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首都直下地震の実際を想像してみるとこうなるのでは?!
201×年9月25日(金)、あの日僕は仕事を終えて地下鉄に乗っていた。突然、電車が浮き上がるような衝撃があり、ガタガタとした激しい揺れがあったと思うと、体が床にたたきつけられた。照明は消え、真っ暗な中、車掌が僕のいた車両にやって来てドアを開けてくれた。あまり混んでいなかったが、それでも100人以上はいただろう人々が真っ暗なトンネルの中を歩いて駅に向かった。なんで脱線したんだという疑問はあったが、ともかく灯りが欲しいという思いで早く地上へ出たいと思っていた。ところが駅についてみて驚いた。駅も停電していたのだ。駅員の方が懐中電灯を使って地上へ誘導をしていた。脱線したのはどうやら僕が乗っていた列車だけで、他の列車は停電が原因でトンネルの途中で止まってしまったようだった。
地上へ出ると、通りは人々であふれていた。地震があったということはすぐに分かった。ところが、携帯もスマートフォンもうまく動かない。電話は通じないし、ネットも動作が極端に遅いのだ。ただ、月明かりがかなりあり、目を凝らせば新聞だってある程度読めるほどだった。家に向かって歩きながら、まあ、また2011年の再来だと思っていた。あの時は5時間歩きとおして家にたどり着いたのだ。今回は3時間程度で帰宅できるかもしれないと考えていた。311の時は道を何度か間違えたし、何と言っても寒くて途中のコンビニで休んだからだ。
ところが、コンビニも閉まったままの店がある。というか、電気が来ないために照明が点灯せず、真っ暗なためコンビニがそこにあるということ自体がなかなか分からないのだ。最初に見つけたコンビニは既に張り紙がしてあり、飲料と食料は売り切れだという。ビルによっては自家発電が動いて灯りがついているところもあったが、当然品物はみんな売り切れだった。喉が渇いたと思っていたら、ペットボトルを隣を歩いている人がくれた。道端で配っていたのを2本貰ったので一本どうぞということだった。
今思い出してもショックだったのは、首都高を見た時だった。最初は単に交通規制がかかって車が通れないのかと思った。ところが、高速を支えているあのコンクリートの柱が途中で壊れているのだ。まるで上から押しつぶしたように中間部がグシャと押しつぶされている。不思議なのは、それでもみんなきちんと立ったままで阪神大震災の時のように倒壊していなかったことだ。どうやら、柱の上下の両端を鉄板で囲んで補強したためらしかった。
あの夜、本当に後悔していることがある。60歳を超えたであろう老夫婦が道端でハアハアと息をして休んでいたのだ。既に深夜だったが不思議なほど暑くて、汗を相当にかいていた。僕がもらったペットボトルはまだ半分ほど残っていて、あげようと思えばあげることはできたのだ。でも、この先飲料水が手に入るか分からないし、せっかく飲まずにとっておいたものだから、このまま自分の分として持っていようと思ったのだ。帰宅して1週間程度してから聞いた話だと、脱水症状で心筋梗塞が引き起こされ、あの日の夜に亡くなった高齢者がかなりいたというのだ。
浦安の家に着いたのは夜中の1時過ぎだったと思う。遠くで炎が上がっていて火事がかなり大規模に起こっていることは分かったが、浦安も停電で真っ暗闇だった。建物被害はない様子で、部屋に入ると机の上の電気スタンドが倒れているぐらいのものだった。疲れていて、テレビもスマートフォンも使わずに、シャワーだけ浴びてすぐに寝た。
翌日からが本当に地獄だった。電気も水道もガスも、固定電話はもちろん携帯もメールもネットも、全てが止まったままだった。確か朝の7時過ぎには目が覚めて新聞を取ろうとしたらまだ郵便受けに来ていないのだ。電話をかけようとしたら電話もつながらない。携帯もスマートフォンもバッテリーがかなり切れかけていて充電するまでは使うのがためらわれた。そこで、アパートの隣の男に聞いてみた。どうやら首都直下地震が起こって神奈川から埼玉までが大混乱だという。メディアで機能していたのはラジオだけだった。そして、ラジオはともかく平静に行動しろということだけを繰り返していた。
昼ぐらいだろうか、かなり煙が町中に立ち込めるようになったのだ。電気もガスも来ないので料理ができないし、冷蔵庫も動かないので中のものが腐ってしまう。それで、腐りやすいものから食べてしまおうと、ヨーグルトと牛乳をコーンフレークにかけて食事をとり、様子を見ようと町へ出てみた。どこの商店も行列ができていた。聞いてみると、ほとんどの品物に既に販売制限がされていて、一人一個しか買えないのだという。ともかく電池が必要なので家電量販店に並んだ。その時に分かったのだが、既に銀行も郵便局も金の引き出しが一回1万円しかできなくなっているということだった。しかもATMではなくて、銀行員や郵便局の人が直接手渡しでやっているという。カードでの引き出しも身分証明書があれば出来るということだった。あの日はどこも行列だったので、電池だけ買って帰宅した。考えてみればあの時にラジオを買っておくんだった。アパートに帰ってみると既にシャワーも使えなくなっていた。そう、屋上の貯水タンクが空になったのだ。当然、トイレも使えなくなった。
日曜日になると、ラジオで首都圏への出勤は必要がないと言い出した。ともかく、みんながそれぞれの居住地で静かに平静に過ごしてほしいということだった。ともかく水が必要なので、スーパーに並んでペットボトルとコーヒー缶を買ってきた。この二つを買うだけで5時間程度はかかったと思う。
月曜日になるともう食料が無くなってきた。スーパーは入店制限がかかっていて、何か人々が殺気立て来ているように思えた。そして、この日の夕方だったと思うが、やっと首都直下地震の被害のすさまじさがはっきりしだした。横浜から品川、渋谷、そして、さいたま新都心に至る高層ビルがかなり倒壊したということだ。横浜の被害は特にひどくて、10棟以上のビルが倒壊したという。それも根元から倒れるような被害だったという。また、東京湾の湾岸部にある石油タンクがどれも被災して炎上し、火力発電施設が使えなくなったという。JRはほとんどの電車が脱線して動かないのだという。まあ、電気が来ないから同じことなのだが。病院や商業ビルもかなりの被害を受け、3階とか4階の階だけがペッシャンコにつぶれているものが幾つもあったという。そうそう、新宿副都心と都庁も被害を受けたのだ。都庁はかなり土台から傾いたというし、副都心のビル群の一つは火災を起こしてしまったという。
火曜日になってやっと救援の物資が届き始めた。警官が見守る中、配給が始まった。ガスコンロや即席めん、そしてペットボトルが数本ずつ配られた。アンパンが配られているところや、カレーライスの炊き出しがあるところもあった。学校は相変わらず休みで、病院と役所は開いていたが、商店の多くは既に品切れで閉店していた。
水曜日。あいかわらず電気も水道も復旧しなかった。シャワーも浴びれないし洗濯もできない。トイレは新聞紙で何とかできるが、体中が相当に汗臭くなってしまった。
木曜日。そろそろ会社の上司に連絡を取りたいと思ったが電話もメールも機能しない。そう、あの頃に、もう少し、日本全体がどうなっているのかを気が付くべきだったんだ。なぜテレビやネットが使えないのか?ともかく配給物資を手に入れるために行列に並ぶことが仕事だった。それだけで手一杯だったのだ。
金曜日。地震から一週間。このままで大丈夫なのかという話しが大分されてきた。避難するべきではないかというのだ。でも、どこへ??ラジオは相変わらず平静に過ごしていてほしいとしか言わなかったはずだ。あいかわらず行列に並ぶことが仕事だった。実家へはメールを打っていたのだが返事は来なかった。そもそも、メールが届いているかどうかも分からない。北海道まで帰るにしても相当に大変だ。そもそも車が使えない様子だ。自分が歩いて直接見ることが出来る街の様子は分かるが、それ以外のところがどうなっているかは全く情報が来ないのだ。ただ人のうわさ話だけが伝わってきた。
土曜日。市役所に壁新聞がはってあるということが分かったので見に行った。どうやら茨城県まで行けばバスが動いているという。東北各県へ避難するためなら無料で利用できるということだ。実家に帰るなら早い方がいい。会社は後で事情を説明すればそれでいいというようなことだった。政府が首都圏の避難を決めたので、ともかく人間も組織も首都圏から引き上げてほしいというのだ。
日曜日。夜明け前にアパートを出発した。もし避難するなら寒くなる前が良いと思ったからだ。実家に帰れば何とかなる。畑も家畜もいた。井戸もあるし生活に困ることはない。家からは船橋よりも市川の方が近かった。7キロほど歩いて市川の市役所に着いた。昼過ぎに着いて、仮設のシャワーを浴びてバスに乗った。炊き出しのカレーがおいしかった。
バスの中でもなんでテレビが映らないのかが話題になった。停電が原因だとか言われたが電波自体がどうやら止まっている様子だった。スカイツリー自体が倒れたのではという推測もされていた。ともかく何が何だか分からない。市役所の人も理由は知らないということだった。
東北地方の被害はほとんどなく、道路は高速を使ってスムーズに移動が出来た。ところが、どこもテレビも携帯もネットも使えなかった。停電もしていないし、水道も使えるのにだ。
月曜日、実家に着いた。ところが、親も首都直下地震で何が起こっているか全く知らないのだ。テレビも新聞も週刊誌も何もかもダメだという。スーパーなどの商店も既に販売規制がかかっていて一人一回一点までだった。ガソリンはクーポン制になっていて、世帯で月に100リットルまでしか売ってもらえないという。ともかく非常事態なので協力をしてほしいということだった。
実家に帰ってからはずっと冬の準備だった。薪にする枯れ枝集めから家畜の飼料にするための草刈りをやらなければいけなかった。電気・ガス・燃料の節約をしてほしいと毎日毎時間ラジオが繰り返していた。どうやら為替が極端な円安になり、物価が高騰しそうなのだという。そこで政府が物価統制のために配給制を敷くのだという。
10月を過ぎたころに、隣の地区の若い奴が神奈川県から帰ってきた。話を聞くと、どうやら富士山が噴火したという。神奈川県では10月になっても電気も水道も復旧せず、しかも、東海地震が来て浜岡原発が事故に至るのではという話しでもちきりだったという。だから、自分も仕事をあきらめてこちらに帰ってきたというのだ。しかし、浜岡原発が事故れば北海道も無事では済まされない。
11月。やっと週刊誌が発売になった。それも北海道で印刷されたものだ。新聞もテレビも依然として機能していなかった。雑誌によると、首都直下での死者数は15万人以上で、そのほとんどは建物の崩壊とその後の火災によるものだという。日本政府は非常事態宣言を出していて、国民へ一致団結を呼びかける声明を出していた。ただ、不思議なことにその映像はないのだ。大雪山の噴火の可能性が書かれていて、薪ストーブの用意などの呼びかけをしていた。
12月。役場に勤めている同級生に聞くと、どうやら給料が出ないらしい。政府が銀行へ支払いをしないので、銀行から役所が金を引き出せないのだという。やっと事態が分かってきた。要するに国内産業が全てストップしてしまったのだ。輸出が出来ないため極端な円安になり、原油などのエネルギー資源が輸入できないし、食料品の輸入も滞っていた。ネットも使えないし、テレビも動かない。ひょっとしたらこの冬停電になるかも知れないという。それでも泊原発再稼働は言い出せなかった。もし泊原発直下で地震が起これば、この北海道の大地も汚染されてしまう。福島の二の舞は誰でも嫌だった。
今は1月だ。この前正月があけたばかり。実を言うと体の調子が悪い。なんと言っても目がかすんでしょうがない。311当時、毎日外でジョギングをしていたのが祟ったのかもしれないと思う。でも浦安は福島から相当に離れている。ひょっとしたら市原で起こった工場火災が原因かもしれない。栄養不足が響いている可能性もある。しかし、もう何か月も地震から経っているのになぜテレビ放送が再開されないのか、なぜ政治家が出てこないのか、テレビキャスターが話しをしないのか、それが分からない。ひょっとして外国の勢力に政府が征服されているのかも?首相も警察庁長官も地下に逃れて亡命政府を作っているのかもしれない。もしそうなら、ぜひ協力したいものだ。しかし、連絡のしようがない。ネットもメールも携帯もつながらない。そもそもなぜ北海道の域内での携帯も使えないのか、その理由は説明がされない。これでは東海地震が起こっても、起こったかどうかさえ分からないじゃないか。浜岡原発が事故っても逃げることさえできない。昨年までだったら飛行機で国外へ行けたのだ。
2014年09月03日02時30分 武田信弘 ジオログ(http://geocities.yahoo.co.jp/gl/taked4700)はヤフーブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/taked4700)へ移行しました。CN:2373 SN:3342
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