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(回答先: 副島隆彦『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』から抜粋 投稿者 仁王像 日時 2014 年 10 月 05 日 16:10:47)
第11章 正しく評価されてこなかった津田梅子/足助友子から抜粋
≪津田津田しい女の生涯≫
津田塾大学は、どちらかというと地味で堅実なイメージが持たれる女子大だ。「津田津田しい」という形容詞まであって、その意味は「暇なし、金なし、地味で彼氏なし。でも賢い」だそうだ。津田塾生の性格を端的に表現した、いいコトバだと私は思う。
梅子は生涯独身を貫き、64歳で死んだ。
≪岩倉使節団の一人として米国へ≫
梅子は規則を破って自ら洗礼を受けたいと(ランマン夫妻に)申し出た。1873年9月、オールド・スウィーズ教会で梅子は洗礼を受けた。
≪帰国した梅子を待っていたこと≫
梅子たち3人(捨松、繁子)がボストンで集まると常に口にしていた言葉は「私たちは御国に対して負債がある」というものだった。仕事を通して学費を返さなければならないという強い義務感が梅子にはあった。
梅子の中にしだいに自分で学校経営をしたいという思いが膨らんだ。
≪クエーカー派のプリンマー大学に2回目の留学へ≫
1889年、森有礼が暗殺された。梅子が帰国して7年が経っていた。その翌年に新島襄が死んでいる。梅子は、もう一度アメリカで学びたいと思うようになった。私学を自分が運営するためにも、大学教育を受けるべきだ、と考えたのだ。梅子は華族女学校に在官のまま2年間の米国留学の許可をとりつけフィラデルフィアに落ち着いた(24歳)。
プリンマー大学の特別生として入学を許可された。寮費と授業料も免除された。結論から言えば、クエーカー教会が梅子を見初めて自派の保護下に置いて動かそうとしたからだ。
この名門女子大学は、1885年にクエーカー教徒で医師であり実業家の遺産で創立された。学生数は150名で質実剛健の気風に満ちた女子大学であった。
クエーカーはユニテリアン派と親和的であり仲がいい。
留学を終え、帰国した梅子は、再び華族女学校などで教鞭を取った。
≪いよいよ学校創立、YMCA初代会長にも就任≫
1900年3月にフィラデルフィアで「日本における津田嬢の学校を支援する委員会」が発足した。これらの寄付を元手に、1900年9月、麹町区に「女子英学塾」が開校した。梅子36歳だった。
しかし、1923年の関東大震災で校舎が全焼した。梅子とともの教え、経営に参画していたアナ・ハーツホーンがアメリカへ向けて、塾の再建のための募金行脚に出発した。2年半かかってお金を集めた。この大震災の際、世界に呼びかけて多額の救援金、救援物質を日本に送ったのが、フィラデルフィア・ロータリークラブであった。
梅子の学校は、このように苦難を乗り越えて、アメリカの慈善家たちから寄付されたお金で出来上がったのだ。
津田梅子は、自立した女性を数多く育てた立派な女性だった。
【出典】副島編『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』(成甲書房)’14年
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