)」が情け容赦なく到来する。それまでの貴重な一時を、全くもって本質的ではない冗長な議論を延々と繰り広げている代議士諸兄とそのプラットフォームである「議会制民主主義」に任せてしまって良いのであろうか。―――これこそが、我が国における本当の問題であり、かつ”唯一の問題”なのである。



加えて我が国を再び「人智を超えた世界」による大惨事が襲うことがあったらばどうであろうか。「太陽嵐」「極端な寒冷化」「南海トラフ巨大地震」そして「富士山大噴火」―――こうした事態が発生した場合、もはや「延々と冗長な議論を行い、何も決めず、また決めるための専門的な能力も持ち合わせない烏合の衆」に過ぎない代議士の集団=議会(国会)が全く機能しないということを、私たち日本人は2011年3月11日に発生した「東日本大震災」の惨禍の中、身に染みて学んだのではなかったのか。




これからの5年間、いや2年間にあって真に求められる「新体制」―――そこにおいて必須の要素を掲げるならばこうなる:



●真に私たち日本人全員の「全体意思」を顕現させるための仕組みであること

●急迫不正の事態にあっても迅速かつ果断に決断を下すことが出来るシステムであること

●そのために必要な知見・経験をもった人物を門閥地縁とは無関係に積極登用し、オール・ジャパンとしての対処を即時かつ効果的に可能にするような仕組みであること



要するに私たち日本人がこれまで慣れ親しんで来たいつまでも決めることが無い「議会制民主主義」、あるいは肥大化だけし続け機能不全に至っている(従来型の)「官僚制」といよいよ訣別するというわけなのである。そしてこれらを束ねていたのが民主的な契機(普通選挙)であり、かつ多数決という仕組みであった以上、これらについてもまたゼロベースで議論が行われて然るべきなのである。事態はもはや「そのレヴェル」にまで到達しているのだ。

上杉愼吉が語った憲法論が最終的に思い描いた国家イメージこそ、その時、想い出されるべきものなのである。至高の賢者が構成員の全てと「気持ち」でつながり、それを忖度しながら前に進んでいく。それを支えるのが高度に専門的な知見を兼ね備えた本当の意味での「官僚制」であり、意思決定システムが明瞭な分だけ迅速に、しかしその最高統治者は絶えざる自己研鑽を通じて「全体意思」との同一を自己規律として課し、かつオール・ジャパンとしてベストの知見がそこ出の判断基準となる。

そう、我が国において怖れることなく議論されるべきは全く新しいこの意味での「天皇親政」の可否なのである。上杉愼吉はその天皇主権説をもってその必要性を彼の時代に説き、結果として弾圧された。しかしその結果残された明治憲法下の成れの果ての体制は勝てる見込みの無い日中戦争、そして日米戦争への突入を止めることは出来ず、ついには灰燼へと帰したのである。「大正デモクラシー」や「天皇機関説」がその淵源であったことは間違いなく、これらに戻ることはもはやできない。だが今や、その抜本的な是正策として移植されたはずの「アメリカン・デモクラシー」という意味での議会制民主主義も無効であることが明らかになったというわけなのである。したがってこれから私たち日本人が辿るべき道はただ一つ、あらゆる苦難の歴史の中にあっても残ってきた「天皇制」の本旨に立ち返りつつ、それをベースに他の誰にも指示されることなく、この頭、そしてこの身体、さらには我が「魂」をもって全く新しい体制を築き上げることなのである。



その意味で上杉愼吉の唱える「天皇主権説」ほどアクチュアリティを持つものはない。私は、そう堅く信じている。



願わくば、万民にとってのあらゆる不幸な過去を乗り越え、この意味における真に「万邦無比の国体の精華」があらんこと。



原田武夫記す

(2014年10月18日 東京・国立にて記す)・・・


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